禅とか仏教とか瞑想とか

禅とか仏教とか瞑想とかに関する批評とか

特別になりたいという精神性と禅における日常への回帰

「仏教とは元来、仏の教えであり、また仏になるための教えである」(注1)などと言われます。

実際、瞑想等の仏教の実践をする人の中には、「悟り」などといった特別な状態になることを目指す人もいます。(注2)

しかし、このような特別になりたいという欲求には問題があります。

私が瞑想会等で出会った瞑想の実践者の人たちには、却って、精神的に病んでいるように見受けられる人も少なからずいました。

ツイッター等で目にする人たちも、瞑想をしたり、信仰を持っていたりする人たちよりも、生活の質が低いように思われることも少なくありません。

その理由の一つは、これまでもブログの記事に書いてきたような瞑想自体に扁桃体の活動を過度に低下させるなどの副作用であると考えられますが(注3)、そもそも「特別になりたい」という欲求それ自体にあるようにも思われます。



本稿の構成
1 平等性を否定し、特別になろうとすることがうつ病統合失調症を誘発する
2 不平等な社会における階級上位者により構成された初期仏教教団
3 日常に何の問題があるのか?
4 中国禅における日常への回帰
5 現代日本禅宗にも見られる日常への回帰
(1)概要
(2)臨済宗
(3)曹洞宗
6 仏教実践者の劣等感の問題




1 平等性を否定し、特別になろうとすることがうつ病統合失調症を誘発する



優越感等の「特別になりたい」という欲求の問題点を指摘した心理学者アルフレッド・アドラーは、「普通であることの勇気」を唱えました。(注4)

実際、優越感の充足や利益の獲得と行った「特別になりたい」という欲求が、うつ病統合失調症という代表的な精神障害と関連するということが判明してきています。



まず、うつ病に関しては、次のようなことが言われています。



「初期人類に近い暮らしを続けている(略)ハッザの人々は幸福度や生活への満足度が高く、人間関係も良好であり、うつ状態の程度は極めて低いことが示されたのです。

うつ病を発症させていない理由は、その生き方にあると考えられます。ハッザの人々は、得られた食料は共に暮らしている集団全員で平等に分け合う習慣を持っています。これは厳しい狩猟採集生活の下では、食料を得られるかどうかは最終的に運による部分も多く、得られたものは分かち合わなければ生きていけないという背景があります。平等で助け合って生きるという社会基盤が、孤独やうつ病を発生させない状況を作り出していると考えられるのです。(略)

近年、平等という社会基盤がうつ病と関係することを示唆する脳科学的研究が行われました。他者と金銭を分けるというゲームを実験として行い、自分が損をする場合、自分が得をする場合、他者と公平に分け合う場合という三つの状況で金銭を分けるときの扁桃体の活動量が比較検討されました。その結果、扁桃体の活動量は、自分が損をする場合に高まりましたが、それ以上に、自分が得をする場合に高まることが明らかになりました。

これは、集団の中で自分だけが損をした場合には、生存するために不利益な状況になったという直接的な危機による不安が扁桃体へ伝わり、活動を上昇させますが、自分が得をした場合には、他者に恨みや妬みといった悪感情を抱かせて集団から孤立するのではないかという間接的な危機による不安が扁桃体に伝わり、活動をより上昇させたためではないかと推察されます。

一方、この実験では、他者と公平に分け合う場合には扁桃体はほとんど活動しないことも明らかになりました。公平、すなわち平等という条件は扁桃体の過剰な活動を抑制し、扁桃体に起因するうつ病の発症を抑制すると考えられます。これらを踏まえると、ハッザの人々のように平等を社会基盤として狩猟採集生活を送っていた初期人類は、うつ病に悩まされることがなかったのではないかと推察されます。」

山本高穂「脳の進化から探るうつ病の起源」『第11回 日本うつ病学会市民公開講座・脳プロ公開シンポジウム in HIROSHIMA 報告書』
http://www.nips.ac.jp/srpbs/media/publication/140719_report.pdf

また、統合失調症に関しても、不平等に利益を受けることがその要因の一つとして挙げられています。



後進国では、統合失調症の発症は、裕福な階層に多いという。後進国では、貧しい階層ほど人とのつながりがしっかりと存在し、人間一人にかかるストレスがあまり大きくない。裕福な階層のほうが、精神的な孤立やストレスを味わいやすいのだと考えられる。

このように経済的、社会的環境も統合失調症を予防し、患者を支え、共存していく上で、とても重要なのである。」

(岡田尊『統合失調症』(2010年)193~194頁)



以上のとおり、自分の利益の獲得を目指すような平等な関係を否定する特別な状態を目指すようなことが、うつ病統合失調症の発症の要因となることからすると、特別な境地を目指して、瞑想等の実践をすることは、却って、うつ病統合失調症等の精神障害を誘発することになり得ると思われます。



2 不平等な社会における階級上位者により構成された初期仏教教団



先に引用した山本高穂「脳の進化から探るうつ病の起源」は、うつ病の起源は、農耕・牧畜が開始された頃から、不平等な社会が始まったことに見い出すことができ、近代の資本主義の発達期に貧富の差が拡大したことから、うつ病になる人が増大し、「文明が興った時代以降、人々は階級社会により強いストレスを受け、うつ病うつ状態に陥る人々が存在するようになったのではないかと推察されています」と指摘しますが(注5)、仏教の発生も、インドにおける経済の発展期におけるものであり(注6)、階級社会の発生・進展により、精神を病む人が増えたことが背景なのではないかとも思われます。

特に、仏教がカースト制を批判したなどということはよく言われますが(注7)、しかし、釈尊の初期教団に入信した者は、当時のカースト制の上位者であったとされることは、平等性を否定し、利益の実現を図れる人が、精神障害になり易いことの関係からすると、興味深く思われます。



「教団に出家した者の出身カーストを見ると、カーストの桎梏の苦しみをもっとも味わっているはずの賎民出身者が出家者の中に十指を数えるほどいたかどうかである。

仏教教団の推進者はバラモン出身の者たちであった。初期の教団の構成員はほとんどバラモン出身者たちであった。仏伝の中に賤民出身者の名前が数人出てくるが、それはおそらく珍しいケースとして記述されているのではないだろうか。」

(田上太秀『仏陀のいいたかったこと』(1983年)77頁)



ブッダの教団を形成した四衆(ししゅ)、つまり比丘(男性僧侶)、比丘尼(女性僧侶)、優婆塞(男性在家信者)、優婆夷(うばい)(女性信者)のうち、名前が伝えられている者たちの出身ヴァルナ(種姓・しゅしょう)、すなわちカーストの身分)を、赤沼智善が調査したことがあります。結果はバラモン(司祭)が二百十九名、クシャトリヤ(王族、武人)百二十八名、ヴァイシャ(一般市民)は百五十五名、シュードラ(被差別隷属民)は三十名。不明だったのが六百二十八名でした。男性では、やはりバラモン出の比丘が最も多く、次いでヴァイシャ。女性ではクシャトリヤ、ヴァイシャを出自とする比丘尼の数がバラモン出のそれを上回っています。出家、在家、あるいは男女の別に関わらず、シュードラ出身者は非常に少ない。

仏教は四姓平等、四つのヴァルナの平等を説くはずだったのに、ブッダの在世当時の教団の出身種姓の構成をみる限り、期待外れの感が漂います。」

宮崎哲弥発言。佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』(2017年)102頁)



「実際には初期仏教サンガ(僧侶組織)が、クシャトリア、ヴァイシャ出身者で占められていた事情もあり、王権(クシャトリア)による国家的保護や富裕なヴァイシャ階層による経済的支援が保証されていた。」

(小野澤正喜「タイ仏教社会の変動と宗教実践の再編―― 宗教的原理主義の展開と世俗内倫理――」『育英短期大学研究紀要第27号』17頁)

https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/7177/1/02-onozawa.pdf



不平等な階級社会で利益の獲得を目指す人たちが、うつ病統合失調症になり易いことからすると、初期仏教教団の中心がカースト制の上位者という階級社会での勝利者であった理由は、カースト制の上位者であることにより、却って精神的に病み、特別な救いを欲したからではないかと思われます。



3 日常に何の問題があるのか?



宗教は、一般的に、平凡な日常から離れることを目指します。

特別になることを希求するものといえるかと思います。

「すべて宗教とよばれるものは、なんらかの意味で、この日常的で世俗的な営みの世界にたいする否定から出発する。現実の生活をそのままに肯定するところには、真の宗教は生まれない」などとよく言われます(注8)。

現代の若者が、宗教に惹かれる動機として、典型的なものは、「好きな仕事について、結婚して家庭を築いたら、それなりに意味のある充実した人生を送れるのではないか」(注9)ということに対する疑問にあるようです。

私達の人生の価値は、多くの場合、仕事と家庭に規定されますが(注10)、特に、仏教が、本来、「労働」、そして、家庭を築く前提となる「生殖」を否定することは象徴的です(注11)。

確かに、私達の日常生活には、様々な問題がありますし、現実政治は、このような問題の解決を目指すものです。

しかし、問題があるとしても、そのために、なぜ、宗教を信仰する必要があるのでしょうか、また、特別な実践により、特別な境地に達する必要があるのでしょうか。

あらゆる宗教は、何らかの形で、精神的な病を抱えた人たちの当事者グループとしての性格があり、一般社会とは異なる価値観を持つ人たちが、同じような価値観を持つ人たちで集まることにより、精神的に支え合う点で、精神的な問題への対処法となる一面もあろうかと思います。(注12)

けれども、問題を抱える人が、多いので、少なからず、その集団内での問題が生じる例も多いとされます。(注13)

その典型が、カルト宗教であり、カルト宗教に入信したがために、日常が破戒され、普通に仕事や家庭を送るよりも人生を激しく毀損する例は枚挙にいとまがありません。

カルト宗教に惹かれ、そこから逃れられなくなる人の心理に、特別なものになりたい感情があるものとされ、ここからも、その問題性がわかります。



「自分もまた

特別でありたい

と願いながら、しかし、何の確信も自信ももてない存在にとって、「真実」を手に入れたと語る存在に追従し、その弟子となることは、自分もまた特別な出来事に立ち会う特別な存在だという錯覚を生む。

つまり

自分が特別な存在でありたいという願望

が、グルを信じ続けるしかないという状況に、その人を追いこんでいく。それを疑うことは、自分が生きてきた人生の意味を否定するようなものだからだ。(略)

自分が信じたグルが、偽物だということを受けいれることの困難さは、カルトや反社会的集団からの離脱を難しくする要因にもなっているし、そこから脱した後、一時的な危機がやってくる原因でもある」

岡田尊司『マインドコントロール増補改訂版』(2016年)58~60頁)



そもそも、仕事をし、家庭を築くという平凡な人間のあり方のどこに問題があるのかが問題とされなくてはなりません。

私達が、生存するには、何らかの食料生産・獲得につながる労働をしなければなりません。

また、私達の誰もが、生殖により生まれたのですから、家庭を否定することは、自分自身が存在していることを否定するものであり、生殖を否定するのであれば、自死するのが一貫するでしょう。

カルト宗教によくみられる仕事と家庭という平凡なあり方の否定が、却って大きな不幸を招く理由は、仕事と家庭が人間の極めて本質的な営為であるからであるように思われます。

何ら問題がない平凡な人間のあり方を否定することにこそ、ある種の病理、平凡な日常を離れて、特別になりたいとの欲求があるように思われます。



4 中国禅における日常への回帰



仏教は、元々「悟り」という特別な状態に達することを目的とする「特別になりたい」という欲求の実現を目指すものであり、現在も、上座仏教等のように、このような特別な状態になることを目的とする宗派も少なからず存在します。

しかし、このような「特別になりたい」という精神性に問題があることは、2に述べたとおりです。

そして、仏教と一言で言っても多様であり、日常を否定し、特別になりたいと希求する精神性に問題を抱くものもありました。

その典型が、中国唐代の禅ではないかと思います。



「激烈な聖性否定の精神が(略)平凡な日常性の肯定と表裏一体となっている点、そこに唐代禅の重要な特徴があるのであった。」

小川隆『書物誕生――あたらしい古典入門『臨済録』――禅の語録のことばと思想』(2008年)164頁



禅というと、坐禅等の修業によって、特別な境地に達するものというイメージがありますが、中国禅、特に、日本の臨済宗の基礎にある臨済義玄、さらに、師資関係を遡ると現れる馬祖道一ら、洪州宗と呼ばれる一派は、この種の坐禅等の実践により特別な境地に達することを否定し、日常のありのままのあり方を肯定する考え方に立っていました。



禅宗といえば一般に、開悟をめざして坐禅に励む宗教だという通念がある。(略)しかし、初期禅宗につづく唐代禅の盛期、すなわち馬祖以後のいわゆる「純禅の時代」の語録をひもといて看るならば、むしろ坐禅という行の解体と、それにかわる日常の営為の肯定が、その重要な基調となっていることに気づかされる。」

小川隆『神会 敦煌文献と初期の禅宗史 唐代の禅僧2』72頁)



たとえば、臨済義玄は、日本の臨済宗の基礎にあり、その語録である「臨済録」には、坐禅修行を否定する明瞭な記述があります。



「仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業なり。(略)
看経看教も亦た是れ造業。(略)
坐禅観行して、念漏を把捉(はしゃく)して放起せしめず、喧を厭い静を求む、是れ外道の法なり。」

(柳田聖山訳『臨済録』(2004年)127頁)



そして、このような坐禅等により、特別な境地に達することを否定し、日常をありのままに肯定する「聖性の否定は、臨済に限らず、禅宗一般の顕著な傾向のひとつである。」とされます。(注14)

「特別になりたい」という思考の問題性に鑑みると、聖性を否定し、日常をありのままに肯定する唐代禅は、現代的かつ健全な発想を思われます。



5 現代日本禅宗にも見られる日常への回帰



(1)概要



4に述べた唐代の「聖性の否定と日常の肯定」を中核とする禅思想は、宋代に入ると、廃れ、代わって、「見性」と呼ばれる「悟り」を目指すものが主流となっていきました。



「宋代以降の中国禅宗において、最終的に主流派となった大慧宗杲の「看話禅」は,「悟り」の実在を強調することに特徴があった。それはそれ以前の

唐代禅が修行と悟りの価値を否定

し、作為を加えないりのままの本性こそが仏性であるという「無証無修」の立場に立っていたこと、さらにそれを引き継いで北宋初の禅林に流行した「無事禅」と呼ばれる思想傾向と較べ、きわめて特徴的であった。」

(土屋太祐「唐宋禅宗思想史の研究成果報告書」(2016年)1の(3))

https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-25770016/25770016seika.pdf



不勉強で、その経緯を明らかにした史料を知りません。

しかし、禅や仏教に興味を持つ人は、何か日常に不満があり、特別な境地に達したいという人がほとんどであると思われ、臨済義玄のようなカリスマがいた時代は、彼らとの対話=問答により、正気になって、日常へ回帰していったのではないかと思われますが、そのようなカリスマがいなくなれば、日常に問題があるはずだと思い込んでいる人には、「日常に問題はない」と言われても、共感されず、坐禅等の修業により、特別な心理状態に達することを標榜する勢力の方が支持され、唐代禅のような無事禅は廃れたのではないかと思われます。

こうして、日本に流入されたものは、「見性」とも呼ばれる悟りの境地を目指す宋朝禅であり、それが現代の臨済宗等の禅宗につながりましたが、その基礎には、馬祖や臨済の唐代禅があることから、日常性の肯定がその基調に見え隠れします。

実際、臨済義玄の語録である臨済録は、日本臨済宗においても、宗門第一の書であるとされ(注15)、臨済を遡って現れる馬祖道一も、日本臨済宗において、重要な人物とされます(注16)。

以下、日本の禅宗にも少なからず認められる聖性の否定、日常の肯定の系譜について触れていきます。



(2)臨済宗



臨済宗では、悟りの体験とされる見性を目指して、坐禅等の修行がされますが、自他不二の体認を目指す向上の修行の後には、日常世界に戻るための向下への修行をしなくてはならないとされ、最終的には日常性の肯定が目指されます。



「苦労に苦労を重ねて到達した悟りの境地はどうなるのかといえば、例えば「平常心(びょうじょうしん)是れ道(どう)」(略)あるいは『龐居士語録』に「神通及び妙用、水を運び柴を搬(はこ)ぶ」などという如く

日常への回帰に他ならない

のである。」

沖本克己・角田恵理子『禅語の茶掛を読む辞典』(2002年)189頁)



さらに、先の「臨済録」の解釈についても、臨済宗の指導者の中には、坐禅を不要とする無事禅の趣旨を素直に読み取る人もいます。



「世間の人は、禅宗では修行をして佛になる、修行をして悟りを開くのだと言うのであるが、とんでもない間違いじゃ。二十年や三十年修行して凡夫が佛になれるわけはない。修行をしてみたところが煩悩だらけだ。飯を食わねば腹は減る。寝ずにおるというわけにもいかん。

そうではない。人々は修行せんでも、ちゃんと立派なものを持っておると決定(けつじょう)せねばいかん。悟りを開かんでも佛性はちゃんとあると徹底せねばいかん。ご信心をいただかんでも、如来さまはちゃんと救うてくださると決定せねばいかん。そこが衆生本来佛なりということだ。修行してから佛になるのではない。悟ってから佛になるというのではない。オギャーと生まれた時から、佛であり、みんなお助けをいただいているのである。そこを誤解してはいかん。」

山田無文臨済録』(1984年)151頁)



また、円覚寺派の管長をしていた朝比奈宗源も、坐禅の修行は本来いらないと述べます。



「以前、私が禅を修行しなくては、佛道の真実はわからないとだけ説いていた頃、郷里へ帰り親戚や友達の親しい人々をまじえた聴衆を相手に、説教をしましたら、年老いた従兄が、佛道のありがたいことはわかったが、私等にはそうした修行はとてもできない。本当のことはわからずに死ぬのかな、となげきました。私はこれが淋しくもあり、悲しくもありました。後に私はいま説くように、修行しなくても、本来佛心の中にいるのだから、死後も絶対安心してよいと、はっきり言い切る信念に達しました。」

(朝比奈宗源『佛心』(1959年)39~40頁)



私自身は、仏教の実践については、治療行為に類するものであると捉えることがその適切な理解をやすいと思っており、一見、見性という特別な体験を目指す臨済禅も、特別なものを欲している人に、修行を通して、特別な体験をさせることにより、その基礎にある劣等感の類を充足させた後、向下により、日常世界への再編成を目指すものではないかと考えています。

ベトナム臨済宗の僧侶であるティク・ナット・ハンの次の指摘は、この点が明瞭です。



「瞑想は社会から離れ、社会から逃げ出すことではなく、社会への復帰の準備をすることです。」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』
(原著1988年、中公文庫版1999年)68頁)



このように、瞑想等の仏教の実践が本来的に日常への回帰を目指すものであるとすれば、坐禅等の特別なものを求めることは、多くの人の人生にとって不要であるということになるでしょう。

実際、ほとんどの人は、禅の修行などはしませんし、誰もがやらなくてはならないということでは困ります。

この点、日本の禅宗では、禅の修行者が僧堂にやってきた際、庭詰・担過詰と呼ばれる手続が行われ、入門を容易に許さないものとされます。現在、庭詰・担過詰は、現在では、形式化されているといわれますが、坐禅等の修行が本来不要であることからすれば、示唆的なことです。

瞑想や坐禅等の仏教の実践の本質は、治療的なものであり、病んでいない人には、必要のないものというべきでしょう(注17)。



(3)曹洞宗



曹洞宗については、その開祖である道元の著作に、「見性」を否定するような内容があることから、坐禅を形式的なものと捉え、特別なものと追求すること自体を問題にするのも有力であると思われます。

曹洞宗でよく知られている沢木興道がその典型の一人と思います。



「高祖大師の『弁道法』の中に

「群を抜けて益なし……乃至未だ大悟を待たず」

とある。私も、高祖の禅に参じて、悟ろう悟ろうと思って、山の中に籠って夜もろくろく眠らずに一生懸命やってきたところへ、この言葉にぶつかったのだから驚いた。今まで群を抜けようと骨折ってきたのに、群を抜けて益なしでは、骨折り損になるわけである。

ところが実際吾々は、法界の含識(衆生)と同じく菩提を円かにするとだとか、皆共成仏道だとか言って、決して自分だけ抜けがけして極楽に行くことが仏道ではないことは唱えているのである。それでいて、人を押しのけて自分だけ悟ろうという気持ちになることがある。しかしこれは決して悟ったのでも何でもない。それを誡められるために「群を抜けて益なし、衆(しゅ)に違ふは儀にあらず」と言われたのである。『弁道法』(略)最後の「未だ大悟を待たず」というに至っては、吾々の日常の行は悟るためではない、即ち待悟の禅ではないということがはっきり分かる。」

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』(原典1939年)13~14頁)

私は、道元については、十分理解できていませんし、所々難しく考えすぎているのではないかと思われるところもあり、必ずしも支持しませんが、「群を抜けて益なし」という発想は、言葉尻としては、アドラーの「普通であることの勇気」につながるものを感じ好ましく思います。

酒井得元は、このような沢木興道の立場を更に敷衍して、まさに「特別なものはいらない」と言います。



「私は宗門において最も大切なことは

日常なんともなく生きているということ、このことが、何よりも有難い

ことであることを、心から感ずることだったのです。(略)全部が仏法であり

特別なものは、何に一つもなかった

のです。したがって仏法は特別な神がかり的な自己満足的修行することではなかったのです。何故ならば、一切衆生悉有仏性だからです。したがって宇宙の全てが仏性、即ち真実です。故にこれこそはという

特別であるものは、全てあってはならぬこと

です。こうしてみると、全てが仏性であり真実であってみれば、特に外道というものがあるわけではないのです。」

(酒井得元『永平広録について』21~23頁)

https://zenken.agu.ac.jp/research/11/06.pdf



同じ系譜ですが、曹洞宗の管長をしていた岡田宜法は、「禅は人間としての生活を出ない。禅の目標は人間完成にある。悟りを強要するような禅は、見性流の禅であつて、超人生活をあこがれる人々の迷妄である。」と言い(注18)、駒沢大学の初代学長であった忽滑谷快天も、「吾人が死を逃れんとする一切の努力、一切の企図、一切の工夫は全然無用である、吾人は斯く無用の企図に身心を磨礱せんより寧ろ有益なる事業に貴重なる生命を捧げたら宜しかろう」(注19)と特別な修行をするのではなく、日常の生活活動に徹するように教導します。



以上のような捉え方は、健全なものであると思いますが、ツイッターで、曹洞宗の僧侶の人のつぶやきを見ると、特別な境地に対する憧れのようなものを感じるものもあります。

実際、曹洞宗においては、室町時代に入った頃には、正法眼蔵は読まれなくなり、現代の曹洞宗は、江戸中期以降に、正法眼蔵等の道元の著作に基づいて、再構成されたものですから(注20)、沢木興道や酒井得元の読み方がどの程度、正確なものであったかはわかりません。

そもそも、「弁道法」自体、僧堂での生活のあり方を述べたものであり、その記述の射程が僧堂以外の一般的なあり方にどの程度及ぶのかの問題はあるようにも思われます。

特に、僧侶として出家するという行為自体が日常を離れる「群を抜ける」ものであり、そうすると、僧侶として出家するというあり方の是非も問題になるようにも思われます。

このようなことから、曹洞宗でも、悟りに類する何らかの特別な境地を目指すような考え方も息を吹き返していると言われています。



「悟り体験批判に対しては、曹洞宗内部からの逆批判も提起されている。すでに戦前から原田祖岳(略)、渡辺玄宗のような僧堂師家から逆批判めいた声が上げられていたのであるが、本格的な逆批判が提起されるようになったのは、戦後、悟り体験批判の急先鋒であった駒澤大学宗学者たちが引退し始めてからである。(略)近年においても、角田泰隆が次のように述べている。

道元禅師の修証観において、無所得無所悟の強調が、いかにも証悟の否定であるかのように理解されてきた面もあるが、けっしてそうではないことは明白である。(略)

駒澤大学における道元研究の第一人者、角田がこのように発言したことの意味は重い。あるいは、曹洞宗においても、いずれ、悟り体験批判は鎮静化していくかもしれない。少なくとも、道元の名を借りての悟り体験批判は、もはや、通用しなくなる可能性が高い。」

(大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』(2019年)268~269頁)



私自身は、沢木興道等の近代曹洞禅の論者の著書を読み、その合理性・非神秘性から、曹洞宗に好感を抱いていた時期もありましたが、先にも述べたツイッター上の曹洞宗僧侶の発言から、曹洞宗の内部も、非合理主義・神秘主義が蔓延しつつあるのではないかと疑問を抱くようになりました。



6 特別になることではなく、自足へ



先に「「瞑想/仏教と家族」に関する素描」(注21)と「「瞑想/仏教と神経的多様性」に関する素描」(注22)に述べたとおり、仏教や瞑想に興味を抱く人は、愛着関係の問題や神経的多様性の観点から、社会的に不適合になりやすいことから、劣等感を抱きやすく、その補償をする必要にせまられ、特別な心理状態を希求するように思われます。

このような精神性に、問題があることは明らかで、臨済宗において、いったんは、特別な体験をして、劣等感を補償した後、向下の修行を通し、日常性に引き下ろしたり、また、臨済宗だけではなく、曹洞宗においても、「名利」の追求を強く否定する理由は、優越感の充足を求める精神性に対する問題意識からくるものとすれば、合理的であるように思います。

