「調心」その問題性――坐禅の生理学的効果(5)

坐禅の構成要素は、「調息」、「調身」、「調心」といわれますが、「坐禅の生理学的効果」の記事では、(1)から(3)までで「調息」を、(4)で「調身」を取り挙げました。
(5)として「調心」を取り挙げます。



これまでの記事

○「扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342
○「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/30/204146
○「呼吸回数の減少によるその他の効果――坐禅の生理学的効果(3)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/01/16/121333
○「姿勢を正すことによるテストステロンの分泌等――坐禅の生理学的効果(4)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/01/16/162044



本稿の構成
 
1 瞑想における「調心」の多様性
2 「瞑想病人」問題
3 「評価をする発想」が瞑想病人を生む
4 雑念をなくし、集中することを目指すことの問題性
(1)雑念をなくすことを求めない理念的理由
(2)雑念をなくすことを求めないプラクティカルな理由
(3)臨済禅における坐禅実践における雑念の取扱い
(4)集中瞑想それ自体の問題性
5 心で心を制御しようとすることの問題性
6 只管打坐



1 瞑想における「調心」の多様性



坐禅を含めた瞑想には多様なものがありますが、いわゆる「坐る瞑想」では、「調息」と「調身」については、若干の相違があるとしても、ほぼ共通であり、相違点は、瞑想をする際にどんなことを心の中でやるか、という「調心」に大きな違いがでてきます。

典型的な瞑想手法の調心には次のような相違があるといえるかと思います。



(1)数息観=呼吸回数を数えることに集中する。

(2)随息観=呼吸に集中する。

(3)TM法=特定のマントラを心の中で唱え、それに集中する。

(4)ラベリング法=身体変化(腹式呼吸の際の腹の動き)、外部情報の感受(声が聞こえたときは「音」)、心理的変化(いわゆる雑念が生じたときには「怒り」、「悲しみ」等)について心の中で言語化する。

(5)ヴィパッサナー瞑想=「知覚している(こころの)働きに1つずつすべて気づきつづけるようにすること」(大谷彰『マインドフルネス入門講義』22頁)

(6)マインドフルネス=「『今ここ』の体験に気付き(awareness)、それをありのままに受け入れる」(大谷前掲書17頁)、あるいは、「今ここの自分が何をしているか、考えているか、感じているかなど、心身の状態をありのままに自覚していられる状態」(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号 85頁)

(7)只管打坐=調心をしないこと。「坐禅中に如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず、また、あらゆる希望・願望・要求・注文・条件等を持込まないでただ坐る」(石井清純『禅問答入門』227頁)



(1)から(3)は、集中瞑想(サマタ瞑想)、(5)及び(6)は、観察瞑想と分類されることが多いようです。

(4)は中間形態というべきかと思います。特定の身体的変化のみに着目するのであれば、集中瞑想に近づきますし、着目する変化の対象が拡大していくに従って観察瞑想に近づいていきます。

(7)の只管打坐は、曹洞宗坐禅の手法ですが、「調心」をしないという点で、集中瞑想でも、観察瞑想でもないということになるように思われます。しかし、マインドフルネスの研究者の方は、只管打坐をマインドフルネスの一種と見たり、更にはマインドフルネスの原点であるという人もいて、その評価には面白さがあります。



「黙照禅とマインドフルネスとの共通点が見られます。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』43頁)

「二〇一二年にカバットジン氏が来日した折、懇親会の席で筆者がカバットジン氏に直接マインドフルネスの基本的教理を問いただした時、彼ははっきりと、“ソートーゼン”と答えた」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号 83頁)



瞑想の研究者の間では、集中瞑想と観察瞑想の相違は強く意識されています。

禅宗における坐禅は、(1)、(2)又は(7)に該当しますが、(7)を除く、(1)と(2)は、集中瞑想(サマタ瞑想)に属し、マインドフルネスなどの観察瞑想とは異なるものだと考えられています。



大乗仏教では(略)、天台宗で実践される摩訶止観(略)、密教の(略)阿息観(略)、チベット仏教で実践されるロジョンやトン・レン瞑想(略)などがあります。ただしこれらは気づきを中心とする瞑想(ヴィパッサナー)よりも、意識の集中による止観(サマタ)に近いものなので、オープンな気づきによるマインドフルネスとはやや異なる瞑想法とみなすべきでしょう。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』44頁)

「(臨床的なマインドフルネスについては)テーラワーダ仏教の四念処瞑想や長時間にわたる非思量や公案による本格的な禅瞑想は一部の例外を除いて受け入れられず、気づき(awareness)、『今ここ』の体験(即時性)、あるがままの受け容れ(受容)の三原則を主軸とする斬新な瞑想モデルが考案されました。」

(大谷前掲書111頁)

「この対談でも何度も指摘してきた『集中力重視』の問題点が、『気づきの実践』であるはずの『マインドフルネス』にも、同様に見られる場合があります。例えば、二〇一四年十一月六日のNHK『おはよう日本』で『マインドフルネス』が特集されて、(略)その番組について熊野(宏昭)先生は、『取材時には何度も、観察すること、注意を分割することの重要性を説明したが、ほとんど触れられず、『集中する』という言葉が目だった。マインドフルネスが集中瞑想よりも観察瞑想との関連が深いことを、紹介してもらえなかったことはとても残念』と、ツイッターで感想を投稿されていたんですね」

(プラユキ発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』197頁)



また、「数息観」、「随息観」を用いる臨済宗坐禅では、集中したいわゆる「三昧」の状態に入ることを目指しますが、マインドフルネスは、自己の心理状態を観察する手法であることから、「三昧」の状態に入ることをよしとしないことにも注意をする必要があります。
 


