禅とか仏教とか瞑想とか

禅とか仏教とか瞑想とかに関する批評とか

扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)

坐禅によるプラス面の生理学的効果の主要なものは、扁桃体の過剰な活動を低下させ、うつ傾向や不安傾向を解消することにあるものと思われます↓

https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342

しかし、前稿でも、若干触れましたが、扁桃体の活動の低下には次に述べるとおり弊害もあり、扁桃体の活動を低下させればさせるほどよいというものではないように思われます。



【本稿の構成】
1 危険を察知する能力の低下
2 情動反応の低下
(1)概要
(2)禅・瞑想者の実践者の人格的問題
3 統合失調症との関係



1 危険を察知する能力の低下

扁桃体は、自己防衛機能ですから、これを除去した場合、危険の判断ができなくなることが知られているそうで、扁桃体の活動が過度に低下すると、危険を察知する能力などが低下することが懸念されます。


 
「左側の扁桃体を除去した結果、リンダは恐怖の回路の核を失うことになった。(略)リンダは危険を示す一般的なサインを広範囲にわたって認識できなかった。たとえば彼女は、うなり声をあげている犬を平気でなでようとした。走っている車の目の前を歩き出そうとした。熱い炭を素手でそのままつまみ上げようとした。リンダの夫の話によれば、手術を受けてから最初の二年間、妻はしじゅう怪我をしていたという。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』154~156頁)



2 情動反応の低下

(1)概要

扁桃体の活動が障害された場合、感情が鈍くなることから、坐禅により扁桃体の活動が過度に低下すると、対人コミュニケーションに支障が出る可能性が懸念されます。



扁桃体を損傷された動物およびヒトは,生物学的価値評価に基づいた情動発現が障害され,過去の記憶に基づき,自己に利益をもたらす可能性のあるものに対しては快情動を,逆に,不利益をもたらす可能性のあるものに対しては不快情動を発動することができない。このような生物学的価値評価に基づく行動は,ハエからヒトまで多くの動物に共通に認められる。」

(西条寿夫,堀悦郎,小野 武年「ストレス反応の身体表出における大脳辺縁系視床下部の役割」『日薬理誌126号』185頁)

「情動における脳機能では,扁桃体が情動記憶の形成と価値判断においてシステムの中心といわれている(略)。扁桃体の機能障害があることが(略)残存している認知症高齢者の情動に何らかの影響を及ぼしていると考える。」

(占部美恵「認知症の看護~脳の残存機能を活かしたBPSDへ対応を目指して~」『京府医大誌』121号)
http://www.f.kpu-m.ac.jp/k/jkpum/pdf/121/121-12/urabe12112.pdf

扁桃体は、不安や恐怖などの感情を感じた時に活動することが知られています。過度な不安や恐怖が症状であるうつ病、不安障害やPTSDといった精神疾患においては、扁桃体の活動が過剰であること知られています。反対に統合失調症自閉症に認められる感情や対人コミュニケーションの障害が扁桃体の活動の低下と関連していることも知られています。」

独立行政法人 放射線医学総合研究所分子イメージング研究センター 菅野 巖 センター長ほか「感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明」https://www.jst.go.jp/pr/announce/20100224/index.html



(2)禅・瞑想者の実践者の人格的問題



禅の修行者に対する批判として、他者に対する同情や配慮の念に欠ける人の現れることが少なくありません。



「新聞記者をやっていたころ、職業上の必要から禅宗の坊さんにずいぶんと会いましたけれども、何人かをのぞき、これは並以上に悪い人間じゃないか、と思うことが多かったです。」
司馬遼太郎『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』65頁)



司馬遼太郎先生のような人格・見識のしっかりした方の発言は重みがあります。

また、「大悟徹底した」、すなわち、「悟り」を体験したとされる人でも、社会的に低い評価を受ける場合が少なくないことは、この種の実践の方向性を考える上で留意すべきことかと思います。

このようなことが起こる原因としては、坐禅の実践により扁桃体の活動が過度に低下し、情動反応が低下したものだと考えると、整合的に説明できるように感じています。

上座仏教では、「悟り」を「貪瞋痴の滅尽」と捉えますが、このような煩悩の消滅した状態は、情動反応が極端に低下した状態といえるかと思います。


 
同じようなことは、禅の修行をした方からも指摘されています。



「大悟を期待し、公案の透過を積み重ねるということは、一つの修行としては有意義であるとしても、公案がその人の生活から遊離していては何にもならぬ。文字通り閑葛藤といわれてもいたしかたないであろう。とかく公案禅は最も基本的な公案の処理を軽視するため、その修行がいかに厳しくとも形式的となり、皮相安易な公案の処理に終わる場合も多い。(略)公案がその人の生活に密着していなければ、いくら透過しても何の意義もない。(略)

