「孤独」について

X(旧Twitter)の自分のアカウント中、「孤独」で検索して表示された発信をまとめてみました。
初期段階では、人とのつながりを重視し、「孤独」を問題として捉える発信を多くしていました。
2023年頃から、人とのつながりや癒し/ケアを求めることが却って様々な問題を生み出すのではないかとの問題意識と、人間の本来的な強さに対する再認識から、「孤独」を肯定的に評価すべき面もあるとの発信が多くなりました。
改めて見てみると、初期段階は、ほとんどがヤフーニュースからの引用ですが、2023年以降は自分の言葉を書いたものが多い。
一般的には孤独はやはり問題であり、それを肯定するとなると、自分自身の言葉で語らざるを得ないのではと。






私もしたことがあるけれど、公園等で孤独を感じさせる中高年男性が鳩にパンくずをやる場面等は稀ではない。

明らかに与えることによって癒されているけれど、何故か人間相手には難しい。
午後1:00 · 2020年10月7日



いるよ、高齢者で同居する人
最初は、ほほえましいような気がするんだよ

でもさ、年寄り同士が支えあってたら
体力削られるんだよね

年寄りの同居は“減る”んだよ

『傘寿まり子』2

……中高年の孤独の課題に、新しい視点を得られました。
#高齢者 #孤独 #傘寿まり子
https://amazon.co.jp/%E5%82%98%E5%AF%BF%E3%81%BE%E3%82%8A%E5
午後1:37 · 2020年11月14日



誰でも #孤独 な時があります。
#同調圧力 の強い社会で自分の #個性 を圧し殺す人も少なくありません。
「日常凜然としてあること」は個性を静かに発信してそんな仲間を応援することです。
午後9:03 · 2021年1月10日



『患者を診ていると…孤独が募ることによって抑うつが悪化…
ためらわずメンタルの専門医…へ…

不安…は立ち止まると増える…

ご飯を作り、会社に行く…
目の前の仕事をし…小さな達成感を積み上げていくうちに不安は…雲散霧消していきます』
#ニュース #コロナ #帚木蓬生
午前7:09 · 2021年1月27日
【新聞記事の引用】


『#自殺者数 はほぼ全ての年代で下降傾向にある中20歳未満はむしろ上昇…
NPO「あなたのいばしょ」には、#孤独 と死が隣り合わせの相談が日々寄せられる…
官房長官会見…生活困窮者支援では経済的な困窮のみならず…#孤立 は重要な生活課題の一つ』
#ニュース #自殺
【ヤフーニュースの引用】



『私ね、いい恋愛をしたら、あとは一人でいても寂しくないと思うんです。

すごく愛されたとか、愛したとか

そういう記憶があれば、いくつになっても一人でいても、寂しいとか孤独だとか思わないんじゃないかしら』
#Yahooニュース #黒柳徹子
午前7:15 · 2021年3月2日
【ヤフーニュースの引用】



仕事と家庭がある以上、限られた範囲になりますが、芸術に興味を持つ理由は

自己と他者との良好な関係

という矛盾を孕むものの充足のヒントが芸術にあると感じるからです。

もちろん、孤独も悪くありませんが、慈しみ合う方に魅力を感じます(1)
#芸術 #人間関係
午後9:00 · 2021年3月2日


岡田尊司先生の『 #マインドコントロール 』では、#洗脳 に沿う環境の例として「 #禅 の修行」も挙げられていることも興味深い。

短い睡眠時間、乏しい栄養、孤独で隔絶された環境、プライバシーの剥奪、過酷で単調なルーチンワーク、快感や娯楽が一切許されないこと、理不尽で筋の通らない扱い…
午前7:56 · 2021年4月4日



「世間」の生きづらさを処理し切れない人は「出世間」を目指す。しかし、同じ人間はいない以上、出世間の先は新たな世間。
#大森曹玄 老師は専門僧堂を酷評するが、似た話は #澤木興道 老師や #関大徹 師にも。
出世間を目指す限り、次第にセクト化、究極的には孤独に陥る
午前9:15 · 2021年5月1日



『男性は、職場と家族以外の人間関係を作るのが苦手…「男らしい」が故に、…「人に助けを求められない」まま…最悪の場合は #自殺 に至るのが、一つ目の男性の #孤独 です…
常日ごろから仕事や家族以外のちょっとした「依存先」を作っていく』
#Yahooニュース #男らしさ
午前7:39 · 2021年5月9日
【ヤフーニュースの引用】



『 #コンプレックス との対決などというと、内向的な日本人の陥りやすい欠点として、「自分の内部を見つめて」苦行しなければならないと思い、自分の欠点について検討したり反省したり、「孤独を求め」て旅に出たりすることが多すぎるように思われる』(1)
#河合隼雄
午前9:10 · 2021年5月29日

『そのような孤独な修行をするよりは…嫌いな同僚と争い、あるいはライバル同士のなかに芽生える友情に驚きなどしてゆくほうがはるかに #コンプレックス の解消につながる場合が多いのである』
#河合隼雄ユング心理学入門』64(2)
午前9:10 · 2021年5月29日



『「日本の高齢者の3割は友達がいない」との結果…

「誰かと仲よくすることで大切なのは、数ではなく質。『孤毒』を避けるには、親しい友達が1~2人いればいいはずです」』
#Yahooニュース #孤独
午前7:02 · 2021年6月22日
【ヤフーニュースの引用】



『自己中心的だった被験者は、その後の年月で #孤独 と #うつ に陥ることが多かった。孤独な人には #共感 を避ける動機がある…
他人に心を寄せると、その気持ちを受け止めきれない気がするからだ。そこで自分自身だけに目を向ける…
余計に状況をこじらせる』
#ニュース
午前8:21 · 2021年7月17日
【ヤフーニュースの引用】



『 #孤独死 における #自殺 は8倍近いもので、特に女性は9倍を超える…

30代までの自殺による孤独死が全国民の死因のおける自殺の割合を大きく上回っている。20代以下では…自殺の割合が13.8%に対して26.5%と倍以上であり、特に20代以下の女性は39.2%と3倍』
#ニュース
午前7:44 · 2021年8月10日
【ヤフーニュースの引用】



『 #陰謀論 に傾倒した家族らへの接し方を心理学者らが提唱…
▽相手を完全否定せず,情報の根拠を確かめるように促す▽嘲笑しない▽説得や論破ではなく…心の奥に不満や不安がないか理解しようとする
…否定されると…強固になる』
… #孤独 の問題かも
#ニュース #新型コロナ
午前7:26 · 2021年9月26日
【ヤフーニュースの引用】



『日本では家族など…以外に居場所を持たない人たちが圧倒的多数…
家族以外に…相談できる人もいなければ #ひきこもり …へと向かう可能性は大い…
「ひきこもりから回復するとき」には…「親」の存在が大きな役割…しかし…家族関係がうまくいっていなければ…』
#孤独
午前7:06 · 2021年9月27日
【ヤフーニュースの引用】



『 #ひきこもり による #孤独 孤独による #セルフネグレクト は,命の問題…
60歳未満の現役世代(20代~50代)の孤独死は男女ともに死因の全体の約4割…
2017年東京都区部の死亡総数7万8278人の中の異常死は1万3118人。この…中で #孤独死 は…4777人で,36%』
#Yahooニュース
午前7:11 · 2021年10月4日
【ヤフーニュースの引用】



『 #フレイル とは #高齢者 の筋力や活動が低下している状態のこと… #要介護 の前段階と言われています。
フレイル予防のためには
栄養,運動,社会参加
の3つが大切…
#コロナ禍 である今は… #孤独 な状態もフレイルを引き起こす要因の一つ』
#ニュース #介護 #介護予防
午前7:09 · 2021年10月25日
【ヤフーニュースの引用】



「一人が幸せ」とか「孤独がよい」という語りは,「死にたい」という語りと同じで,本気ではない例が多いんじゃなかろうか。
本気で思っているのならわざわざ他者にわかるように表白する必要はないわけで,その実,「一人にしないで欲しい」という訴えと理解すべきではないか…
午後6:11 · 2021年10月26日



「 #孤独 でいいんだ]
というテーマの
有名な作家さんの本が
一時期立て続けに出て
「あの人でも孤独なんだ!」
と勇気づけられる人もいたのだろうけれど
持ち上げてくれる編集者の人や
何よりも多数のファンの人がいる
はずなので
ビミョーだよなあ
午前8:10 · 2021年10月27日



『 #高齢者 の #犯罪 は、30年ほど前は全体の2.1%程度…ところが…2020年には過去最悪の22%…
女性は万引き、男性は暴行…
主たる原因として考えられるのが、“ #社会的孤立 ”…
#孤独 に陥っている #老人 は、プライドが高い人が多く自分から垣根をつくってしまいがち』
午前7:17 · 2021年11月6日
【ヤフーニュースの引用】



『経済状況と関係なく,心身のコントロールがきかなくなった結果,独りでこういう状況に陥っている…普通の家庭の最後の姿だけに,ショックを受けた… #老後 のイメージが崩れ…

過酷な状況でも食べて生きている人たちの…生命力に毎日感動していて…』
#ニュース #高齢者 #孤独
午前7:49 · 2021年11月8日
【ヤフーニュースの引用】



『一般的に事件の背景には孤独感や攻撃性がある。 #孤独 や怒りは人間の生存のためにある強い感情で、行動を大きく方向付ける。現代は孤独が顕在化しやすい社会になった…
#格差 の広がった社会構造になり…おおらかさが失われ、負の感情がまん延している』
#ニュース #犯罪
午前7:13 · 2021年11月16日
【ヤフーニュースの引用】



『38%がフルタイムでの牧師職を辞することを真剣に検討…
パンデミックが進むにつれ、牧師たちは全体的に過重な負担と孤独を感じており… #プロテスタント の主流派教会では…2021年10月…牧師の半数が「辞めることを真剣に考えている」』
#キリスト教
午後10:18 · 2021年11月25日
キリスト教新聞の引用】



『思ったのは「誰かと会わないと何も始まらないんだな」ということ…
孤独にラジオを聞いていた彼らが…顔を合わせ…大きな動きを起こしていく。誰かに会いに行くことで自分の外側が動き出し,自分の内側も動き出す…TVやパソコンの前にいるだけでは何も変わらない』
初めて知りましたが
これはいいな
午後1:18 · 2021年11月28日
柳澤健の発言の引用】



『 #アルコール依存 は本人の意志ではコントロールしにくい…病院や公的機関に助けを求める第一歩が重要…
最も心配していることは #孤独 を紛らわせるための #飲酒 …
#アルコール が大切な人との関係を壊し… #孤独感 からアルコールに走る…悪循環はお決まり』
#ニュース
【ヤフーニュースの引用】



日本赤十字社の調査で,全国の高校生や大学生の大半が #無気力 や #孤独 を感じたり,人間関係や対人スキルの構築を不安視したりする傾向…
他愛もない雑談は #コロナ で失われた感情の共有となり #孤独感 を緩和…
若い社員を上の世代が温かく見守る姿勢が大切』
#ニュース
午前7:16 · 2022年1月29日
【ヤフーニュースの引用】



『身寄りのない #高齢者 …入院前まで…一人暮らし…一命は取り留めたものの…認知症もかなり進んでいます…
自宅に戻ったところで,1人で生活することは困難…
施設を…探して…問い合わせ…
「保証人がいないなら、うちではちょっと…」』
#ニュース #独居老人 #孤独
午前7:02 · 2022年2月1日
【ヤフーニュースの引用】



『社会的なつながりを持つ人は,持たない人に比べて,早期死亡リスクが50%低下…
#孤独 が原因で #アルコール依存症 になったり,ゴミをため込んだり…
「…頼れる人」として「友人」を挙げた日本人男性は14.1%。米国の33.9%,ドイツの48.2%と比較して低い割合』
#ニュース
午前7:23 · 2022年2月24日
【ヤフーニュースの引用】



『一日に約1200件,開設以来24万件以上の相談…
8割が高校生,大学生,専門学校生,院生を含む若者…
「何もしていなくても涙が出る」などの相談が毎日あります。
学生の #うつ病 の増加が深刻だというデータは世界中で見られ,当然 #自殺 者数も増えています』
#ニュース #孤独
午前7:31 · 2022年3月8日
【ヤフーニュースの引用】



周囲に対する違和感
は幼稚園頃からあり
小さい頃から友人がおらず
理解者としての妻との出会いが大きかった

…と考えてきたのですが
今朝方記憶を遡ったところ
本当に孤独で友人がいなかったのか疑問がわき
劣等感によるバイアスの一面もあるではとも感じます
午後11:28 · 2022年3月24日



私は意思疎通が苦手で孤独なイメージを自分で作っていましたが,十代をふり返ると積極的に多くの人と関わる
依存先の複数確保
で楽しく精神の安定させていたと感じます
ボランティア団体なら攻撃的な人もいませんし
単身赴任で職場外の人間関係の乏しい現状は危険だなあ
午後9:45 · 2022年3月27日
【以下を引用】
中学では3年次にいじめを受けましたが
振り返ると「依存先の複数確保」に乗り出した時期
自分なりに生存のために努力していたのだと思う
努力と言っても楽しい思い出でうまいやり方でした
クラスと部活のほか
TRPGとボランティア…学外の人間関係も一気に拡がりました
午後10:10 · 2022年3月25日



下方比較で癒される自分の性癖に気づいたのは40代に入り,中高年の孤独対策として坐禅会や瞑想会を巡るようになってからでした
就職後,職場外の人と深い話をする機会がなく,等質な世界におり
瞑想会等にいる人と比較し,世間的な基準だけでいえば,所得や家族関係で恵まれていることに気づきました(1)
午後8:36 · 2022年4月10日



『われわれは他人を何らかの方法によって「操作」しようと考えることが多いのではなかろうか。つまり,自然科学による「操作」があまりに強力なので,人間に対してもそれを適用しようとするのである。
しかし,もしそのように考えるならば,その人は他からまったく切断され,完全な孤立の状態になる』(1)
午前7:01 · 2022年4月24日

『現代は孤独に悩む人が多いが,原因として,思うままに他人を動かそうとのめり込んで,人と人との「関係」を失っていることが考えられないだろうか。
相談室に訪れる多くの人に対して
「関係性の回復」
が課題になっている,と感じさせられる』(2)
河合隼雄心理療法序説』61-
午前7:02 · 2022年4月24日



承認欲求を持つことは人間が群生動物である以上,健全なことですが
個体として存在することが前提なのですから,承認欲求に支配されてもいけない
何事も自分一人で,ただ楽しめれば十分なはずで
他者の承認などの他の対価を絡めると不幸を味わう
孤独を楽しめるからこそ
群れることを楽しむことができる
午前10:04 · 2022年8月7日



私も在家禅にいた時,人間関係に癒された面もありました
よく言われますが,自覚的に宗教にはまる大きな要因の一つは孤独なのでしょう
更に何らかの絶対的なものと結びつきの物語が本当に孤独な人には魅力的なのではないかと思います
午後9:54 · 2022年9月5日
【以下を引用】
『誰からもまともに扱われなかった存在が、受け入れられ、認められたと感じるとき、そここそが生き場所となる(17-)』

『自己本位で…自己主張をもつかに見えた人が、マインド・コントロールされてしまうというケース…で認められるのは、自己愛のバランスが悪い』
#宗教 #カルト
午後8:21 · 2021年2月2日
『一方では…誇大な願望をもち、偉大な成功を夢見ている…
他方では、自信のなさや劣等感を抱えており、ありのままの自分を愛することができない。
誇大な理想を膨らませ…どうにかバランスをとろうとしている(85)』
岡田尊司マインド・コントロール
#宗教 #カルト
午後8:23 · 2021年2月2日



私自身の黒歴史は,在家禅(宗教団体)に入って活動したこと
私自身の劣等感や孤独感の産物.
私の精神の問題点に向き合えたことや自分自身が他者と対立してでも自由をよしとすることに気づいたことなどは通過儀礼的機能を果たしたとも言えるが,認知的不協和の是正は違うと感じる
午後2:45 · 2022年11月3日



自分の問題は,どんな答えでも自分で責任を負えば済む.
対照的に,自分の責任だけで済まない他人にも関わる問題は深刻に考えるに値する.
そうならば,扶養家族などのいない孤独な人には深刻な悩みはないはずだ.
しかし,孤独な人の方が深刻な悩みを抱えがちなのは,考えてみると興味深い
午前8:33 · 2022年11月13日



辛い時に辛いと言い
苦しい時に苦しいと言う
天真爛漫でいつも笑顔は無理がある.
最後は自分をつぶすか
爆発して他者を攻撃するか.
しかし,常に感情を吐露しても他者を傷つける.
悪循環を止めるため,どこかで感情を放出する必要がある.
他者とよい関係を作るためにも孤独な時間は大切なのではないか
午前8:44 · 2022年11月18日



初めて購入した河合隼雄の本.
他者を道具とすることが孤独を招く
教育に関する植物のたとえ
辛い人は感謝を口に出せない
症状による自我の保護
クライエントに対する示唆の持つリスク
クライエント自らに生き方を見い出させる=人間の持つ力への信頼
…気づかされることが多く,折に触れ見返します
午後5:42 · 2022年11月23日
河合隼雄心理療法序説』に関するもの】



男女の差異=「所有(志向)/関係性(志向)」
斎藤環先生が言っているらしい
ジェンダー論は勉強不足ですが
男性性・女性性の表現としてはよさそうに思いました.
男の人間関係は支配・被支配(=所有)の関係になりやすい(私にもそれがある)
男性の中高年に孤独の問題が生じ易い背景であると思う
午前11:19 · 2023年2月12日



実存主義は不安な状態こそ人間の根源的なありかただと考える.
人としてこの世に生きるとは,不安をのがれて生きることではなく,不安を生きることだ…
不安や孤独や不条理.それに押しつぶされることなく、それを見つめて生きるには,強い主体性が要求される」
『事典哲学の森』458
午後10:41 · 2023年2月19日



自分だけのことなら
好きにやればよいだけの話で
どんな結果も受け入れるだけの話
考えるようなことはない
他者との関係を配慮したいという欲求があって初めて真剣な悩みが生まれる.
とてもよい悩みだ
孤独な人間に真剣な悩みなどない
#もっと解像度のよい話があるはずだ
午後0:55 · 2023年2月26日



折角,夫婦になったのに,なぜ,慈しみ合えないのか
こんな家庭は意外と多いのか
ツイートを見る限りでは離婚した方がよいと感じましたが,どうだろう
父親は, ケアして欲しい系の家父長制主義者のようで,離婚後は精神的に不幸な人生を送り,最後は孤独死と思うが,やむなしだと思う
午後6:05 · 2023年3月19日

攻撃性は往々にして弱さを背景にしており,嫌いにならないことを大切にしたい.
しかし,ケアを欲する横暴な父/夫の例など手のほどこしようがなく,家族を含めた周囲の人に同情するしかない例が多い.
距離を置く,関係を断つ.
ケアは行政等に委ねてやむを得ないと感じてきた
午前7:00 · 2023年3月21日

ケアされたいというのは
支配したいということでもあり
ケアすることは
支配に直面することでもあるから
ケアに強さ―技術や専門性などを含めた―が要求されるのは
今更ながら当たり前なのだよな
午前7:54 · 2023年3月21日



「家庭治療文化」は,先の延長の風で,河合隼雄,東山紘久等にも類例があり,生活実感にも沿う…肩の力の抜けた「平凡かつ単純」
「雑談,買物,酒,タバコ」の序列には意味がありそう.後ほど病的.
最も有効かつ健全なものは雑談…無意味・無目的に集える人がいるか.
孤独ならより工夫が必要になりそうだ
午後10:23 · 2023年5月17日



家庭が重要であるからこそ,そこに問題があれば悪影響も大きいのは常識だろう.
大家族ほど因習に囚われ生きづらいことはありそうだ.
慈しみがなく,世間体を取り繕う家庭などはない方がまし.
世間体や孤独をおそれ,愛のない家庭をつくるくらいなら,お一人様が良いに決っている
午後10:27 · 2023年5月28日



『治療文化論』は元々統合失調症と悟り体験との関係性への問題関心から読み出したので,「シャーマンの供給源」の話の中での分裂病的な病を発生しやすい時期と方法に関する指摘は興味深い.
孤独な子ども(だった人)をリクルートするものの,かつての禅寺で孤児を受け容れていたことにも通じそうだ

午後11:34 · 2023年6月2日



同調圧力に屈する必要はない
いわば集団による攻撃だから協調性は問題とはならない
…妥協しない分,群れにくくはなるけれどね
私は人恋しい癖に孤独感が拭えない
このままでよいのかなあと思わないでもないけれど
心地よくもある
#当たり前のことでも言っておく
午後10:55 · 2023年6月21日



美術業界の権力関係もひどいですが
一般人ストーカーは内省材料
40~60代(私はジャスト世代)
狙いは真面目で大人しそうなタイプ
安い作品買う→SNSにアップ→作家さん等から「いいね」→ちやほや感→居場所見つけた気に→若い女性に孤独感を癒されに行く…
改めて「キモイおっさん」の自覚が大切だなと
午後10:40 · 2023年8月9日



孤独であることは恥ずべきことではない
#何を今更
午後6:58 · 2023年8月16日



宗教に救いを求める人には,救いを欲する前提となる問題があるはず.
ありがちなのは(過去を含めた)家族関係,経済関係,差別,広義の精神障害,劣等感や孤独等.
宗教が,その解決策として本当に適当かは検討した方がよいのではないか
…上から目線ですが,長引くほどやめにくくなる
午後5:30 · 2023年8月27日



「孤独な戦い」
芸術家の人の話には学ぶ所が多いのですが,この種のフレーズがよく出てくるので,根源的なところで何かが間違っているのではないかと思ってしまう.
無論,目の前に力のある者による加害があるなら,別ですが, どうもそんな状況ではないという
午前8:14 · 2023年9月6日



人恋しいけれど
徒党を組むのは苦手
同調圧力に押し潰されるくらいなら
孤独死の方が幸福だ
午後1:03 · 2023年9月9日



日本人の多数派が
画一的集団的である
のと同時に
相談相手がないなど孤独である
との矛盾は
画一性,集団性が
同調圧力に基づくものなので
他者を攻撃的なものと捉え易いからではないだろうか
午後2:50 · 2023年9月10日



人恋しいけれど,人付き合いは苦手という私の性格からすると,個と他者(集団)との関係は人間の永遠の課題であるというのは説得力がある.自由と公共でもよい.
群生の動物で独立した生存を志向しながら他者を必要とするからだと思うのですが
他者が必要であるのと同時に
孤独も大切なのだと思う
#何を今更
午後0:54 · 2023年9月14日



数年前はほかの人と一緒にいることが大切ではないかと思っていた.
最近,孤独/独立の方がより大切だと思うようになった.
両方大切なのは勿論で,意固地になる必要もないけれど,迎合するのは違うし,逆に,他人を迎合させてもいけない
午後9:10 · 2023年9月20日



利他は大切ですが,一番簡単にできることは
「孤独を受け入れること」ではないかと思う.
「孤独は嫌だ」というのは
他者にかまってくれということであり
他者を制御/支配すること.
孤独は何もしなくていい.
その上,他者の自由を確保できる.
これは簡単だ
午前8:05 · 2023年9月24日

集団は随時その構成員に変動の生じる多様な個の集合体だから
個と集団との関係性は永遠の課題.
状況は絶えず変化し,対応も変化する.
私自身は,40代に入ってから孤独に問題を感じるようになり,家族へ回帰したり,職場以外の集団に所属したり,集団に力点を置いていましたが
最近は孤独の比重が少し高い
午前8:55 · 2023年9月24日

今朝も,父親の子供に対する加害・支配を訴える発信を見て,私に何ができるかを問う.
単身赴任の精神的不調や瞑想会,坐禅会で親子関係の問題のある人に少なからず会い,家族の価値を見直しましたが,
家族に価値を置く時に,支配欲の実現を重視する人が多いことを知り,孤独への自足を促す方へシフト気味です
午前8:04 · 2023年9月26日



「孤独を抱えた男性の中には、女性が自立し、結婚するよりも独身のままキャリアを大切にしたい女性が増える中で、自分たちが“不要”になったと焦りを感じ、それが女性への憎悪に変わる人もいて、そうした過激な発想の背景には、“トキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)”が深く関わっている」
午前10:27 · 2023年9月24日

孤独と非モテとは別問題で
孤独自体はライフスタイルとして問題がなくても
他者から承認されたいのに果たせず,孤独感を募らせる人には,他者に対する憎悪を抱く人が少なくない
午前10:42 · 2023年9月24日



孤独が手放しでよいと思えないのは,それが他者と交流する能力の欠落を意味するからだろう.
私自身が孤独を気楽だと思う理由には人付き合いが苦手な所があるからで
私自身がその方面の能力に欠けると言わざるを得ない
午後10:52 · 2023年9月27日

私の場合,ほかの人を楽しくさせる能力に欠ける.
自治会の夏祭りのとき,子供達が神輿を担いでる間に,大人に鳴らさせる鈴などの鳴り物を配って回ったのですが,うまく説明したり,その気にさせることができず,受け取ってもらえない.
流れは忘れましたが,少し若い人が代わり,彼の時には受け取ってくれる
午後11:00 · 2023年9月27日

私にはほかの人と交流する上で,どこか要領の悪い所があって,幼稚園の頃からずっとそれが続いている.
私の肉体の性能がそれだから仕方がないですが,それで開き直るのも現実を見ない感じがしますし,人付き合いがうまい方がよいには違いありませんから,素直にうらやましいと思うようにしています
午後11:10 · 2023年9月27日



小此木啓吾『自己愛人間』読了
自分のことが書いてあると恥ずかしくなる部分
孤独が好きだというのも,この延長だろうなと.
矯正しようとは思っていて,今の仕事もその意識があって選んだものの,50歳を過ぎると可塑性は期待できない.
お付き合いをして,悪い部分が出ないようにする路線
午後0:53 · 2023年10月4日



現代思想』10月号中
栗田英彦・橋迫瑞穂対談中の
スピと暴力との関係の指摘は興味深い.
前提としての「物質的、身体的な問題のないが性格的に周りとうまくいかない人」の指摘も鋭い.
周囲の人を見返したいなどの劣等感が背景なら
癒し⊃暴力は理解しやすい.
孤独と陰謀論との関係も同様
午後9:21 · 2023年10月8日



「孤独に耐える」
…こういうのがよくありますが,確かに「一緒に誰かいたらいいなあ」と思うこともありますが,「耐える」は大袈裟では.
私の場合「一人の方が気遣いをしなくてよいから気楽」なこともよくあり,孤独が嫌いな訳でもない.
療養等の問題がなければ,孤独自体はライフスタイルでは
#何か見た
午後6:02 · 2023年10月24日



単身赴任の時に精神不調を来たしたことがあり,その頃「中高年の孤独」をニュースで見かけるようになり,孤独を問題だと強く感じるようになったのですが,最近,少し違うのでは…と.
私のかつて問題も就労環境(パワハラ上司)が主たる要因で.
まあ家族や友達がいれば危機的状況は生じにくいのでしょうが
午後6:10 · 2023年10月24日

「中高年の孤独」も,問題となる事例の実像は介護や病気などの福祉や経済の問題で,孤独それ自体は少し違うのでは…と漠然と考えています
午後6:14 · 2023年10月24日

そんなに「孤独」は大問題なのかなあ…深刻に考えすぎている人が多いんじゃないかという気がする. 私も少し前まで深刻な感じがしていたけれど…
#何か見た
午後9:02 · 2023年10月28日



「癒し」や「キラキラ」あるいは「ポジティブ」なども疲れた人,自信をなくした人を依存させ,財産的,時には精神的な浪費をさせる危険がありそうで.
孤独の評価はこの感覚もあるのですよね.
本当にそんなものがいるのか
今がそんなに悪いのか
悪いとしても“それ”により却って悪化するのではないか とか
午後7:45 · 2023年10月25日



「独身で子供もなしに独りで寂しく生きるのを理不尽と思わない覚悟」
…子どもがいるのが豊かなことは間違いないが,「覚悟」は大袈裟だろう,孤独に何の問題があるのか
…と思いましたが,高齢の女性だから,「女は結婚して子供がいなければダメ」との幼少期からの刷り込みが未だ精神の根幹にあるのかもと
午前7:59 · 2023年10月26日



NHKの宗教2世のドキュメンタリーの鑑賞終了
1世母の入信経緯について「夫婦関係や子育てについて悩んでいたときに声をかけられた」という人が2名.
信者ではない友人が心の支えという元信者の若い人.
…最近「孤独でよい」路線の発信を意識していますが,ある種の強さがいるのかな…と
午後10:08 · 2023年10月29日



中高年の男性は,女性にケア(性的関係~生活の世話~会話等)されたいという欲望から自由になった方がいい…孤独でも人生は十分楽しい
#ブーメラン
午後8:24 · 2023年11月2日




孤独であることと
人に対して優しくあることとは
私の中では矛盾しない.
私はほかの人を楽しませることが苦手だ.関係を持ってもらうことによる相手の負担がある.
……世間では,いたわり合うと称して,優しい人に依存する…優しさをうばうような例も少なくないのではないか.
午後7:41 · 2023年11月3日

もちろん,目の前に助けの必要な人がいれば,不器用な手で手を差し伸べて…で,それきりでいい
午後7:43 · 2023年11月3日



「 「孤独に強い」のは男性というイメージがあるかもしれませんが、逆です。実際、一人や孤独を快適だと感じる割合は圧倒的に女性のほうが多い…
「孤独を楽しめる」と回答した割合は…女性のほうが男性より1.3倍も「孤独耐性」が高い」
…情けない同輩が多いな
午前10:46 · 2023年11月5日

【下記の記事を踏まえて】
president.jp



朝,奥さんに埼玉の立て篭り事件が子どもたちの間で話題と聞かされ,中高年の孤独の話に.
相手になって欲しい,ケアされたいとの支配欲から益々人が離れ暴発.
男は孤独に生きる強さが必要.
女性と違い,男性は, マウンティングしたくなるから, 老年期に同性同居困難
…とか持論を聞いてもらいケアされる…
午前11:32 · 2023年11月5日



「共同体に入り損なった人間」
……私も同類項ですが,生存に必要でなければ,何かしらの共同体に入ることはもう勘弁.
入りたいけど入れない…
ではなく,入りたくない.
中年期に色々やり,結局,ものになりませんでしたが,私は,ほかの人と対立してでも自由を欲するのだとわかったことはよかった
#何か見た
午後0:38 · 2023年11月5日

中年期の色々は在家禅と傾聴のボランティア.
中高年の孤独や多角的な依存の問題意識.
結局,私は承認より自由を欲するのだと.
傾聴のボランティアの代表はいい人でしたが,自身もグリーフを抱え…
私を含め,人は完全ではない.
私には濃厚な関係は助けになると同時に疲弊する .
陳腐ですが,何事も程々にと
午後1:36 · 2023年11月5日



少し前に伊集院静が亡くなりましたが,瀬戸内寂聴と同時期に,孤独礼賛本を出して,二人とも人気作家だし,編集者や読書にちやほやされるのだから,孤独も何もないだろうと感じました.
しかし,今は本当に孤独だったのではと思う.
多くの人に称賛されながら孤独感を抱く…その内面世界に不気味さを感じる
午後3:35 · 2023年12月2日



孤独を問題に感じてしまうのが問題ではないか…ということが最近の問題意識.
親密な関係の他者が必要だという呪縛.
私もそういう人がいればよいなと思うし,奥さんや家族はそれなのですが….
ただ,あればよいもので,なければ困るというのは呪縛.
祝福の呪縛への転化が個人的テーマになってきています
午前10:08 · 2023年12月3日

奥さんと4人の子どもがいて,孤独感を感じる理由は
私自身が,親密な人間関係の欲求に呪縛されており
ただ,身近に他者がいるとの平行遊び的人間関係のよさを意識できていないのだろう
午前11:06 · 2023年12月3日



孤独を楽しむことのできないおっさんが多いこともハラスメントを引き起こす原因なのではないか.
尊重されてちやほやされないと気が済まない.誰かを服従させないと気が済まない.強い者にはそれができないから弱い者,特に女性に向かう
午後1:29 · 2024年1月1日



最近,孤独の肯定的な側面をよく考えるのですが
「孤独の問題」とされるものの更に具体的内容を見てみると,この発信のように都合のよい他者が欲しいだけの例も少なくないのではと…私も同じ時がありました.
ビッグイシュー1/1号の孫等がいても敢えて1人暮らしを選ぶ沖縄のおばぁの記事も参考になります
午前10:08 · 2024年1月7日





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仏教と戦争

仏教は非戦と非暴力の教えなどと言う人もいます.
確かに、不殺生は仏教の最も重大な戒と言われます。
しかし、日本の伝統仏教の指導者層を含めた僧侶のほとんどは明治以降の日本による戦争を支持しました。
ある程度教養のある人が仏教を相手にしないことは理由がある。
少し調べればわかることですし。
しかし、意外と知らない人も多い。
日本人同士の殺し合いもなされたニューギニア終戦を迎えた人間の子としての思い入れもあり、ブログにまとめてみました



本稿の構成

1 伝統仏教における戦争協力
(1)伝統仏教教団の指導者及び僧侶の戦争支持の発言
(2)時局に迫られてやむを得ず発言したのか
(3)どの程度戦争の実態を知っていたのか
2 仏教が戦争を積極的に支持することになる要因
(1)組織の維持
(2)無謬性の神話
(3)サンガ=出家者集団をどう見るか?
3 正当な理由のない対米戦争の開戦
(1)はじめに
(2)海軍が対米開戦を支持した理由
(3)陸軍が対米開戦を支持した理由
(4)対米開戦までの経緯
ア 南仏印進駐に合理性がないこと
イ 南仏印進駐のリスクの認識
ウ 「対米開戦」と「中国撤兵」とを比較し「対米開戦」を選んだ理由
(ア)元々参謀本部は中国戦線の縮小を企図していたこと
(イ)「中国撤兵」をできなかった理由
4 個人的なこと
(1)父と私
(2)ニューギニア戦の実際
(3)戦争の背景と父が宗教等に救いを求めた理由
5 仏教と戦争を考えることの意義




1 伝統仏教における戦争協力

(1)伝統仏教教団の指導者及び僧侶の戦争支持の発言

 仏教の不殺生戒は、常識的にも知られたことですが、明治期以降の戦争に臨んで、伝統仏教の教団や僧侶たちが、戦争に反対したのかというと、そんなことはなく、先の戦争において、ほぼ全面的に戦争遂行を支持する活動をしました。



満洲事変以降の禅宗教団のあゆみは、ほとんどそのまま戦争協力の歴史であった。(略)禅宗の各教団は、仏教連合会(1941年に大日本仏教会に発展)や仏教護国団に参加し、1944年には、あらゆる宗教を一元化した大日本戦時宗教報国会に参加することになった。
こうした状況の中で、宗門本来の思想と現実の行動を調整する必要が生じ、禅僧や宗学者を中心に、いわゆる『戦時教学』が展開された。その典型は、山崎益宗(1862―1961)、杉本五郎(1900-1937)の師弟によって展開された皇道禅(天皇宗)である。杉本の『大義』(1938年)に、『大義に透徹せんと要せば、須らく先づ禅教に入って我執を去れ』といい、『諸宗諸学を総合し、人類を救済し給うは、実に天皇御一神におわします』と説くように、これは禅思想を尊皇思想に統合しようとしたものであった。」
(伊吹敦『禅の歴史』(2001年)300頁)



特に、当時は、他国への侵略を「菩薩行」として積極的に支持していたこを興味深く思います。
当時の文献に出ている記述を見ると、やむを得ず従っているというニュアンスではなく、積極的に扇動をしているとしか思えないように感じられます。
この種の戦時下における仏教家の発言については、ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』がよくまとまっています。



「一九三七年、駒澤大学林屋友次郎(一八八六―一九五三)と島影盟(一九〇二―?)によって出された『仏教の戦争観』――これほど適した題名があろうか。(略)
「大体に、如何なる理由があっても絶対に戦争を避けるのが仏教の道であると観てゐるのが支那仏教徒であり(注1)

≪理由のある戦争はやってこそ仏教の大慈大悲に叶う所以である≫

といふのが日本の仏教徒である」(略)
「仏教が戦争を悪いとも善いとも定めないといふのは、形の上の戦争を見ないで、その目的を問題とするのである。そして、善い目的を持つ戦争ならば善いとし、悪い目的を持つ戦争をば悪いとする。

≪仏教は仏教の心に叶った戦争を是認する≫

ばかりではない。もっと積極的に動く時は

≪仏教自身が戦争主義者≫

でもあるのである。」
(ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』(原著1997年・日本語版)143~145頁)

「古川(碓悟)は(略)仏教の戦争参加が教理的には何ら問題ないこと、だが、初期原始仏教においてはこの立場をとっていないことを認めた。彼によれば、社会は次第に複雑になり、仏教徒の数がふえるにつれ、この仏法を守るためには武力も時に必要であるとの自覚である。だからこそ

大乗仏教に属す仏教徒は、小乗仏教に属す仏教徒とはちがって、初めて正法を守るために殺戮をあえて容認。≫

また、大乗仏教者は、次の事実を自覚していたともいう。
「不殺生戒を以て如何なる時如何なる場合にも、文字通り、遵守せんとするが如きは絶対に不可能である。同様に如何なる場合にも、殺人的行動を否定するといふが如きは非常識の甚しきものである。仮りに斯の如き事を固執したとすれば、人類社会は一日も維持出来る性質のものではない」」
(ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア前掲書150頁)



 禅宗各派の指導者の発言としては、円覚寺の管長であった朝比奈宗源は次のような発言をしていたとされます。



「「臨済宗円覚寺派円覚寺貫主として活躍した朝比奈宗源の、太平洋戦争下の政治的言説は、どのようなものであったか。
われわれは、かれによると、日本民族の『存亡』をかけた『大決戦』を前にして、『口舌』だけの『拠身捨命』では、『思想戦の指導者』にはなれない。『仏法の実』を示すのは、まさに『今』である。『行持』とは、『読経礼拝や行乞』ではない。『忠君の行であり報国の行であり戦力増強の行』でなければならない。『勇猛な志気』で『純一無雑に国家に奉仕せよ、活禅はそこに』ある。」
(栄沢幸二『近代日本の仏教家と戦争――共生の倫理との矛盾――』(2002年)305~306頁)



 また、曹洞宗では有名な澤木興道も、当時は、同様の発言をしていました。



仏道無上誓願成は皇道無上誓願成と言ってよい。まことにこの度の戦争は皇道を世界一杯に拡げることである。この日本の皇道,即ち仏道をアジアはおろか,全世界に遠慮なく弘めねばならぬ。我々はこの道によって三民主義を破り,

≪民主主義を破り,自由主義をやぶらねばならぬ。≫

これが我々日本国民なのである。」
(沢木興道『観音経提唱』からの引用。新野和暢「皇道仏教という思想――十五年戦争期の大陸布教と国家――」『人文學報 108号』99頁)



 当時の出家者が安易に時流に乗った背景として、鈴木大拙が、「随順」(注2)に挙げていたことに着目しているものもあります。



鈴木大拙が、日本の僧侶の特質を、『随順』に求めていた点に注目する必要がある。この特質が各時代の権力に迎合・追従したり、さらには、権力のイデオロギー的教化の担い手となる、思想内在的要因の一つであったとみなすことができるからである。

今まで戦争を謳歌して、軍閥・官僚・財閥の太鼓を叩いた坊さん達は、今度は進駐軍のために大法螺貝を吹き立てることであろう。(略)今までの仏教は鎮護国家で動いて居た。戦争中は殊にこれがやかましく言ひ囃された。(略)彼等に自主的思索と云ふべきものの片鱗をも認められぬのは、何と云っても今日の痛恨事である。」
(栄沢幸二『近代日本の仏教家と戦争――共生の倫理との矛盾――』312~313頁)

(2)時局に迫られてやむを得ず発言したのか

 以上のような先の戦争当時の僧侶の発言等に対しては、当時は、軍国主義であったことから、国家に批判的な発言をすれば弾圧されたり、戦争を支持する発言をしなければ国家に批判的なのではないかという嫌疑を抱かれたりすることからやむを得ず発言したなどと説明されることもあります。
しかし、前記(1)に取り上げた発言自体、当時の指導者層を含めた僧侶たちが苦悩や葛藤を抱いていたことはうかがえません。
次の1937年初めの日中戦争に入る前の大法輪の座談会での社長をしていた曹洞宗僧侶の石原俊明は、満州事変を敢行した林銑十郎やなどの前にして、その侵略行為を非難することなく、武道と禅道とは極意が同じだと持ち上げる。



「禅では、心を止めないと云ふことをやかましく云ひますが、石をカチッと打つと、打つが否や火が出る、其処には髪一筋の入るべき隙がない。右向け右と号令を掛けられて、電光石火、只右を向く、此処が心の止まってゐない証拠です。
 沢庵禅師は此の呼吸を柳生但馬守に説いて石火の機と云ってゐる。武道と禅道とは極意が一つだと云ふ。仏法の極意と云ふのは止まらない心だ。(略)死ねと云はれても少しも動ぜず、自分と云ふものの少しも入ってゐない境地、これは禅機と全く一つの境涯だと思ひますね」
(ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』169頁)



 この頃は、反戦的な言動をする人も少なくなく、居並ぶ軍人に不殺生戒を説いて反戦を訴えることも十分できるはずであったとされ(注3)、それにもかかわらず軍人らを安易に支持したのは、時局に迫られてやむを得ず発言したのではなく、純粋に日本の侵略行為を支持していたからであると思われます。
 また、浄土宗の執事長を務め、青年時には戦車隊に入営していた経験を持つ僧侶の話からすると、そもそも戦争協力に対する葛藤など全くないのが一般的だったようです。



「僧侶として不殺生戒との矛盾を感じることはなかったのだろうか。
「そんな疑問は一切、感じませんでした。

≪周囲のお坊さんを見回しても、戦争に反対している人は見たことがなかった。≫

すでに各仏教教案は戦時協力体制に入っており、報国会なるものを結成し、零戦も献納していましたから。幼少の頃から、『戦争への非協力はすなわち非国民である』と教えられてきました(略)」」
(鵜飼秀徳『仏教の大東亜戦争』(2022年)255~256頁)



 周囲の僧侶の中に戦争に反対している者がいなかったなどという発言からすると、ひそかに戦争反対を打ち明けるような人もなく、時局からやむを得ず、戦争に賛成する態度をとっていたという人はいなかったのではないかと思われます。

(3)どの程度戦争の実態を知っていたのか

 先の戦争の愚かさ(後記2)や悲惨な実態(後記3)は、現代では明白なことですが、当時の仏教家たちは、どの程度その実態を知っていたのでしょうか。
 次の朝比奈宗源(臨済宗円覚寺派管長)の発言を踏まえると、おそらく、指導者層を中心として、相当程度、戦争の実態をわかった上で、あえて戦争の支持をしていたのではないかと思われます。



「今度の戦争なんかは、裏面から見ていると、初めから負けていた。【略】敗れるべくして敗れる筋書どおりに運んだだけだ。儂は、この戦争が始まって間もなくから、こいつは駄目じゃないかと思っていた。【略】
儂ははっきり言うよ。一番いけないのは、海軍の首脳部が駄目だったことだ。儂は鎌倉にいるから、ずいぶん海軍の人たちともつきあってきた【略・242頁】
 その頃、もうすでに、内側では海軍がだいぶ敗けていることもわかっていた。儂は、あのミッドウェイの戦いを発表の四日ぐらい前にはわかっていた。【略】
 彼らは、『山本は、この戦いは初めはいいが後がだめだと言っていた』とこう言い出した。(略)
 宗源は速い段階で日本が敗北するであろうと読んだにもかかわらず、戦争支援をしなかったのではなく、たとえばあちこちで国民の意欲を高めるべく講演会もすれば、寺での錬成会も実施した。
(朝比奈宗源。ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』241~243頁)



 先の曹洞宗僧侶の大法輪社長と林銑十郎らとの対談に見られるように当時の仏教関係者と軍幹部との結びつきは強かった(注4)。したがって、先の戦争に関する意思決定の実情も、朝比奈宗源の述懐に現れているように、軍幹部から聞かされることも少なくなかったのではないか。
 また、各宗派とも前線に僧侶を送って慰問をしたり、僧侶自身が兵士として前線で戦っていたことから、戦争の前線の実情に関するまとまった情報を把握することも可能だった。
 以上のようなことからすると、当時の伝統仏教の指導者層等は先の戦争の不合理や悲惨を十分承知しながら、一般市民に対しては、前線で戦うことを鼓舞し、宗門を守るために、日本人の同胞を売ったのが実情という面もあったのではないかなどということも考えます。

2 仏教が戦争を積極的に支持することになる要因
 
 不殺生戒があるにもかかわらず、仏教が戦争を積極的に支持することになる要因としては
①  組織の維持(1)
②  無謬性の神話(2)
③  出家者集団の見方(3)
が関係にするのではないかと思われます。

(1)組織の維持

 不殺生を戒とし、戦争を否定するものが仏教だと思われがちであるところ、前記1(1)に見たような種々の理屈を考えて、これを正当化し、積極的に支持する理由としては、組織の維持がよく挙げられます。



「歴史を振り返ってみると、宗教者は率先して為政者に擦り寄り、戦争協力をしているケースのほうが多い。日本の歴史上でも、世俗的権力と宗教的権力が結託して、戦争を推進したケースは多々あるが、いちばん最近では、第二次世界大戦前に、国家主義的な世情を煽るために、神道や仏教の各派が軍部へ積極的に協力している。
  本来は世界平和のために、献身的な働きをみせなくてはならない宗教家がなぜそういう態度をとるかといえば、権力者に自分たちの立場を保全してもらうためである。」
(町田宗鳳「なぜ宗教戦争が起きるのか」『大法輪』2004年7月号108頁)
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/26155/20141016153456472724/Daihorin_71-7_105.pdf

(2)無謬性の神話

(1)に述べた組織維持の必要のほか、個人的に重要なことだと思っていることは、宗教一般に通じますが、「自分たちが正しい」ことを前提とすることです。
 すなわち、「自分たちが正しい」ことをやっていることにするために、やむを得ずにやっていることを正当化する理屈を作り上げ、結果、仕方なしにやり始めたことを積極的に推進する結果になるのではないでしょうか。
中島岳志親鸞と日本主義』に出てくる1941年の真宗大谷派の「真宗教学懇談会」の様子は、このようなやむを得ず屈服することを積極的に推奨されるべきことに転換する努力の経過を知る上で、一般的な読書人が接しやすいものと思います。



「京都・東本願寺の宮御殿。
 一九四一年二月十三日から十五日の三日間、ここに真宗大谷派の重鎮が集まり、「真宗教学懇談会」が開催された。(略)
 冒頭、主催者あいさつとして座長の信正院殿が口火を切った。

 目下の緊迫せる国家の状勢を考へ上御一人の御宸念を思ひますとき吾々宗教家は昔ながらの考へで居られない。(中略)もし昔のままでゆくならば国民としての義務を怠るのであります。経典の中にも民族の興亡に関するものは聖戦であるといふ意味が述べられてゐるのであります。また或る経典には相殺しあふことは罪悪と考へるが、かかる考へ方は今日の時局に於ては如何に考へるかは極めて重大な問題であります。殊に真宗の教義に於ては今日さうした問題を曖昧に過してゆくことは断じて許されません。人生としての求法と国民としての実践は常に一致せねばならぬのであります。(略)

 懇談会の趣旨は明確だった。国家の状況が緊迫する中、従来の教学のままで教団を運営することは難しく、積極的に国策を推し進める必要があった。そのためには教学の変更を検討しなければならない。国民としての義務を果たすことと宗教的な求道が「常に一致」しなければならない。ここで座長から示されたのは、国策に追随するという明確な方針に他ならなかった。」
中島岳志親鸞と日本主義』(2017年)222~223頁)


 
 軍部の圧力に反発すれば、場合によっては、服役することになったり、命を失うことになるかも知れません。
 だから、面従腹背で、渋々従った振りをするということであれば、仕方のないことのような気もします。
 しかし、宗教である以上、やむを得ず従ったことも正しいものとして殊更正当化しなければならない。
 「人生としての求法と国民としての実践は常に一致せねばならぬ」ということになる。
 やむを得ず渋々従うのでなく、正しいものとして正当化されたことである以上、積極的に推進せざるを得なくなる。
 このような無謬性の神話の維持の必要から、戦争を積極的に支持することになったのではないかと思います。

(3)サンガ=出家者集団をどう見るか?