鈴木大拙に次の言葉があります。



「学校をやめたころから、なんとなく人生に疑いを抱き、草木は無心に成育し花を開いて自足しているのに、人の生活はなぜそのようにならないのであろうか?こんな考えが起ってきたのが、宗教に入る第一歩であった」

(秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』(1992年)54頁)



問題は、劣等感から、自分自身のあり方に、自足できないところにあるのではないでしょうか。

中国から現代日本に至るまで、禅は、坐禅等の特別な修行によって、特別になることを目指すという一般的なイメージ(どうも現代の禅僧もそのような観念の人が多いように感じます)がありますが、その主流は、特別になることではなく、日常へ自足することを目指していたもののように思われます。



本文以上



(注1)竹村牧男「仏教は本当に意味があるのか」(1997年)16頁

(注2)「悟り」は主に大乗仏教的な「自他不二の体験」又は上座仏教的な「貪瞋痴の滅尽」と理解されますが、その精神状態の捉え方については、次の当ブログの記事を参照
扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」の3(2)
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342
「禅の修行は禅的人格を生み出せるか~瞑想と情動発現の低下」2及び3
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/02/14/211628

(注3)瞑想の副作用については、次の当ブログの記事を参照
「【参考資料】瞑想の副作用」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/14/210348

(注4)岸見一郎『アドラー心理学入門』(1999年)63頁

アドラー心理学では「普通であることの勇気」という表現をしますが、普通でいる勇気がないので最初は特別よくなろうとし、次いでもしもこれが果たせない場合は、特別に悪くなろうとするのです。そうすることによって安直に「成功と優越性」を手に入れることができる、と考えます。」

(注5)山本高穂「脳の進化から探るうつ病の起源」『第11回 日本うつ病学会市民公開講座・脳プロ公開シンポジウム in HIROSHIMA 報告書』(2014年)7頁
http://www.nips.ac.jp/srpbs/media/publication/140719_report.pdf

「いつ頃から人類はうつ病に苦しむようになったのでしょうか。番組の取材によって農耕・牧畜の始まりが大きな転換点だと分かってきました。

狩猟採集生活から農耕を開始したことで、人々は長期的に計画して多くの収穫を得られるようになり、食料以外のものも「富」として蓄積していくようになりました。それと同時に、持つ者と持たざる者の格差が発生してきたことが考えられます。世界最古のメソポタミア文明の遺跡から発掘された紀元前2500年前の考古学的資料からは、ハッザの人々に見られるような平等な社会は崩壊し、権力者と労働者が明確に分かれる階級社会が既に成立していたことが読みとれます。また、古代ギリシャ時代の医師や科学者たちが残した文献には、現代の「メランコリー(憂うつ)」の語源となる言葉が認められ、文明が興った時代以降、人々は階級社会により強いストレスを受け、うつ病うつ状態に陥る人々が存在するようになったのではないかと推察されています。

さらに、文明による階級社会成立後も、うつ病を拡大させる要因となる人類史上の出来事は続きました。18世紀には産業革命が起こり、人々の労働時間は急激に増加しました。そして、20世紀以降では、都市が急速に発達し、人と人との結びつきが希薄化しています。産業革命による過労や、都市化による孤独なども要因となり、うつ病に悩まされる人々を益々増大させていると考えられます。」

(注6)リチャード・ゴンブリッチ浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』(2018年)59~60頁

「インドにおける都市化の第二期の初期において、仏教が興隆したことに同意している。(略)この都市化は、農産物の余剰生産に伴って生じたのに違いなく、社会と経済の根本的変化へと繋がった。比較的大きな都市(略)は、宮廷と貴族、および官僚階級を伴った都市国家へと発展した。余剰の農産物はさらなる規模の通称を促し、そのことがより遠方の諸社会との接触と、文化的地平の拡大をもたらした。交易商人たちは帳簿をつけ、王たちは法を施行した。

(略)仏教が、とりわけ交易商人のような新興の社会階級を惹きつけたことは、初期の文献と、少し下った時代に由来する考古学的史料の双方から、明らかである。」

(注7)仏教がカースト制を否定したなどということは、よく言われますが、実際には、これが教壇組織に食い込んでいます。

ブッダが現実世界の人生を、より一層生きるに値するものとなしえたかどうかは、大いに議論の余地があるところだが、これは彼の教えの意図せぬ結果であったことは確かである。彼のことをある種の社会主義者だとするのは、時代錯誤も甚だしい。彼は決して社会的不平等に反対したのではなく、ただそのことが救いとは無関係だと宣べたまでである。彼は決してカースト制度を廃止しようとしたわけでも、奴隷制度をなくそうとしたわけでもなかった。例えば、有名な説法である『沙門果経』(略)が、奴隷がその隷属を逃れて教団に入ることの実際的な利益を強調する。その一方で、現実には逃亡奴隷の入団は許されていなかった。その上、古代インドでは教団そのものの内部には、カーストも他の形態の社会階層もなかったのだが、やがて教団それ自体(在俗の)奴隷を所有するようになった。

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』(2005年)52~53頁)

スリランカは大変カースト制の厳しい教団組織であります。一番高いカーストじゃないとスリランカの、そのタイから持ってきたサンガと言いますか、サイアム・ニカーヤ(シャム・ニカーヤ)と呼んでいるのですが、ここは最上位のカーストじゃないとサーマネラ(得度)できません。(略)

スリランカは多くの人が最も原始仏教の姿を今日まできちんと受け継いでいると評価する、そういう仏教であります。しかし、実は建てまえの話(略)

とにかくここで少し注目しましたのは、そのカースト制度、大変厳しい。それで多分、今日は見えてないのですが、短大の能仁先生は仏教がスリランカに伝わる前の頃からヴァルナ制を仏教では認めていてというふうな可能性も示唆されています。同じ仏教徒言っても、バラモンとクシャトリアの仏教と、それからヴァイシャとシュードラの仏教はちょっと説く内容が違っていてもいいのだというような話があるということです。」

(中村尚司「報告Ⅰ 中村尚司「東南アジア上座仏教の現状と課題」龍谷大学アジア仏教文化研究センター『2010年度 第1回 国内シンポジウムプロシーディングス「アジア仏教の現在」』6~8ページ)

(注8)森三樹三郎『老子荘子』(1977年)340頁

(注9)瓜生崇『なぜ人はカルトに惹かれるのか――脱会支援の場から』(2020年)10頁

(注10)「仕事と家庭は人生の両輪です。」(西内啓『サラリーマンの悩みのほとんどにはすでに学問的な「答え」が出ている』(2012年)222頁)

(注11)魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』(2015年)35頁

「ゴータマ・ブッダの教えは、現代日本人である私たちにとっても、「人間として正しく生きる道」であるかどうか、ということである。

結論から言えば、そのように彼の教えを解釈することは難しい。(略)ゴータマ・ブッダの教説は、その目的を達成しようとする者に「労働と生殖の放棄」を要求するものであるが、しかるに生殖は生き物が普遍的に求めるものであるし、労働は人間が社会を形成し、その生存を成り立たせ、関係の中で自己を実現するために不可欠なものであるからだ」

(注12)サンガの当事者グループ制という観点からは、佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』(2017年)91頁の次の指摘が鋭い。

「出家とは、俗世間で死ぬか生きるかの状態になってしまった人たちが、同じような価値観を持った者同士で身を寄せ合って作った修行の世界へ入ること。出家の本当の意味は、言ってみれば「自殺する人を救う」ところにあるわけです。」

(注13)出家者集団の問題性については、差し当たり、次の各文献を参照

「瞑想センターに入るまえ、瞑想の内に平和を見いだすことを、彼らは望んでいました。ところが、道を求めつつ、以前とは違った社会をつくり、この社会が、大社会よりも、もっとむずかしいものであることに気づきます。それが
社会から疎外されたひとたちの集まり
だからです。数年の後、瞑想センターにやってくるまえよりも、もっとひどい欲求不満を起します。」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』
72頁)

「私は、青年時代から在家の居士として修行を始め、終戦の年、四十二歳の時に出家した。その頃でさえ寺の子弟というのは何となく陰惨だった。在家の私は、ひそかに雲水たちを羨望していた。ああいう生活はいいな、明けても暮れても坐禅三昧でおられる。ああいう生活が羨ましいなと思っていた。ところが、さて自分がその中に入ってみると、何とこの世界は陰惨な世界か。御殿女中の腐ったみたい。陰険で、どうもカラリとした男性的なところがない。何とも嫌なところだなと思ったことがある。」

(大森曹玄『驢鞍橋講話』(1986年)319~320頁)






(注14)小川隆『書物誕生――あたらしい古典入門『臨済録』――禅の語録のことばと思想』(2008年11月18日)156頁

同書の次の記述もわかりやすい。

「激烈な聖性否定の精神がこうした平凡な日常性の肯定と表裏一体となっている点、そこに唐代禅の重要な特徴があるのであった。」(164頁)

(注15)「何というても宗門では、この臨済録が背骨である。この臨済録をよく拝読して、会得しておかんというと、臨済下の衲僧ということは言えんはずである。」(山田無文臨済録』(1984年)i頁)

(注16)伊藤古鑑「馬祖大師の禅」『禅学研究』第26号(1936年)12月25日)9~10頁

https://hu.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=25&block_id=79&item_id=607&item_no=1

「馬祖大師は六租已後に於ける禅海の第一人者であつて、禅宗と云ふ宗旨を高くを天下に宣揚し、眞個の衲子(のうす)を打出すると云ふことに力めた人で、少なくも今日の禅宗からは、馬租大師を以て一大恩人として尊崇しなければならぬと思ふ。素より達磨大師の功績も、六祖大師の偉大も認めないと云ふのではない。たゞ今日の禅宗より逆に、深く其の出発点を考へて見た時には、或は更に偉大なる思想なり功績なりを此の禅海に残されたのは此の馬租大師ではなからうか。或る意味に於ては、馬租大師の禅が今日の禅宗、特に臨済の宗風を判然と画き出さしめた観があるので、この馬租大師を忘れて、今日の禅を語り、今日の臨濟宗と云ふ宗旨を論することは出来ないものと信ずる。」

(注17)以前のブログの記事にも引用しましたが、仏教の治療モデルと私がいうものは、次のようなものです。

1 佐々木閑『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』(2012年)29頁

「仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。ですから、病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院させるようなことをしないのと同じく、仏教も、苦しみを感じていない人まで無理矢理信者に引っ張り込もうとはしません。」

2 柳田聖山『禅思想』(1975年)37~38頁

「道心を起すことが、巧偽をひき起す。道心を起すことが、じつはすでに道に背くわざなのだ。(略)もともと坐禅は起こった心を静めるための対症療法であった。(略)応病与薬の法であった。乱れた心を制する技術である。応病与薬の法であった。『二入四行論』の雑録に、つぎのような問答がある。

ある人が顕禅師にたずねた、「何を薬というのです」
答、「一切の大乗は、病気に対する応急処置にすぎぬ。心そのものが病気を起さなければ、どうして病気に対する薬がいろう。有という病気に対して空無という薬を説き、有我という病気に対して無我という薬を説き……、迷いに対して悟りを説く。これらはすべて、病気に対する応急処置である。病まぬのに、どうして薬がいろう」

顕禅師もまた伝記の判らぬ人だが、その主張は縁法師と変わらぬ。(略)病まぬのに、薬はいらない。病まぬ人に薬を与えるのは、わざわざ病人をつくるようなものだ。心が起らぬのに、強いて心を起すにひとしい。われわれは、とかく病を実体化しやすい。病を実体化することから、薬の実体化が始まる。(略)病の実体化することの危うさは知りやすい。薬を実体化することの怖さは気づきにくい。」

(注18)大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』(2019年)258頁

(注19)滑谷快天『禅の妙味』(1927年)13頁

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1110187

(注20)松波直弘「江戸期曹洞宗における三教一致思想――『曹洞護国辨』に関して――」『学習院大学文学部研究年報』59号(2012年)1~2頁
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2720&item_no=1&page_id=13&block_id=21

「江戸期曹洞宗の思想状況は、「百花繚乱」とも称される。(略)

ただ、「百花繚乱」は美麗な形容であって、別の角度から見れば、宗門内には「諸言乱立」という感も否めない。幕府主導の宗教統制によって、「曹洞宗」という大きな外枠は出来たものの、その中身は穏やかな水面とはいかなかった。(略)

一つの落とし所となったのが、宗祖道元の言葉である。実は、道元の主著とされる『正法眼蔵』は、宗門の宝として秘蔵こそされども、それを元に学問をするという流れは形成されていなかった。そこで、江戸期において、「曹洞宗」という宗門の規矩を定めるために「復古」されたのが、『正法眼蔵』であった。

しかし、宗祖の言葉が復古されたからといって、それで何事もなく論争が終息するわけでもない。室町期以降、永きに亘って学問対象となってこなかったということは、宗門としての『正法眼蔵』の読み方が規定されていなかったことと同義である。したがって、〈復古された『正法眼蔵』〉は、そこに様々な読みや解釈を生じさせることともなった。こうして、江戸期の曹洞宗は、宗祖・道元の『正法眼蔵』という一際大輪の華を加え、多様な宗論・思想が咲き乱れる様相となっていったのである。」

(注21)特に「5 親子関係の問題と劣等感=優越感の補償への渇望」を参照
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/05/08/211131

(注22)特に「8 高機能発達障害における劣等感と超越性の希求」を参照
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/05/15/211246

(注23)鈴木大拙『禅百題』(1943年)48頁の次の記述も自足という点では味わい深い

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040811

「人間がちょっと足を止めたのが禍の本なのである。猫や犬のように、松や竹のように

所謂その性のままに動いて居れば、何の面倒もなかったのだ。

それが何かの調子で一寸車を駐めて紅葉を見たから、今までのように行けなくなった。自分と自分に対するものとが分かれた。問が出る、名が出来る。一旦こうなれば止まるということを知らぬ。自分で作ったものにだまされる。向こうに働きかけて、その働きが又向こうから返ってくる。一波動いて千波萬浪が次から次からと動く。面白いと云ってもよし、面倒だと見てもよい。そのはじめは、汝が問を出したからである。」





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「瞑想、人格意識、言語、そして、発達障害」に関する私論/試論

本稿の構成

1 はじめに
2 扁桃体と自己防衛本能
3 人格意識の起源=自己の肉体の維持
4 言語(概念)の起源=自己の肉体の維持
5 人格意識及び言語活動による不安感の生成、そして、瞑想による改善
6 発達障害との関係



1 はじめに



瞑想、言語、人格意識(自我同一性)及び発達障害との関係について、質問を受けました。

瞑想、言語、人格意識の関連性については、以前から考えてはいたのですが、はっきりとした裏付けとなる資料に接していないことから、整理がついていなかったところ、回答を考えるうちに相当量になり、この際、広く指摘や批判を受けて、内容を充実させようと思い、ブログの記事として公開することとしました。

ちなみに、数日前にPCを壊してしまったため、スマートフォンで記事を書いていることから、参照文献等は全くなく、近日中にPCを購入の上、補充したいと思います。



2 扁桃体と自己防衛本能



瞑想の生理学的な効果については、不安感の中枢と呼ばれる脳の扁桃体の活動を低下を主たるものとみています。
この機序に関する文献上の根拠は

扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342

の記事の引用を参照してください。

扁桃体は自己防衛本能とも関わりますが、私は、人格意識及び言語とは、自己防衛本能と関わるのではないかと考えています(以下は文献上の根拠のない私の考えです)。



3 人格意識の起源=自己の肉体の維持



人格意識は、のっぺりといた世界から自我を区分する意識ですが、原初的には、補食により、肉体の活動を維持するために、形成されたのではないかと思います。

つまり、何か食料になるものを捉えたときにそれをどこに投入すべきなのか。

肉体を維持するためには、のっぺりとした世界から区分された食料を投入する部分が特定できなくてはなりません。

Aが食料を握持して、Bの体内に投入しても、Aの肉体は維持できません。

そこで、Aは、世界の中から区分されたAという自己を特定する必要がある。

人格意識は、このような自己の肉体を維持するため、これを世界から区分する必要から生まれたのではないかと思います。



4 言語(概念)の起源=自己の肉体の維持



言語、すなわち概念も、他者とのコミュニケーション以前に肉体の生存のため、のっぺりとした世界を区分する必要から生まれたものと思います。

まず、自己の肉体を維持するためには、先にのべたとおり、自己が世界から区分されたものとして概念化される必要があります。

また、自己の肉体を維持するためには、のっぺりとした世界を区分して、その中から食料になるものを概念化する必要もあります。

さらに、自己の肉体を維持するためには、食料の補食等の利益を享受し、肉体の破壊をもたらす不利益を避けなくてはなりませんが、その予測を可能にするためには、具体的事象を帰納して、法則性を見いだす必要がありますが、そのためにも、世界の中に生起するのっぺりとした現象を区分し、その上、単に区分するだけではなく、その区分された事象について共通の特性を見い出し、その集合をやはり概念化する必要があります。

初心者向きの帰納法の例として、「カラスAは黒い、カラスBは黒い、カラスCは黒い…したがって、カラスは黒い」がありますが、カラスAもカラスBも個別具体的な存在でしかないところ、それをカラスという概念で括る必要があります。



5 人格意識及び言語活動による不安感の生成、そして、瞑想による改善



人格意識も、言語も、このような肉体の維持の必要性=自己防衛本能に由来するものと思われますが、自己防衛の意識の根底にあるのは、不安感です。

私たちは、未来において、利益を得、不利益を避ける自己防衛本能を働かせれば働かせるほど、その背後にある不安感を募らせるという構造があるのではないかと思われます。

利益の獲得が扁桃体の活動を活性化させ、うつ病になり易くなる機序には、このような利益を得ようと人格意識や言語的な解析能力を働かせることにもあるのではないかというのが今のところの試論です。

瞑想は、このように人格意識や言語活動の多用により活性化した扁桃体の活動を低下させる点で、人格意識や言語と関連を持つのではないかと思います。



6 発達障害との関係



瞑想と発達障害との関係については

「瞑想/仏教と神経的多様性」の素描
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/05/15/211246

で詳述したとおりですが、発達障害の場合には、言語感覚の相違から、他者とのコミュニケーションの不全が起こり勝ちになるでしょうから、言語活動をすることに疲弊しやすくなるように思われます。

また、「偽装」をするための行動の予測をするに当たっては、具体的な事象の概念化が必要不可欠であり、その作業の過剰に疲弊しやすくなるのではないでしょうか。

もとより、感覚の違う他者に合わせることそれ事態が自己防衛本能に由来するものですから、負の満場を持ちやすくなり、扁桃体の活動を低下させるための瞑想が有用になる場面も多くなるのではないかと思われます。





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「瞑想/仏教と神経的多様性」に関する素描

「人が仏教や瞑想にはまりこむ要因は何か?」が私の個人的なテーマの一つです。

単純な興味のほか、仏教や瞑想にはまりこむ人に、何らかの心の問題があるのは間違いなく、その要因を探ることは、私自身や私の子供等家族に心の問題が生じることを防ぐ方法を検討することに繋がるからです。

人間の発達は、遺伝(器質的要因)と環境の相互作用によるものとされます。

仏教的に言うなら、前者が因で、後者が縁でしょうか。

では、瞑想や仏教にはまりこんでしまう人格を形成させる発達上の器質的要因と環境的要因は何か?

本ブログの記事のうち

「瞑想/仏教と家族」に関する素描
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/05/08/211131

は後者の問題を扱ったものですが、本稿は前者の問題を扱うものです。



本稿の構成

1 神経的多様性とは何か?
2 瞑想会や坐禅会での「頭がよいのに、生きづらさを抱える人」たちとの出会い
3 自閉症と「偽装」
4 自閉症者の高度な記憶力と論理的思考力
5 理系の相対的な自閉症傾向と「救い」を欲する精神性
6 自閉症傾向と「一切皆苦」的世界観
7 発達障害傾向の潜在
8 高機能発達障害における劣等感と超越性の希求
9 小括、そして、発達障害愛着障害との関係~「複雑性PTSD」
10(補論)仏伝に見る釈尊発達障害の可能性



1 神経的多様性とは何か?



神経的多様性は、neurodiversity(ニューロダイバーシティ)の訳語であり、自閉症等の発達障害の研究の中で産み出された概念です。

現在、発達障害は、先天的な脳機能の問題であると理解されています。

簡単にいえば、脳内のネットワーク構造は、一人一人生物学的な相違があります。

そして、そのネットワークの構造が少数派に属してしまうと、社会の多くの人とのコミュニケーションがうまくいかなくなります。(注1)

誰にでも、脳内のネットワークの相違があることの一番分かりやすい例は、「味覚」であると思います。

複数の人が、全く同じものを食べても、おいしい、まずい様々な意見の出ることはよくあります。

このような感覚に関する直観的判断に優劣はありませんが、多数派と少数派とでは、少数派の直観はなぜか否定される。

同じ状況に直面しても、その状況に対して、多数派と違う反応をしてしまうと、「空気が読めない」などと非難や蔑視をされる。

生物学的な脳の構造は、その本人の責任ではありませんし、相違する脳内のネットワーク相互間で、優劣はないはずですから、近時、発達障害は、健康な状態と比較して悪いというような純粋な障害の問題ではなく、社会的な差別の問題であるとの見方が有力になってきています。

このような脳内のネットワーク構造の相違や、この相違に着目する考え方が神経
的多様性と呼ばれています。



2 瞑想会や坐禅会での「頭がよいのに、生きづらさを抱える人」たちとの出会い



私は、複数の瞑想会や坐禅会をめぐる中で、「頭がよいのに、生きづらさを抱える人」に出会うことがよくありました。

たとえば、若い人と話してみると、私よりも、色々なことを知っていたり、考えていたりして、感心することが少なからずあったのですが、非正規雇用労働者であったり、無職であったりする人がほとんどでした。

現代は、非正規雇用労働者が多く、単なる社会の縮図であるとも思えなくもないのですが、それにしても、頭がよいのに、人生がうまくいっていない感じのする人が多くいました。

単純に考えれば、頭がよければ問題解決も容易なはずであり、世間的な意味で人生における成功をしやすいはずであるのに、なぜか生きづらさを抱える。

そんな人が多くいる矛盾がわたしには不思議でした。

また、見た目社会的に成功していように見える人でも、深く話を聴いていくと、心の底に、鬱積したものを抱えていることがわかり、見た目は、社会的に適応しているけれども、生きづらさを抱えている人が多くいることがわかりました。

私自身も、学校的な成績はよく、そのお陰もあって、現在の仕事に就き、自慢話のような話になりますが、子ども4人を大学まで進学させることに不安を感じない程度の所得を得ることが可能になりました。

しかし、人付き合いが苦手であることから、生きづらさを感じるところがあり、そのことが、瞑想や仏教に興味を持つ理由の一つになったのだと思います。

このような「頭がよいのに生きづらさを抱えるのはなぜか」との疑問を抱く中で、ボランティアで傾聴を始めたことをきっかけに自閉症に関する本を読み出したことが、本稿で述べるような着想の発端となりました。



3 自閉症と「偽装」



発達障害にも、様々な種類がありますが、その中でも、自閉症に関して、参考になる点が多くあると感じます。

自閉症の診断を受ける人でも、誰もが、見た目で精神的な問題とわかるような行動をとる訳ではありません。

当事者の方は、よく「偽装」などといいますが、自閉症の人も、知的障害がなければ、後天的な学習によって、見た目としては、普通の人のように振る舞うことができるようになります。



自閉症で知能が平均かそれ以上の人は、幼いころからかなり上手にフツーを装うことを覚える。が、それでもときどきポカをする。親には扱いにくく、また周囲から疎んじられ、学校でいじめられ、職場で排除されやすい」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』12頁)



しかし、「普通の人」に合わせることは大変ストレスが貯まることであり、近時、過剰適応として問題となっています。

また、このような過剰適応が、「普通に」学生時代を送ってきたのに、社会人となった後、突如、会社に行けなくなり、引きこもってしまう問題が生じる要因のひとつとしてあげられています。

すなわち、学生時代は、何とか過剰適応して「普通に」振る舞っていても、就職により、自分の言動に対する責任を強く問われることなどから、日々強いストレスにさらされた結果、適応をすることに疲弊してしまって、引き込もってしまうなどといった問題が生じる例が少なくないといわれます。



「「社会的ひきこもり」は精神医学的観点からも決して楽観視できない問題と言える。

さらに発達障害を専門とする筆者が診た範囲内では、彼らの発達歴を幼児期・小児期にまで遡ってみると、学習障害(LD)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)、アスペルガー症候群(AS)、境界知能などのいわゆる軽度(高機能)の発達障害が少なからず認められる。これは他の発達障害の専門医の報告でも同様である。社会的ひきこもりと発達障害との関連性は(略)臨床的な観察から指摘されている」

(星野仁彦「ひきこもりと発達障害」『ひきこもり支援者読本』18頁)
https://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/hikikomori/handbook/pdf/1-2.pdf



「軽度の発達障害者は、何とか高校・大学まで卒業したとしても、その後の就職と社会適応が困難になることが少なくない。場合によっては長期間のひきこもりやニートになることもある。また成人になると、様々な心の合併症――特にうつ病、依存症、パーソナリティ障害、不安障害(神経症)――を伴うこともある」