「催眠トランスに特有の意識変容状態は想像没入(imagnative involment)(略)ともよばれますが、マインドフルネス実践中に気づきが失われると、想像没入が起こり、もはやマインドフルネスではなくなってしまいます」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』30頁)



マインドフルネスについては、様々な臨床的な実践や研究があり、それには限界があるにしろ、一定の効果があることが明らかとなっています。



「マインドフルネスの効果量は中程度を示し、無治療(ノンアクティブ)グループとの比較では統計的な有意差が見られるが、認知行動療法などを用いた治療(アクティブ)グループとの検定では効果に有意な違いが見られない」

(大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』32頁)



このことから、禅の団体の中には、数息観や随息観といった臨済宗坐禅もマインドフルネスの一種であるとして、当該団体の瞑想手法を宣伝するところもあります。

もちろん、数息観や随息観でも、呼吸回数の低下に伴う扁桃体の活動の低下や姿勢を正すことによるテストステロンの分泌等の効果が期待できます。

しかし、数息観や随息観といった臨済宗坐禅は、厳密にいえば、マインドフルネスとは異なるものであり、マインドフルネスとして効果があるといような宣伝には疑問があります。



2 「瞑想病人」問題



マインドフルネスが広まり、臨床分野でも実践されるに従い、瞑想には、メリットばかりではなく、デメリットがあることもわかってきました。 



 
「イギリスのオックスフォード・マインドフルネス・センターの2016年10月号の機関紙にはルース・ベアとウィレム・カイケンによる『マインドフルネスは安全か?』という記事が掲載された。このなかで、リトリート(合宿)形式のマインドフルネス訓練が特に問題となりやすい、と彼らは指摘している。

この記事に次いで、マインドフルネスのもたらすマイナス体験の実態調査が、(略)発表された。この研究では参種類の瞑想(テーラーワーダ、禅、チベット)実践者、総計60名から6年間にわたりデータが収集された。統計結果を見ると、72%が『リトリート中もしくは終了後に問題が生じた』と答え、オックスフォード・マインドフルネス・センターの見解を裏づけている。個人の実践では28%が『不快体験あり』と回答した。不快反応のタイプについては『恐怖、不安、パラノイア』(82%)が抜きんでている。しかし特筆に値するのは、マインドフルネスによるトラウマ記憶の再体験である。これは

《実践者の習熟度にかかわらず、約半数近くの実践者(初心者43%、熟練者47%)に生じた。》

研究対象の被験者数が60名と比較的限られているにせよ、(略)マインドフルネスにより『瞑想難民』のみならず、『瞑想病人』の出現すら危惧される」

(大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』32頁)

「マインドフルネス実践中に

《トラウマの自然除反応が発生》

することからも明らかなように、臨床マインドフルネスでも治療の差し障りとなる反応が生じることは早くから知られています(略)。マインドフルネスに伴う弊害をテーマにした論文(略)には、

《自然除反応や意識変容をはじめ、リラクゼーションに伴う不安とパニック、緊張感、生活モチベーション低下、退屈、疼痛、困惑、狼狽、漠然感、意気消沈、消極感亢進、批判感情、『マインドフルネス』依存、身体違和感、軽い解離感、高慢、脆弱性、罪悪感》

といった広範囲にわたる項目が記載されています。このリストから臨床マインドフルネスが禁忌となりやすい条件が推察できます。

仏教に造詣の深い精神科医精神科医マーク・エプスタインは、臨床マインドフルネスの悪影響について、マインドフルネスの進展レベル(初心者/熟練者)、およびクライアントのコーピング能力(高/低)という2つの視座から論じています(略)。彼によるとマインドフルネスでは初心者から熟練者までの各レベルにおいて幅広い『副作用(side effects)』(たとえば、知覚の変化、不安、焦燥、トラウマ記憶再生(自然除反応)など)が生じる。これらのなかには『病的』なものもあれば、一過性の困難やトラブルにすぎないものもある(略)。こうした現象が適切に処理できればまったく問題とはならないが、対応が一時的に困難となった場合や、コーピング(*1)能力の低いクライアントには深刻な問題になりかねない、と警告します。この区分によると、トラウマ記憶によるマインドフルネス実践中の自然除反応は『一過性困難』の典型であり、境界性パーソナリティ障害(*2)のクライアントは『コーピング能力の低いクライアント』のケースと言えるでしょう。要するに、臨床マインドフルネス実践では、クライアントのあらゆる反応に留意することが必要であり、なかでもコーピング能力が十分に確立されていないクライアントには特別の配慮が必須とされるのです。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』195~196頁)

*1 コーピング=ストレスマネジメント手法の一つ。自分のストレスの感じ方を認知・内省して対処する方法。
*2 境界性パーソナリティ障害=情緒不安定パーソナリティ障害とも呼ばれる。不安定な自己―他者のイメージ、感情・思考の制御不全、衝動的な自己破壊行為などを特徴とする障害。自傷行動、自殺、薬物乱用リスクの高いグループ。

「近年のうつ病の多発から,職場のメンタルヘルスに対する関心が高まり,我が国における精神医療へのアクセスは,以前と比べると各段に改善した.しかし,エビデンスベーストな心理療法認知行動療法など)を行うべきケースにそれが行われていないなど,必ずしも適切な治療を受けておらず,患者たちの中には,自助努力として,瞑想・マインドフルネスに取り組んでいる人も少なくない.そうしたケースの中には,その結果,かえって病状が重くなったと訴える人もいる」

(齊尾武郎「マインドフルネスの臨床評価:文献的考察」『臨床評価』46巻1号52頁)