 出家者集団を判断力、人格や精神力に優れた人たちの集まりだというふうにみると、なぜ、当時の世界の状況を的確に判断できなかったのかや、国家権力に妥協して戦争を推進したのか、という批判が生じますが、そもそも出家者集団がそのような人並みより優れた集団であると捉えることが適切なのかどうかという問題もあるように思います。
 これは仏教の実践をいかなるものであると捉えるのかによりますが、仏教の実践を人並みより優れた人間になるのではなく、病の治療と捉える捉え方も有力です。



「「苦・集・滅・道」という四諦の教えを見るといつも私は思うのですが、仏教という宗教は、まるで病院のような存在です。仏教は「心の病院」なのです。
(略)仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。ですから、病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院させるようなことをしないのと同じく、仏教も、苦しみを感じていない人まで無理矢理信者に引っ張り込もうとはしません。(略)実はこれが、仏教という宗教が無理な布教をしない一つの理由でもあるのです」 
佐々木閑『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』(2012年)28~29頁)

「もともと坐禅は起こった心を静めるための対症療法であった。(略)応病与薬の法であった。『二入四行論』の雑録に、つぎのような問答がある。
 ある人が顕禅師にたずねた、「何を薬というのです」
 答、「一切の大乗は、病気に対する応急処置にすぎぬ。心そのものが病気を起さなければ、どうして病気に対する薬がいろう。有という病気に対して空無という薬を説き、有我という病気に対して無我という薬を説き……、迷いに対して悟りを説く。これらはすべて、病気に対する応急処置である。病まぬのに、どうして薬がいろう」(略)
病まぬのに、薬はいらない。病まぬ人に薬を与えるのは、わざわざ病人をつくるようなものだ。心が起らぬのに、強いて心を起すにひとしい。われわれは、とかく病を実体化しやすい。病を実体化することから、薬の実体化が始まる。(略)病の実体化することの危うさは知りやすい。薬を実体化することの怖さは気づきにくい。」
(柳田聖山『禅思想』(1975年)37~38頁)



 このように仏教の実践を心の病の治療という観点でとらえた場合には、出家者集団は、断酒会などの当事者グループや自助グループに類するものとして捉えることができるのではないかと思います(この場合は、宗教指導者のような人は、実践を通して病を克服した人と捉えることができると思います。)。



「出家とは、俗世間で死ぬか生きるかの状態になってしまった人たちが、同じような価値観を持った者同士で身を寄せ合って作った修行の世界へ入ること。出家の本当の意味は、言ってみれば「自殺する人を救う」ところにあるわけです。」
佐々木閑発言。佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』(2017年)91頁)


 
 このように出家者集団に集まる人たちが心の病を抱え一般的な社会に適合できない人たちの集まりであるということであれば、その人たちが、判断力、人格や精神力等の能力が特段優れているわけでもないことになります。



「瞑想は、社会からの逃避ではありません。
 瞑想は、葉が樹を育てるように、再び社会に同化する能力を、見つけるためのものです。(略)
瞑想センターに入るまえ、瞑想の内に平和を見いだすことを、彼らは望んでいました。ところが、道を求めつつ、以前とは違った社会をつくり、この社会が、大社会よりも、もっとむずかしいものであることに気づきます。それが、

≪社会から疎外されたひとたちの集まり≫

だからです。数年の後、瞑想センターにやってくるまえよりも、もっとひどい欲求不満を起します」
(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』(原著1988年)72頁)



 出家者集団が本来的に弱い人たちの集まりであれば、国家権力を批判し、抵抗するように言うことは酷ですし、迎合するのも当然であるということになります。
 この観点からすれば、日本の伝統仏教の教壇や僧侶が国家権力に迎合して戦争を積極的に支持したのも当然であり、批判することではないことになると思われます。

3 正当な理由のない対米戦争開戦

(1) はじめに
  
 明治期以降、日本が関わった戦争のうち最大規模のものは、言うまでもなく、1941年12月7日に開戦した対米戦争(太平洋戦争ないし大東亜戦争。本稿では「対米戦争」と呼称します。)です。
 日本の伝統仏教の教団及びその僧侶のほとんどは明治以降の日本の戦争を全面的に支持しましたが、それが支持するに値するものか、正当な理由があったのかを考えるうえで、最も大規模な対米戦争について考える必要があるものと思います。
 結論的にいえば、対米戦争は、その作戦立案者ですら、正当性を説明できず、予算の確保や責任逃れといったようなものであり、開戦当時の価値観に基づいても到底正当化することができないものでした。
 当時の戦争の実行の中心は、もちろん陸軍と海軍ですが、最初に海軍((2))について触れ、次に陸軍((3))について触れます。
 
(2)海軍が対米開戦を支持した理由

私の父は、戦時中ニューギニアに送られました。
ニューギニア戦は、ガダルカナル攻防戦の際に3万5000人を送って、そのうち1万5000人を餓死させて敗走を余儀なくしたことをごまかすために、「転進」と称して、17万人を送り、15万人以上をほぼ餓死・病死させたものでした。
戦争は多数のアクターが関わり合いますから、特定の視点から評価することは難しい面もあります。しかし、当時の軍官僚の言行からすると、軍官僚の出世と保身という面が強いように思われます。
インパール作戦等を含めこのような例のキリはありません。
たとえば、海軍関係者は、幹部のほか、大臣ですら、開戦理由を説明できず、むしろ、願望としては、対米戦争を避けようとしていたことが明らかとなっています。



「大方の人、海軍の首脳はもちろんのこと

≪大方の人は非戦主義≫

だったんだ、非戦主義だったにもかかわらず、戦争に飛び込んでしまった。どうしてそうなるんだということだ。」
(三代一就元大佐。戸髙一成『[証言録]海軍反省会』(2009年)333頁)

「今になって陸軍海軍を含めて、自分はこれが正しいと思って戦争したのだ、開戦を主張としたんだという、

≪その理由が全然出てない≫

んですよね。そういう人の意見は、なんで戦争を始めることがこの際ベストなんだという、その理由付け。それから、そういうことを海軍の開戦の時も陸軍によく聞いて、それは陸軍は間違いだぞと、それは敵の戦力を過小評価してるというような話し合いがあって、反省させることができなかったのか。そういうようなことを国民は知らないと思いますね。」
(本名進元少佐)。戸髙前掲書371~372頁)

「及川海相は岡軍務局長を使いとして、近衛総理へ「

≪海軍はできるだけ戦争を回避したい≫

と考えているから、交渉の決裂は欲していない。しかし海軍として、表面にたってこれをいうことはできないから、今日の会議では海軍大臣は和戦いずれとも、首相に一任する旨、申し述べるから、さようお含みねがいたい」と申し入れている。」
(石川信吾『真珠湾までの経緯』(原著1960年)331~332頁)



そして、対米戦争の開戦について、海軍が同意をした理由は、予算の確保であるとされます。
この点は、先に引用した戸髙一成『[証言録]海軍反省会』に一部引用された音声資料をベースにしたNHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』(2011年)に、当時の海軍の幹部らの声が記録されています。



「(高田利種元少将)予算獲得の問題もある。

≪予算獲得≫

、それがあるんです。(略)
国策として決まると、大蔵省なんかがどんどん金をくれるんだから。軍令部だけじゃなくてね、みんなそうだったと思う。それが国策として決まれば、臨時軍事費がどーんと取れる。好きな準備がどんどんできる。準備はやるんだと。固い決心で準備はやるんだと。しかし、外交はやるんだと。いうので十一月になって、本当に戦争するのかしないのかともめたわけです。」
「だから、海軍の心理状態は非常にデリケートで、本当に日米交渉妥結したい、戦争しないで片付けたい。しかし、海軍が意気地がないとか何とか言われるようなことはしたくないと、いう感情ですね。ぶちあげたところを言えば」
(NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』(原著2011年)138頁)

「(開戦時の作戦参謀だった三代辰吉元大佐)私が申し上げておきたいのはねえ、私は軍令部におる間はね、感じておったことはですな、海軍が“アメリカとは戦えない”というようなことを言ったことがですね、陸軍の耳に入ると、それを利用されてしまうと。(略)
海軍は今まで、その、軍備拡張のためにずいぶん予算を使ったじゃないかと、それでおりながら

≪戦えないと言うならば“予算を削っちまえ”≫

と。そしてそのぶんを、“陸軍によこせ”ということにでもなればですね、陸軍が今度はもっとその軍備を拡張し、それから言うことを、強く言い出すと。(略)そういうふうになっちゃ困るからと言うんですね、一切言わないと。負けるとか何とか、戦えないというようなことは一切言わないと。こういうことなんですな」
(NHKスペシャル取材班・前掲書143~144頁)



当時、海軍は、米国を仮想敵国とし、戦艦の築造等の必要があることを理由として、陸軍の約2倍の予算を取っていましたから、今更、米国相手に戦争はできないとは言いがたかったのであると思われますが、ここにも、当時の軍幹部が自己保身のために、判断を曲げた一面が現われているように思えます。

(3)陸軍が対米開戦を支持した理由

 当時の陸軍の幹部によれば、基本的には、米国に勝てる見込みはなく、対米戦争に反対していたところ、中国からの撤兵ができなかったことが対米戦争に至った理由として挙げられています。



「戦争開始の問題は、仏印進駐以前から議論になっておったんです。当初は、作戦課も大部分、反対なんです。(略)若手参謀は大体、反対しておったんです。反対という意味は、戦争しても、勝つ見込みは少ないんじゃないかという観点からなんですよ。(略)
なぜ慎重かということは、さっき申し上げたように、いろいろ検討してみても、勝つという決め手がないじゃないかということなんです。そこで問題になったのは、しからば、どうするんだということです。(略)
 大陸から無条件に撤兵するか、しからずんば、戦争か、どちらかということで、われわれ、みんな迫られたわけなんです。」
(高山信武元大佐。半藤一利編・解説『なぜ必敗の戦争を始めたのか 陸軍エリート将校反省会議』(2019年)201~202頁)
 


 陸軍の開戦理由に関して、同様の見方をするのは、海軍の軍務局第二課長をしていた石川信吾で説得力を感じます。



「日米衝突の原因は支那問題以外にはなく、開戦を避けようとすれば、アメリカの主張にしたがって、支那事変をご破算にしなければならないことは(略)アメリカの態度からみて絶対不可欠の条件となっていた。にもかかわらず、この支那事変をご破算にすることが、ほとんど不可能な立場にあったのが、陸軍だった」
(石川信吾『真珠湾までの経緯 海軍軍務局大佐が語る開戦の真相』337頁)



(4)対米開戦までの経緯

 対米開戦までの経緯については、南仏印(現在のベトナム南部)進駐(1941年7月28日)が引き返せなくなった時点であるとされます。
そして、南部仏印進駐は、当時、日本が得ていた情報からも、その合理性はない上、南仏印に進駐すれば、米国が強硬措置を取ることは予期しえたものでした。

ア 南仏印進駐に合理性がないこと

 よく南仏印進駐の理由は、石油資源の確保と言われていますが、当時から、作戦が成功しても、そもそも日本への搬送の可能性に疑問があり、その合理性に疑問があるものと考えられていました。
 すなわち、日本政府は、合理性がないとわかっていた南仏印進駐を敢えて行い、結果、対米戦争に至ったという愚かしい経過があります。



「(引用者注:参謀本部)二課の作戦主導の発想に対し、陸軍省や二十班(引用者注:参謀本部次長直属の戦争指導業務を担当)は、決意なき準備に傾きつつあった。その背景には、二十班の船舶問題についての研究と、陸軍省戦備課長の岡田菊三郎大佐による物的国力判断があった。仮に南方資源地帯を占領しても、輸送船舶は逼迫し、はたして日本の国力増大につながるかは微妙だった。岡田大佐の研究は翌年一月中旬に報告されるが、一二月初旬の段階でもある程度の見通しはついていた。二十班の船舶問題の研究(二日)と岡田の報告(三日)を受けた杉山総長と塚田攻参謀次長は慎重論へと転じる。」
(森山優『日米開戦と情報戦』(2016年)94~95頁)

「仮に南方資源地帯を占領して資源を日本に輸送しても、国力は低下し現状維持すらおぼつかないことは事前の研究で分かっていた。」
(森山前掲書271頁)

イ 南仏印進駐のリスクの認識

 南仏印進駐を受け、米国は、日本への石油輸出を禁止する措置を取り、日本は、アメリカとの交渉に臨むのですが、最終的には、対米戦争にいたららざるを得なくなります。
 「南仏印進駐→禁輸→対米戦争」が日本にとり思いもよらぬものなら、やむをえないような感じもしますが、実は、ルーズベルト再選時から、このような帰結になることは十分予期しえていました。もちろん、ルーズベルトの考えに従う必要はないのですから、戦争になることを覚悟のうえで、南仏印進駐を決断したのなら、まだ理由のあるところですが、そもそもそんな覚悟はなく、甘い見通しで決断をしたことから、泥縄式に外交交渉に乗り出しても後の祭りという愚かしさがあります。



ローズヴェルトアメリカ史上初の三選に向け、激しい選挙戦を戦っていた。(略・1940年)一一月五日、ローズヴェルトは選挙に勝利した。しかし、選挙戦の過程で(略・対立候補が)アメリカを秘密裡に戦争に引きずり込もうとしているとのキャンペーンを展開したため、ローズヴェルトは自分が当選したら 「外国の戦争にアメリカの若者を送ることはない」と公約せざるを得なかったのである。(略)
ローズヴェルトの判断を駐米大使堀内謙介【ほりのうちけんすけ】は次のように報告した。アメリカは日本との戦争を避けるため、強い圧力を日本にかけることを当面は避けるだろう。しかし、アメリカは石油の対日全面禁輸と日本の絹の輸入禁止を準備しており、これ以上アメリカの極東権益を侵害したり、仏印の占領の拡大や、蘭印を武力侵攻したりすれば、日米間の緊張は高まり、戦争は避けられなくなるというのがアメリカ政府のコンセンサスである。 
(森山優『日米開戦と情報戦』86頁~89頁)



 この堀内駐米大使の認識は、当時の政府関係者や軍幹部にも共有されていました。
 


「松岡さん(引用者注:松岡洋右外務大臣)は「南部仏印にでれば戦争になるから、いかんといっているのだ」と、いささかご機嫌ななめのようだった。」
(石川信吾『真珠湾までの経緯 海軍軍務局大佐が語る開戦の真相』300頁)

「日本側は、仏印〔仏領インドシナ=現・ベトナムラオスカンボジア〕や蘭印〔蘭領東インド=現・インドネシア〕に対する主導権を握りたいという希望が前にあった。(略)
 もっとも、陸軍当局も、このころは、いつアメリカの全面禁輸があるかもしれん、全面禁輸になったら、アメリカとの戦争に自動的にならざるを得ないということで、対米戦争に対する危機感を、だんだんに持つようになっています」
(原四郎元中佐。半藤一利編・解説『なぜ必敗の戦争を始めたのか 陸軍エリート将校反省会議』48頁)



この辺りの話を見ると、当時は、的確に情勢を把握していたにもかかわらず、なぜ、適切な対応ができなかったのかと思います。

ウ 「対米開戦」と「中国撤兵」とを比較し「対米開戦」を選んだ理由

(ア)元々参謀本部は中国戦線の縮小を企図していたこと

 日本は、南部仏印進駐をしない判断が十分できたはずであるにもかかわらず、結局、南部仏印に進駐し、最終的に予想通り、米国から石油輸出全面禁止等の経済制裁を受け、ハル・ノートで中国からの撤兵を迫られて、これを受け入れることができず、対米戦争に突入します。
 しかし、そもそも、日本としても、対中戦争は泥沼化していることから、中国戦線を縮小したいと考えていました。
 


「一九四〇(昭和一五)年、日本は一九三七年にはじまった「支那事変」(日中全面戦争)が泥沼化し、すでに三年が経過しようとしていた。(略)先が見えない消耗戦による士気の衰え、過大な軍事費の財政圧迫、大量の軍事物資輸入による正貨流出に起因する輸入購買量の減少、さらには、それらに、起因する生産力の低下は著しかった。」
(森山優『日米開戦と情報戦』73頁)



 実際、石原莞爾などは作戦部長として、撤兵を現地司令官に働きかけますが、全く応じられず、中国戦線は拡大・泥沼化していく状況でした。


 
「そういう戦争ですから、早く止めてしまうのが一番いいわけです。石原莞爾などはそのために懸命の努力をするのです。しかし、「あなたが満州事変でやったことを、俺たちが中国でやっているんだ」と言い返されたというバカみたいな話もありまして、石原をはじめ、非拡大派や和平派の人たちはどんどん中央部から追い出されて戦争は泥沼化していきます。」
半藤一利『昭和史1926-1945』(2009年)204頁)



 やめられない理由も、この石原莞爾と現地司令官とのやりとりに現れています。つまり、軍官僚の点数稼ぎです。
 彼らが出世するためには、実際の戦闘をすることで成果を上げる必要があり、そのためには戦争が必要であって、撤兵すればその機会がなくなってしまうから、やめたくない。
 そして、局地戦に勝利すれば、評価されるので、統治を考える必要はない。
 植民地獲得のための侵略戦争は、当時、欧米諸国もやっていたわけですが、植民地の獲得のためには植民地を統治しなければならない。
 資本主義下の帝国主義侵略戦争は、国内で商品を売っていても商品が全国民にいきわたってしまえば、購入する人がいなくなってしまう。
 植民地を獲得して、植民地人に生産活動のほか、宗主国の商品を買って消費活動もしてもらう必要があり、そのためには、単に、局地戦に勝利することだけではなく、きちんと獲得した地域の統治をしなければならない。
 しかし、軍官僚は、局地戦に勝利とすれば、統治をしなくても評価がされる。だから、後の統治のことを考えずに虐殺をしたり、今村仁司中将のように、侵略先(同中将の場合はインドネシアですが)で善政を敷き、現地人が自発的に支配に服する心理状態にするよう努めた人も更迭されるようなことがおこる。


 
「作戦部長が関東軍参謀を止められない。つまり陸軍自体が陸軍を止められません。勲章と出世欲しさに暴走します。で、暴走を止めようとすると、止めようとしたものが弾き飛ばされる――これが繰り返されます。」
(安富歩『満州暴走 隠された構造 大豆・満鉄・総力戦』(2015年)128頁)

「一九三七年の段階でも、そういう夢を描く可能性がまだあった、ということです。この段階で引き返していれば、アメリカと戦争する必要など、どこにもなかったのです。
ところが、意味のない中国での紛争を陸軍の愚かな軍人どもが、自分たちの立場を守ることと勲章目当てに拡大したため、そういう可能性は急速に失われていってしまいました。」
(安富・前掲書153頁)



 ガダルカナルからの「転進」も同様ですが、満州事変以降の日本の侵略行為の理由としては、軍官僚の出世や自己保身として行われたことが非常に多い。それにより、相手国だけではなく、日本人の同胞が無駄死にしていったのです。

(イ)「中国撤兵」をできなかった理由

 ハル・ノートを受けて、日本もこれ幸いと、中国から撤兵してしまえばよかった。 
 「対米開戦」と「中国撤兵」とがいわば天稟にかかる状況にあったことについては、日米開戦時の軍務局二課長であり、「海軍の開戦意思決定に深くかかわった人物」とされる石川信吾『真珠湾までの経緯』に繰り返し説かれます。



「日米衝突の原因は支那問題以外にはなく、開戦を避けようとすれば、アメリカの主張にしたがって、支那事変をご破算にしなければならないことは、このころ(引用者注:1941年10月ころ)すでにアメリカの態度からみて絶対不可欠の条件となっていた。」
(石川信吾『真珠湾までの経緯 海軍軍務局大佐が語る開戦の真相』337頁)



 実際、対米開戦(1941年12月7日)の直前の同年11月1日の大本営政府連絡会議では、対米非開戦=ハル・ノートの丸のみが有力でした。



「昭和十六年十一月一日(略)
〇東条首相
日米国交調整の方針は堅持したい。なんとか戦争を避けたしという気持ちに変わりはない。(略)
〇賀屋蔵相
二カ月は大丈夫と思う。二カ年先はわからないということだが、もし米が優勢となれば南方を奪還されることになる。長期戦となっても南方を確保できるのか。
〇嶋田海相
兵力の差が相当大きい。その結果、確たる成算があるとはいえない。(略)
 これを読んでみると、だれも勝利の自信はなかった。
 東条首相は戦争をしたくないといい、陸軍を統括する杉山陸軍参謀総長は「アメリカを降伏させる方法はない」といい、永野軍令部総長は「日米戦は避けたかったが開戦やむをえない形勢である。二年はやれる」、賀屋蔵相は「軍備の整備が困難、非常に危険である」というものだった。
 大勢の意見は「やりたくない」だった。それがなぜ開戦になってしまったのか。こんな情勢で戦争に入るとは、信じがたいことだった。」
(星亮二『偽りの日米開戦 なぜ、勝てない戦争に突入したのか』(2008年)163~167頁)



 けれども、日本は、中国撤兵をせずに、対米戦争という愚かな選択をした。
その理由について、繰り返し引用してきた開戦意思決定にかかわってきた石川信吾は次のように語ります。



「「支那事変完遂」の看板を掲げているかぎり、外相を更迭しようが、内閣がかわろうが、太平洋の波はますます荒れ狂うばかりである。それでは、アメリカの要求をのんで、支那事変をご破算にすることができるか。たとえば、それができたとしても、事変勃発以来失われた六十余万の英霊に、なんと答えるのだ。その遺族、百万をこえる傷病者にどう語ったらいいのか。さらに四年有余にわたり国家の全力をあげてこの事変に突入せしめた責任を、いかにしてとったらよいのか。」
(石川信吾『真珠湾までの経緯 海軍軍務局大佐が語る開戦の真相』330頁)



 国家滅亡の確定する「対米戦争」と泥沼化し参謀本部ですら縮小を考えていた中国侵略を止める「中国撤兵」とを天びんにかけて、前者をとったのは、政治家や軍官僚が中国侵略の失敗に対する責任を逃れたかったからにすぎない。
 先の戦争の際の具体的な話を見ていくと、様々な場面で軍官僚が、出世やメンツの維持などの名誉欲といった私利私欲で合理性に疑問のある作戦が決定され、それにより大量の日本人が死に至った。
 そんな無責任な意思決定により、私の父も、ニューギニアへ送られました。

4 個人的なこと

(1)父と私

 私の父は、ニューギニア終戦を迎えました。
 私は、1970年代生まれですが、父が高齢になってから生まれた子供で、私の小学生頃まで、父はよく私を靖国神社へ連れて行きました。
 それでありながら、父は、当時はまだ存命であった戦争の指導的地位にあった人がテレビに出た時には、テレビの画面に向かって、彼らを罵倒していました。
 その姿が当時は気持ち悪く、その上、 父は暴力的でもありましたから、私は、父を人格的に問題があると思い、嫌っていました。
私が大学を出て間もなく、父が亡くなりましたが、感慨はありませんでした。
その後、自分なりに歴史を学ぶようになり、父の暴力性は戦地における飢えから同胞と殺し合うような壮絶な経験をしたことによるPTSDの類ではと考えるようになっています。

(2)ニューギニア戦の実際

 ニューギニア戦は、ガダルカナル島攻防戦において、約3万5000人を投入したものの、約2万4000人が戦死(うち約1万5000人が餓死とされます)して敗走したこと(保坂正康『あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書』(2005年)114頁)を、大本営が「転進」と称して発表した後に起こりました。



「大事なのは、どこに戦いを求めて転進したのかです。陸海両総長(参謀総長軍令部総長)が天皇に報告に行った時、『ではどこへ攻勢に出るのか』と聞かれ、『これから十分に作戦を練ります』と答えればいいものを、参謀総長杉山元が『ニューギニアです』と言ったんですね。そうして今後はニューギニアで惨憺たる戦いがはじまるのです。(略)そして十七万人の将兵が、終戦日まで戦闘(餓死とマラリアとの戦いを含めます)を続け生還し得たものを一万数千という悲惨となったのです」
半藤一利『昭和史1926-1945』414頁)



 ニューギニア戦は、戦略的合目的性はなく、天皇に対する戦争指導者のメンツを守るために決定されたものでした。
そのため、戦略上無理があるものであったとされています。
 たとえば、当時、日本軍の基地のあったラバウルからニューギニアまでの距離は約1000kmですが、零戦の航続距離は約2200kmで、仮に、ニューギニアに向かったとしても、十分間で帰ってこなければならず(半藤前掲書411~414頁)、上陸をしようと思っても、まともな航空支援を受けられません。
 しかも、補給もないことから、先にも引用した半藤一利の本にも書かれているとおり、「十七万人の将兵終戦日まで戦闘(餓死とマラリアとの戦いを含めます)を続け生還した者一万数千という悲惨となった」と言われます。 
 ニューギニア戦の戦略性のなさと準備不足は、行軍中のことに関する記述からもわかります。
 


「食うか食われるか、といわれる重要な戦場である。それなのに作戦用の地図さえもないのだ。中央の欠陥と怠慢に、現地部隊もうんざりしていた。(略)樹海が方向を狂わせる。(略)
 サラモアから直線にして五十キロ強の道程であった。すでに到着していなければならないはずのワウが、十日過ぎたいまになっても、発見することができない。」
(間嶋満『地獄の戦場 ニューギニア戦記』(1996年)64頁)



 また、ニューギニア戦の戦略性のなさと準備不足の点については、意外にも、大森曹玄『驢鞍橋講話』にも若干触れられています。



ニューギニアに行った時に、小さな飛行機でポート・モレスビーからスタンレー山脈を越えた。(略)
 あのスタンレー山脈では日本の一個師団が戦わずして全滅している。南の島にも雪が降る。何とばかな参謀がいたものだ。翌日ポート・モレスビーを攻撃してイギリスの根拠地を撃破するんだというので、一個師団が山の上に登った。そしてポート・モレスビーの灯を見下ろしていた。ところが、夜になったら零下二十度くらいに気温が下がった。そこで半袖の開衿シャツしか着ていない兵隊さんたちが全部凍死してしまった。しかもその時に、水を運ばせるために竹の筒に水を入れて背負って上がった台湾の高砂族、この人たちも、かわいそうに全部死んでしまった。」
(大森曹玄『驢鞍橋講話』(1986年)494~495頁) 



 そして、最も凄惨と思われるのは、半藤一利の著書で触れられている「餓死とマラリアとの戦い」の実際です。
 間嶋満前掲書は、次の実態に触れます。



「蛋白栄養源はすべて個人の自給自足である。密林でトカゲを追いまわし、魚も釣る。(略)
 十数名の兵が、死体のまわりで異様な雰囲気をただよわせていた。近づいてみると、すでに片腕は切断されていた。兵隊が剣を片手に、一方の手には切断した腕を持っていた。」
(間嶋満『地獄の戦場 ニューギニア戦記』77~78頁)



 飯田進『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』にも詳しい記述があります。



「大塚楠雄氏は、第二十師団の下級将校だった人です。彼の中隊が目的地ハンサに到着したとき、その人員は約百名から三十名になっていました。(略)
すでに食糧はなく、(略)宿営地でも、水場は患者の溜り場になっていた。(略)更に又、マラリヤ、大腸炎患者の下痢便の垂れ流しの臭気が胸をついて、幾度が吐き気を催した。
 将校、兵の区別なく、或いは手榴弾を使い、多い日には二人、三人の自殺者に遭ったこともあり、物資収集に先行した小部隊が、住民の襲撃を受けて負傷者を生じ、或いは永遠に戻って来なかった。更には糧秣(りょうまつ)の不足は、人間性を最も露骨に現し

≪戦友をだまし、盗み、時には殺人までして、食糧を少しでも多く、自分だけでいいから手に入れたい≫

との行為が、相次いで見られ、鬼畜の振舞いもこれまでと思われることが平常となった。」
(飯田進『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』(2008年)75~76頁)

「軍の組織が崩壊したところでは、兵士たちは原始の昔に還るのです。

≪容易に共食いが行われた≫

ようです。戦後の収容所の中でそれに類した話を、私は何回も耳にしました。
『あのなあ

≪転進者の生き残りがたむろしているところ≫

にはな、単独で兵隊を使いに出せないんだ

≪どこから撃たれて食われるかわからねえ≫

からだ』(略)
極限状態に曝された人間は、人類が何千年もかけて作り上げてきた道徳や倫理を、一挙に引っくり返します。」
(飯田前掲書93頁)
 
(3)戦争の背景と父が宗教等に救いを求めた理由
 
 ニューギニア戦からの生き残りの人たちの記録はすさまじく、父も、戦友に対する非人道的なことをしなければ、生き残ることはできなかったはずです。
 この体験が、父の人格形成に大きな影響を与えたものと思われます。
父は、世代的なこともあるかとは思いますが、私を蹴飛ばしたりすることがよくありました。
また、私には、団塊の世代のいとこおり、復員した父は、そのいとこの実家(父の兄)に転がり込んだそうですが、いとこたちは、その際、父から随分ひどい目にあったようで、父が亡くなった時には一応葬儀には来ましたが、その後は、年賀状のやりとりをする程度の一人以外は音信不通です。
 細かいところですが、父の戦争体験のすさまじさを想像すると、理由のあるエピソードと思われることは、どこの家でもある大皿料理が出た時の総菜の取り分に関する問題です。
 誰が多いとか、先に食べてしまったとか、どこの家庭でもあるかとは思いますが、そのようなときに父が言うのは、公平に分け合うのではなく、「早い者勝ち」で、母も私たち子どもも、その父の言い草に不満を抱いていました。
しかし、ニューギニア戦の記録を見ると、その背景がわかるような感じもします。きっと、父は、戦友との食料の奪い合いに勝利し、生き残り、実感として、生き残るためには手段を選んではならないとの思いがあったのではないか。
凄惨な考え方ですが、その凄惨に徹したからこそ、私がおり、ひいては私の4人の子供もいるのですから、容易な話ではありません。
 父の生前は知らなかったのですが、亡くなった後、母から聞いた話や父の遺品から、父が曹洞宗の血脈を受け、禅に取り組んでいたことを知りました。
 私を靖国神社に連れて行ったことをはじめとして、宗教遍歴があったのは、戦友に対する非人道的行為の贖罪の気持ち、償いようもない罪に苦しんでいたのでないかとも思います。
生前もっと優しくしておけばよかったかもしれないという後悔もわずかながらあります。

5 仏教と戦争を考えることの意義

 私は、中年になってから、禅に興味を持ち、坐禅会を周ったり、在家禅に入会したり、出家・在家の師家(禅の指導者)の室内に入って独参をするなどしていました。
 その中で、明治期以降戦時中に至るまで、多くの政治家や軍人が禅の修行に打ち込んでいたことを知りました。
 しかし、彼らのほとんどは、無謀な戦争を止めることはせず、逆に、戦争の悲惨と不合理から目を背け、戦争への協力をし続けた。
 私の入っていた在家禅の団体にも先の戦争について語ることが好きな高齢の人がいましたが、その人の語る話は、禅の修行によって高まった禅定力とやらのおかげで、戦地でも冷静に敵兵を殺害することができたなどといった話でした。
 禅を含めた仏教の実践により、判断力、精神力、人格等、人間の様々な能力が向上すると喧伝されることがあります。
 確かに、坐禅等により偏桃体の活動が低下すれば、心が落ち着くことから、その分判断力があがったり、ストレスにも対応しやすくなったり、余裕ができて、人に対しても優しく接することなどがしやすくなるのではないかと思います。
 しかし、それらの人間としての能力が格段に伸びるわけではない。
 そのことは、先の戦争に参加した多くの仏教家や禅の修行者が、その戦争の愚かさに気づくことなく、国家権力に安易に迎合して戦争に加担したことからも明らかです。
 その種の喧伝を真に受けて、瞑想等の仏教の実践と称するものにのめりこんだりする人や、喧伝することを通して、金を稼ぐような人もおり、少し頭を冷やすためにも、戦時中の仏教家や禅の修行者の言動を知っておくのもよいのではと思います。
 また、戦争中の仏教家の言動を知ると、やさしい耳障りのよいことを言う人でも、状況が変われば、言うことが変わってくるという当たり前のこともわかります。
 戦時中のそれは、戦時教学にすぎないと言う人もいるかもしれません。しかし、それは裏を返せば、現在の仏教とされるものは、平時教学にすぎないとも言えます。情勢が変われば容易に変わりうるものです。
 耳障りのよいことでも、宗教家の語ることを真に受けてはならない。
 それが先の仏教と先の戦争とから学ぶべきことであるようにも思います。


 
「山僧が人に指示する処の如きは、祇だ你が人惑(にんわく)を受けざらんことを要す(略)

 臨済がみんなに求めるところは、人にだまされるなということだけじゃ。学問にだまされるな、社会の地位や名誉にだまされるな、外界の何ものにもだまされるな、これだけだ。(略)人にだまされぬ人になれ。何ものにもだまされん人になれ。これだけが臨済のみんなに言いたいところだ。」
山田無文臨済録』(1984年)62頁)(注5)



(注1)日本以外の仏教圏における戦争協力等

 戦争や暴力の肯定は、日本の伝統仏教に特徴的なものであるように言われ、私も一時期そのように思っていたこともありますが、日本以外でも、戦争や暴力が仏教により肯定された例があります。

(1)韓国

壬申の乱(倭乱。豊臣秀吉の朝鮮侵攻)の際、勅命を受けて護国の軍を組織し、日本軍と戦ったヒュジョン(休静(きゅうじょう)。西山大師。一五二〇~一六〇四)・ユゾン(惟政(いせい)。泗溟(しめい)大師。一五四四~一六一〇)らである。とくに最後に挙げた二人は、国家存亡の危機に当っては僧も進んで「義僧」として戦場に赴くという、韓国の護国仏教のあり方を象徴する存在として忘れてはならない。」
(木村清孝『教養としての仏教思想史』(2021年)237頁)

(2)スリランカ

「2014年のダルガタウン襲撃、2017年のロヒンギャ難民襲撃など近年,仏教過激派が一般大衆を巻き込んでムスリム住民を襲撃する事件が発生していたが、2018年は、SNSを利用しさらに過激な事件が起きてしまった。
2月末、東部アンパラでシンハラ仏教徒住民とムスリム住民が衝突し、複数の商店とモスクが破壊される事件が発生した。発端は、ムスリム経営の食堂で不妊薬が混ぜられた食事がシンハラ人男性に提供されているという趣旨の動画がインターネット上に公開されたことである。(略)
スリランカ政府は,Facebook などの SNSヘイトスピーチを助長するとしてブロックした。仏教過激派によるムスリム攻撃の背景には、スリランカ国内でムスリムの人口比が増えているのではないかという懸念やムスリムの経済的台頭があるとされている」
(荒井悦代「2018年のスリランカ 大統領による前代未聞の政変」『アジア動向年報』(2019年)549~550頁)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/asiadoukou/2019/0/2019_541/_pdf/-char/ja


(注2)「随順」への着目の例

「真箇の正禅は世縁に随順して決して世縁と相違したり違反したり致しません。若し萬一、萬々一、世の中の実生活に違反したり、相違したりする様なことがあれば、それは、未だ正禅の堂奥に登らざるお人の夢路であります。――苟も正禅の堂奥に到達された御人であるならば、水に入っては水に同じく、火に入っては火に同じでなければなりません。真箇世縁に随順することが出来ますれば、坐禅をなさらなくとも、禅書を御覧になさらずとも、禅の提唱をお聞きになさらずとも、それで完全の正禅者であります。」
(菅原時保『碧巌録講演(其二)』(1937年)61~62頁)
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1102517 

(注3)ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』105頁 

「一九三七年七月、中国との全面戦争へと発展。しかしながら、外国への侵略については異論を唱えた者もいて、幅広いグループの中からは、政治家、右翼もいれば左翼もいる。(略)一九三〇年代初めから半ばまでの日本は、まだ天皇の名のもとでの軍事的、つまり全体主義的な社会に至るところまではいっていなかった。」

(注4)大森曹玄のエピソード

「私はここの寺に来てから三十年。この寺は精拙和尚が昭和十八年に建てられた。私はその時には在家のものとしてお祝いに呼ばれてきたが、まさかここに住むとは思われなかった。(略)
 私がここに来る時に檀信徒の名簿というものをもらって来た。それには三百何名の署名簿があった。皆それは偉い人ばかり。本庄大将、高橋大将、阿部大将、山本大将と、陸海軍の大将連がズラッと並んでいる。そして檀家総代の筆頭は徳富蘇峰改造社社長の山本実彦、こういう人が並んでいる。それで名簿を見て、毎日、一軒お経を読ませてもらってお布施を頂けば十分に生活できると思った。」
大森曹玄『驢鞍橋講話』176~177頁

※大森曹玄には、玉音放送がなされることを予め知ってその音源の奪取を企図した逸話もあり、当時の仏教関係者は軍や政治の実情に関するかなり正確なインナー情報を収集することが可能だったことがうかがわれる。
「(引用者注:大森)曹玄自身、平和を維持し正義を守ることこそが、日本の戦時中の行為を正当化できるものと知っていた。その理由は簡単なこと、彼こそがそうした行為の熱心な支持者であったからである。一九二七年以降は、次々に右翼団体との交わりを深めていった。代表的なものは「勤皇維新同盟」や「純正日本主義運動全国協議会」あるいは「日本主義青年全国会議」などである。
 一九四五年八月、天皇玉音放送がまもなくあることを知り、同志たちとその放送を阻止し、最後まで戦う決意であったという。いうまでもないが、その玉音放送、そしてその内容を事前に知っていたということは、相当に広範囲の情報源をもっていたことがうかがえる。」
(ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』276頁)

(注5)私は、禅籍の中では臨済録が好きですが、仏教という点では、一種自己破壊的な面のあるところです。





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【参考資料】『臨済録』学習ノート(作成中)

はじめに



禅には、様々な語録がありますが、私が禅を学び始めた最初の頃に接し、その現代的な洗練に驚き、未だに繰り返し読むものは、臨済義玄(?~867)の言葉をまとめたものとされる「臨済録」です。

日本の臨済宗において「録中之王」とされながら、仏教的教義の否定(無仏無法)を根幹にし、その帰結である仏教的実践や悟りの否定(無修無証)、その反射的帰結としての、ありのままの日常の肯定(平常無事)と人間の自由(去住自由)を高唱し、教義や仏教的実践は、仏教的実践に耽る病んだ人を治療する一時的な手段にすぎないものと位置付ける(一期藥病相治)。

現代では、ほとんどの人が、仏教などの特別な信仰や実践なしにきちんと生活していることに照らせば、臨済録に記述されていることは、つまらない常識論であるといえますが、9世紀の中国で、坐禅等の仏教の実践に耽る人たちにこそ問題があるという視点を持つ人がいたことが、私のとっての臨済録、そして、臨済義玄の魅力です。

禅というと、坐禅等の特別な修行を通して、悟りなどの特別な境地に達するものであるという通俗的なイメージがありますが、このような通俗的な禅のあり方は、宋代に形成されたものであり、これが日本にも継受されたものにすぎません。

私にも、このような通俗的なイメージがありましたから、初めて臨済録に記述された考え方に接したとき、驚いたものです。

その後、自分なりに書籍や論文を読むなどして勉強しながら、文献の内容などを書きとめてきました。

ネットなどを見ても、日本の禅宗(特に臨済宗)の基礎にある臨済録の考え方を知らない人も少なくないようなので、この際、ある程度まとめて、公開すれば、臨済録始めたとした禅に興味を持つ人にも何らかの役に立つのではと思いました。

前半として臨済録に関する一般論である〔前注〕と、後半として臨済録の各段の記述に沿い、その訳や解説類を記述した〔本編〕とに分けました。

〔本編〕は、大正新脩大蔵経・諸宗部(四)第47巻典籍ナンバー1985「鎮州臨済慧照禅師語録」をベースに、そこに取り上げられていない記述については、入矢義高『臨済録』に掲載されたものを引用しています。

本編の訓読や訳は、未整備のものが多いことから明らかなように、まだ勉強中の作りかけの学習ノートですが、これから少しずつ充実させていきたいと思います。





本稿の構成

〔前注〕
1 臨済録の中核的思想
(1)一般論
(2)教義の否定
(3)仏教的実践及び悟りの否定
(4)日常の肯定
(5)人間の自由=意志の重視
(6)馬祖禅との関係
2 臨済録の位置づけ
3 臨済義玄の位置づけ
4 臨済録の成立
(1)臨済録の成立経過
(2)臨済録における禅的法数
(3)正蔵版『臨済録』の評価
5 臨済録研究史
6 臨済録の読み方

〔本編〕 
第0 表記法
第1 「鎭州臨濟慧照禪師語録序」
第2 「鎭州臨濟慧照禪師語録」
第2の1 〔上堂〕
第2の2 〔示衆〕
第2の3 〔勘辨〕
第2の4 〔行錄〕
第3 「臨濟慧照禪師塔記」



〔文献略号〕

朝比奈 朝比奈宗源『臨済録』(タチバナ教養文庫版2000)
※あさひな そうげん、1891年1月9日 ~1979年8月25日、臨済宗円覚寺派管長。

有馬 有馬賴底『『臨済録』を読む』(2015)
※ありま らいてい、1933年2月10日~、臨済宗相国寺派管長。

入矢 入矢義高訳注『臨済録』(1989)

入矢・自己と超越 入矢義高『増補自己と超越 禅・人・ことば』(1986、岩波現代文庫版2012)

小川 小川隆『書物誕生――あたらしい古典入門『臨済録』――禅の語録のことばと思想』(2008)

沖本・虚構と真実  沖本克己「『臨済録』における虚構と真実」『禅学研究』第73号(1995)

衣川 衣川賢次『臨済 外に凡聖を取らず、内に根本に住せず 唐代の禅僧 8』(2021)

衣川・思想 衣川賢次「臨済義玄禅師の禅思想」『禅研究所紀要第34号』(2019)

呉 呉進幹『臨済禅の思想史的研究――その形成と展開――』(2019)

宗活 釈宗活『臨済録講話』(1924)

前田 前田利鎌『臨済荘子』(1932、岩波文庫版1990)

柳田 柳田聖山訳注『臨済録』(2004)
※やなぎだ せいざん、1922年12月19日~2006年11月8日、中国禅宗史研究者

柳田・ノート(続) 「臨済録ノート(続) ―中国臨済禅創草時代に関する文献資料の綜合整理の覚書(その五)―」『禪學研究』第56号(1968)

無文 山田無文臨済録』(1984
※やまだ むもん、1900年7月16日 - 1988年12月24日、臨済宗妙心寺派管長。





〔前注〕



1 臨済録の中核的思想

(1)一般論

〔1〕沖本・虚構と真実

「『臨済録』の主張命題の中心となるのは、外在する如何なる価値も権威も認めない絶対自由の立場の表明である。」(18)

臨済の説いてやまなかったのは屹立する単独者としての自覚である。」(20)

〔2〕大森曹玄「日本における臨済禅の展開」『講座禅第四巻禅の歴史―日本―』(1967)

「禅、特に臨済のそれは、一切の偶像を根こそぎ打破し、すべての外的な権威を徹底的に粉砕し、イデオロギーや既成概念の虚構を否定し、ひたすら人間の限りない自由と自主性を追求し強調するものであった。」(140)

〔3〕有馬

「「正しい」が「正しくない」に逆転することがある。今まで正しいと思ってきたことが正しくないのかも知れない、となる。「決めつけることは出来ない」と言うているんです。もっと大きく言うと「全部否定している」。全部否定が『臨済録』の『臨済録』たる所以。」(45~46)



(2)教義の否定

〔1〕入矢220解説

「彼自らも言う、「わしが外には法はないと言うと、皆はその真意を理解しないで、今度は内に求めようとする」、「外にも法はない、内にも得られはせぬ」と。「仏もなく、法もなく、修することもなく、証することもなし」とする究極の空観に彼は立つ以上、もし何らかの主宰者を己れの内に立てるならば、それはいわばウルトラ仏の内在を自ら認めることにほかならない。それは忽ち「仏魔」と化して、こちらを金縛りにするであろう。「仏を求め法を求むるは、即ち是れ地獄を造る業なり」。」

〔2〕有馬170~171

「「あらゆる経典、あらゆる説法、みんなどんなに素晴らしくても、「病を治した薬みたいなもの」、つまり、病が治ったらもう薬はいらんよ。薬なんてなんの役にも立たんよ。一時の病は治すかも知らんが、すべての病を治す薬なぞない。病を治したという真似事をしとるだけや、と。これも例え話。仏さんの言うことをいろいろまともに受け取ったらいかんと。そしてまた同じことを言いますね。

仏教そのものが偽物やと。坊さんも文字を並べて偉そうなことを言ってるだけや。」

〔3〕前田73

臨済は旧来の思想、――特に仏門における伝統的な一切の反生命的偶像の破壊者、従って人間生命の徹底的解放者であった。」



(3)仏教的実践及び悟りの否定

〔1〕衣川376

「「無事」とは、自心が佛である以上、悟りを求めて看経看教することは不要、無修無証であって、むしろ作佛の意を起こすことこそ却って清浄心を汚すものとする、中唐以後の新興馬祖禅の基調思想で、大珠慧海、黄檗希運らが格調高く唱道した。義玄も基本的にその思想に遵い、『臨済録』はここを除き一五回も「無事」の語を使用している。」

〔2〕無文151

「世間の人は、禅宗では修行をして佛になる、修行をして悟りを開くのだと言うのであるが、とんでもない間違いじゃ。二十年や三十年修行して凡夫が佛になれるわけはない。修行をしてみたところが煩悩だらけだ。飯を食わねば腹は減る。寝ずにおるというわけにもいかん。

そうではない。人々は修行せんでも、ちゃんと立派なものを持っておると決定(けつじょう)せねばいかん。悟りを開かんでも佛性はちゃんとあると徹底せねばいかん。ご信心をいただかんでも、如来さまはちゃんと救うてくださると決定せねばいかん。そこが衆生本来佛なりということだ。修行してから佛になるのではない。悟ってから佛になるというのではない。オギャーと生まれた時から、佛であり、みんなお助けをいただいているのである。そこを誤解してはいかん」



(4)日常の肯定

〔1〕入矢222解説

「「仏もなく、法もない」となれば、では求道者はどうすればよいのか。外にも求めるな、内にも求めるな。「平常無事」であればよい。「ほかでもない〔今そこで〕この説法を聴いている無依独立の君たち道人こそが諸仏の母なのである。だから、仏はその無依から生まれる。もしこの無依に達したならば、仏そのものも無存在なのである。こう会得したならば、それが〔平常の〕正しい見地というものである」

〔2〕小川

「聖性の否定は、臨済に限らず、禅宗一般の顕著な傾向のひとつである。」(156)

「聖なる価値を定立しようとする意識も、それをムキになって否定しようとする意識も無い、あるがままの、ただあたりまえのありかた。それを唐代の禅者が「平常(びょうじょう)」といい「無事(ぶじ)」と言っていた」(159~160)

「「道は本と無事なるに、強(あなが)ちに多事を生ず」。「多事」はすでに看た「多子(たす)」と同義。多数の事ではなく、よけいな事。「道」に聖なる意味づけをし、それを対象化して追い求めようとする行為、すなわち馬祖のいう「造作」「趣向」がこれに当たる。「無事」とは、そうしたくだくだしきよけい事のない、ただあるがままの「平常」のありかた、ということである。」(162)

〔3〕前田31

「禅門においては厳密にいえばただ生活があるばかりで、決していわゆる学的体系は成立し得ない。」



(5)人間の自由=意志の重視

人間を外部的に規定する教義が否定されたときの行動の基準は、個々人の意志によることになります。

「祖仏不別」など馬祖における「即心是仏」なども意志の尊重の前提となる個々人の尊重を意味する言葉と言えるかと思います。

その考え方のベースには、特別な修行をせずとも、人間のあり方には問題ないとする、いわゆる「無事禅」があります。

禅というと坐禅等の特別な修行をして、特別な境地に達するものというイメージを抱かれがちですが、臨済録に記録された考え方の主唱者である臨済義玄等の唐代の禅者の中では、坐禅等の特別な修行を不要とする考え方が一般的でした。

また、教義を否定した場合、何を基準として生きるかが問題となりますが、人間を外部的に束縛するものがない以上、個々人の意志によって決するほかないというのが帰結でしょう。