(星川前掲23頁)



同様の指摘は、金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』や岩波明発達障害』にもあり、専門家の間でも、一般的な理解とされているようです。



「仕事をする中で、しばしば悲しく感じることがあります。それは、おそらくは就学前の幼児期には無邪気で屈託のない性格であった彼らが、いつの間にか(おそらく修学期間中にあるいは就労中の不適応の果てに)すっかり自信を失ってしまっていることです。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター前掲書135頁)

「ASD(引用者注:自閉症の意)、ADHDなどの発達障害の当事者の多くは、行政や福祉からの支援を受けずに、「一般人」として社会の中で暮らしている。彼らはある程度「普通」の社会参加は可能であるが、(略)学校や職場などで、失敗を重ねて不適応となって仕事が続けられなくなったり、さらに引きこもりになったりするケースは珍しくない。」

岩波明発達障害』(2017年)223頁)



4 自閉症者の高度な記憶力と論理的思考力



自閉症は、症状がとても多彩であるという特徴を有するとされますが、中心症状の一つが、コミュニケーションの困難です。(注3)

そして、発達障害が、知的障害を伴わない場合でも、このようなコミュニケーションの困難をもたらされます。

発達障害は、必ずしも知的障害が伴うわけではなく、「学業の後れがそれほど目立たず、場合によっては健常児よりも成績の良い発達障害児が存在する」(注4)ことがわかってきています。

特に、注目されるのは、自閉症の人は、「普通の人」と比較して、記憶力がよく、かつ、ボトムアップ式の論理的思考力が高い例が多いと言われていることです。



自閉症の方は全体として記憶力が優れているのです」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)62頁)



また、自閉症の人の論理的思考力については、次のような指摘がされています。



「彼ら(引用者注:自閉症者)が得意とするボトムアップ処理の認知様式が、文字や算数への興味を促進し、それを学習する機会を増やす可能性もあります。彼らは、因果関係に明確な規則性のある構造(例えば、二つの歯車をかみ合わせたときの回転速度の変化)においては、時として、飽くなき関心と優れた力を発揮します」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修前掲書122頁)



文献には出会ったことはないのですが、このような自閉症の人に見られるという記憶力と論理的思考力の高さは、脳内のネットワークの相違によるコミュニケーションの不全とバーターなのではないかと推定しています。

すなわち、脳内のネットワークの相違から直観的に行動を取ると、多数派とは、異なる反応をしてしまい、非難されたり、誤解される。

そこで、多数派の行動を観察して、具体的な場面毎にどんな反応をするかの情報を集積して、そこから、特定の場面毎にどんな反応をするのが多数派的であるかの抽象的な法則を見出して、多数派の反応に沿う、行動をすることができるようにする。

このような作業を日常的に繰り返すことにより、情報の集積のための記憶力と、集積した情報から抽象的な法則を見出すための論理的思考力が自然と訓練されていく。

これが自閉症の人たちの記憶力や論理的思考力の高くなる機序なのではないかと考えています。

また、自閉症の人が、「普通の人」に適応して行う、日常の他愛もないコミュニケーションそれ自体が、小テストを繰り返すような作業であり、苦痛やストレスが高まっていく結果となる。

だから、自閉症の人たちに多く見られるという優れた記憶力や論理的思考力は、脳内のネットワークの相違によるコミュニケーションの不全とバーターなのではないかと考えています。



5 理系の相対的な自閉症傾向と「救い」を欲する精神性



記憶力や論理的思考力は、いわゆる理系の人の特徴であるとよく言われますが、この観点から興味深いことは、理系の学生の方が、自閉症スペクトラム指数(AQ)が高いとされることです。



「一般大学生の専攻やパーソナリティとAQとの関連をみた研究(略)英国のそれは、AQが高いと神経症傾向が強く、外向性と同調性が低かった。男子は女子よりも、また、物理や化学専攻の学生はそうでない学生よりもAQが高かった。興味深いことに、親が科学に関する仕事をしている学生は、そうでない学生よりもAQが高かった。日本では高知大学が一般学生にAQを実験したところ、文系学部よりも理系学部の学生のAQが高かった。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)62頁)



オウム真理教事件の際、その信者に理系出身者が少なくないことが話題になりました。

これは、理系の人には、自閉症ないし自閉症傾向の人が多く、記憶力、論理的思考力が高さと同時に、脳内のネットワークの相違によるコミュニケーションの不全という生きづらさを感じる人が多いからではないかと思います。

自然科学は人間の生き方を指し示すものではありませんから、生きづらさを抱えて、特別な信仰が必要になったのではないでしょうか。

私が、実際に接した中でも、瞑想会や坐禅会に来る人には、案外、理系の人が多く、職業の分かった人の中ではSEの人が比較的多かった印象です。

特に、印象に残っているのは、上座仏教(テーラワーダ)の瞑想の実践をしている人たちです。

彼らの中には、輪廻説を、生まれ変わりが実在するものとして、本気で信じている人が少なくないのですが、上座仏教の勉強会で知り合った精神科医の人や、原子力発電所の技術者の人が、生まれ変わりについて、熱く語る場面に居合わせたことは、私にとってとても印象深いことでした(この経験が、仏教や瞑想から距離を置いた方が健全ではないかと考えるようになった大きた要因の一つでした。)。

実際、理系というわけでなくとも、ツイッターなどを見ても(私も含めてですが)、仏教や瞑想に関する発信をする人には、自分のことを合理的に判断が出来る頭のよい部類の人間だと考えている人が、相当程度いるのではないかと思われます。

しかし、頭がよいのだとすれば、問題解決能力が高く、世間的な成功を収めていて然るべきなのですが、なぜか、人生が上手くいっていない人が多い。

そこには、多数派との意思疎通が上手くいかないというコミュニケーション上の問題があり、その基礎には、多数派との脳内のネットワークの相違があるのではないかと思います。

「普通の人らしく振る舞う」ために、周囲の人をよく観察して、具体的事例を集積して、そこから「Xの場合はAと振る舞う」といった抽象的法則を見いだすという訓練を発達障害の人は、生まれたときからずっと繰り返しているのではないのでしょうか。

具体的な事例を集積する中で記憶力が強化され、集積した具体的事例から抽象的法則を引き出すなかで、論理的思考力が強化される。

このような作業を通じて、記憶力と論理的思考力が高い理系的な頭のよい人が作られる。

しかし、それはその人の中での周囲の人との間の価値観等の相違に対する違和感とのバーター。

これが瞑想会や座禅会でであった「頭がよいけれど、人生うまく行っていない」人の産み出される有力なルートではないかと思っています。



6 自閉症傾向と「一切皆苦」的世界観



自閉症発達障害の人にとっては、多数派が何とはなしにやっている他愛もないコミュニケーションの一つ一つが小テストを繰り返すようなものであり、多数派とのコミュニケーションは苦痛なのではないでしょうか。

これまで引用した文献にも、次のような指摘があります。



「社会はたくさんの人々が集まることにより成り立っています。人と人との交流の総体が社会です。この世に居れば他者との関係が必ず生まれる。対人交流が起こり得ないのは無人島に一人いる場合だけでしょう(略)。

つまり、自閉症の方にとって

この世の中に居るということ自体が苦痛

になります。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)67頁)



「仕事をする中で、しばしば悲しく感じることがあります。それは、おそらくは就学前の幼児期には無邪気で屈託のない性格であった彼らが、いつの間にか(おそらく修学期間中にあるいは就労中の不適応の果てに)すっかり自信を失ってしまっていることです。

この根源にあるのは、(略)生まれもっての多様性が、周囲にマイノリティ(社会的少数者)として否定的にあつかわれる環境であり、これこそが彼らを苦しめていると感じています。彼らは、ただ普通に仕事して、穏やかな生活をしていたいだけなのに、それがうまくいかなくて困っているのです。実直な彼らは、歳を重ねるに従い

日々を生きるだけで大いに罰を受けているような気持ちが深まっていきます。

多くの場合、親が期待しているような、普通の社会生活ができていないことに、自己嫌悪を感じて苦しんでいるのです。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修前掲書135~136頁)



これらの引用の中で、特に、印象的なことは

自閉症の方にとって、この世の中に居るということ自体が苦痛」

「日々を生きるだけで大いに罰を受けているような気持ち」

などといった言葉です。

原初的な仏教では、「一切皆苦」を説き、この世界のあらゆる事柄、私達が生きていることすら、「苦」、すなわち、不満足であると考えます。(注5)

自閉症等の発達障害の人たちの「生きていること自体苦痛」という感覚は、仏教で説く一切皆苦の感覚そのものともいえ、瞑想や仏教にはまる人は、少なからず、自閉症等の発達障害や、これに類似する問題を抱えているように思われます。



7 発達障害傾向の潜在



これまでの話に関し、そんなに自閉症等の発達障害の人がいるのか、との疑問を抱く人もいると思いますが、年々発達障害の人は増加しています。



「過去30年間の急増はすさまじい。1万人あたりで見ると1960年代から1980年代まではながらく4~5人の発現率であったが、80年代に入って10人を超える報告が現れた。2000年代には100人を超える報告が相次ぎ、最新の韓国の264人まできた。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)14頁)



また、平成18年度の厚生労働省が、栃木県と鳥取県において、歳児健診にの際、「学習障害(LD)、注意欠陥/多動性障害(ADHD)、高機能自閉症アスペルガー症候群を包含する高機能広汎性発達障害(HFPDD)、軽度精神遅滞といったいわゆる軽度発達障害」の出現頻度を調査したところ、鳥取県では9.3%、栃木県では8.2%であったとされます。(注6)

平成18年の5歳児ですから、現在(令和4年)では、20~21歳ということになり、概ね成人の1割程度が、「偽装」により見た目として社会生活は送れているのだとしても、発達障害の傾向にあると考えられます。

仏教や瞑想にはまる人は、社会的にみれば圧倒的な少数派ですから、その相当程度の割合の人が、知的障害の伴わない高機能発達障害であってもおかしくはありません。

また、次のような指摘もあります。



「統計によって異なるが、例えば、ADHDやLDは15歳未満の子どもの人口の6~12%、HFPDDやASは1.2~1.5%存在する。そうした子のほとんどは特別支援学校や特別支援学級ではなく、普通学級に在籍している。」

(星野仁彦「ひきこもりと発達障害」『ひきこもり支援者読本』22頁)



「普通学級に在籍している」との指摘は興味深く、仏教や瞑想にはまっている人でも、実際には、発達障害なのに、そのことがわかっていないという人も相当数いてもおかしくありません。

同じ文脈で、次の指摘も興味深い。



「現実には成績優秀な子どもほど、発達障害は見過ごされやすい。
成績が良ければ、少しくらいおかしな行動があっても、「あの子はちょっと変わってるから」ですまされやすいし、横並び意識の強いこの国では、たとえ発達障害を疑ったとしても、世間の手前、親も教師もなかなかそれを認めようとしないからである。

その結果、何の治療もカウンセリングも受けないまま大人になっていく人が少なくない。」

(星野仁彦「ひきこもりと発達障害」『ひきこもり支援者読本』27頁)



この指摘は、私自身にも思い当たるところがあり、また、私自身の子育てでも、意識が変わる切っ掛けになったものの一つですが、仏教や瞑想にはまり込む人でも、先にも述べたとおり、精神科医等成績優秀な人達もいて、このような問題が見過ごされているのではないかとも思われます。

さらに、自閉症等の発達障害について考えるに当たり、重要なことは、正常とされる領域と、正式な診断名がつくような発達障害との間には、明確な線引きがなく、連続的なものであり、「自閉性スペクトラム症」などと言われるとおり、まさしくspectrum(スペクトラム)なものであるということです。



「「スペクトラム」という言葉は日常生活ではあまり使用しない言葉であるが、これを理解するには、例えば「虹」を想像してみるとよいだろう。(略)言語文化によって虹の捉え方(引用者注:色の数等)が異なっている。なぜこのようなことが生じるのか。それは、「虹」は層を成しているだけであって、どこで区切るかは非常に恣意的な判断であり、文化や社会によって異なっているからである。自閉症もこれと同じようなところがあり、自閉症の症状はスペクトラム状に現れて、自閉症の人とそうでない人を絶対的に区別することは難しい。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)4頁)

自閉症の徴候は誰にでも多少はある」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修前掲書13頁)

「Broader Autism Phenotype(BAP)(略)とは、自閉症の人の親やきょうだいに、自閉症の徴候が部分的に見られる様態をさす。自閉症とは診断されないきょうだいに、微妙な感情表出の苦手さあったり、コミュニケーションの不得意があったりする。親は、人柄がよそよそしいとか、硬いとか、言語を対人的に使うのが不得手だとかいう報告がある。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修前掲書21頁)



自閉症による症状が、脳内のネットワークの相違によるコミュニケーション上の問題であるなら、誰しもが、何らかの生物学的な相違があるでしょうし、どの程度、多数派に属しているのかも、感受性が問題となる様々な領域によって異なり、何らかの発達障害の診断を受けずとも、何らかの形で生きづらさを抱える人も多いのではないでしょうか。

実際には、仏教や瞑想にはまる人には、自分自身の発達障害傾向に気づいていない人も相当数いるのではないかと思われます。(注7)



8 高機能発達障害における劣等感と超越性の希求



瞑想や仏教が高機能発達障害の人に訴求するものと考える理由の一つは、仏教や特に宗教的な傾向がある瞑想が、悟りや解脱などと呼ばれる超越性を希求するものであるという性格にあるものと思います。(注8)

1でも触れましたが、瞑想会等で出会う人には、頭はよいのだけれども、非正規雇用労働者や無職などといった実人生は満たされて居らず、頭の良さが、実人生の良さに結びついていない人が少なからずいました。

このような傾向は、瞑想や仏教にはまる人のツイッターでの発言にも感じることがよくあり、職場やその上司の能力の低さを批判するとともに、彼らよりも能力のあるはずの自分が、その部下であることの不満や、現在の職業に対する不満が示されることがよくあります。

単に能力が低いだけであれば、ある意味救いがあるのかも知れませんが、頭がよく、本来優秀であるはずなのに、それが正当に評価されていないという不満であり、この種の不満は、彼らが、高機能発達障害であり、記憶力や論理的思考力といった頭良さはあるものの、脳内ネットワークの相違からコミュニケーションに難があり、仕事上の成果が出せない状況にあると考えると、理解がしやすいように思われます。

自分に能力があるはずなのに、職場という世間的な世界では正当に評価されないことに対する優越感と劣等感のないまぜになった不満が、仏教等の宗教的瞑想などといった非世間的な世界での悟り等の超越性への希求に結び付くのではないかと思われます。

「「瞑想/仏教と家族」に関する素描」の中でも触れた、岡田尊司『マインドコントロール』におけるカルト宗教にはまる人の劣等感の問題は、この場面でも同様ではないかと感じます。



「社会において自分の価値を認められず、アイデンティティを見出せないものは、社会の一般的な価値観に刃向かうことで、自己の価値を保とうとする。こうしたカウンター・アイデンティティは、社会から見捨てられたものにとって、自分の人生を逆転させ、自分の価値を取り戻すような歓喜と救いの源泉ともなるのである。誰からもまともに扱われなかった存在が、受け入れられ、認められたと感じるとき、そここそが生き場所となる。」
岡田尊司『マインドコントロール』(2016年)17頁)

「非常に自己本位で、しっかりとした自己主張をもつかに見えた人が、マインド・コントロールされてしまうというケースが増えている。
そうしたケースで認められるのは、自己愛のバランスが悪いということである。彼らは、一方では、心のうちに誇大な願望をもち、偉大な成功を夢見ているが、同時に、他方では、自信のなさや劣等感を抱えており、ありのままの自分を愛することができない。誇大な理想を膨らませることで、どうにかバランスをとろうとしている。」

(岡田前掲書85頁)



9 小括、そして、発達障害愛着障害との関係~「複雑性PTSD」



以上のとおり、瞑想や仏教にはまる人には、自閉症等の発達障害ないしその傾向があるように思われます。

そうなると、「「瞑想/仏教と家族」に関する素描」の中で、触れた愛着障害等の家族関係の問題との関係はどうなるのかとの疑問が湧くかと思いますが、愛着障害発達障害が複合化する例が多いことが知られています。



「受診に至る発達障害の患者さんは、発達障害そのもののことだけで受診することはまずなく、必ずほかの問題を抱えています。何らかの適応障害を起こしていて、それが一定のレベルを越えたために受診に至ることが多いのです。(略)

生育の過程で何らかの愛着課題があり、それが原因で虐待やネグレクト、いじめなどを受けたり、複雑性PTSDを生じたりした人もいます。」

岩波明監修『おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線』(2020年)79~80頁)

発達障害のある子は、目が合わないし抱っこもしにくいなど、育てにくい面があります。親からすると、なかなか愛情を感じにくい、ということにもなりかねません。あるいは、親にも何らかの発達障害があり、愛着の発信が難しい場合もありますが、親自身がそれを捉えられていないこともあります。そのようなことが重なると、愛着課題が生じるようになります。」

岩波明監修前掲書83~84頁)

発達障害は子ども虐待の高リスク因子であり、子育て困難を招き寄せやすい。しかし、子ども虐待の後遺症として生じる愛着障害の臨床像は発達障害に類似した臨床像を示す.両者ともに世代を超えるので、何代かにわたったときには、どちらが一義的であったのかまったくわからない状況が生じる。このような症例において親子とも、発達障害と複雑性 post‒traumatic stress disorder(PTSD)の両方の臨床像が認められる。社会性や共感性の障害つまり autistic spectrum disorders(ASD)症状、(解離も加算された)不注意および転導性の高進、衝動傾向、がまんのできなさなどの attention deficit hyper activity disorder(ADHD)症状とともに、フラッシュバックや気分変動、ときには解離性幻覚など、複雑性 PTSD の臨床像を同時に呈するようになる。

もともと発達障害があってそれに子ども虐待が加わっているのか、愛着障害から発達障害の臨床像が生じてきたのかという鑑別について、筆者は非常に悩まされてきた。」

杉山登志郎「複雑性 PTSD への簡易トラウマ処理による治療」『心身医』第59巻3号(2019年)219頁)



瞑想会等で出会った「頭がよいのに、生きづらさを抱える人」は、ほぼ未成年期の親子関係に問題があった人であり、前記の各記述を踏まえると、発達障害の傾向のあるところで、親として、育てにくかったことから、愛着の問題が生じてしまったという人が少なくないのではないかと思われます。

瞑想は、うつ傾向を改善するにあたり、相応の合目的的な方法であるとは思います。(注10)

しかし、薬も過ぎれば毒と言うとおり、瞑想には副作用もあり、やればやるほどよいというわけではありません。(注11)

この種のやり過ぎが起きる理由は、瞑想を実践する人自身が、自分の抱えている問題がいかなるものであるかについて、十分把握していないまま、劣等感を慰撫するため、安易に宗教的な目標に向ってしまうこともあるのではないでしょうか。

マインドフルネスを含めた瞑想の研究は進展しているものの、当の実践者の抱える精神の問題それ自体に焦点を置いた研究は余りないように思われます。

まったく拙い考察であり、ご批判を受けながら随時改訂をしていきたいと思いますが、前稿の「「瞑想/仏教と家族」に関する素描」と合わせ、瞑想を実践する人が、自分自身の抱えている問題それ自体にアプローチをするヒントとなれば幸いです。



10(補論)仏伝に見る釈尊発達障害の可能性



仏教の教義の大元である釈尊は、自閉症等の発達障害の傾向があったかは興味を引く問題ですが、仏伝に一応、それなりの信用性があると考えた上で、発達障害の視点で見ると、興味深いのは、母親である摩耶夫人の出産時の年齢です。

正直、手元の資料が乏しいのですが、信用できそうなネットの情報をいくつか見てみると、釈尊の実母である摩耶夫人が、釈尊を生んだときの年齢は35歳以降であるとされます。

この点、自閉症等の発達障害の要因については、未だ十分解明されていないのですが、高齢出産は一般的に自閉症のリスクファクターとされており、母親が35歳以上の場合は,相対リスクは1.5~3.4であるとされています(注12。因みに父親の場合,10歳毎にリスクが2倍以上になるとされます)。

釈尊自身も、高機能発達障害であり、脳内のネットワークの相違から、当時の周囲の人との間に違和感があって、過剰適応を試みたものの、耐えきれず、修行の旅に出たのかも知れません。

愛着の問題も同様ですが、仏伝も、釈尊の精神的な問題の機序を考えると、意外に合理的なところもあるように感じます。



本文以上



(注1)金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)が詳しい

「現在では、自閉症は先天性の障害であり、育て方が原因ではないとする見解が多く受け入れられています。」(109頁)

「脳内のネットワーク構造が定型発達者とは異なっていることが、成人を対象とする脳画像研究や死後脳の研究から、自閉症の脳の特徴としてほぼ定説となっている」(126頁)

自閉症の人にとって社会的コミュニケーションは、脳科学的に見ても最も難しい脳の作業と言っていいでしょう。」(131頁)

(注2)スティーブ・シルバーマン(正高信男 入口真夕子訳)『自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実』(原著2015年、ブルーバックス版2017年5月20日)58頁

(注3)金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)62頁、66頁

(注4)星野仁彦「ひきこもりと発達障害」『ひきこもり支援者読本』26頁

(注5)原初的な仏教で説く、「一切皆苦」の詳細については、本ブログの「仏教における生命/世界の否定と肯定」の記事を参照
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/02/01/195551

(注6)https://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/boshi-hoken07/h7_02a.html

(注7)ツイッターで、仏教や瞑想等に興味を持っている人のプロフィールやメッセージを見ると、自閉症(ASD)、注意欠陥多動性障害ADHD)等である旨表明する人も多い。内容的な正確性の問題はあるものの、相当数あることからすると、実際に、発達障害の人も多いのではないかと思われます。

(注8)悟りなどとされるものは、単なる脳内の生理現象であり、そのようなものを求めて時間を空費することは、それ自体、病的なものといえます。

仏教における「悟り」と呼ばれるものの生理的な機序の理解については、当ブログの次の記事を参照して下さい。

扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/30/204146

(注9)坐禅等の瞑想の積極的な効果については、次の本ブログの各記事を参照していただければ幸いです。

扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342

「姿勢を正すことによるテストステロンの分泌等――坐禅の生理学的効果(4)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/01/16/162044

(注10)瞑想の副作用については、次の本ブログの次の記事を参照していただければ幸いです。

【参考資料】瞑想の副作用
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/14/210348

(注11)藤原武男、高松育子「自閉症の環境要因」『保健医療科学』59巻4業(2010年)334頁
https://www.niph.go.jp/journal/data/59-4/201059040004.pdf





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「瞑想/仏教と家族」に関する素描

瞑想や仏教の問題は、私にとっては、親子関係を中心とする家族関係の問題でもあり、さらには、恋愛や性愛にも連なる問題でもあると考えていて、現時点での自分なりの考察をまとめてみました。



本稿の構成
1 はじめに
2 親子関係と心の問題
3 親子関係の問題と一切皆苦的価値観
(1)価値観としての一切皆苦
(2)親子関係の問題による一切皆苦的価値観の形成
4 親子関係の問題と道徳主義的世界観/べきの専制
5 親子関係の問題と劣等感=優越感の補償への渇望
6 僧侶によるモラハラ問題
7 対応の方策
8 (補論)仏伝と親子関係の問題



1 はじめに



私にとって、瞑想と仏教に関する問題は家族の問題でもあります。

まだまとまりきってはいないのですが、いったん文章にすると自分自身の考えがまとまったり、足りない所が見つかることがあるので、将来的に修正することを前提として、とりあえず、今考えていることを書いてみることにしました。

このようなものですから、大変、心もとないものですが、引用は詳しくしていますので、幾分かの参考になるのではないかと思います。

私が、このような問題意識を持つようになったきっかけは、40歳台になり、坐禅会や瞑想会を巡るようになったことです。

私の場合、当初の主たる目的は、中高年の孤独対策としての「友達作り」でした。

ですから、坐禅・瞑想それ自体よりも、その際に出会った人と交流することが楽しみでした。

そのような交流を重ねる中で、当たり前と言えば、当たり前ですが、うつ病統合失調症等の精神障害を患っている人や、そこまでいかずとも「生きづらさ」などの何らかの心の問題を抱える人と接することが多くなりました。

中には、生育歴を含めた人生遍歴について語ってくれる人もいて、自分の視野が拡がり、興味深く聞いていたのですが、その中で、幼少期に両親の離婚や、親からネグレクト等の何らかの虐待を受けた経験を語る人に出会うことが毎回と言ってよいほどありました。

また、私は、一時、在家禅の会員となって活動していたことがありました。(注1)

最終的に、私自身の考え方の変化や組織のあり方が合わず、辞めることにしたのですが、活動中、その代表者の弟さんと話をした際に、代表者の父親の兄弟間の差別があったことを知りました。弟さんの「ずっと兄貴を恨んでいた」との言葉は今でも印象に残っています。

私を在家禅に誘った職場の先輩は、私の職場でも出世した人で、何が不満で在家禅などに入ったのか不思議でしたが、勧誘に熱心だったことから、ある日、自分の母親を会員に入れ(代表者は「会員を増やすことが利他行だ」と言う人でした)、私も接することになったのですが、おそらくADHDの類の方と思われ、職場の先輩は一種のヤングケアラーの状態だったのではないかと想像させられました。