重篤な精神医学的な副作用・有害事象(幻覚妄想状態,躁状態抑うつ状態,解離状態など)が報告されていることに鑑み,瞑想・マインドフルネスの副作用を軽視すべきではないと考える.現状では,MBIは必ずしも精神医学・精神保健的な専門的な知識・経験を十分に持つ指導者が行っておらず,MBIの各種の適応症の根拠はいまだ不十分であり,副作用の生じる可能性があることを含め,MBIを受けようとする人々に,その有効性・安全性について十分な情報を提供しないままにMBIを指導することは非倫理的であると考える」

(齊尾前掲63頁)

※齊尾武郎「マインドフルネスの臨床評価:文献的考察」『臨床評価』46巻1号↓
http://cont.o.oo7.jp/46_1/p51-69.pdf



また



○「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/30/204146

でも触れましたが、偏桃体の活動の低下は、統合失調症と連動するとされているところ、マインドフルネスは、統合失調症の患者には禁忌とされており、呼吸回数の低下により偏桃体の活動が低下することによって統合失調症の症状が進行しやすくなると思われることと整合するように思います。



「マインドフルネス訓練を行ってはいけない人は、真正の統合失調症急性期の患者さんです。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号83頁)

「先ほどサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想が、それぞれ医療とか心理臨床の世界に取り込まれてきた過程をお話ししましたが、リラクセーション法は実は、

統合失調症の人はやらないほうがいい》

ということがわかったんですね。やはり、統合失調症の方だと、中にあるものが溢れ出してくるということがあるのだと思います。だから、集中していくということの結果、起ってくるそういう反応みたいなものに、やっぱり充分気をつけていなくてはいけなくて、そこのところが充分にケアできないような状況でやると、過集中のような状態になって、さらにその反応がワッと出てきて悪化するというようなことがあったり、あるいいは怒りなんかがまたコントロールできないような状態になったりというようなことも起こるのだろうと思います。」

(熊野発言。横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』85頁)



さらに、精神科医でもある臨済宗の禅僧の川野泰周師によれば、うつ病の人に対しても、初期段階では、マインドフルネス、特に呼吸瞑想は避けるべきであるとのことだそうです。



「自責感の強い人に呼吸瞑想をやろうとすると却って自責感を強めてしまう。自責感を休息と薬物療法で下げた後でマインドフルネスをやるとよい。」

(川野泰周発言要旨。「お寺で対談 其の五」『臨済宗 円覚寺派 大本山 円覚寺』WP)
https://www.engakuji.or.jp/blog/32082/



扁桃体との関係を考えると、うつ病の類については、マインドフルネスや坐禅の適応があると考えていたので、新たな発見でした。

以上のほかにも

【参考資料】瞑想の副作用
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/14/210348

の記事でも触れたように、瞑想には、メリットだけではなく、副作用もそんざいすることから、心ある研究者の間では、マインドフルネスの効果に関する喧伝への危惧が示されています。



「(Googleやスタンフォードシリコンバレー等では)他の地域に比べれば(マインドフルネスが)盛んと言うこともできます。しかし、決して、全員がしているわけではありません。

《日本で、針小棒大に宣伝されている可能性》

も否定できません。」

(飯塚まり「プロローグ」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』17頁)

「なかには人々の仏教や“悟り”に対する漠然とした憧れを半ば意図的に利用して、『このマインドフルネス瞑想をやれば、悟りも達成できるし、世俗の社会生活も上手くいく』といったような、あたかも

《マインドフルネスが『万能薬』であるかのような宣伝文句で人々を引きつけようとする瞑想指導者》

もいないわけではない。この点については、厳に注意が必要であろう。」
(魚川祐司「ピュアマインドフルネスの「目的地」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』64頁)



3 「評価をする発想」が瞑想病人を生む



「瞑想病人」が生まれる理由については、プラユキ・ナラテボー師の次の論考がわかりやすいと思っています。



「日本やタイでは、苦しみから抜け出そうと瞑想していくうちに、さらに多くの苦しみを抱えてしまう『瞑想難民』が増えている。(略)
苦しみから抜け出そうと瞑想をしているうちに体調を崩したり、抑うつ感、絶望感や自己嫌悪感を感じるようになったり、人間関係がぎくしゃくするようになったり、なかには

統合失調症離人症、感情障害や摂食障害

のような不調をきたす人もいる。
 
《その要因として瞑想をストイックにやりすぎ》

て、心身機能のバランスを崩すケースが多い。心身の土台がしっかり整っていない状況で、心というデリケートな対象にアプローチした結果、それまで自然に機能していた生命状態が撹乱し、心身の調和が乱れ、通常の認知状態に戻る柔軟性も失われてしまい、種々の症状となって現れてくるのである。
 たとえばこんな感じである。精神状態がちょっとすぐれないので、『瞑想で解決しよう』と思いたつ。けれども、

《集中が思うように続かず、「俺はダメな人間だ」と考えて、無能力感や絶望感》

に陥ってしまう。心を楽にしようと思って始めた瞑想が、いつの間にか『苦悩の増幅法』にすり替わる。しかも本人はそれに気付かずに、

《『いつかは成果が……』と自己を叱咤しながらやり続ける。そのうちに種々の精神障害を発症。》

心がさまざまな不調のシグナルを発していたにもかかわらず、無理してやり続けることで症状を悪化させてしまうのである。」

(プラユキ・ナラテボー「ピュア・マインドフルネスと瞑想」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』66~71頁)



この論考を見ると、瞑想をする上で、目標達成のための手段や結果について何らかの評価をしようとした場合には、精神面での問題が生じやすくなることがわかります。

素人的に考えても、良し悪しの評価が入る余地が出てくれば、却ってストレスがたまるように思われます。

そもそもマインドフルネス自体が、評価するという発想とは異なるものです。



「(マインドフルネスの)定義には一貫して二つの共通要素がある.一つはnon-judgmental(判断を加えない)ということの強調である.自分が今している経験がどのようなものであれ