〔1〕前田90

「自分の見るところでは、「権力意志」という言葉は、禅門の基調を語るに最も適切な言葉であるように見える」

〔2〕鎌田茂雄『華厳の思想』(1988)85~86

「『臨済録』は、仏に生かされるなどと思うやつはばかだ、仏に生かされる理由は何もない。自分は自分で生きるだけ、自分は自分で死ぬだけで、死んだら何もないという、人間の意志の宗教である。

華厳経』の「性起品」を貫徹させてくと臨済のようになっていき、さらに貫徹させると唯物論に転じていく。」

〔3〕沖本・虚構と真実18

「『臨済録』の主張命題の中心となるのは、外在する如何なる価値も権威も認めない絶対自由の立場の表明である。このことについてはもはや蟄言を要しないであろう。」



(6)馬祖禅との関係(呉130~131)

「馬祖の提示した「作用即性」の悟道論をめぐる探究は晩唐に至ってもやはり重要な関心事であった。そして、馬祖禅の流行にともなって、その弊害も生じていたことが考えられ、それに対する批判や反省の動きが起こり、またそれを克服するために新たな思想が形成されたことがわかる。

馬祖禅の思想の核心は「即心是仏」(わが心こそが仏である)と、それを体得する悟りの方法「作用即性」(見聞覚知のはたらきこそが仏性である)のふたつに集約される。一方、晩唐臨済は基本的に馬祖禅の基調思想を受け継いでいるが、しかし彼は、当時の叢林で馬祖「作用即性」説の観念化、及び「作用即性」を示す動作や言葉を表面的に模倣する現象(「作模作様」)を厳しく批判していた。そして、これらの弊害を克服するために、臨済は般若空観を思想的背景とした「空」の思想を大いに用いて接化し、そして彼が理念としての空観にとどまらず、いま説法を聴いている〔仏と同じである〕修行者自身を主体性・主人公(すなわち「随処作主」説)として積極的に説いた。

すなわち言葉によるさまざまな観念に執われないことが、臨済の馬祖「作用即性」説の観念化した弊害への克服である。そのうえで更に、臨済は現にいま説法を聴いている修行者自身こそが仏であることを当の相手に確信させ自覚させる、これがすなわち「即心是仏」なること(「一心」)の体験であることをくりかえし語った。

それは、晩唐時代における禅宗の盛行にともない、馬祖禅の延長として、馬祖禅の再検討の影響下に位置づけられるものと認められる。」



2 臨済録の位置づけ

(1)元々は日本の臨済宗とは関係がない(入矢219)

「『臨済録』は、もともと臨済宗聖典なのではない。そういう宗とか派とかいったセクトとは全く無縁の書である。臨済禅師は唐代末期(九世紀)の人であるが、そもそも唐代禅には、六祖慧能いらい、宗派の別によるセクト意識などは全く無かった。」



(2)日本の臨済宗における「録中之王」

〔1〕朝比奈7~8

「師(臨済)の宗風は、古来臨済将軍と評されて、(略)喝雷棒雨、殺活自在なるものがあった。だから円悟は「臨済は則ち全機大用、棒喝こもごも馳せ、剣刃上に人を求め、電光中に手を垂る」と評し、わが国の道元は、「祖席の英雄は臨済徳山という、しかあれども、徳山いかにしてか臨済に及ばん。まことに臨済の如きは、群に群せざるなり、、その時の群は近代の抜群よりも抜群なり、行業純一にして行持せりという。機枚機般の行持あんりとおもい擬せんとするに、あたるべからざるものなり」(正法眼蔵行持)と称嘆した。

故に本録は古から語録中の王と推称されている。」

〔2〕無文ⅰ

「何というても宗門では、この臨済録が背骨である。この臨済録をよく拝読して、会得しておかんというと、臨済下の衲僧ということは言えんはずである。」(無文ⅰ)

〔3〕小川92

「『臨済録』に関する書物には、しばしばこれを「録中の王」と称する書物には、しばしばこれを「録中の王」と称する紹介が見受けられる。だが、それは白隠の弟子、東嶺円慈の『五家参詳要路門(ごけさんしょうようろもん)』の語であって、その評価には臨済宗の宗祖の語録としての『臨済録』という前提がある。」



(3)日本の臨済宗において臨済録が重視される到る経過

臨済録は、日本臨済宗においては、「宗門第一の書」とされていますが、このような位置づけになった経緯については、次の記述があります

〔1〕江戸期における幕府の指導を端緒とする説(衣川290)

「江戸初期(十七世紀)にいたって、戦国時代の疲弊荒廃した文化情況が一変し、京都を中心とする出版がにわかに活況を呈して、『臨済録』刊本が陸続と出版され、五山版に対する本文校訂もおこなわれた。これとともに鎌倉・室町以来の禅林における講説をもとに、『臨済録』の全体にわたる詳細な「抄物(しょうもの)」と呼ばれる漢字またはカナによる注釈が公刊され、広く受用されるにいたった。これは佛教各宗に対して「宗派性を明確にせよ」という江戸幕府の宗教政策の指導によるもので、その結果、臨済宗は宗祖の語録として『臨済録』を重視するにいたったと言われている。」

〔2〕隠元隆碕の来朝を端緒とする説(柳田・ノート(続)15~

「江戸時代以前に於ては、主として碧岩録を以て「宗門第一之書」と称して、その参究に力めたが、これは日本中世の禅林で、碧岩の偶顛の美しさを喜んだためで、四六駐侮の綺を競う五山文学の全盛に厭せられて、臨済録は碧岩録ほどには読まれなかった様である。

然し江戸時代に入ると、この傾向は、にわかに逆転し、臨済録への関心が勃興し、多数の注釈書等が作られることとなった。

これは、主としてこの時代に、中国から隠元隆碕(1592-1673)が来朝して中国風の禅を伝え、新しく黄桀山万福寺を開創し、日本禅林に大きい刺激を与えたことによるのであろう。」



3 臨済義玄の位置づけ

〔1〕朝比奈16

「本録の主人公臨済は、中国の禅宗史上にも第一流の偉大な禅者」

〔2〕秋月龍珉『公案』(1965、ちくま文庫版1987)9

「中国唐代の二禅将臨済と徳山(この二人はわが日本の臨済宗では初祖達磨と並べて「磨・徳・臨」と称するほど親しまれた代表的祖師である)」

〔3〕呉 進幹「臨済禅の南伝と臨済宗の形成 : 五代宋初臨済禅の一考察」 『禪學研究』97(2019)1

臨済義玄(?-866)は中国思想史上の転型期と言える晩唐に生きた代表的禅僧の一人であり、馬祖下第四世に当たる。特に北宋の後半期から臨済宗の禅僧たちの活躍がめざましく、雲門宗とともに禅宗の代表的な教団となった。南宋になると、臨済宗は中国全土に拡がってゆき、中国仏教の主流の一つとなった。」



4 臨済録の成立

(1)臨済録の成立経過

〔1〕衣川16~17

「『臨済録』テクストの「示衆」部分は比較的早い時期(十世紀中葉)に定型ができあがるが、「行録」、「勘弁」、「上堂」部分は臨済歿後の第三世南院慧顒(なんいんえぎょう)(生卒年未詳)――第四世風穴延沼(ふけつえんしょう)(八九六~九七三)――第五世首山省念(しゅざんしょうねん)のころ(十世紀後半から末)に、児孫による宗派形成の過程において一則ごとに附加されていったと考えられる。すなわち、臨済禅師の説法は早い時期に編纂されてまとまっていたのに比べ、伝記的事実がほとんど知られなかったため、歿後に時を経てから、宗祖の事蹟として附加され、「行録」、「勘弁」、「上堂」として編輯された部分には、右の児孫時代の宗祖造が反映している。」

〔2〕衣川・思想101

「「示衆」は『臨済録』の主要部分を占めているが、この部分は唐代末期から五代(一〇世紀後半)、すなわち臨濟禪師圓寂(咸通七年、八六六)のほぼ一〇〇年後には成立していたと考えられる。示衆以外の部分(圓覺宗演再編本に分類された「上堂」、「勘辨」、「行錄」に相當する部分)は成立が遅く、したがって後代の思想を混入している可能性を含むのに對して、「示衆」はもっとも信頼できる資料である。」

〔3〕呉 進幹「臨済禅の南伝と臨済宗の形成 : 五代宋初臨済禅の一考察」『禪學研究』(2019年)97

「『鎮州臨済慧照禅師語録』(『臨済録』と略称)は、臨済の説法と言行の記録を集成した語録であり、「上堂」「示衆」「勘弁」「行録」の四篇から成るが、その成立過程には若干の問題がある。すなわち、この四篇のうち、「示衆」は臨済示寂の約百年後、北宋初には定型を成していたが、「行録」「勘弁」「上堂」に収録された諸則は臨済宗形成の過程で、宗祖の事蹟として一則ごとに收集されたと考えられ、それは増補附加した後代(すなわち五代宋初)の人びとの時代の問題意識とかかわっている。」



(2)臨済録における禅的法数

鈴木大拙は、『臨済の基本思想』において、「三句」、「三印三要」、「四料簡」等の禅的法数の説明を試みたものの、失敗したとされますが、その要因としても、これらのものが後年付け加わったものであるからとの見解が一般的です。

〔1〕柳田・ノート(続)

「四照用、四賓主などの説が、臨済の喝に関するものとされ、彼の正法眼蔵の重要なる本質と見られるのは、宋初以来のことであり、臨済義玄その人の説法から言えば、すべて後代の発展に外ならず、宋代に盛えた五家の随一としての臨済禅の立場から、故らに主張されたものであり、臨済録そのものもまた宋代の臨済禅の立場からするかなりの影響を受けていることは争えない。特に、人天眼目に収められる五家の宗風の如きは、すべてそうした宋代の説の集録であり、右に挙げた喝と賓主の一段が、後に重刻古尊宿語録に収める「臨済録」や「五燈会元」に至って、更に異って伝えられているのは、人天眼目以後に於ける新しい発展に外ならぬ。」

〔2〕衣川342~343

「「三句」、「三印三要」(略)、「四料簡」(略)においては、これら『臨済録』中の禅的法数について、大拙ははじめは解釈しようとしてうまく説明できず、もてあまし、ついに投げ出して、抄物(『秘録』、『秘抄』、『秘弁』)を長々と引いて、結局納得がゆかず、最後にはこれらを「教相家の常套」、「甚だ禅的ならざるもの」(略)と言い、伝統的解釈への不満を表明したのであるが、(略)これらの法数は、じつは臨済下の法孫によって附加された部分であって、そのことは『臨済録』テクスト形成史の問題として解決できることである。」

〔3〕呉147

「かつて鈴木大拙(1870-1966)は、その臨済宗の綱要となる「臨済三句」「三玄三要」などを、いわゆる「人」思想と関連させて解釈し、結局最後にはこれらを「甚だ禅的ならざるもの」「教相家の常套」「禅家にはもっと超越的なものと云ふべき立場がなくてはならぬ」と言い、そうであれば、無視してよいものとされた。大拙とほぼ同じ時期の研究者である陸川堆雲(1886-1966)は大拙と同じ姿勢であり、その「三玄三要」などを「怪奇の諸説」として放棄してよいと斥けている。しかし、実はこれらは臨済下の人々によって形成された部分であって、そのことは臨済下の動向と関連させつつ、『臨済録』各則のテキスト形成史の問題として考えるべきである。」



(3)正蔵版『臨済録』の評価(柳田・ノート(続)15

「大正新修大蔵経第四十七巻所収の臨済録は、永享九年版を底本として、増上寺報恩蔵明版古尊宿語録、宮内省図書寮本、慶安二年本、延徳三年本の四種を校合したもので、今日用いうるテキストとして最良の本である。」



5 臨済録研究史(柳田・ノート(続)15~

「日本の臨済宗では、古来、何時頃からか明かでないが、臨済録、碧巌録、大慧書、虚堂録、五家正宗賛、江湖風月集、禅儀外文の七部を、宗門七部書(禅林執弊集二十二丈aに見ゆ)として尊重し、その参究講読に力めて来て居る。七部の中、時代によってその研究方法に変遷消長が見られるが、臨済録は、江戸時代初期より中期に他のものよりも特に尊重され、東嶺円慈(1721-1792)如きは、その五家参詳要路門に、
.
古来、以本録称録中之王。

と言って居り、この態度は、今日の臨済宗でも変らない様である。

蓋し、江戸時代以前に於ては、主として碧岩録を以て「宗門第一之書」と称して、その参究に力めたが、これは日本中世の禅林で、碧岩の偶顛の美しさを喜んだためで、四六駐侮の綺を競う五山文学の全盛に厭せられて、臨済録は碧岩録ほどには読まれなかった様である。

然し江戸時代に入ると、この傾向は、にわかに逆転し、臨済録への関心が勃興し、多数の注釈書等が作られることとなった。

これは、主としてこの時代に、中国から隠元隆碕(嵩1592-1673)が来朝して中国風の禅を伝え、新しく黄桀山万福寺を開創し、日本禅林に大きい刺激を与えたことによるのであろう。(略)

尤も、これに先立って、すでに五山禅林に於て、種々の人々が臨済録の研究、講読をしていた事実はある。今日知られているもののみについても、古く夢窓疎石(1275-1351)
の孫弟子に当る空谷明応(1328―1407)に、「臨済録直記」(三巻)の著があり、その転写本一部を故陸川堆雲氏が蔵せられている(略)。
江戸時代初期(1603ー)に於ける臨済録研究の最もすぐれた業績は、沢庵宗彰(1573―1645)の「臨済録秘抄」と、万安英種(1591-1654)の「臨済録抄」(カナ抄)であって、前者は主として大徳寺の開山大燈国師(1282―1337)以来の大徳寺系の参究記録を集大成したものであり、遂に秘抄とされて刊行を見なかったけれども、後者は、一般に親しみやすい片カナによる註釈で、寛永九年(1632)、村上平楽寺より刊行され、通名「万安抄」の名によって盛んに流行するに至った。(略)

五百年間出と自称する白隠慧鶴あり、享保十七年(1732)五十三歳にして、原町の松蔭寺に在って本録を提唱し、その嗣東嶺もまた本録を尊重したから、爾来、白隠系の参禅に本録の用いらるること緊密を加えるに至ったが、東嶺以後の人々の関心は、再び碧岩、無門関に移った如くで、本録研究にあまり見るべきものが存しない。而して右の如き江戸中期以来の傾向を改めて、特に臨済録を重視したものは、円覚寺の釈宗演(1859―1919)で、宗演の嗣宗活は「臨済録講話」(1924)を著し、宗源が岩波文庫臨済録」(1935)を作ったことは我々の耳目に新しいところであ(る)。」



6 臨済録の読み方

「現代のわれわれは、『臨済録』をもっと率直かつ自由に読んでよい。「もっと」とは、「この改版での扱いよりももっと」という意味である。臨済その人がまさに率直な人格だったのだし、「自由」もこの人の愛用語だったのである。」(入矢230)





〔本編〕





第0 表記法

(1)原文のベースは、基本的に花園大学国際禅学研究所禅籍データベース
http://iriz.hanazono.ac.jp/frame/data_f00a.html) 
に掲載された「正蔵版」(大正新脩大蔵経・諸宗部(四)第47巻典籍ナンバー1985「鎮州臨済慧照禅師語録」)のものになります。

(2)見やすさと整理のため、入矢義高『臨済録』の段分けに準拠し、適宜、「第●段」、「第●段の●」などと段落番号を付しました。

(3)「上堂」の各段の表題は、山田無文臨済録』に依りました。



第1 「鎭州臨濟慧照禪師語録序」(入矢9)



1 第1段(入矢9)

延康殿學士金紫光祿大夫
眞定府路安撫使
兼馬歩軍都總管兼知成徳軍府事馬防、撰



2 第2段(入矢9~10)

黄檗山頭、曾遭痛棒。大愚肋下、方解築拳。饒舌老婆、尿床鬼子。
這風顛漢、再捋虎鬚。巖谷栽松、後人標榜。钁頭【屬斤】(注1)地、幾被活埋。
肯箇後生、驀口自掴。辭焚机案、坐斷舌頭。不是河南、便歸河北。

(注1)辺を屬、旁を斤とする文字。訓読は「ほ」り。



3 第3段(入矢10~11)

院臨古渡、運濟往來。把定要津、壁立萬仭。奪人奪境、陶鑄仙陀。
三要三玄、鈐鎚衲子。常在家舍、不離途中。無位眞人、面門出入。
兩堂齊喝、賓主歴然。照用同時、本無前後。菱花對像、虚谷傳聲。
妙應無方、不留朕跡。



4 第4段(入谷12)

拂衣南邁、戻止大名。興化師承、東堂迎侍。銅瓶鐵鉢、掩室杜詞。
松老雲閑、曠然自適。面壁未幾、密付將終。正法誰傳、瞎驢邊滅。



5 第5段(入谷13)

圓覺老演、今爲流通。點檢將來、故無差舛。唯餘一喝、尚要商量。
具眼禪流、冀無賺擧。宣和庚子中秋日謹序。





第2 「鎭州臨濟慧照禪師語録」(入谷15)

鎭州臨濟慧照禪師語録
住三聖嗣法小師慧然集



第3-1 〔上堂〕(注1)

(注1)「「上堂」は禅院の長老が法堂の法座に昇って、修行者を前に説法し、次いで問答応酬する行事。」(衣川69)



1 「王常侍が説法を請う」

(1)第1段(入矢15~16)

一、府主王常侍、與諸官請師升座。師上堂云、山僧今日事不獲已、曲順人情、方登此座。
若約祖宗門下、稱揚大事、直是開口不得、無爾措足處。山僧此日以常侍堅請、那隱綱宗。
還有作家戰將、直下展陣開旗麼。對衆證據看。
僧問、如何是佛法大意。師便喝(注1)。僧禮拜。師云、這箇師僧、却堪持論。
問、師唱誰家曲、宗風嗣阿誰。師云、我在黄檗處、三度發問、三度被打。僧擬議(注2)。師便喝、隨後打云、不可向虚空裏釘橛去也。



(注1)喝の意義

臨済録を含め、禅の語録には、師が学人を「喝」と怒鳴りつける場面がよく出てきますが、その意義については、次のような見解があります。

〔1〕有馬220

「有馬 そうそう。『臨済録』の中で、修行者が質問するでしょ。何かを言おうとすると、バーンとどつかれる。なんでどつくかと言うとね、その質問が合っているとか間違っているという問題じゃない。質問を出すこと自体を打ち砕く。だからバーンと叩く。
――質問をするということが、もう捉われているということなんですね(笑)。
有馬 そうです(笑)。」

〔2〕石井清純『禅問答入門』(2011)20

「仏法の本質を他者に問うということは、問う相手が自分の師匠であったとしても、本来自分で探し出すべき自分の本質を他人に聞いていることになって、質問した時点で、すでに禅の本質からはずれていることになります。

(略)黄檗希運(生没年不詳)という禅者は、「仏法の本質とは何でしょうか(如何なるか是れ仏法の大意)」と質問した弟子の臨済義玄(?~八六七)を、棒でしたたかに打ち据えました。(略)今までに見てきた禅の基本から考えると、「叩かれて(痛みを感じる)己が身がそれだ!」という、黄檗なりの親切な指導ということになります。

同じ質問に臨済本人が答える場合は、「喝」を用いています。これは、「ウヮー」と大声で怒鳴ること。この場合は、臨済が、自己自身の尊厳性を示したものと考えられます。「ほれ、それならここにすべて現われておるわい」といった趣でしょうか。



(注2)「擬議」

「「擬議」とは、入矢訳では「もたついた」(英訳本…げΦ降暮Φ)になっているが誤訳である。これは、僧が言語によって論理的に対応しようとしたその意図を示すもので、それが臨済によって拒否されたのは、臨済の求めていたものが「議論」ではなかったということである。」(沖本・虚構と真実37)



(2)第2段(入矢17~18)

有座主問、三乘十二分教、豈不是明佛性。師云、荒草不曾鋤(注1)。主云、佛豈賺人也。
師云、佛在什麼處。主無語。師云、對常侍前、擬瞞老僧。速退速退。妨他別人諸問。
復云、此日法筵、爲一大事故。更有問話者麼。速致問來。爾纔開口、早勿交渉也。
何以如此。不見釋尊云、法離文字、不屬因不在縁故。爲爾信不及、所以今日葛藤。恐滞常侍與諸官員、昧他佛性。不如且退。喝一喝云、少信根人、終無了日。久立珍重。



(訓読)「有座主問」~「荒草不曾鋤」有馬110

座主有り、問う、三乗十二分教は、豈に是れ仏性を明かすにあらざらんや。師云く、荒草(こうそう)曾(か)つて鋤かず



(訳)「有座主問」~「荒草不曾鋤」

〔1〕有馬110~111

座主が問うた、「三乗教や十二分教などの仏の教えの一切は、すべて仏性を解き明かすものではありませんか。」師「そのような道具では無明の荒草は鋤き返されはせぬ。

〔2〕小川101

「座主、「しかし、そうは言っても、仏が説かれたコトバとして、現に種々の経典が遺されておる。それらはまさに仏性を明らかにするものではござらぬか」。「わしは雑草を鋤いたことなどない(煩悩を除いて仏性を明かすという経論の説は、所詮、第一義ではありえない)」。」



(注1)「荒草不曾鋤」の理解(有馬110以下)

「仏教ということ自体が既に“こだわり”なんです。経典に縛られていたらあかん。もっと自由にあなたの自然の姿で人々に接したらいいと、臨済は言うのです。」(112)



2 「観音菩薩の正眼」(入矢19~20)

二、師、因一日到河府。府主王常侍、請師升座。時麻谷出問、大悲千手眼、那箇是正眼。
師云、大悲千手眼、那箇是正眼、速道速道。麻谷拽師下座、麻谷却坐。師近前云、不審。
麻谷擬議。師亦拽麻谷下座、師却坐。麻谷便出去。師便下座。



3 「赤肉団上に無位の真人有り」(入矢20~21)(注1)

三、上堂。云、赤肉團上有一無位眞人、常從汝等諸人面門出入。未證據者看看。時有僧出問、
如何是無位眞人。師下禪牀、把住云、道道。其僧擬議。師托開云、無位眞人是什麼乾屎橛。便歸方丈。



(訳)沖本・虚構と真実35

上堂説法。「生身のからだには無位の真人がいて、常にお前さん達の眉間から出入している。まだ見届けていないものは、しかと見よ。」その時ある僧が進み出て尋ねた、「無位の真人とはどんなものですか。」師は禅鉢を降りるや僧の胸倉をつかんでいった、「さあ言ってみろ。」その僧が答えようとすると、師は突き放して言った、「(この)無位の真人はまた何と見事な干からびた糞であることよ。」さっと方丈に帰った。



(注1)「無位の真人」の位置づけ

〔1〕入矢義高

「無位の真人」については、(日本)臨済宗の宗門では、強い意味付けを与えられていますが、入矢・自己と超越では、無位の真人は、善巧方便にすぎず、実質的な意味を与えるのは不適当であるとの見解を示します。

「『臨済録』では「無位の真人」という言葉はたった一回しか出て来ない。一番多く出て来るのは「無依の道人」ですね。「真人」とはずいぶんニュアンスが違います。「道人」は道者といっても同じですが、したたかな本色(ほんじき)の修道者をいいます。真人となりますと、もともとこれは道家の用語で、一種の理想像ですね。道に達した理想の人に与えられた言葉です。その点で大変形而上的です。道人はそうではなくて、ガッシリと大地に根を下ろしたしたたか者です。そこが非常に違う。私は、臨済が「無位の真人」という言葉を使ったのは方便の説法だと思います。一種の善巧方便から来た用語(ターム)だと思うのですけれども、たとえ善巧方便にしろ、方便説法をやることの恐ろしさを、あの玄沙の烈しい批判を読むことによって、私はつくづくと感じさせられました。」(27)

「『臨済録』を読みますと、臨済が「無位の真人」と言っているのは、たった一回きりです。あとは「無依の道人」と言っているんですね。「無依の道人」というのは現在の聴衆、現にその説法を聴いている人たちを直指して言っているのです。しかし「無位の真人」と言うと、もうひとつそういう神的な価値主体があるかのような観念を誘い出します。そこに破綻を露呈している。玄沙はそこを鋭くついているわけです。

ところが、『臨済録』全体を見ますと、たとえば「君たちは祖仏を知りたいと思うか。その祖仏とは他ならぬ、今げんに目の前で説法を聴いている君たち自身がそのままで祖仏なのだ」と、こういう言い方をするのが通例です。無媒介に祖仏と等置するのです。それなら、「無位真人」などという媒体は全然いらないはずです。臨済自身も「無位真人」とは何か」と問われて、すぐさま「是れなんの乾屎橛ぞ」と言って、それを消し去ってはいます。」(76~77)

入矢義高訳注『臨済録』の解説も参考になります。

「唐代の禅では、八世紀ごろから「自己」という用語が愛用され始める。それは、一者・絶対者としての仏と対決する気概を籠めた言葉であり、聖なるものへの反措定であった。臨済の師であった黄檗は、「三千世界(全宇宙)はすべて汝という自己にほかならぬ」と教えたし、また「学人(わたくし)の自己とは一体なんでしょうか」という一見奇妙な問い方が、九世紀になると定型化するに至った。「自己本来の面目」「自己本来の主人公」もそうである。さらには「超仏越祖」(仏祖をも超え出たところ)とか、「仏向上事」(仏の上へ踏み出た世界)という新用語が、臨済の時代には特に南方で流行した。つまり一種の超越志向(transcendentalism)の氾濫である。臨済の有名な「仏を殺し祖を殺す」という発言も、一見この志向につながるかと見える。しかし彼には、上述のようなギラリとした「自己」(self)の措定は全くない。せいぜいのところ、「一箇の父母」とか、「自家屋裏」(自分の家のなか)という、おとなしやかな言い方だけである。」(225~226

〔2〕沖本克己

「ここに「真人」とは従来道教の用語であるとされているが、阿羅漢の訳語として用いられた経緯もあり、また禅宗とも関連の深い荊渓湛然(七―ー―七八二)の『法華文句』に、「証真之人故日真人」(大正三四巻一六八上)といい、李通玄(六三五―七三〇)の『新華厳経論』にも「総法界智之真人」(大正三六巻七七六下)などの用例がみられ、精査すればもっと多くの用例を検出することができるであろう。仏教語としてもさほど珍しくはない用語なのである。即ち、その源が仮に『荘子』にあるとしても、それを臨済のオリジナルと考える必要はない、ということである。」(沖本・虚構と真実36)

臨済は「無位の真人」といういささか立派すぎ、かつ誤解を招き易い言葉をうっかり用いたが、これも道化師役の迂闊な僧のおかげで干澗びた糞に疑め得たのである。つまり「真人」と「糞」はまったく等価なのである。この動きをともなった咄嵯の作略、ないしは「落ち」を抜きにしてはこの寸劇も完結しないのである。(略)

ところが、その後の禅宗は、無位の真人も内在的超越者ではないこと、また一時的な、動的な措定でしかないこと、を明示する重要な後半部分を捨てて、「無位の真人」を定立させてしまう。これを絶対的独脱の立場だの、無相の自己だのとほめそやし、一人歩きさせてしまったのである。精神の衰亡以外のなにものでもあるまい。」(沖本・虚構と真実38)

さらに、そもそも臨済義玄は、「赤肉団上、有一無位真人」との言葉を使っていなかったされる。

「「赤肉団」が現れるのは、テキスト自体の成立は早いが内容の変化が大きいとされる北宋版『伝灯録』が最初で、元版もそれを継承するが、却って成立の遅い高麗版が『伝灯録』では現存最古型を保存するとされる南宋版に相似するのが注目される。

また、「赤肉団」という表現は『伝灯録』では臨済の本伝(一二巻)にしか見られず、別に記録された示衆(二八巻)や、何よりも同時代人である玄沙などの言及にはそれは反映していない。そして本伝は何度も変化を受けて成立した『臨済録』とよく対応し、直結するものである。こう考えれば、結論として臨済はこの語を用いておらず、「赤肉団」は後世の変容の結果であるとするのが自然であろう。(略)

以上によって、臨済義玄その人は、「赤肉団上、有一無位真人」なる言葉は用いていないことが明らかとなった。」(41)

〔3〕衣川賢治(衣川・思想124~125)

「〈一無位の眞人〉が顔面(「面門」)から出入りしているとはどういうことか?人間の見聞覚知の感覚作用を「顔面から〈六すじの神光〉が光を放つ」(示衆)と譬喩表現をし、これを「無位の真人が出入りしている」と擬人化したのである。「眞人」とは道家で用いられた道の體得者(『莊子』大宗師篇)で、魏晉南北朝時代の漢譯佛典では阿羅漢(修行の最高位に逹した人)を言うが、「無位」を冠しているから、もはやそれらとは異なって、地位・位階の價値枠に收まらないものの形象化である。(略)

「赤肉團」、「五蘊身田」と「無位の眞人」を別のように言ってはいるが、「無位の眞人」とは生き生きと活動する生身の人間のことにほかならない。生身の人間のほかに超越的な實體を認めているのではないのである。しかし「赤肉團上有一無位眞人、常從汝等諸人面門出入」という言葉には、容易に「超越的なるものの存在」を想像させてしてしまいやすい。「眞人」の語は道教における道の體得者(仙人)でもある。果してこの上堂においても、「未だ證據せざる者は看よ看よ!」と言うと、さっそく僧が「如何なるか無位の眞人?」と問うた。臨濟禪師はただちに禅牀を降りて僧を捕まえ、「道え、道え!」(このお前こそが〈無位の眞人〉なのだ。問うのでなく、みづから〈無位の眞人〉たるところを言え!)。僧が何やらもぐもぐするや、臨濟は突き放して、「〈無位の真人〉がなんたる糞棒か!」と言い捨てて、方丈へ歸ってしまった。格調高く切り出された「無位の眞人」の説法は、失敗に終わり、臨濟禪師は〈無位の眞人〉の揚言を悔いつつ、不機嫌に方丈へ引きあげざるを得なかった。以後、かれは二度とこの語を使わなかったのも、このような誤解を恐れたためである。福建にいた雪峯義存(八二二~九〇八)はこの話を傳聞して「林際は大いに白拈賊に似たり!」と舌を卷いたという(『景德傳燈錄』巻一二。『祖堂集』巻一九では「林際は大いに好手に似たり!」)。「白拈賊」とは痕跡をのこさぬ大膽な白晝強盗をいう。それは「無位の眞人」と言って、それが僧に誤解されるや、ただちに「乾屎橛」に轉化して僧を惡罵した。臨濟の電光石火の手腕を讚えた感歎の語である。同時代の雪峯も唐末の禪宗大衆化のなかにあって馬祖禪の庸俗的理解をいかに克服するかという課題を抱えていたので、臨濟の「無位の眞人」の上堂の問題點をただちに認識し、同時に臨濟に深い敬意を示したのである。この上堂はその結末と雪峯の評語全體から考えなくてはならない。なぜなら、ここには唐代禪學と臨濟禪師の思想にかかわる重要な問題があるからである。」



4 「賓主歴然」

(1)第1段(入谷21~22)

四、上堂。有僧出禮拜。師便喝。僧云、老和尚莫探頭好。師云、爾道落在什麼處。僧便喝。
又有僧問、如何是佛法大意。師便喝。僧禮拜。師云、爾道好喝也無。僧云、草賊大敗。
師云、過在什麼處。僧云、再犯不容。師便喝。



(2)第2段(入谷22~23)

是日、兩堂首座相見、同時下喝。僧問師、還有賓主也無。師云、賓主歴然。師云、大衆、要會臨濟賓主句、問取堂中二首座。便下座。



5 「如何なるか是れ仏法の大意」(入矢23~24)

五、上堂。僧問、如何是佛法大意。師竪起拂子。僧便喝。師便打。又僧問、如何是佛法大意。師亦竪起拂子。僧便喝。師亦喝。僧擬議。師便打。
師乃云、大衆、夫爲法者、不避喪身失命。我二十年、在黄檗先師處、三度問佛法的的大意(注1)、三度蒙他賜杖。如蒿枝拂著相似。如今更思得一頓棒喫。誰人爲我行得。時有僧出衆云、某甲行得。師拈棒與他。其僧擬接。師便打。



(訳)「上堂。僧問、如何是佛法大意」~「師亦喝。僧擬議。師便打」呉120

上堂すると、ある僧が問うた、「仏法のぎりぎり肝要のところをお伺いしたい。」師は払子を立てた。僧は一喝した。師は払子でその僧を打った。また一人の僧が問うた、「仏法のぎりぎり肝要のところをお伺いしたい。」師がまた払子を立てると、僧は一喝した。師もまた一喝すると、僧はもたついた。師はすぐに僧を打った



(注1)「問佛法的的大意」(衣川74)

「「如何なるか是れ佛法的的の大意?」(佛法の確信とは何でありましょうか?師は何をもって佛法の核心となさるか?)の「的的」は明確な、だれも否定することのできない貌。「大意」は偉大なる意義。すなわち「佛教の根本義はなにか」という問い。「如何なるか是れ~」という問いかたは、通常知らないことを教えてもらおうとするのではなく、すでに心得のあることにつき、相手の意見を徴する質問の形式である。」



6 「如何なるか是れ剣刃上の事」(入谷25)

六、上堂。僧問、如何是劍刄上事。師云、禍事、禍事。僧擬議。師便打。
問、祇如石室行者、踏碓忘却移脚、向什麼處去。師云、沒溺深泉。師乃云、但有來者、不虧欠伊。總識伊來處。若與麼來、恰似失却。不與麼來、無繩自縛。一切時中、莫亂斟酌。會與不會、都來是錯。分明與麼道。一任天下人貶剥。久立珍重。



(訳)「師乃云、但有來者」~「久立珍重」。呉123

上堂して言った、「わしのところへやって来る者すべてを、あだに見過ごしはせぬ。必ずその者の境界(きょうがい)を見抜いてしまう。こうやって来た者は、わしの前ではその立場を失ったも同然となり、ああやって来た者は、縄もないのに自らを縛るはめになる。いかなる時も、無暗(むやみ)にああこう分別するな。解るというのも解らぬというのも、すべて誤りだ。わしははっきりとこう言い切る。そして天下の人の批判にすべてゆだねる。やあご苦労だった」



7 「孤峰頂上と十字街頭」(入谷26~27)

七、上堂。云、一人在孤峯頂上、無出身之路。一人在十字街頭、亦無向背。那箇在前、那箇在後。不作維摩詰、不作傅大士。珍重。



8 「途中に在って家舎を離れず」(入谷27)(注1)

八、上堂。云、有一人、論劫在途中、不離家舍。有一人、離家舍、不在途中。那箇合受人天供養。便下座。



(注1)「途中に在って家舎を離れず」の理解の仕方。松原泰道『禅語百選』(1985)116~117

「途中に在って家舎を離れず(『臨済録』)(略)

私たちは、相対的認識方法にならされているので、すべてを対立的に考えます。目的と手段、結果と方法というふうに二つにわけて考え、行動します。労働も生活のため、マイホームをつくるための方法、と考えます。このために人間自信をも手段化して一生を終わるのです。

働くことは、“途中”ーー手段であるとともに、働くこと自体が目的でないと、人生は豊かになれません。目的のための目的でなく、“途中”それ自体が目的、つまり、“家舎”であるところに、人生があるのです。

(略)クーベルタン(略)の次の言葉が大切です。「人生は、成功するところに意義があるのではない。努力するところに意義がある」と。成功が目的でなく、努力そのものが目的なのです。

努力のための努力というのも相対論です。それを超えて価値批判の対象にならぬ生き方が、ここに掲げた「途中と家舎」の言です。

禅者は、これを「動中の工夫」と高く評価します。

労働も勤務もみな動中の工夫ーー働くことが禅のまっただ中にいるということです。」



9 「三句・三玄・三要」(入谷28)(注1)

九、上堂。僧問、如何是第一句。師云、三要印開朱點側、未容擬議主賓分。問、如何是第二句。師云、妙解豈容無著問、漚和爭負截流機。問、如何是第三句。師云、看取棚頭弄傀儡、抽牽都來裏有人。
師又云、一句語須具三玄門、一玄門須具三要、有權有用。汝等諸人、作麼生會。下座。

(訳)

上堂すると、ある僧が問うた、「師の禅の第一句はどういうのですか」。師「〈三要〉の印を紙に捺してから印を持ちあげると、朱の一点一画がくっきりと現れ、そこには臆測をさしはさむ余地もなく主体と客体とが歴々と顕現する」。「では第二句は?」師「文殊にも比すべき我が絶妙な見地は、あの無著の問いを寄せつける余地もない深遠なものだが、それが方便として発揮されると、水の流れを断ち切る名剣のはたらきを裏切ることのない鋭さを示す」。「では第三句は?」師「よく見るがいい、舞台の人形がいろいろの演技をするのは、みな舞台裏であやつる人がいるのだ。」また師は言った、「一句の語には三玄門が具わっていなくてはならず、一玄門には三要が具わっていなくてはならない。そうあってこそ方便もあり、はたらきもある。さて皆の衆、ここをどう会得するか」。こう言って座を下りた。



(注1)「三句・三玄・三要」の成立について

臨済宗なる宗派の綱要という考えかたは、臨済自身にはいまだ現われるはずもなく、五代から宋代始めに宗派意識の芽生えに始まったと考える方が穏当であろう。この点について衣川賢次(略)sは以下のように指摘している。臨済の唐末の時代から一世紀を過ぎた宋初になると、臨済宗なる宗派が形成され、これにともなって宗派綱要が必要とされ、〈喝〉の分類、〈四照用〉、〈四賓主〉、〈三玄三要〉等といった、いわば禅宗の教理〈禅宗的法数学〉の傾向が出て来て、これが『臨済録』に附加されてゆく。それは増補附加した後代の人びとの時代の問題意識とかかわっている。つまり「三玄三要」を考える場合、そのまま臨済の語と見ることはできないということになる。」(呉150)

「「臨済三句」はもと『景徳伝灯録』巻 12 臨済章(1009)に初出するもので、円覚宗演が黄龍慧南校訂『四家録』(約 1066 年前後)中の『臨済録』を重刊(1120)した時に『景徳伝灯録』などから増補した 8 則のうちの 1 則であった。これが『続開古尊宿語要』(1238)、『古尊宿語録』(1267)に引き継がれ、単行化されて江戸時代の通行本(18 世紀)に至るのである。したがって『臨済録』テキストの二系統のうち、「古尊宿系」に見えるもので、「四家録系」には見えないのである。」(呉160)」






第3-2 〔示衆〕



1 第1段 

(1)第1段の1(入谷31)(注1)(注2)

一、師晩參示衆云、有時奪人不奪境、有時奪境不奪人、有時人境倶奪、有時人境倶不奪。時
有僧問、如何是奪人不奪境。師云、煦日發生鋪地錦、瓔孩垂髮白如絲。僧云、如何是奪境不奪人。師云、王令已行天下遍、將軍塞外絶烟塵。僧云、如何是人境兩倶奪。師云、幷汾絶信、獨處一方。僧云、如何是人境倶不奪。師云、王登寶殿、野老謳謌。

(訳)呉166

師は夜の説法の時に、修行者たちに教えて言った、「私はある時は人を奪って境を奪わない。ある時は境を奪って人を奪わない。ある時は人境ともに奪う。ある時は人境ともに奪わない」と。その時、ひとりの僧が尋ねた、「人を奪って境を奪わないとは、どんな境地ですか」。師「春の陽光が輝き出て大地は錦にしきのしとね、みどり児の垂らす髪は絹糸のように白い」。僧「境を奪って人を奪わないとは?」師「国王の命令はあまねく行われて天下泰平、辺境を守る将軍は戦いの塵ひとつ上げさせない」。僧「人境ともに奪うとは?」師「幷州と汾州とは断絶して、今や独立の地盤を築いた」。僧「人境ともに奪わないとは?」師「国王は宮殿に鎮座し、老農は野に歌う。



(注1)臨済の四料簡の成立(呉167)

「周知のように、臨済の「示衆」説法は『臨済録』の主要部分を占めているが、上掲のテキストでは「四料簡」がその「示衆」部分の冒頭に置かれ、臨済の説法を総括する重要なものとして提示されている。さらにこの「四料簡」はのちの臨済宗の宗派綱要として関心を集め、注釈の対象となった(例えば『人天眼目』)。

しかし「四料簡」は黄龍慧南校訂『四家録』以前の古い『臨済録』の形態(すなわち「四家録」の系統)を保存する『天聖広灯録』(1036)巻 11(のちの円覚宗演重刊本の分類では「示衆」に相当する部分)には見えず、同書巻 10(円覚宗演の分類では「勘弁」に相当する部分)の中に加えられている。しかも重要なのは「四料簡」と共通する考えかたは『臨済録』の「示衆」と、内容が異なることである(後述)。したがって「四料簡」一則は臨済の語として疑問が残り、後に増補附加されたものであった可能性が高いことが推定されるのである。」



(注2)前田利鎌における臨済の四料簡の理解の例(前田37~38)

「(奪人不奪境、奪境不奪人、人境俱奪、人境俱不奪の)四種のものを全然、別種なものと片付けてしまうのは、直接体験における流通性を見逃すものである。要するにそれらは、ただ純一なる一如の体験を、主客のいずれに焦点をおいて語るかという二次的な閑葛藤であるといっても、敢て過言ではない。そしてそれは臨済自身にとっては、どうでもいい問題であって、むしろただ、学人を接得するための手段として樹てられたに過ぎないとみるのが、けだし至当である。あたかもその昔仏陀が随機説法を試みたといわれるように、彼も相手の機根相応に様々な態度をとる」



(2)第1段の2(入谷32~34)

師乃云、今時學佛法者、且要求眞正見解。(注1)若得眞正見解、生死不染、去住自由。不要求殊勝、殊勝自至。道流(注2)、祇如自古先徳、皆有出人底路。如山僧指示人處、祇要爾不受人惑。(注4)要用便用、更莫遲疑。如今學者不得、病在甚處。病在不自信處。爾若自信不及、即便忙忙地徇一切境轉、被他萬境回換、不得自由。爾若能歇得念念馳求心、便與祖佛不別。爾欲得識祖佛麼。
祇爾面前聽法底是。學人信不及、便向外馳求。設求得者、皆是文字勝相、終不得他活祖意。莫錯、諸禪徳。此時不遇、萬劫千生、輪回三界、徇好境掇去、驢牛肚裏生。道流、約山僧見處、與釋迦不別。今日多般用處、欠少什麼。六道神光、未曾間歇。若能如是見得、祇是一生無事人。(注3)

(訳)

〔1〕「師乃云」~「不得自由」まで。沖本・虚構と真実21

師は説法していわれた、「こんにち、仏道を修行するものは、まず真正の見解が必要である。真正の見解を得たならぼ、生き死にに悩まされることもなく、そこから自由になる。望まなくとも秀れた境地も自然に手に入る。諸君、往年の先徳たちは皆な人並み勝れた方法を持っているが、わたしが教えることといえば、ただ他人に惑わされるなということだけである。やろうと思えばすぐにやれ。ぐずぐずしてはいけない。だのに最近の修行者はさっぱりだ。どこが悪いのか。自らを信じないからだ。もし自らをしっかりと信じきれないなら、たちまちじたばたと外境の変化するままに翻弄され、自由になれないのだ。

〔2〕「爾欲得識祖佛麼」~「終不得他活祖意」まで。沖本・虚構と真実37

「お前さんは祖仏を知りたいと思うか。目の前で説法を聞いているお前さんこそがそれだ。(ところが)君達は信じきれずに、外に求めて走り回る。たとい求め得たとしても、みな文字や概念ぼかりであって、結局かの生きた祖師の本旨は得る事ができないのだ。」

〔3〕衣川・思想102~103

「師は大衆に向って言った、「いま佛法を學ぼうとする者は、とりあえず、正しい考え方を求めなくてはならぬ。正しい考え方を身につけたなら、輪廻にも陷らず、行くも留まるもみづから決める。解脫を求めなくとも、解脫はひとりでにわがものとなる。諸君!古來の先覺がたは、みなすぐれた方便、わたしが忠告してやれるのはただ、きみたちは人に騙されるな、ということだけだ。忠告に從うなら、從うがよい。迷ったりしていてはだめだ。いまの修行者の缺點は、どこに原因があるか?原因は自己を信じないところにある。きみたちが自己を信じきれないから、幻覺のままにあたふたと運ばれ、よろづの場面に振りまわされて、自由になれないのだ。きみたちが絕えずえず求めまわる。その心を終熄できたなら、そのときこそ逹磨や佛陀と同じなのだ。きみたちは逹磨がどんな人なのか、知りたいと思うか?今わたしの面前で説法を聴いているきみたちこそ、それなのだ。きみたち自身が自己を信じきれないから、外に求めてまわるのだ。外に求めて、たとい得られたとしても、みな文字や言葉ばかりで、けっして活きた達磨の思想ではない。考え違えをしてはならぬ!禪師がたよ!今生に善知識に遇わなければ、永遠に三界を輪廻し、臨終に現れる好ましき境界、おぞましき境界のままに、驢馬や牛の腹に入って轉生することになる。諸君!わたしの見かたに據れば、諸君は釋迦と何の違いもないのだ。毎日の種々の行いに、何の缺けたるところがあろうか。きみたちの六根が放つくすしき光は、途切れることなく射しつづけているではないか。このように見ることができたなら、諸君はただ一生無事の人である。」



(注1)「且要」については、衣川231の次の指摘が大変興味深い。

「「且らく要す」とは次善の策を勧める場合に言う。「佛法を学ぶ必要は、本来ないのであるが、もし学ぼうとしている者があれば、ひとまず…」と言うニュアンスである。」(231)

前提としての「仏法を学ぶ必要がない」が鋭い。



(注2)「道流」=どうる

「「道流」は臨済が来参した行脚僧に呼びかけた、かれ独特の語(「学道流」の略)。」(衣川48)



(注3)この一段の前提となる臨済の理論的基礎については、衣川176に次の指摘があります。

臨済がかく言う理論的根拠は馬祖禅の考え方にある。中唐の馬祖道一(七〇九―七八八)は「即心即佛」、「性在作用」を説いた。「佛性はわが心にあり、それはわが行為に発揮される」という佛性論である。伝統的な佛教学では、佛性は人人具有ではあっても、煩悩の雲に覆われて発揮されぬゆえに、繁多な戒律に依る煩悩対治、膨大な経論の学修、長期にわたる修行、その果てに佛陀の悟りが設定されていた。これは幾世にもわたって輪廻転生をくりかえし、その果てに最終解脱を得るというインド人の思想であるが、中国人の馬祖はこのような迂遠な考えかたには耐えられず、孔子の「道は人に遠からず」(『礼記』中庸篇)に拠って、「佛は人に遠からず」、「道は衆生を離れず」であるはずだと考えたのである。」



(注4)

〔1〕 「人惑」は、衣川208~213に指摘があり、その概要は次の通りです。

 (1)「伝統的佛教学」(208)
  ① 「佛陀を究極の理想と設定してその境涯に至らんことを求めること」(208)
  ② 「佛陀の悟りの境涯に到達するには、多くの修行の階梯を踏まねばならぬ」という「教学の修道論」(210)
(2) 「禅宗的教条」(213)

〔2〕 「人惑」の理解については、次の有馬159~160が、わかりやすく、力強い。

「――「人惑」とは、他人の意見に振り回されること、と考えればいいでしょうか。

有馬 そうです。

「山僧」というのは、臨済自身。つまり臨済は、「わしが言うたことに惑わされてはいかん」と。臨済は自分で自信の意見を言っておきながら、「わしの言うことを聞かんでもいいよ」と言っているんです。つまり「自分自身で納得しなさい」と。

――しかしよほど“私”がしっかりしていないと、やはり不安になります。他人の意見を聞いて参考にしようとします。あくまで参考にしようと思って聞くのですが、聞いてしまうと自分の考えがグラつき始めます。

有馬 聞いてしまうと迷うね。(略)

「人惑」とは、「迷った場合、他人に意見を聞くな、自分で考えよ」ということです。簡単な話です。

自分自身で納得したら、それでいいじゃないか、と。「納得」しないから迷う、迷いに陥る。そこで新たな悩みが生じる。すると自由を失う。」



(3)第1段の3(入谷35~37)

大徳、三界無安、猶如火宅(注1)。此不是爾久停住處。無常殺鬼、一刹那間、不揀貴賤老少。爾要與祖佛不別、但莫外求。爾一念心上清淨光、是爾屋裏法身佛。爾一念心上無分別光、
是爾屋裏報身佛。爾一念心上無差別光、是爾屋裏化身佛。此三種身、是爾即今目前聽法底人。祇爲不向外馳求、有此功用。據經論家、取三種身爲極則。約山僧見處、不然。此三種身是名言、亦是三種依。古人云、身依義立、土據體論。法性身、法性土、明知是光影。大徳、爾且識取弄光影底人、是諸佛之本源、一切處是道流歸舍處。是爾四大色身、不解説法聽法。脾胃肝膽、不解説法聽法。虚空不解説法聽法。是什麼解説法聽法。是爾目前歴歴底、勿一箇形段孤明、是這箇解説法聽法。若如是見得、便與祖佛不別。但一切時中、更莫間斷、觸目皆是。祇爲情生智隔、想變體殊、所以輪回三界、受種種苦。若約山僧見處、無不甚深、無不解脱。



(注1)「三界無安、猶如火宅」については、鈴木大拙は、次のように言う。大拙臨済録理解については、疑問も呈されるところはあるが、この理解はいい。

「「三界無安、猶如火宅」というが、只無安ではない、只火宅ではない。無安ならざるものがあるから、無安なのである。火宅ならざるものがあって初めて火宅といえる。何が無安ならざるものか、火宅ならざるものか、眼をこれにつけなくてはならぬ。そして眼がこれにつくとき、無安で火宅の如き三界を、その内容を尽くして、捨てて顧みぬのである。」

鈴木大拙『百醜千拙』(1925年)212)



(4)第1段の4(入谷39~40)

道流、心法無形、通貫十方。在眼曰見、在耳曰聞、在鼻嗅香、在口談論、在手執捉、在足運奔。本是一精明、分爲六和合。一心既無、隨處解脱。山僧與麼説、意在什麼處。祇爲道流一切馳求心不能歇、上他古人閑機境。道流、取山僧見處、坐斷報化佛頭、十地滿心、猶如客作兒、等妙二覺、擔枷鎖漢、羅漢辟支、猶如厠穢、菩提涅槃、如繋驢橛。何以如此、祇爲道流不達三祇劫空、所以有此障礙。若是眞正道人、終不如是。但能隨縁消舊業、任運著衣裳、要行即行、要坐即坐、無一念心希求佛果。縁何如此。古人云、若欲作業求佛、佛是生死大兆。

(訳)

〔1〕「道流、取山僧見處」~「佛是生死大兆」。衣川・思想114

諸君!わたしの見かたによるならば、わたしは報身佛、化身佛の頭も尻に敷く。十地に至った菩薩は小作奴隷、等覺・妙覺は囚われの罪人、羅漢・辟支佛は糞尿、菩提・涅槃は驢馬を繫ぐ杭にほかならぬ、なにゆえかく申すかといえば、それら修行の階梯が空名にすぎぬことに、諸君が逹觀できない障害があるためなのだ。まことの正しき道人ならば、けっしてそうではない。ただ因緣のままに宿業を受けとめて生き、運に任せて身に合った衣裳をつけ、行こうと思えば行き、坐ろうと思えば坐り、ことさら悟りを得ようなどとはチラリとも思わぬ。なぜか?古人の言うとおり、「もしも修行して佛になりたいなどと思うならば、そのとき佛こそは生死輪廻の重大な契機となる」からなのだ。

〔2〕「但能隨縁消舊業」~「佛是生死大兆」。朝比奈67~68頁

「ただ因縁に任せて生活し、寒ければ着物を重ね、暑ければ脱ぎ、歩くも坐るも思いのまま、いささかも悟りを求めようなどとは思わない。なぜならば、古人も「もし、あれこれ計らいをして、仏を求めようとしたならば、それこそ大きな迷いの始まりである」と言っている。」



(5)第1段の5(入谷39~40)

大徳、時光可惜。祇擬傍家波波地、學禪學道、認名認句、求佛求祖、求善知識意度。莫錯、道流。爾祇有一箇父母、更求何物(注1)。爾自返照看。古人云、演若達多失却頭、求心歇處即無事。大徳、且要平常、莫作模樣。有一般不識好惡禿奴、便即見神見鬼、指東劃西、好晴好雨。如是之流、盡須抵債、向閻老前、呑熱鐵丸有日。好人家男女、被這一般野狐精魅所著、便即捏怪。瞎屡生、索飯錢有日在(注2)。

(訳)

〔1〕呉123~124

禅師がたよ!時を大切にせよ。諸君は行脚を事としてあちこちの叢林を巡りあたふたと禅を学ぼうとし、語句を覚えこみ、自己をなおざりにして仏祖を求め、師友に教えてもらおうとばかりしている。誤解してはならぬ。諸君!きみたちにはちゃんとした父母があるではないか。それだけで十分なのに、そのうえ何を求めようというのか?みづからをとくと顧みよ!古人も『演若達多は頭を失くしたと思って捜しまわったあげく、捜すのをやめたとき、何事もなかったと気づいた』と言うとおりだ。禅師がたよ!まづは平常であれ!人まねをするでない!もののよしあしもわきまえぬゴロツキ坊主どもは、狐ツキをやって、あれこれと指さしたり、『よき晴れかな』、『よき雨かな』などとほざいておる。こいつらこそ借金を償うために、死んでから閻魔王の前に引き出され、焼けた鉄の玉を呑まされる日がくる。きみたちよいところのお坊ちゃん、お嬢ちゃんが、あんなキツネつきに騙されて奇怪なまねをするとは!ドメクラども!飯代を請求される日が来るぞ!