形式化してその精神を忘れ、偏行の盲目に陥りがちである。禅者の見解が一般に偏狭で、現実を正見し、これを正しく導く力に欠けるのもそのためである。また自己の得脱に専念するあまり、利他の大悲心に欠ける傾きがあることもすでに指摘されているとおりである。」
(藤吉慈海『禅と浄土教』124~125頁)

「一般に大悟徹底したと見られている禅者でも、悟後の生活のあり方には問題がある。たとえば社会正義の問題に関し、なんらの発言や寄与がなされないということは、(略)反省されるべきことである。禅(略)に本来そのような人間を現実から逃避せしめるところがあることは、自己内観のプロセスにおいて止むを得ざることかも知れぬが、いつでもそこに止まっていては、宗教の積極的働きの面が失われてしまうであろう。その点は禅が、念仏より積極的に大悲の活躍をなすべきであるのに、かえって往相的修行の困難さから出世間に止まって、還相的現実社会への働きかけに欠けているようである。」
(藤吉前掲書131~132頁)

*藤吉慈海=ふじよしじかい。浄土宗僧侶、花園大学教授。京都大学在学中に久松真一に師事し、久松とともに京大学道道場を設立。また、禅浄双宗論を展開した。

 

批判の対象として「大悟徹底」が強調されることにも興味深いものがあります。長期間坐禅の修行に打ち込んだ結果、情動反応が低下し、坐禅の修行をしない人よりも、同情や共感ができなくなった人間が現れるおそれがあるということでしょうか。



禅の「修行」をしている人に対する論評ですが、次の横田南嶺老師のお話も興味深いものがあります。



「サマタ瞑想、集中瞑想をしておりますと、先ほど来、説明がありましたように、外の世界を断ち切る修行ですから、逆にこれを妨げるもの、外で物音がしたり、邪魔をするようなものに対して非常に不愉快な感情が起きます。排他的な感情が起きます。下手をすると攻撃的になったりするのであります。

よく笑い話で言うのですが、居士林という坐禅道場がありまして、集中瞑想ばっかりやっているんです。すると、どういうことがあるかと言うと、たとえば、外で観光客がうるさかったりすると、外に『坐禅中につき静かにしろ』と貼り紙を出して注意する。しかしそれでも静かにならないと、外へ出て『おまえたち、今、俺たちは坐禅してるんだ、静かにしろ』と叫ぶ。『おまえが一番うるさいんだ!』と言いたくなるんですけれども、そういう愚かなことをやっているんです。皆さん笑いますけどね、本当にそういうことをやっている。(略)

外の情報を断ち切って一点に集中するということは、大きな力を得るという利点はあります。様々な欲望を克服していったり、自分の弱さを乗り越えていく大きな力になるのは感じます。でも、先ほど居士林の笑い話をしたように下手をすると排他的になり、攻撃的になってしまう、諸刃の剣のような一面も持っているのではないかという懸念を抱いております。」

横田南嶺発言。「横田老師×熊野先生 禅―マインドフルネス対談」『サンガジャパンvol.32』80~84頁)



また、上座仏教の実践者の方の次の話も示唆的です。



「(ミャンマーにあるテーラワーダの)瞑想センターの一つで、(略)とても印象的な経験をした。(略)そこで既に七年以上も滞在している、古株の日本人僧侶(略)が私に対して開口一番に、『ここで瞑想しても人格はよくなりませんよ。』と言ったのである」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント「悟り」とは何か』64頁)



おそらく、この経験を踏まえて、同じ著者は次のような指摘をします。



「瞑想と人格のあいだには「関係」はあるけれども、それは「瞑想をやれば必ず人格が世俗的な意味で『よく』なる」といったような、単純でシームレスなものではない、というのが私の指摘していることです。」

(魚川祐司発言・プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』69頁)



このように、坐禅の実践を続けることにより、独善的になり、ほかの人に対する配慮を欠く人格になってしまうことは、禅宗や仏教における理念として慈悲が重視されるという立場に立った場合には、深刻な問題であろうかと思います。 

たとえば、禅の修行の目的は、禅的人格になることとされていますが、禅の修行の中核をなしている坐禅それ自体が禅的人格の形成に支障を来す要因になることを示唆するからです。