《評価や判断を加えず》

受容の態度でそれをありにままに観察する,ということだ.通常,われわれは自分の好悪や善悪といった判断に基づいて自分の経験を概念化し,貪りや怒りといった煩悩に駆られた行動を起こすという強迫的な傾向性の虜になっているが,

《経験に対して判断を加えないでそのまま受容する》

ことによってそのような習慣的パターンをはずすことができるようになるのである.今している体験に何かを加えたり,あるいはそこから何かを引いたりして,別な体験に変えようとするのではなく今起きている体験をそのまま存在させるという受動的な態度が強調されている.心理療法の世界では『脱中心化』と呼ばれている,自分の体験に振り回されないようにそこから少し距離を置く,あるいはスペースをつくる技法に通ずるものがあり,マインドフルネスの持つ効用はこの特質から来るとされている.」
 
(藤田一照「「日本のマインドフルネス」へ向かって」『人間福祉学研究第7巻第1号』22頁)



坐禅指導の現場では、このような評価しないことの大切さを考慮せずに、雑念をなくすとか、集中するなどといったことを無批判に坐禅の目標として提示してしまうことが少なくないように感じます。

初めて坐禅の体験をした方に対して、「うまくできましたか?」などと評価するように聞き、相手の方から、「どうしても雑念が出てしまう」とか、「集中するのが難しい」などと返答がされる。それだけでも、坐禅によって却ってストレスが高まっていることがわかります。

そして、ほとんどの人は二度と坐禅をやりに来ません。 

雑念をなくすとか、集中するなどといった目標を設定したり、それがどれくらいできたかなどと評価することは、宗教的な目標ないし信念を考慮しないのであれば、慎重になるべきだと思われます。

臨済禅の一部には、坐禅の目的の一つとして、雑念を生じないことを挙げる立場もあります。

しかし、後に述べますが、このような立場は、臨済禅の世界でも主流ではない上、瞑想の世界でも少数派です。このことは、多くの人にとっては、雑念の発生を防ぐことを課題にすることは、合理的な実践方法ではないことを意味しているように思います。

したがって、坐禅指導等の際に、敢えて目標の設定やその評価をするような方法を用いるときには、相手に対して、却ってストレスが高まるリスクがあることもきちんと説明することが適切ですし、そもそもそのようなことはしない方がよい。

坐禅等の瞑想の際に、何らかの形で心の持ち方を問題とすると、どうしても、そのような心の持ち方がうまくできるかどうかが問題となり、評価の問題が生じざるを得ません。

何らかの形で「調心」をすることの問題性はここにあります。



4 雑念をなくし、集中することを目指すことの問題性



(1)雑念をなくすことを求めない理念的理由


 
雑念をなくすとか、集中するということが漠然と、坐禅や瞑想の目的であると思われてしまっていることはよくあります。

しかし、実際には、瞑想や坐禅では、このようなことが当然に目的とはされていません。

たとえば、理念的には次のようなことが言われています。



「もし念が起こったら、すぐに数息なり、公案なりに取って返せというのである。妄念が起こったからといって、これをなくしようなどと夢々これに取り合ってはならない。念をやめようというのが、また一つの念なのだから、それでは念のやむ時はない。血で血を洗うようなものである。血は水できれいに洗わねばきれいにならぬ。この水に当たるものが数息観であり公案参究である。だから念が起こっても一切取り合わずに、数息なり公案なりに取って返すのである。こうすれば、もともと根無草の念のことだから、『紅炉上一点の雪』のごとくすぐにシュンと消えてなくなる。」

(秋月龍珉老師『公案』49頁)

「発(おこ)る念にかまわず」これが大切。これが坐禅をやっていても、何遍言っても分からない人がいる。長年修行をして何遍言ってもわからない。妄想が起きて困る、妄念が起きて困る、参禅して泣きごとばかり。そんなものは相手にせずに放ったらかしにしておけば、自然に消えてしまう。相手にしているから消えないのだ。それを何遍言っても分からない。何遍言ってもそれができない。後生大事に妄想を育てている。そんな坐禅を百年やっても仕様がない。妄念が起こったら放ったらかしておけば自然に消えてしまう。燃える材料がなければ燃えようがない。それをこっちが燃える材料を与えている。困りますよ、困りますよと、燃料を与えている。それで起こる。そんなばかなことはない。」

(大森曹玄『驢鞍橋講話』435~436頁)

「煩悩を追うな払うな引かれるな。 

煩悩を追ったり払ったりしている中に肝腎の自分を見失ってしまう。坐禅をしている間に、たとい八万四千の雑念が起滅してもとりあわねばよい。悟りを求めず、迷いを払わず、念の起こるを嫌わず、また念を愛して相続せず、ただ起こるに任せ滅するに任せておく。」

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』84頁)

「雑念、妄想と思うのは起こってくる念(色々な思い)の他に私があると認めるからである。雑念、妄想の外に私なしとわかれば、雑念、妄想はそのまま正念になる。」 

(山本龍廣「巻頭言 妄想」(『禅味』2019年4、5、6月号)3頁)

「無心になるとか、無念無想になるとはどういうことか、『菜根譚』はそれに明快な答えをだしていう。

近ごろの人は、専心、無念無想になることを求めるが(かえってそのために雑念を生じて、)結局、無念無想になれないでいる。ただ、前念をとどめてくよくよすることもなく、後念を迎えてびくびくすることもなく、ただ目の前に起っている物事を、次々に片付けて行くことができれば、自然にだんだんと無念無想の境にはいっていくことができよう。(今井宇三郎訳注、岩波文庫本による)