〔2〕「大徳、時光可惜」~「呑熱鐵丸有日」。小川110~112

「諸君、時を空しく過ごしてはならぬ。だのに、汝らはただひたすら「傍家波波地(のきなみあたふたと)」よそさまを訪ね歩いて「禅」だの「道」だのを学び、名辞や言句を実体視し、「仏」や「祖」を求め、さらに師を求めて理屈で分かろうとするばかりだ。

だが、諸君、誤ってはならぬ!汝には、ただ一人の父御と母御が有るのみだ。その外に何を求める必要がある(実の父と実の母から生まれた、れっきとした一箇の活き身の自己。そこに何の不足がある)。自分自身に立ち返ってみよ。古人の言にもある、「演若達多は己れの頭を見失って狂奔した。だが、外に捜し求める心を止めさえすれば、実は何事も無かったのである」(典拠未詳)と。

諸君、まずは平常(あたりまえ)であれ、わざとらしいフリをするな。よしあしをわきまえぬある種のハゲ坊主どもは、神おろしのようなマネをして、東を指したり西に線をひくような所作をして、やれ「よい天気」だ、やれ「恵みの雨」だ、などとのたもうておる。こういう連中は、どいつもこいつも借財を還するため(偽りの法に依って得た供養の清算のため)、地獄におちて、閻魔さまの前で真っ赤に焼けた鉄の玉を呑み込まされる日が来ること必定である。」

〔3〕「大徳、且要平常」~「索飯錢有日在」。衣川・思想118

禪師がたよ!まづは平常であれ!人まねをするでない!もののよしあしもわきまえぬゴロツキ坊主どもは、狐ツキをやって、あちこち指さしたり、「よき晴れかな」、「よき雨かな」などとほざいておる。こいつらこそ借金を償うために、死んでから閻魔王の前に引き出され、燒けた鐵の玉を吞まされる日がくる。きみたちよいところのお坊ちゃん、お孃ちゃんが、あんなキツネつきに騙されて奇怪な!ドメクラども!飯代を請求される日が来るぞ!



(注1)「爾祇有一箇父母、更求何物」=「なんじらに秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求む」

この点は、衣川49に次の解説がある。

「你らに秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求む?」とは、父母が生んでくれた自己の身心に欠けたるところはなく、佛と同じく完全であること。人は生まれながらに佛性を授かっているのだという確信は、唐代禅の基調で、日本の江戸初期の盤珪禅師(一六二二~一六九三)が播州弁で説いた「人々皆親のうみ附(つけ)てたもつたは、佛心ひとつで、よのものはひとつもうみ附(つけ)はしませぬわいの」という「不生の佛心」のことである(『盤珪禅師語録』九頁、鈴木大拙編校、岩浪文庫)。「你(なんじ)ら自ら返照し看よ!」の「返照」は「回光返照」、沈んだ太陽が夕空を照らし、その余暉でこちら側が明るい状態を言い、そこから佛教語として、外を見ていた眼を転じて内に向ける自己省察の意が派生した。



(注2)この段の理解(小川112~113)

「この段には特徴的・印象的な語彙が多い。「傍家(ぼうけ)」は「副詞で、わき道にそれるさまをいう」(《文庫》頁四三注)と解されてきたが、今は試みに「一軒一軒順々に」と解する袁賓『禅宗著作詩語匯釈』(略)の説にしたがってみる。いずれにしても、己れの外に「仏」を求めて奔走するさまの形容であることは間違いなく、そこにはやはり自己こそが本来「仏」であるにもかかわらず、という含みがある。(略)

つぎに「你、祇(た)だ一箇の父母有り」は《文庫》で「君たちにはちゃんとひとりの主人公がある」(頁四四)と訳され、「本来人としての自己。本来の主人公ともいう」と注されている。(略)自己を自己たらしめれう内なる父母――という語が見えるのを参照すれば、当然ありうべき解釈である。しかし、臨済は、自己の内面に内在的な超越者を想定することを禁じ、活き身の自己の全体がそのまま仏と等しいのだと繰り返す(略)。そこで、ここでは、確かにひとりの父とひとりの母から生まれたかけがえの無い活き身の自己、その外に「仏」や「祖」を求める必要は無いという意に解してみた。その後に出てくる「好人家(こうにんけ)の男女(なんにょ)――ちゃんとした家の子供」というのも同意であろう。

だが、そうした自己を置き去りにしたまま、怪しげな老師たちの魅惑的な俗説についてまわっていては、「飯銭を索(もと)めらるること日有らん在(や)!」と臨済は言う(句末の「在」は断定の語気(略))。行脚僧は労働も納税もせず、信徒の布施によって養われている。にもかかわらず行脚の実をあげられなければ、やがて地獄に堕ちて、閻魔さまからそのムダ飯の代金の返還を迫られることは避けられぬ、というのである。」



2 第2段「臨済の四照用」(入矢44~45)

この段は、明版『古尊宿語録』から増補されたものとして、入谷44~45頁に記載されている。

正蔵版には存在しない。

柳田、山田にも取り上げられていない。

「元来、四照用の一段は、天聖広灯録が拠った古い臨済録には存しなかったようで、天聖広灯録には、臨済の章以外の諸弟子の章にも、此に関する説を見出すことが出来ない。」(柳田・ノート(続)4)



二、示衆云、我有時先照後用。有時先用後照。有時照用同時。有時照用不同時。先照後用有人在。先用後照有法在。照用同時、駈耕夫之牛、奪飢人之食、敲骨取髓、痛下鍼錐。(注1)照用不同時。有問有答、立賓立主、合水和泥、應機接物。若是過量人、向未學已前、撩起便行。猶較些子



(注1)前田42~44の「駈耕夫之牛、奪飢人之食」等の理解は、勢いがあり、この段の成立とは関係なしに、一般論として説得力を感じます。

臨済は一物も与えずして、徹底的に奪って行く。飢人の食を奪い、耕夫の牛を駆る、というものもこの消息を語るものである。己を確立して自由な自然児になるためには、人惑迷執を惹き起す一切の偶像は破壊せられねばならない。先ず仏門における最大の偶像は――仏である。仏を礼拝するは愚か、仏に自らなろうとするのが已に人間の無知を語るものである。臨済は寸毫の仮借なく、口を極めて伝統的な既成概念を罵倒している。――いわゆる仏を求め、法を求めるのも一種の迷妄である。それらは一種の抽象的な概念――名句、名字にすぎない。単に頭の中で捏ね上げた仏などは、俺の眼から見れば、糞壺――厠孔のようなものだ。菩薩羅漢の如き概念は、尽くこれ首械、手械、人を縛する底の邪魔物である。従ってそれらのものを御大相に書き記したような、一切の経文の如きは、「不浄を拭うの故紙」にすぎない。古人の言説や経文に没頭するのは、「糞塊上に向って乱咬する」の醜態ではないか。それにもかかわらず、一切の学人どもは、聞きかじり、読みかじりして教理などを語って得意でいるが、そんな醜態は糞塊を口に含んで、また人に向って吐き与えるようなものだ。

しかし何故に人々は、かかる奇怪なる偶像を求めて止まないのだろう。――他でもない、それは聖俗、浄穢、――即ち誤れる価値観に迷わされるからである。一体価値というものは本来それぞれの境地に内具しているものではない。人間はいわゆる聖俗浄穢、様々の境地に入っていく。しかしそれ故に自から、聖、俗、浄、穢になり得たと思うのは、甚だしい迷妄である。何となれば、本来その境地そのものが、善であり、あるいは悪であるのではないからである。その証拠には、一々それらの境地が人間の前に推参して、我はこれ聖俗浄穢なりと、自ら名乗りを上げた試しはないではないか。ただ人間がそれらの事物に対して価値を賦与したまでにすぎない。従って外に向って求めるものは、自己の創造した価値観に縛られて、自己そのものから遊離してしまう痴態である。まさしく自縄自縛であり、自殺である。――いわゆる穢れたる無常の世界を捨てて、聖なる境地に憧れ行く者の如きは、自ら首枷械を担い、鉄鎖を引きずるもの。無常流転の彼岸に立つ円頓菩薩の如きは、清浄不浄の価値観に縛られた土偶坊(でくのぼう)である。すべからく価値観を擺脱して、現実を直観せよ――」



3 第3段

(1)第3段の1(入矢46~47)(注1)

三、師示衆云、道流、切要求取眞正見解、向天下横行、免被這一般精魅惑亂。無事是貴人。但莫造作、祇是平常。爾擬向外傍家求過、覓脚手。錯了也。祇擬求佛、佛是名句。爾還識馳求底麼。三世十方佛祖出來、也祇爲求法。如今參學道流、也祇爲求法。得法始了。未得、依前輪回五道。云何是法。法者是心法。心法無形、通貫十方、目前現用。人信不及、便乃認名認句、向文字中、求意度佛法。天地懸殊。

(訳)「三世十方佛祖出來」~「天地懸殊」。呉119

三世十方の仏や祖師が世に出られたのも、やはり法を求めんがためであった。今の修行者諸君も、やはり法を求めんがためだ。法を得たら、それで終わりだ。得られねば、今まで通り五道の輪廻を繰り返す。いったい法とは何か。法とは心である。心は形なくして十方世界を貫き、目の前に生き生きとはたらいている。ところが人びとはこのことを信じ切れぬため、〔菩提だの涅槃だのという〕文句を目当てにして、言葉の中に仏法を推し量ろうとする。天と地の取りちがえだ。」



(注1)作用即性論の現れ(呉120)

臨済はここで、「心は形なくして十方世界を貫き、目の前に生き生きとはたらいている」(「心法無形,通貫十方,目前現用」)と述べている。つまりいま・ここの見聞覚知のはたらきは心法(仏性)から現れたものであり、そして日常の見聞覚知の働きに即して心法(仏性)に気づく、ということである。」



(2)第3段の2(入矢48~49)

道流、山僧説法、説什麼法。説心地法。便能入凡入聖、入淨入穢、入眞入俗。要且不是爾眞俗凡聖、能與一切眞俗凡聖、安著名字。眞俗凡聖、與此人安著名字不得。道流、把得便用、更不著名字、號之爲玄旨。山僧説法、與天下人別。祇如有箇文殊普賢、出來目前、各現一身問法、纔道咨和尚、我早辨了也。老僧穩坐、更有道流、來相見時、我盡辨了也。何以如此。祇爲我見處別、外不取凡聖、内不住根本、見徹更不疑謬。



4 第4段

(1)第4段の1(入矢50~51)

四、師示衆云、道流、佛法無用功處、祇是平常無事。屙屎送尿、著衣喫飯、困來即臥(注1)。愚人笑我、智乃知焉。古人云、向外作工夫、總是癡頑漢。爾且隨處作主、立處皆眞。境來囘換不得。縦有從來習氣、五無間業、自爲解脱大海。

(訓読) 「師示衆云、道流、佛法無用功處」~「總是癡頑漢」。朝比奈81

師、衆(しゅ)に示して云く、道流(どうる)仏法は用功(ゆうこう)の処無し。祇(ただ)、是れ平常無事(びょうじょうぶじ)、屙屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、困し来たれば即ち臥す。愚人(ぐにん)は我を笑う、智は乃ち焉(これ)を知る。古人云く、外に向って工夫を作(な)す、総に是れ癡頑(ちがん)の漢、と。

(訳)

〔1〕呉129

師は皆に説いて言った、「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ。たとえ、過去の煩悩の名残(なごり)や、五逆の大悪業があろうとも、そちらの方から解脱の大海となってしもうのだ。

〔2〕朝比奈81

師は大衆に示して言った。お前たちよ、仏法は計らいを加えるところは無い。仏法の究極はただ平常のままがそれである。大小便をしたり、衣服を着たり飯を食べたり、疲れたならば眠るばかりである。愚人は笑うであろうがほんとうに出来た人ならばそこがわかる。古人も、「自己の外に向かって求めまわるのは、みんな大馬鹿者である」と言っている。



(注1)「法無用功處、祇是平常無事。屙屎送尿、著衣喫飯、困來即臥」との理解は、現代の臨済宗でも変わらないようです。

「『臨済録』という書物に、「お腹がすいたらご飯を食べればいいし、くたびれたら眠ればいい。仏を外に求める必要はない」と繰り返し説かれている、臨済禅の極意です。

自分自身が仏であると気がついたならば、何も仏の真似をする必要はありません。だから臨済宗は割に自由なんです。寝るときには寝ればいいし、食べるときには食べればいいんだというのは、そこへくるわけです。」

横田南嶺「インタビュー 身体を整えることへの目覚め」『サンガジャパンvol.32』(2019)47)

※よこた なんれい、臨済宗円覚寺派管長



(2)第4段の2(入矢50~51)

今時學者、總不識法、猶如觸鼻羊、逢著物安在口裏。奴郎不辨、賓主不分。如是之流、邪心入道、鬧處即入。不得名爲眞出家人、正是眞俗家人。(注1)夫出家者、須辨得平常眞正見解、辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖。若如是辨得、名眞出家。若魔佛不辨、正是出一家入一家。喚作造業衆生、未得名爲眞出家。祇如今有一箇佛魔、同體不分、如水乳合、鵝王喫乳。
如明眼道流、魔佛倶打。爾若愛聖憎凡、生死海裏浮沈。

(訳)

〔1〕呉129

「当今の修行者たちは、まったく仏法とは無縁だ。まるで鼻づらを物にぶっつけたがる羊みたいに、何に出会ってもすぐ口に入れてしまう。だから奴隷と主人の区別もつかず、主と客の見分けもつかない。こんな連中は、初めから不純な目的で出家したやからで、にぎやかな場所にはすぐ首をつっこむ。これでは真の出家者とは言えぬ。まさに根っからの俗人だ。いやしくも出家とあれば、ふだんのままな正しい見地をものにして、仏を見分け魔を見分け、真を見分け偽を見分け、凡を見分け聖を見分けねばならぬ。こうした力があってこそ、真の出家と言える。魔と仏との見分けもつかぬようなら、それこそ一つの家を出てまた別の家に入ったも同然で、そんなのを<地獄の業を造る衆生>というのだ。とても真の出家者とは呼べぬ。たとえばここに仏と魔が一体不分の姿で出てきて、水と乳とが混ぜ合わさったようだとする。そのとこ鵝王は乳だけを飲む。しかし眼力(がんりき)を具えた修行者なら、魔と仏とをひとまとめに片付ける。君たちがもし聖を愛し凡を憎むようなことなら、生死の苦海に浮き沈みすることになろう。」

〔2〕「今時學者」~「正是眞俗家人」。前田40

近来の学人どもは一切真理を知らない。まるで鼻の尖(さき)に触ったものは、お先き真暗に喰(かぶ)り付く羊のようなものだ。奴僕と主人、客と主との区別も弁えぬ。かかる邪心の類は道に入ることも出来なければ、閙(にぎ)やかな場所に入ることも出来ない。これをしも真の出家の人と呼ぶことが出来ようか。

〔3〕「夫出家者」~「魔佛倶打」。衣川・思想121

出家者というものは、平常で正しい考えかたをよく見分けねばならぬ。すなわち何が佛で何が魔であるのか。何が本物で何が僞物であるのか、何が俗で何が聖であるのか、ここのところをよく見分けることができてこそ、本物の出家と言えるのだ。魔と佛さえも見分けられないなら、家を出たり入ったりするだけの、いわば地獄行きの衆生であって、本物の出家とは言えない。ただし、たとえば佛魔なるものがあって、出佛と魔が水と乳の溶け合ったごとくに一體不分であったとしよう。鵝王ならば乳だけを飲む。しかし衜眼を具えた禪僧ならば、魔も佛もともに打ちのめすのだ。〈きみがもし聖を慕っい、て俗を憎むなら、煩悩の海に浮き沈みをくりかえすほかない〉。



(注1)出家の意義(前田40~41)

臨済のいう出家とは伝統的な生活からの逃避と解すべきではない。家とはわれわれの生命を囲繞して圧迫阻害する偏見的思想、反生命的価値観、環境対象に牛耳られる執着――即ち人間の生命を幽閉するもろもろの化石的な殻という意味である。従って禅門における出家とか、破家散宅とかいう意味は、――換言すれば一切を自由に所有すること、一切に対して自由なる君主として振舞うことに他ならない。」



5 第5段

(1)第5段の1(入矢53~55)

問、如何是佛魔。師云、爾一念心疑處是魔。爾若達得萬法無生、心如幻化、更無一塵一法、處處清淨是佛。然佛與魔、是染淨二境。約山僧見處、無佛無衆生、無古無今、得者便得、不歴時節。無修無證、無得無失。一切時中、更無別法。(注1)設有一法過此者、我説如夢如化。山僧所説皆是。道流、即今目前孤明歴歴地聽者、此人處處不滯、通貫十方、三界自在。入一切境差別、不能回換。一刹那間、透入法界、逢佛説佛、逢祖説祖、逢羅漢説羅漢、逢餓鬼説餓鬼。向一切處、游履國土、教化衆生、未曾離一念。隨處清淨、光透十方、萬法一如。

(訳)

〔1〕「問、如何是佛魔」~「山僧所説皆是」(衣川・思想122)

問う、「佛魔とは何なのでしょうか?」師は答う、「きみの不信の念が佛魔だ。きみがもし、あらゆるものは空、心も幻、何物も実體として存在せず、世界はカラリと清浄なのだとわかったとき、佛魔はいない。佛と衆生は一方は清浄、他方は汚染の境涯とされているが、わたしの見かたでは、佛と衆生の区別はなく、古えも今もない、得ている者は始めから得ているのであって、年月をかけて得たのではない。修行もいらねば、悟りもない。新たに何かを得たわけでも、失ったりもしない。わたしの見かたはいつでもこういうことだ。これ以外のものはない。〈たといこれに勝る見かたがあろうと、そんなものは夢まぼろしに過ぎぬ〉。わたしの言いたいことは、以上のとおりである。

〔2〕「約山僧見處、無佛無衆生、無古無今、得者便得、」~「更無別法」。朝比奈86~87

「わしの見解で言えば、仏も無く衆生も無く、過去も無く現在もない。気がついてみればみなそのまま仏である。仏になるための手間暇はかからない。修行すべきものも無く、悟るべきものも無い。得たということも無く、失うということも無い。朝から晩まで晩から朝まで自己一枚だ。」



(2)第5段の2(入矢56~57)

道流、大丈夫兒、今日方知本來無事(注1)。祇爲爾信不及、念念馳求、捨頭覓頭、自不能歇(注2)。如圓頓菩薩、入法界現身、向淨土中、厭凡忻聖。如此之流、取捨未忘、染淨心在。如禪宗見解(注3)、又且不然。直是現今、更無時節。山僧説處、皆是一期藥病相治(注4)、總無實法。若如是見得、是眞出家、日消萬兩黄金。道流、莫取次被諸方老師印破面門、道我解禪解道。辯似懸河、皆是造地獄業。若是眞正學道人、不求世間過、切急要求眞正見解。若達眞正見解圓明、方始了畢。

(訳)

〔1〕「道流、大丈夫兒」~「日消萬兩黄金」。衣川・思想122

諸君!大丈夫の漢よ!きみたちは今日にして始めて知ったのだ、本来無事であるにもかかわらず、ただそのことを信じきれぬために、絕えず外に求めまわって、今の自己をないがしろにし、外に自己を捜す愚をやめられなかったことを最高位の圓頓の菩薩すら、俗を嫌って聖を慕い、淨土の世界に生まれかわろうと願っている。こういう連中は分別取捨の意識が拂拭できず、清浄と汚染の分別に執われた心がなお残存しているのだ。わが禪宗の考えかたはまったく異なる。無條件に現在だけを問題にして、無限の修行の果てに時節因緣が熟してから成佛するなどとは言わぬ、ただしわたしの說法は、ただ凡聖の執著に對する一時の對症療法なのであって、けっして固定して受け取るべきものではない。このように見ることができたなら、眞の出家者である。それこそ〈日(ひび)に萬兩の黄金の供養させ受けてよい〉のだ。

〔2〕「道流、大丈夫兒」~「皆是一期藥病相治、總無實法」。朝比奈89~90

「お前たちよ、われこそはという大丈夫の気概のある者ならば、たった今、ここで自己が本来仏であり、他に何ものも無いことを見てとれ。残念ながらお前たちがそれを信じきれないために、外に向かってせかせかと求めまわり、頭があるのにうろたえて更に頭を探すの愚をいつまでもやめない。円頓の教を修行した菩薩などは、いろいろの法界に自由に身を現すことが出来ても、まだ淨土を求めたり、凡夫を嫌い仏をば願っている。これらの人たちにはまだ取捨愛憎の念があり、悟りと迷いの対立がある。わが禅宗の見解はそうではない。現在がそっくりそのままだ。そこになんの悟るの悟らないの沙汰があろう。わしの説くところは、皆その時その時の相手の病に応じて与える薬で、定まりきった法などは無い。」

〔3〕「道流、大丈夫兒」~「自不能歇」。小川106

諸君(略)、れっきとした一箇の男児として、ここで始めて、「本来無事――もともと、なにも余計なことは無い」と知ったはずである。ただ、お前たちが「信不及」であるために、いつも外に駆けずり回り、己れの頭を忘れて己れの頭を捜し求め、自分でそれを止めることができずにいるだけなのである。」

〔4〕「道流、莫取次被諸方老師印破面門」~「皆是造地獄業」。沖本・虚構と真実36

諸君、おいそれとあちこちの老師にお墨付きをもらってはならぬ。わたしには禅がわかった、道がわかったと言いたて、弁舌は立て板に水のようでも、みな地獄行きだ。



(注1)「大丈夫兒、今日方知本來無事」。入矢225

「日常の営為(はたらき)」といっても、それは文字通り、ふだんのままな、当たり前な在りようのことである。「修行者たる者は大丈夫児(男一匹)としての気概を持て」と臨済は叱咤しても、昂然と頭をもたげ両手を振って闊歩せよなどと教えているのではない。ただ「平常無事な人」であれというのであり、そういう生き方こそが、まさに偉丈夫の在りようなのだと繰り返し説く。「ただただ君たちが今はたらかせているもの、それが何の子細もない〔平常無事なものであること〕を信ぜよ」(略)。彼が強調する「真正の見解」とは、端的にはこのことに尽きるのであり、「自らを信ぜよ」という教えも、このことに集約される。

唐代の禅では、八世紀ごろから「自己」という用語が愛用され始める。それは、一者・絶対者としての仏と対決する気概を籠めた言葉であり、聖なるものへの反措定であった。」



(注2)「道流、大丈夫兒~祇爲爾信不及~捨頭覓頭、自不能歇」の理解。小川105~106

「経典に記された仏説さえもが門前払いにされる、その信ずべき一点とは何なのか。臨済は門下の僧たちに――そしてそれを読む我々に――いったい何を信じきれと迫っているのか。

その答えを『臨済録』から見出すことは、さして難しいことではない。『臨済録』一書にそのことが、くり返し明言されているからである。先の開堂説法にも見えていた「信不及(しんふぎゅう)――信じ及(き)れぬ」という語が、その手がかりになる。(略)

「頭を捨てて頭を覓(もと)む(捨頭覓頭)」は『首楞巌経』巻四の故事にもとづく語で、「頭を将(も)って頭を覓む(将頭覓頭)」ともいう。演若達多という美男子が、ある朝、自分の眉目秀麗なる顔が鏡のなかだけにあって、直には見えないことから、魑魅魍魎のしわざと恐れて狂奔したという話である(大正一九―一二一中)。得るべきものは当の自分なのだから、自分の外にそれを捜し求めても、決して得られるはずがない。そうした趣旨の喩えで、似た意味の成語に「牛に騎って牛を覓む(騎牛覓牛)」というのもある。

右の一文に見える「無事」「信不及」「馳求」はいずれも臨済愛用の語で、『臨済録』の随処に見える。修行者は自らの「信不及」のために、当の自分の頭でもって自分の頭でもって自分の頭を外に「馳求」し、際限の【107頁】ない迷妄に陥る。だが、それをさえ止めてみれば、そこにはもともと何の過不足もない「本来無事」の自己があるのである、と。



(注3)「禅宗の見解」。衣川・思想123

「「禅宗の見解」は聖意識(俗より修行の階梯を履んで聖位に至る)を払拭することにあることを宣言している。これが唐代禅宗の重要な特徴であり、臨済禅師の思想の核心である。「外に凡聖を取らず、内に根本を住さず」(外なる聖[佛]を求めない、かといって内面[心=佛性]にも安住しない)、「心外に法無し、内も亦た得べからず」(心以外に法はない、しかしその心も実体はない)は臨済禅師の思想的立場の表明として重要かつ有名である。人は聖なるものへのやみがたい希求があるが、それの持つ魅力は必然的に人を虜にし屈服させる魔力を持ち、元来そなえていた人を浄化させる力が却って人の自由を束縛するものへと転化する。臨済はこれを「仏魔」と呼んだのである。」



(注4)「皆是一期藥病相治」

説法の類が一時的な薬の類に過ぎないという理解の仕方は、前田22にも指摘があります。

「説法は要するに薬のようなものである。病気が治ったら薬は無用なばかりか、かえって有害なものである、というのが彼の持説である。」



6 第6段

(1)第6段の1(入矢58~59)

六、問、如何是眞正見解。師云、爾但一切入凡入聖、入染入淨、入諸佛國土、入爾勒樓閣、
入毘盧遮那法界、處處皆現國土、成住壞空。佛出于世、轉大法輪、却入涅槃、不見有去來相貌。求其生死、了不可得。便入無生法界、處處游履國土、入華藏世界、盡見諸法空相、皆無實法。唯有聽法無依道人、是諸佛之母。所以佛從無依生。若悟無依、佛亦無得。若如是見得者、是眞正見解。

(訳)衣川・思想116~117

問う、「正しい考えとはどういうことなのでしょうか」。師の答え、「諸君がいつものように俗人の世界に入り、佛の世界に入り、汚れた世界に入り、清淨な世界に入り、さまざまな佛のおわす世界に入り、彌勒菩薩の住む高殿に入り、毘盧遮那佛の光明世界に入って探究しても、そこではさまざまの世界が成立し、敎えを說き、涅槃に入られた」と言うが、そこに佛陀その人が現れ去って行った本當の姿は見えない。そこに生きて死んだという實像を求めようとしても、つかむことはできぬ。たとい諸君が不生不死の眞實世界に入らんと、あちこち訪ねてさまざまな佛の世界を遍歷して、ついに蓮華藏世界に行きついたとしても、結局のところ、〈一切は空〉であって、實體がないことがわかる。ただ、今ここにわが面前で說法を聽いている無依の道人だけが、諸佛を生み出す母なのである。ゆえに佛はその無依なるところから生み出される。もし無依ということを悟ったならば、佛すらもまた外から手に入れるものではなくなる。かくのごとく見ることができたなら、これが正しい考えというものだ。」



(2)第6段の2(入矢60~61)

學人不了、爲執名句、被他凡聖名礙、所以障其道眼、不得分明。祇如十二分教、皆是表顯之説。學者不會、便向表顯名句上生解。皆是依倚、落在因果、未免三界生死。
爾若欲得生死去住、脱著自由、即今識取聽法底人。無形無相、無根無本、無住處、活撥撥地。應是萬種施設、用處祇是無處。所以覓著轉遠、求之轉乖。號之爲祕密。
道流、爾莫認著箇夢幻伴子。遲晩中間、便歸無常。爾向此世界中、覓箇什麼物作解脱。覓取一口飯喫、補毳過時、且要訪尋知識。莫因循逐樂。光陰可惜、念念無常。麁則被地水火風、細則被生住異滅四相所逼。道流、今時且要識取四種無相境、免被境擺撲。

(訳)「學人不了」~「未免三界生死」。呉126~127

これがわからぬ修行者は、名辞に執着して、聖俗といった言葉に碍げられ、その結果みづからに具わった道眼を曇らせ、はっきりと見えないのである。経典というものは、仏陀の法を伝える文字にすぎない。修行者はそのことがわからず、用いられた言葉に対する解釈に血眼になるのは、言葉への依存であって、因果の連鎖のなかに陥り、三界の輪廻から免れることができないのだ。



7 第7段

(1)第7段の1

七、問、如何是四種無相境。師云、爾一念心疑、被地來礙。爾一念心愛、被水來溺。爾一念心嗔、被火來燒。爾一念心喜、被風來飄。若能如是辨得、不被境轉、處處用境。東涌西沒、南涌北沒、中涌邊沒、邊涌中沒、履水如地、履地如水。縁何如此。爲達四大如夢如幻故。道流、爾祇今聽法者、不是爾四大、能用爾四大。若能如是見得、便乃去住自由。

(訳)「道流、爾祇今聽法者」~「便乃去住自由」(呉130)

諸君、今こうして君たちが説法を聴いているのは、君たちの四大がそうしているのではない。〔君たちその人が〕自らの四大を使いこなしているのだ。もしこのように見究め得たならば、死ぬも生きるも自在である。



(2)第7段の2(入谷65~66)

約山僧見處、勿嫌底法。爾若愛聖、聖者聖之名。有一般學人、向五臺山裏求文殊。早錯了也。五臺山無文殊。爾欲識文殊麼。祇爾目前用處、始終不異、處處不疑、此箇是活文殊。爾一念心無差別光、處處總是眞普賢。爾一念心自能解縛、隨處解脱、此是觀音三昧法。互爲主伴、出則一時出。一即三、三即一。如是解得、始好看教。

(訳)「有一般學人」~「此箇是活文殊」。呉118

修行者たちの中には五台山に文殊を志向する連中がいるが、すでに誤っている。五台山に文殊はいない。君たち、文殊に会いたいと思うか。今わしの面前で躍動しており、終始一貫して、一切処にためらうことのない君たち自身、それこそが活きた文殊なのだ



8 第8段

(1)第8段の1(入矢67~68)

八、師示衆云、如今學道人、且要自信。莫向外覓。總上他閑塵境、都不辨邪正。祇如有祖有佛、皆是教迹中事。有人拈起一句子語、或隱顯中出、便即疑生、照天照地、傍家尋問、也大忙然。大丈夫兒、莫祇麼論主論賊、論是論非、論色論財、論説閑話過日。
山僧此間、不論僧俗、但有來者、盡識得伊。任伊向甚處出來、但有聲名文句、皆是夢幻。却見乘境底人、是諸佛之玄旨。佛境不能自稱我是佛境。還是這箇無依道人、乘境出來。若有人出來、問我求佛、我即應清淨境出。有人問我菩薩、我即應茲悲境出。有人問我菩提、我即應淨妙境出。有人問我涅槃、我即應寂靜境出。境即萬般差別、人即不別。所以應物現形、如水中月。

(訳)「師示衆云」から「論説閑話過日」まで(沖本・虚構と真実18)

師は教えを説いた、「さて、諸君はともかく自らを信じなければならない。外に求めてはならないのだ。どのみち他人のひまつぶしに付き合うだけで、邪正を弁えることさえてんでできはしないのだ。祖師があるの仏があるのといっても、みな経典の中のことにすぎない。たとえば人が一句を持ち出したり、あるいは二項対立を提示すれば、たちまち疑いを生じ、びっくり仰天してあちこち尋ねまわる。まあ忙しいことだ。いっぱしの男たるもの、やたら国家を論じたり、是非を論じたり、女や財のことを論じたり、無駄話をして日を過ごしてはなるまい。」



(2)第8段の2(入矢70~71)

道流、爾若欲得如法、直須是大丈夫兒始得。若萎萎隨隨地、則不得也。夫如㽄嗄之器(注1)、不堪貯醍醐。如大器者、直要不受人惑。隨處作主、立處皆眞。(注2)
但有來者、皆不得受。爾一念疑、即魔入心。如菩薩疑時、生死魔得便。但能息念、更莫外求。物來則照。爾但信現今用底、一箇事也無。爾一念心生三界、隨縁被境、分爲六塵。爾如今應用處、欠少什麼。一刹那間、便入淨入穢、入彌勒樓閣、入三眼國土、處處遊履、唯見空名。

(訳)呉128

諸君、もし君たちがちゃんとした修行者でありたいなら、ますらおの気概がなくてはならぬ。人の言いなりなぐずでは駄目だ。ひびの入った陶器には醍醐を貯えておけないのと同じだ。大器の人であれば、何よりも他人に惑わされまいとするものだ。どこででも自ら主人公となれば、その場その場が真実だ。外からやって来る物は、すべて受け付けてはならぬ。君たちの心に一念の疑いが浮かべば、それは魔が心に侵入したのだ。菩薩ですら疑いを起こせば、生死の魔につけ込まれる。まずなによりも念慮を止めることだ。外に向って求めてはならぬ。物がやって来たら、こちらの光を当てよ。ただただ君たちが今はたらかせているもの、それが何の子細もない〔平常無事なものである〕ことを信ぜよ。君たちの一念心が三界を作り出し、さらに外縁に応じ外境に転ぜられて六塵に分かれるのだ。君たちが今ここにはたらかせているものに、いったい何が欠けていよう。一刹那の間に、浄土にも入り、穢土にも入り、弥勒の殿堂にも入り、三眼国土にも入り、いたる処に遊行するが、見るのはただそれらの空なる名だけだ。



(注1)「萎萎隨隨地」、「㽄嗄之器」。呉128~129

「萎萎隨隨地」「㽄嗄之器」という語は、自ら〔仏と同じである〕自己を確信できず、自らが主体性・主人公たる気概のない人を指していう。その反対の語が「大丈夫兒」「大器」である。



(注2)「隨處作主、立處皆眞」の理解。呉130

「修行者に対し臨済は、丁寧に説法をした。上の文脈をまとめると、彼は馬祖禅の基本思想とされる「作用即性」説に拠りつつ、目の前の修行者に「随処作主」をすすめ励ましていたことが読み取れる。ここに注意したいのは、臨済の言う「平常無事」は「真」や「偽」などのことについて、それを正しく見分けたうえで、自らが主体性・主人公として自己を確立することができたなら、そのときこそ自らの立つところがすべて真実の世界となる(すなわち「立処皆真」)。このような思想は『臨済録』に随所に見られる。たとえば「無依道人」「弄光影底人,是諸仏之本源」「乗境底人,是諸仏之玄旨」(略)などの表現がその例である」

以上の見解は、実体的になんらかの「真」「偽」の区分が必要であるとの趣旨と読み込むと、修道の必要性の問題が生じるようにも感じ、慎重な検討を要する理解であると思う。



9 第9段

(1)第9段の1(入矢72~73)

九、問、如何是三眼國土。師云、我共爾入淨妙國土中、著清淨衣、説法身佛。又入無差別國土中、著無差別衣、説報身佛。又入解脱國土中、著光明衣、説化身佛。此三眼國土、皆是依變。約經論家、取法身爲根本、報化二身爲用。山僧見處、法身即不解説法。所以古人云、身依義立、土據體論。法性身、法性土、明知是建立之法、依通國土。空拳黄葉、用誑小兒。蒺藜菱刺、枯骨上覓什麼汁。心外無法、内亦不可得、求什麼物。



(2)第9段の2(74~75)

爾諸方言道、有修有證。莫錯。(注1)設有修得者、皆是生死業。爾言六度萬行齊修。我見皆是造業。(注2)求佛求法、即是造地獄業。求菩薩、亦是造業。看經看教、亦是造業。佛與祖師、是無事人。(注3)
所以有漏有爲、無漏無爲、爲清淨業。
有一般瞎禿子、飽喫飯了、便坐禪觀行、把捉念漏、不令放起、厭喧求靜、是外道法。(注4)祖師云、爾若住心看靜、擧心外照、攝心内澄、凝心入定、如是之流、皆是造作。是爾如今與麼聽法底人、作麼生擬修他證他莊嚴他。渠且不是修底物、不是莊嚴得底物。若教他莊嚴、一切物即莊嚴得。爾且莫錯。

(訓読)「求佛求法」~「是無事人」。有馬188

「仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業
菩薩を求むるも亦た是れ造業
看経看教も亦た是れ造業
仏と祖師とは是れ無事の人なり」(188)

(訳)「爾諸方言道」~「是無事人」。衣川・思想115

諸君らのところでは「修行して眞理を悟る」と言っているが、考えちがいをしてはならぬ。たといそういう修行をしたところで、みな生死輪廻の業となるのみだ。諸君らは、「六度萬行のすべてを修せん」と言うが、わたしから見ればみな造業、佛を求め法を求めるのは地獄行きの業、經典を讀むのも造業である。佛陀と祖師がたは、外に何も求めず、爲すことのない無事の人であった。



(注1)「爾諸方言道、有修有證。莫錯」の理解。無文151

「世間の人は、禅宗では修行をして佛になる、修行をして悟りを開くのだと言うのであるが、とんでもない間違いじゃ。二十年や三十年修行して凡夫が佛になれるわけはない。修行をしてみたところが煩悩だらけだ。飯を食わねば腹は減る。寝ずにおるというわけにもいかん。

そうではない。人々は修行せんでも、ちゃんと立派なものを持っておると決定(けつじょう)せねばいかん。悟りを開かんでも佛性はちゃんとあると徹底せねばいかん。ご信心をいただかんでも、如来さまはちゃんと救うてくださると決定せねばいかん。そこが衆生本来佛なりということだ。修行してから佛になるのではない。悟ってから佛になるというのではない。オギャーと生まれた時から、佛であり、みんなお助けをいただいているのである。そこを誤解してはいかん」



(注2)「爾言六度萬行齊修。我見皆是造業」の理解。無文151~152

「おまえたちは、「六度万行を修行して、そこで仏になる」なぞと言うが、これもみな臨済の眼から見たら、迷いである。業を造るというものだ。

仏を求め法を求むるも、即ち是れ造地獄の業なり。

仏になろうの、法を得ようのと考えることがもう地獄行きだ。いわんや、自分の外にありがたい仏があったり法があると思うたら、なおさらそれは地獄行きじゃ。

菩薩を求むるも亦た是れ造業なり、看経看教も亦た是れ造業なり

何でも殊勝なことをして、道徳的なことをして、世間でよいことをしようなぞと考えるのも、迷いである。業を造っておるのだ。お経を読んだり、書物を読んだりすることも業である。



(注3)「求佛求法」~「是無事人」の理解

〔1〕有馬189

「有馬 (略)「地獄」は自分で造っているんです。悟れない者が仏に頼り、経典に頼り……

そうするとどんどん地獄に落ちていくよ、ということです。
地獄というのは煩悩の凝り固まった世界。「煩悩即菩提」――煩悩を裏返しにしたら菩提なんです。菩提っていうのは悟りの境地。それが実は煩悩と同じもんやと言うてる。だから、それを求めたらアカン、というただそれだけの話です。

――禅とは修行して「悟り」を求めるものではないのでしょうか。それなのに、菩薩を求めても、仏典を読んでも「地獄」から逃れることは出来ない、というのですか。

有馬 いや、そうではなくて、その行為自体が「造地獄」やと言うとるんです。書いてある通りです。仏を求めること、法を求めること、これが「造地獄」の業と。

―ー祖師を頼ったり、仏法に帰依することが「地獄」へ落ちるということなのですか。

有馬 そうです。

――では、どうしたら私たちは、その己が造る「日常の地獄」から逃れられるのですか。

有馬 何もせんことや。「仏と祖師は是れ無事の人なり」と書いてある。「無事の人」とは何事もしない人。つまり「求めるな」です。求めたらアカン。求めれば求めるほど地獄へ落ちる。」(189~190)

〔2〕臨済録における坐禅への消極的評価に関し、有馬220は次のような明快な指摘もします。

臨済は「坐禅せよ」とは一度も言っていない。『臨済録』にも書いていない」

〔3〕無文152

「仏を求め法を求むるも、即ち是れ造地獄の業なり。

仏になろうの、法を得ようのと考えることがもう地獄行きだ。いわんや、自分の外にありがたい仏があったり法があると思うたら、なおさらそれは地獄行きじゃ。

菩薩を求むるも亦た是れ造業なり、看経看教も亦た是れ造業なり

何でも殊勝なことをして、道徳的なことをして、世間でよいことをしようなぞと考えるのも、迷いである。業を造っておるのだ。お経を読んだり、書物を読んだりすることも業である。」



(注4)この点に関する前田44の解説はやはり力強い。

「一体、成仏などということを考えて、喧を厭い静を求めて坐禅、観行なぞを試みて妄念を抑えようとは、徒(あだ)なる努力だ。抑えようとすればますます湧いて来る。かかる作為造作は、悉くこれ外道の法である。かかる瞎漢(どめくら)どもが諸方に行脚するとは笑止の至り。行脚の如きは徒に脚のうらを踏み拡げるに過ぎない。」



(3)第9段の3(入矢77~78)

道流、爾取這一般老師口裏語、爲是眞道、是善知識不思議、我是凡夫心、不敢測度他老宿。瞎屡生、爾一生祇作這箇見解、辜負這一雙眼。冷噤噤地、如凍凌上驢駒相似。我不敢毀善知識、怕生口業。
道流、夫大善知識、始敢毀佛毀祖、是非天下、排斥三藏教、罵辱諸小兒、向逆順中覓人。所以我於十二年中、求一箇業性、知芥子許不可得。若似新婦子禪師、便即怕趁出院、不與飯喫、不安不樂。自古先輩、到處人不信、被遞出、始知是貴。若到處人盡肯、堪作什麼。所以師子一吼、野干腦裂。



(4)第9段の4(入矢79~81)

道流、諸方説、有道可修、有法可證。爾説證何法、修何道。爾今用處、欠少什麼物、修補何處。後生小阿師不會、便即信這般野狐精魅、許他説事、繋縛他人、言道理行相應、護惜三業、始得成佛。如此説者、如春細雨。
古人云、路逢達道人、第一莫向道。所以言、若人修道道不行、萬般邪境競頭生。智劍出來無一物、明頭未顯暗頭明。所以古人云、平常心是道。(注1)大徳、覓什麼物。現今目前聽法無依道人、歴歴地分明、未曾欠少。爾若欲得與祖佛不別、但如是見、不用疑誤。爾心心不異、名之活祖。心若有異、則性相別。心不異故、即性相不別。

(訳)「道流、諸方説」~「平常心是道」。衣川・思想115

諸君よ!きみたちのところでは「修すべき道があり、悟るべき法がある」と言っている。では訊くが、いったい何の法を悟り、何の道を修するのか?いまこうして活動しているきみたちに、いったい何が缺けているというのか?どこを修理して繕おうというのか?新米の坊主どもはこのことがわからず、ああいった狐ツキの輩が説法して人をしばりつけ、「教えられた教理どおりに自ら修行し、心口意の三業の清浄を大切に守って、始めて成就できる」などと言うのに丸め込まれている。このように言う者は春の細雨のごとく絶えない。古人は言う、「道を修している人に出逢ったら、けっして話しかけてはならぬ」と。ゆえにまた、「もし道を修しようとするなら、道は歩けない。あらゆる邪鬼悪魔が現れて妨げるのだ。智慧の劔を一振りすれば、すべて消え失せ、光明が眞っ暗に、暗黒が明るい」と言われる。ゆえにまた古人は言う。「平常の心が道である」と。