顧みると、私自身も、幼稚園頃から、友達ができにくく、生きづらさを感じることがあり、また、父親が戦中派で、世代的な感覚のほか、ニューギニアという悲惨な戦地にいたPTSDの類もあるのだと思うのですが、父親とも折り合いが悪く、瞑想会や在家禅で出会った人たちが親子関係など家族関係の問題のあったことに自分自身を照らし合わせると、私が坐禅等を始めたことも納得できてしまいました。

私を含めた、このような事例に接したほか、精神障害の原因として家庭環境がよく挙げられることもあり



未成年期の家庭環境の問題→心の問題→瞑想等の実践・仏教等の宗教的救済への欲求



という定式があるように感じられるようになりました。
そのうち、坐禅・瞑想それ自体より、これを実践する人の生育歴等を含めた人生遍歴に対するヒューマンインタレストの方が増すようになりました。

在家禅を辞めた後に、Twitterを始めたのですが、そこでの瞑想実践者や仏教徒、更には、僧侶の人(特に、実家が在家で自覚的に仏教を信仰するようになった人)のツイートを見ると、やはり、親が毒親である、親から虐待されたなどといった話がこぼされることが少なからずあるのを目にするようになりました。

もっとも、親子関係に問題がない人が珍しいとはいえ、やはり、極端な事例が多く、「瞑想・仏教」と家族関係との関連性は、無視できないものと思っています。(注2)



2 親子関係と心の問題
 


未成年期の家族関係、特に親子関係が、青年期以降も影響を及ぼし、精神障害等の心の問題の有力な要因となりうることはよく知られているところかと思います。

たとえば、一般論としては、次のものが簡潔にまとまっています。



「児童期から青年期の親子関係は変化すると言われている(Steinberg、 2001)。

青年期は家族の監督から離れ1人の独立した人間になろうと心理的に離乳していき、親子間葛藤が生じやすくなることが指摘されている。(略)
子どもと母親、男女双方とも…

母子間葛藤が抑うつ・不安、不機嫌・怒り、無気力に影響を及ぼしていた。

子どものすることに対して、なんでも母親の考えたようにさせるというような子どもの行動を統制しようとする母親の養育態度は、母子間の葛藤を引き起こし、その葛藤が抑うつや不安な気持ち、不機嫌や怒りの感情、無気力な気持ちを引き起こすと推察される。」
(渡邉賢二、平石賢二「児童期後期における養育態度と親子間葛藤(2)―心理的ストレス反応との関連―」(2016))
https://confit.atlas.jp/guide/event/edupsych2016/subject/PB02/date



さらに、瞑想の実践をする人には、不安感が強いと思われる人が少なくありませんが、不安症群・不安障害群の環境要因としては親の過保護、親の喪失、身体的・性的虐待が挙げられていることが興味深いものがあります。



「この症患群の共通の特徴は、「過剰な恐怖および不安、そしてそれらに関連する著しい行動上の障害(回避行動など)」である。DSM-5では、恐怖と不安について、前者は“現実の、または切迫していると感じる脅威に対する情動反応”、一方、後者は“将来の脅威に対する予期”と定義している。(略)
扁桃体の過活動や前頭前皮質の機能不全が想定されている(略)。なお、気質要因としては否定的感情(神経症的特質)と行動抑制が、環境要因としては

親の過保護、親の喪失や身体的・性的虐待

がある。」
(尾崎紀夫・三村將・水野雅文・村井俊哉『標準精神医学第7版』(2018年)250~251頁)



3 親子関係の問題と一切皆苦的価値観



(1)価値観としての一切皆苦



仏教では、一切皆苦が基本原理の一つとされ、病気、老い、死といった典型的なものだけでなく、生きていることそれ自体を含め、あらゆるものが不満足で、無価値であり、私達の人生や、もちろん、その人生を取り巻く目の前に展開する世界の存在も不満足なものであり、無価値であるとされます(注3)。

しかし、価値観は個人の好みの問題ですから、人生や世界を不満足だと思いたい人は、思えばよいし、満足すべきものと思いたい人は、満足すべきものとすればよいだけの個人の好みの問題のはずです。

個人の好みの問題を基本的な原理とすることがそもそも間違っているのではないかと思われます。

仏教では、輪廻(生れ変わり)により、生存状態の苦が継続することから、そこからの解脱を目指しますが、「輪廻による生存状態の継続」を否定的に評価する価値観は、インドでは一般的なものではありませんでした。



「(バラモン教における)カルマン・再生の理論と、生存の反復継続を楽しく受け入れ喜んで承諾するという態度とを結合させることは、一貫性に関する論理上の問題を引き起こすことはないであろう。結局のところ

人生は苦より楽の方が多い

ということになる。実際、我々の乏しい証拠から判断すると、初期ヴェーダ時代における人生の評価はそれほど否定的なものではなかったようであるし、また、はるかに後代の中世ヒンドゥー教では

人生は苦であるという提言は人々の注意をほとんど惹かなかった

ようである。」
(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』(2005年、原著1998年)82頁)



そもそも、ほとんどの人は、永遠に生きられるのであれば、どんな形であれ、生きたいと思うものではないでしょうか。

そのことは、仏教における輪廻思想が、生命に価値を置く中国において、生命の永続性の原理として、仏教受容の根拠となったことからも、明らかであると思われます。



「中国の知識人がはじめて仏教に接したとき、その教義の中心をいずこに求めたか。袁宏(えんこう)の『後漢紀』は仏教の大意を殺瞑して、「おもえらく、人死するも精神は滅せず、随いて復(ま)た形(身体)を受く。……故に貴ぶところは、善を行い道を修め、以って精神を錬してやまず、以って無為に至り、仏たることを得るに在り」といい(略)

この歴史的な過程を通じて、インドの人生観と中国のそれとが、まったく正反対の方向にあることがうかがわれるであろう。インド人にとって輪廻転生の説は「せっかく死んでも、また苦しい人生をくりかえさなければならぬ」という恐怖の対象となった。ところが

中国人は、これを「いちど死んでも、また生きられる」という福音として受け取った。

そこに、」人生を本質的に苦と見るインド思想と、人生を楽しかるべきものと見る中国思想との、あざやかな対照を発見することができよう。」
(森三樹三郎『老荘と仏教』(2003年)128~133頁)



一切皆苦が、普遍的な原理ではなく、価値観の問題に過ぎないのであれば、なぜ、仏教を信奉する人が、そのような価値観を是とするようになるのかが、問題となります。

人格の形成の要因は、遺伝等器質的要因と環境の相互作用とされます。

仏教的には、前者が因、後者が縁でしょうか。

後者の環境的な要因としては、先に見た精神障害などの心の問題の要因ともなる親子関係の問題ではないかと思われます。



(2)親子関係の問題による一切皆苦的価値観の形成



 
親子関係の問題が、その子どもの精神疾患や心の問題の要因になり得ることは、前記2のとおりですが、さらに、子どもの人生観・世界観を否定的なものとする影響を与え、これが仏教における一切皆苦という、生きることすら、不満足なものとしてみる価値観と整合し、このことが、親子関係に問題を抱える人が、仏教を合理的なものとして捉える有力な理由になっているのではないかと思われます。

特に、次の資料は、厚生労働省のウエブサイトに掲示されているものであり、若干長いもののよくまとまっています。



「子どもの発達には素因も環境因も互いに関連することは周知の事実である。(略)
養育者に抱かれて授乳されると新生児は養育者の働きかけに反応し視線を合わせ(アイコンタクト)、声やにおいを識別するなど、ある程度の親子相互関係が成立し、この母子間相互の働きかけはエントレインメント、と呼ばれる。このような生理的身体的欲求が満たされてもらうというこのプロセスの重複が精神的安らぎも与えることに繋がり乳児は自分が置かれている世界や親がくれるものを信頼するという感情や自分の存在を肯定的にとらえる自己信頼感が養われるようになる。
これがその先の人間関係に大きな役割を果たすと言われている。(略)
乳児の精神的健康のためには、重要他者である

親との関係が密接で満足に満ちたものであることが必要

であり、これが何らかの理由で

欠如した場合は精神的不安定

となり、その後の

人格形成にも大きな影響

が及ぶ。ボウルビーは乳児が親に愛着を覚えるのは食欲などの生物学的本能を満たすだけではなく母親への愛着行動自体が根源的欲求であるとし、これをアタッチメントと呼び、エリクソンは基本的信頼感と評した。」
(標準的な乳幼児健診に関する調査検討委員会「養育者のメンタルヘルス」323頁)
https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000520616.pdf



母子関係が「自分が置かれている世界」に対する信頼感、「自分の存在を肯定的にとらえる自己信頼感」に関わり、その満ち足りた関係が欠如した場合には、「精神的不安定となり、その後の人格形成にも大きな影響が及ぶ」との指摘が興味深いものと思います。

つまり、母子関係が不安定であったような人は、人生や世界の価値を否定する「一切皆苦」的な価値観が形成されやすいといえます。

次の初塚眞喜子「アタッチメント(愛着)理論からアプローチする心理臨床」もわかりやすい記述で、若干長いですが、引用します。


「乳幼児期の養育者とのアタッチメント関係によって、子どもの中に、自己と養育者に対する肯定的イメージ(作業モデル)が内在化された場合には、成長後、無意識のうちに自己と他者一般に対する肯定的イメージ(「自分は他者から受け容れられる存在である/他者は信頼できる存在である」というイメージ=後述のポジティブ型内的作業モデル)をもって他者の行動を予測・解釈するようになるため、良好な対人関係を円滑に構築することが可能になるとされる。
反対に、乳幼児期のアタッチメント関係によって

自己と養育者に対する否定的イメージが内在化

された場合には、成長後、無意識のうちに

自己と他者に対する否定的イメージ

(「自分は他者から受け容れられない存在である/他者は信頼できない存在である」というイメージ=後述のネガティブ型内的作業モデル)をもって他者の行動を予測・解釈するようになり、他者との間での良好な関係性の構築が困難となるという。
そして、(略)乳幼児期のアタッチメント関係によって内在化される自己と他者一般に対するイメージ(内的作業モデル)は、新たな満足できる人間関係(緊密な友人関係や恋愛関係、夫婦関係等)の構築・維持を経験し、そうした関係性の中で新たなアタッチメント対象(心理的安全基地)を得ることで変化しうると考えられているが、一般には、相当程度の継続性・安定性を有しており

子どもの対人関係スタイルを生涯にわたって持続

させる機能を果たすものと考えられている(略)。
以上のように、乳幼児期における養育者とのアタッチメント関係は、子どもの成長後の対人関係スタイルの規定要因になるという形で、子どもに生涯にわたって影響を及ぼしつづけることになるとされている。養育者を「物理的安全基地」として利用する体験を積み重ねることによって、自分への自信と他者への信頼がイメージとして内在化され、成長後は、そのイメージを基盤として他者との関係性を構築していくのである。

(初塚眞喜子「アタッチメント(愛着)理論からアプローチする心理臨床――事例検討および支援のあり方に関する試論的考察――」『愛媛大学研究論集』2010年3号・55~56頁)
https://soai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1217&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=17



以上の指摘からも、乳幼児期からの親子関係において、安心できる親子関係が形成されていないと、その後も、子供は、外界で安心して活動できず、他者との間での良好な関係を構築することができなくなるものとされ、このことが、世界に対する否定的な感情や、生きづらさと結びつき、さらには、一切皆苦的な世界観や人生観に結びつくものと思われます。

また、仏教、あるいは、宗教がアガペー的な愛を希求する面があることも、乳幼児期にきちんと親から愛されなかったことを背景にあるものと考えることと整合するように思われます。



4 親子関係の問題と道徳主義的世界観/べきの専制



仏教に限らず、宗教は、教義を提示し、それに従って信者の生き方に一定の義務づけをするものです。

人間は、欲求に従って生きるものであり、前実定的な正しい規範などは存在しません。

本来、義務づけを拒否して自由に生きたいものです。

しかし、宗教を信奉する人は、その義務に自ら従い、つねにそれを優先することが個人的な価値だという道徳主義的世界観の持ち主です。

もちろん、その従うべき規範は、本質的に正しいものではあり得ないので、奇妙な思考といわざるを得ません。

このような「こうしなければならない」と考える考は、「べきの専制」と言われ、このような思考が形成される要因も、子の親に対する信頼関係の喪失であるといわれています。



「“追従”は、“信頼”“自律性”“主導性”を低め、これら3段階はそれぞれ前の段階から影響を受けるが、“べき”を直接低めるのは“自律性”のみであった。つまり“志向性”は“暖かさ”によって高められた“信頼”“自律性”“主導性”からそれぞれ規定されると解釈された。一方“追従”によって“信頼”が低められるとその影響で“自律”も低められ、そのことで“べき”が高まることが示された。(略)
Horneyによれば、“べき”は“あるがままの...姿など忘れてしまえ...この理想化された自己になることこそが重要”(Horney、 1950 榎本・丹治訳 1998、pp.70-71)という自己否定の感覚である。つまり

基本的信頼感が低く自己受容できないことや、意志を発揮できないこと、罪悪感にとらわれることは、“べき”の形成と関連する

と考えられる。(略)
“自由選択の自律を、適切に導かれながら徐々に経験することができなかったり、あるいは信頼を早い時期に喪失することによってその経験が弱められたりすると、敏感な子どもは、識別し操作する自分の衝動をすべて自分自身に向けてしまうことがある。(略)
より原初的で厳格で自我を妨げる “べきの専制 ”は自律性の形成に深く関わるのではないだろうか。
まとめると、本研究で検討した要因に限って言えば、暖かさや追従傾向のない家庭の雰囲気を背景として高められた基本的信頼に下支えされた意志(自律性)や目標(主導性)が高いことは、青年期の “志向性 ”、つまり未知なる世界に向けてやりたいことを探し進む力と関係すると考えられるし、主体性を失った、~すべきという観念にとらわれるような “べき ”を低減させると考えられる。」
(茂垣まどか「志向性とべきの専制の形成因の検討 ――幼少期の家庭の雰囲気と自我発達の様相――」『立教大学心理学研究 56号』(2014年)19~20頁)
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=9033&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1



言葉の語呂のようなところもありますが、暖かく育てられず、自由選択の自律を育てられなかった子どもが、「識別し操作する自分の衝動」に問題を生じるという表現は、(大乗)仏教における「分別」等の分析的思考への警戒心に近似するものと感じます。

人生を楽しくのびのびと生きるものではなく、生きざるを得ない義務としてとらえられるのであれば、それは、苦痛であるとしかいえないでしょう。

「道徳主義的世界観」や「べきの専制」も、一切皆苦の発想と結びつくといえます。



5  親子関係の問題と劣等感=優越感の充足への渇望



仏教の実践について、治療的なものと捉える見方(注4)があり、私は、こちらの方が事態の適切な捉え方ではないかと思うのですが、一般的には、悟りや解脱等の特別な地位に到るものであるとの見方が多いかと思います。

しかし、私も、多少は「特殊な体験」をした人に会いましたが、そのような人が人間としての性能が高いかというと微妙で、よくても、精神的な問題が快方に向かったことから、その本人の主観では、相対的に能力が上がったような気分になるのが実際ではないかと思います。(注5)

それはさておき、実際に、瞑想の実践をする人を見ると、生きづらさを抱え、その解消のために実践を始めた人には、次第に、悟り、解脱などといった特別な境地を目指すようになる人が少なからずいます。

問題を抱えた弱者が、ある種の超人を目指すようなもので、一種の「はじめの一歩」的願望ですが、心の問題を抱えた人が、同時に、超越性の願望というものを抱きがちであることは、河合隼雄も指摘するところです



「強い劣等感コンプレックスをもつひとは、どこかに強い優越感コンプレックスをもっているのがつねである。(略)
自分のようなものは存在してもしかたないと自殺をはかったひとと話をしていると、(略)「私のように悩んでいるひとは世界中に多いことと思うが、できればそのような世界中の悩めるひとを救うような仕事がしてみたい」などということが語られる場合が多い。死ぬより外に存在価値がないというほどの劣等感と、全世界の悩めるひとを救いたいなどという優越感とが共存していることに読者は驚かれるかもしれないが、実はこのような例のほうがむしろ多いのである。(略)
自分の内部に多くのコンプレックスをもっているひとが他人のそれ(自分のではなく)気づきやすいこともある。そして、このようなひとが自分は「感受性が強い」のでカウンセラーに適していると確信しているような場合もある。前に自殺未遂をしたひとが世界中の悩めるひとを救いたいと述べた例をあげたが、このような

コンプレックスにおびやかされたひとたちが、自分の内部にたち向かってゆくよりも、外のひとたちを救うことを考える

のも、一種の投影の機制が働いているものと考えられる。」
河合隼雄ユング心理学入門』(1967年)50~52頁)



ここで、河合隼雄が、劣等感を慰撫する方法として、「外のひとたちを救うことを考える」と指摘することも興味深いところで、大乗仏教においては、利他が強調されるというのも、劣等感の慰撫という観点からすると、利他行為をす人それ自体の癒しを目的とする行為ともいえるかと思います。

さらに、岡田尊司『マインドコントロール』は、カルト宗教にはまる人の心理として、劣等感の慰撫としての優越感の充足を挙げます。



「社会において自分の価値を認められず、アイデンティティを見出せないものは、社会の一般的な価値観に刃向かうことで、自己の価値を保とうとする。こうしたカウンター・アイデンティティは、社会から見捨てられたものにとって、自分の人生を逆転させ、自分の価値を取り戻すような歓喜と救いの源泉ともなるのである。誰からもまともに扱われなかった存在が、受け入れられ、認められたと感じるとき、そここそが生き場所となる。」
岡田尊司『マインドコントロール』(2016年)17頁)



同書の次の指摘も興味深い。



「非常に自己本位で、しっかりとした自己主張をもつかに見えた人が、マインド・コントロールされてしまうというケースが増えている。
そうしたケースで認められるのは、自己愛のバランスが悪いということである。彼らは、一方では、心のうちに誇大な願望をもち、偉大な成功を夢見ているが、同時に、他方では、自信のなさや劣等感を抱えており、ありのままの自分を愛することができない。誇大な理想を膨らませることで、どうにかバランスをとろうとしている。」
(岡田前掲書85頁)



瞑想会で出会った心の問題を抱え、社会的にみれば、マイナスの人が、いつの間にやら、世間一般の人よりも超越したプラスの状態を目指す心理は、カルト宗教にはまる人の心理とも大きく変わりないように思われます。

また、ツイッターを見ると、伝統仏教の僧侶の人も、仏教の実践を経る中で、経典を読む場合にも、研究者がわからないようなことがわかるなどといった自分たちは普通の人間がわからない特別なことがわかるのだというようなことを言う人もいて、やはり、劣等感にさいなまれている人が多いのではと感じます。

瞑想指導者の井上ウィマラも、瞑想実践者の問題として、「劣等感」に触れ、それが支配に結びつくとすることも示唆的です。



「魔境とは、瞑想体験の中で出会う神秘的体験によって道を見失ってしまう落とし穴を警告するための言葉です。光が見えたり、体が軽くなったり、エクスタシーやエネルギーの流れを感じたりするような神秘体験自体は集中力のもたらす効果なのですが、自覚できない微細な欲望が残っている場合には潜在している劣等感を補償するための無意識的な取引に使われてしまい道を誤ることになりやすいものです。そして権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性をはらんでいます。」
(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号)88頁)



このような劣等感の形成される要因にも、未成年期の親との関係が挙げられます。



「こうしたパーソナリティが育まれる背景には

幼い頃から、自分を過度に抑え、重要な他者の顔色ばかりを気にしながら生きてきたという状況

が見られやすい。横暴で支配的な親の、気まぐれで予測のつかない行動に振り回されてきたという場合だけでなく、親が良かれと思ってやっていても、過保護過干渉になり、本人の主体性が慢性的に侵害されると、同じ結果になってしまう。
幼い子どもは、親にしがみつき、親に愛されようとすることでしか、生きて行くことができない。いつ親の機嫌が変わって、攻撃されたり、突き放されたりするかわからないという中で育つことは、余計に親に見捨てられまいとする傾向を強めてしまう。親の意向がいつも最優先であれば、子どもは自分で判断するよりも、親の顔色をうかがって、そこから判断するようになる。」
(岡田前掲書68~69頁)



このように、劣等感が、未成年期の親の過干渉を含めた虐待等の不適切な対応により、もたらされることは、ほかでも触れられ、一般的な考え方と思われます。

また、劣等感やその裏返しの優越感は、他者と自分とを比較する感情に由来しますが、このような比較する感情も、自尊感情が低く、抑うつ傾向の高い人に認められるとされ、3で見たとおり、親による幼少期の不適切な対応が、自己肯定感を毀損することからすると、やはり、親子関係が、劣等感の形成にあたり大きな要素となってくるように思われます。



自尊感情の低い人や抑うつ傾向の高い人は、自己についてより不確か(不安定)なため、自分についての情報を多く得るために社会的比較志向性が高いものと考えられる.また、神経症傾向の高い人は、自分の気分(mood)の状態についてより不明確である(Marsh&Webb、1996)ため、社会的比較に従事しやすい傾向と関連があると考えられる.」
(外山美樹「社会的比較志向性と心理的特性との関連――社会的比較志向性尺度を作成して――」『筑波大学心理学研究 第24号』(2002年)238頁)



6 僧侶によるモラハラ問題



ツイッターをするようになってから、僧侶の配偶者のツイートをよく見るようになったのですが、その中には、義父に対する不満が少なからずあり、また、夫である僧侶に対する不満も多くあります。

妻の義父や夫に対する不満は、ほかでも聞くことではありますが、私個人の経験に照らしても、義父母や夫の対応には、度を超えたものが多いように思われます。

また、一般的に、仏教の修行は、何らかの意味で人格の向上を目指すものと言われているところ、人格の向上を目指しているはずの人たちが、なぜ、そのような不適切な対応をするのかは、興味を惹くところです。

この問題を考えるにあたり興味深いことは、4で触れた愛着の問題が、その子供にも伝播することです。



「愛着の問題が、社会的にも重要なのは、その伝播性による。Mainが見出したように、不安定な愛着スタイルは、育児を介して世代間で伝播しやすいのである。(略)

不安定型愛着は、虐待の大きなリスク要因でもあるので、不安定型愛着の連鎖は、虐待の連鎖ともつながってくる。」
(岡田誉司「崩壊家庭における愛着障害」『日立財団Webマガジン「みらい」VOL.2』12頁)
https://www.hitachi-zaidan.org/mirai/02/paper/pdf/okada_treatise.pdf



このような愛着の問題の伝播について、考えるに当た僧侶の成育歴に逸話に接すると、貴族ではあったが、寺に出されたなどといった幼少期の両親との別れの話がよく現れ、愛着の問題を抱える人が、僧侶になった例が少なくないことがうかがえますが、比較的最近といえる昭和20年代の僧堂(禅宗の僧侶の修行場)にいる修行僧も、同様の親子関係の問題を抱える人が多かったことは、大森曹玄も語るところです。



「私は、青年時代から在家の居士として修行を始め、終戦の年、四十二歳の時に出家した。その頃でさえ寺の子弟というのは何となく陰惨だった。在家の私は、ひそかに雲水たちを羨望していた。ああいう生活はいいな、明けても暮れても坐禅三昧でおられる。ああいう生活が羨ましいなと思っていた。ところが、さて自分がその中に入ってみると、何とこの世界は陰惨な世界か。御殿女中の腐ったみたい。陰険で、どうもカラリとした男性的なところがない。何とも嫌なところだなと思ったことがある。
別に雲水の身許を調べたわけではないけれども、水上勉さんなどの書いたものをみると、どうやら自発的に禅の道に志を抱いて飛び込んできたというよりは、家に子供が多過ぎて、とても養い切れない家庭の事情から寺にやられた子供、あるいはできては困るところにできた子供、そういった子弟が寺にもらわれて小僧になったという虐待されながら育った人が多かったらしい。当時は花園大を卒業してきた者よりは、寺の小僧出身の方が多かったようである。そういうような境遇の出身だから何となく位。それで妙に陰険なところがあるということが感じられた。したがって、在家出身の自分から心がけて修行しようとする者の半分も道心はない。」
(大森曹玄『驢鞍橋講話』(1986年)319~320頁)



このような実態に鑑みると、今日の僧侶によるモラハラ事案の要因は、世代的に伝播してきた愛着の問題によるのではと思われます。



7 対応の方策



以上に述べた瞑想実践者や仏教徒が抱えるものと考えられる親子関係の問題ですが、その要因が過去の問題である以上、その解決が困難な点があるものと思われ、その問題の困難さが、強い不安感を押さえるための瞑想のやりすぎや、特異な信仰を持つことにつながるのではないかと思います。

専門的な治療等を受ける以外での対応としては、瞑想も上げられるかとは思います。

近時、洞察瞑想が自伝的記憶に捉われる程度と関連しているといわれています。



「集中瞑想 時には洞察瞑想時と比べて、腹側線条体と視覚野の結合性が安静時よりも上昇している(略)
洞察瞑想時には(略)結合性が低下し、さらに腹側線条体脳梁膨大後部皮質の結合性が安静時よりも低下する(略)
自分の過去の経験に関する記憶に捉われる程度と関連していると考えられます。
結合性の低下の程度は、瞑想の実践時間が長いほど大きくなる。
意図的な注意の集中がゆるまるとともに、過去の経験に関する記憶に捉われる程度が低下している。」
「洞察瞑想時に自伝的記憶関連脳領域間の結合性が低下することを発見」京都大学ウエブページ『最新の研究成果を知る』(2018年)
https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2018-07-05-0