無念無想になることを求めようすればするほど妄想はおこるものである。一度坐禅をしてみればよい。妄想がつぎからつぎへおこってきてどうしようもない。過去にした失敗をくよくよするのは無駄なこと、また未来のことをあれこれ心配するのは無用なこと、やることはただ今のことだけだ。一回ぽっきりの人生のただ今のことをつぎつぎに処理してゆくこと、これが無念無想にほかならない。」

(鎌田茂雄『禅とはなにか』44~45頁)



このような考え方の背景には、あらゆる出来事が「自然の法則」に従って起きる以上、それには必然性があり、結果を問わない「どちらに転んでもよし」と、すべての結果をありのままに受け入れる心を創ることが、禅の実践の目的の一つとされることにあるように思います。



坐禅がわれわれに覚めさせる生命の実物とは、まさに『自己ぎりの自己』『今ぎりの今』――『どっちへどうころんでも、出逢うところがわが生命』という生命態度です。

われわれは、ふつういつでも何事につけてもアレとコレと分別比較し、少しでもなんとかウマイ方へころぼうというはからいを働かせ、そのために、かえってッキョロキョロ、オドオドしながらいきています。というのは、ウマイ方を考えるかぎりは、ウマクナイ方があるのは当然であり、それゆえウマクナイ方へころぶまいという危惧が、どこまでもついてまわるからです。つまりこのウマイ方とウマクナイ方ということを分別して生きるかぎりは、決して『どっちへどうころんでもいい』というような絶対的な安らいにおいてあることはできません。」

(内山興正『坐禅の意味と実際』115~116頁)

「何故に生死があるかというに是れは萬物変化の相であって宇宙活動の現象である。宇宙の本体は絶対平等であるが、恰も大海水に波瀾あるが如く、絶対平等とは申し乍ら霊動体であるに依て常恒不断に活動を起して息(や)まぬ(略)、然れば吾々の生も死も皆な霊動作用でありますから、生死として厭うべきも無く涅槃として欣うべきも無い筈である、けれども凡夫は常に生死の為めに縛られて、三界六道昇沈の相に苦しんで居るのは何故ぞというに、是れは宇宙その物より苦しめらるるに非ずして、皆な各自が自ら作り出だせし業相であります(略)此生死に対する観念亦之と同じく、苦痛と観るも愉快と観るも、その観る人の業障と思想のとの致す所である」

(新井石禅『教理と信仰』44頁)

「最後は全部、受け入れる。『公案』の正解が出ようと出まいと間違っていようとそんなことはどうでもいい。
その『どうでもいい』という所までゆかないといけない。」
(有馬賴底『『臨済録』を読む』24頁)



雑念の生じることを避けようとすることは、このようにあらゆるものを受け入れるという禅で目指す心の持ち方に反するように思います。



(2)雑念をなくすことを求めないプラクティカルな理由



以上は理念的な話になりますが、坐禅や瞑想指導の現場におけるプラクティカルな視点では次のようなことがいわれています。



「瞑想という言葉から、考えや雑念が何も浮かばなくなることがゴールであるというイメージが強いのか、『あっ、また心がそれた、なんて自分はだめなんだ』と心がそれたことで自身を非難してしまう初心者が多いのです。(略)

注意を向ける際の心の態度は、批判・非難・評価しないという態度であることが明示されています。何かに心を集中しようとすると、そこから注意が離れて他のことを考えるというのが心の習慣です。ですから考え・雑念が出てきても、そのことを非難する必要は全くありません。」

(越川房子「マインドフルネスとは」『大法輪』2020年3月号63頁)

「マインドフルネスを学びはじめの方にとくに多いのですが、この瞑想を行なっているときに雑念が出てきてしまうことを悪いことだと気にされる方が非常に多いです。しかしながらこれは大きな誤解です。

マインドフルネスは雑念を押さえたり、雑念が出なくなるようなことを目指すのではなく、雑念が出てきたときにそれに囚われないでいる自分をつくることが大変重要です。うtまり、雑念は練習をつづけていてもありる程度は出てくるのです。

それに補足しますと『雑念』というのは『心がつくりだすフィクション』です。今実際に目の前にないことが雑念となって頭の中に現れてきます。つまり、雑念に飲み込まれるということは心がつくりだしたフィクションの世界に入り込んでしまうことになります。」

(井上広法「マインドフルネスの実践法――通勤・会社・家庭――」『大法輪』2020年3月号75頁)

「初心者の多くは、瞑想中に雑念が浮かぶのは悪いことだと思い込んでいる人が多いようです。ですから、今日もまた雑念がいっぱい浮かんでしまって良くありませんでした、と自己卑下的に話す人がいます。自分のマインドフルネス訓練に対して採点してしまうのです。

このような時に私は次のように話します、“それはそれでよいのです。マインド・ワンダリングに気づくことがマインドフルネスなのです。呼吸に注意集中(考えていない状態)→雑念→雑念に気づく→呼吸に注意集中の繰り返しが脳の訓練、すなわちマインドフルネス訓練です”と。今日はリラックスできてよかったなとか、今日は落ち着かなかったなとか、今日は集中できたとか、いろいろ自分雄マインドフルネス訓練を評価してしまうのですね。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号79~80頁)



以上のことは、「雑念が出てもよい」程度の話ですが、次の熊谷宏昭先生のお話は、逆に「雑念が出る方がよいのだ」という観点のものであることから、興味深いものがあります。