(注1)衣川・思想116

臨済は「修行して(眞理)」を悟るのではないと言う、なぜなら、理想とする佛陀と祖師は求めることのない無事の人であったからだ。「修行して佛陀になるのではない。今の諸君こそが佛陀と同じなのである。そのように信じて生きるのだ」と。」



10 第10段

(1)第10段の1(入矢82~83)

問、如何是心心不異處。師云、爾擬問、早異了也、性相各分。道流、莫錯。世出世諸法、皆無自性、亦無生性。但有空名、名字亦空。爾祇麼認他閑名爲實。大錯了也。設有、皆是依變之境。有箇菩提依、涅繋依、解脱依、三身依、境智依、菩薩依、佛依。爾向依變國土中、覓什麼物。乃至三乘十二分教、皆是拭不淨故紙。佛是幻化身、祖是老比丘。爾還是娘生已否。爾若求佛、即被佛魔攝。爾若求祖、即被祖魔縛。爾若有求皆苦。不如無事。(注1)

(訳)呉125

問い、「その心と心とが異らぬところとはどういうところですか。」師は言った、「君がそれを問おうとしたとたんに、もう異ってしまい、根本とその現れとが分裂してしまった。諸君、勘ちがいしてはいけない。世間のものも超世間のものも、すべて実体はなく、また生起するはずのものでもない。ただ仮の名があるだけだ。しかもその仮の名も空である。ところが君たちはひたすらその無意味な空名を実在と思いこむ。大間違いだ。たといそんなものがあっても、すべて相手次第で変わる境に過ぎない。それ、菩提という境、涅槃という境、解脱という境、三身という境、境智という境、菩薩という境、仏という境があるが、君たちはこういう相手次第の変幻世界に何を求めようというのか。そればかりではない、一切の仏典はすべて不浄を拭う反古(ほご)紙だ。仏とはわれわれと同じ空蝉(うつせみ)であり、祖師とは年老いた僧侶にすぎない。君たちこそはちゃんと母から生まれた男ではないのか。君たちがもし仏を求めたら、仏という魔のとりこになり、もし祖を求めたら、祖という魔に縛られる。君たちが何か求めるものがあれば苦しみになるばかりだ。あるがままに何もしないでいるのが最もよい。



(注1)「不如無事」(呉126)

「最後の「あるがままに何もしないでいるのが最もよい」という説は、臨済禅の基本思想というべきであるが、すなわち、生活上の平常心において自心が仏であることを自覚すればよい、そのうえ更に方便を用いる修行の必要は全くないということである。上の引用文において臨済は、言葉によるさまざまな仏教の観念(「菩提依」「涅槃依」「解脱依」など)を、ただの実体のない言葉の概念(空名)にすぎないとしており、それを求めたら、却ってそれに縛られると言っている。だから、それよりも、むしろ今の生活上の平常心において「あるがままに何もしないでいるのが最もよい」と臨済は考えた。」



(2)第10段の2(入矢85~86)

有一般禿比丘、向學人道、佛是究竟、於三大阿僧祇劫、修行果滿、方始成道。道流、爾若道佛是究竟、縁什麼八十年後、向拘尸羅城、雙林樹間、側臥而死去。佛今何在。明知與我生死不別。
爾言、三十二相八十種好是佛。轉輪聖王應是如來。明知是幻化。古人云、如來擧身相、爲順世間情。恐人生斷見、權且立虚名。假言三十二、八十也空聲。有身非覺體、無相乃眞形。

(訳)衣川・思想113

「佛陀こそは究極のかたである。三大阿僧祇劫の長きにわたって修行を積まれ、その成果として始めて成道されたもうたのだ」などと修行者に向って説教を垂れる坊主がおるが、諸君よ!もしきみたちまでがそのまねをして、「佛陀こそは究極のかたである」と言うなら、いったいどうして八十歲で拘尸羅城の雙林樹のもとに橫たわって死んでしまったのか?(注1)佛陀は今どこにいるのか?われわれの生き死にと何ら變わらぬことがわかるであろう。きみたちは「三十二相、八十種好こそは佛のあかしだ」と言うが、それならあの轉輪聖王だって聖人ということになる。佛陀も現身【うつしみ】の人だったとわかるであろう。古人が「如来の全身のすがたは、眼に見たいという世間の人情に隨って表したにすぎぬ。疑り深い人は虛無の心をいだきやすいゆえ、間に合わせに名目を立てたのだ。でまかせに三十二と言っただけで、八十と言うのもでたらめである。かたちあるは覺者の身體ではない、かたちなきこそが眞のすがたである」と言うとおりである。



(注1)「人間佛陀」

「この時代に「佛陀はわれわれと同じ血の通った人間であって、八十歳で死んだ人である」という「人間佛陀」はまったく新しい佛陀像であった。これはおそらく會昌の廃佛の徹底的破壊を目睹した臨濟禪師の感慨から生まれたものであろう。」(衣川・思想114)



(3)第10段の3(入矢87~88)(注1)

爾道、佛有六通、是不可思議。一切諸天、神仙、阿修羅、大力鬼、亦有神通。應是佛否。道流、莫錯。祇如阿修羅、與天帝釋戰、戰敗領八萬四千眷屬、入藕絲孔中藏。莫是聖否。如山僧所擧、皆是業通依通。
夫如佛六通者、不然。入色界不被色惑、入聲界不被聲惑、入香界不被香惑、入味界不被味惑、入觸界不被觸惑、入法界不被法惑。所以達六種色聲香味觸法皆是空相、不能繋縛此無依道人。雖是五蘊漏質、便是地行神通。

(訳)衣川・思想113

きみたちは「佛陀はすばらしい六神通を發揮なさる」と言う。ならば、天の神、地の神、阿修羅、大力鬼もみな神通を發揮するのであるから、佛陀ということになるであろうか!諸君!間違えてはならぬ!阿修羅は帝釋天と戰って敗れるや、八萬四千の眷屬を率いて蓮の糸の中に隠れたというが、こんなのを聖人と言えるか?わたしがいま擧げたのは、みな業通、依通にすぎない



(注1)禅における神秘・奇跡の否定

「凡てこういう奇跡に対して何らの価値をも認めない点は禅門通有のものに思われる」(前田46)

「いわゆる仏の六通なるものは、霊眼、霊耳、飛行、神力など、すべて最大の奇跡力を意味するものであろう。それらは随処に経文中に散見している。しかし臨済はこれらを業通(ごうつう)、依通(えつう)なりと弾呵(だんか)しているのである。結局、「神通並びに妙用」という禅門の奇蹟は、「運水及び搬柴(はんさい)」であって、せいぜい日常底におけるわれわれの労働に外ならない。」(前田47)



(4)第10段の4(入矢89~90)(注1)

道流、眞佛無形、眞法無相。爾祇麼幻化上頭、作模作樣。設求得者、皆是野狐精魅、並不是眞佛、是外道見解。
夫如眞學道人、並不取佛、不取菩薩羅漢、不取三界殊勝。迥無獨脱、不與物拘。乾坤倒覆、我更不疑。十方諸佛現前、爲一念心喜、三塗地獄頓現、無一念心怖。縁何如此。我見諸法空相、變即有、不變即無。三界唯心、萬法唯識。所以夢幻空花、何勞把捉。
唯有道流、目前現今聽法底人、入火不燒、入水不溺、入三塗地獄、如遊園觀、入餓鬼畜生、而不受報。縁何如此。無嫌底法。爾若愛聖憎凡、生死海裏沈浮。煩惱由心故有、無心煩惱何拘。不勞分別取相、自然得道須臾。爾擬傍家波波地學得、於三祇劫中、終歸生死。不如無事、向叢林中、床角頭交脚坐。

(訳)衣川・思想118~119,126~127

諸君!眞の佛はすがたを持たず、眞の法はかたちがない。しかるにきみたちはひたすら現身(うつしみ)の上に(ワンパターンの)ひとまねばかりして、それで佛や法を求め得たと思っても、そんなものはみな狐に化かされたに過ぎず、けっして眞の佛ではない。外衜の考えかただ。ほんものの修行人は、けっして佛とならんことを求めず、菩薩・、羅漢とならんことを求めず、解脫しようと求めたりせずとも、超然として三界を脫け出て、何物にも拘束されぬ。このことを〈たとい天地がひっくり﨤ろうとも、わたしは絕えて疑わぬ〉、臨終のときになって、たといお迎えの佛たちが目の前に現れようとも、微塵もありがたいとは思わず、三途地獄がいきなり現れようとも、少しも恐しいとは思わぬ。なぜか?あらゆるものは本来空なのであって、因緣によって現れもすれば消えもするに過ぎず、〈三界は心の現出、萬物は意識の産出〉なることが、私にはわかっているからだ。ゆえに〈夢幻(ゆめまぼろし)空に現れる幻影は、把もうとしても無駄なこと〉と言われる。ただ諸君という、わが目前でいま說法に聽き入っている人こそは、火に入っても燒けず、水に入っても溺れず、地獄に入っても花園に遊ぶがごとく、餓鬼道・畜生道に入っても苦しみを受けることがない。なにゆえか?厭うべき法というものはないからである。〈きみたちが聖を慕って俗を憎むなら、煩惱の海に浮き沈みをくりかえすほかはない。煩惱は心によって起こるもの、外に求める心が無くなれば、立ちどころにおのづから道を得るのだ〉。きみたちはあたふたと軒なみに訊ねまわって學ぼうとしているが、長い長い修行の階梯を歩んでも、結局は迷いの世界を出ることはできぬ。それよりも無事なることを心得て、道場で禪牀に脚を組んで坐っているほうがましというものだ。



(注1)この段の解釈(衣川・思想127)

「「三途地獄」も「極樂淨土」も「佛」も「解脫」もすべては観念(佛敎敎學の術語)に過ぎず、こういう空なる観念に惑わされず、「無事」でいるのがいちばんよい。

人はこうした觀念によって最も騙されやすいのである。観念は言葉によって表出される。」



(5)第10段の5(入矢92~94)

道流、如諸方有學人來、主客相見了、便有一句子語、辨前頭善知識。被學人拈出箇機權語路、向善知識口角頭攛過、看爾識不識。爾若識得是境、把得便抛向坑子裏。學人便即尋常、然後便索善知識語。依前奪之。學人云、上智哉、是大善知識。即云、爾大不識好惡。
如善知識、把出箇境塊子、向學人面前弄。前人辨得、下下作主、不受境惑。善知識便即現半身、學人便喝。善知識又入一切差別語路中擺撲。學人云、不識好惡老禿奴。善知識歎曰、眞正道流。
如諸方善知識、不辨邪正。學人來問、菩提涅槃、三身境智、瞎老師便與他解説。被他學人罵著、便把棒打他、言無禮度。自是爾善知識無眼、不得嗔他。
有一般不識好惡禿奴、即指東劃西、好晴好雨、好燈籠露柱。爾看眉毛有幾莖。這箇具機縁。學人不會、便即心狂。如是之流、總是野狐精魅魍魎。被他好學人攛嗌嗌微笑、言瞎老禿奴惑亂他天下人。

(訳)「有一般不識好惡禿奴」~「言瞎老禿奴惑亂他天下人」。衣川・思想119

また、見識を缺くゴロツキ坊主は、あちこち指さして、「今日はよい天氣だ」、「よい雨だ」とか「みごとな燈籠だ」、「立派な露柱だ」とやる。見よ!眉毛が拔け落ちておるぞ!「これぞすぐれた接化だ!」などと、修行者はてんでわからず、それに惑わされて舞い上がる。こういった連中はみな狐ツキ、化け物だ。まっとうな修行者にはあざ笑われて、「ドメクラのゴロツキ坊主め!天下の人をかどわかしおって!」とやられる。



(6)第10段の6(入矢96~97)

道流、出家兒且要學道。祇如山僧、往日曾向毘尼中留心、亦曾於經論尋討。後方知是濟世藥、表顯之説、遂乃一時抛却、即訪道參禪。後遇大善知識、方乃道眼分明、始識得天下老和尚、知其邪正。不是娘生下便會、還是體究練磨、一朝自省。(注1)
道流、爾欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。(注2)



(注1)「出家兒且要學道」~「一朝自省」は、衣川52に次の解説があります。

「出家は俗世間の束縛を脱して自由になることであったが、僧になると戒律によって却って自由を拘束される。律蔵の煩瑣な細則は「清浄という病」だと、かれらは見たのである。

「経論に於いて尋討す」は経論中に道(真理)を探し求めたこと。『祖堂集』巻十九「臨済章」には、大愚を訪問して瑜伽・唯識を論じたと言い、示衆(じしゅ)にはそのほかに華厳学の素養もうかがえる。「済世の薬方、表顕の説」は世の病人を救う薬の処方箋、その文字の書きつけ。「佛教学の研鑽を積んだが、じつは<済生の薬方、表顕の説>にすぎないと知った」とは佛教学は病人を救う薬の処方箋だった、つまり薬そのものではない。薬の説明ばかりしているにすぎない。これをいくら読んでも、これをいくら読んでも救われることはない、悟れないということである。」



(注2)〔1〕「爾欲得如法見解」~「透脱自在」は、衣川136~137に次の解説があります。

「いわゆる「訶佛罵祖」(佛陀と阻止の権利を悪しざまに罵る)と「精神的殺人」の意味するところは、修行者の内面(心)に権威として現れる偶像は容赦なく殺して初めて自由になれるというのである。以下の「佛」、「祖」、「羅漢」は佛教(出世間)の、「父母」、「親族」は世俗(世間)の尊重すべき権威。偶像となったこれらを悉く殺し尽くせとは甚だ激越な言葉であるが、じつはこれはもともと大乗経典の説にもとづくものであって、貪愛を母に、無明を父に、諸使(煩悩)を羅漢に、覚境の識を佛に譬えて、これらを断滅することを「殺害する」と言うのは『楞伽経』に言うところで(四巻本巻三)、この「父母を殺す」という修辞は早くも初期経典の『法句経』(二九四、二九五)に淵源するという」



〔2〕煩悩等を断滅する趣旨であることは、この後に出て来る第14段の1の記述からも自然ではあり、有馬32~33にも、同様の指摘があります。

「煩悩を殺すんです。自分の中の煩悩を。人を殺すのではない。「父母を殺し」なら、両親への思いを断ち切れと(略)「煩悩を殺せ」ということです。すると解脱できる。執着心から解放される。

この言葉は自由を謳いあげた臨済の最も重要な言葉です。「自由」ということを最初に言ったのが、臨済なのです。」



〔3〕殺佛殺祖については、偶像破壊的な理解もよく見受けられます。

臨済は、学人のよるところ、跼蹐(きょくせき)するところを片っ端から破壊して、相手を自由の天地に駆り立てて行く。ここにおいて彼は、飽迄も徹底的な偶像破壊者となって現れて来る。かの四科揀にせよ、四喝にせよ、要するに学人の依るところ、執着するところを殺戮して行く破邪の剣である――「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得て物と拘わらず、透脱自在なり。諸方の道流の如くんば、未だ物に依らずして出で来る底にあらず。」――自己の自由と主権とを阻害する一切の対象は破壊されねばならない。」(前田41~42)



(7)第10段の7(入矢98~99)

如諸方學道流、未有不依物出來底。山僧向此間、從頭打。手上出來手上打。口裏出來口裏打。眼裏出來眼裏打。未有一箇獨脱出來底。皆是上他古人閑機境。山僧無一法與人、祇是治病解縛。爾諸方道流、試不依物出來、我要共爾商量。十年五歳、並無一人。皆是依草附葉、竹木精靈、野狐精魅、向一切糞塊上亂咬。瞎漢、枉消他十方信施、道我是出家兒、作如是見解。向爾道、無佛無法、無修無證。祇與麼傍家擬求什麼物。瞎漢、頭上安頭。是爾欠少什麼。
道流、是爾目前用底、與祖佛不別。祇麼不信、便向外求。莫錯。向外無法、内亦不可得。爾取山僧口裏語、不如休歇無事去。已起者莫續、未起者不要放起、便勝爾十年行脚。

(訳)

〔1〕「如諸方學道流」~「是爾欠少什麼」衣川・思想119~120

よそからここへやって来る行脚僧は、どいつもこいつも何かに依存して出て来るやつばかりだ。わたしがここで片っ端から始末してやる。手振りで来るやつには手振りを始末する。口で来るやつには口で始末する。眼で来るやつには眼を始末する。そういうものから脱出して、私の前に出て来るやつは一人もおらぬ。みな古人の手管に惑わされておるのだ。わたしが諸君に與えあるものは何もない。ただ諸君の病を癒し、自縄自縛を解いてやるだけだ。よそから行脚に来た諸君!何物にも依存しないで出て来てみよ!わたしはきみたちとともに問題を突き詰めたいと思っているが、五年十年このかた、相手になる者はひとりもおらぬ。みな草葉に依りついた亡靈やら竹木の妖怪やら狐の化け物やらであって、他人の野糞によってたかって食らいついておるのだ。ドメクラども!多くの信者から施しを受けながら、報いることもできず、「わたくしは出家人ですから」などと言って、當然だという料簡でいる。きみたちに言おう、他に求むべき佛もなければ法もない。修行をして得べき悟りなどないのだ。それなのに叢林を軒なみに訪ねまわって、何を求めておるのだ?ドメクラども!自分の頭の上にもうひとつ頭をのっけるのか!きみたち自身にいったい何が缺けているというのか!

〔2〕「道流、是爾目前用底」~「内亦不可得」。呉119

諸君、ほかならぬ君自身が現にいま見たり聞いたりしているはたらきが、そのまま祖仏なのだ。それを信じきれぬために、外に向って求めまわる。勘ちがいしてはならぬ。外に法はなく、内にも見付からぬ。



(注1)「是爾目前用底、與祖佛不別」の理解(入矢224)

臨済は「是れ你が目前に用うる底(もの)は、祖仏と別ならず」と言う。平たく言い直せば、われわれの日常の営為はそのままで祖仏のはたらきと同じだというのであり、まさに馬祖の言った「日用即妙用」の趣旨である。喝の噴出といっても、教育者的な手段としてならともかく、本来は平常な「日用」の一つであるべきはずである。敢えて言えば、なにも大口をあけて大声を発する必要はない。「大事なことほど、それとなく言うものです」とは、或る高名な哲学者の言葉である。」



(8)第10段の8(入矢101)

約山僧見處、無如許多般、祇是平常。著衣喫飯、無事過時。爾諸方來者、皆是有心求佛求法、求解脱、求出離三界。癡人、爾要出三界、什麼處去。佛祖是賞繋底名句。爾欲識三界麼。不離爾今聽法底心地。爾一念心貪是欲界。爾一念心瞋是色界。爾一念心癡是無色界、是爾屋裏家具子。三界不自道、我是三界。還是道流、目前靈靈地照燭萬般、酌度世界底人、與三界安名。



(9)第10段の9(入矢102~104)

大徳、四大色身是無常。乃至脾胃肝膽、髪毛爪齒、唯見諸法空相。爾一念心歇得處、喚作菩提樹。爾一念心不能歇得處、喚作無明樹。無明無住處、無明無始終。爾若念念心歇不得、便上他無明樹、便入六道四生、披毛戴角。爾若歇得、便是清淨身界。爾一念不生、便是上菩提樹、三界神通變化、意生化身、法喜禪悦、身光自照。思衣羅綺千重、思食百味具足、更無横病。菩提無住處、是故無得者。
道流、大丈夫漢、更疑箇什麼。目前用處、更是阿誰。把得便用、莫著名字、號爲玄旨。(注1)與麼見得、勿嫌底法。古人云、心隨萬境轉、轉處實能幽。隨流認得性、無喜亦無憂。

(訳)「道流、大丈夫漢」~「號爲玄旨」。呉118

諸君、きりきりしゃんとした男一匹が、この上なにを疑うか。現に今そこで躍動し
ているもの、それを誰だと思うのか〔君たち自身ではないか〕。ここをつかんだな
ら、すぐに活用して、名には一切とらわれぬ。これが奥義というものだ。



(注1)「道流、大丈夫漢」~「號爲玄旨」は、馬祖道一の「即心是仏」思想を継受したものとされる

「ここに「現に今そこで躍動しているもの、それを誰だと思うのか〔君たち自身ではないか〕!」と言い切ったのは、馬祖が説いた「人は真理を離れて存在するのではない。いま・ここに真理があるのだ。いま・ここのすべてが自己の本体である。もしそうでないなら、いったいわたし以外の誰だというのだ!」という考え方が背景にあると考えられる。すなわち、現にいま・ここの見聞覚知の働きが、自己の本源(本心・仏性)であるということである。」(呉118)



(10)第10段の10(入矢105~107)

道流、如禪宗見解、死活循然(注1)。參學之人、大須子細。如主客相見、便有言論往來。或應物現形、或全體作用、或把機權喜怒、或現半身、或乘師子、或乘象王。如有眞正學人、便喝先拈出一箇膠盆子。善知識不辨是境、便上他境上、作模作樣。學人便喝。前人不肯放。此是膏肓之病、不堪醫。喚作客看主。或是善知識不拈出物、隨學人問處即奪。學人被奪、抵死不放。此是主看客。或有學人、應一箇清淨境、出善知識前。善知識辨得是境、把得抛向坑裏。學人言、大好善知識。即云、咄哉、不識好惡。學人便禮拜。此喚作主看主。或有學人、披枷帶鎖、出善知識前。善知識更與安一重枷鎖。學人歡喜、彼此不辨。呼爲客看客。大徳、山僧如是所擧、皆是辨魔揀異、知其邪正。



(注1)「死活循然」

「死活循然」は、入矢107注一では、「難解。生死についての一般論と見手は次の主客対立のことと結びつかない。」と指摘される。

この点、梁特治「『臨済録』死活循然の解釈をめぐって」『印度學佛敎學硏究第 66 巻第 1 号』(2017)は、江戸期の古注本を踏まえ

禅宗の見処 「死活循然」 の原義は,「示衆」 冒頭第一段の 「生死不染,去住自由……」 の如く,自己の主体性確立を根本義とした 「その人自身が,日々遭遇する境界に於いて次々と自在に応変する働き」 を形容した語であり,循然たる死活の巧みな方便の具体相として 「四賓主」 の一段が示されるのである」(312)

との理解を示している。



(11)第10段の11(入矢108~110)

道流、寔情大難、佛法幽玄、解得可可地。山僧竟日與他説破、學者總不在意。千遍萬遍、脚底踏過、黒沒焌地、無一箇形段、歴歴孤明。學人信不及、便向名句上生解。年登半百、祇管傍家負死屍行、檐却檐子天下走。索草鞋錢有日在。
大徳、山僧説向外無法、學人不會、便即向裏作解、便即倚壁坐、舌拄上齶、湛然不動、取此爲是祖門佛法也。大錯。是爾若取不動清淨境爲是、爾即認他無明爲郎主。古人云、湛湛黒暗深坑、寔可怖畏。此之是也。爾若認他動者是、一切草木皆解動、應可是道也。所以動者是風大、不動者是地大。動與不動、倶無自性。爾若向動處捉他、他向不動處立。爾若向不動處捉他、他向動處立。譬如潜泉魚、鼓波而自躍。大徳、動與不動、是二種境。還是無依道人、用動用不動。

(訓読)「學人信不及」~「索草鞋錢有日在」。小川113

学人、信不及にして、便ち名句(みょうく)上に向(お)いて解(げ)を生ず。年の半百に登(なんなん)とするまで、祇管(ひたすら)に傍家に死屍(むくろ)を負うて行き、担子(たんす)を担却(にな)いて天下を走る。草鞋銭を索(もと)めらるること日有らん在(ぞ)!

(訳)「學人信不及」~「索草鞋錢有日在」。小川114

修行僧は本来の自己を信じきれず、何かというと名辞・言句のうえで理屈をつくりだす。あげく五十にもなろうという頃まで、しゃにむに屍(むくろ)(「仏」という内実を見失った生ける屍のような己れ)を背負い、お荷物のような理屈をかついで天下を走り回っている。そんなことでは、閻魔さまからこの世での草鞋代を請求される日が、必ずやって来てしまうぞ。



(12)第10段の12「三種根器」(入矢112~113)(注1)

如諸方學人來、山僧此間、作三種根器斷。如中下根器來、我便奪其境、而不除其法。或中上根器來、我便境法倶奪。如上上根器來、我便境法人倶不奪。如有出格見解人來、山僧此間、便全體作用、不歴根器。大徳、到這裏、學人著力處不通風、石火電光即過了也。學人若眼定動、即沒交渉。擬心即差、動念即乖。有人解者、不離目前(注2)。

(訳)呉167

よそから行脚僧が来たら、わたしのところでは三種の機根に分かって断案を下す。まづ、中下根の者の場合、わたしはそいつの境を奪い取って、法を除かない。つぎに、中上根の者の場合、境も法も奪い取る。上上根の者の場合、境も法も奪い取らない。もし出格の見解を具えた者が来たら、わたしのところでは、機根など問題にせず、全身全霊で応じてやるのだ



(注1)「三種根器」の理解

「注意したいのは、上の引用文において、臨済の主眼は修行者がその「三種根器」のうちのどれに当たるかを見究めることにはなく、その最後に言う「出格の見解」を具えた者に置かれていることである。このような者に対しては臨済は「機根など問題にせず、全身全霊で応じてやるのだ」(「全体作用,不歴根器」)という方法で接化するという。この考え方は「示衆」にほかにも見え、これが臨済の基本的立場と言うべきものであった。しかし、「勘弁」に編入された「四料簡」はこれとは明らかに趣旨が異なっている。」(呉168)



(注2)「有人解者、不離目前」の理解・須山長治「『臨済録』の一考察」317

「「面前」に代る「目前」「即今」「如今」「現今」「今」という語もみな等しく具体的現実を表す。その具体的現実そのものが臨済の説法の場所であり、徐面前聴法底の活動場所である。「示衆」中、他で語られる「人有ツテ解セバ、目前ヲ離レズ」とはそのことを語っているのであろう。具体的現実は「面前」という空間と「即今」という時間だけでは成り立たない。空間を「面前」たらしめ、時間を「即今」たらしめる働きがあってこそ具体性を帯びる。それ故、働きは空間と時間がなければ無効となる。この三者はいつも一緒に考えられなければならない。臨済は「具体的」という代りに「歴歴」「昭昭霊霊」「孤明」あるいは「活溌溌地」ということばを使う。ともに空間を空間たらしめ、時間を時間たらしめる働きが活き活きすることの形容である。臨済は、この、以上述べた「具体的現実」以外のことは問題にしない。彼の目差すものはこの一点のみである。そして、これは何かと問いかける。『臨済録』はこの間で終始する。」



(13)第10段の13(入矢114)

大徳、爾檐鉢嚢屎檐子、傍家走求佛求法。即今與麼馳求底、爾還識渠麼。活撥撥地、祇是勿根株。擁不聚、撥不散。求著即轉遠、不求還在目前、靈音屬耳。若人不信、徒勞百年。
道流、一刹那間、便入華藏世界、入毘盧遮那國土、入解脱國土、入神通國土、入清淨國土、入法界、入穢入淨、入凡入聖、入餓鬼畜生、處處討覓尋、皆不見有生有死、唯有空名。幻化空花、不勞把捉、得失是非、一時放却。

(訓読)「大徳」~「傍家走求佛求法」(沖本・虚構と真実38)

「大徳、汝鉢嚢を担う尿担子、傍家に走りて求仏求法す」

(訳)「大徳」~「傍家走求佛求法」(沖本・虚構と真実38)

「お前さんは立派なお坊さんのなりをした糞担ぎ野郎だ、あくせくとかれ仏や法を求めて走り回っている」



(14)第10段の14(入矢115~116)

道流、山僧佛法、的的相承、從麻谷和尚、丹霞和尚、道一和尚、盧山與石鞏和尚、一路行遍天下。無人信得、盡皆起謗。如道一和尚用處、純一無雜、學人三百五百、盡皆不見他意。如盧山和尚、自在眞正、順逆用處、學人不測涯際、悉皆忙然。如丹霞和尚、翫珠隱顯、學人來者、皆悉被罵。如麻谷用處、苦如黄檗、近皆不得。如石鞏用處、向箭頭上覓人、來者皆懼。



(15)第10段の15(入矢117~118)

如山僧今日用處、眞正成壞、翫弄神變、入一切境、隨處無事、境不能換。但有來求者、我即便出看渠。渠不識我、我便著數般衣、學人生解、一向入我言句。苦哉、瞎禿子無眼人、把我著底衣、認青黄赤白。我脱却入清淨境中、學人一見、便生忻欲。我又脱却、學人失心、忙然狂走、言我無衣。我即向渠道、爾識我著衣底人否。忽爾回頭、認我了也。

(訳)「我即向渠道」~「認我了也」。呉122

そこでかれらに向って、君たちは衣を着たり〔脱いだり〕しているこのわしの当体が分かるかと言ってやると、はっと気が付いて、やっとわしを見て取るという始末だ。



(16)第10段の16(入矢119~120)(注1)

大徳、爾莫認衣。衣不能動、人能著衣。有箇清淨衣、有箇無生衣、菩提衣、涅槃衣、有祖衣、有佛衣。大徳、但有聲名文句、皆悉是衣變。從臍輪氣海中鼓激、牙齒敲磕、成其句義。明知是幻化。大徳、外發聲語業、内表心所法。以思有念、皆悉是衣。爾祇麼認他著底衣爲寔解。縦經塵劫、祇是衣通。三界循還、輪回生死。不如無事。相逢不相識、共語不知名。

(訳)

〔1〕衣川・思想128

禅師がたよ!著けている衣裳に執われてはならぬ。衣裳が人を動かすのではない。人が衣裳を著けているのだ。清浄という衣裳、不生不滅という衣裳、菩薩という衣裳、涅槃という衣裳、祖師という衣裳、佛陀という衣裳など、何でもある。禪師がたよ!こういったすべての言葉は、みな衣裳の變奏にすぎない。言葉というものは、「風ガ臍ノ輪ノ氣海ヨリ出テ、齒デカチカチヤッテ、意味トナッタ」にすぎず、明らかに實體なき幻である。禅師がたよ!〈音聲をもって語業を外に發することにより、内なる心の思いを表現する〉と言うように、心に思うことによって觀念が生まれる。それが言葉になるのであるから、みな衣裳である。諸君はひたすら衣裳に執われて實體があると思い込んでいるのだ。こんなことではいつまでたっても衣裳の專門家になるにすぎず、三界をぐるぐるまわって輪廻轉生をくりかえすだけだ。外に求めぬ無事がいちばんよい。〈出逢っても誰だかわからぬ、言葉を交わしても名前も知らぬ〉、それでよのだ。

〔2〕「大徳、外發聲語業」~「共語不知名」。沖本・虚構と真実42

諸君、「外に音声言語を発して、内面の心の働きを表す。」と(『大乗成業論』に)いう。意志が働くから想念があるのだが、それも畢寛うわべの衣だ。お前さんはひたすら「そいつ」が着ているうわべの衣を見て、それが実体だと思い込む。たとい無限の時間を経た所で、うわべの衣に通じるだけで、三界に輪廻するばかりだ。無事であるにしくはない。「相い逢うても相い知らず、共に語って名も知らず」だ。



(注1)この段の理解。衣川・思想128~129

「言葉は風である。言葉が紡ぎ出す観念は空なる幻想に過ぎない。人間がもっとも執われやすいものが言葉によって紡ぎ出される観念である。むろんあらゆる觀念を信ずるなと言うのではない。人間がもっとも執われやすい。信じ込みやすい觀念とは、「菩提」、「涅槃」、「祖師」、「佛陀」等の聖なる觀念・述語のあのであって、臨濟禪師はこのことに注意を喚起するのである。(略)
しかし、人間は言葉を離れることができない。臨濟禪師も示衆說法では饒舌に語る。多くの言葉を費やして、言わんとするところは、言葉を妄信するなという一事である。これがすなわち禪宗で言われる「不立文字」という句の意味に他ならない。」



(17)第10段の17(入矢120~121)

今時學人不得、蓋爲認名字爲解。大策子上、抄死老漢語、三重五重複子裹、不教人見、道是玄旨、以爲保重。大錯。瞎屡生、爾向枯骨上、覓什麼汁。
有一般不識好惡、向教中取意度商量、成於句義。如把屎塊子、向口裏含了、吐過與別人。猶如俗人打傳口令相似、一生虚過。也道我出家、被他問著佛法、便即杜口無詞、眼似漆突、口如匾擔。如此之類、逢彌勒出世、移置他方世界、寄地獄受苦。(注1)



(注1)有馬204~205

「――(略)「弥勒の出世に逢うとも、他方世界に移置せられ、地獄に寄せて苦を受けん」とは、すごい言葉だと思いました。
有馬 そうですね。「弥勒さん」が出現するのは、お釈迦さんが亡くなって五十六億七千万年後ですからね。それまで待っても、「救われへんよ」と言うとるんやね。
――救われないんですか。
有馬 救われない。「他方世界」、どこか違う場所に行っても、地獄の苦しみからは逃れられないのです。」



(18)第10段の18(入矢123)

大徳、爾波波地往諸方、覓什麼物、踏爾脚板闊。無佛可求、無道可成、無法可得。外求有相佛、與汝不相似。欲識汝本心、非合亦非離。
道流、眞佛無形、眞道無體、眞法無相。三法混融、和合一處。辨既不得、喚作忙忙業識衆生



11 第11段(入矢124)(注1)

一一、問、如何是眞佛眞法眞道、乞垂開示。師云、佛者心清淨是。法者心光明是。道者處處無礙淨光是。三即一、皆是空名、而無寔有。如眞正學道人、念念心不間斷。自達磨大師從西土來、祇是覓箇不受人惑底人。後遇二祖、一言便了、始知從前虚用功夫。山僧今日見處、與祖佛不別。若第一句中得、與祖佛爲師。若第二句中得、與人天爲師。若第三句中得、自救不了。(注2)

(訓読)「自達磨大師」~「與祖佛不別」。小川138

達磨大師の西土従(よ)り来りて自(よ)り、祇(た)だ是れ箇(ひとり)の人惑(にんわく)を受けざる底の人を覓(もと)むるのみ。後、二祖に遇うや、一言に便ち了じて、始めて従前には虚しく功夫を用いしことを知れり。山僧(わし)が今日の見処(けんじょ)にては、祖仏と別ならざるなり。

(訳)

〔1〕「山僧今日見處、與祖佛不別」~「自救不了」。呉161

わたしが今日諸君に語った見解は、諸君こそが達磨や仏陀と別ではないということである。最初の一句でただちに了解した者は、達磨や仏陀の師となれる。第二句で了解した者は、人間界と天上界で師となれる。それでもわからず、第三句でようやく了解できるようなら、人を救うどころか、自分さえも救い得ない。

〔2〕「自達磨大師」~「與祖佛不別」。小川138

「祖師達磨は西来後、ただ、他人の惑わしを受けぬ一箇の人をもとめただけだ。だから、その後二祖慧可に出逢うや、一言でただちにケリをつけ、それまでは無駄な修行をしていたに過ぎぬことを明らかにされたのである。わしのただ今の見解によれば、人は祖仏と何の別もないのである。」



(注1)この段の理解

〔1〕衣川142~143

「「達磨が西から来た意図とはなんぞや?」とは、中唐馬祖門下の時代よりしばしば提起された「如何なるか祖師西来意?」という問いである。「祖師」は菩提達磨を指し、「祖師西来意」とは達磨がインドから来た意図。達磨は禅を伝えたとされるが、その禅とはなにかを問うもので、中唐時代の禅宗がみずからのルーツをこの問いによって確認しあう問題意識である。

達磨は何をしに中国へ来たのか?臨済は言う「人に騙されぬまっとうな人間を捜しに来たのだ」。」



(注2)「臨済三句の成立」

「柳田聖山の解釈によれば、示衆に記されているこの「三句」とは、「一切の人惑を受けぬ、祖仏の師となるに価する底の上根の機の用処を第一句とし、第二、三句を中下の根とみるべきであろう」という。「第一句」を会得すれば「祖仏と別ならず」というから、主眼は「第一句」に置かれている。つまり、臨済によって語られた「三句」は、「第一句」(=「第一義」「本分事」)の立場に立ちつつ、来参者の機根を見きわめ接化するものである。これは上掲の雪峰が質問した臨済の語る「三句」と対応する。
しかし、「上堂」に出る「臨済三句」は、来参者の機根を「上根・中根・下根」に分類する「三句」とは、明らかに趣旨が異なっている。
では、「上堂」に見られる所謂「臨済三句」は誰によって作られたのであろうか。またどのようにして『臨済録』に編入されたのであろうか。」(呉161)

「結論を先に言えば、「臨済三句」は風穴の語であったにもかかわらず、「三玄三要」の語と同じく、後世最も影響の大きかった『景徳伝灯録』に臨済の語として収録されたため、北宋末以後にはそれが臨済の語として定着していったのである。」(呉162)



12 第12段

(1)第12段の1(入矢125~126)(注1)

一二、問、如何是西來意。師云、若有意、自救不了。云、既無意、云何二祖得法。師云、得者是不得。云、既若不得、云何是不得底意。師云、爲爾向一切處馳求心不能歇。所以祖師言、咄哉丈夫、將頭覓頭。爾言下便自回光返照、更不別求、知身心與祖佛不別、當下無事、方名得法。
大徳、山僧今時、事不獲已、話度説出許多不才淨。爾且莫錯。據我見處、寔無許多般道理。要用便用、不用便休。

(訳)衣川・思想129~130

僧が問う、「逹磨は何の意圖があって印度から來たのでしょうか?」師、「もし達磨に何かの意図があったなら、かれは自身さえも救えなかっただろう。」僧、「意圖がなかったのなら、二祖慧可が法を得たとはどういうことでしょうか?」師、「得たとは得(たものは何も)なかったということだ。」僧、「得なかったのでしたら、その『得なかった逹磨の意圖』とは何でありましょうか?」師、「きみはどこまで行っても求めまわることから拔け出せない。だからこそ祖師はきみのために言ったのだ、『おいっ!一人前の男が何だ!頭があるのに頭を捜しまわるとは!』きみがこの一言のもと、ただちに廻光返照して、外には一切求めず、わが身と心が祖師や佛陀と別ではないと知って、今こそ〈無事〉に落ちつくことが、『得なかった』ということに他ならない。

禅師がたよ!わたしは今やむを得ず、しゃべりまくって汚らわしい物を垂れ流す結果となったが、どうか諸君よ!誤解しないでもらいたい。私の見かたでは、じつは多くの眞理があるのではない。使いたいなら使え!使わぬならそれまでだ。」



(注1)この段の理解。小川141

「「祖師再来意」など存在しないと、臨済はいう。外に「馳求」することをやめ、自分自身に立ちもどれば、何も格別の子細は無い。(略)「得法」とは新たに何も得る必要のない自己、それに気づくだけのことであり、だから「得とは不得」だということになる。」



(2)第12段の2(入矢128~129)

祇如諸方説六度萬行、以爲佛法、我道、是莊嚴門佛事門、非是佛法。乃至持齋持戒、擎油不【氵閃】(注1)、道眼不明、盡須抵債、索飯錢有日在。何故如此。入道不通理、復身還信施。長者八十一、其樹不生耳。乃至孤峯獨宿、一食卯齋、長坐不臥、六時行道、皆是造業底人。乃至頭目髓腦、國城妻子、象馬七珍、盡皆捨施、如是等見、皆是苦身心故、還招苦果。不如無事、純一無雜。乃至十地滿心菩薩、皆求此道流蹤跡、了不可得。所以諸天歡喜、地神捧足、十方諸佛、無不稱歎。縁何如此。爲今聽法道人、用處無蹤跡。

(注1)辺を「氵」、旁を「閃」とする字。



13 第13段

(1)第13段の1(入矢130~131)

一三、問、大通智勝佛、十劫坐道場、佛法不現前、不得成佛道。未審此意如何。乞師指示。師云、大通者、是自己於處處、達其萬法無性無相、名爲大通。智勝者、於一切處不疑、不得一法、名爲智勝。佛者心清淨、光明透徹法界、得名爲佛。十劫坐道場者、十波羅蜜是。佛法不現前者、佛本不生、法本不滅、云何更有現前。得成佛道者、佛不應更作佛。古人云、佛常在世間、而不染世間法。



(2)第13段の2(入矢132~133)

道流、爾欲得作佛、莫隨萬物。心生種種法生、心滅種種法滅。一心不生、萬法無咎。世與出世、無佛無法、亦不現前、亦不曾失。設有者、皆是名言章句、接引小兒、施設藥病、表顯名句。且名句不自名句、還是爾目前昭昭靈靈、鑒覺聞知照燭底、安一切名句。大徳、造五無間業、方得解脱。



14 第14段

(1)第14段の1(入矢134~135)

一四、問、如何是五無間業。師云、殺父害母、出佛身血、破和合僧、焚燒經像等、此是五無間業。云、如何是父。師云、無明是父。爾一念心、求起滅處不得、如響應空、隨處無事、名爲殺父。云、如何是母。師云、貪愛爲母。爾一念心、入欲界中、求其貪愛、唯見諸法空相、處處無著、名爲害母。云、如何是出佛身血。師云、爾向清淨法界中、無一念心生解、便處處黒暗、是出佛身血。云、如何是破和合僧。師云、爾一念心、正達煩惱結使、如空無所依、是破和合僧。云、如何是焚燒經像。師云、見因縁空、心空、法空、一念決定斷、迥然無事、便是焚燒經像。大徳、若如是達得、免被他凡聖名礙。



(2)第14段の2(入矢136~138)

爾一念心、祇向空拳指上生寔解、根境法中虚捏怪。自輕而退屈言、我是凡夫、他是聖人。禿屡生、有甚死急、披他師子皮、却作野干鳴。大丈夫漢、不作丈夫氣息、自家屋裏物不肯信、祇麼向外覓、上他古人閑名句、倚陰博陽、不能特達。逢境便縁、逢塵便執、觸處惑起、自無准定。
道流、莫取山僧説處。何故。説無憑據、一期間圖畫虚空、如彩畫像等喩。
道流、莫將佛爲究竟。我見猶如厠孔、菩薩羅漢、盡是枷鎖、縛人底物。所以文殊仗劍、殺於瞿曇、鴦掘持刀、害於釋氏。道流、無佛可得。乃至三乘五性、圓頓教迹、皆是一期藥病相治、並無實法。設有、皆是相似、表顯路布、文字差排、且如是説。(注1)
道流、有一般禿子、便向裏許著功、擬求出世之法。錯了也。若人求佛、是人失佛。若人求道、是人失道。若人求祖、是人失祖。



(訓読)「道流、無佛可得。乃至三乘五性、圓頓教迹、皆是一期藥病相治、並無實法。設有、皆是相似、表顯路布、文字差排、且如是説」(衣川52~3)

「道流よ!佛の得可(うべ)き無し。乃至(たと)い三乗、五性、圓頓(えんどん)の教迹(しゃく)なるとも、皆な是れ一期(いちご)の薬病相治(やくへいそうじ)にして、並(た)えて実法無し。設(たと)い有るも、皆な是れ相似の表顕(ひょうげん)、路布の文字、差排して且らく是(かく)の如く説きしのみ。」

(訳)「道流、無佛可得。乃至三乘五性、圓頓教迹、皆是一期藥病相治、並無實法。設有、皆是相似、表顯路布、文字差排、且如是説」(衣川53)

「諸君!外から手に入れる佛などありはしない。たといれいれいしく説かれた三乗、五性、圓頓の教理であろうとも、みなかりそめの方便であって、本当の中味などありはしない。あるのはそのものでないただの説明、大仰な宣伝の文句であって、指示する言葉にすぎないのだ。」



(注1)「莫取山僧説處」=「私の言うことを聞くな」の理解

「我が語を記(おぼ)ゆる莫れ」(または「取る莫れ」)とは、馬祖系の禅師たちが弟子を戒める時に常に用いた言葉であった。特に百丈や臨済は繰り返しこれを言う。師と同じことを言い、師と同じ法を嗣ぐのでは、それは師を辱めることになる。」(入矢義高編『馬祖の語録 禅の語録5』(序3))



(注2)「乃至三乘五性、圓頓教迹、皆是一期藥病相治、並無實法」の理解(有馬170~171)

「あらゆる経典、あらゆる説法、みんなどんなに素晴らしくても、「病を治した薬みたいなもの」、つまり、病が治ったらもう薬はいらんよ。薬なんてなんの役にも立たんよ。一時の病は治すかも知らんが、すべての病を治す薬なぞない。病を治したという真似事をしとるだけや、と。これも例え話。仏さんの言うことをいろいろまともに受け取ったらいかんと。そしてまた同じことを言いますね。

仏教そのものが偽物やと。坊さんも文字を並べて偉そうなことを言ってるだけや。じゃあ、どうすればよいのか。(略)

「仏を求めれば仏を失い、道を求めれば道を失い、祖を求めれば祖を失う」。「求めて派いけない」ということは、坊さんの説法を聞いてもアカン。いや聞いたらアカン。あんなんウソ八百。「求めたら」全部失う。結局自分に自信がないから、他人に相談し、外に求めて、それで“自分”を失う。自由を失う。」

「仏教そのものが偽物」、「坊さんの説法を聞いてもアカン。いや聞いたらアカン。あんなんウソ八百」…これを言っているのが、臨済宗相国寺派管長というのもすごい。



(3)第14段の3(入矢140~141)

大徳、莫錯。我且不取爾解經論、我亦不取爾國王大臣、我亦不取爾辯似懸河、我亦不取爾聰明智慧、唯要爾眞正見解。道流、設解得百本經論、不如一箇無事底阿師。爾解得、即輕蔑他人。勝負修羅、人我無明、長地獄業。如善星比丘、解十二分教、生身陷地獄、大地不容。不如無事休歇去。飢來喫飯、睡來合眼。愚人笑我、智乃知焉。
道流、莫向文字中求。心動疲勞、吸冷氣無益。不如一念縁起無生、超出三乘權學菩薩。



(4)第14段の4(入矢142~143)

大徳、莫因循過日。山僧往日、未有見處時、黒漫漫地。光陰不可空過、腹熱心忙、奔波訪道。後還得力、始到今日、共道流如是話度。勸諸道流、莫爲衣食。看世界易過、善知識難遇。如優曇花時一現耳。
爾諸方聞道有箇臨濟老漢、出來便擬問難、教語不得。被山僧全體作用、學人空開得眼、口總動不得。【忄瞢】(注1)然不知以何答我。我向伊道、龍象蹴踏、非驢所堪。爾諸處祇指胸點肋、道我解禪解道、三箇兩箇、到這裏不奈何。咄哉、爾將這箇身心、到處簸兩片皮、誑【異体字】(注2)閭閻。喫鐵棒有日在。非出家兒、盡向阿修羅界攝。



(注1)辺は「忄」、旁は「瞢」。読みは「ボウ」か。

(注2)辺は「言」旁は、「宀」の下に「卒」



(5)第14段の5(入矢145~146)

夫如至理之道、非諍論而求激揚、鏗鏘以摧外道。至於佛祖相承、更無別意。設有言教、落在化儀三乘五性、人天因果。如圓頓之教、又且不然。童子善財、皆不求過。
大徳、莫錯用心。如大海不停死屍。祇麼擔却、擬天下走。自起見障、以礙於心。日上無雲、麗天普照。眼中無翳、空裏無花。
道流、爾欲得如法、但莫生疑。展則彌綸法界、收則絲髮不立。歴歴孤明、未曾欠少。眼不見、耳不聞、喚作什麼物。古人云、説似一物則不中。爾但自家看。更有什麼。説亦無盡、各自著力。珍重。



第2の3 〔勘辨〕



1 第1段「黄檗の一転語」(入矢149~150、無文324)

黄檗、因入厨次、問飯頭、作什麼。飯頭云、揀衆僧米。黄檗云、一日喫多少。飯頭云、二石五。黄檗云、莫太多麼。飯頭云、猶恐少在。黄檗便打。
飯頭却擧似師。師云、我爲汝勘這老漢。纔到侍立次、黄檗擧前話。師云、飯頭不會、請和尚代一轉語。師便問、莫太多麼。黄檗云、不道、來日更喫一頓。師云、説什麼來日、即今便喫。道了便掌。黄檗云、這風顛漢、又來這裏捋虎鬚。師便喝出去。
後潙山問仰山、此二尊宿、意作麼生。仰山云、和尚作麼生。潙山云、養子方知父慈。仰山云、不然。潙山云、子又作麼生。仰山云、大似勾賊破家。