瞑想にこのような過去の記憶からのとらわれを緩める機能があることからすると、裏を返せば、仏教で問題とする苦の実体も、これまでの述べた過去の親子関係の問題であるということになるようにも思われます。

しかし、過去の記憶から楽になる目的で、瞑想をやり過ぎることが却って問題を生じさせるとの指摘もあり、深刻な人は、瞑想で対応するにしろ、精神科医等の標準治療についても知識のある専門家の指導の上で、やる方がよいように思われます。



「臨床マインドフルネスのプラクティスでは、想起される思考や感情にとらわれず、手放していくという認知的プロセスを訓練する。しかし、人によっては過去に生じたトラウマ記憶を手放すことに没頭してしまい、トラウマ記憶の否認や回避を強化してしまうことになりかねない。」
(池埜聡、内田範子「第2世代マインドフルネス」の出現と今後の展望-社会正義の価値に資する「関係性」への視座を踏まえて-」『Human Welfare 第12巻第1号』(2020年)91頁
https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=29697&item_no=1&page_id=30&block_id=85



瞑想以外の解決の方策として注目すべきは、言われてみれば当たり前かもしれませんが、親との関係の改善等の人間関係の改善のようです。



「愛着の原点は、親との関係で育まれる。愛着障害は、そのプロセスで躓いている。それを修復するには、親との関係を改善していくことが、もっとも望ましい。
親のなかには、子どもに問題が表面化したのを機に、自分から子どもへの関わり方を変えようと努力する人がいる。そうして、子どもの方も親の方も大きく成長し、関係が良い方向に変化することで、他の問題も落ち着いていくというケースも少なくない」
岡田尊司愛着障害』(2011年)257~258頁)



しかし、実際には、成人に達してからも親子関係の修復の困難な人が多いように思われます。



「しかし、その一方で、親の方も不安定な愛着の問題を抱えていることも多く、自分の問題としては受けいれようとせず、頑なに子どもの非にこだわり続け、子どもに対する否定的な態度を改めようとしない親もいる。そうした場合には、子どもは良い方向に変わろうとするたびに、再び傷つけられ、回復を邪魔されるということになりがちだ。」
(岡田前掲書258頁)



このように、親子関係の修復が困難な人にとっての次善の策は、恋人やパートナーを持つことであるとされます。



「愛着の傷を修復する過程は、それをただ自覚して認知的な修正を施せばいいという単純なものではない。(略)いくら本人が前向きに認知的な修正に取り組んでも、それだけでは愛着の傷は癒されない。
認知的な修正よりも、もっと大事なプロセスがある。そのプロセスとは、言ってみれば、幼いころに不足していたものを取り戻すことである。(略)
愛着障害の修復過程は、ある意味、赤ん坊のころからやり直すことである。
しかし、現実には、さまざまな事情やこれまでの経緯から、親が子どもにすべての愛情と関心を注ぎ込んで、とことん付き合うというのは難しい。(略)
ましてや、子どもが大人になると、親と別々に住んでいたり、親の体力的、経済的理由などで、こうした修復行為自体が不可能になってくる。その場合、親に代わって修復してくれる人が必要になる。

恋人やパートナー

がもっともふさわしい」
(岡田前掲書267~268頁)



瞑想等の仏教の実践に興味を持つ人の問題としては、仏教が出家者を理想とし、出家者には性交が一切禁止されることから、この恋愛をするという人間として極く当たり前の選択肢を意識的に排除してしまいがちに思われることです。

実際、瞑想や仏教にはまり込んでいる人の中には、一般的な恋愛などは難しいのではないかと思われる人が少なくありません。揶揄する意味ではなく、仏教等の宗教の存在意義は、それがなくなると利他行為をする人がいなくなるとの観念の宗教家は、少なからずおり、中高生頃から、ボランティア活動に携わってきた経験からすると、そんなことはないと思うのですが、おそらく、幼少時に、親から愛情を注がれなかった結果、人間不信が強くなり、人間は利己的であり、宗教などの特別な規範がなければ、利己的な行為をし続けるという観念が強く、それと同じ発想で、特別な事情がない限り、人間が愛し合うということが情念の部分で理解することができない人が多いのではないかと思います。

仏教における性交に対する消極的理解は、このような恋愛の難しい人を勇気づける意味や、また、6で述べたとおり、パートナーとの間に子供をもうければ、愛着の問題が伝播する危険があることを考慮すると相応に合理的なようにも思われます。

しかし、有力な選択肢がありながら、その可能性を検討する前から、無思慮に排除するのは、抱えている問題の解決の上では、好ましいものではありません。

私自身は、坐禅会や瞑想会を通して、未成年期に親子関係の問題を抱えている人たちに接したことを通して、自分自身の子どもたちの親子関係をみなおそうと考え、家庭に回帰したのですが、恋愛や性愛の問題について、真剣に考えるようになったきっかけも、親子関係の問題から生じる二次的な問題の有力な対応策が、恋愛だということを知ったからでした。

その意味で、私にとっては、恋愛や性愛の問題も、仏教の問題と地続きの問題になっています。



8 (補論)釈尊と親子関係の問題



これまで述べたとおり、瞑想や仏教にはまる人には、未成年期に親子関係の問題を抱えている人が多いのではないかと思われるのですが、仏教の開祖である釈尊自身が、愛着の問題を抱えていたと論じるのが、これまでも繰り返し引用した岡田尊司です。



「出家・遁世する人には、愛着障害を抱えた人が多い。その代表は、ゴータマ・シッダルタ、すなわち釈迦である。
釈迦の母親は、彼を生んだ直後に亡くなった。(略)
釈迦は自我に目覚め、自らの出自について考える青年のころから、物思いに耽るようになる。(略)釈迦はついに出家して、王子の位も、妻子も捨てて、放浪の旅に出てしまうのである。
その根底には、母親というものに抱かれ、その乳を吸うことなく、母親との愛着の絆を結ぶこともなく、常に生きることへの違和感を覚えながら育ったことがあったに違いない。
岡田尊司愛着障害』(2011年)170頁)



実際に、仏伝を参照すると、釈尊の家庭は、岡田の論じるよりも、更に複雑で問題性が大きかったことがわかります。

益田晴代「ブッダの母摩耶夫人に学ぶこれからの子育て」『身延山大学講演会講演録』(注6)によると、釈尊を産んだ7日後に死亡した母親は、元々妹と供に嫁ぎ、父親は、姉妹双方と肉体関係を持っていたとの伝もあり、釈尊の母の妹が養母となり、父親は、釈尊の母親が亡くなった後は、妹だけを愛したとされますが、釈尊としては、自己の出生を知った時、自分の母親の立場を知ったらどう思うか、何ら問題なく受容することは困難なように思われ、現代的な視点とはいえ、釈尊本人に複雑さがあったとしてもおかしくはないものと思われます。

釈尊が「物思いに耽る」ようになったきっかけも、この出生の秘密を知ったこともあるのではないかといった想像の翼が広がるところです。



本文以上



(注1)私が在家禅にいたときの状況や在家禅それ自体に興味のある方は、次の一連のツイートを参照
https://twitter.com/nichijohe/status/1427238474780794885?s=20&t=DG6x5twzK3eecYQ3DVT5eA

(注2)私自身は、本稿で取り扱う親子間の愛着の問題のほか、釈尊を含めて高機能発達障害の問題をも併せて抱える人が多いのではないかと思うのですが、その点については、他日、論じることができればと思っています。

(注3)仏教における「一切皆苦」の否定的な人生観・世界観については、当ブログの「仏教における生命/世界の否定と肯定」を参照
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/02/01/195551

(注4)仏教における治療モデル

1 佐々木閑『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』(2012年)29頁
「仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。ですから、病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院させるようなことをしないのと同じく、仏教も、苦しみを感じていない人まで無理矢理信者に引っ張り込もうとはしません。」

2 柳田聖山『禅思想』(1975年)37~38頁
「道心を起すことが、巧偽をひき起す。道心を起すことが、じつはすでに道に背くわざなのだ。(略)もともと坐禅は起こった心を静めるための対症療法であった。(略)応病与薬の法であった。乱れた心を制する技術である。応病与薬の法であった。『二入四行論』の雑録に、つぎのような問答がある。

ある人が顕禅師にたずねた、「何を薬というのです」
答、「一切の大乗は、病気に対する応急処置にすぎぬ。心そのものが病気を起さなければ、どうして病気に対する薬がいろう。有という病気に対して空無という薬を説き、有我という病気に対して無我という薬を説き……、迷いに対して悟りを説く。これらはすべて、病気に対する応急処置である。病まぬのに、どうして薬がいろう」

顕禅師もまた伝記の判らぬ人だが、その主張は縁法師と変わらぬ。(略)病まぬのに、薬はいらない。病まぬ人に薬を与えるのは、わざわざ病人をつくるようなものだ。心が起らぬのに、強いて心を起すにひとしい。われわれは、とかく病を実体化しやすい。病を実体化することから、薬の実体化が始まる。(略)病の実体化することの危うさは知りやすい。薬を実体化することの怖さは気づきにくい。」

(注5)仏教の実践により、実際には、人格が悪くなる例があることは、当ブログの「禅の修行は禅的人格を生み出せるか~瞑想と情動発現の低下」を参照。
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/02/14/211628
また、常識論ではありますが、次のような指摘があります。

1 河合隼雄ユング心理学と仏教』(1995年)37頁
ユングも言っていることですが、偉大な人も近くに寄ると「影」が見える。日本に住んでいると「偉大な」禅の師について見聞することもあります。そうすると「悟り」を啓いても利己的な面はそのままである点などがわかって疑問を感じてしまいます。」

2 プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』(2016年)215頁
「「私が言うとおりに実践すれば、全て上手くできますよ」といったことを、瞑想指導者が言葉の上では主張しているのだけれども、ご本人の現実の振る舞いにおいては、その理想が言葉のとおりにまるで実現できていない、といった事例を、私はたくさん見てきました。「瞑想の先生を選ぶ際には、その先生の『発言』だけではなく、その人の『為人』、つまり本人の現実の振る舞いを、よく観察して判断してください」と私が強調するのには、そういった背景もあるわけです。」

(注6)『身延論叢第24号』(2019年)
https://minobu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1756&item_no=1&page_id=13&block_id=21





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禅の修行は禅的人格を生み出せるか~瞑想と情動発現の低下

「とある禅僧に会ったところ、それまでの禅僧に対するイメージが変わった」との非禅宗系の僧侶の人のツイートを目にしました。
 元々の禅僧に対するイメージが余程悪かったのでしょうか。
 昔から、禅僧の人格に対する批判をする人は相当いることから、悪い禅僧のイメージが形成されたのではないかとも感じます(ツイートをした人の立場からすると、もっと強烈な二次情報などに触れられたのかも知れませんが)。
 日本では、禅の修行の目的は、一般的に人格の向上にあるなどと言われます。
 しかし、それでは、なぜ、それとは反対の人格的に問題のある人物が生まれてしまうのか。
 以前の記事にも少し取り上げたことがありますが、脳生理学に関する文献等に当たってみると、坐禅等の瞑想それ自体に問題があるように感じられます。
 とはいえ、私自身は、職業人、家庭人であり、中々突っ込んだ研究、というか、勉強ができず、行き詰まりも感じており、前回と同様、この際、今までのところのものをまとめてみて、ご批判・ご指摘をいただいて(ツイッターを使用しており、@nichijohe宛にDMを送信していただければ幸いです)、それを端緒にして補充したいと思い公開することと致しました。



本稿の構成

1 禅的人格と矛楯する禅僧の存在
2 扁桃体の活動低下による情動発現の低下~そのメリットと人格的な問題の生じる機序
3 (補論1)上座仏教における悟りと瞑想実践における問題
4 (補論2)坐禅否定の系譜



1 禅的人格と矛楯する禅僧の存在



 一般的に、日本の禅宗では、禅は何らかの人格の向上を目指すものだとされ、具体的には

「否定的で消極的な空論を突破し、自由な境地を確立して
≪現実に利他活動を自在に実践≫
できること」

であるなどとされます。(注1)(注2)
 しかし、禅僧については、理想とされる利他的な性格とは異なる人格的に問題があるとの指摘がよくなされます。
 たとえば、小説家の司馬遼太郎は、京都の支局に勤務していた新聞記者時代をふり返り、次のように言います。


  
「新聞記者をやっていたころ、職業上の必要から
禅宗の坊さん≫
にずいぶんと会いましたけれども、何人かをのぞき
≪これは並以上に悪い人間じゃないか≫
と思うことが多かったです。」
司馬遼太郎『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』(1971年)65頁)



 また、久松真一の許で禅を実践し、禅淨双修を唱えた西山浄土宗法主藤吉慈海も、禅の修行者の人格的問題を取り挙げます。



「禅は、徹底的に否定道を行くので、自己の煩悩を断じ、大智と大悲にめざめんとする。徹底した大悟の人においては、この大智と大悲が完全に調和して、人間の真のあり方を自ら示してくれるが、なかなかそこまで徹底する人はすくない。とかく個性的な性格をそのまま発揮して
≪ひとりよがり≫
になってみたり
≪高慢な性格≫
を助長したりする。そして、一般には智慧の面は深くとも
≪慈悲の面に欠け≫
がちである。」
(藤吉慧海『禅と浄土教』(1989年)101頁)



 さらに、臨済宗の師家をしていた秋月龍珉(注3)は、公案過程を終了した者に対するものですが、次のような論評をします。



「正直に告白すると、著者は公案禅というものに対して深い疑いをもった時代がある。それは、公案体系に参じて大事了畢したと称する者について、その行裏(あんり。行ないの後の意)を見ると、そこにやはり煩悩の習気(じっけ。残り香の意)が、自我の分別が、明らかに見て取れるからである。そこには、いみじくも外国の好人が言ったように
≪「鼻もちならぬ禅臭」≫
があって
「無我」であるはずの仏道を「大我禅」≫
に落としてしまっている(略)
 公案だけではたして
≪本当に禅的人格が練出されるだろうか。≫
 世のいわゆる大事了畢底なる人々を見て、私はそうした深い疑いを抱いた。」
(秋月龍珉『公案』(1965年)333~334頁)


 
 利他活動を行う高度な人格者、それを目指し、実践の体系が作られているはずなのに、なぜ、それとは矛楯する人格を有する者が生まれてしまうのか。
 特に、秋月龍珉の批判は、臨済禅の修行を一応完了(大事了畢)した者に対するものですから、そもそも実践自体に問題があることになりかねないものです。
 このような矛楯する結果が生じる要因は、日本の禅宗の修行の中核に据えられる坐禅それ自体にあるのではないかと考えています。


 
2 扁桃体の活動低下による情動発現の低下~そのメリットと人格的な問題の生じる機序



 一連のブログで繰返した話ですが、坐禅等の瞑想が、うつ病等の心の問題に有効となる機序の一つとして、呼吸を緩慢にすることで呼吸回数が低下すると血中二酸化炭素濃度が上昇して、不安感を司る脳の扁桃体と呼ばれる部位の活動が低下し、この結果、うつ傾向の改善が図れるというものがあります。

【参考】扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342
 
 この扁桃体の活動ですが、活動する場合には不安感が生じる以上、活動が低下するほどよいのかといえば、そうではなく、その活動が障害されると、情動発現の障害が生じると言われます。



「≪扁桃体を損傷≫
された動物およびヒトは,生物学的価値評価に基づいた
≪情動発現が障害≫
され,過去の記憶に基づき,自己に利益をもたらす可能性のあるものに対しては快情動を,逆に,不利益をもたらす可能性のあるものに対しては不快情動を発動することができない。」
(西条寿夫,堀悦郎,小野武年「ストレス反応の身体表出における大脳辺縁系視床下部の役割」『日薬理誌』126号(2005年)185頁)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fpj/126/3/126_3_184/_article/-char/ja/

「情動における脳機能では,扁桃体が情動記憶の形成と価値判断においてシステムの中心といわれている(略)。
扁桃体の機能障害があること≫
が(略)残存している認知症高齢者の
≪情動に何らかの影響≫
を及ぼしていると考える。」
(占部美恵「認知症の看護~脳の残存機能を活かしたBPSDへ対応を目指して~」『京府医大誌』(2012年)121号)

扁桃体は、不安や恐怖などの感情を感じた時に活動することが知られています。過度な不安や恐怖が症状であるうつ病、不安障害やPTSDといった精神疾患においては、扁桃体の活動が過剰であること知られています。反対に
統合失調症自閉症に認められる感情や対人コミュニケーションの障害が扁桃体の活動の低下と関連≫
していることも知られています。」
独立行政法人 放射線医学総合研究所分子イメージング研究センター 菅野 巖 センター長ほか「感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明」(2011年))
https://www.jst.go.jp/pr/announce/20100224/index.html



 1番目と2番目の記述は、扁桃体の損傷や機能障害に関するものですが、ここからは、扁桃体の機能が低下しすぎれば、感情の表現ができにくくなるものと推測されますし、最後のものも、扁桃体の活動の低下と感情の障害に何らかの正の関係があることをうかがわせます。
このような扁桃体の活動の低下と感情の低下との間の正の関係から、坐禅等の瞑想により扁桃体の活動が低下すると、感情表現ができにくくなり、他者とのコミュニケーションに当って、適切な感情表現ができにくくなることが推測されます。
 上座仏教における悟りの内容は、貪・瞋・癡の壊滅とされ(注4)、最後の癡は少し毛色が違いますが、前2者は、欲求、そして、怒りという感情を問題とするところ、坐禅等の瞑想に興味を持つ人は、自分の過剰な感情に振り回されて負担に感じていると思われる人が少なくないように思われ、このような人にとっては、自分の感情が出にくくなっていくことは、心を楽にするものといえます。
 このような効果の期待できることからすると、自分の感情の制御に困難があり、これを鎮めたい人にとっては、坐禅等の瞑想をすることは合目的性があると思います。
 また、感情に振り回されている状態から穏やかになるのであれば、他者とのコミュニケーションも相対的に円滑になるものと思われ、禅的人格の形成と結びつき、坐禅を実践することの合目的性も認められるといえます。
 坐禅等の瞑想に嵌まる人は、このような実際上の効果を感じることから、はまり込むのではないかと思います。
 しかし、それで気を良くしてやり過ぎ、ある限界を超えてしまうと、感情表現に支障が出る可能性があるといえるように思われます。
その上、感情表現に支障が出ると、他者の感情が読み取りにくくなるものとされています。
 この点、池谷裕二『脳には妙なクセがある』に美容製品の「ボトックス」に絡めながら次のような話が記載されています。



「美容に興味のある女性であれば、ボトックスをご存知でしょう。肌の老化を防ぐとされる魔法の物質です。
実際には、ボトックスは食中毒の原因として知られるボツリヌス菌の毒素です。この食中毒は、症状が軽微な場合は四肢の麻痺ですみますが、ひどい場合は呼吸ができず死に至ります。つまり、ボトックスは筋肉を弛緩させる作用があるのです。
 この毒素を顔に注射すると、顔面筋の動きが鈍りです。だからシワができにくくなります。これが老化予防の原理です。表情が乏しくなるという欠点はありますが、美貌の劣化を恐れる富裕層や芸能界を中心に広く用いられています。
 そんなボトックスの効果に関して、南カリフォルニア大学のニール博士が、興味深いデータを報告しました。ボトックスを使用すると、相手の感情を読みにくくなるというのです。(略)
 ニール博士はこのデータを「無意識のうちに相手の表情を模倣しながら、相手の感情を解釈している」と説明しています。
池谷裕二『脳には妙なクセがある』(2013年)136~137頁)

 

 このようなことからすると、坐禅等の瞑想を繰り返すうちに、適切な程度に感情が鎮まってくる程度を超え、これが過剰になると、自分自身の感情表現に支障が生じ、同時に、他者の感情の理解にも支障が生じてくることから、状況に応じた適切な感情表現ができにくくなり、コミュニケーションに支障を生じるものと推測されます。
 これが禅の修行をする人達に却って人格的な問題が生じる機序になるのではないかと思われる、ということが今の所までで考えていることです。
 日本の禅宗を含めた大乗仏教の世界では、「煩悩即菩提」と言われ、これも多義的な概念ですが、感情が失われていくことによるコミュニケーション上の支障の生ずることへの警戒の趣旨であれば、理由のあるものと思われ、臨済宗建長寺派管長であった菅原時保の次の話も、このような文脈で言ったとするなら、素直に首肯できるところです。

「元より本性は無病健全である。然るに可愛いと云うそれを煩悩と思い、憎いと云うそれを煩悩と思い、ほしい、おしい、と云うそれを煩悩として、それらの一切を断じよう、除こう、払おうとする、ぞれぞれが抑々(そもそも)病気の上の病気である。煩悩即菩提であると云うことを知らずして是等の煩悩病を全快させんが為に頻りに真如を求むるが、是又大なる迷いである。」
(菅原時保『碧巌録講演(其二)』(1937年)58~59頁)
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1102517



3 (補論1)上座仏教における悟りと瞑想実践における問題



 先にも述べたとおり、上座仏教における悟りは、貪・瞋・癡の壊滅とされますが、この現象も、長時間の瞑想による扁桃体の活動の極端な低下に伴い、情動発現が極端に低下したものと考えれば、合理的なものとして説明できそうです。
 癡は、すなわち、愚癡は、「根源的な無知であって、ものごとをありのまま(如実)に知見できないこと」だとされますが(注5)、情動発現が低下し、外部情報を感受したときの感情的な反応が低下したことを、「ありのままに知見した」と感覚することであると考えられ、この点も、整合するように思われます。
 さらに、興味深いことは、このような情動発現が低下することによる問題と思われる現象については、上座仏教系の瞑想指導者からも述べられていることです。



「苦しみから抜け出そうと瞑想をしているうちに体調を崩したり、抑うつ感、絶望感や自己嫌悪感を感じるようになったり
≪人間関係がぎくしゃくするようになったり≫
なかには、統合失調症離人症
≪感情障害≫
摂食障害のような不調をきたす人もいる。」
(プラユキ・ナラテボー「ピュア・マインドフルネスと瞑想」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』(2018年)70頁)



 情動発現の障害との関係では、「人間関係がぎくしゃくする」、「感情障害」などの指摘を興味深く思います。
 また、上座仏教の瞑想実践により、日常生活への不適合をもたらす例に関しては、リトリート(合宿)形式の瞑想会に関するものとして、次の指摘があります。



「リトリートの参加者たちの中で、そこでの経験を瞑想センターの外での日常生活に、どのように繋げていけばいいのかという点に関する困難を、多かれ少なかれ感じた人は多かったようです。実際の所、日本で瞑想をしている実践者にも、同種の困難を感じている方々は多いと思います」
(プラユキ・ナラテボー、魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』(2016年)70頁)

「集中的なリトリートのみに偏った修行法が日常生活との乖離感をもたらしやすい」
(プラユキ・ナラテボー、魚川祐司前掲書73頁)



 リトリートのような長時間の瞑想を集中的に行う実践に関し、日常生活への不適合が生じやすいという指摘についても、長時間の瞑想により、扁桃体の活動が低下しすぎ、感情発現の障害が生じ、日常的なコミュニケーションに支障が生じるなどしているのではないかと考えると納得がいきます。
 おそらく坐禅等の瞑想を続けるうちに、やり過ぎて、日常的なコミュニケーションに支障の生じる状態になると、日常的にストレスが貯まりやすくなることから、更に瞑想をし、そのことによって、情動反応が低下して、日常的なコミュニケ―ションが更に上手くいかなくなりなどといった悪循環を来すのではないかと思われます。
 かつて、上座仏教系の瞑想をする人たちとも付き合いがありましたが、その自主瞑想会に行くと、5~6時間くらい、ひたすら坐位の瞑想や歩行瞑想を繰り返す人が少なからずいて、当時は、長く坐禅等の瞑想をやることに価値があるように思っていたので、感心したのですが、同時に、彼らの中には、相当程度、出家志向の人がいることに興味を惹かれました。
 
 振り返って考えると、過度の瞑想により、扁桃体の活動が過度に低下したことから、コミュニケーション上の支障が生じ、ストレスが貯まり、更に瞑想をするようになりといった悪循環の中で、一般社会の中で生きづらさを感じるようになって、一般社会以外の同じ考えを持った仲間たちの中だけで生活したいというような気持ちになってしまうこともあり得るのではないかと思います。



4 (補論2)坐禅否定の系譜



 禅というと日本人の多くが、坐禅等によって特別な境地に行くものであると考えることが多いかと思いますが、日本の禅宗の理想とされた中国唐代の南宗禅(注6)と呼ばれる系譜では、坐禅のような実践を否定することが主流でした(注7)。
 このような坐禅否定の系譜は、日本仏教にも古くから存在し、聖徳太子が著したと伝えられる法華義疏にも認められるものとされます。