「禅堂生活は、空の真理が直覚的に把握せらるる時に終了すると考えられるばかりでなく、この真理が、あまたの試練・義務・紛争に満ちた実際生活のすべての方面において実証せらる時、そしてまた雨が悪者善者のわかちなくこれにひとしく降り注ぎ、あるいは趙州の石橋が馬・驢・虎・豺(さい)・亀・兎・人間などのすべてのものを渡すと同じしかたにて、大慈悲(karuna)の心を生ずる時に、終了すると考えられる。これこそは人が地上において成就しうる最大の修養である。そしてこれを何人もよくなしうるものではない。しかしながら、われわれが全力を尽して菩薩の理想に接近しようとするぶんには、何らの害はない。もし一生にして足らずとするならば、千万劫の未来世に望みをかけてもよかろう。かかる理想のあるものを確固として会得する時、僧は禅堂を辞去し(略)、世界という大社会の一員として、その仲間の中に投じ、実際生活を始める。」

鈴木大拙鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』157頁)



この引用の中の説明が、禅的人格の説明として典型的なものと思われますが、簡単にいえば、無償の利他行為を遂行し続ける人格といってよいかと思います。

しかし、実際には、禅の修行を完成しても、このような人格になることは、困難であるとされています。

先の藤吉慈海師の著作のほかに、秋月龍珉先生の著作では、字面は公案禅の問題点に関する指摘ですが、次のような指摘がされています。



「正直に告白すると、著者は公案禅というものに対して深い疑いをもった時代がある。それは、公案体系に参じて大事了畢したと称する者について、その行裏(あんり)(行ないの後)を見ると、そこにやはり煩悩の習気(じっけ。残り香)が、自我の分別が、明らかに見て取れるからである。そこには、いみじくも外国の好人が言ったように、『鼻もちならぬ禅臭』があって、『無我』であるはずの仏道を『大我禅』に落としてしまっている。(略)

公案だけでははたして本当に禅的人格が練出されるのだろうか。世のいわゆる大事了畢底なる人々を見て、私はそうした深い疑いを抱いた。」

(秋月龍珉『公案』333~334頁)



また、このような人格については、禅の修行を完了し、指導者となったいわゆる師家においても、認められることは少ないものとされています。



「師家は、釈尊以来インド・中国・日本と『仏祖的的相承底』すなわち師承正しい伝統の師から印可証明を得たものでなければならない。(略)しかし、これだはまだ一応の最低限である。この上に、専門的に『見地』の明らかな『道力』を具えた、そして世間的にも人格・識見ともにすぐれた人物を選んで師とすべきである。古川堯達老師が『師家たる者は、師匠ひとりだけが印可しても何もならぬ。真の印可は天下からからもらえ』と喝破されたのは、ここのことであろう。(略)

ただし、古来『真正の見解さえあれば少々不品行でもよい。正見ある者を師とせよ』と評してもある。行解相応の師など昔もなかなか少なかったものらしい。」
(秋月龍珉『公案』58頁)



少し話を変えますが、坐禅には、生理学的によい効果があるものと考えられると同時に、やり過ぎた場合には、種々の問題が生じることが懸念されます。



「長時間にわたる非思量や公案による本格的な禅瞑想は一部の例外を除いて受け入れられず……」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』111頁)

「リトリート(合宿)形式のマインドフルネス訓練が特に問題となりやすい」

(大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』32頁)



リトリートの参加者については、その終了後、日常生活に支障の現れる例もあるとされており、人間関係に問題が生じやすくなるのではないかが懸念されます。



「IMS(米国の瞑想センター)では、初めのうちは瞑想経験を世俗での生活に接続する(integration)の期間をとらずに、三カ月のリトリートを終えたら、「それではさようなら」と解散していたそうですが、そうしたらリトリートに参加していた女性瞑想者が、二日後に雑貨屋でパジャマを着たまま、歩行瞑想をしているのを見かけたそうです。(略)

あくまで極端な例だとは思いますけどね。とはいえ、やはりリトリートの参加者たちの中で、そこでの経験を瞑想センターの外での日常生活に、どのように繋げていけばいいのかという点に関する困難を、多かれ少なかれ感じた人は多かったようです。実際の所、日本で瞑想をしている実践者にも、同種の困難を感じている方々は多いと思います

(魚川祐司発言・プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』70~71頁)



純粋に精神の健康だけを考えるなら、近所のお寺で行われるような、週に1度、25分間の坐禅を2セットやって、後は、30分間くらい、ほかの参加者と一緒に、師家でもない普通のお坊さんと、煎茶と簡単な市販のお菓子をいただきながら、たわいもないおしゃべりをして終わる素朴な坐禅会がコストパフォーマンス的にもベストチョイスかと思われます。



「禅堂には、素敵なものはなにもありません。ただ、ここへ来て、座るだけです。お互いに意思を通じ合わせたあとは、家に帰り、また毎日の暮らしを純粋な禅の修行の続きとして行います。そして、人生の真の生き方を楽しむのです。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』258頁)