「サマタ瞑想のときになぜ起きていられるかですが、これはリラクセーション反応の研究、あるいはリラクセーションを使う自律訓練法というのがあって、その自律訓練法の中で非常によく知られている現象に『自律性解放現象』というのがあるのです。自律訓練で緩んでくると、いろいろなものが出てきます。瞑想される皆さんがよく経験されるのは雑念ですよね。集中しよう、無念無想になろうとすればするほど雑念が出てくる。あるいはリラックスしてくると、何か凝っている感じがあるなあとか、ちょっと痒いなあみたいな感じとかいろいろな体の症状なんかも出てきます。これは瞑想などで一点集中して無になることから言えばネガティブなことですが、自律訓練法では実は自律性解放が起ったほうが症状が改善することが知られているのです。つまり、自分の中に溜め込んでいた歪みみたいなものが浮き上がってきて解放されていくわけですね。」

(熊野発言。横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』67頁)



このような視点が出てくる理由は、熊野先生が精神科医であることにも関係しているように思います。

カウンセリングの現場では、自分の抱えているトラウマ的な事実を語ることそれ自体が治療になるという場面もあるからです。



フロイトは、抑圧していたもの(略)古代遺跡と同じで、発掘されたときから風化する、と述べています。秘密は話したときから風化します。」
(東山絋久『プロカウンセラーの聞く技術』204頁)



(3)臨済禅における坐禅実践における雑念の取扱い



雑念の発生を忌避しようとする考え方が臨済禅の数息観の実践の一形態として現われる場合があります。

たとえば、数を数えている途中で、雑念が生じたときは、一から戻って数え直すというものです。

しかし、このような立場が臨済禅一般の方法とは思えません。

個人的に複数の臨済禅の寺院等で実践される坐禅会に参加したことがありますが、このような雑念が生じたときの数え直しを指示されたことはありませんでした。

以前、円覚寺の暁天坐禅会に時々通っていた時期があり、その時にも、数え治しの指導はありませんでしたし、また、今から3年ほど前、円覚寺の居士林で土曜日に実施される初心者向け坐禅会に参加したときには数息観の指導もありませんでした。

臨済宗建長寺派では、この点に自覚的であるように思われます。



「初心の方が坐禅を実践する中で一番難しいのが、雑念にどう対処したらよいかということのようです。

坐禅中に起こる念を念で止めようとすることは、血で血を洗うような行為で際限がありません。心で心を無くそうとすると、心はますます有となります。ではどうすればよいのでしょうか。

念は出次第にしておき、ただそれに執着せずにいる。何が出てきても止めようとも、無くそうともしない。念が有ったり無かったりするままに、すべて放下(ほうげ)して取らず捨てず。これが雑念への対処の仕方であり、坐禅の急所です。」

臨済宗洪福寺(政栄宗禅)『坐禅入門』11頁)



このような考え方の背景には、「一念不生」という概念についての次のような理解が前提となっているのではないかと思います。



「『一念不生全体現、』先に申し上げました如く以下四句禅修行の心得であります。そのおつもりでお聞きください。――一念と云うは、可愛い――憎い――ほしい―――おしい――と云う、それであります。かかる念慮は何人にも胸中に生じます。それを生じさしてならぬと云うのであります。従来、心と行うものは死物ではありません活物であります。故に如何にしても念慮の生じない様には出来ません。(略)種々様々な念慮の生ずるのが、心の本質であります。一応字面の上のみを見ますると無念無想になれと云う様でありますが、否、然らずであります。可愛なら可愛の一念の外に余念を生ぜず、憎いなら憎いの他に邪念を生ぜず、ほしい――おしい――そのまま、是に別の念慮を混入せず、そのものそれ三昧になることであります。それ三昧になりきった処に心の全体が現出致します。(略)

元より本性は無病健全である。然るに可愛いと云うそれを煩悩と思い、憎いと云うそれを煩悩と思い、ほしい、おしい、と云うそれを煩悩として、それらの一切を断じよう、除こう、払おうとする、ぞれぞれが抑々(そもそも)病気の上の病気である。煩悩即菩提であると云うことを知らずして是等の煩悩病を全快させんが為に頻りに真如を求むるが、是又大なる迷いである。」

(菅原時保『碧巌録講演(其二)』57~59頁)



菅原時保老師は、建長寺派の管長もされていた方であり、先の洪福寺の住職の政榮宗禅老師も建長寺派であることから、「建長寺派では、この点に自覚的である」と考えた次第です。

煩悩が生じることも、自然の法則のなせるものであるにもかかわらず、それを振り払おうとすることが更に苦悩を生じさせます。

雑念も同じであり、これを振り払おうとすると苦悩が生じるということかと思います。



(4)集中瞑想それ自体の問題性



プラユキ・ナラテボーは、そもそも集中瞑想自体に問題があると指摘します。

長文の引用になりますが、興味深い指摘です。



「『幸福になるために瞑想をはじめたはずなのに、かえって苦しみが増えてしまった気がするのだけど、どうしたらいいでしょうか』と言う人が、私の瞑想会や面談会にいらっしゃることはよくあります。そういう方々を見ていると、やはり『過度の集中』が、身心のバランスを崩す主要因になっているように思われる。(略)

集中というのは流動し変化する現象を敢えてデフォルメし、それを固定的な対象とすることで成り立つものですから、そこにハマってしまうと、イキイキとした現実に対応する機動性や柔軟性が失われてしまう。

そして、この集中によるデフォルメされた認知から派生するもう一つの大きな問題は、それが心理学で言うところの『解離』の症状や、『回避』の行動をもたらすことです。私が蚊に刺されたかゆみが全く平気になるようなトランス状態に入ったのに、にもかかわらずその騒音にどんどん過敏になっていったように、現実に生じている事態からどんどん遊離していって、その平安な状態を乱すものに対して、嫌悪の情を抱くようになるんですね。

実際、私がお話しした『瞑想難民』の方にも、集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまったり、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。ほとんど病的な解離症状に陥っているわけですけれども、瞑想の場合に厄介なのは、指導者によっては、そういう状態を『瞑想が進んでいる証』として、肯定してしまったりするわけです。それでますます、困難な自分の現状から逃げるために回避行動としての瞑想に没頭し、さらに状況を悪化させていくというスパイラルに落ちていく。」