「太子の思想ということになれば、ここでどうしても『三経義疏』について触れなければならない。(略)
法華経の)安楽行品の「常好坐禅」という一句の解釈はきわめて興味深いものである。すなわち、ここでは経の本文はもちろん、法雲などの解釈も「常に坐禅を好め」という意に解しているが、『義疏』ではあえて異をとなえ
≪山中で坐禅ばかりしているような修行者は小乗の禅師であり(「常好坐禅少(小)乗禅師」)、菩薩が近づいてはならない十種の対象(十種不親近)の一つとみた≫
のである。」
末木文美士『日本仏教史』(1992年)38~40頁)(注8)



 法華義疏聖徳太子の著したものであるかは議論があり、ネットで少し調べたところでは、消極的な見解が有力なように見えますが、それをさておいても、仏典を無批判に輸入したような印象のある時代に、その内容について、批判的な検討を加える人がおり、それが有力な見解として受容されていたことは、素直に感心するところです。
 唐代南宗禅や仏教伝来初期から見られる坐禅否定の系譜には、古くから、坐禅によって、却って問題を生じた人が少なからず存在していたからではないかと思え、理由があるように感じます。



本文以上



(注1)阿満利麿「近世日本における<現世主義>の成立」『日本研究』9号(1993年)58頁
https://nichibun.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=881&item_no=1&page_id=41&block_id=63
 前記論文の記述が一番まとまりがよかったことから、用いました。ほかに次のような類例があります。

(1)鈴木大拙鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』(序によると1935年が初出のようだ)157頁
「禅堂生活は、空の真理が直覚的に把握せらるる時に終了すると考えられるばかりでなく、この真理が、あまたの試練・義務・紛争に満ちた実際生活のすべての方面において実証せらる時、そしてまた雨が悪者善者のわかちなくこれにひとしく降り注ぎ、あるいは趙州のの石橋が馬・驢・虎・豺(さい)・亀・兎・人間などのすべてのものを渡すと同じしかたにて
大慈悲(karuna)の心を生ずる時に、終了する≫
と考えられる。これこそは人が地上において成就しうる最大の修養である。そしてこれを何人もよくなしうるものではない。しかしながら、われわれが全力を尽して菩薩の理想接近しようとするぶんには、何らの害はない。もし一生にして足らずとするならば、千万劫の未来世に望みをかけてもよかろう。かかる理想のあるものを確固として会得する時、僧は禅堂を辞去し(略)、世界という大社会の一員として、その仲間の中に投じ
≪実際生活を始める。≫」

(2)藤吉慈海『禅と浄土教』(1989年)146頁
「もともと禅は智と結びついたもので、禅定の深まりと共に智慧も明らかになるべきはずのものである。禅定によって得られた智慧は、大悲の働き出る根本となるものである。智体悲用といわれるように
智慧が主体となって慈悲の働きをおこす≫
ものである。」

(3)飯田欓隠『通俗禅学読本』(1934)57~58頁
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1035149
「理想が実際に具体化せし時、著しく人格に変化がくる。つまり人我(にんが)のへだてがなくなる。(略)人我のとれた著しき徴候は腹の立つと云うことがなくなる。人(自己)法(萬物)二空と体達する時宇宙即ち全自己なることが此の身に立証さるるから相手を認めぬ
≪真の愛が沸出≫
する。」



(注2)今、目にすることのできるものには、(注1)で示したようなことが書かれてあることが多く、それを前提にして記述しました。
私自身「仏教は慈悲を以て主旨とする」との釈宗演の言葉(釈宗演『一字不説』(1909年)2頁)に傾倒していた時期があり、このような考え方を好ましくは思うのですが、公平に言って、“本来的に”禅が社会内で利他的な行為をする人格を目指すものであったのかということについては、若干の疑問があり、このような考え方は、明治期にキリスト教、特にプロテスタントへの対抗上、作られた比較的新しい考え方なのではないかと思っています。
 例えば

「伝統的な立場に立つ明治の禅匠にとって「禅」はあくまでも実践であり、一人ひとりが室内で究めるべき領域に属していた」
(ミシェル・モール「近代「禅思想」の形成」『思想』943号(2002年)48頁)
https://scholarspace.manoa.hawaii.edu/bitstream/10125/41056/Mohr_article_JPN_2002.pdf

とされることからすると、「現実の利他活動の自在な実践」が直截に出てくることは難しいように思われるのです。
 また、「明治以降キリスト教への対抗上出てきたアイディア」と考えるようになってきた大きな理由として、ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』の以下のような記述があります。

「小栗栖(香頂・おぐるすこうちょう)は(略)「東本願寺の僧たるものは貧民への手助けを布教活動の手段とするべし」と主張。(略)こうした考えの一つのきっかけは、プロテスタントの慈善事業からくる脅威を知ってのことだった。仏教の指導者たちは、いつもながらキリスト教の教理を軽薄なものであると攻撃しつづけたが、彼らの慈善事業は改宗させるためにもっとも効果的であるとことを認めざるを得なかったのである。
 釈宗演はこの論争に加わり、貧民のための学校や病院、更生施設を設立している。」
(ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア(エィミー・ツジモト訳)『禅と戦争』35頁)

「(日露戦争における)仏教者側の戦争の支持にかかわらず現実的な戦争における慈善活動、たとえば負傷兵の手当、戦死者が残した遺族の貧困の手助けをして指導的な活動を始めたのは、日本のキリスト者たちであった。このような形でキリスト者がみせつけた愛国心は当然、世論には好意的に映ったものである。(略)だが、仏教の指導者たちの立ち遅れた鈍い反応ゆえに愛国心の欠乏は批判の的となった。」
(ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア前掲書39頁)

 このように日露戦争の時点でも、禅宗を含む仏教の指導者が、慈善運動の立ち後れを批判されていたことからすると、元来、社会内での利他活動をすることは目的とはなっておらず、日露戦争などにおける世論の批判を受け、(おそらく「大機大用」の概念などと関連付けて)社会内での利他活動をしていくことを目的として挙げるようになったというのが正確なところではないかと感じます。この筋の話も調べてはいるのですがよく分からず、ご存知の方はご教示していただければ幸いです。



(注3)秋月龍珉の印可は、在家者である苧坂光龍から得たものであることから、臨済宗の出家者の間では、評価が低いようです。
 ただし、この話を私にしてくれた臨済宗の出家者の師家(禅の指導者)は、「在家禅などは無視して相手にしないのが普通だが、秋月龍珉先生は、出家者から繰り返し攻撃されていた。その意味では、叩かないといけないと思わせるだけの力のあった人のだと思う」と評していました。
 また、「現代相似禅評論」や「公案解答集」ほどではないにしろ、公案の真正の見解に触れた秋月の著作である『公案』に序文を付されたことなどに見られるような鈴木大拙の後立てのあったことや、東洋大学学長の竹村牧男が参禅していたことなど踏まえると、臨済宗の水準で見識のあった人なのではないかと思います。



(注4)魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』(2015年)42頁
 なお、人格との関係では、「ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろ社会の維持に欠かせない労働と生殖を否定し、そもそもその前提となる「人間」とか「正しい」とかいった物語を破壊してしまう作用をもつ」(同書63~64頁)ものであるとの指摘は、釈尊の本来の教説とされるものの論評としては適切だと思います。


 
(注5)魚川祐司前掲書42頁
 


(注6)日本禅宗の理想としての唐代南宗禅の類例

「大鑑慧能(六三八~七一三)は、六代目を継いで、現在に至る禅の思想的基盤を確立したとされています。
 その思想的特質は、自分自身の「自性(仏としての本質)」を明確に把握すれば、それがそのまま悟りであるという、徹底的な自己肯定にあります。自分自身に気づきさえすればよいので、気づいた瞬間が悟りとなります。これが「禅思想の基本」でも述べた「頓悟(瞬時の悟り)」の思想です。この教えは、慧能のところで確立されたものなのです。」
(石井清純『禅問答入門』(2011年)51頁)

「馬祖大師は六祖已後に於ける禅海の第一人者であつて、禅宗と云ふ宗旨を高くを天下に宣揚し、眞個の衲子(のうす)を打出すると云ふことに力めた人で、少なくも今日の禅宗からは、馬祖大師を以て一大恩人として尊崇しなければならぬと思ふ」
(伊藤古鑑「馬祖大師の禅」『禅学研究』26号(1936年)9頁)
https://hu.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=25&block_id=79&item_id=607&item_no=1

「何というても宗門では、この(臨済義玄の語録である)臨済録が背骨である。この臨済録をよく拝読して、会得しておかんというと、臨済下の衲僧ということは言えんはずである。」
山田無文『碧巌録』(1983年)i頁)



(注7)唐代南宗禅における坐禅修行の否定

1 慧能関係

 禅の世界では、慧能を六祖として重視しますが、この慧能の伝説を作り上げ、六祖ならしめた荷沢神会が座全否定へと向かいます。

「南宗禅の神会が極力排斥したのは、北宗禅が「心を凝らして定に入り、心を住(とど)めて浄を見、心を起こして外を照らし、心を摂(おさ)めて内に  証す」と唱えたことである。この「心を凝らして定に入る」というのは、ほかならぬ坐禅の法をさしている。神会がこれを否定したことは、坐禅を根本的に否定したことを意味する。(略)
 では、なぜ神会は坐禅を否定したか。胡適によれば、老荘の自然哲学は禅学に大きな影響を与えている。とくに南宗禅ではその傾向が強い。神会は馬択との問答のうちで、次のように述べている。
「僧が因縁ばかり言って、自然を言わないのは、その誤りである。僧家での自然とは、衆生の本性をさす。経にも、『衆生には自然の知、無師の知がそなわっており、これを自然という』とある」
 ここにいう「自然の知」「無師の知」とは、いうまでもなく人間が学修を俟たず、自然にそなえている知をさす。このような自然の知、無師の知があればこそ、学修を待たずに一挙に悟ること、すなわち頓悟が可能となるのである。逆にいえば頓悟説の根拠には老荘的な自然主義があるということになる。
 このような自然の重視の立場にたつ神会は、真理を悟るための修行としての坐禅を否定せざるを得ない。なぜなら努力をともなう修行は有為であり、不自然であるからである。」
(森三樹三郎『老子荘子』(1977)396~397頁)

2 馬祖、臨済関係

「「道は修証(しゅしょう)を用いぬ」という考えがある。唐の馬祖、百丈、黄檗臨済といった人びとの説である。修とは、修補の意。欠けたところをつくろい、本来の完きにかえすことである。証とは、修の完成、つまり本来の完きにもどって、もはや修が無用であることの証明である。(略)
 本来完全で、どこも欠けたところがないのに、何を修補するというのか、病めば薬を必要とするけれども、病まねば薬は無用である。薬によって健康に復しても、本来以上に何かを増すわけではない。迷わねば、悟る必要はない。迷いとは、本来の自分を見失っただけのことで、本来に還ったところが、悟りである。はじめから見失わなければ、あらためて悟るには及ばぬ。(略)
 煩悩対治の禅定に、初期禅宗の人びとが強く反対するのは、それが新しい繋縛となるためである。」
(柳田聖山『禅と日本文化』(1985年)157~158頁)

「修行を不要とし、あたりまえの日常をありのままに肯定する、そうした考えを馬祖系の禅者たちは「平常(びょうじょう)」「無事」などの語で表現した。「平常心」とは何かと問われた長沙景岺(ちょうけいしん)(生没不明)は「眠ければ眠り、坐りたければ坐る」と答え、それでは解らぬとの問い返しに、なお平然と「暑ければ涼み、寒ければ火にあたる」と答えている(略)。さらに臨済義玄の「無事これ貴人、ただ造作するなかれ、ただこれ平常なれ」の語や、次に引く「随処に主と作(な)る」の一段などは、いっそうよく知られたものであろう。(略)
 外に求めることなく、ただあたりまえにクソをし、小便をたれ、服を着、飯を食い、眠くなったら横になるだけ。そのように「平常」「無事」であれ、と臨済は言う。すでに(略)ふれたように、「随処に主と作る」という有名な一句も、もとはこのような文脈で説かれたものだったのであった。」
小川隆『中国禅宗史』(2020年)212頁)

3 私見

 私自身は、馬祖や臨済などといった唐代南宗禅の考え方を好ましいと思っています。
 社会の多くの人は、特別な教義や実践などなしにきちんと人生を送っているのですから、うつ等の心の問題などの特別な事情がなければ、本来的には、特別な教義や実践は不要なことは当り前の話だと思うからです。
 このような考え方が、私の独自のものであればうれしいのですが、凡庸な考え方の一つで、たとえば、仏教一般についてなら、佐々木閑は、「仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。(略)病気でない人には全く必要ありません。」(佐々木閑『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』(2012年)29頁)と言います。
 また、禅の関係ですと、次の『二入四行論』を踏まえた柳田聖山の話がまとまっています。
 
「ある人が顕禅師にたずねた、「何を薬というのです」
 答、「一切の大乗は、病気に対する応急処置にすぎぬ。心そのものが病気を起さなければ、どうして病気に対する薬がいろう。有という病気に対して空無という薬を説き、有我という病気に対して無我という薬を説き……、迷いに対して悟りを説く。これらはすべて、病気に対する応急処置である。病まぬのに、どうして薬がいろう」

 顕禅師もまた伝記の判らぬ人だが、その主張は縁法師と変わらぬ。(略)病まぬのに、薬はいらない。病まぬ人に薬を与えるのは、わざわざ病人をつくるようなものだ。心が起らぬのに、強いて心を起すにひとしい。われわれは、とかく病を実体化しやすい。病を実体化することから、薬の実体化が始まる。(略)病の実体化することの危うさは知りやすい。薬を実体化することの怖さは気づきにくい。」
(柳田聖山『禅思想』(1975年)37~38頁



(注8)自力的行の否定については、日本では、親鸞が一つの典型かと思いますが、いわゆる六角堂での夢告に現れるのが聖徳太子というのも、法華義疏における坐禅の否定という観点からみると、何かの意味付けがあるようにも思ってはいるものの、これも勉強が行き詰まっています。どなたかご存知の方がいれば、ご教示をいただければ幸いです。





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求道っぽいことをしていた頃~上座仏教と大乗仏教とを統合したという瞑想指導者編

 一時期、色々な瞑想会や坐禅会を巡っていたことがありました。
 四十代になり、中高年の孤独に問題意識を感じるようになって、仕事と家族以外での人間関係を構築する上で、今更一から新しい趣味を始めるのも何であるし、坐禅なら座っているだけだから手軽であろうということから始めたのです。
友達作りを兼ねて始めたものでしたから、色々な所にお邪魔しました。

 その中で、曹洞宗の施設で行われるものなのですが、指導者が在家という珍しい坐禅会があり、その指導者の人から興味を持っている坐禅・瞑想の指導者を4人教えてもらいました。
 その後、半年ほどの間に、その4人と会いました。
 そのうち3人は人間的にも魅力があって、一人とは今でもリアルの付き合いがあり、一人とは年賀状のやりとり程度の関係が続いています。

 しかし、4人のうち1人だけ、反面教師的な人がいました。
 その人は、上座仏教と大乗仏教とを統合した瞑想指導をするとのことで、前記4人のうちの別の一人とも共著者になっている本があることなどから、信頼できる人であろうと考え、その主宰する瞑想会に参加したときのことについて、整理をしてみたのが本稿です。

 この瞑想会に参加したことが、瞑想の効果を実感させると共に、その問題点をも実感させることとなり、瞑想について深く学ぶ大きな切っ掛けとなりました。
 結局、私は、坐禅や瞑想について、マニアックにやるのではなく、健康法としてライトに行い、また、瞑想会や坐禅会を巡って知り合った人達の多くと距離を置くようになるのですが、その結果を結びついた様々な要因の中でも、大きなものの一つが、この瞑想会に参加したことでした。

 書き始めてみると、未だ整理のつかない点が多いとわかったのですが、今の内容で公開することで、ご批判・ご指摘をいただいて(ツイッターを使用しており、@nichijohe宛にDMを送信していただければ幸いです)、それを端緒にして補充したいと思い公開することと致しました。




本稿の構成

1 瞑想会への参加1回目
2 1回目の瞑想会の後に起きたこと
3 瞑想会への参加2回目
4 体験の解析1~「世界の画素数が上がって見える体験」の機序
5 体験の解析2~瞑想と暗示
(1)瞑想における暗示の効果
(2)参考としての自律訓練法
(3)まとめ



1 瞑想会への参加1回目



 その瞑想会の場所や日程については、指導者の名前をネットで検索した所、瞑想会のサイトがわかり、その日程に合せて行きました。事前予約は必要なかったように記憶しています。
 この瞑想会には、2回参加し、1回目は午前7時頃から始まり、2回目の開始は午後1時過ぎ開始だったのではないかと記憶しています。
結局、私は、2回目で不穏なものを感じ、行くことをやめました。

 料金については、ずっと続ければどうなるのかはわかりませんが、2回とも任意のお布施を専用の箱(お菓子の缶か大きめの箱の類だったと記憶しています)の中に出す方式で、その点は、良心的でした。
 その後、瞑想指導者の茶話会での話から、自己顕示欲の強い人であることが窺えたので、瞑想指導の目的は、お金儲けというよりも、自尊心の満足にあるのだと感じました。1回目のとき、私よりも、先に来ていた人が千円を出していたので、私は1回目も2回目もそれぞれ千円を出しました。

 瞑想会の具体的な内容ですが、最初は、足に意識を向けながら近くにある海岸まで行って戻ってくる歩行瞑想でした。
若干早足であったように記憶しています。
 途中、海岸を見下ろす展望台と、海岸近くの磯の2か所の3か所で、「海から来る風を感じましょう」といったようなことを言われて、5分弱程度立ち止まる場面がありました。

 戻ってきた後は、前屈や割坐等の真向法にヒントを得たと思われる軽い体操を5分間ほどやりました。
 細かい所ですが、膝頭や膝の裏をよく揉むように言われたことが、ほかでは余り聞かない指導で、私は、坐禅をするときは結跏趺坐をするのですが、それまで長時間坐っていると膝に痛みを感じることがあり、確かに、言われたとおりに膝頭とその裏を予めよく揉んでおくと、膝の痛みを感じにくくなるので、このことはその後も実践しています(尤も、今は朝30分間程度しか坐禅はしないので、余関係ないかも知れません)。

 体操の後は、坐禅のスタイルになって、瞑想指導が開始されました。
 最初は、どちらかの手のひらに意識を向けるように言われます。
 そうしていると、手に軽いしびれと温かみがしてくるのですが、そのうち、その感覚をを両手の平、両腕、肩等に広げるように言われるので、指示されるまま意識を言われた場所に向けていきます。
 おそらく指示されるままに行うという受動性が重要なのでしょう。
 今考えると、ボディスキャンの一種だと思います。
 このときの感覚は確かに面白く、更にとにかく楽でした。
 途中、慈悲の瞑想なども含みながら、全体では、2時間弱程、座位で瞑想をしたはずなのですが、全く疲れを感じませんでした。
それまで、坐禅をしていても、どうしても頑張るようなところがあったのですが、このときはとにかく楽で、「安楽の法門」という道元の言葉が本当のことであるように思われました。

 ただ、最初に違和感を抱いたのは、瞑想中の指導者の言葉でした。
 2回目も同じだったのですが、彼は、瞑想中に、法話の類をします。
 その際に、彼は、「幸せな世界に行きましょう」ということを言いました。 
 当時、私は、幸福も不幸もありのままに受け入れるという禅の世界でよく言われる言葉にシンパシーを感じており(注1)、「幸せな世界に行こう」などというのは、到底、禅的なこと、仏教的なことだとは、思えませんでした。

 午前11時頃には、瞑想指導は終了し、その後、1時間30分から2時間ほど茶話会がされました。
 この指導者は、色々な人と議論をして論破することが好きらしく、その論破歴を話した後(本人の話だけなので実際にどうかは不明)、その日の直近では、非二元系の瞑想指導者と議論をして論破したとのことでした。
 少し幼稚な話をするなと思ったのですが、知識的には面白かった上、何よりも、瞑想時の楽さが際立っており、茶話会が終わった後は、気持ちよく帰りました。



2 1回目の瞑想会の後に起きたこと



 その瞑想会の効果と思われることは、会場(平屋の普通の家ですが、実親に出資してもらい建てたとのことだったと記憶しています)を出て、近傍の駅に歩いて帰る途中に起こりました。
 周りの景色を見ると、全てのものの画素数が上がったかのように鮮明に見えたのです。
このようなことをそれまで坐禅の時に体験したことはなく、初めての体験でした(その想定される機序については、後記4を参照)。

 次に起きたことは、それまで読んでも意味のわからなかった禅関係の本の意味が、突如として、わかるようになったことでした。
今ふり返って考えると、理屈は抜きに、禅書に書かれている言葉が文字通りそのとおりであると思い込むような感覚でした(その想定される機序については、後記5を参照)。
 このようなことは、1週間ほど続きました。
 当時は、それまでの坐禅をしてきた効果ではないかとうれしくなりました。
 特に、このようなことが起きる直前には本稿の瞑想会に参加したことがあり、先にも述べたとおり、瞑想会の直後、世界の画素数が上がって見えるような体験などをしたほか、それまで坐禅をするときに感じなかった安楽さもあり、指導者の人格については疑問に思う点もありましたが、瞑想指導は優れているのではないかと考え、2週間ほどしてから、私にとっては、2回目の瞑想会に参加しました。



3 2回目の参加



 このときは、先ほども述べたとおり、午後1時頃からの開催だっという記憶で、基本的な流れは前回と同じした。
 ただし、参加者にヨガをやる人がいて、このときは、その人の指導で、真向法にかえて、ヨガのアーサナをいくつかやりました。

 このときのことで、特に印象に残っていることは、瞑想中の法話です。
 内容は、前回の茶話会で、指導者が批判していた非二元論の人がしていたという話と同じ話で、批判していたことと同じ話をする矛楯に、大変な違和感を抱きました。
 前回は、指導者の指示に従うまま瞑想をしていたのですが、このときは、このままその話を聞いていたら、指導者のいい加減な話がそのまま自分にすり込まれるのではないかという恐怖感を抱きました。
 私の表現力不足ですが、何か脳に、私が思ってもいないような観念がすり込まれるのではないかという恐怖感が生じ、結局、前回ほどは、楽な感じはしませんでした。

 その後の茶話会のとき、指導者の人は、元々曹洞宗坐禅道場で修行をしていたけれども、摂心では、最後酒を飲んで騒ぐだけで、その時の彼の指導者に人生に関する質問をしたが、何も答えてはくれなかったなどと言っていました。
 この点は、一般的な禅の見方からすれば、疑問に感じました。 
 その上、般若心経のこれまでの解釈は間違いで、本当の解釈は私が以前解説したとおりのものだといったようなことも話していました。
 般若心経などは、散々何人もの研究者によって研究されているもので、それについて、今更、新しい本当の解釈を見出したなどという話は誇大妄想に思われました。
 前回の論破の話と合わせ、自己顕示欲の充足が目的で瞑想会を主催しているのではないかと感じました。

 一番違和感を抱いたことは、何人か常連の参加者がいるらしく、前回見かけた人も何人かいたのですが、法話の話が前回の話と矛盾することを指摘する人が誰もいなかったことでした。
 参加者は2回とも15名ほどいて、常連と思われる人も少なくないようでしたが、瞑想会や坐禅会をいくつか回る中で、本稿の瞑想会にいる人達が一番信者的雰囲気を醸し出していて、生理的な違和感を抱きました。
 おそらく2項で取りあげたような体験をして、彼のことを「本物だ」と思った人達なのだと思いますが、同時に、瞑想指導が優れており、かつ、参加費も良心的であるにもかかわらず、2回とも参加者が十数名程度に止まっていた理由は、常連の人達の信者的な雰囲気によるように思われました。

 2回目の瞑想の時に、感じた自分の脳に何らかの思考がすり込まれるような感覚とそれに対する拒否感、他の参加者の信者的雰囲気。
 この瞑想会に参加し続けることには、問題があるのではないかと感じ、結局、2回目を最後にして、この瞑想会に参加することはやめました。

 この辺りから、瞑想に対するある種の危険性も感じるようになり、瞑想の副作用に対する興味も湧いてくるようになりました。

【参考】「【参考資料】瞑想の副作用」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/14/210348



4 体験の解析1~「世界の画素数が上がって見える体験」の機序



 洗脳されるのではないかという恐怖感を抱いたことから、瞑想会の参加は2回に止まったのですが、その時の体験のことについては、生理学的に説明ができるものではないかと思っています。

 まず、「世界の画素数が上がる体験」についてですが、これは扁桃体の活動の低下と関わるものと思います。

 詳しくは、当ブログの記事

扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342

のうち特に2項を参照していただければと思いますが、坐禅・瞑想の際に、呼吸回数が減少し、血中二酸化炭素濃度が上昇すると、脳の不安感を司る部位で ある扁桃体の活動が低下し、不安感が解消する方向に向かいます。
 これが、坐禅や瞑想等が効果を発揮する主要な機序と考えられますが、この扁桃体の活動は、精神障害と関連します。
 典型的な精神障害として、うつ病統合失調症とが挙げられますが、扁桃体が過剰に活動しているのがうつ病といえます。坐禅や瞑想は、扁桃体の活動を低下させて、うつ病に向かう傾向を改善するエクササイズといえます。
 では、扁桃体の活動が低下すればするほどよいのかといえば、そうではなく、統合失調症の患者については、扁桃体の活動の低下が認められるとされます。(注2)