2 第2段(入矢151~152、柳田34~35、無文332)(注1)

師問僧、什麼處來。僧便喝。師便揖坐。僧擬議。師便打。師見僧來、便竪起拂子。僧禮拜。師便打。又見僧來、亦竪起拂子。僧不顧。師亦打。

(訳)呉120

師が僧に問うた、「どこから来たか。」僧はすぐに一喝した。師は会釈して僧を坐らせた。僧はもたついた。師はすぐ打った。師は僧がやって来るのを見ると、払子をさっと立てた。僧は礼拝した。師はそこで打った。また別の僧がやって来るのを見ると、やはり払子を立てた。僧は見向きもしなかった。師はやはりその僧を打った。



(注1)作用即性論の継受(呉120)

「ここには「喝」「払子を立てる」「打つ」という言葉や動作が見られ、これは馬祖の「作用即性」説に基づいて表現された行為であると考えられる。『景徳伝灯録』及び『天聖広灯録』によれば、「喝」を発するということは確かに臨済宗の宗風として早くから受け止められていた。ここで注目したいのは、「喝」の作略は馬祖の提示した「作用即性」説の延長に位置づけられることである。なお、それが安易に模倣されるいわゆる「胡喝乱喝」の現象も現われ、「胡喝乱喝」を避けるために臨済以降に「喝」の分類(すなわち「四喝」)が提起されたと考えられる」



3 第3段(入矢152~153)

この段は、明版『古尊宿語録』から増補されたものとして、入谷152~153頁に記載されている。

正蔵版にも存在しない。

柳田、無文にも取り上げられていない。



師見普化、乃云、我在南方馳書至潙山時、知你先在比住侍我來。及我來、得你佐贊。我今欲建立黄檗宗旨。汝切須爲我成褫。普化珍重下去。克符後至。師亦如是道。符亦珍重下去。三日後、普化卻上問訊云、和尚前日道甚麼。師拈棒便打下。又三日、克符亦上問訊、乃問、和尚前日打普化作什麼。師亦拈棒便打下。



4 第4段(入矢154~155)

四、師、一日同普化、赴施主家齋次、師問、毛呑巨海、芥納須彌。爲是神通妙用、本體如然。普化踏倒飯床。師云、太麁生。普化云、這裏是什麼所在、説麁説細。(注1)
師來日、又同普化赴齋。問、今日供養、何似昨日。普化依前踏倒飯床。師云、得即得、太麁生。普化云、瞎漢、佛法説什麼麁細。師乃吐舌。

(訳)沖本・虚構と真実28~29

ある日、普化と施主の家に出かけた。供養の食事をとりながら師がたずねた、「一毛が巨海を呑み込み、一粒の芥子が須弥山を納めるというが、いったいこれは不思議な神通の働きなのだろうか、それとももともと当たり前のことなのかね。」普化は食卓を蹴り倒した。師、「なんと荒っぽい奴だ。」普化、「ここがいったい何処だからといって、荒いの細かいのというのだ。」

翌日もまた普化と供養を受けにでかけた。「今日の供養は昨日にくらべてどうかね。」普化はまた食卓を蹴り倒した。師、「よいにはよいが、何と荒っぽいやつだ。」普化、「わからぬ奴だ。仏法に荒いの細かいのがあろうか。」師は舌を出した。


(注1)神通妙用の問い(師問、毛呑巨海、芥納須彌。爲是神通妙用、本體如然)に対し、普化が食卓を蹴倒した(普化踏倒飯床)趣旨について、有馬132は次のような解説をします。

「仏法には、そういう神通力と神通妙用というのは決してないと。自然のまま、ありのままが仏法。さらに言えば、「仏法」ということ自体がないんやと普化は言うとるんです。」

臨済宗相国寺派管長の有馬賴底が「「仏法」ということ自体がない」と断言するところに素直に迫力を感じます。



5 第5段(入矢155~156)

五、師一日、與河陽木塔長老、同在僧堂地爐内坐。因説、普化毎日在街市、掣風掣顛。知他是凡是聖。言猶未了、普化入來。師便問、汝是凡是聖。普化云、汝且道、我是凡是聖。師便喝。普化以手指云、河陽新婦子、木塔老婆禪。臨濟小厮兒、却具一隻眼。師云、這賊。普化云賊賊、便出去。

(訳)沖本・虚構と真実29

ある日、師は河陽・木塔の両長老と一緒に僧堂の地炉の内に坐っていた。そのおりに、「普化は毎日街に出ては奇矯の振る舞いをしている。いったい凡人なのか、それとも聖人なのだろうか。」と話していると、言いおわらぬうちに、普化がやってきた。そこで師は尋ねた、「お前さんは几人なのかね聖人なのかね。」普化、「まずあんたがいいなさい、私は凡人なのか聖人なのか。」そこで師は一喝した。普化は指さしながら、「河陽は花嫁、木塔は老婆の禅。臨済はこわっぱだが、まあ少しは見る眼がある。」師、「この賊め。」普化は「賊だ賊だ。」と言って出て行った



6 第6段(入矢157)

六、一日、普化在僧堂前、喫生菜。師見云、大似一頭驢。普化便作驢鳴。師云、這賊。普化云賊賊、便出去。

(訳)沖本・虚構と真実29

ある日普化は僧堂の前で生の野菜をかじっていた。これを見て師はいった、「なんと騨馬にそっくりだ。」すかさず騙馬の鳴き声をまねた。師、「この賊め。」普化は「賊だ賊だ」と言って出て行った。



7 第7段(入矢157~158)」

七、因普化、常於街市搖鈴云、明頭來、明頭打、暗頭來、暗頭打、四方八面來、旋風打、虚空來、連架打。師令侍者去、纔見如是道、便把住云、總不與麼來時如何。普化托開云、來日大悲院裏有齋。侍者回、擧似師。師云、我從來疑著這漢。

(訳)沖本・虚構と真実30

普化はいつも街で鈴を振って言っていた、「明晰にやってきたら明晰に応じる。混沌のままやってきたら混沌のままに応じる。明晰と混沌とが共々やってきたら旋風のように応じ、明晰でも混沌でもなければ連架(からさお)のように応じる。」師は侍者をやって、そのように言っているのを見かけたらとっつかまえて、「そのどれでもない時にはどうする。」と言わせた。普化は突き放して言った、「明日は大悲院で御供養がある。」侍者は戻って師に報告した。師、「わたしは以前からこの男はただ者ではないと思っていた。」


8 第8段(入矢158~159)

八、有一老宿參師、未曾人事、便問、禮拜即是、不禮拜即是。師便喝。老宿便禮拜。師云、好箇草賊。老宿云賊賊、便出去。師云、莫道無事好。首座侍立次、師云、還有過也無。首座云、有。師云、賓家有過、主家有過。首座云、二倶有過。師云、過在什麼處。首座便出去。師云、莫道無事好。後有僧擧似南泉。南泉云、官馬相踏。



9 第9段(入矢160)

九、師因入軍營赴齋、門首見員僚。師指露柱問、是凡是聖。員僚無語。師打露柱云、直饒道得、也祇是箇木橛。便入去。



10 第10段(入矢160~161)

一〇、師問院主、什麼處來。主云、州中糶黄米去來。師云、糶得盡麼。主云、糶得盡。師以杖面前畫一畫云、還糶得這箇麼。主便喝。師便打。
典座至。師擧前語。典座云、院主不會和尚意。師云、爾作麼生。典座便禮拜。師亦打。



11 第11段(入矢162)

一一、有座主來相看次、師問、座主講何經説。主云、某甲荒虚、粗習百法論。師云、有一人、於三乘十二分教明得。有一人、於三乘十二分教明不得。是同是別。主云、明得即同、明不得即別。樂普爲侍者、在師後立云、座主、這裏是什麼所在、説同説別。師回首問侍者、汝又作麼生。侍者便喝。師送座主回來、遂問侍者、適來是汝喝老僧。侍者云、是。師便打。



12 第12段(入矢163~164)

一二、師聞第二代徳山垂示云、道得也三十棒、道不得也三十棒、師令樂普去問、道得爲什麼也三十棒、待伊打汝、接住棒送一送、看他作麼生。普到彼、如教而問。徳山便打。普接住送一送。徳山便歸方丈。普回擧似師。師云、我從來疑著這漢。雖然如是、汝還見徳山麼。普擬議。師便打。



13 第13段(入矢165)

一三、王常侍、一日訪師。同師於僧堂前看、乃問、這一堂僧、還看經麼。師云、不看經。侍云、還學禪麼。師云、不學禪。侍云、經又不看、禪又不學、畢竟作箇什麼。師云、總教伊成佛作祖去。侍云、金屑雖貴、落眼成翳。又作麼生。師云、將爲爾是箇俗漢。



14 第14段(入矢166)

一四、師問杏山、如何是露地白牛。山云、吽吽。師云、唖那。山云、長老作麼生。師云、這畜生。



15 第15段(入矢166)

一五、師問樂普云、從上來、一人行棒、一人行喝。阿那箇親。普云、總不親。師云、親處作麼生。普便喝。師乃打。



16 第16段(入矢167)

一六、師見僧來、展開兩手。僧無語。師云、會麼。云、不會。師云、渾崙擘不開、與爾兩文錢。



17 第17段(入矢167~168

一七、大覺到參。師擧起拂子。大覺敷坐具。師擲下拂子。大覺收坐具、入僧堂。衆僧云、
這僧莫是和尚親故、不禮拜、又不喫棒。師聞、令喚覺。覺出。師云、大衆道、汝未參長老。覺云不審、便自歸衆。



18 第18段(入矢168~169)

一八、趙州行脚時參師。遇師洗脚次、州便問、如何是祖師西來意。師云、恰値老僧洗脚。州近前、作聽勢。師云、更要第二杓惡水溌在。州便下去。



19 第19段(入矢169)

一九、有定上座、到參問、如何是佛法大意。師下繩床、擒住與一掌、便托開。定佇立。傍僧云、定上座、何不禮拜。定方禮拜、忽然大悟。




20 第20段(入矢170)

二〇、麻谷到參。敷坐具問、十二面觀音、阿那面正。師下繩牀、一手收坐具、一手搊麻谷云、
十二面觀音、向什麼處去也。麻谷轉身、擬坐繩牀。師拈拄杖打。麻谷接却、相捉入方丈。



21 第21段(入矢171)(注1)

二一、師問僧、有時一喝、如金剛王寶劍。有時一喝、如踞地金毛師子。有時一喝、如探竿影草。有時一喝、不作一喝用。汝作麼生會。僧擬議。師便喝。

(訳)呉163

師が僧に問うた、「ある時の一喝は金剛王宝剣のような凄味があり、ある時の一喝は獲物をねらう獅子のような威力があり、ある時の一喝はおびき寄せるはたらきをし、ある時の一喝は一喝のはたらきさえしない。お前それが分かるか」と。僧はもたついた。師はすかさず一喝した。



(注1)「臨済の四喝」の成立(呉163)

「この「四喝」が、のちの臨済宗の綱要として関心を集め、注釈の対象となり(例えば『人天眼目』)、また円悟克勤の公案集『碧巌録』第十則の評唱にも収録されるようになる。しかし、通行本『臨済録』に収録されている「四喝」は、円覚宗演が黄龍慧南校訂『四家録』(約 1066 年前後)中の『臨済録』を重刊(1120)した時に増補した八則のうちの一則であった。これが『続開古尊宿語要』(1238)、『古尊宿語録』(1267)に引き継がれ、単行本化されて江戸時代の通行本(18 世紀)に至るのである。したがって『臨済録』テキストの二系統のうち、「古尊宿系」に見えるもので、「四家録系」には見えないのである。」



22 第22段(入矢172)

二二、師問一尼、善來惡來。尼便喝。師拈棒云、更道更道。尼又喝。師便打。



23 第23段(入矢172~173)

二三、龍牙問、如何是祖師西來意。師云、與我過禪板來。牙便過禪板與師。師接得便打。牙云、打即任打、要且無祖師意。牙後到翠微問、如何是祖師西來意。微云、與我過蒲團來。牙便過蒲團與翠微。翠微接得便打。牙云、打即任打、要且無祖師意。牙住院後、有僧入室請益云、和尚行脚時、參二尊宿因縁、還肯他也無。牙云、肯即深肯、要且無祖師意。



24 第24段(入矢174~175)

二四、徑山有五百衆、少人參請。黄檗令師到徑山。乃謂師曰、汝到彼作麼生。師云、某甲到彼、自有方便。師到徑山、裝腰上法堂、見徑山。徑山方擧頭、師便喝。徑山擬開口、師拂袖便行。尋有僧問徑山、這僧適來有什麼言句、便喝和尚。徑山云、這僧從黄檗會裏來。爾要知麼、且問取他。徑山五百衆、太半分散。



25 第25段(入矢175~176)

二五、普化一日、於街市中、就人乞直裰。人皆與之。普化倶不要。師令院主買棺一具。普化歸來。師云、我與汝做得箇直裰了也。普化便自擔去、繞街市叫云、臨濟與我做直裰了也。我往東門遷化去。市人競隨看之。普化云、我今日未、來日往南門遷化去。如是三日、人皆不信。至第四日、無人隨看。獨出城外、自入棺内、倩路行人釘之。即時傳布。市人競往開棺、乃見全身脱去。祇聞空中鈴響、隱隱而去。

(訳)沖本・虚構と真実30

普化はある日、街で人に僧衣を施してくれるように頼んだ。皆がそれを与えたが普化はどれも気に入らなかった。師は院主に棺桶を一つ買わせ、普化が帰ってくると言った、「お前さんのために僧衣を作っておいたぞ。」普化はすぐにそれを担いで街に出て叫んだ、「臨済がわたしに僧衣を作ってくれた。わたしは東門で遷化するぞ。」市内の人が争ってついて行くと、普化は言った、「今日はやめた。明日南門で遷化しよう。」こうして三日経ち、人々は誰も信用しなくなった。四日めにはついて来るものはいなくなった。そこで独りで城外に出て棺の中に入り、道を通りかかった人に頼んで釘を打ってもらった。このことはすぐに広まって人々は先を争ってやってきて棺を開けたところ、もぬけのからであった。ただ空中を遠ざかる鈴の音が隠々と響くだけだった





第2の4 〔行錄〕(注1)



(注1)「あんろく」と読む



1 第1段

(1)第1段の1(入矢179~180)

一、師初在黄檗會下、行業純一。首座乃歎曰、雖是後生、與衆有異。遂問、上座在此、多少時。師云、三年。首座云、曾參問也無。師云、不曾參問。不知問箇什麼。首座云、汝何不去問堂頭和尚、如何是佛法的的大意。師便去問。聲未絶、黄檗便打。師下來。首座云、問話作麼生。師云、某甲問聲未絶、和尚便打。某甲不會。首座云、但更去問。師又去問。黄檗又打。如是三度發問、三度被打。師來白首座云、幸蒙慈悲、令某甲問訊和尚。三度發問、三度被打。自恨障縁不領深旨。今且辭去。首座云、汝若去時、須辭和尚去。師禮拜退。首座先到和尚處云、問話底後生、甚是如法。若來辭時、方便接他。向後穿鑿成一株大樹、與天下人作陰涼去在。師去辭黄檗。檗云、不得往別處去。汝向高安灘頭大愚處去、必爲汝説。



(2)第1段の2(入矢182)(注1)(注2)

師到大愚。大愚問、什麼處來。師云、黄檗處來。大愚云、黄檗有何言句。師云、某甲三度問佛法的的大意、三度被打。不知某甲有過無過。大愚云、黄檗與麼老婆、爲汝得徹困。更來這裏、問有過無過。師於言下大悟云、元來黄檗佛法無多子(注3)。大愚搊住云、這尿床鬼子、適來道有過無過、如今却道、黄檗佛法無多子。爾見箇什麼道理、速道速道。師於大愚脅下、築三拳。大愚托開云、汝師黄檗、非于我事。

(訳)沖本・虚構と真実24

師は大愚の所に着いた。大愚、「どこから来た。」師、「黄奨の所からです。」大愚、「黄奨はどんなことを言っているのかな。」師、「私は三度仏法のかんじんのところを尋ね、三度打ちすえられました。私に落ち度があったのかなかったのかわかりません。」大愚、「黄奨はそんなにも、老婆のようにお前さんのために懇切なのに、わざわざここに来て落ち度があったかなかったかなどと聞いておるのか。」師はその言葉を聞くやいなや大悟して言った、「もともと黄奨の仏法は雑作もなかったのか。」大愚は胸倉をつかんで言った、「この寝小便たれが。先程は落ち度があるかないかなどと言っていたのに、今度は黄奨の仏法は雑作もないなどと言う。いったいどんな道理を見たというのだ。さあ言ってみろ。」師は大愚の脇の下を三度殴りつけた。大愚は突き放して言った、「お前さんの師匠は黄奨だ。私の知ったことではない。」


(注1)この段の理解。小川127~129

臨済が三たび参問したにもかかわらず、黄檗はそのつど、ただ黙って打ちすえるだけであった。だが、そのことを大愚は、臨済を導くために黄檗疲労困憊するほど老婆心切を尽くしてくれたものだと称え、その意を悟らぬ臨済の不敏を責める。

婆さまのようなくどいまでの世話やき、それを「老婆心切」といい、「老婆」ないし「老婆心」だけでも、老婆心切を尽くすという動詞、あるいは老婆心切であるという形容詞に用いられる。「為~」は、~の為に導きの努力をするという動詞で、人を接化(せっけ)することを禅語で「為人(いにん)」する、という。「徹困」は疲れはててヘトヘトになるさま。「~得…」は、~の動作によって…という状態・程度になる、という口語の句型である(現代中国語の文法で様態補語といっているもの)。(略)

思うに、馬祖禅の立場からすれば、本来あるがままの自己のほかに、求めるべき「仏」も、授けるべき「法」も存在しない。だから何も説かずにいることは、結果的に、その一事を損なうことなく示す、最良の方便だということになる。しかも、黄檗は、そのことを臨済自身に気づかせるため、黙ったままで、わざわざ打ってまでくれた。それも一度ならず、二度、三度と。(略)

禅僧が修行僧を打ちすえるのには、自身がすなわち「仏」であるという事実、それを本人に身をもって覚らせようという意図が含まれている



(注2)沖本・虚構と真実24~25は、この一段について、「教団的関心からする歪曲・加筆と思しき部分がある」とする。

「最後のとってつけたような台詞は何か。「我関せず」とは如何にも大愚の家風を表すにふさわしい言辞としても、汝の師は黄奨である。」とは全く余計なことであるし、次に見るように事実でもない。しかも、既に指摘したように、仏法あるいは正法眼蔵の獲得は師の方便施設によって可能となるものであるけれど、誰であれ他人から稟承するようなものではないのである。しかしこういう矛盾した表現から、却ってテキストの教団的改変の事実が見えてくるのである。すなわち『祖堂集』では、「臨済和尚は黄藥を嗣ぐ。……黄藁の鋒機に契いてより、乃ち河北に於いて化を闘く。」(一九巻九八頁)と、その文頭には黄漿に嗣法したことをいうが、大悟の因縁については他本とは大いに異なっている。」



(注3)「元來黄檗佛法無多子」の理解。小川131

「元来、黄檗の仏法、多子(たす)無し!(略)

「元来~」は口語で「なんだ~だったのか」という、発見と納得の語気を表す。現代中国語の「原来~」にあたる言葉で、「元来」がもともとの表記だったのが、「元(モンゴル)が来る」という連想を嫌って、明代以後「原来」と書かれるようになったという。

「多子」は「多事」ともいう。多くのこと、ではなく、余計なこと。それが無いのがつまり「無事」で、黄檗は「道人は是れ無事の人。実に許多般(あれこれ)の心無く、亦た道理の説く可き無し」(入矢『伝心法要・宛陵録』頁七六)と言い、臨済もまた「我が見処(けんじょ)に拠(よ)らば、実に許多般(あれこれ)の道理無し。用いんと要せば便ち休(や)むのみ」(《文庫》頁一二六)、「山僧(わし)が見処に約さば許多般(あれこれ)無し、祇だ是れ平常(あたりまえ)にして、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)し、無事に時を過ごすのみ」(同、頁一〇一)と言っている。くだくだしき道理も意味づけも無い、「即心即仏」という事実の端的な提示、それが黄檗の仏法だったのである(入矢「禅護つれづれ」参照)。」



(3)第1段の3(入矢183~184)」

師辭大愚、却回黄檗黄檗見來便問、這漢來來去去、有什麼了期。師云、祇爲老婆心切。便人事了侍立。黄檗問、什麼處去來。師云、昨奉慈旨、令參大愚去來。黄檗云、大愚有何言句。師遂擧前話。黄檗云、作麼生得這漢來、待痛與一頓。師云、説什麼待來、即今便喫。隨後便掌。黄檗云、這風顛漢、却來這裏捋虎鬚。師便喝。黄檗云、侍者、引這風顛漢、參堂去。後、潙山擧此話、問仰山、臨濟當時、得大愚力、得黄檗力。仰山云、非但騎虎頭、亦解把虎尾。



2 第2段(入矢185)

二、師栽松次、黄檗問、深山裏栽許多作什麼。師云、一與山門作境致、二與後人作標榜。道了、將钁頭打地三下。黄檗云、雖然如是、子已喫吾三十棒了也。師又以钁頭打地三下、作嘘嘘聲。黄檗云、吾宗到汝、大興於世。
後潙山擧此語、問仰山、黄檗當時、祇囑臨濟一人、更有人在。仰山云、有。祇是年代深遠、
不欲擧似和尚。潙山云、雖然如是、吾亦要知。汝但擧看。仰山云、一人指南、呉越令行、遇大風即止。讖風穴和尚也。



3 第3段(入矢187)

三、師侍立徳山次、山云、今日困。師云、這老漢寐語作什麼。山便打。



4 第4段(入矢188)

四、師掀倒繩床。山便休。師普請鋤地次、見黄檗來、拄钁而立。黄檗云、這漢困那。師云、钁也未擧、困箇什麼。黄檗便打。師接住棒、一送送倒。黄檗喚維那、維那扶起我。維那近前扶云、和尚爭容得這風顛漢無禮。黄檗纔起、便打維那。師钁地云、諸方火葬、我這裏一時活埋。
後潙山問仰山、黄檗打維那、意作麼生。仰山云、正賊走却、邏蹤人喫棒。



5 第5段(入矢189~190)」

五、師一日、在僧堂前坐。見黄檗來、便閉却目。黄檗乃作怖勢、便歸方丈。師隨至方丈禮謝。首座在黄檗處侍立。黄檗云、此僧雖是後生、却知有此事。首座云、老和尚脚跟不點地、却證據箇後生。黄檗自於口上打一掴。首座云、知即得。



6 第6段(入矢190~191)

六、師在堂中睡。黄檗下來見、以拄杖打板頭一下。師擧頭、見是黄檗、却睡。黄檗又打板頭一下、却往上間、見首座坐禪、乃云、下間後生却坐禪、汝這裏妄想作什麼。首座云、這老漢作什麼。黄檗打板頭一下、便出去。後、潙山問仰山、黄檗入僧堂、意作麼生。仰山云、兩彩一賽。



7 第7段(入矢192)

七、一日普請次、師在後行。黄檗回頭、見師空手、乃問、钁頭在什麼處。師云、有一人將去了也。黄檗云、近前來、共汝商量箇事。師便近前。黄檗竪起钁頭云、祇這箇、天下人拈掇不起。師就手掣得、竪起云、爲什麼却在某甲手裏。黄檗云、今日大有人普請。便歸院。
後潙;山問仰山、钁頭在黄檗手裏、爲什麼却被臨濟奪却。仰山云、賊是小人、智過君子。



8 第8段(入矢193~194)

八、師爲黄檗馳書去潙山。時仰山作知客。接得書、便問、這箇是黄檗底、那箇是專使底。師便掌。仰山約住云、老兄知是般事、便休。同去見潙山。潙山便問、黄檗師兄多少衆。師云、七百衆。潙山云、什麼人爲導首。師云、適來已達書了也。師却問潙山、和尚此間多少衆。潙山云、一千五百衆。師云、太多生。潙山云、黄檗師兄亦不少。
師辭潙山。仰山送出云、汝向後北去、有箇住處。師云、豈有與麼事。仰山云、但去、已後有一人佐輔老兄在。此人祇是有頭無尾、有始無終。師後到鎭州、普化已在彼中。師出世、普化佐賛於師。師住未久、普化全身脱去。

(訳)「師辭潙山」~「普化全身脱去」の訳。沖本・虚構と真実31

「師は潙山を辞した。仰山は送りがてら言った、「お前さんはこれから北へ行きなさい。落ち着く所があります。」師、「そんなことがありますかね。」仰山、「ともかく行きなさい。のちにあなたを助けてくれる人物があります。この人は頭はあれども尻尾なく、始めはあれども終りなし、です。」師が後に鎮州に着くと普化が既にそこに居た。師が住職になると普化は師を補佐した。しかし師が落ち着いて程なく、普化はもぬけのからとなって去っていった。



9 第9段「臨済破夏の因縁」

(1)第9段の1(入矢195~196)

九、師因半夏上黄檗、見和尚看經。師云、我將謂是箇人、元來是【扌音】(注1)黒豆老和尚。住數日、乃辭去。黄檗云、汝破夏來、不終夏去。師云、某甲暫來禮拜和尚。黄檗遂打、趁令去。師行數里、疑此事、却回終夏。
師一日、辭黄檗。檗問、什麼處去。師云、不是河南、便歸河北。黄檗便打。師約住與一掌。黄檗大笑、乃喚侍者、將百丈先師禪板机案來。師云、侍者、將火來。黄檗云、雖然如是、汝但將去。已後坐却天下人舌頭去在。

(注1)辺は「扌」、旁は「音」



(2)第9段の2(入矢198)

後潙山問仰山、臨濟莫辜負他黄檗也無。仰山云、不然。&C3-4C7D;山云、子又作麼生。仰山云、知恩方解報恩。潙山云、從上古人、還有相似底也無。仰山云、有。祇是年代深遠、不欲擧似和尚。潙山云、雖然如是、吾亦要知。子但擧看。仰山云、祇如楞嚴會上、阿難讃佛云、將此深心奉塵刹、是則名爲報佛恩。豈不是報恩之事。潙山云、如是如是。見與師齊、減師半徳。見過於師、方堪傳授。



10 第10段(入矢199)

一〇、師到達磨塔頭。塔主云、長老、先禮佛、先禮祖。師云、佛祖倶不禮。塔主云、佛祖與長老是什麼寃家。師便拂袖而出。



11 第11段(入矢200)

一一、師行脚時、到龍光。光上堂。師出問云、不展鋒鋩、如何得勝。光據坐。師云、大善知識、豈無方便。光&C0-C0FC;目云、嗄。師以手指云、這老漢、今日敗闕也。



12 第12段(入矢200~201)

一二、到三峯。平和尚問曰、什麼處來。師云、黄檗來。平云、黄檗有何言句。師云、金牛昨夜遭塗炭、直至如今不見蹤。平云、金風吹玉管、那箇是知音。師云、直透萬重關、不住清霄内。平云、子這一問太高生。師云、龍生金鳳子、衝破碧琉璃。平云、且坐喫茶。又問、近離甚處。師云、龍光。平云、龍光近日如何。師便出去。



13 第13段(入矢202)

一三、到大慈。慈在方丈内坐。師問、端居丈室時如何。慈云、寒松一色千年別、野老拈花萬國春。師云、今古永超圓智體、三山鎖斷萬重關。慈便喝。師亦喝。慈云、作麼。師拂袖便出。



14 第14段(入矢203)

一四、到襄州華嚴。嚴倚&C0-A9D6;杖、作睡勢。師云、老和尚瞌睡作麼。嚴云、作家禪客、宛爾不同。師云、侍者、點茶來、與和尚喫。嚴乃喚維那、第三位安排這上座。



15 第15段(入矢204)

一五、到翠峯。峯問、甚處來。師云、黄檗來。峯云、黄檗有何言句、指示於人。師云、黄檗無言句。峯云、爲什麼無。師云、設有、亦無擧處。峯云、但擧看。師云、一箭過西天。



16 第16段(入矢205)

一六、到象田。師問、不凡不聖、請師速道。田云、老僧祇與麼。師便喝云、許多禿子、在這裏覓什麼椀。



17 第17段(入矢205)

一七、到明化。化問、來來去去作什麼。師云、祇徒踏破草鞋。化云、畢竟作麼生。師云、老漢話頭也不識。



18 第18段(入矢206)

一八、往鳳林。路逢一婆。婆問、甚處去。師云、鳳林去。婆云、恰値鳳林不在。師云、甚處去。婆便行。師乃喚婆。婆回頭。師便打。



19 第19段(入矢206)

一九、到鳳林。林問、有事相借問、得麼。師云、何得剜肉作瘡。林云、海月澄無影、遊魚獨自迷。師云、海月既無影、遊魚何得迷。鳳林云、觀風知浪起、翫水野帆飄。師云、孤輪獨照江山靜、自笑一聲天地驚。林云、任將三寸輝天地、一句臨機試道看。師云、路逢劍客須呈劍、不是詩人莫獻詩。鳳林便休。師乃有頌、大道絶同、任向西東、石火莫及、電光罔通。
潙山問仰山、石火莫及、電光罔通。從上諸聖、將什麼爲人。仰山云、和尚意作麼生。&C3-4C7D;山云、但有言説、都無寔義。仰山云、不然。潙山云、子又作麼生。仰山云、官不容針、私通車馬。



20 第20段(入矢209)

二〇、到金牛。牛見師來、横按拄杖、當門踞坐。師以手敲拄杖三下、却歸堂中第一位坐。牛下來見、乃問、夫賓主相見、各具威儀。上座從何而來、太無禮生。師云、老和尚道什麼。牛擬開口。師便打。牛作倒勢。師又打。牛云、今日不著便。
潙山問仰山、此二尊宿、還有勝負也無。仰山云、勝即總勝、負即總負。



21 第21段(入矢210)(注2)

二一、師臨遷化時、據坐云、吾滅後、不得滅却吾正法眼藏。三聖出云、爭敢滅却和尚正法眼藏。師云、已後有人問爾、向他道什麼。三聖便喝。師云、誰知吾正法眼藏(注1)、向這瞎驢邊滅却。言訖、端然示寂。

(訳)沖本・虚構と真実20

師は臨終の時、坐について言われた、「わたしが死んだあと、わたしの(得た)正しい法を見通す眼を台無しにしてはならぬ。」三聖が進み出て言った、「どうして和尚の仏法の真髄を台無しにしたりしましょうか。」師、「こののち、誰かがお前さんに尋ねたら、どう言うつもりだ。」三聖はすかさず叱りつけた。師、「何ということだ、わたしの仏法の真髄がこのもののわからぬ騙馬に台無しにされるとは。」言いおわるとそのままおなくなりになった。



(注1)「正法眼蔵

沖本・虚構と真実20

「ここにおけるキーワードは正法眼蔵つまり「真正の見解」であるが、『臨済録』の他の用例に照らせば、それは他からの干渉(人惑)を離れて自ら達得すべきものである。とすれぼ人から伝授し得るものでもなく、またいかなる限定も受けることはない。」



(注2)この段全体の理解について。柳田聖山『禅思想』(1975)177~178

「真の仏教徒なら、きっと自分の言葉があるはずである。万人に、万人の正法眼蔵がある。さきにいうように、そんな視点は馬祖にはじまる。大慧は、唐宋の禅者の一人一言を集めようとしたのである。

臨済録』によると、「わが滅後、わが正法眼蔵をつぶしてはならぬ」と臨済がいったとき、門人代表の三聖(さんしょう)がしゃしゃりでる。「いかでか先生の正法眼蔵をつぶせましょう」、というのである。臨済はその証拠をもとめる。三聖は一喝する。臨済はいう、「誰か知らん、わが正法眼蔵、この瞎驢のところでつぶれ去ろうとは」

まさしく絶望の言葉である。臨済は、三聖に自分の最期を見守ってほしかったにちがいない。ところが逆に三聖を見守る結果となった。かれはおのれの滅後でなしに、まだおのれの息のあるうちに、すでにおのれの正法眼蔵が、弟子によってつぶされていることを、まのあたりに見たのである。もう何も思いのこすことはなかった。正法眼蔵は、各自のものだ。かれはあらためて、そのことを確認する。「端然として坐滅す」とはそのことだ。姿勢をただして死んだのである。風顚漢の一生は、ここに幕をとじた。「親鸞は弟子一人ももたず候」というわけであろう。英雄の末期はさびしい。」





第3 「臨濟慧照禪師塔記」



師諱義玄、曹州南華人也。俗姓邢氏。幼而頴異、長以孝聞。及落髮受具、居於講肆、精究毘尼、博&C0-F0F3;經論。俄而歎曰、此濟世之醫方也、非教外別傳之旨。即更衣游方、首參黄檗、次謁大愚。其機縁語句、載于行録。既受黄檗印可、尋抵河北。鎭州城東南隅、臨滹沱河側、小院住持。其臨濟因地得名。時普化先在彼、佯狂混衆、聖凡莫測。師至即佐之。師正旺化、普化全身脱去。乃符仰山小釋迦之懸記也。適丁兵革、師即棄去。太尉默君和、於城中捨宅爲寺、亦以臨濟爲額、迎師居焉。後拂衣南邁、至河府。府主王常侍、延以師禮。住未幾、即來大名府興化寺、居于東堂。師無疾、忽一日攝衣據坐、與三聖問答畢、寂然而逝。時唐咸通八年丁亥、孟陬月十日也。門人以師全身、建塔于大名府西北隅。勅謚慧照禪師、塔號澄靈。合掌稽首、記師大略。

住鎭州保壽嗣法小師延沼謹書。
鎭州臨濟慧照禪師語録終。
住大名府興化嗣法小師存獎校勘
永享九年八月十五日板在法性寺東經所。





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特別になりたいという精神性と禅における日常への回帰

「仏教とは元来、仏の教えであり、また仏になるための教えである」(注1)などと言われます。

実際、瞑想等の仏教の実践をする人の中には、「悟り」などといった特別な状態になることを目指す人もいます。(注2)

しかし、このような特別になりたいという欲求には問題があります。

私が瞑想会等で出会った瞑想の実践者の人たちには、却って、精神的に病んでいるように見受けられる人も少なからずいました。

ツイッター等で目にする人たちも、瞑想をしたり、信仰を持っていたりする人たちよりも、生活の質が低いように思われることも少なくありません。

その理由の一つは、これまでもブログの記事に書いてきたような瞑想自体に扁桃体の活動を過度に低下させるなどの副作用であると考えられますが(注3)、そもそも「特別になりたい」という欲求それ自体にあるようにも思われます。



本稿の構成
1 平等性を否定し、特別になろうとすることがうつ病統合失調症を誘発する
2 不平等な社会における階級上位者により構成された初期仏教教団
3 日常に何の問題があるのか?
4 中国禅における日常への回帰
5 現代日本禅宗にも見られる日常への回帰
(1)概要
(2)臨済宗
(3)曹洞宗
6 仏教実践者の劣等感の問題




1 平等性を否定し、特別になろうとすることがうつ病統合失調症を誘発する



優越感等の「特別になりたい」という欲求の問題点を指摘した心理学者アルフレッド・アドラーは、「普通であることの勇気」を唱えました。(注4)

実際、優越感の充足や利益の獲得と行った「特別になりたい」という欲求が、うつ病統合失調症という代表的な精神障害と関連するということが判明してきています。



まず、うつ病に関しては、次のようなことが言われています。



「初期人類に近い暮らしを続けている(略)ハッザの人々は幸福度や生活への満足度が高く、人間関係も良好であり、うつ状態の程度は極めて低いことが示されたのです。

うつ病を発症させていない理由は、その生き方にあると考えられます。ハッザの人々は、得られた食料は共に暮らしている集団全員で平等に分け合う習慣を持っています。これは厳しい狩猟採集生活の下では、食料を得られるかどうかは最終的に運による部分も多く、得られたものは分かち合わなければ生きていけないという背景があります。平等で助け合って生きるという社会基盤が、孤独やうつ病を発生させない状況を作り出していると考えられるのです。(略)

近年、平等という社会基盤がうつ病と関係することを示唆する脳科学的研究が行われました。他者と金銭を分けるというゲームを実験として行い、自分が損をする場合、自分が得をする場合、他者と公平に分け合う場合という三つの状況で金銭を分けるときの扁桃体の活動量が比較検討されました。その結果、扁桃体の活動量は、自分が損をする場合に高まりましたが、それ以上に、自分が得をする場合に高まることが明らかになりました。

これは、集団の中で自分だけが損をした場合には、生存するために不利益な状況になったという直接的な危機による不安が扁桃体へ伝わり、活動を上昇させますが、自分が得をした場合には、他者に恨みや妬みといった悪感情を抱かせて集団から孤立するのではないかという間接的な危機による不安が扁桃体に伝わり、活動をより上昇させたためではないかと推察されます。

一方、この実験では、他者と公平に分け合う場合には扁桃体はほとんど活動しないことも明らかになりました。公平、すなわち平等という条件は扁桃体の過剰な活動を抑制し、扁桃体に起因するうつ病の発症を抑制すると考えられます。これらを踏まえると、ハッザの人々のように平等を社会基盤として狩猟採集生活を送っていた初期人類は、うつ病に悩まされることがなかったのではないかと推察されます。」

山本高穂「脳の進化から探るうつ病の起源」『第11回 日本うつ病学会市民公開講座・脳プロ公開シンポジウム in HIROSHIMA 報告書』
http://www.nips.ac.jp/srpbs/media/publication/140719_report.pdf

また、統合失調症に関しても、不平等に利益を受けることがその要因の一つとして挙げられています。



後進国では、統合失調症の発症は、裕福な階層に多いという。後進国では、貧しい階層ほど人とのつながりがしっかりと存在し、人間一人にかかるストレスがあまり大きくない。裕福な階層のほうが、精神的な孤立やストレスを味わいやすいのだと考えられる。

このように経済的、社会的環境も統合失調症を予防し、患者を支え、共存していく上で、とても重要なのである。」

(岡田尊『統合失調症』(2010年)193~194頁)



以上のとおり、自分の利益の獲得を目指すような平等な関係を否定する特別な状態を目指すようなことが、うつ病統合失調症の発症の要因となることからすると、特別な境地を目指して、瞑想等の実践をすることは、却って、うつ病統合失調症等の精神障害を誘発することになり得ると思われます。



2 不平等な社会における階級上位者により構成された初期仏教教団



先に引用した山本高穂「脳の進化から探るうつ病の起源」は、うつ病の起源は、農耕・牧畜が開始された頃から、不平等な社会が始まったことに見い出すことができ、近代の資本主義の発達期に貧富の差が拡大したことから、うつ病になる人が増大し、「文明が興った時代以降、人々は階級社会により強いストレスを受け、うつ病うつ状態に陥る人々が存在するようになったのではないかと推察されています」と指摘しますが(注5)、仏教の発生も、インドにおける経済の発展期におけるものであり(注6)、階級社会の発生・進展により、精神を病む人が増えたことが背景なのではないかとも思われます。

特に、仏教がカースト制を批判したなどということはよく言われますが(注7)、しかし、釈尊の初期教団に入信した者は、当時のカースト制の上位者であったとされることは、平等性を否定し、利益の実現を図れる人が、精神障害になり易いことの関係からすると、興味深く思われます。



「教団に出家した者の出身カーストを見ると、カーストの桎梏の苦しみをもっとも味わっているはずの賎民出身者が出家者の中に十指を数えるほどいたかどうかである。

仏教教団の推進者はバラモン出身の者たちであった。初期の教団の構成員はほとんどバラモン出身者たちであった。仏伝の中に賤民出身者の名前が数人出てくるが、それはおそらく珍しいケースとして記述されているのではないだろうか。」

(田上太秀『仏陀のいいたかったこと』(1983年)77頁)



ブッダの教団を形成した四衆(ししゅ)、つまり比丘(男性僧侶)、比丘尼(女性僧侶)、優婆塞(男性在家信者)、優婆夷(うばい)(女性信者)のうち、名前が伝えられている者たちの出身ヴァルナ(種姓・しゅしょう)、すなわちカーストの身分)を、赤沼智善が調査したことがあります。結果はバラモン(司祭)が二百十九名、クシャトリヤ(王族、武人)百二十八名、ヴァイシャ(一般市民)は百五十五名、シュードラ(被差別隷属民)は三十名。不明だったのが六百二十八名でした。男性では、やはりバラモン出の比丘が最も多く、次いでヴァイシャ。女性ではクシャトリヤ、ヴァイシャを出自とする比丘尼の数がバラモン出のそれを上回っています。出家、在家、あるいは男女の別に関わらず、シュードラ出身者は非常に少ない。

仏教は四姓平等、四つのヴァルナの平等を説くはずだったのに、ブッダの在世当時の教団の出身種姓の構成をみる限り、期待外れの感が漂います。」

宮崎哲弥発言。佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』(2017年)102頁)



「実際には初期仏教サンガ(僧侶組織)が、クシャトリア、ヴァイシャ出身者で占められていた事情もあり、王権(クシャトリア)による国家的保護や富裕なヴァイシャ階層による経済的支援が保証されていた。」

(小野澤正喜「タイ仏教社会の変動と宗教実践の再編―― 宗教的原理主義の展開と世俗内倫理――」『育英短期大学研究紀要第27号』17頁)

https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/7177/1/02-onozawa.pdf



不平等な階級社会で利益の獲得を目指す人たちが、うつ病統合失調症になり易いことからすると、初期仏教教団の中心がカースト制の上位者という階級社会での勝利者であった理由は、カースト制の上位者であることにより、却って精神的に病み、特別な救いを欲したからではないかと思われます。



3 日常に何の問題があるのか?