(プラユキ発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』137~138頁)



プラユキ・ナラテボーの「集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまったり、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。ほとんど病的な解離症状に陥っているわけです」との指摘は、「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」で取り上げた、扁桃体の過度の活動による情動反応の低下などといった問題と整合的であるのではないかと思っています。



【参考】「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/01/16/121333



私たちは、仕事や勉強をする際に、ほかのことに目が行って、仕事や勉強がなかなか進まないという経験をすることが少なくないのではないかと思います。

だから、「集中する」ということを無批判によいことであると思いがちであるように思います。

しかし、「集中できない」ということがこのように自然であるからこそ、「集中する」ことには警戒すべき点もあるように思います。

プラユキ・ナラテボーは、「集中というのは流動し変化する現象を敢えてデフォルメし、それを固定的な対象とすることで成り立つ」という集中の異常性について触れていますが、脳科学論からも、集中の異常性を指摘をするのは、池谷裕二です。



「私は、集中力とは、本来、動物にとって不自然なものだと考えています。集中するということは、周囲に乱されることなく、一点に意識を集めることを意味しています。野生の動物を想像してみてください。たとえば、シマウマが地面の草を食べることに集中することは、よいことでしょうか?

そんなことをしたら、肉食獣の格好の餌食でしょう。野生の動物たちは、一点集中を避け、むしろ、意識を周囲に分散させながら外敵に注意する「分散力」を必要とします。だから、集中しないようにする“非集中力”を発達させてきたわけですし、その能力に長けた動物たちが生き残ってきているわけです。」

池谷裕二『脳には妙なクセがある』319頁)



そもそも坐禅や瞑想の時に集中できたとしても、それは坐禅や瞑想の時という場面に応じたところのもので、それ以外の時に集中できるかは別であると考えるべきなのでは無いかと思います。

脳がある場面で望ましい活動をしていても、脳が普遍的に望ましい活動をするとはいえないという観点から、池谷裕二先生は、いわゆる「脳トレ」にも疑問を呈します。



「世間一般における『脳によい』ことを指示するためのデータ基盤が、ほとんどの
ケースで『○○をすると脳が活性化する。したがって、○○をすれば脳が鍛えられる』という論理構造を持っている(略)。

脳トレにおいて問題にされるべき核心は、トレーニング中に脳がどう活性化するかではなく、トレーニングによって脳がどう変化(あるいは成長)するかということではないでしょうか。(略)

脳が変化したとしても、まだ問題があります。つまり、成績が上昇しなければ、まったく意味がないからです。脳トレを試みる人が本当に気にしていることは、どれほど脳が活性化するかではなくて、結局は『成績が上昇するか』(略)ではないでしょうか。(略)
実生活としては、たとえば計算練習をして計算が速くなれば、結局、もうそれで十分であって、それ以上の実質的な意味はありません。なぜなら私たちはあくまでもトレーニングによって外に現れる変化を期待しているのですから。脳の内側を気にするというのは、それ自体が奇妙な風潮なのです。」

池谷裕二『脳には妙なクセがある』107~108頁)



「『○○をすると脳が活性化する。したがって、○○をすれば脳が鍛えられる』という論理構造を持っている」というのは、脳トレで行われるような計算をするような時には、「脳が活性化」していることは当たり前なので、そこから当然に脳が鍛えられるかは別ということなのでしょう。

そして、脳トレの「計算練習をして計算が速く」なったとしても、それ以外の場面で脳がほかの人よりも効率的に機能するとはいえないということなのかなと思います。

禅に関係する本を改めて読んでみると、禅の世界でも、ある場面において集中力を発揮できることは、他の場面で集中力を発揮できることを意味しないことを前提としているということがわかります。



「正三は、ある時にこう言っている。禅定の機、坐禅の気合いというのはどういうものかと聞いたら、大刀を抜いて構えて見せて、これだと。だから侍は禅定に入りやすいんだ。ところが、侍というものは刀を置くとゲソッとして禅定の機を失ってしまう。それで駄目なんだ。禅僧というものは、朝起きるから夜寝るまで、いや寝た中でも刀を抜いてピタッと構えたような気合いでいるものだと。」

(大森曹玄『驢鞍橋講話』14~15頁)



集中力を養うことも悪くはありませんが、これを坐禅や瞑想を通してやろうとすることに問題があることからすると、やるのであれば、私たちの多くが実際にやってきたとおり、仕事なり、勉強なりのその現場で仕事や勉強を一生懸命にやるというオンザジョブトレーニングでやることが適切かつ効率的であるように思います。




5 心で心を制御しようとすることの問題性



そもそも心によって心を制御することは困難です。

私たちは、色々な場面で、不安な自分や勇気を持てない自分を感じることがあります。

そのような場面では、取越し苦労であるということや、また、少し恥をかくだけの話だということを分かっていても、どうしても心がついてこない。

そのような問題意識があるからこそ、坐禅や瞑想に興味を持つ方も少なくないのではないかと思います。

現に、心の制御の困難を感じているのに、その心を心によって制御しようとしてしまう矛楯。

私たちは、普段、(随意運動については)自分の意志に基づいて自分の肉体を動かしていると考えています。

坐禅において、一定の呼吸をしようと呼吸を制御したり、一定の姿勢を維持しようと身体を制御したりするこを、私たちは、自分の意志でやっていると思っていますが、この「自分の意志」は誰が作るのでしょうか。

普通の感覚ですと、「自分の意志」は、自分で作るように感じるのですが、よくよく反省してみると、私たちは「自分の意志」を作るような作業をすることはありません。それは気づいたときには既にあるのです。