個人的には、こんなあり方が一番よいかも知れないと思っています。



3 統合失調症との関係

前稿でもふれましたが、2(1)に引用した文献の中に出てくる感情や対人コミュニケーションの障害の要因の一つとして現れる「統合失調症」も気になるところです。
 


「(統合失調症の症状としては)自分と外界の境界が曖昧になるために自我意識障害もみられる。これは、思考が他人に抜き取られる(思考奪取)、または吹き込まれる(思考注入)と観じたり、自分が誰かに操られている(作為体験)と確信したりする状況である。」
(原和明監修 渡邉映子 藤倉孝治編集『はじめて学ぶ人の臨床心理学』221頁)



禅宗では、見性体験のことを自他不二の体感などと表現することもあります。

統合失調症に認められる自我障害の症状は言葉尻としては類似しており、いわゆる見性体験の類は、長時間の過剰な坐禅等により扁桃体の活動が極度に低下した結果、一時的に統合失調症の症状が現れただけなのではないかと疑っています。

このように考えると、坐禅の長時間の継続により、生じる魔境のような現象についても、統合失調症様の幻覚・妄想の一貫として整合的に説明できるように思います。



「いい気持ちになって陶酔できるほどに定力が練れてきたころになると、定中にいろいろな現象があらわれることがある。その現象にはよいものもあれば悪いものもあるが、それらをひっくるめて古来『魔境』と呼んでいる。(略)

だれが考えても禅の進境に害があると明らかにわかっている魔境は、これを撃退する方法もおのずから立ちやすいが、これは好い境界だ歓迎すべき境界だとおもわれるようなものはちょっと始末が悪い。よく独参(略)のときなどに修行者が、『あたりが全部まっしろくなってしまいました』とか、『体が空になってズーッと天まであがって行き、天一杯にひろがりました』などといって、いかにも無を見たかのように得々としている者もある。もっとも私自身もそれに似たようなことをいって得意がっていたら、先師から『それは多分眠っているのだろう』などと冷やかされたこともある。」

(大森曹玄『参禅入門』117~118頁)

「(専門僧堂での修行の)過程のなかで、色んな幻想が湧き起ってくるわけで、これは古来『魔境』とか『現境』とかいって白隠禅では特に喧しく注意されているところですが、少なくとも、いい気分になる場合であれ、あるいは鐘の音が全身に突きささってくるような苦しい幻覚であれ、凡そ日常生活では味わうことのできぬ体験が臨済の修行にはあるというのは事実です。」

(西村恵信「済家の風」『禅研究所紀要第18・19号』78頁)



このような魔境は、マインドフルネスの世界でも禁忌とされます。



「(マインドフルネス訓練にあたり)自分を信じすぎるのは困りものです。瞑想中に光が見えたとか、神様が現われたといったような特殊な体験から自分は偉い人になったように誤解してしまうのは一番危険なことです。特殊な体験は魔境と言っています。このような状態は重要視しないほうが良いでしょう。とりわけ人格変容状態には気をつける必要があります。精神医学で診る人格変容状態は殆どが病的なものです。それにおぼれたり、こだわったりすることは強く避けるべきです。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号80頁)

「魔境とは、瞑想体験の中で出会う神秘的体験によって道を見失ってしまう落とし穴を警告するための言葉です。光が見えたり、体が軽くなったり、エクスタシーやエネルギーの流れを感じたりするような神秘体験自体は集中力のもたらす効果なのですが、自覚できない微細な欲望が残っている場合には潜在している劣等感を補償するための無意識的な取引に使われてしまい道を誤ることになりやすいものです。そして権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性をはらんでいます。」

(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号)88頁)


   
井上先生の魔境に関する「権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性」があるとの指摘は余り耳にしないものであり、興味深いものがあります。

「悟り」が一義的に特定されるものではなく、また、日常的に体験されるものではないことからすると、幻覚・妄想体験のうち何が「悟り」となり、何が「魔境」となるのかは、それぞれの宗教、宗派における指導担当者が決めていくということにならざるを得ません。

その意味では、宗教、宗派における指導担当者に服従しなければならないという関係性がどこかで生じます。

そのことを捉えて、井上先生は、魔境について、「権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性」があるとの指摘をするのではないかと思われます。

また、幻覚・妄想体験がどのように理解されるのかについては、事前に与えられる言語情報も要因として大きいように思われます。

たとえば、私が接した上座仏教の実践をしている人の中には、「リトリートが終わった後は、世界が汚く見える(そして、自分は清らか感じる)」という体験談をする人が相当数いました。しかし、禅の実践をしている人からこの種の話を聴いたことはありません。

これは、禅の場合は、坐禅和讃に見られるように、「衆生本来仏也」、「当処即蓮華国」などと世界を肯定的に見ることが強調されることに対し、上座仏教の場合は、「一切皆苦」の強調など世界を否定的に見ることが強調されることに、影響されているではないかと思っています。





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