 この統合失調症との関係で、興味深いのは、臨済宗における見性体験です。「自他不二」の体感などと言われ、ヒンドゥー教における「梵我一如」等、様々な宗教において、外界と自己との一体性の体感を、悟り等の特殊な体験とすることが少なくありませんが、統合失調症の自我障害(自我意識障害)がこれに類似し、坐禅や瞑想により悟りを開くと呼ばれる現象は、生理学的には、扁桃体の極端な活動の低下による自我障害に類するものではないかと考えています。(注3)

 マインドルフルネスの研究において、統合失調症の患者には不適切とされていることも(注4)、瞑想により、統合失調症の症状がより深刻になるものと考えられることからすると、整合的です。

 このように瞑想時の呼吸回数の低下による扁桃体の活動の低下は統合失調症の症状と関連付けられると考えられるところ、統合失調症の症状としては、周囲の世界が鮮明に見えたり、美しく見える体験もあるようです。

 まず、ユング派分析心理学者として著名な河合隼雄の『心理療法序説』に次のような統合失調症の患者からの聞き書きが記述されています。



「筆者がお会いした精神分裂病統合失調症…編者注〕の方が寛解状態になったときに、自分の発病時の様子について、そのときに、自分の目の前の「机そのもの」が見えてきて、その体験に圧倒され、それを他人に伝えようにも言葉が見つからなかった、と言われた。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』34頁)



 また、自身も統合失調症の患者である小林和彦は、『ボクには世界がこう見えていた』の中で、次のような体験を述べます。



「僕はまるでワーズワースの詩の世界のような幸福感に包まれ、木陰に腰を下ろした。(略)
 蚊が腕にとまり、僕の血を吸っていた。僕はそれを払いのけようともせず、蚊をじっと眺め、僕の血を求めているその蚊に対して、何か愛おしさのようなものを感じてしまった。とにかく幸せな気分に満ちていたのである。(略) 
 ふと、クズかごに目がとまり、近づいてみるとビックリした。その中に捨てられてあったのは、カロリーメイトの空き箱、カップスープの空き箱、ポカリスエットの空き缶など、僕愛用の品々ばかりで、しかも真新しくてゴミという感じがしなかった。僕がここへ来るのを察知して、何者かがあわてて集めたような、不自然さを感じた。こんなきれいなゴミが、世の中にあるものなのだろうか。」

(小林和彦は、『ボクには世界がこう見えていた』112~113頁)



 このように統合失調症の症状として、世界が鮮明化する体験や美しく見える体験があることからすると、私の世界の画素数が上がって鮮明に見える体験も、生理学的には、扁桃体の活動の低下によるものではないかというのが、現時点での私の考えです。

 ちなにみに、河合隼雄は、先に引用した『心理療法序説』の中で、統合失調症の患者の「机そのものが見える」体験を、サルトルの『嘔吐』に示された「マロニエの根は…」という有名な一節になぞらえて説明するのですが(河合隼雄前掲書37ページ)、井筒俊彦は、これを禅の見性体験に類いするものとして説明するのも興味深いものがあります(井筒俊彦『意識と本質』147頁)。(注5)

 瞑想により扁桃体の活動が低下し、世界が鮮明に迫って見えると、いわゆる「如実実見」したような感覚になってしまうのかも知れません。



5 体験の解析2~瞑想と暗示



(1)瞑想における暗示の効果



 私は、2項に述べたとおり、本稿の瞑想会に参加した後、当時、意味の分らなかった禅書の意味がわかるようになったことがありました。
 このときの感覚ですが、禅書に書いてある内容について、根拠に基づいて納得するのではなく、その字面通りに正しいという感覚で、正確には、わかったのではなく、「わかったような気になった」のではないかと思います。
 これに瞑想会の常連の人達の信者的な雰囲気を合わせ考えると、瞑想には、一種の暗示の効果があるのではないかと推測しています。
 私自身、色々な瞑想会や坐禅会に参加する中で、仏教に対する問題意識も持つようになったのですが、本稿の瞑想会以外にも、上座仏教(テーラワーダ)の実践をしている人に相当数、生まれ変わりが実在することを本気で信じる人がいることでした。

※詳しくは、「仏教における生命/世界の否定と肯定」の(注5)を参照
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/02/01/195551

 このようなことからも、瞑想自体に暗示のように何かを信じ込ませる効果があるのではないかと推測しています。
 とはいえ、マインドフルネスの研究の中では、この種の問題を扱っているものは、なかなか見つからず、明確に触れているのは、『マインドコントロールの恐怖』を執筆したスティーブン・ハッサンくらいのようです。



「通常の意識では,注意は,五感を通して外側へ向けられるのに対して,トランスにおいては,注意は内側へ向けられ,人は内面で聞き,見,感じるようになる。「Hassanによれば,自分たちは宗教だと主張する多くのカルトでよく行われている瞑想と呼ばれるものは,カルトのメンバーがトランス状態に入るプロセス以外の何ものでもなく,そのトランス状態の中で,メンバーは,カルトの教義にますます従いやすくなるような暗示を受けるようになるのである(略)。また,トランス状態は心地よいリラックスの体験であるため,人々は,できるだけ,度々またトランスに入りたいと思うようになるだけでなく,一番重要なこととして,トランス状態では,人々の批判的能力は減退してしまうのである」

(宮脇秀貴「エンパワーメントと洗脳」」『香川大学経済論叢』82巻3号83頁)
http://shark.lib.kagawa-u.ac.jp/kuir/metadata/3528



 とはいえ、実態としては、瞑想指導者に参加者が支配される例も実際あるようで、井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」がその点について触れています。



「魔境とは、瞑想体験の中で出会う神秘的体験によって道を見失ってしまう落とし穴を警告するための言葉です。光が見えたり、体が軽くなったり、エクスタシーやエネルギーの流れを感じたりするような神秘体験自体は集中力のもたらす効果なのですが、自覚できない微細な欲望が残っている場合には潜在している劣等感を補償するための無意識的な取引に使われてしまい道を誤ることになりやすいものです。そして権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性をはらんでいます」

(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』2020年3月号88頁)



 さらに、齊尾武郎「マインドフルネスの臨床評価:文献的考察」には、再試では同じ結果がでなかったようですが、瞑想により偽の記憶が形成される高まる可能性を示す実験結果が示された例が報告されています。



認知心理学的実験により,マインドフルネスにより偽記憶形成が高まる可能性が示唆されてもいる(しかし,再現実験でこれを否定する結果も出ている)」

(齊尾武郎「マインドフルネスの臨床評価:文献的考察」『臨床評価』46巻1号60頁)
http://cont.o.oo7.jp/46_1/p51-69.pdf



(2)参考としての自律訓練法



 ネットで検索すると、瞑想に自己暗示の効果があることを謳うサイトが相当数あることから、この種の体験をする人も少なからずいるのではないかと推測されますが、いかんせん内容の信憑性には疑問があります。
 きちんとしたマインドフルネス関係の研究ですと、まだ研究がされている期間が短く、おそらく実験をするにしても倫理的な問題があると思われますから、この種の洗脳・暗示の効果について研究した資料は、なかなか見つけられないようにも思います。
 この点、マインドフルネスに似たリラックスした状態での呼吸法や、身体感覚への注意を向ける心理療法である自律訓練法に関する知見が参考になるのではないかと思っています。

 自律訓練法の「標準練習」は次のようなものであるとされます。



自律訓練法(autogenic training:AT),特に標準練習は,わが国では心身症の治療および健常人の健康維持増進のため,広く用いられている訓練法である.慓準練習とは
楽な姿勢とった後に閉眼し
「気持ちが落ち着いている」という背景公式と
「両腕が 重い」
「両腕が温かい」
「心臓が規則正しく打っている」
「楽に呼吸をしている」
「胃の あたりが温かい」
「額が涼しい」
の6つの公式を,それぞれの身体感覚に注意を向けなが ら(受動的注意集中),心の中で繰り返し唱えるというものである.」

(岡孝和・小川央「自律訓練法の心理生理的効果と,心身症に対する奏効機序」『心身医』52巻1号25頁)
https://ci.nii.ac.jp/naid/110008897854


 また、具体的手順については、済生会福岡総合病院の心療内科から発信されている次の音声ガイドが、信用性があるものと思われるだけではなく、その実践の具体的なイメージしやすいと感じました。

「ストレス解消!リラックス効果!自律訓練法―実践編―」
https://www.youtube.com/watch?v=_e7fsZfUNN4

 この動画の中では、冒頭及び消去動作の際、ゆっくり深呼吸をするように指示されるのですが、徳田完二「筋弛緩法とイメージ呼吸法の特徴─2つの質問紙による比較─」(立命館人間科学研究20巻)2頁では、他の文献を引用しながら、自律訓練法を含むリラクゼーション法の共通の特徴の一つとして、「呼吸のコントロール」を挙げている(注6)ことも併せると、呼吸回数と扁桃体の活動の関係からすれば、興味深いものがあります。

 自律訓練法の手法として、ゆっくりとした呼吸という点は坐禅・瞑想一般の手法に通じ、注意を身体活動へ向けていくことは、上座仏教の瞑想法として、よく用いられるラベリング法やボディスキャンに類似する点があり、実際、瞑想に関する文献にも、次のとおり、自律訓練法が類似する手法として、触れられます。



「マインドフルネスでは注意の払い方と保ち方が主となるのですが、これは自律訓練法の「受動的集中(passive concentration)」(略)にも共通する要素です。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』17頁)

機械学習によって,各個人の内部環境と現実の外部環境に適した自己調整プログラムが,各自の脳の中で自動的に再構築され続けていくことが想定される.そのためには,毎日何回か,そのメンテナンスプログラムを起動させる時間を確保することも必要かもしれない.実はこのプロセスこそが,古くから東洋で実践されてきた禅やヨーガ,そして自律訓練法において行われていることなのである」

(坂入洋右・雨宮怜「2016年,第57回日本心身医学会総会ならびに学術講演会(仙台)ワークショップ:心身医学療法の温故知新 自律訓練法における受動的受容とマインドフルネス―トップダウンからボトムアップへのパラダイムシフト―」『心身医』57巻8号839頁)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpm/57/8/57_836/_pdf

坐禅を初めとしてヨーガ,超越的瞑想,気功など宗教的修行としての瞑想法を通じて到達する特異な意識は,心理学では変性意識状態(Altered States of Consciousness, 以下ASCと略称)と総称されている。ASCには,こうした高い価値志向的な体験だけでなく,種々の類似した意識の変容した体験も含まれる.たとえば,催眠,自律訓練法,漸進的弛緩法などによる心身の弛緩,幻覚剤…などで,これらにも現実志向性の低下を通じて意識の変容が生起するため,すべてに共通したASC の心理的特徴がみられる。」

(斎藤稔正「変性意識状態と禅的体験の心理過程」『立命館人間科学研』5号45頁)
https://www.ritsumeihuman.com/uploads/publication/ningen_05/045-54.pdf



 このような自律訓練法と瞑想との類似性から、自律訓練法に関する知見も、瞑想を考える上で参考になるものと考えられます。

 この点、自律訓練法については、田村英恵「自律訓練法と催眠」において、「自己暗示の有効性をよりどころとしている」との指摘がされます(注7)。
具体的には、「気持ちが落ち着いている」という背景公式の部分を指しているのでしょう。
つまり、リラックスした状態になり、ゆっくりとした呼吸をすることは、その際に、頭の中に浮かんだ言葉などを暗示をし易くなるといえるかと考えられます。

 さらに、田村の前掲論文では、「自律訓練法は催眠研究を基に創案され(略)成立過程からみて催眠とは密接な関係にあり、催眠と自律訓練法は不可分であるとの捉え方がある」との指摘もされています(田村前掲89頁)が、催眠について、暗示や洗脳が問題とされることはよくいわれるところです。
この点については、田村前掲論文は続けて、「被催眠者は催眠者に対して依存的、服従的傾向を示しやすく、催眠での人間関係は濃密であるが、自律訓練法では幾分希薄である」との指摘がされています(田村前掲91頁)。
 そして、自律訓練法が催眠と近似することからすると、催眠について、「依存性や被動感が生じやすい受動的ともいえる状態が喚起」されるという指摘がされることも興味深いものがあります(田村前掲92頁)。

 以上のような瞑想に類似し、その実践方法や効果として、瞑想よりもより限定的(自立訓練法の時間は1日2~3回,1回5分程度とされる)と思われる自律訓練法に関する指摘を踏まえると、瞑想の際には、被暗示性が高まるのではないかと思われます。



(3)まとめ



 以上のことを踏まえると、瞑想を実践する際には、被暗示性が高まる状態となり、瞑想の際や、瞑想による被暗示性が高まった状態が持続すると、法話がされるといった音声情報や、何かを読むといった文字情報に触れるなど何らかの言語情報に触れた場合には、その言語情報が脳機能に組み込まれやすくなるのではないのでしょうか。
 このように考えると、本稿の瞑想会にいた常連の人の信者的な反応や、私自身の禅書の内容が突如として「わかったような気になった」現象も理解がしやすいように思われます。
 坐禅の現場では、語録の類について、頭で理解するなと言われ、また、正法眼蔵についても、坐禅をすることにより、その真意がわかるなどという曹洞宗の指導者もいること(注8)からすると、実際に、坐禅を続けつつ、理屈のわからないまま語録を読んでいるうちに、理屈抜きに、そこに書いてあるとおりのことが真実であると思い込む体験があるからではないでしょうか。(注9)
 また、本稿の指導者に限らず、坐禅や瞑想の際に、法話の類をする指導者は少なくなく、さらに、禅宗その他の仏教関係の講演会では、本論を話し始める前に、椅子禅の類をする例も少なくありませんが、これらの行為も、その話の内容の刷り込みの機能があるようにも思われ、その論者の信者になりたい人であればともかく、倫理的な問題がないわけではないように感じます。
 前向きな見方としては、誰しも理想に思っているタレントやスポーツ選手のような人はいるでしょうから、瞑想や坐禅の後に、このような人達のエッセイや自伝などを読めば、そのトレースがし易くなるということがあるかも知れません。意味のわからない仏教書の類を読むより健全なようにも思います。

《本文以上》





(注1)禅における不幸を受け入れる態度 

 わかりやすいものは、内山興正『坐禅の意味と実際』

「われわれの日常生活においては、いろいろな不幸逆境等に出逢うこともあるわけですが、われわれの場合、ともするとこの不幸逆境において、もがくゆえに、より悪い状態に追いこまれてしまうことは、われわれふつうに見る通りです。」(77頁)
坐禅がわれわれに覚めさせる生命の実物とは、まさに「自己ぎりの自己」「今ぎりの今」――「どっちへどうころんでも、出逢うところがわが生命」という生命態度です。(略)
 われわれは、ふつういつでも何事につけてもアレとコレと分別比較し、少しでもなんとかウマイ方へころぼうというはからいを働かせ、そのために、かえってキョロキョロ、オドオドしながらいきています。というのは、ウマイ方を考えるかぎりは、ウマクナイ方があるのは当然であり、それゆえウマクナイ方へころぶまいという危惧が、どこまでもついてまわるからです。つまりこのウマイ方とウマクナイ方ということを分別して生きるかぎりは、決して「どっちへどうころんでもいい」というような絶対的な安らいにおいてあることはできません。」(115~116頁)

 内山興正は、曹洞宗の人ですが、臨済宗では、釈宗演『禅海一瀾講話』に次のような記述があります。

「「吾が禅海、波瀾洪大、嫌う底の法無く、又た着するの底の法無し」
 吾が「禅海」は「波瀾洪大」だから、何一つ嫌う底のことなし。仏も嫌わず、魔も嫌わず、天上界も嫌わず、同時に地獄界も嫌わず、また、一切の物を嫌わず」(298頁)

(注2)扁桃体の活動と、うつ病及び統合失調症との関係

扁桃体は、不安や恐怖などの感情を感じた時に活動することが知られています。過度な不安や恐怖が症状であるうつ病、不安障害やPTSDといった精神疾患においては、扁桃体の活動が過剰であること知られています。反対に統合失調症自閉症に認められる感情や対人コミュニケーションの障害が扁桃体の活動の低下と関連していることも知られています。」
独立行政法人 放射線医学総合研究所分子イメージング研究センター「感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明」https://www.jst.go.jp/pr/announce/20100224/index.html

(注3)統合失調症における自我障害

(1)自我障害の解説その1
「(統合失調症の症状としては)自分と外界の境界が曖昧になるために自我意識障害もみられる。これは、思考が他人に抜き取られる(思考奪取)、または吹き込まれる(思考注入)と観じたり、自分が誰かに操られている(作為体験)と確信したりする状況である。」
(原和明監修 渡邉映子 藤倉孝治編集『はじめて学ぶ人の臨床心理学』221頁)

(2)自我障害の解説その2
「自我障害には、shneiderが一級症状として重視したものが多い(略)。
 統合失調症では、自分の考えや行動が自分のものであるという意識(能動意識または自己所属性)が障害される。自分の考えでない考えがひとりでに浮かぶという自生思考autochthonous ideaもみられる。離人症depersonalizationは、自分が存在するという感じが希薄になる軽度の自我障害である。自分の考えでない考えがひとりでに浮かぶという自生思考autochthonous ideaもみられる。させられ体験(作為体験)delusion of controlは、他人の意志で動かされ、操られているという体験である(略)。思考面ではさせられ思考と呼ばれ、自分の考えが他者から干渉されるという思考干渉influence of thought、他人の考えを吹き込まれるという考想(思考)吹入thought insertion、自分の考えを抜き取られるという考想(思考)奪取thought withdrawalがある。
 自己と外界の境界(自我境界)も障害される。考想伝播thought broadcastingは、自分の考えが自分だけのものでなく、他の人々が、時には世界中がそれを知っているという体験である。考想察知ming readingは、自分の考えが他人に知られてしまうというものである。

(3)私見
 「自己の外界の境界の障害」は自他不二、「自分が存在するという感じが希薄になる」は無我、「他人の意志で動かされ、操られているという体験」他力など統合失調症の自我障害には、仏教の様々な観念に沿うものがあります。
 また、考想(思考)吹入については、親鸞の六角堂への百日参籠の際に聖徳太子が現れ、夢告を受けたことなど、超越的存在から啓示を受けた宗教者の逸話を説明し得るように感じています。
 ヴィクトリア期の英国人が、仏教僧を「白痴」などと論評し(フィリップ・C・アーモンド、奥山倫明『英国の仏教発見』258頁)、建長寺派管長であった菅原時保が「全体禅と云うものは(略)馬鹿になることと、此の(略)点を長所とし、また短所とする」(『禅窓閑話』245頁)と述べることも、統合失調症という観点からすると、納得がいくものがあります。

(注4)マインドフルネスにおける統合失調症の禁忌

「先ほどサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想が、それぞれ医療とか心理臨床の世界に取り込まれてきた過程をお話ししましたが、リラクセーション法は実は、統合失調症の人はやらないほうがいいということがわかったんですね。やはり、統合失調症の方だと、中にあるものが溢れ出してくるということがあるのだと思います。だから、集中していくということの結果、起ってくるそういう反応みたいなものに、やっぱり充分気をつけていなくてはいけなくて、そこのところが充分にケアできないような状況でやると、過集中のような状態になって、さらにその反応がワッと出てきて悪化するというようなことがあったり、あるいいは怒りなんかがまたコントロールできないような状態になったりというようなことも起こるのだろうと思います」
(熊野宏昭発言、横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』80頁)

「マインドフルネス訓練を行ってはいけない人は、真正の統合失調症急性期の患者さんです。自我が分裂する病気の人に自分を見つめさせると、病状が悪化する危険があるからです。ただし、慢性期の統合失調症の患者さんには適用することはできます。マインドフルネス訓練により陰性症状が軽快することが期待されます。」
(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号83頁)

(注5)井筒俊彦『意識と本質』における見性体験とサルトル『嘔吐』の記述との対比

「参禅して、一応見性し、ある程度の悟りの目を開いて見ると、世界が一挙に変貌する。(略)同一律矛盾律が効力を失って、山は山でなく、川は川でなくなってしまうのだ。山も川も、あらゆる事物が「本質」という留金を失う。それまで、いわゆる客観的世界をぎっしりと隙間なく埋めつくしていた事物、すなわち「本質」結晶体が融けて流れだす。(略)
そんな山や川を客体として自分の外に見る主体、我、もそこにはない。すべてが無「本質」、したがって無分節、もっと簡単に言えば、「無」なのである。(略)本論の最初の部分で問題としたサルトルの、マロニエの根を私は憶い出す。」

井筒俊彦前掲書146~147頁)

(注6)徳田完二「筋弛緩法とイメージ呼吸法の特徴─2つの質問紙による比較─」(立命館人間科学研究20巻)2頁

松木ら(略)は,各種リラクセーション技法に共通する要素として,①動作のコントロール,②呼吸のコントロール,③意識・注意のコントロールがあって,それぞれの技法は①②③のいずれかを主軸にしていると指摘し,漸進的筋弛緩法は①を,呼吸法は②を,自律訓練法は③を主軸にした方法だとしている」

(注7)田村英恵「自律訓練法と催眠」『立正大学心理学研究年報』8号89頁
https://rissho.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=4088&item_no=1&attribute_id=20&file_no=1&page_id=13&block_id=21

(注8)正法眼蔵については、いわゆる「七十五巻本ないし六十巻本」と「十二巻本」との間の思想的連続性に関する議論があり、角田泰隆『道元禅師の思想的研究』631頁では、「思想の変化という観点から十二巻本を論じたものは多い」とされていることからすると、非連続的なものであるとの見解が一般的であるものと思われるが、曹洞宗の指導者の中には、坐禅をすると一見不整合に見える両者の記述が共に正しいことがわかるという人もいます。理解し難い面もありますが、坐禅により両正法眼蔵の記述が共に正しい記述として脳にすり込まれるものと考えると、理解がし易いように思われます。

(注9)この点は、岡田尊司『マインドコントロール』において、洗脳と同様の環境が認められる具体的な例として、禅の修行が挙げられていることも興味を引く。

「洗脳を目的として発展したさまざまな方法に共通するのも、過酷な極限状態にその人を追い詰めていくという点である。短い睡眠時間、乏しい栄養、孤独で隔絶された環境、不規則で予測のつかない生活、プライバシーの剥奪、過酷で単調なルーチンワーク、非難と自己否定、罵倒や暴力による屈辱的体験、苦痛に満ちた生活、快感や娯楽が一切許されないこと、理不尽で筋の通らない扱い等々。これでもかこれでもかと、苦痛と屈辱と不安が与えられる。
たとえば、禅宗の修行でも、導師が弟子に対する接し方は、極めて理不尽で、ほとんど無意味な虐待に近いという。その理不尽さと虐げることに意味があるのだ。新しい境地にたどり着くには、もっともらしい知識や肩書など何の役にも立たず、赤子のように無力だと感じる極限状況が必要なのだ。」
岡田尊司『マインドコントロール』168~169頁)





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仏教における生命/世界の否定と肯定

釈尊の教説は、一切皆苦を基本原理とし、生命否定の思想と言われる。
しかし、日本の仏教界では、生命を肯定する言説が目立つ
仏教における生命、そして、世界の否定と肯定
その関係を整理してみた。



本稿の構成
1 問題の所在
2 原始仏教・上座仏教における生命及び世界に対する価値の否定
3 中国への伝播における生命観・世界観の変化
4 中国における仏教の生命観・世界観の変化の要因
5 (補論1)原始仏教・上座仏教における輪廻の理解
6 (補論2)仏教家が生命観・世界観の変化に触れない理由
(1)日本の伝統仏教の場合  
(2)上座仏教(テーラワーダ)の場合
7 (補論3)原始仏教・上座仏教における不殺生戒の位置づけ



1 問題の所在



SNSで「世界はクソだ」との上座仏教の実践をしているという人の言葉を目にした。

内容の適否はともかく、釈尊の唱えた教説では一切皆苦、すなわち、私達の人生も、世界も、あらゆるものが不満足なものであり、無価値であるということを基本原理とするから、原始仏教や上座仏教の立場からすれば、一貫した主張ではある。

「苦」とは不満足を意味する。(注1)

その典型として、四苦、すなわち、生老病死が不満足なことであるされる。

「生」、すなわち、生まれたこと、生きていることそれ自体が不満足なことであり、無価値だというのである。

この点で、原始仏教や上座仏教は、生命否定の立場に立ち、この世界の存在価値も否定する(後記2)。私達の生きるこの世界は、解脱して離れるべき場所なのである。

しかし、日本の仏教の世界では、生命こそが仏教の中核的価値であるような言説も、よく聞くことである。

このような矛盾する言説の関係について、文献を追ってみる。



2 原始仏教・上座仏教における生命及び世界に対する価値の否定



釈尊の元々の教説、すなわち、原始仏教や、これを踏まえているものとされる上座仏教は、一切皆苦を基本原理とする。

「1 問題の所在」でも触れたとおり、この一切皆苦の原理からすれば、あらゆるものが不満足で、無価値であり、私達の人生や、もちろん、その人生を取り巻く目の前に展開する世界の存在も不満足なものであり、無価値であるということになる。

たとえば、日本における指導的な立場に立つ上座仏教の長老とされるアルボムッレ・スマナサーラは、次のように言う。



「仏教では、人間の人生はうまくいっているとは思っていないのです。人生は問題の泥沼に溺れているようなものだと思っています。もし理性のある人々が努力して平和で幸福な社会を築いても、そのうちまた衰退するのだ、という立場なのです。」
アルボムッレ・スマナサーラ『これでもう苦しまない』35~36頁)