生物学的にいうと、「自分の意志」を造り出すのは、「自分の意志」ではなく、脳などの肉体の生理現象であり、そして、脳を含めた私たちの肉体は、生物学的な自然の法則に基づいて機能しているのですから、「自分の意志」は、このような自然の法則に従って形成されるものといえます。

最近の脳科学論においては、人が行動をするときには、行動しようとする意志が形成されることに先立って、脳が筋肉に動作をするよう指令を出すことが判明しているそうです。



「意志はどこから生まれるのでしょうか――再びこの問題に戻ります。そもそも脳にとって『自由』とは何でしょう。(略)

独マックス・ブランク研究所のヘインズ博士らの研究を紹介します。(略)

押したくなったらボタンを押す――ただそれだけの実験です。そして、『押したい』という意志が生まれたときに表示されていたアルファベットを憶えておいてもらいます。(略)

この作業をしている脳をモニターしてみます。ボタンを押したくなる『心』が、いつ、どこで生まれるのか。『自由意志』のルーツを探ろうというわけです。(略)

結果は衝撃的でした。本人が『押したくなる』前に、すでに脳は活動をはじめていることがわかったのです。意識に『押そう』という意図が生じる前に、無意識の脳はすでに『意図』の原型を生み出しているのです。

もちろん、『こうした脳の事前活動は意志と相関するが、原因であるという保証はない』という反論はできます。しかし、私たちの心や行動は脳の活動である以上、意志もまた脳の活動の結果にほかなりません。この視点をさらに推し進めれば次のようになります。

脳がある活動をしたということは、そのある活動を生み出す元となる活動も脳のどこかにあるはずです。どんな活動にも原因、つまり上流の活動があるはずです。無からは何も生まれません。『押そう』という意志が生まれたということは、その源流である『押そうという意志』を準備する事前活動が、それに先だって脳のどこかに現れるのは当然のことなのです。(略)

どのくらい前から脳は準備を始めるか(略)。驚くなかれ、ヘインズ博士らのデータによれば、平均7秒も前から活動が開始するというのです。早い場合は10秒前に準備の活動が見られます。(略)

となれば、私たちの『自由意志』とはいったい何でしょう。意識に現れる『自由な心』はよくできた幻覚にすぎない――これはほぼ間違いないでしょう『意志』は、あくまで脳の活動の結果であって、原因ではないのです。

池谷裕二『脳には妙なクセがある』273~276頁)
  
「人間の一生は受精卵から始まる。才能も人格も本を正せば、親から受けた遺伝形質に、家庭・学校・地域条件などの社会影響が作用して形成される。我々は結局、外来要素の沈殿物だ。(略・126頁)

身体運動と同様、精神活動も脳のメカニズムが司る。(略)認知心理学脳科学が示すように意志や意識は、蓄積された記憶と外来情報の相互作用を通して脳の物理・化学的メカニズムが生成する。自由意志が発動される内部はどこにもない。したがって自己責任の根拠は出てこない。」

(小坂井敏晶「正義論というイデオロギー――フランス「黄色いベスト」運動から分配正義を考える」『法律時報』91巻9号125~126頁)



私たちの肉体を動かすものを「自己」と呼ぶのなら、普段、私たちが「自己」と呼んでいるものは、その有用性から認められたフィクションであり、「本当の自己」とは、脳を含めた肉体を生理学的に活動させる「自然の法則」ということになります。

私たちの心が、私たちの心によって制御されていないという観点からすると、調心自体に困難な面があり、調心を試みることが却ってストレスをためがちなものになるようにも思います。



6 只管打坐



「調心」には、問題が生じがちであることからすると、特段宗教上の信念がないのであれば、「調心」はしない方が無難なのではないか、というのが、私の結論です。

その意味で、只管打坐は評価されてよいようにも思います。

気を付けなければいけないのは、臨済禅の観点から、只管打坐を数息観・随息観の発展形であり、数を数えたり、息に集中したりなどせずとも、雑念が生じない状態を目指すものであるという捉え方があることです。

ネーミングの問題にすぎないという見方もできましょうが、本稿でいう只管打坐は、曹洞宗におけるもののこと、すなわち、「坐禅中に如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず、また、あらゆる希望・願望・要求・注文・条件等を持込まないでただ坐る」(石井清純『禅問答入門』227頁)ことをいいます。

私が初めて曹洞宗における坐禅指導を受けたのは、表参道にある永平寺別院長谷寺でした。

その際、とある参加者が、指導をしていた僧侶(おそらく雲水)に「数は数えないのか?」と質問したことがありました。

私自身、それまで臨済宗坐禅会に繰返し行っていたせいで、変に坐禅会慣れしてしまったせいで、数息観の指導がなかったことに気づかなかったのですが、その際、「数を数えたりなどはしません」との返答があり、曹洞宗の只管打坐の理解をすることができました。

先のような臨済禅の一部の捉え方では、只管打坐が「調心」をしてしまうことと同様の問題を抱えてしまうことになるので、注意しなければならないように思います。

とはいえ、前記の「如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず」というのも、目標的なニュアンスを生じさせ得るので、私自身は、「調心をしないこと」と表現をする方がよいのではないかと思っています。

「調心」を意識しなくても、ゆっくりと息を吐く調息と姿勢を正す調身により、扁桃体の活動の低下、自律神経の均衡、テストステロンの分泌などの生理学的な効果が期待できます。(注1)
 


ただ坐り、ただ呼吸するだけで、自然と心は調う。

「調心」とは、このような意味と捉えるのが適切であるように思う。



(注1)曹洞宗の大勢からすると、このような生理学的効果を狙いとして坐禅をすることは、習禅として、曹洞宗的な意味での只管打坐とはいえないことに留意して下さい。





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