宗教は、一般的に、平凡な日常から離れることを目指します。

特別になることを希求するものといえるかと思います。

「すべて宗教とよばれるものは、なんらかの意味で、この日常的で世俗的な営みの世界にたいする否定から出発する。現実の生活をそのままに肯定するところには、真の宗教は生まれない」などとよく言われます(注8)。

現代の若者が、宗教に惹かれる動機として、典型的なものは、「好きな仕事について、結婚して家庭を築いたら、それなりに意味のある充実した人生を送れるのではないか」(注9)ということに対する疑問にあるようです。

私達の人生の価値は、多くの場合、仕事と家庭に規定されますが(注10)、特に、仏教が、本来、「労働」、そして、家庭を築く前提となる「生殖」を否定することは象徴的です(注11)。

確かに、私達の日常生活には、様々な問題がありますし、現実政治は、このような問題の解決を目指すものです。

しかし、問題があるとしても、そのために、なぜ、宗教を信仰する必要があるのでしょうか、また、特別な実践により、特別な境地に達する必要があるのでしょうか。

あらゆる宗教は、何らかの形で、精神的な病を抱えた人たちの当事者グループとしての性格があり、一般社会とは異なる価値観を持つ人たちが、同じような価値観を持つ人たちで集まることにより、精神的に支え合う点で、精神的な問題への対処法となる一面もあろうかと思います。(注12)

けれども、問題を抱える人が、多いので、少なからず、その集団内での問題が生じる例も多いとされます。(注13)

その典型が、カルト宗教であり、カルト宗教に入信したがために、日常が破戒され、普通に仕事や家庭を送るよりも人生を激しく毀損する例は枚挙にいとまがありません。

カルト宗教に惹かれ、そこから逃れられなくなる人の心理に、特別なものになりたい感情があるものとされ、ここからも、その問題性がわかります。



「自分もまた

特別でありたい

と願いながら、しかし、何の確信も自信ももてない存在にとって、「真実」を手に入れたと語る存在に追従し、その弟子となることは、自分もまた特別な出来事に立ち会う特別な存在だという錯覚を生む。

つまり

自分が特別な存在でありたいという願望

が、グルを信じ続けるしかないという状況に、その人を追いこんでいく。それを疑うことは、自分が生きてきた人生の意味を否定するようなものだからだ。(略)

自分が信じたグルが、偽物だということを受けいれることの困難さは、カルトや反社会的集団からの離脱を難しくする要因にもなっているし、そこから脱した後、一時的な危機がやってくる原因でもある」

岡田尊司『マインドコントロール増補改訂版』(2016年)58~60頁)



そもそも、仕事をし、家庭を築くという平凡な人間のあり方のどこに問題があるのかが問題とされなくてはなりません。

私達が、生存するには、何らかの食料生産・獲得につながる労働をしなければなりません。

また、私達の誰もが、生殖により生まれたのですから、家庭を否定することは、自分自身が存在していることを否定するものであり、生殖を否定するのであれば、自死するのが一貫するでしょう。

カルト宗教によくみられる仕事と家庭という平凡なあり方の否定が、却って大きな不幸を招く理由は、仕事と家庭が人間の極めて本質的な営為であるからであるように思われます。

何ら問題がない平凡な人間のあり方を否定することにこそ、ある種の病理、平凡な日常を離れて、特別になりたいとの欲求があるように思われます。



4 中国禅における日常への回帰



仏教は、元々「悟り」という特別な状態に達することを目的とする「特別になりたい」という欲求の実現を目指すものであり、現在も、上座仏教等のように、このような特別な状態になることを目的とする宗派も少なからず存在します。

しかし、このような「特別になりたい」という精神性に問題があることは、2に述べたとおりです。

そして、仏教と一言で言っても多様であり、日常を否定し、特別になりたいと希求する精神性に問題を抱くものもありました。

その典型が、中国唐代の禅ではないかと思います。



「激烈な聖性否定の精神が(略)平凡な日常性の肯定と表裏一体となっている点、そこに唐代禅の重要な特徴があるのであった。」

小川隆『書物誕生――あたらしい古典入門『臨済録』――禅の語録のことばと思想』(2008年)164頁



禅というと、坐禅等の修業によって、特別な境地に達するものというイメージがありますが、中国禅、特に、日本の臨済宗の基礎にある臨済義玄、さらに、師資関係を遡ると現れる馬祖道一ら、洪州宗と呼ばれる一派は、この種の坐禅等の実践により特別な境地に達することを否定し、日常のありのままのあり方を肯定する考え方に立っていました。



禅宗といえば一般に、開悟をめざして坐禅に励む宗教だという通念がある。(略)しかし、初期禅宗につづく唐代禅の盛期、すなわち馬祖以後のいわゆる「純禅の時代」の語録をひもといて看るならば、むしろ坐禅という行の解体と、それにかわる日常の営為の肯定が、その重要な基調となっていることに気づかされる。」

小川隆『神会 敦煌文献と初期の禅宗史 唐代の禅僧2』72頁)



たとえば、臨済義玄は、日本の臨済宗の基礎にあり、その語録である「臨済録」には、坐禅修行を否定する明瞭な記述があります。



「仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業なり。(略)
看経看教も亦た是れ造業。(略)
坐禅観行して、念漏を把捉(はしゃく)して放起せしめず、喧を厭い静を求む、是れ外道の法なり。」

(柳田聖山訳『臨済録』(2004年)127頁)



そして、このような坐禅等により、特別な境地に達することを否定し、日常をありのままに肯定する「聖性の否定は、臨済に限らず、禅宗一般の顕著な傾向のひとつである。」とされます。(注14)

「特別になりたい」という思考の問題性に鑑みると、聖性を否定し、日常をありのままに肯定する唐代禅は、現代的かつ健全な発想を思われます。



5 現代日本禅宗にも見られる日常への回帰



(1)概要



4に述べた唐代の「聖性の否定と日常の肯定」を中核とする禅思想は、宋代に入ると、廃れ、代わって、「見性」と呼ばれる「悟り」を目指すものが主流となっていきました。



「宋代以降の中国禅宗において、最終的に主流派となった大慧宗杲の「看話禅」は,「悟り」の実在を強調することに特徴があった。それはそれ以前の

唐代禅が修行と悟りの価値を否定

し、作為を加えないりのままの本性こそが仏性であるという「無証無修」の立場に立っていたこと、さらにそれを引き継いで北宋初の禅林に流行した「無事禅」と呼ばれる思想傾向と較べ、きわめて特徴的であった。」

(土屋太祐「唐宋禅宗思想史の研究成果報告書」(2016年)1の(3))

https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-25770016/25770016seika.pdf



不勉強で、その経緯を明らかにした史料を知りません。

しかし、禅や仏教に興味を持つ人は、何か日常に不満があり、特別な境地に達したいという人がほとんどであると思われ、臨済義玄のようなカリスマがいた時代は、彼らとの対話=問答により、正気になって、日常へ回帰していったのではないかと思われますが、そのようなカリスマがいなくなれば、日常に問題があるはずだと思い込んでいる人には、「日常に問題はない」と言われても、共感されず、坐禅等の修業により、特別な心理状態に達することを標榜する勢力の方が支持され、唐代禅のような無事禅は廃れたのではないかと思われます。

こうして、日本に流入されたものは、「見性」とも呼ばれる悟りの境地を目指す宋朝禅であり、それが現代の臨済宗等の禅宗につながりましたが、その基礎には、馬祖や臨済の唐代禅があることから、日常性の肯定がその基調に見え隠れします。

実際、臨済義玄の語録である臨済録は、日本臨済宗においても、宗門第一の書であるとされ(注15)、臨済を遡って現れる馬祖道一も、日本臨済宗において、重要な人物とされます(注16)。

以下、日本の禅宗にも少なからず認められる聖性の否定、日常の肯定の系譜について触れていきます。



(2)臨済宗



臨済宗では、悟りの体験とされる見性を目指して、坐禅等の修行がされますが、自他不二の体認を目指す向上の修行の後には、日常世界に戻るための向下への修行をしなくてはならないとされ、最終的には日常性の肯定が目指されます。



「苦労に苦労を重ねて到達した悟りの境地はどうなるのかといえば、例えば「平常心(びょうじょうしん)是れ道(どう)」(略)あるいは『龐居士語録』に「神通及び妙用、水を運び柴を搬(はこ)ぶ」などという如く

日常への回帰に他ならない

のである。」

沖本克己・角田恵理子『禅語の茶掛を読む辞典』(2002年)189頁)



さらに、先の「臨済録」の解釈についても、臨済宗の指導者の中には、坐禅を不要とする無事禅の趣旨を素直に読み取る人もいます。



「世間の人は、禅宗では修行をして佛になる、修行をして悟りを開くのだと言うのであるが、とんでもない間違いじゃ。二十年や三十年修行して凡夫が佛になれるわけはない。修行をしてみたところが煩悩だらけだ。飯を食わねば腹は減る。寝ずにおるというわけにもいかん。

そうではない。人々は修行せんでも、ちゃんと立派なものを持っておると決定(けつじょう)せねばいかん。悟りを開かんでも佛性はちゃんとあると徹底せねばいかん。ご信心をいただかんでも、如来さまはちゃんと救うてくださると決定せねばいかん。そこが衆生本来佛なりということだ。修行してから佛になるのではない。悟ってから佛になるというのではない。オギャーと生まれた時から、佛であり、みんなお助けをいただいているのである。そこを誤解してはいかん。」

山田無文臨済録』(1984年)151頁)



また、円覚寺派の管長をしていた朝比奈宗源も、坐禅の修行は本来いらないと述べます。



「以前、私が禅を修行しなくては、佛道の真実はわからないとだけ説いていた頃、郷里へ帰り親戚や友達の親しい人々をまじえた聴衆を相手に、説教をしましたら、年老いた従兄が、佛道のありがたいことはわかったが、私等にはそうした修行はとてもできない。本当のことはわからずに死ぬのかな、となげきました。私はこれが淋しくもあり、悲しくもありました。後に私はいま説くように、修行しなくても、本来佛心の中にいるのだから、死後も絶対安心してよいと、はっきり言い切る信念に達しました。」

(朝比奈宗源『佛心』(1959年)39~40頁)



私自身は、仏教の実践については、治療行為に類するものであると捉えることがその適切な理解をやすいと思っており、一見、見性という特別な体験を目指す臨済禅も、特別なものを欲している人に、修行を通して、特別な体験をさせることにより、その基礎にある劣等感の類を充足させた後、向下により、日常世界への再編成を目指すものではないかと考えています。

ベトナム臨済宗の僧侶であるティク・ナット・ハンの次の指摘は、この点が明瞭です。



「瞑想は社会から離れ、社会から逃げ出すことではなく、社会への復帰の準備をすることです。」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』
(原著1988年、中公文庫版1999年)68頁)



このように、瞑想等の仏教の実践が本来的に日常への回帰を目指すものであるとすれば、坐禅等の特別なものを求めることは、多くの人の人生にとって不要であるということになるでしょう。

実際、ほとんどの人は、禅の修行などはしませんし、誰もがやらなくてはならないということでは困ります。

この点、日本の禅宗では、禅の修行者が僧堂にやってきた際、庭詰・担過詰と呼ばれる手続が行われ、入門を容易に許さないものとされます。現在、庭詰・担過詰は、現在では、形式化されているといわれますが、坐禅等の修行が本来不要であることからすれば、示唆的なことです。

瞑想や坐禅等の仏教の実践の本質は、治療的なものであり、病んでいない人には、必要のないものというべきでしょう(注17)。



(3)曹洞宗



曹洞宗については、その開祖である道元の著作に、「見性」を否定するような内容があることから、坐禅を形式的なものと捉え、特別なものと追求すること自体を問題にするのも有力であると思われます。

曹洞宗でよく知られている沢木興道がその典型の一人と思います。



「高祖大師の『弁道法』の中に

「群を抜けて益なし……乃至未だ大悟を待たず」

とある。私も、高祖の禅に参じて、悟ろう悟ろうと思って、山の中に籠って夜もろくろく眠らずに一生懸命やってきたところへ、この言葉にぶつかったのだから驚いた。今まで群を抜けようと骨折ってきたのに、群を抜けて益なしでは、骨折り損になるわけである。

ところが実際吾々は、法界の含識(衆生)と同じく菩提を円かにするとだとか、皆共成仏道だとか言って、決して自分だけ抜けがけして極楽に行くことが仏道ではないことは唱えているのである。それでいて、人を押しのけて自分だけ悟ろうという気持ちになることがある。しかしこれは決して悟ったのでも何でもない。それを誡められるために「群を抜けて益なし、衆(しゅ)に違ふは儀にあらず」と言われたのである。『弁道法』(略)最後の「未だ大悟を待たず」というに至っては、吾々の日常の行は悟るためではない、即ち待悟の禅ではないということがはっきり分かる。」

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』(原典1939年)13~14頁)

私は、道元については、十分理解できていませんし、所々難しく考えすぎているのではないかと思われるところもあり、必ずしも支持しませんが、「群を抜けて益なし」という発想は、言葉尻としては、アドラーの「普通であることの勇気」につながるものを感じ好ましく思います。

酒井得元は、このような沢木興道の立場を更に敷衍して、まさに「特別なものはいらない」と言います。



「私は宗門において最も大切なことは

日常なんともなく生きているということ、このことが、何よりも有難い

ことであることを、心から感ずることだったのです。(略)全部が仏法であり

特別なものは、何に一つもなかった

のです。したがって仏法は特別な神がかり的な自己満足的修行することではなかったのです。何故ならば、一切衆生悉有仏性だからです。したがって宇宙の全てが仏性、即ち真実です。故にこれこそはという

特別であるものは、全てあってはならぬこと

です。こうしてみると、全てが仏性であり真実であってみれば、特に外道というものがあるわけではないのです。」

(酒井得元『永平広録について』21~23頁)

https://zenken.agu.ac.jp/research/11/06.pdf



同じ系譜ですが、曹洞宗の管長をしていた岡田宜法は、「禅は人間としての生活を出ない。禅の目標は人間完成にある。悟りを強要するような禅は、見性流の禅であつて、超人生活をあこがれる人々の迷妄である。」と言い(注18)、駒沢大学の初代学長であった忽滑谷快天も、「吾人が死を逃れんとする一切の努力、一切の企図、一切の工夫は全然無用である、吾人は斯く無用の企図に身心を磨礱せんより寧ろ有益なる事業に貴重なる生命を捧げたら宜しかろう」(注19)と特別な修行をするのではなく、日常の生活活動に徹するように教導します。



以上のような捉え方は、健全なものであると思いますが、ツイッターで、曹洞宗の僧侶の人のつぶやきを見ると、特別な境地に対する憧れのようなものを感じるものもあります。

実際、曹洞宗においては、室町時代に入った頃には、正法眼蔵は読まれなくなり、現代の曹洞宗は、江戸中期以降に、正法眼蔵等の道元の著作に基づいて、再構成されたものですから(注20)、沢木興道や酒井得元の読み方がどの程度、正確なものであったかはわかりません。

そもそも、「弁道法」自体、僧堂での生活のあり方を述べたものであり、その記述の射程が僧堂以外の一般的なあり方にどの程度及ぶのかの問題はあるようにも思われます。

特に、僧侶として出家するという行為自体が日常を離れる「群を抜ける」ものであり、そうすると、僧侶として出家するというあり方の是非も問題になるようにも思われます。

このようなことから、曹洞宗でも、悟りに類する何らかの特別な境地を目指すような考え方も息を吹き返していると言われています。



「悟り体験批判に対しては、曹洞宗内部からの逆批判も提起されている。すでに戦前から原田祖岳(略)、渡辺玄宗のような僧堂師家から逆批判めいた声が上げられていたのであるが、本格的な逆批判が提起されるようになったのは、戦後、悟り体験批判の急先鋒であった駒澤大学宗学者たちが引退し始めてからである。(略)近年においても、角田泰隆が次のように述べている。

道元禅師の修証観において、無所得無所悟の強調が、いかにも証悟の否定であるかのように理解されてきた面もあるが、けっしてそうではないことは明白である。(略)

駒澤大学における道元研究の第一人者、角田がこのように発言したことの意味は重い。あるいは、曹洞宗においても、いずれ、悟り体験批判は鎮静化していくかもしれない。少なくとも、道元の名を借りての悟り体験批判は、もはや、通用しなくなる可能性が高い。」

(大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』(2019年)268~269頁)



私自身は、沢木興道等の近代曹洞禅の論者の著書を読み、その合理性・非神秘性から、曹洞宗に好感を抱いていた時期もありましたが、先にも述べたツイッター上の曹洞宗僧侶の発言から、曹洞宗の内部も、非合理主義・神秘主義が蔓延しつつあるのではないかと疑問を抱くようになりました。



6 特別になることではなく、自足へ



先に「「瞑想/仏教と家族」に関する素描」(注21)と「「瞑想/仏教と神経的多様性」に関する素描」(注22)に述べたとおり、仏教や瞑想に興味を抱く人は、愛着関係の問題や神経的多様性の観点から、社会的に不適合になりやすいことから、劣等感を抱きやすく、その補償をする必要にせまられ、特別な心理状態を希求するように思われます。

このような精神性に、問題があることは明らかで、臨済宗において、いったんは、特別な体験をして、劣等感を補償した後、向下の修行を通し、日常性に引き下ろしたり、また、臨済宗だけではなく、曹洞宗においても、「名利」の追求を強く否定する理由は、優越感の充足を求める精神性に対する問題意識からくるものとすれば、合理的であるように思います。

鈴木大拙に次の言葉があります。



「学校をやめたころから、なんとなく人生に疑いを抱き、草木は無心に成育し花を開いて自足しているのに、人の生活はなぜそのようにならないのであろうか?こんな考えが起ってきたのが、宗教に入る第一歩であった」

(秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』(1992年)54頁)



問題は、劣等感から、自分自身のあり方に、自足できないところにあるのではないでしょうか。

中国から現代日本に至るまで、禅は、坐禅等の特別な修行によって、特別になることを目指すという一般的なイメージ(どうも現代の禅僧もそのような観念の人が多いように感じます)がありますが、その主流は、特別になることではなく、日常へ自足することを目指していたもののように思われます。



本文以上



(注1)竹村牧男「仏教は本当に意味があるのか」(1997年)16頁

(注2)「悟り」は主に大乗仏教的な「自他不二の体験」又は上座仏教的な「貪瞋痴の滅尽」と理解されますが、その精神状態の捉え方については、次の当ブログの記事を参照
扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」の3(2)
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342
「禅の修行は禅的人格を生み出せるか~瞑想と情動発現の低下」2及び3
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/02/14/211628

(注3)瞑想の副作用については、次の当ブログの記事を参照
「【参考資料】瞑想の副作用」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/14/210348

(注4)岸見一郎『アドラー心理学入門』(1999年)63頁

アドラー心理学では「普通であることの勇気」という表現をしますが、普通でいる勇気がないので最初は特別よくなろうとし、次いでもしもこれが果たせない場合は、特別に悪くなろうとするのです。そうすることによって安直に「成功と優越性」を手に入れることができる、と考えます。」

(注5)山本高穂「脳の進化から探るうつ病の起源」『第11回 日本うつ病学会市民公開講座・脳プロ公開シンポジウム in HIROSHIMA 報告書』(2014年)7頁
http://www.nips.ac.jp/srpbs/media/publication/140719_report.pdf

「いつ頃から人類はうつ病に苦しむようになったのでしょうか。番組の取材によって農耕・牧畜の始まりが大きな転換点だと分かってきました。

狩猟採集生活から農耕を開始したことで、人々は長期的に計画して多くの収穫を得られるようになり、食料以外のものも「富」として蓄積していくようになりました。それと同時に、持つ者と持たざる者の格差が発生してきたことが考えられます。世界最古のメソポタミア文明の遺跡から発掘された紀元前2500年前の考古学的資料からは、ハッザの人々に見られるような平等な社会は崩壊し、権力者と労働者が明確に分かれる階級社会が既に成立していたことが読みとれます。また、古代ギリシャ時代の医師や科学者たちが残した文献には、現代の「メランコリー(憂うつ)」の語源となる言葉が認められ、文明が興った時代以降、人々は階級社会により強いストレスを受け、うつ病うつ状態に陥る人々が存在するようになったのではないかと推察されています。

さらに、文明による階級社会成立後も、うつ病を拡大させる要因となる人類史上の出来事は続きました。18世紀には産業革命が起こり、人々の労働時間は急激に増加しました。そして、20世紀以降では、都市が急速に発達し、人と人との結びつきが希薄化しています。産業革命による過労や、都市化による孤独なども要因となり、うつ病に悩まされる人々を益々増大させていると考えられます。」

(注6)リチャード・ゴンブリッチ浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』(2018年)59~60頁

「インドにおける都市化の第二期の初期において、仏教が興隆したことに同意している。(略)この都市化は、農産物の余剰生産に伴って生じたのに違いなく、社会と経済の根本的変化へと繋がった。比較的大きな都市(略)は、宮廷と貴族、および官僚階級を伴った都市国家へと発展した。余剰の農産物はさらなる規模の通称を促し、そのことがより遠方の諸社会との接触と、文化的地平の拡大をもたらした。交易商人たちは帳簿をつけ、王たちは法を施行した。

(略)仏教が、とりわけ交易商人のような新興の社会階級を惹きつけたことは、初期の文献と、少し下った時代に由来する考古学的史料の双方から、明らかである。」

(注7)仏教がカースト制を否定したなどということは、よく言われますが、実際には、これが教壇組織に食い込んでいます。

ブッダが現実世界の人生を、より一層生きるに値するものとなしえたかどうかは、大いに議論の余地があるところだが、これは彼の教えの意図せぬ結果であったことは確かである。彼のことをある種の社会主義者だとするのは、時代錯誤も甚だしい。彼は決して社会的不平等に反対したのではなく、ただそのことが救いとは無関係だと宣べたまでである。彼は決してカースト制度を廃止しようとしたわけでも、奴隷制度をなくそうとしたわけでもなかった。例えば、有名な説法である『沙門果経』(略)が、奴隷がその隷属を逃れて教団に入ることの実際的な利益を強調する。その一方で、現実には逃亡奴隷の入団は許されていなかった。その上、古代インドでは教団そのものの内部には、カーストも他の形態の社会階層もなかったのだが、やがて教団それ自体(在俗の)奴隷を所有するようになった。

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』(2005年)52~53頁)

スリランカは大変カースト制の厳しい教団組織であります。一番高いカーストじゃないとスリランカの、そのタイから持ってきたサンガと言いますか、サイアム・ニカーヤ(シャム・ニカーヤ)と呼んでいるのですが、ここは最上位のカーストじゃないとサーマネラ(得度)できません。(略)

スリランカは多くの人が最も原始仏教の姿を今日まできちんと受け継いでいると評価する、そういう仏教であります。しかし、実は建てまえの話(略)

とにかくここで少し注目しましたのは、そのカースト制度、大変厳しい。それで多分、今日は見えてないのですが、短大の能仁先生は仏教がスリランカに伝わる前の頃からヴァルナ制を仏教では認めていてというふうな可能性も示唆されています。同じ仏教徒言っても、バラモンとクシャトリアの仏教と、それからヴァイシャとシュードラの仏教はちょっと説く内容が違っていてもいいのだというような話があるということです。」

(中村尚司「報告Ⅰ 中村尚司「東南アジア上座仏教の現状と課題」龍谷大学アジア仏教文化研究センター『2010年度 第1回 国内シンポジウムプロシーディングス「アジア仏教の現在」』6~8ページ)

(注8)森三樹三郎『老子荘子』(1977年)340頁

(注9)瓜生崇『なぜ人はカルトに惹かれるのか――脱会支援の場から』(2020年)10頁

(注10)「仕事と家庭は人生の両輪です。」(西内啓『サラリーマンの悩みのほとんどにはすでに学問的な「答え」が出ている』(2012年)222頁)

(注11)魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』(2015年)35頁

「ゴータマ・ブッダの教えは、現代日本人である私たちにとっても、「人間として正しく生きる道」であるかどうか、ということである。

結論から言えば、そのように彼の教えを解釈することは難しい。(略)ゴータマ・ブッダの教説は、その目的を達成しようとする者に「労働と生殖の放棄」を要求するものであるが、しかるに生殖は生き物が普遍的に求めるものであるし、労働は人間が社会を形成し、その生存を成り立たせ、関係の中で自己を実現するために不可欠なものであるからだ」

(注12)サンガの当事者グループ制という観点からは、佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』(2017年)91頁の次の指摘が鋭い。

「出家とは、俗世間で死ぬか生きるかの状態になってしまった人たちが、同じような価値観を持った者同士で身を寄せ合って作った修行の世界へ入ること。出家の本当の意味は、言ってみれば「自殺する人を救う」ところにあるわけです。」

(注13)出家者集団の問題性については、差し当たり、次の各文献を参照

「瞑想センターに入るまえ、瞑想の内に平和を見いだすことを、彼らは望んでいました。ところが、道を求めつつ、以前とは違った社会をつくり、この社会が、大社会よりも、もっとむずかしいものであることに気づきます。それが
社会から疎外されたひとたちの集まり
だからです。数年の後、瞑想センターにやってくるまえよりも、もっとひどい欲求不満を起します。」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』
72頁)

「私は、青年時代から在家の居士として修行を始め、終戦の年、四十二歳の時に出家した。その頃でさえ寺の子弟というのは何となく陰惨だった。在家の私は、ひそかに雲水たちを羨望していた。ああいう生活はいいな、明けても暮れても坐禅三昧でおられる。ああいう生活が羨ましいなと思っていた。ところが、さて自分がその中に入ってみると、何とこの世界は陰惨な世界か。御殿女中の腐ったみたい。陰険で、どうもカラリとした男性的なところがない。何とも嫌なところだなと思ったことがある。」

(大森曹玄『驢鞍橋講話』(1986年)319~320頁)






(注14)小川隆『書物誕生――あたらしい古典入門『臨済録』――禅の語録のことばと思想』(2008年11月18日)156頁

同書の次の記述もわかりやすい。

「激烈な聖性否定の精神がこうした平凡な日常性の肯定と表裏一体となっている点、そこに唐代禅の重要な特徴があるのであった。」(164頁)

(注15)「何というても宗門では、この臨済録が背骨である。この臨済録をよく拝読して、会得しておかんというと、臨済下の衲僧ということは言えんはずである。」(山田無文臨済録』(1984年)i頁)

(注16)伊藤古鑑「馬祖大師の禅」『禅学研究』第26号(1936年)12月25日)9~10頁

https://hu.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=25&block_id=79&item_id=607&item_no=1

「馬祖大師は六租已後に於ける禅海の第一人者であつて、禅宗と云ふ宗旨を高くを天下に宣揚し、眞個の衲子(のうす)を打出すると云ふことに力めた人で、少なくも今日の禅宗からは、馬租大師を以て一大恩人として尊崇しなければならぬと思ふ。素より達磨大師の功績も、六祖大師の偉大も認めないと云ふのではない。たゞ今日の禅宗より逆に、深く其の出発点を考へて見た時には、或は更に偉大なる思想なり功績なりを此の禅海に残されたのは此の馬租大師ではなからうか。或る意味に於ては、馬租大師の禅が今日の禅宗、特に臨済の宗風を判然と画き出さしめた観があるので、この馬租大師を忘れて、今日の禅を語り、今日の臨濟宗と云ふ宗旨を論することは出来ないものと信ずる。」

(注17)以前のブログの記事にも引用しましたが、仏教の治療モデルと私がいうものは、次のようなものです。

1 佐々木閑『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』(2012年)29頁

「仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。ですから、病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院させるようなことをしないのと同じく、仏教も、苦しみを感じていない人まで無理矢理信者に引っ張り込もうとはしません。」

2 柳田聖山『禅思想』(1975年)37~38頁

「道心を起すことが、巧偽をひき起す。道心を起すことが、じつはすでに道に背くわざなのだ。(略)もともと坐禅は起こった心を静めるための対症療法であった。(略)応病与薬の法であった。乱れた心を制する技術である。応病与薬の法であった。『二入四行論』の雑録に、つぎのような問答がある。

ある人が顕禅師にたずねた、「何を薬というのです」
答、「一切の大乗は、病気に対する応急処置にすぎぬ。心そのものが病気を起さなければ、どうして病気に対する薬がいろう。有という病気に対して空無という薬を説き、有我という病気に対して無我という薬を説き……、迷いに対して悟りを説く。これらはすべて、病気に対する応急処置である。病まぬのに、どうして薬がいろう」

顕禅師もまた伝記の判らぬ人だが、その主張は縁法師と変わらぬ。(略)病まぬのに、薬はいらない。病まぬ人に薬を与えるのは、わざわざ病人をつくるようなものだ。心が起らぬのに、強いて心を起すにひとしい。われわれは、とかく病を実体化しやすい。病を実体化することから、薬の実体化が始まる。(略)病の実体化することの危うさは知りやすい。薬を実体化することの怖さは気づきにくい。」

(注18)大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』(2019年)258頁

(注19)滑谷快天『禅の妙味』(1927年)13頁

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1110187

(注20)松波直弘「江戸期曹洞宗における三教一致思想――『曹洞護国辨』に関して――」『学習院大学文学部研究年報』59号(2012年)1~2頁
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2720&item_no=1&page_id=13&block_id=21

「江戸期曹洞宗の思想状況は、「百花繚乱」とも称される。(略)

ただ、「百花繚乱」は美麗な形容であって、別の角度から見れば、宗門内には「諸言乱立」という感も否めない。幕府主導の宗教統制によって、「曹洞宗」という大きな外枠は出来たものの、その中身は穏やかな水面とはいかなかった。(略)

一つの落とし所となったのが、宗祖道元の言葉である。実は、道元の主著とされる『正法眼蔵』は、宗門の宝として秘蔵こそされども、それを元に学問をするという流れは形成されていなかった。そこで、江戸期において、「曹洞宗」という宗門の規矩を定めるために「復古」されたのが、『正法眼蔵』であった。

しかし、宗祖の言葉が復古されたからといって、それで何事もなく論争が終息するわけでもない。室町期以降、永きに亘って学問対象となってこなかったということは、宗門としての『正法眼蔵』の読み方が規定されていなかったことと同義である。したがって、〈復古された『正法眼蔵』〉は、そこに様々な読みや解釈を生じさせることともなった。こうして、江戸期の曹洞宗は、宗祖・道元の『正法眼蔵』という一際大輪の華を加え、多様な宗論・思想が咲き乱れる様相となっていったのである。」

(注21)特に「5 親子関係の問題と劣等感=優越感の補償への渇望」を参照
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/05/08/211131

(注22)特に「8 高機能発達障害における劣等感と超越性の希求」を参照
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/05/15/211246

(注23)鈴木大拙『禅百題』(1943年)48頁の次の記述も自足という点では味わい深い

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040811

「人間がちょっと足を止めたのが禍の本なのである。猫や犬のように、松や竹のように

所謂その性のままに動いて居れば、何の面倒もなかったのだ。

それが何かの調子で一寸車を駐めて紅葉を見たから、今までのように行けなくなった。自分と自分に対するものとが分かれた。問が出る、名が出来る。一旦こうなれば止まるということを知らぬ。自分で作ったものにだまされる。向こうに働きかけて、その働きが又向こうから返ってくる。一波動いて千波萬浪が次から次からと動く。面白いと云ってもよし、面倒だと見てもよい。そのはじめは、汝が問を出したからである。」





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「瞑想、人格意識、言語、そして、発達障害」に関する私論/試論

本稿の構成

1 はじめに
2 扁桃体と自己防衛本能
3 人格意識の起源=自己の肉体の維持
4 言語(概念)の起源=自己の肉体の維持
5 人格意識及び言語活動による不安感の生成、そして、瞑想による改善
6 発達障害との関係



1 はじめに



瞑想、言語、人格意識(自我同一性)及び発達障害との関係について、質問を受けました。

瞑想、言語、人格意識の関連性については、以前から考えてはいたのですが、はっきりとした裏付けとなる資料に接していないことから、整理がついていなかったところ、回答を考えるうちに相当量になり、この際、広く指摘や批判を受けて、内容を充実させようと思い、ブログの記事として公開することとしました。

ちなみに、数日前にPCを壊してしまったため、スマートフォンで記事を書いていることから、参照文献等は全くなく、近日中にPCを購入の上、補充したいと思います。



2 扁桃体と自己防衛本能



瞑想の生理学的な効果については、不安感の中枢と呼ばれる脳の扁桃体の活動を低下を主たるものとみています。
この機序に関する文献上の根拠は

扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342

の記事の引用を参照してください。

扁桃体は自己防衛本能とも関わりますが、私は、人格意識及び言語とは、自己防衛本能と関わるのではないかと考えています(以下は文献上の根拠のない私の考えです)。



3 人格意識の起源=自己の肉体の維持



人格意識は、のっぺりといた世界から自我を区分する意識ですが、原初的には、補食により、肉体の活動を維持するために、形成されたのではないかと思います。

つまり、何か食料になるものを捉えたときにそれをどこに投入すべきなのか。

肉体を維持するためには、のっぺりとした世界から区分された食料を投入する部分が特定できなくてはなりません。

Aが食料を握持して、Bの体内に投入しても、Aの肉体は維持できません。

そこで、Aは、世界の中から区分されたAという自己を特定する必要がある。

人格意識は、このような自己の肉体を維持するため、これを世界から区分する必要から生まれたのではないかと思います。



4 言語(概念)の起源=自己の肉体の維持



言語、すなわち概念も、他者とのコミュニケーション以前に肉体の生存のため、のっぺりとした世界を区分する必要から生まれたものと思います。

まず、自己の肉体を維持するためには、先にのべたとおり、自己が世界から区分されたものとして概念化される必要があります。

また、自己の肉体を維持するためには、のっぺりとした世界を区分して、その中から食料になるものを概念化する必要もあります。

さらに、自己の肉体を維持するためには、食料の補食等の利益を享受し、肉体の破壊をもたらす不利益を避けなくてはなりませんが、その予測を可能にするためには、具体的事象を帰納して、法則性を見いだす必要がありますが、そのためにも、世界の中に生起するのっぺりとした現象を区分し、その上、単に区分するだけではなく、その区分された事象について共通の特性を見い出し、その集合をやはり概念化する必要があります。

初心者向きの帰納法の例として、「カラスAは黒い、カラスBは黒い、カラスCは黒い…したがって、カラスは黒い」がありますが、カラスAもカラスBも個別具体的な存在でしかないところ、それをカラスという概念で括る必要があります。



5 人格意識及び言語活動による不安感の生成、そして、瞑想による改善



人格意識も、言語も、このような肉体の維持の必要性=自己防衛本能に由来するものと思われますが、自己防衛の意識の根底にあるのは、不安感です。

私たちは、未来において、利益を得、不利益を避ける自己防衛本能を働かせれば働かせるほど、その背後にある不安感を募らせるという構造があるのではないかと思われます。

利益の獲得が扁桃体の活動を活性化させ、うつ病になり易くなる機序には、このような利益を得ようと人格意識や言語的な解析能力を働かせることにもあるのではないかというのが今のところの試論です。

瞑想は、このように人格意識や言語活動の多用により活性化した扁桃体の活動を低下させる点で、人格意識や言語と関連を持つのではないかと思います。



6 発達障害との関係



瞑想と発達障害との関係については

「瞑想/仏教と神経的多様性」の素描
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/05/15/211246

で詳述したとおりですが、発達障害の場合には、言語感覚の相違から、他者とのコミュニケーションの不全が起こり勝ちになるでしょうから、言語活動をすることに疲弊しやすくなるように思われます。

また、「偽装」をするための行動の予測をするに当たっては、具体的な事象の概念化が必要不可欠であり、その作業の過剰に疲弊しやすくなるのではないでしょうか。

もとより、感覚の違う他者に合わせることそれ事態が自己防衛本能に由来するものですから、負の満場を持ちやすくなり、扁桃体の活動を低下させるための瞑想が有用になる場面も多くなるのではないかと思われます。





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「瞑想/仏教と神経的多様性」に関する素描

「人が仏教や瞑想にはまりこむ要因は何か?」が私の個人的なテーマの一つです。

単純な興味のほか、仏教や瞑想にはまりこむ人に、何らかの心の問題があるのは間違いなく、その要因を探ることは、私自身や私の子供等家族に心の問題が生じることを防ぐ方法を検討することに繋がるからです。

人間の発達は、遺伝(器質的要因)と環境の相互作用によるものとされます。

仏教的に言うなら、前者が因で、後者が縁でしょうか。

では、瞑想や仏教にはまりこんでしまう人格を形成させる発達上の器質的要因と環境的要因は何か?

本ブログの記事のうち

「瞑想/仏教と家族」に関する素描
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/05/08/211131

は後者の問題を扱ったものですが、本稿は前者の問題を扱うものです。



本稿の構成

1 神経的多様性とは何か?
2 瞑想会や坐禅会での「頭がよいのに、生きづらさを抱える人」たちとの出会い
3 自閉症と「偽装」
4 自閉症者の高度な記憶力と論理的思考力
5 理系の相対的な自閉症傾向と「救い」を欲する精神性
6 自閉症傾向と「一切皆苦」的世界観
7 発達障害傾向の潜在
8 高機能発達障害における劣等感と超越性の希求
9 小括、そして、発達障害愛着障害との関係~「複雑性PTSD」
10(補論)仏伝に見る釈尊発達障害の可能性



1 神経的多様性とは何か?



神経的多様性は、neurodiversity(ニューロダイバーシティ)の訳語であり、自閉症等の発達障害の研究の中で産み出された概念です。

現在、発達障害は、先天的な脳機能の問題であると理解されています。

簡単にいえば、脳内のネットワーク構造は、一人一人生物学的な相違があります。

そして、そのネットワークの構造が少数派に属してしまうと、社会の多くの人とのコミュニケーションがうまくいかなくなります。(注1)

誰にでも、脳内のネットワークの相違があることの一番分かりやすい例は、「味覚」であると思います。

複数の人が、全く同じものを食べても、おいしい、まずい様々な意見の出ることはよくあります。

このような感覚に関する直観的判断に優劣はありませんが、多数派と少数派とでは、少数派の直観はなぜか否定される。

同じ状況に直面しても、その状況に対して、多数派と違う反応をしてしまうと、「空気が読めない」などと非難や蔑視をされる。

生物学的な脳の構造は、その本人の責任ではありませんし、相違する脳内のネットワーク相互間で、優劣はないはずですから、近時、発達障害は、健康な状態と比較して悪いというような純粋な障害の問題ではなく、社会的な差別の問題であるとの見方が有力になってきています。

このような脳内のネットワーク構造の相違や、この相違に着目する考え方が神経
的多様性と呼ばれています。



2 瞑想会や坐禅会での「頭がよいのに、生きづらさを抱える人」たちとの出会い



私は、複数の瞑想会や坐禅会をめぐる中で、「頭がよいのに、生きづらさを抱える人」に出会うことがよくありました。

たとえば、若い人と話してみると、私よりも、色々なことを知っていたり、考えていたりして、感心することが少なからずあったのですが、非正規雇用労働者であったり、無職であったりする人がほとんどでした。

現代は、非正規雇用労働者が多く、単なる社会の縮図であるとも思えなくもないのですが、それにしても、頭がよいのに、人生がうまくいっていない感じのする人が多くいました。

単純に考えれば、頭がよければ問題解決も容易なはずであり、世間的な意味で人生における成功をしやすいはずであるのに、なぜか生きづらさを抱える。

そんな人が多くいる矛盾がわたしには不思議でした。

また、見た目社会的に成功していように見える人でも、深く話を聴いていくと、心の底に、鬱積したものを抱えていることがわかり、見た目は、社会的に適応しているけれども、生きづらさを抱えている人が多くいることがわかりました。

私自身も、学校的な成績はよく、そのお陰もあって、現在の仕事に就き、自慢話のような話になりますが、子ども4人を大学まで進学させることに不安を感じない程度の所得を得ることが可能になりました。

しかし、人付き合いが苦手であることから、生きづらさを感じるところがあり、そのことが、瞑想や仏教に興味を持つ理由の一つになったのだと思います。

このような「頭がよいのに生きづらさを抱えるのはなぜか」との疑問を抱く中で、ボランティアで傾聴を始めたことをきっかけに自閉症に関する本を読み出したことが、本稿で述べるような着想の発端となりました。



3 自閉症と「偽装」



発達障害にも、様々な種類がありますが、その中でも、自閉症に関して、参考になる点が多くあると感じます。

自閉症の診断を受ける人でも、誰もが、見た目で精神的な問題とわかるような行動をとる訳ではありません。

当事者の方は、よく「偽装」などといいますが、自閉症の人も、知的障害がなければ、後天的な学習によって、見た目としては、普通の人のように振る舞うことができるようになります。



自閉症で知能が平均かそれ以上の人は、幼いころからかなり上手にフツーを装うことを覚える。が、それでもときどきポカをする。親には扱いにくく、また周囲から疎んじられ、学校でいじめられ、職場で排除されやすい」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』12頁)



しかし、「普通の人」に合わせることは大変ストレスが貯まることであり、近時、過剰適応として問題となっています。

また、このような過剰適応が、「普通に」学生時代を送ってきたのに、社会人となった後、突如、会社に行けなくなり、引きこもってしまう問題が生じる要因のひとつとしてあげられています。

すなわち、学生時代は、何とか過剰適応して「普通に」振る舞っていても、就職により、自分の言動に対する責任を強く問われることなどから、日々強いストレスにさらされた結果、適応をすることに疲弊してしまって、引き込もってしまうなどといった問題が生じる例が少なくないといわれます。



「「社会的ひきこもり」は精神医学的観点からも決して楽観視できない問題と言える。

さらに発達障害を専門とする筆者が診た範囲内では、彼らの発達歴を幼児期・小児期にまで遡ってみると、学習障害(LD)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)、アスペルガー症候群(AS)、境界知能などのいわゆる軽度(高機能)の発達障害が少なからず認められる。これは他の発達障害の専門医の報告でも同様である。社会的ひきこもりと発達障害との関連性は(略)臨床的な観察から指摘されている」

(星野仁彦「ひきこもりと発達障害」『ひきこもり支援者読本』18頁)
https://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/hikikomori/handbook/pdf/1-2.pdf



「軽度の発達障害者は、何とか高校・大学まで卒業したとしても、その後の就職と社会適応が困難になることが少なくない。場合によっては長期間のひきこもりやニートになることもある。また成人になると、様々な心の合併症――特にうつ病、依存症、パーソナリティ障害、不安障害(神経症)――を伴うこともある」

(星川前掲23頁)



同様の指摘は、金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』や岩波明発達障害』にもあり、専門家の間でも、一般的な理解とされているようです。



「仕事をする中で、しばしば悲しく感じることがあります。それは、おそらくは就学前の幼児期には無邪気で屈託のない性格であった彼らが、いつの間にか(おそらく修学期間中にあるいは就労中の不適応の果てに)すっかり自信を失ってしまっていることです。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター前掲書135頁)

「ASD(引用者注:自閉症の意)、ADHDなどの発達障害の当事者の多くは、行政や福祉からの支援を受けずに、「一般人」として社会の中で暮らしている。彼らはある程度「普通」の社会参加は可能であるが、(略)学校や職場などで、失敗を重ねて不適応となって仕事が続けられなくなったり、さらに引きこもりになったりするケースは珍しくない。」

岩波明発達障害』(2017年)223頁)



4 自閉症者の高度な記憶力と論理的思考力



自閉症は、症状がとても多彩であるという特徴を有するとされますが、中心症状の一つが、コミュニケーションの困難です。(注3)

そして、発達障害が、知的障害を伴わない場合でも、このようなコミュニケーションの困難をもたらされます。

発達障害は、必ずしも知的障害が伴うわけではなく、「学業の後れがそれほど目立たず、場合によっては健常児よりも成績の良い発達障害児が存在する」(注4)ことがわかってきています。

特に、注目されるのは、自閉症の人は、「普通の人」と比較して、記憶力がよく、かつ、ボトムアップ式の論理的思考力が高い例が多いと言われていることです。



自閉症の方は全体として記憶力が優れているのです」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)62頁)



また、自閉症の人の論理的思考力については、次のような指摘がされています。



「彼ら(引用者注:自閉症者)が得意とするボトムアップ処理の認知様式が、文字や算数への興味を促進し、それを学習する機会を増やす可能性もあります。彼らは、因果関係に明確な規則性のある構造(例えば、二つの歯車をかみ合わせたときの回転速度の変化)においては、時として、飽くなき関心と優れた力を発揮します」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修前掲書122頁)



文献には出会ったことはないのですが、このような自閉症の人に見られるという記憶力と論理的思考力の高さは、脳内のネットワークの相違によるコミュニケーションの不全とバーターなのではないかと推定しています。

すなわち、脳内のネットワークの相違から直観的に行動を取ると、多数派とは、異なる反応をしてしまい、非難されたり、誤解される。

そこで、多数派の行動を観察して、具体的な場面毎にどんな反応をするかの情報を集積して、そこから、特定の場面毎にどんな反応をするのが多数派的であるかの抽象的な法則を見出して、多数派の反応に沿う、行動をすることができるようにする。

このような作業を日常的に繰り返すことにより、情報の集積のための記憶力と、集積した情報から抽象的な法則を見出すための論理的思考力が自然と訓練されていく。

これが自閉症の人たちの記憶力や論理的思考力の高くなる機序なのではないかと考えています。

また、自閉症の人が、「普通の人」に適応して行う、日常の他愛もないコミュニケーションそれ自体が、小テストを繰り返すような作業であり、苦痛やストレスが高まっていく結果となる。

だから、自閉症の人たちに多く見られるという優れた記憶力や論理的思考力は、脳内のネットワークの相違によるコミュニケーションの不全とバーターなのではないかと考えています。



5 理系の相対的な自閉症傾向と「救い」を欲する精神性



記憶力や論理的思考力は、いわゆる理系の人の特徴であるとよく言われますが、この観点から興味深いことは、理系の学生の方が、自閉症スペクトラム指数(AQ)が高いとされることです。



「一般大学生の専攻やパーソナリティとAQとの関連をみた研究(略)英国のそれは、AQが高いと神経症傾向が強く、外向性と同調性が低かった。男子は女子よりも、また、物理や化学専攻の学生はそうでない学生よりもAQが高かった。興味深いことに、親が科学に関する仕事をしている学生は、そうでない学生よりもAQが高かった。日本では高知大学が一般学生にAQを実験したところ、文系学部よりも理系学部の学生のAQが高かった。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)62頁)



オウム真理教事件の際、その信者に理系出身者が少なくないことが話題になりました。

これは、理系の人には、自閉症ないし自閉症傾向の人が多く、記憶力、論理的思考力が高さと同時に、脳内のネットワークの相違によるコミュニケーションの不全という生きづらさを感じる人が多いからではないかと思います。

自然科学は人間の生き方を指し示すものではありませんから、生きづらさを抱えて、特別な信仰が必要になったのではないでしょうか。

私が、実際に接した中でも、瞑想会や坐禅会に来る人には、案外、理系の人が多く、職業の分かった人の中ではSEの人が比較的多かった印象です。

特に、印象に残っているのは、上座仏教(テーラワーダ)の瞑想の実践をしている人たちです。

彼らの中には、輪廻説を、生まれ変わりが実在するものとして、本気で信じている人が少なくないのですが、上座仏教の勉強会で知り合った精神科医の人や、原子力発電所の技術者の人が、生まれ変わりについて、熱く語る場面に居合わせたことは、私にとってとても印象深いことでした(この経験が、仏教や瞑想から距離を置いた方が健全ではないかと考えるようになった大きた要因の一つでした。)。

実際、理系というわけでなくとも、ツイッターなどを見ても(私も含めてですが)、仏教や瞑想に関する発信をする人には、自分のことを合理的に判断が出来る頭のよい部類の人間だと考えている人が、相当程度いるのではないかと思われます。

しかし、頭がよいのだとすれば、問題解決能力が高く、世間的な成功を収めていて然るべきなのですが、なぜか、人生が上手くいっていない人が多い。

そこには、多数派との意思疎通が上手くいかないというコミュニケーション上の問題があり、その基礎には、多数派との脳内のネットワークの相違があるのではないかと思います。

「普通の人らしく振る舞う」ために、周囲の人をよく観察して、具体的事例を集積して、そこから「Xの場合はAと振る舞う」といった抽象的法則を見いだすという訓練を発達障害の人は、生まれたときからずっと繰り返しているのではないのでしょうか。

具体的な事例を集積する中で記憶力が強化され、集積した具体的事例から抽象的法則を引き出すなかで、論理的思考力が強化される。

このような作業を通じて、記憶力と論理的思考力が高い理系的な頭のよい人が作られる。

しかし、それはその人の中での周囲の人との間の価値観等の相違に対する違和感とのバーター。

これが瞑想会や座禅会でであった「頭がよいけれど、人生うまく行っていない」人の産み出される有力なルートではないかと思っています。



6 自閉症傾向と「一切皆苦」的世界観



自閉症発達障害の人にとっては、多数派が何とはなしにやっている他愛もないコミュニケーションの一つ一つが小テストを繰り返すようなものであり、多数派とのコミュニケーションは苦痛なのではないでしょうか。

これまで引用した文献にも、次のような指摘があります。



「社会はたくさんの人々が集まることにより成り立っています。人と人との交流の総体が社会です。この世に居れば他者との関係が必ず生まれる。対人交流が起こり得ないのは無人島に一人いる場合だけでしょう(略)。

つまり、自閉症の方にとって

この世の中に居るということ自体が苦痛

になります。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)67頁)



「仕事をする中で、しばしば悲しく感じることがあります。それは、おそらくは就学前の幼児期には無邪気で屈託のない性格であった彼らが、いつの間にか(おそらく修学期間中にあるいは就労中の不適応の果てに)すっかり自信を失ってしまっていることです。

この根源にあるのは、(略)生まれもっての多様性が、周囲にマイノリティ(社会的少数者)として否定的にあつかわれる環境であり、これこそが彼らを苦しめていると感じています。彼らは、ただ普通に仕事して、穏やかな生活をしていたいだけなのに、それがうまくいかなくて困っているのです。実直な彼らは、歳を重ねるに従い

日々を生きるだけで大いに罰を受けているような気持ちが深まっていきます。

多くの場合、親が期待しているような、普通の社会生活ができていないことに、自己嫌悪を感じて苦しんでいるのです。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修前掲書135~136頁)



これらの引用の中で、特に、印象的なことは

自閉症の方にとって、この世の中に居るということ自体が苦痛」

「日々を生きるだけで大いに罰を受けているような気持ち」

などといった言葉です。

原初的な仏教では、「一切皆苦」を説き、この世界のあらゆる事柄、私達が生きていることすら、「苦」、すなわち、不満足であると考えます。(注5)

自閉症等の発達障害の人たちの「生きていること自体苦痛」という感覚は、仏教で説く一切皆苦の感覚そのものともいえ、瞑想や仏教にはまる人は、少なからず、自閉症等の発達障害や、これに類似する問題を抱えているように思われます。



7 発達障害傾向の潜在



これまでの話に関し、そんなに自閉症等の発達障害の人がいるのか、との疑問を抱く人もいると思いますが、年々発達障害の人は増加しています。



「過去30年間の急増はすさまじい。1万人あたりで見ると1960年代から1980年代まではながらく4~5人の発現率であったが、80年代に入って10人を超える報告が現れた。2000年代には100人を超える報告が相次ぎ、最新の韓国の264人まできた。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)14頁)



また、平成18年度の厚生労働省が、栃木県と鳥取県において、歳児健診にの際、「学習障害(LD)、注意欠陥/多動性障害(ADHD)、高機能自閉症アスペルガー症候群を包含する高機能広汎性発達障害(HFPDD)、軽度精神遅滞といったいわゆる軽度発達障害」の出現頻度を調査したところ、鳥取県では9.3%、栃木県では8.2%であったとされます。(注6)

平成18年の5歳児ですから、現在(令和4年)では、20~21歳ということになり、概ね成人の1割程度が、「偽装」により見た目として社会生活は送れているのだとしても、発達障害の傾向にあると考えられます。

仏教や瞑想にはまる人は、社会的にみれば圧倒的な少数派ですから、その相当程度の割合の人が、知的障害の伴わない高機能発達障害であってもおかしくはありません。

また、次のような指摘もあります。



「統計によって異なるが、例えば、ADHDやLDは15歳未満の子どもの人口の6~12%、HFPDDやASは1.2~1.5%存在する。そうした子のほとんどは特別支援学校や特別支援学級ではなく、普通学級に在籍している。」

(星野仁彦「ひきこもりと発達障害」『ひきこもり支援者読本』22頁)



「普通学級に在籍している」との指摘は興味深く、仏教や瞑想にはまっている人でも、実際には、発達障害なのに、そのことがわかっていないという人も相当数いてもおかしくありません。

同じ文脈で、次の指摘も興味深い。



「現実には成績優秀な子どもほど、発達障害は見過ごされやすい。
成績が良ければ、少しくらいおかしな行動があっても、「あの子はちょっと変わってるから」ですまされやすいし、横並び意識の強いこの国では、たとえ発達障害を疑ったとしても、世間の手前、親も教師もなかなかそれを認めようとしないからである。

その結果、何の治療もカウンセリングも受けないまま大人になっていく人が少なくない。」

(星野仁彦「ひきこもりと発達障害」『ひきこもり支援者読本』27頁)



この指摘は、私自身にも思い当たるところがあり、また、私自身の子育てでも、意識が変わる切っ掛けになったものの一つですが、仏教や瞑想にはまり込む人でも、先にも述べたとおり、精神科医等成績優秀な人達もいて、このような問題が見過ごされているのではないかとも思われます。

さらに、自閉症等の発達障害について考えるに当たり、重要なことは、正常とされる領域と、正式な診断名がつくような発達障害との間には、明確な線引きがなく、連続的なものであり、「自閉性スペクトラム症」などと言われるとおり、まさしくspectrum(スペクトラム)なものであるということです。



「「スペクトラム」という言葉は日常生活ではあまり使用しない言葉であるが、これを理解するには、例えば「虹」を想像してみるとよいだろう。(略)言語文化によって虹の捉え方(引用者注:色の数等)が異なっている。なぜこのようなことが生じるのか。それは、「虹」は層を成しているだけであって、どこで区切るかは非常に恣意的な判断であり、文化や社会によって異なっているからである。自閉症もこれと同じようなところがあり、自閉症の症状はスペクトラム状に現れて、自閉症の人とそうでない人を絶対的に区別することは難しい。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)4頁)

自閉症の徴候は誰にでも多少はある」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修前掲書13頁)

「Broader Autism Phenotype(BAP)(略)とは、自閉症の人の親やきょうだいに、自閉症の徴候が部分的に見られる様態をさす。自閉症とは診断されないきょうだいに、微妙な感情表出の苦手さあったり、コミュニケーションの不得意があったりする。親は、人柄がよそよそしいとか、硬いとか、言語を対人的に使うのが不得手だとかいう報告がある。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修前掲書21頁)