また、リチャード・ゴンブリッチロンドン大学名誉教授も次のように述べる。



「保守的な上座仏教は、共同体の宗教に対するブッダの無関心さと、彼が救済とは無関係と考えた儀式というものに対する否定的な態度を踏襲した。
ブッダの態度は明瞭であり、彼が説いた道はこの世を本質的に不満足な世界として捨てる方向に向かっていた。」
(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』49頁)



以上のようなことから、釈尊の元々の教えは、人生、そして、世界の存在価値を否定するものであると理解されている。

この点は、森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』の記述がよくまとまっている。



「アジアでもっとも反出生主義に近い哲学を打ち出したのは、ほかならぬブッダ原始仏教である。」
森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』15頁)

「古代インドでもっとも反出生主義に近い考え方を説いたのは原始仏教である。原始仏教は人間が経験する一切は苦しみであると考えた。(略)
古層の原始仏典に現れたブッダの考え方を要約すると次のようになる。まず、この世で生きることは苦しみである。この世で死ぬと、輪廻によって別の世界に生まれる。そこでの生もまた苦しみである。そしてふたたび輪廻する。このようにして、私たちは永遠に苦しみから逃れられない。
この苦しみから逃れるためには、この人間界で、自分自身の執着、欲望、愛欲を断滅し、もう二度と輪廻によって別の世界に生れなくてもよいという境地に達する必要がある。」
森岡正博前掲書172~174頁)



3  中国への伝播における生命観・世界観の変化



2に見たとおり、釈尊本来の主張は、生命の否定であり、私達を取り巻くこの世界の存在価値をも否定するものだった。

とはいえ、私達が、日本で仏教家から、「天地いっぱいの生命」とか、「今、いのちがあなたを生きている」などといった大正生命主義的な生命賛歌の類いをよく聞かされる。(注2)

このような言説がなされる要因は、インドで生まれた仏教から、大乗仏教が生まれ、これが中国へ伝播した段階で、その生命観・世界観が変化したことによるものと思われる。

この点を指摘するのが、梅原猛である。



「中国の仏教史をひもとく者は、七世紀から、八世紀にかけて、中国仏教史に大きな変化があったことを知るであろう。どのような変化があったのか。私は、それを一言にして、悲観論から楽観論への変化であったのだといいたい。(略)
七世紀までの中国仏教は(略)暗い影があった。ところが、八世紀に入ると、仏教の性格は一変するように思われる。以後流行の仏教は、華厳と密教と禅であろう。(略)それは、世界のいたるところに存在する仏性賛美の思想であった。そこには、世界に対する大いなる肯定があった。」
梅原猛「絶対自由の哲学梅原猛・柳田聖山『無の探究〈中国禅〉』264頁~265頁)



仏教の中国への伝播の際における価値観の変動は、いわゆる三法印の理解の仕方についても、認められる。

三法印は、仏教の基本原理を示すものだが、普通「諸行無常諸法無我涅槃寂静」をいうとされるものの、原始仏教では、「諸行無常一切皆苦諸法無我」とされ、これが「原初の三法印」などとも称される。(注3)

三法印から、「一切皆苦」という生命否定・世界否定の言葉が消え、「涅槃寂静」という積極的・肯定的なイメージの言葉へと切り替わったのは、漢字語圏に入ってからのことだとされる。



ブッダの教え,すなわち,(釈迦) 牟尼の教説という意味での「佛法」(buddha-dharma) を標示する用語として,現在,漢字文化圈で廣く用いられているのは,「三法印」であろう。すなわち,「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂靜」(略)という三句にまとめられた經句である。(略)
これらの觀念は,少なくとも漢字文化圈では,ブッダの敎えの傳播とともに初めて知られることになる。(略)
一方,パーリ語聖典言語とする佛敎文化圈で傳えられて來たのは,「諸行無常」「一切皆苦」「諸法無我」(略)という三句である。(略)この事象は,「(釋迦) 牟尼の教説」,すなわち,「佛法」の標識が地域化した結果と呼んで良いであろう。(略)
では,なぜこのような事態が起こったのであろうか。(略)
簡潔に言えば,「一切皆苦」の實感が,「涅槃寂靜」への想いに轉換して行く思潮である。」
(室寺義仁「「三法印」―― 古典インドにおける三句の發端と展開の諸樣相 ――」『東方學報 京都』第88冊94~96頁)



漢字文化圏に入ってから、「一切皆苦」の實感が,「涅槃寂靜」への想いへの転換」したするという点は、中国において、「悲観論から楽観論への変化」したとの梅原猛の指摘に通じるものがある。



4  中国における仏教の生命観・世界観の変化の要因



仏教が中国において、生命肯定・世界肯定の価値観を持つものとして変化した要因については、古代の中国人の心理の中のものであり、推論するしかない。

この点、仏教が老荘思想に類いするものとして格義仏教的な理解がされたとの見解もあるが(注4)、これよりも、森三樹三郎の提示する見解の一つである中国思想一般における生命肯定の思想によるとの見解に説得力を感じる。

すなわち、中国人は、生命の価値を重んじ、神仙説に見られるように永遠の生命を希求していたが、それが当然うまく行くわけではないところ、仏教では、輪廻を説き、身体の同一性はなくなるとはいえ、永遠に生きることができる思想として、魅力があったという。



「仏教の中心を三世報応の説に求め、輪廻の思想として受けいれるもの。その代表的なものは、東晋の袁宏(三二八~三七六年)の『後漢紀』に、「仏教の説では、人間は死んでも、霊魂は滅びず、また生まれて新しい肉体を受ける。この現世での行為の善悪は必ず来世の報応となってあらわれる。だから仏教で尊ぶところは、この現世で善を行い道を修め、これによって霊魂を鍛えあげ、ついには無為の境地に達し、仏となることである」と述べているのがそれである。
従来の中国人は現世だけを考え、したがって人生は一回限りのものと信じていた。そのため、この「現世」を無限に延長しようとする神仙説が生まれたほとであった。しかし死を避けることは、なんとしても不可能である。神仙説に絶望した中国人は、無限の生死のくりかえしを説く仏教に走った。」
(森三樹三郎『老子荘子』379~380頁)



生まれ変わりであろうが、何であろうが、生きることができるのであれば永遠に生きたいと思う。この自然な欲求からすると、森三樹三郎の記述には説得力がある。

仏教の中国伝播前後での生命観・世界観の変化。

それは否定から肯定への完全な逆転であり、その点を十分意識していないと、仏教に現れる様々な見解を理解する上でも、思わぬ勘違いをすることも少なくないように思う。



5 (補論1)原始仏教・上座仏教における輪廻の理解



上座仏教では、「輪廻は苦だ」と言われることから、上座仏教の人の中には、中国人が、輪廻を肯定的に評価したことに違和感を抱く人もいるようだ。

おそらく、個々人のメンタリティの問題だと思うが、生きづらさを抱えている人には、「輪廻は苦」だ、永遠に生き続けるのは苦しみだという言い回しも説得力があるだろう。

たとえば、いじめを受けた人が自死する痛ましい事件が起きることもあるが、輪廻が苦だというのは、ずっといじめが繰り返され、その苦痛から、自死し、意識を取り戻したら、またいじめられている状態が続いていたというような場面を想像すると知的には理解はできる。

しかし、多くの人は、このような感覚を抱くことはなく、生きることができるものであれば、生き続けていきたいと思うものだろう。

そもそも、釈尊がその教えを説き始めた古代インドでは、輪廻が苦であるという考え方自体が一般的ではなく、このようなマイナーな価値観であったことも、インドで仏教が衰退した理由ではないかと思われる。



バラモン教における)「カルマン・再生の理論と、生存の反復継続を楽しく受け入れ喜んで承諾するという態度とを結合させることは、一貫性に関する論理上の問題を引き起こすことはないであろう。結局のところ
人生は苦より楽の方が多い
ということになる。実際、我々の乏しい証拠から判断すると、初期ヴェーダ時代における人生の評価はそれほど否定的なものではなかったようであるし、また、はるかに後代の中世ヒンドゥー教では、人生は苦であるという提言は人々の注意をほとんど惹かなかったようである。」
(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』82頁)

「インドの通念では輪廻自体はそもそも苦ではありません。あくまで苦というのは、その輪廻が老病死という現象を宿命的に含みこんでいるということなのです。しかし仏教は、その老病死の際限のない繰り返しが輪廻の本質だと考えることで、輪廻=苦と見るようになった。ですから
輪廻は苦ではないと考える人にとって、仏教の教えは不必要で意味がない
ものと映るのです。梵天観請の話で、「世の中には釈迦の教えを聞いても理解できない人がいる」という言葉は、それを意味しています」
佐々木閑発言・佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教』158頁)



満足か不満足かは価値観の問題であり、どちらが正しいなどということはない。
ある人が満足すべきものであるとするなら、それはそれでよいわけで、そんな人には、仏教の実践は必要ない。

佐々木閑の次の指摘も的確だろう。



『いつも私は思うのですが、仏教という宗教は、まるで病院のような存在です。仏教は「心の病院」なのです。(略)
仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません』
佐々木閑『『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』28~29頁』



ちなみに、鈴木大拙もこう言う。



「われわれから見れば人間にはいつまで生きていても、もっと長く生きていたい、という気持ちは離れないものであると信ずる。ましてや悦んで死ぬというような時代の必然的に来るということは信じられないのである」
鈴木大拙『禅とは何か』16頁)



釈尊一切皆苦の言葉から、人生や世界が不満足であるものと考える人も少なくないが、そもそもそのような価値観自体が自分自身の思い込みの産物であろう。

なぜならば、輪廻説のようなオカルティズムを採用することができない(注5)以上、人生は、死により終了するものである以上、本当に人生が不満足なものであれば、生きていることに価値はないのであるから、自死すればよいだけの話であり、仏教の実践などは全くいらないことになるはずだからである。

現にこの世界の中で生きている以上、自分の人生とこれを取り巻く世界を肯定しているはずであり、人生更には世界を否定するような思想は、矛盾するものと言わなければならない。

鈴木大拙が「厭世家たちがいかに否定的に考えようとも、人生は、結局、何らかの形における肯定である」と言い(『禅』43頁)、「われわれが精神的不満を感ずるということには、その反面にすでに満足を感じているということをも同時に意味しているということを忘れてはならぬ」と言うところ(『禅とは何か』13頁)は、素直によく考えられていると思う。

現実に、この世界に生きており、自らの人生及びこれを取り巻く世界を肯定しながら、一切皆苦などと称して、これらを否定することは矛盾であり、そこに病がある。

「応病与薬」は、仏教によく出てくるフレーズだが、このような矛盾を抱える病んだ人には、有用かも知れない。

しかし、そうではない精神的に健康な人には、全く意味をなさないものである。

むしろ、人生の貴重な時間を不必要な病気の治療に費やすという意味でも、少なからず毒でわることは間違いない。

釈尊本来の仏教が出家者と在家者を厳密に区分することは、十分な理由があるといえるだろう。



6 (補論2)仏教家が生命観・世界観の相違について触れない理由



本稿で取りあげたような、原始仏教・上座仏教と、中国以降の大乗仏教との生命観・世界観の相違について、仏教家が触れる例は少ないように感じる。

その理由は次のとおりのものではないだろうか。

(1)日本の伝統仏教の場合  

中国以降の大乗仏教の流れに連なる日本の伝統仏教の仏教家が、この点について、触れない理由は、大乗仏教非仏説を意識したものであろうと思われる。

すなわち、大乗仏教釈尊の直説ではないことは学術的には明白であるが(注6)、伝統仏教の立場からすれば、自分たちの権威付けのためには、釈尊との関連性を強めたいので、この点には触れたくない(注7)。

そして、釈尊の直説である生命否定の思想と、日本の伝統仏教の相違を取りあげれば、釈尊の権威を引き寄せることができないので、都合が悪いということになろうかと思う。

(2)上座仏教(テーラワーダ)の場合

上座仏教の指導者の中でも、原始仏教・上座仏教が生命否定・世界否定の思想に立つということを教えない人もいるようであり、上座仏教の実践をしているという人の中にも、この点に理解のない人がいる。

このようなことの起きる理由は、仏教の律の背景にある在家者に対する教化の戦略にあるように思われる。

すなわち、上座仏教のサンガは、生産労働に従事せず、生殖も否定する上、反生命主義的な特異な集団といえるが(この点については、5で述べたとおり、古代インドにおいても、生命の価値を否定し、輪廻を苦と捉える考え方は少数派であった)、このような集団が、特に、生産労働を否定することとも相俟って、その構成員の生活を安定させるため、サンガ外の一般市民からの支援(布施)を獲得するために、「支援を受けやすくするような振る舞い」をするために作られたものが「律」という規則である。(注8)

このような律の背景にある価値観からすると、「生命否定」などということは、今の日本のほとんどの人には受けいれられるわけはないであろうし、却って、反発を受ける可能性もあるから、日本における多数派に反しない言動をしているのではないかということが考えられる。

実際、スリランカの上座仏教においては、カーストに応じて、教えられる教義が異なるとされており(注9)、その相手方に応じて、教説を変える傾向があることからすると、日本における指導者についても、日本人に対し、表面上唱える教説を変えているということもあり得ることと思われる。



7 (補論3)原始仏教・上座仏教における不殺生戒の位置づけ



釈尊の教えが、反生命主義であるのであれば、その基本的な戒に「不殺生戒」の存在することをどう位置づけるかの問題が一応存在する。

この点、元々釈尊の原始教団においては、肉食が広く認められていたこと(肉食が禁止されるのは中国伝播以降(注10))などを踏まえて、そもそも不殺生戒は、解脱を実現するために必要不可欠な戒というよりも、サンガ外にいる者との関係性を良好にするための決まりである律的なものにすぎないものであったとの指摘があり、興味深い。



「初期仏教教団では肉食は当たり前であった。また仏陀は豚肉を食べて下痢に罹ったという伝承があるほど、彼らは肉食を習慣としていたし、特にそれが問題となることもなかった。 ところが、教団の外からの批判を受けるに至って、 肉食を制限するという方針がとられ、このことが問題として取り上げられ、その伝統は今日まで、 特に南伝仏教諸派に受け継がれている。 (略)そのような経緯、また、 初期仏教教団において三種の浄肉という方便が発達したことなどを考え合わせると、仏教教団の場合、肉食の忌避や不殺生は教団外部からの批判を受けた教団の対応という-面がかなり強いという。したがって、我々が仏教に対して抱くイメージのように慈悲や利他といった倫理的な立場から不殺生が根拠づけられていたと考えることは難しい。」
(加藤隆宏『古代インドにおける殺生』14頁)



本文以上



(注1)仏教における「苦」の概念

「私たちが漢訳で「苦」という言葉を目にした場合、それは直ちに日本語の「苦しみ」を連想させるから、仏教における「苦(dukkha)」というのも、痛みや悲しみといった肉体的・精神的な苦痛を意味するものだと、一般には考えられがちである。
しかし、そうだとすると、快楽に溢れた生活、例えばゴータマ・ブッダが出家の前にしていた生活はそのようなものであったとされるが、それは「苦」ではないのだろうか。(略)
dukkhaという言葉を訳す時、現在の英訳では、しばしばunsatisfactorinessという単語が使われる。日本語に訳せば「不満足」ということになるが、これはdukkhaのニュアンスを正しく汲み取った適訳だと思う。」
(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』50頁)

「「ドゥッカ」という語をいかに訳すべきかについても、多くの議論が戦わされてきた(略)ここで表現されているのは、我々が通常経験する生は不満足なものだ、ということである。」
(リチャード・ゴンブリッチ浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』36頁)

(注2)伝統仏教における生命尊重主義の発想の例

「二〇一一年、真宗大谷派(しんしゅうおおたには)は宗祖親鸞の七五〇回遠忌(おんき)に向けてのテーマとして「今、いのちがあなたを生きている」を掲げた。(略)
真宗大谷派に限らず、仏教界全体として「いのち」「生命」をまるで諸価値の源泉であるかのごとくに扱っている例は多い。」
宮崎哲弥『仏教論争――「縁起」から本質を問う』230~232頁)

「わがままな私の思いを先とせず、生かされている生命の真実に従った生き方をせよ、ということになりましょう。天地いっぱいに生かされている生命ならば、つねに天地いっぱいを、少なくとも地球全体、人類全体という視点のもとに、ものを考え、行動せよということになります。」
(青山俊董「仏教の普遍性について」『曹洞禅ジャーナル 法眼 第20号 2007年10月』3頁)

もっとも日本の伝統仏教においても、本来の釈尊の教説等を踏まえて、生命の肯定に対し、懐疑的な見解を示す例もある。

真宗大谷派に限らず、仏教界全体として「いのち」「生命」をまるで諸価値の源泉であるかのごとくに扱っている例は多い。
 だが原始仏教の価値評価に照らしても、生まれたこと自体、生きていること自体は苦(ドゥッカ)と捉えられ、その苦の根源は有情の生への執着、生存欲望にあると特定されるのだ。仏教思想には本来、反生命主義“anti-vitalism”の側面がある。哲学者で浄土真宗本願寺派住職の松尾宣昭はこう述べている。
「仏教は基本的には現世否定の宗教なのです。否定という言葉が強すぎるなら、この世を決して祝福しないと言えばいいでしょう。生きものが産んで、増えて、地に満ちることは、「家宅無常の世界」に、さらに油を注ぐようなものです。たしかに仏教の中の浄土教においては、肉食も生殖行為も禁止されません。しかしそれはさきに述べた意味での『いたしかたなし』ということにすぎない。食物連鎖と生殖行為から織りなされた生物界のありさまが『いのち輝く』すばらしい生命の世界などとして讃えられているわけではないはずです。それらはあくまでも『火宅』の世界、すなわち煩悩の火の燃えさかった世界でしかない」
宮崎哲弥『仏教論争――「縁起」から本質を問う』232~233頁)

(注3)普通の三法印と原初の三法印

「一 すべての形成されたものは無常である。(諸行無常
 二 すべての形成されたものは苦しみである。(一切行苦)
 三 すべての事物は私でないものである。(諸法無我
(普通は、諸行無常諸法無我涅槃寂静三法印といいますが、右が原初の三法印です)」
(田上太秀『迷いから悟りへの十二章』13頁)

(注4)「仏教が老荘思想に類いするものとして格義仏教的な理解がされた」との見解

1 「仏教が中国に受けいれられたとき、そうした独住と瞑想の主張が、まず荘子の逍遥遊や斉物論(せいぶつろん)の思想に近いものとみられ、天地同根、万物一体といった自然静観の
オプティミズムと結びついた
ことは確かである」
(柳田聖山「禅思想の成立」『無の探求〈中国禅〉』48頁)

2 「中国知識人の間に仏教の理解ないし受容が急速に進展することになった。それでは中国人は仏教の教義のうちの、どのような点に魅力を感じたのであるか。(略)
仏教の教義と老荘思想との間にある共通点を求め、老荘思想を通じて仏教を理解しようとするもの。これは初期の貴族的知識人の仏教理解において、その主流となったものである。この方向をとるものは、ともすれば老荘的仏教、清談仏教となることが多い。」
(森三樹三郎『老子荘子』379頁)

(注5)上座仏教(テーラワーダ)における輪廻説

上座仏教(テーラワーダ)においては、人間が死後生まれ変わることを前提とする輪廻説を採用している。次の記述はその説明の一例

「釈迦の教えの中には今の自分にとって必須の、優れた教えがたくさん入っていることは認めても、だからといって釈迦の教えを丸ごと全部、絶対の真理として受け入れるわけではない、という意味です。
たとえば釈迦は、業とか輪廻といった、今の時代ならそのまま受け入れることのできないような奇妙な教えを説きました。」
佐々木閑大乗仏教 ブッダの教えはどこへ向うのか』272頁)

この考え方は極めて強固であり、生まれ変わりの否定をする教説は、異端とされる。

ミャンマーには「国家サンガ大長老会(略)」というものがあります。その中で(略)二〇一一年に非法とされた教えがあります。(略)現在業論仏教(略)で、過去生、来世の輪廻を否定し、欲界、色界、無色界からなる三十一界説を否定して、現在の業のみを認めるものです。(略)
現在業仏教はテーラワーダ仏教の伝統的な立場からは問題外です。過去生や来世を否定し、六道輪廻否定するなど、現代の日本の仏教学者に多くみられる意見と共通するものがありますが、特に深い瞑想体験や経典理解から出たとは思えない説です。」
(西澤卓美「厳格に伝えられるテーラワーダの伝統と瞑想の文化」箕輪顕量監修『別冊サンガジャパン①実践!仏教瞑想ガイドブック』50頁)

因みに、日本の上座仏教の勉強会などに参加すると、「生れ変わり」について熱く語る人に接することが少なくない。
私が瞑想等の仏教の実践をする人達から距離を置くことにした理由は、いくつかあるが、その一つがこの種のオカルティズムである。
ただし、見方を変えれば、一種の自殺防止の意味合いもあると思われる。
本文でも触れたように、強い生きづらさを感じたときに、人生に価値がないものとすると、生きづらさを解消する一番簡便な方法は、自死であり、仏教の実践などは全く必要なくなってしまうからである。
しかし、生れ変わるとすると、死んでも次に意識を取り戻したときには、新たな人生が始まっており、人生の苦しみが続いていくことになり、死ぬことが無意味になるから、自死の防止が図られるということになる。
したがって、一切皆苦を前提とすると、輪廻は一切皆苦と不可分一体の根本原理ということになる。

(注6)大乗非仏説

原始仏教、部派仏教、大乗仏教の))「非連続的な面を強調することになる一つの説が、大乗非仏説である。大乗仏教釈尊が説いたものではない。したがって真の仏教ではない、というのである。
(略)歴史的事実として大乗経典が出現するのは、釈尊滅後、およそ400年近く経ってからである。それらの経典が、少なくとも歴史上の釈尊が直接説いたものではないことは、明かであろう。」
(竹村牧男「仏教は本当に意味があるのか」10頁)

大乗仏教は、釈尊=ゴータマ・ブッダが直接に説いた教え(金口(こんく)の説法)からは遠く隔たっている。そのうえ、これまですでにいわゆる大乗非仏説(大乗は仏説に非ずと説く)が、インド、中国、日本で唱えられ、それをさらにみずから否定する大乗仏教の側の自己弁明のみが目だつ。他方、部派仏教は大乗仏教に関しては何も語らず、問題にさえしなかったらしい。」

三枝充悳『仏教入門』37頁)

(注7)日本の伝統仏教の仏教者における釈尊の教説と大乗仏教とを直結させようとするバイアス

「佐々木 (略)日本の仏教学者は宗門出身者が多いですから、私からすると、どうしても自らが信仰する宗派を正当化する方向にバイアスがかかってしまうように見えるんですよね。(略)
佐々木 大乗仏教は、本来の初期仏教を大きく改変することでできた、新たな宗教運動であるということは、これはもう曲げられない事実だと思います。それでも、下田(正弘)さんや日本の仏教学者の中には、どうしても大乗仏教は釈迦の仏教の直流であると言いたいという思いがある。」

佐々木閑発言、佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教』279~281頁)

(注8)原始仏教・上座仏教における律の位置づけ

「佐々木 今も昔も、世俗社会では幸せに生きていけない人たちのために仏教サンガは存在しています。でも、「人からもらったものだけで食べていく」という教団を維持するためには、世間から「ものをあげたい」と思ってもらえなければなりません。つまり、周囲の人々から敬い慕われる教団でなければならない。
在家の信者に支えられる托鉢教団を維持運営していく方針として作られたのが、サンガの法律集である「律蔵」です。したがって「律蔵」という法律集は、釈迦に依存しながら独自の価値観を追求していこうとする組織が、社会との間にどういった関係性を構築すべきかを示してくれる指針です。」
佐々木閑発言、佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教』84頁)

(注9)上座仏教(テーラワーダ)におけるカーストに応じた教義の相違

スリランカは大変カースト制の厳しい教団組織であります。一番高いカーストじゃないとスリランカの、そのタイから持ってきたサンガと言いますか、サイアム・ニカーヤ(シャム・ニカーヤ)と呼んでいるのですが、ここは最上位のカーストじゃないとサーマネラ(得度)できません。(略)
スリランカは多くの人が最も原始仏教の姿を今日まできちんと受け継いでいると評価する、そういう仏教であります。しかし、実は建てまえの話(略)
とにかくここで少し注目しましたのは、そのカースト制度、大変厳しい。(略)能仁先生は仏教がスリランカに伝わる前の頃からヴァルナ制を仏教では認めていてというふうな可能性も示唆されています。同じ仏教徒言っても、バラモンとクシャトリアの仏教と、それからヴァイシャとシュードラの仏教はちょっと説く内容が違っていてもいいのだというような話があるということです。」
(中村尚司「報告Ⅰ 中村尚司「東南アジア上座仏教の現状と課題」龍谷大学アジア仏教文化研究センター『2010年度 第1回 国内シンポジウムプロシーディングス「アジア仏教の現在」』6~8頁)

(注10)仏教における肉食の禁止は大乗仏教以降
道端良秀「中国仏教と肉食禁止の問題」↓が詳しく参照されたい。
https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2704&item_no=1&page_id=13&block_id=28





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