自閉症による症状が、脳内のネットワークの相違によるコミュニケーション上の問題であるなら、誰しもが、何らかの生物学的な相違があるでしょうし、どの程度、多数派に属しているのかも、感受性が問題となる様々な領域によって異なり、何らかの発達障害の診断を受けずとも、何らかの形で生きづらさを抱える人も多いのではないでしょうか。

実際には、仏教や瞑想にはまる人には、自分自身の発達障害傾向に気づいていない人も相当数いるのではないかと思われます。(注7)



8 高機能発達障害における劣等感と超越性の希求



瞑想や仏教が高機能発達障害の人に訴求するものと考える理由の一つは、仏教や特に宗教的な傾向がある瞑想が、悟りや解脱などと呼ばれる超越性を希求するものであるという性格にあるものと思います。(注8)

1でも触れましたが、瞑想会等で出会う人には、頭はよいのだけれども、非正規雇用労働者や無職などといった実人生は満たされて居らず、頭の良さが、実人生の良さに結びついていない人が少なからずいました。

このような傾向は、瞑想や仏教にはまる人のツイッターでの発言にも感じることがよくあり、職場やその上司の能力の低さを批判するとともに、彼らよりも能力のあるはずの自分が、その部下であることの不満や、現在の職業に対する不満が示されることがよくあります。

単に能力が低いだけであれば、ある意味救いがあるのかも知れませんが、頭がよく、本来優秀であるはずなのに、それが正当に評価されていないという不満であり、この種の不満は、彼らが、高機能発達障害であり、記憶力や論理的思考力といった頭良さはあるものの、脳内ネットワークの相違からコミュニケーションに難があり、仕事上の成果が出せない状況にあると考えると、理解がしやすいように思われます。

自分に能力があるはずなのに、職場という世間的な世界では正当に評価されないことに対する優越感と劣等感のないまぜになった不満が、仏教等の宗教的瞑想などといった非世間的な世界での悟り等の超越性への希求に結び付くのではないかと思われます。

「「瞑想/仏教と家族」に関する素描」の中でも触れた、岡田尊司『マインドコントロール』におけるカルト宗教にはまる人の劣等感の問題は、この場面でも同様ではないかと感じます。



「社会において自分の価値を認められず、アイデンティティを見出せないものは、社会の一般的な価値観に刃向かうことで、自己の価値を保とうとする。こうしたカウンター・アイデンティティは、社会から見捨てられたものにとって、自分の人生を逆転させ、自分の価値を取り戻すような歓喜と救いの源泉ともなるのである。誰からもまともに扱われなかった存在が、受け入れられ、認められたと感じるとき、そここそが生き場所となる。」
岡田尊司『マインドコントロール』(2016年)17頁)

「非常に自己本位で、しっかりとした自己主張をもつかに見えた人が、マインド・コントロールされてしまうというケースが増えている。
そうしたケースで認められるのは、自己愛のバランスが悪いということである。彼らは、一方では、心のうちに誇大な願望をもち、偉大な成功を夢見ているが、同時に、他方では、自信のなさや劣等感を抱えており、ありのままの自分を愛することができない。誇大な理想を膨らませることで、どうにかバランスをとろうとしている。」

(岡田前掲書85頁)



9 小括、そして、発達障害愛着障害との関係~「複雑性PTSD」



以上のとおり、瞑想や仏教にはまる人には、自閉症等の発達障害ないしその傾向があるように思われます。

そうなると、「「瞑想/仏教と家族」に関する素描」の中で、触れた愛着障害等の家族関係の問題との関係はどうなるのかとの疑問が湧くかと思いますが、愛着障害発達障害が複合化する例が多いことが知られています。



「受診に至る発達障害の患者さんは、発達障害そのもののことだけで受診することはまずなく、必ずほかの問題を抱えています。何らかの適応障害を起こしていて、それが一定のレベルを越えたために受診に至ることが多いのです。(略)

生育の過程で何らかの愛着課題があり、それが原因で虐待やネグレクト、いじめなどを受けたり、複雑性PTSDを生じたりした人もいます。」

岩波明監修『おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線』(2020年)79~80頁)

発達障害のある子は、目が合わないし抱っこもしにくいなど、育てにくい面があります。親からすると、なかなか愛情を感じにくい、ということにもなりかねません。あるいは、親にも何らかの発達障害があり、愛着の発信が難しい場合もありますが、親自身がそれを捉えられていないこともあります。そのようなことが重なると、愛着課題が生じるようになります。」

岩波明監修前掲書83~84頁)

発達障害は子ども虐待の高リスク因子であり、子育て困難を招き寄せやすい。しかし、子ども虐待の後遺症として生じる愛着障害の臨床像は発達障害に類似した臨床像を示す.両者ともに世代を超えるので、何代かにわたったときには、どちらが一義的であったのかまったくわからない状況が生じる。このような症例において親子とも、発達障害と複雑性 post‒traumatic stress disorder(PTSD)の両方の臨床像が認められる。社会性や共感性の障害つまり autistic spectrum disorders(ASD)症状、(解離も加算された)不注意および転導性の高進、衝動傾向、がまんのできなさなどの attention deficit hyper activity disorder(ADHD)症状とともに、フラッシュバックや気分変動、ときには解離性幻覚など、複雑性 PTSD の臨床像を同時に呈するようになる。

もともと発達障害があってそれに子ども虐待が加わっているのか、愛着障害から発達障害の臨床像が生じてきたのかという鑑別について、筆者は非常に悩まされてきた。」

杉山登志郎「複雑性 PTSD への簡易トラウマ処理による治療」『心身医』第59巻3号(2019年)219頁)



瞑想会等で出会った「頭がよいのに、生きづらさを抱える人」は、ほぼ未成年期の親子関係に問題があった人であり、前記の各記述を踏まえると、発達障害の傾向のあるところで、親として、育てにくかったことから、愛着の問題が生じてしまったという人が少なくないのではないかと思われます。

瞑想は、うつ傾向を改善するにあたり、相応の合目的的な方法であるとは思います。(注10)

しかし、薬も過ぎれば毒と言うとおり、瞑想には副作用もあり、やればやるほどよいというわけではありません。(注11)

この種のやり過ぎが起きる理由は、瞑想を実践する人自身が、自分の抱えている問題がいかなるものであるかについて、十分把握していないまま、劣等感を慰撫するため、安易に宗教的な目標に向ってしまうこともあるのではないでしょうか。

マインドフルネスを含めた瞑想の研究は進展しているものの、当の実践者の抱える精神の問題それ自体に焦点を置いた研究は余りないように思われます。

まったく拙い考察であり、ご批判を受けながら随時改訂をしていきたいと思いますが、前稿の「「瞑想/仏教と家族」に関する素描」と合わせ、瞑想を実践する人が、自分自身の抱えている問題それ自体にアプローチをするヒントとなれば幸いです。



10(補論)仏伝に見る釈尊発達障害の可能性



仏教の教義の大元である釈尊は、自閉症等の発達障害の傾向があったかは興味を引く問題ですが、仏伝に一応、それなりの信用性があると考えた上で、発達障害の視点で見ると、興味深いのは、母親である摩耶夫人の出産時の年齢です。

正直、手元の資料が乏しいのですが、信用できそうなネットの情報をいくつか見てみると、釈尊の実母である摩耶夫人が、釈尊を生んだときの年齢は35歳以降であるとされます。

この点、自閉症等の発達障害の要因については、未だ十分解明されていないのですが、高齢出産は一般的に自閉症のリスクファクターとされており、母親が35歳以上の場合は,相対リスクは1.5~3.4であるとされています(注12。因みに父親の場合,10歳毎にリスクが2倍以上になるとされます)。

釈尊自身も、高機能発達障害であり、脳内のネットワークの相違から、当時の周囲の人との間に違和感があって、過剰適応を試みたものの、耐えきれず、修行の旅に出たのかも知れません。

愛着の問題も同様ですが、仏伝も、釈尊の精神的な問題の機序を考えると、意外に合理的なところもあるように感じます。



本文以上



(注1)金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)が詳しい

「現在では、自閉症は先天性の障害であり、育て方が原因ではないとする見解が多く受け入れられています。」(109頁)

「脳内のネットワーク構造が定型発達者とは異なっていることが、成人を対象とする脳画像研究や死後脳の研究から、自閉症の脳の特徴としてほぼ定説となっている」(126頁)

自閉症の人にとって社会的コミュニケーションは、脳科学的に見ても最も難しい脳の作業と言っていいでしょう。」(131頁)

(注2)スティーブ・シルバーマン(正高信男 入口真夕子訳)『自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実』(原著2015年、ブルーバックス版2017年5月20日)58頁

(注3)金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)62頁、66頁

(注4)星野仁彦「ひきこもりと発達障害」『ひきこもり支援者読本』26頁

(注5)原初的な仏教で説く、「一切皆苦」の詳細については、本ブログの「仏教における生命/世界の否定と肯定」の記事を参照
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/02/01/195551

(注6)https://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/boshi-hoken07/h7_02a.html

(注7)ツイッターで、仏教や瞑想等に興味を持っている人のプロフィールやメッセージを見ると、自閉症(ASD)、注意欠陥多動性障害ADHD)等である旨表明する人も多い。内容的な正確性の問題はあるものの、相当数あることからすると、実際に、発達障害の人も多いのではないかと思われます。

(注8)悟りなどとされるものは、単なる脳内の生理現象であり、そのようなものを求めて時間を空費することは、それ自体、病的なものといえます。

仏教における「悟り」と呼ばれるものの生理的な機序の理解については、当ブログの次の記事を参照して下さい。

扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/30/204146

(注9)坐禅等の瞑想の積極的な効果については、次の本ブログの各記事を参照していただければ幸いです。

扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342

「姿勢を正すことによるテストステロンの分泌等――坐禅の生理学的効果(4)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/01/16/162044

(注10)瞑想の副作用については、次の本ブログの次の記事を参照していただければ幸いです。

【参考資料】瞑想の副作用
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/14/210348

(注11)藤原武男、高松育子「自閉症の環境要因」『保健医療科学』59巻4業(2010年)334頁
https://www.niph.go.jp/journal/data/59-4/201059040004.pdf





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「瞑想/仏教と家族」に関する素描

瞑想や仏教の問題は、私にとっては、親子関係を中心とする家族関係の問題でもあり、さらには、恋愛や性愛にも連なる問題でもあると考えていて、現時点での自分なりの考察をまとめてみました。



本稿の構成
1 はじめに
2 親子関係と心の問題
3 親子関係の問題と一切皆苦的価値観
(1)価値観としての一切皆苦
(2)親子関係の問題による一切皆苦的価値観の形成
4 親子関係の問題と道徳主義的世界観/べきの専制
5 親子関係の問題と劣等感=優越感の補償への渇望
6 僧侶によるモラハラ問題
7 対応の方策
8 (補論)仏伝と親子関係の問題



1 はじめに



私にとって、瞑想と仏教に関する問題は家族の問題でもあります。

まだまとまりきってはいないのですが、いったん文章にすると自分自身の考えがまとまったり、足りない所が見つかることがあるので、将来的に修正することを前提として、とりあえず、今考えていることを書いてみることにしました。

このようなものですから、大変、心もとないものですが、引用は詳しくしていますので、幾分かの参考になるのではないかと思います。

私が、このような問題意識を持つようになったきっかけは、40歳台になり、坐禅会や瞑想会を巡るようになったことです。

私の場合、当初の主たる目的は、中高年の孤独対策としての「友達作り」でした。

ですから、坐禅・瞑想それ自体よりも、その際に出会った人と交流することが楽しみでした。

そのような交流を重ねる中で、当たり前と言えば、当たり前ですが、うつ病統合失調症等の精神障害を患っている人や、そこまでいかずとも「生きづらさ」などの何らかの心の問題を抱える人と接することが多くなりました。

中には、生育歴を含めた人生遍歴について語ってくれる人もいて、自分の視野が拡がり、興味深く聞いていたのですが、その中で、幼少期に両親の離婚や、親からネグレクト等の何らかの虐待を受けた経験を語る人に出会うことが毎回と言ってよいほどありました。

また、私は、一時、在家禅の会員となって活動していたことがありました。(注1)

最終的に、私自身の考え方の変化や組織のあり方が合わず、辞めることにしたのですが、活動中、その代表者の弟さんと話をした際に、代表者の父親の兄弟間の差別があったことを知りました。弟さんの「ずっと兄貴を恨んでいた」との言葉は今でも印象に残っています。

私を在家禅に誘った職場の先輩は、私の職場でも出世した人で、何が不満で在家禅などに入ったのか不思議でしたが、勧誘に熱心だったことから、ある日、自分の母親を会員に入れ(代表者は「会員を増やすことが利他行だ」と言う人でした)、私も接することになったのですが、おそらくADHDの類の方と思われ、職場の先輩は一種のヤングケアラーの状態だったのではないかと想像させられました。

顧みると、私自身も、幼稚園頃から、友達ができにくく、生きづらさを感じることがあり、また、父親が戦中派で、世代的な感覚のほか、ニューギニアという悲惨な戦地にいたPTSDの類もあるのだと思うのですが、父親とも折り合いが悪く、瞑想会や在家禅で出会った人たちが親子関係など家族関係の問題のあったことに自分自身を照らし合わせると、私が坐禅等を始めたことも納得できてしまいました。

私を含めた、このような事例に接したほか、精神障害の原因として家庭環境がよく挙げられることもあり



未成年期の家庭環境の問題→心の問題→瞑想等の実践・仏教等の宗教的救済への欲求



という定式があるように感じられるようになりました。
そのうち、坐禅・瞑想それ自体より、これを実践する人の生育歴等を含めた人生遍歴に対するヒューマンインタレストの方が増すようになりました。

在家禅を辞めた後に、Twitterを始めたのですが、そこでの瞑想実践者や仏教徒、更には、僧侶の人(特に、実家が在家で自覚的に仏教を信仰するようになった人)のツイートを見ると、やはり、親が毒親である、親から虐待されたなどといった話がこぼされることが少なからずあるのを目にするようになりました。

もっとも、親子関係に問題がない人が珍しいとはいえ、やはり、極端な事例が多く、「瞑想・仏教」と家族関係との関連性は、無視できないものと思っています。(注2)



2 親子関係と心の問題
 


未成年期の家族関係、特に親子関係が、青年期以降も影響を及ぼし、精神障害等の心の問題の有力な要因となりうることはよく知られているところかと思います。

たとえば、一般論としては、次のものが簡潔にまとまっています。



「児童期から青年期の親子関係は変化すると言われている(Steinberg、 2001)。

青年期は家族の監督から離れ1人の独立した人間になろうと心理的に離乳していき、親子間葛藤が生じやすくなることが指摘されている。(略)
子どもと母親、男女双方とも…

母子間葛藤が抑うつ・不安、不機嫌・怒り、無気力に影響を及ぼしていた。

子どものすることに対して、なんでも母親の考えたようにさせるというような子どもの行動を統制しようとする母親の養育態度は、母子間の葛藤を引き起こし、その葛藤が抑うつや不安な気持ち、不機嫌や怒りの感情、無気力な気持ちを引き起こすと推察される。」
(渡邉賢二、平石賢二「児童期後期における養育態度と親子間葛藤(2)―心理的ストレス反応との関連―」(2016))
https://confit.atlas.jp/guide/event/edupsych2016/subject/PB02/date



さらに、瞑想の実践をする人には、不安感が強いと思われる人が少なくありませんが、不安症群・不安障害群の環境要因としては親の過保護、親の喪失、身体的・性的虐待が挙げられていることが興味深いものがあります。



「この症患群の共通の特徴は、「過剰な恐怖および不安、そしてそれらに関連する著しい行動上の障害(回避行動など)」である。DSM-5では、恐怖と不安について、前者は“現実の、または切迫していると感じる脅威に対する情動反応”、一方、後者は“将来の脅威に対する予期”と定義している。(略)
扁桃体の過活動や前頭前皮質の機能不全が想定されている(略)。なお、気質要因としては否定的感情(神経症的特質)と行動抑制が、環境要因としては

親の過保護、親の喪失や身体的・性的虐待

がある。」
(尾崎紀夫・三村將・水野雅文・村井俊哉『標準精神医学第7版』(2018年)250~251頁)



3 親子関係の問題と一切皆苦的価値観



(1)価値観としての一切皆苦



仏教では、一切皆苦が基本原理の一つとされ、病気、老い、死といった典型的なものだけでなく、生きていることそれ自体を含め、あらゆるものが不満足で、無価値であり、私達の人生や、もちろん、その人生を取り巻く目の前に展開する世界の存在も不満足なものであり、無価値であるとされます(注3)。

しかし、価値観は個人の好みの問題ですから、人生や世界を不満足だと思いたい人は、思えばよいし、満足すべきものと思いたい人は、満足すべきものとすればよいだけの個人の好みの問題のはずです。

個人の好みの問題を基本的な原理とすることがそもそも間違っているのではないかと思われます。

仏教では、輪廻(生れ変わり)により、生存状態の苦が継続することから、そこからの解脱を目指しますが、「輪廻による生存状態の継続」を否定的に評価する価値観は、インドでは一般的なものではありませんでした。



「(バラモン教における)カルマン・再生の理論と、生存の反復継続を楽しく受け入れ喜んで承諾するという態度とを結合させることは、一貫性に関する論理上の問題を引き起こすことはないであろう。結局のところ

人生は苦より楽の方が多い

ということになる。実際、我々の乏しい証拠から判断すると、初期ヴェーダ時代における人生の評価はそれほど否定的なものではなかったようであるし、また、はるかに後代の中世ヒンドゥー教では

人生は苦であるという提言は人々の注意をほとんど惹かなかった

ようである。」
(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』(2005年、原著1998年)82頁)



そもそも、ほとんどの人は、永遠に生きられるのであれば、どんな形であれ、生きたいと思うものではないでしょうか。

そのことは、仏教における輪廻思想が、生命に価値を置く中国において、生命の永続性の原理として、仏教受容の根拠となったことからも、明らかであると思われます。



「中国の知識人がはじめて仏教に接したとき、その教義の中心をいずこに求めたか。袁宏(えんこう)の『後漢紀』は仏教の大意を殺瞑して、「おもえらく、人死するも精神は滅せず、随いて復(ま)た形(身体)を受く。……故に貴ぶところは、善を行い道を修め、以って精神を錬してやまず、以って無為に至り、仏たることを得るに在り」といい(略)

この歴史的な過程を通じて、インドの人生観と中国のそれとが、まったく正反対の方向にあることがうかがわれるであろう。インド人にとって輪廻転生の説は「せっかく死んでも、また苦しい人生をくりかえさなければならぬ」という恐怖の対象となった。ところが

中国人は、これを「いちど死んでも、また生きられる」という福音として受け取った。

そこに、」人生を本質的に苦と見るインド思想と、人生を楽しかるべきものと見る中国思想との、あざやかな対照を発見することができよう。」
(森三樹三郎『老荘と仏教』(2003年)128~133頁)



一切皆苦が、普遍的な原理ではなく、価値観の問題に過ぎないのであれば、なぜ、仏教を信奉する人が、そのような価値観を是とするようになるのかが、問題となります。

人格の形成の要因は、遺伝等器質的要因と環境の相互作用とされます。

仏教的には、前者が因、後者が縁でしょうか。

後者の環境的な要因としては、先に見た精神障害などの心の問題の要因ともなる親子関係の問題ではないかと思われます。



(2)親子関係の問題による一切皆苦的価値観の形成



 
親子関係の問題が、その子どもの精神疾患や心の問題の要因になり得ることは、前記2のとおりですが、さらに、子どもの人生観・世界観を否定的なものとする影響を与え、これが仏教における一切皆苦という、生きることすら、不満足なものとしてみる価値観と整合し、このことが、親子関係に問題を抱える人が、仏教を合理的なものとして捉える有力な理由になっているのではないかと思われます。

特に、次の資料は、厚生労働省のウエブサイトに掲示されているものであり、若干長いもののよくまとまっています。



「子どもの発達には素因も環境因も互いに関連することは周知の事実である。(略)
養育者に抱かれて授乳されると新生児は養育者の働きかけに反応し視線を合わせ(アイコンタクト)、声やにおいを識別するなど、ある程度の親子相互関係が成立し、この母子間相互の働きかけはエントレインメント、と呼ばれる。このような生理的身体的欲求が満たされてもらうというこのプロセスの重複が精神的安らぎも与えることに繋がり乳児は自分が置かれている世界や親がくれるものを信頼するという感情や自分の存在を肯定的にとらえる自己信頼感が養われるようになる。
これがその先の人間関係に大きな役割を果たすと言われている。(略)
乳児の精神的健康のためには、重要他者である

親との関係が密接で満足に満ちたものであることが必要

であり、これが何らかの理由で

欠如した場合は精神的不安定

となり、その後の

人格形成にも大きな影響

が及ぶ。ボウルビーは乳児が親に愛着を覚えるのは食欲などの生物学的本能を満たすだけではなく母親への愛着行動自体が根源的欲求であるとし、これをアタッチメントと呼び、エリクソンは基本的信頼感と評した。」
(標準的な乳幼児健診に関する調査検討委員会「養育者のメンタルヘルス」323頁)
https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000520616.pdf



母子関係が「自分が置かれている世界」に対する信頼感、「自分の存在を肯定的にとらえる自己信頼感」に関わり、その満ち足りた関係が欠如した場合には、「精神的不安定となり、その後の人格形成にも大きな影響が及ぶ」との指摘が興味深いものと思います。

つまり、母子関係が不安定であったような人は、人生や世界の価値を否定する「一切皆苦」的な価値観が形成されやすいといえます。

次の初塚眞喜子「アタッチメント(愛着)理論からアプローチする心理臨床」もわかりやすい記述で、若干長いですが、引用します。


「乳幼児期の養育者とのアタッチメント関係によって、子どもの中に、自己と養育者に対する肯定的イメージ(作業モデル)が内在化された場合には、成長後、無意識のうちに自己と他者一般に対する肯定的イメージ(「自分は他者から受け容れられる存在である/他者は信頼できる存在である」というイメージ=後述のポジティブ型内的作業モデル)をもって他者の行動を予測・解釈するようになるため、良好な対人関係を円滑に構築することが可能になるとされる。
反対に、乳幼児期のアタッチメント関係によって

自己と養育者に対する否定的イメージが内在化

された場合には、成長後、無意識のうちに

自己と他者に対する否定的イメージ

(「自分は他者から受け容れられない存在である/他者は信頼できない存在である」というイメージ=後述のネガティブ型内的作業モデル)をもって他者の行動を予測・解釈するようになり、他者との間での良好な関係性の構築が困難となるという。
そして、(略)乳幼児期のアタッチメント関係によって内在化される自己と他者一般に対するイメージ(内的作業モデル)は、新たな満足できる人間関係(緊密な友人関係や恋愛関係、夫婦関係等)の構築・維持を経験し、そうした関係性の中で新たなアタッチメント対象(心理的安全基地)を得ることで変化しうると考えられているが、一般には、相当程度の継続性・安定性を有しており

子どもの対人関係スタイルを生涯にわたって持続

させる機能を果たすものと考えられている(略)。
以上のように、乳幼児期における養育者とのアタッチメント関係は、子どもの成長後の対人関係スタイルの規定要因になるという形で、子どもに生涯にわたって影響を及ぼしつづけることになるとされている。養育者を「物理的安全基地」として利用する体験を積み重ねることによって、自分への自信と他者への信頼がイメージとして内在化され、成長後は、そのイメージを基盤として他者との関係性を構築していくのである。

(初塚眞喜子「アタッチメント(愛着)理論からアプローチする心理臨床――事例検討および支援のあり方に関する試論的考察――」『愛媛大学研究論集』2010年3号・55~56頁)
https://soai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1217&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=17



以上の指摘からも、乳幼児期からの親子関係において、安心できる親子関係が形成されていないと、その後も、子供は、外界で安心して活動できず、他者との間での良好な関係を構築することができなくなるものとされ、このことが、世界に対する否定的な感情や、生きづらさと結びつき、さらには、一切皆苦的な世界観や人生観に結びつくものと思われます。

また、仏教、あるいは、宗教がアガペー的な愛を希求する面があることも、乳幼児期にきちんと親から愛されなかったことを背景にあるものと考えることと整合するように思われます。



4 親子関係の問題と道徳主義的世界観/べきの専制



仏教に限らず、宗教は、教義を提示し、それに従って信者の生き方に一定の義務づけをするものです。

人間は、欲求に従って生きるものであり、前実定的な正しい規範などは存在しません。

本来、義務づけを拒否して自由に生きたいものです。

しかし、宗教を信奉する人は、その義務に自ら従い、つねにそれを優先することが個人的な価値だという道徳主義的世界観の持ち主です。

もちろん、その従うべき規範は、本質的に正しいものではあり得ないので、奇妙な思考といわざるを得ません。

このような「こうしなければならない」と考える考は、「べきの専制」と言われ、このような思考が形成される要因も、子の親に対する信頼関係の喪失であるといわれています。



「“追従”は、“信頼”“自律性”“主導性”を低め、これら3段階はそれぞれ前の段階から影響を受けるが、“べき”を直接低めるのは“自律性”のみであった。つまり“志向性”は“暖かさ”によって高められた“信頼”“自律性”“主導性”からそれぞれ規定されると解釈された。一方“追従”によって“信頼”が低められるとその影響で“自律”も低められ、そのことで“べき”が高まることが示された。(略)
Horneyによれば、“べき”は“あるがままの...姿など忘れてしまえ...この理想化された自己になることこそが重要”(Horney、 1950 榎本・丹治訳 1998、pp.70-71)という自己否定の感覚である。つまり

基本的信頼感が低く自己受容できないことや、意志を発揮できないこと、罪悪感にとらわれることは、“べき”の形成と関連する

と考えられる。(略)
“自由選択の自律を、適切に導かれながら徐々に経験することができなかったり、あるいは信頼を早い時期に喪失することによってその経験が弱められたりすると、敏感な子どもは、識別し操作する自分の衝動をすべて自分自身に向けてしまうことがある。(略)
より原初的で厳格で自我を妨げる “べきの専制 ”は自律性の形成に深く関わるのではないだろうか。
まとめると、本研究で検討した要因に限って言えば、暖かさや追従傾向のない家庭の雰囲気を背景として高められた基本的信頼に下支えされた意志(自律性)や目標(主導性)が高いことは、青年期の “志向性 ”、つまり未知なる世界に向けてやりたいことを探し進む力と関係すると考えられるし、主体性を失った、~すべきという観念にとらわれるような “べき ”を低減させると考えられる。」
(茂垣まどか「志向性とべきの専制の形成因の検討 ――幼少期の家庭の雰囲気と自我発達の様相――」『立教大学心理学研究 56号』(2014年)19~20頁)
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=9033&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1



言葉の語呂のようなところもありますが、暖かく育てられず、自由選択の自律を育てられなかった子どもが、「識別し操作する自分の衝動」に問題を生じるという表現は、(大乗)仏教における「分別」等の分析的思考への警戒心に近似するものと感じます。

人生を楽しくのびのびと生きるものではなく、生きざるを得ない義務としてとらえられるのであれば、それは、苦痛であるとしかいえないでしょう。

「道徳主義的世界観」や「べきの専制」も、一切皆苦の発想と結びつくといえます。



5  親子関係の問題と劣等感=優越感の充足への渇望



仏教の実践について、治療的なものと捉える見方(注4)があり、私は、こちらの方が事態の適切な捉え方ではないかと思うのですが、一般的には、悟りや解脱等の特別な地位に到るものであるとの見方が多いかと思います。

しかし、私も、多少は「特殊な体験」をした人に会いましたが、そのような人が人間としての性能が高いかというと微妙で、よくても、精神的な問題が快方に向かったことから、その本人の主観では、相対的に能力が上がったような気分になるのが実際ではないかと思います。(注5)

それはさておき、実際に、瞑想の実践をする人を見ると、生きづらさを抱え、その解消のために実践を始めた人には、次第に、悟り、解脱などといった特別な境地を目指すようになる人が少なからずいます。

問題を抱えた弱者が、ある種の超人を目指すようなもので、一種の「はじめの一歩」的願望ですが、心の問題を抱えた人が、同時に、超越性の願望というものを抱きがちであることは、河合隼雄も指摘するところです



「強い劣等感コンプレックスをもつひとは、どこかに強い優越感コンプレックスをもっているのがつねである。(略)
自分のようなものは存在してもしかたないと自殺をはかったひとと話をしていると、(略)「私のように悩んでいるひとは世界中に多いことと思うが、できればそのような世界中の悩めるひとを救うような仕事がしてみたい」などということが語られる場合が多い。死ぬより外に存在価値がないというほどの劣等感と、全世界の悩めるひとを救いたいなどという優越感とが共存していることに読者は驚かれるかもしれないが、実はこのような例のほうがむしろ多いのである。(略)
自分の内部に多くのコンプレックスをもっているひとが他人のそれ(自分のではなく)気づきやすいこともある。そして、このようなひとが自分は「感受性が強い」のでカウンセラーに適していると確信しているような場合もある。前に自殺未遂をしたひとが世界中の悩めるひとを救いたいと述べた例をあげたが、このような

コンプレックスにおびやかされたひとたちが、自分の内部にたち向かってゆくよりも、外のひとたちを救うことを考える

のも、一種の投影の機制が働いているものと考えられる。」
河合隼雄ユング心理学入門』(1967年)50~52頁)



ここで、河合隼雄が、劣等感を慰撫する方法として、「外のひとたちを救うことを考える」と指摘することも興味深いところで、大乗仏教においては、利他が強調されるというのも、劣等感の慰撫という観点からすると、利他行為をす人それ自体の癒しを目的とする行為ともいえるかと思います。

さらに、岡田尊司『マインドコントロール』は、カルト宗教にはまる人の心理として、劣等感の慰撫としての優越感の充足を挙げます。



「社会において自分の価値を認められず、アイデンティティを見出せないものは、社会の一般的な価値観に刃向かうことで、自己の価値を保とうとする。こうしたカウンター・アイデンティティは、社会から見捨てられたものにとって、自分の人生を逆転させ、自分の価値を取り戻すような歓喜と救いの源泉ともなるのである。誰からもまともに扱われなかった存在が、受け入れられ、認められたと感じるとき、そここそが生き場所となる。」
岡田尊司『マインドコントロール』(2016年)17頁)



同書の次の指摘も興味深い。



「非常に自己本位で、しっかりとした自己主張をもつかに見えた人が、マインド・コントロールされてしまうというケースが増えている。
そうしたケースで認められるのは、自己愛のバランスが悪いということである。彼らは、一方では、心のうちに誇大な願望をもち、偉大な成功を夢見ているが、同時に、他方では、自信のなさや劣等感を抱えており、ありのままの自分を愛することができない。誇大な理想を膨らませることで、どうにかバランスをとろうとしている。」
(岡田前掲書85頁)



瞑想会で出会った心の問題を抱え、社会的にみれば、マイナスの人が、いつの間にやら、世間一般の人よりも超越したプラスの状態を目指す心理は、カルト宗教にはまる人の心理とも大きく変わりないように思われます。

また、ツイッターを見ると、伝統仏教の僧侶の人も、仏教の実践を経る中で、経典を読む場合にも、研究者がわからないようなことがわかるなどといった自分たちは普通の人間がわからない特別なことがわかるのだというようなことを言う人もいて、やはり、劣等感にさいなまれている人が多いのではと感じます。

瞑想指導者の井上ウィマラも、瞑想実践者の問題として、「劣等感」に触れ、それが支配に結びつくとすることも示唆的です。



「魔境とは、瞑想体験の中で出会う神秘的体験によって道を見失ってしまう落とし穴を警告するための言葉です。光が見えたり、体が軽くなったり、エクスタシーやエネルギーの流れを感じたりするような神秘体験自体は集中力のもたらす効果なのですが、自覚できない微細な欲望が残っている場合には潜在している劣等感を補償するための無意識的な取引に使われてしまい道を誤ることになりやすいものです。そして権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性をはらんでいます。」
(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号)88頁)



このような劣等感の形成される要因にも、未成年期の親との関係が挙げられます。



「こうしたパーソナリティが育まれる背景には

幼い頃から、自分を過度に抑え、重要な他者の顔色ばかりを気にしながら生きてきたという状況

が見られやすい。横暴で支配的な親の、気まぐれで予測のつかない行動に振り回されてきたという場合だけでなく、親が良かれと思ってやっていても、過保護過干渉になり、本人の主体性が慢性的に侵害されると、同じ結果になってしまう。
幼い子どもは、親にしがみつき、親に愛されようとすることでしか、生きて行くことができない。いつ親の機嫌が変わって、攻撃されたり、突き放されたりするかわからないという中で育つことは、余計に親に見捨てられまいとする傾向を強めてしまう。親の意向がいつも最優先であれば、子どもは自分で判断するよりも、親の顔色をうかがって、そこから判断するようになる。」
(岡田前掲書68~69頁)



このように、劣等感が、未成年期の親の過干渉を含めた虐待等の不適切な対応により、もたらされることは、ほかでも触れられ、一般的な考え方と思われます。

また、劣等感やその裏返しの優越感は、他者と自分とを比較する感情に由来しますが、このような比較する感情も、自尊感情が低く、抑うつ傾向の高い人に認められるとされ、3で見たとおり、親による幼少期の不適切な対応が、自己肯定感を毀損することからすると、やはり、親子関係が、劣等感の形成にあたり大きな要素となってくるように思われます。



自尊感情の低い人や抑うつ傾向の高い人は、自己についてより不確か(不安定)なため、自分についての情報を多く得るために社会的比較志向性が高いものと考えられる.また、神経症傾向の高い人は、自分の気分(mood)の状態についてより不明確である(Marsh&Webb、1996)ため、社会的比較に従事しやすい傾向と関連があると考えられる.」
(外山美樹「社会的比較志向性と心理的特性との関連――社会的比較志向性尺度を作成して――」『筑波大学心理学研究 第24号』(2002年)238頁)



6 僧侶によるモラハラ問題



ツイッターをするようになってから、僧侶の配偶者のツイートをよく見るようになったのですが、その中には、義父に対する不満が少なからずあり、また、夫である僧侶に対する不満も多くあります。

妻の義父や夫に対する不満は、ほかでも聞くことではありますが、私個人の経験に照らしても、義父母や夫の対応には、度を超えたものが多いように思われます。

また、一般的に、仏教の修行は、何らかの意味で人格の向上を目指すものと言われているところ、人格の向上を目指しているはずの人たちが、なぜ、そのような不適切な対応をするのかは、興味を惹くところです。

この問題を考えるにあたり興味深いことは、4で触れた愛着の問題が、その子供にも伝播することです。



「愛着の問題が、社会的にも重要なのは、その伝播性による。Mainが見出したように、不安定な愛着スタイルは、育児を介して世代間で伝播しやすいのである。(略)

不安定型愛着は、虐待の大きなリスク要因でもあるので、不安定型愛着の連鎖は、虐待の連鎖ともつながってくる。」
(岡田誉司「崩壊家庭における愛着障害」『日立財団Webマガジン「みらい」VOL.2』12頁)
https://www.hitachi-zaidan.org/mirai/02/paper/pdf/okada_treatise.pdf



このような愛着の問題の伝播について、考えるに当た僧侶の成育歴に逸話に接すると、貴族ではあったが、寺に出されたなどといった幼少期の両親との別れの話がよく現れ、愛着の問題を抱える人が、僧侶になった例が少なくないことがうかがえますが、比較的最近といえる昭和20年代の僧堂(禅宗の僧侶の修行場)にいる修行僧も、同様の親子関係の問題を抱える人が多かったことは、大森曹玄も語るところです。



「私は、青年時代から在家の居士として修行を始め、終戦の年、四十二歳の時に出家した。その頃でさえ寺の子弟というのは何となく陰惨だった。在家の私は、ひそかに雲水たちを羨望していた。ああいう生活はいいな、明けても暮れても坐禅三昧でおられる。ああいう生活が羨ましいなと思っていた。ところが、さて自分がその中に入ってみると、何とこの世界は陰惨な世界か。御殿女中の腐ったみたい。陰険で、どうもカラリとした男性的なところがない。何とも嫌なところだなと思ったことがある。
別に雲水の身許を調べたわけではないけれども、水上勉さんなどの書いたものをみると、どうやら自発的に禅の道に志を抱いて飛び込んできたというよりは、家に子供が多過ぎて、とても養い切れない家庭の事情から寺にやられた子供、あるいはできては困るところにできた子供、そういった子弟が寺にもらわれて小僧になったという虐待されながら育った人が多かったらしい。当時は花園大を卒業してきた者よりは、寺の小僧出身の方が多かったようである。そういうような境遇の出身だから何となく位。それで妙に陰険なところがあるということが感じられた。したがって、在家出身の自分から心がけて修行しようとする者の半分も道心はない。」
(大森曹玄『驢鞍橋講話』(1986年)319~320頁)



このような実態に鑑みると、今日の僧侶によるモラハラ事案の要因は、世代的に伝播してきた愛着の問題によるのではと思われます。



7 対応の方策



以上に述べた瞑想実践者や仏教徒が抱えるものと考えられる親子関係の問題ですが、その要因が過去の問題である以上、その解決が困難な点があるものと思われ、その問題の困難さが、強い不安感を押さえるための瞑想のやりすぎや、特異な信仰を持つことにつながるのではないかと思います。

専門的な治療等を受ける以外での対応としては、瞑想も上げられるかとは思います。

近時、洞察瞑想が自伝的記憶に捉われる程度と関連しているといわれています。



「集中瞑想 時には洞察瞑想時と比べて、腹側線条体と視覚野の結合性が安静時よりも上昇している(略)
洞察瞑想時には(略)結合性が低下し、さらに腹側線条体脳梁膨大後部皮質の結合性が安静時よりも低下する(略)
自分の過去の経験に関する記憶に捉われる程度と関連していると考えられます。
結合性の低下の程度は、瞑想の実践時間が長いほど大きくなる。
意図的な注意の集中がゆるまるとともに、過去の経験に関する記憶に捉われる程度が低下している。」
「洞察瞑想時に自伝的記憶関連脳領域間の結合性が低下することを発見」京都大学ウエブページ『最新の研究成果を知る』(2018年)
https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2018-07-05-0



瞑想にこのような過去の記憶からのとらわれを緩める機能があることからすると、裏を返せば、仏教で問題とする苦の実体も、これまでの述べた過去の親子関係の問題であるということになるようにも思われます。

しかし、過去の記憶から楽になる目的で、瞑想をやり過ぎることが却って問題を生じさせるとの指摘もあり、深刻な人は、瞑想で対応するにしろ、精神科医等の標準治療についても知識のある専門家の指導の上で、やる方がよいように思われます。



「臨床マインドフルネスのプラクティスでは、想起される思考や感情にとらわれず、手放していくという認知的プロセスを訓練する。しかし、人によっては過去に生じたトラウマ記憶を手放すことに没頭してしまい、トラウマ記憶の否認や回避を強化してしまうことになりかねない。」
(池埜聡、内田範子「第2世代マインドフルネス」の出現と今後の展望-社会正義の価値に資する「関係性」への視座を踏まえて-」『Human Welfare 第12巻第1号』(2020年)91頁
https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=29697&item_no=1&page_id=30&block_id=85



瞑想以外の解決の方策として注目すべきは、言われてみれば当たり前かもしれませんが、親との関係の改善等の人間関係の改善のようです。



「愛着の原点は、親との関係で育まれる。愛着障害は、そのプロセスで躓いている。それを修復するには、親との関係を改善していくことが、もっとも望ましい。
親のなかには、子どもに問題が表面化したのを機に、自分から子どもへの関わり方を変えようと努力する人がいる。そうして、子どもの方も親の方も大きく成長し、関係が良い方向に変化することで、他の問題も落ち着いていくというケースも少なくない」
岡田尊司愛着障害』(2011年)257~258頁)



しかし、実際には、成人に達してからも親子関係の修復の困難な人が多いように思われます。



「しかし、その一方で、親の方も不安定な愛着の問題を抱えていることも多く、自分の問題としては受けいれようとせず、頑なに子どもの非にこだわり続け、子どもに対する否定的な態度を改めようとしない親もいる。そうした場合には、子どもは良い方向に変わろうとするたびに、再び傷つけられ、回復を邪魔されるということになりがちだ。」
(岡田前掲書258頁)



このように、親子関係の修復が困難な人にとっての次善の策は、恋人やパートナーを持つことであるとされます。



「愛着の傷を修復する過程は、それをただ自覚して認知的な修正を施せばいいという単純なものではない。(略)いくら本人が前向きに認知的な修正に取り組んでも、それだけでは愛着の傷は癒されない。
認知的な修正よりも、もっと大事なプロセスがある。そのプロセスとは、言ってみれば、幼いころに不足していたものを取り戻すことである。(略)
愛着障害の修復過程は、ある意味、赤ん坊のころからやり直すことである。
しかし、現実には、さまざまな事情やこれまでの経緯から、親が子どもにすべての愛情と関心を注ぎ込んで、とことん付き合うというのは難しい。(略)
ましてや、子どもが大人になると、親と別々に住んでいたり、親の体力的、経済的理由などで、こうした修復行為自体が不可能になってくる。その場合、親に代わって修復してくれる人が必要になる。

恋人やパートナー

がもっともふさわしい」
(岡田前掲書267~268頁)



瞑想等の仏教の実践に興味を持つ人の問題としては、仏教が出家者を理想とし、出家者には性交が一切禁止されることから、この恋愛をするという人間として極く当たり前の選択肢を意識的に排除してしまいがちに思われることです。

実際、瞑想や仏教にはまり込んでいる人の中には、一般的な恋愛などは難しいのではないかと思われる人が少なくありません。揶揄する意味ではなく、仏教等の宗教の存在意義は、それがなくなると利他行為をする人がいなくなるとの観念の宗教家は、少なからずおり、中高生頃から、ボランティア活動に携わってきた経験からすると、そんなことはないと思うのですが、おそらく、幼少時に、親から愛情を注がれなかった結果、人間不信が強くなり、人間は利己的であり、宗教などの特別な規範がなければ、利己的な行為をし続けるという観念が強く、それと同じ発想で、特別な事情がない限り、人間が愛し合うということが情念の部分で理解することができない人が多いのではないかと思います。

仏教における性交に対する消極的理解は、このような恋愛の難しい人を勇気づける意味や、また、6で述べたとおり、パートナーとの間に子供をもうければ、愛着の問題が伝播する危険があることを考慮すると相応に合理的なようにも思われます。

しかし、有力な選択肢がありながら、その可能性を検討する前から、無思慮に排除するのは、抱えている問題の解決の上では、好ましいものではありません。

私自身は、坐禅会や瞑想会を通して、未成年期に親子関係の問題を抱えている人たちに接したことを通して、自分自身の子どもたちの親子関係をみなおそうと考え、家庭に回帰したのですが、恋愛や性愛の問題について、真剣に考えるようになったきっかけも、親子関係の問題から生じる二次的な問題の有力な対応策が、恋愛だということを知ったからでした。

その意味で、私にとっては、恋愛や性愛の問題も、仏教の問題と地続きの問題になっています。



8 (補論)釈尊と親子関係の問題



これまで述べたとおり、瞑想や仏教にはまる人には、未成年期に親子関係の問題を抱えている人が多いのではないかと思われるのですが、仏教の開祖である釈尊自身が、愛着の問題を抱えていたと論じるのが、これまでも繰り返し引用した岡田尊司です。



「出家・遁世する人には、愛着障害を抱えた人が多い。その代表は、ゴータマ・シッダルタ、すなわち釈迦である。
釈迦の母親は、彼を生んだ直後に亡くなった。(略)
釈迦は自我に目覚め、自らの出自について考える青年のころから、物思いに耽るようになる。(略)釈迦はついに出家して、王子の位も、妻子も捨てて、放浪の旅に出てしまうのである。
その根底には、母親というものに抱かれ、その乳を吸うことなく、母親との愛着の絆を結ぶこともなく、常に生きることへの違和感を覚えながら育ったことがあったに違いない。
岡田尊司愛着障害』(2011年)170頁)



実際に、仏伝を参照すると、釈尊の家庭は、岡田の論じるよりも、更に複雑で問題性が大きかったことがわかります。

益田晴代「ブッダの母摩耶夫人に学ぶこれからの子育て」『身延山大学講演会講演録』(注6)によると、釈尊を産んだ7日後に死亡した母親は、元々妹と供に嫁ぎ、父親は、姉妹双方と肉体関係を持っていたとの伝もあり、釈尊の母の妹が養母となり、父親は、釈尊の母親が亡くなった後は、妹だけを愛したとされますが、釈尊としては、自己の出生を知った時、自分の母親の立場を知ったらどう思うか、何ら問題なく受容することは困難なように思われ、現代的な視点とはいえ、釈尊本人に複雑さがあったとしてもおかしくはないものと思われます。

釈尊が「物思いに耽る」ようになったきっかけも、この出生の秘密を知ったこともあるのではないかといった想像の翼が広がるところです。



本文以上



(注1)私が在家禅にいたときの状況や在家禅それ自体に興味のある方は、次の一連のツイートを参照
https://twitter.com/nichijohe/status/1427238474780794885?s=20&t=DG6x5twzK3eecYQ3DVT5eA

(注2)私自身は、本稿で取り扱う親子間の愛着の問題のほか、釈尊を含めて高機能発達障害の問題をも併せて抱える人が多いのではないかと思うのですが、その点については、他日、論じることができればと思っています。

(注3)仏教における「一切皆苦」の否定的な人生観・世界観については、当ブログの「仏教における生命/世界の否定と肯定」を参照
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/02/01/195551

(注4)仏教における治療モデル

1 佐々木閑『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』(2012年)29頁
「仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。ですから、病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院させるようなことをしないのと同じく、仏教も、苦しみを感じていない人まで無理矢理信者に引っ張り込もうとはしません。」

2 柳田聖山『禅思想』(1975年)37~38頁
「道心を起すことが、巧偽をひき起す。道心を起すことが、じつはすでに道に背くわざなのだ。(略)もともと坐禅は起こった心を静めるための対症療法であった。(略)応病与薬の法であった。乱れた心を制する技術である。応病与薬の法であった。『二入四行論』の雑録に、つぎのような問答がある。

ある人が顕禅師にたずねた、「何を薬というのです」
答、「一切の大乗は、病気に対する応急処置にすぎぬ。心そのものが病気を起さなければ、どうして病気に対する薬がいろう。有という病気に対して空無という薬を説き、有我という病気に対して無我という薬を説き……、迷いに対して悟りを説く。これらはすべて、病気に対する応急処置である。病まぬのに、どうして薬がいろう」

顕禅師もまた伝記の判らぬ人だが、その主張は縁法師と変わらぬ。(略)病まぬのに、薬はいらない。病まぬ人に薬を与えるのは、わざわざ病人をつくるようなものだ。心が起らぬのに、強いて心を起すにひとしい。われわれは、とかく病を実体化しやすい。病を実体化することから、薬の実体化が始まる。(略)病の実体化することの危うさは知りやすい。薬を実体化することの怖さは気づきにくい。」

(注5)仏教の実践により、実際には、人格が悪くなる例があることは、当ブログの「禅の修行は禅的人格を生み出せるか~瞑想と情動発現の低下」を参照。
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/02/14/211628
また、常識論ではありますが、次のような指摘があります。

1 河合隼雄ユング心理学と仏教』(1995年)37頁
ユングも言っていることですが、偉大な人も近くに寄ると「影」が見える。日本に住んでいると「偉大な」禅の師について見聞することもあります。そうすると「悟り」を啓いても利己的な面はそのままである点などがわかって疑問を感じてしまいます。」

2 プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』(2016年)215頁
「「私が言うとおりに実践すれば、全て上手くできますよ」といったことを、瞑想指導者が言葉の上では主張しているのだけれども、ご本人の現実の振る舞いにおいては、その理想が言葉のとおりにまるで実現できていない、といった事例を、私はたくさん見てきました。「瞑想の先生を選ぶ際には、その先生の『発言』だけではなく、その人の『為人』、つまり本人の現実の振る舞いを、よく観察して判断してください」と私が強調するのには、そういった背景もあるわけです。」

(注6)『身延論叢第24号』(2019年)
https://minobu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1756&item_no=1&page_id=13&block_id=21





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