【参考資料】『臨済録』学習ノート(作成中)

はじめに



禅には、様々な語録がありますが、私が禅を学び始めた最初の頃に接し、その現代的な洗練に驚き、未だに繰り返し読むものは、臨済義玄(?~867)の言葉をまとめたものとされる「臨済録」です。

日本の臨済宗において「録中之王」とされながら、仏教的教義の否定(無仏無法)を根幹にし、その帰結である仏教的実践や悟りの否定(無修無証)、その反射的帰結としての、ありのままの日常の肯定(平常無事)と人間の自由(去住自由)を高唱し、教義や仏教的実践は、仏教的実践に耽る病んだ人を治療する一時的な手段にすぎないものと位置付ける(一期藥病相治)。

現代では、ほとんどの人が、仏教などの特別な信仰や実践なしにきちんと生活していることに照らせば、臨済録に記述されていることは、つまらない常識論であるといえますが、9世紀の中国で、坐禅等の仏教の実践に耽る人たちにこそ問題があるという視点を持つ人がいたことが、私のとっての臨済録、そして、臨済義玄の魅力です。

禅というと、坐禅等の特別な修行を通して、悟りなどの特別な境地に達するものであるという通俗的なイメージがありますが、このような通俗的な禅のあり方は、宋代に形成されたものであり、これが日本にも継受されたものにすぎません。

私にも、このような通俗的なイメージがありましたから、初めて臨済録に記述された考え方に接したとき、驚いたものです。

その後、自分なりに書籍や論文を読むなどして勉強しながら、文献の内容などを書きとめてきました。

ネットなどを見ても、日本の禅宗(特に臨済宗)の基礎にある臨済録の考え方を知らない人も少なくないようなので、この際、ある程度まとめて、公開すれば、臨済録始めたとした禅に興味を持つ人にも何らかの役に立つのではと思いました。

前半として臨済録に関する一般論である〔前注〕と、後半として臨済録の各段の記述に沿い、その訳や解説類を記述した〔本編〕とに分けました。

〔本編〕は、大正新脩大蔵経・諸宗部(四)第47巻典籍ナンバー1985「鎮州臨済慧照禅師語録」をベースに、そこに取り上げられていない記述については、入矢義高『臨済録』に掲載されたものを引用しています。

本編の訓読や訳は、未整備のものが多いことから明らかなように、まだ勉強中の作りかけの学習ノートですが、これから少しずつ充実させていきたいと思います。





本稿の構成

〔前注〕
1 臨済録の中核的思想
(1)一般論
(2)教義の否定
(3)仏教的実践及び悟りの否定
(4)日常の肯定
(5)人間の自由=意志の重視
(6)馬祖禅との関係
2 臨済録の位置づけ
3 臨済義玄の位置づけ
4 臨済録の成立
(1)臨済録の成立経過
(2)臨済録における禅的法数
(3)正蔵版『臨済録』の評価
5 臨済録研究史
6 臨済録の読み方

〔本編〕 
第0 表記法
第1 「鎭州臨濟慧照禪師語録序」
第2 「鎭州臨濟慧照禪師語録」
第2の1 〔上堂〕
第2の2 〔示衆〕
第2の3 〔勘辨〕
第2の4 〔行錄〕
第3 「臨濟慧照禪師塔記」



〔文献略号〕

朝比奈 朝比奈宗源『臨済録』(タチバナ教養文庫版2000)
※あさひな そうげん、1891年1月9日 ~1979年8月25日、臨済宗円覚寺派管長。

有馬 有馬賴底『『臨済録』を読む』(2015)
※ありま らいてい、1933年2月10日~、臨済宗相国寺派管長。

入矢 入矢義高訳注『臨済録』(1989)

入矢・自己と超越 入矢義高『増補自己と超越 禅・人・ことば』(1986、岩波現代文庫版2012)

小川 小川隆『書物誕生――あたらしい古典入門『臨済録』――禅の語録のことばと思想』(2008)

沖本・虚構と真実  沖本克己「『臨済録』における虚構と真実」『禅学研究』第73号(1995)

衣川 衣川賢次『臨済 外に凡聖を取らず、内に根本に住せず 唐代の禅僧 8』(2021)

衣川・思想 衣川賢次「臨済義玄禅師の禅思想」『禅研究所紀要第34号』(2019)

呉 呉進幹『臨済禅の思想史的研究――その形成と展開――』(2019)

宗活 釈宗活『臨済録講話』(1924)

前田 前田利鎌『臨済荘子』(1932、岩波文庫版1990)

柳田 柳田聖山訳注『臨済録』(2004)
※やなぎだ せいざん、1922年12月19日~2006年11月8日、中国禅宗史研究者

柳田・ノート(続) 「臨済録ノート(続) ―中国臨済禅創草時代に関する文献資料の綜合整理の覚書(その五)―」『禪學研究』第56号(1968)

無文 山田無文臨済録』(1984
※やまだ むもん、1900年7月16日 - 1988年12月24日、臨済宗妙心寺派管長。





〔前注〕



1 臨済録の中核的思想

(1)一般論

〔1〕沖本・虚構と真実

「『臨済録』の主張命題の中心となるのは、外在する如何なる価値も権威も認めない絶対自由の立場の表明である。」(18)

臨済の説いてやまなかったのは屹立する単独者としての自覚である。」(20)

〔2〕大森曹玄「日本における臨済禅の展開」『講座禅第四巻禅の歴史―日本―』(1967)

「禅、特に臨済のそれは、一切の偶像を根こそぎ打破し、すべての外的な権威を徹底的に粉砕し、イデオロギーや既成概念の虚構を否定し、ひたすら人間の限りない自由と自主性を追求し強調するものであった。」(140)

〔3〕有馬

「「正しい」が「正しくない」に逆転することがある。今まで正しいと思ってきたことが正しくないのかも知れない、となる。「決めつけることは出来ない」と言うているんです。もっと大きく言うと「全部否定している」。全部否定が『臨済録』の『臨済録』たる所以。」(45~46)



(2)教義の否定

〔1〕入矢220解説

「彼自らも言う、「わしが外には法はないと言うと、皆はその真意を理解しないで、今度は内に求めようとする」、「外にも法はない、内にも得られはせぬ」と。「仏もなく、法もなく、修することもなく、証することもなし」とする究極の空観に彼は立つ以上、もし何らかの主宰者を己れの内に立てるならば、それはいわばウルトラ仏の内在を自ら認めることにほかならない。それは忽ち「仏魔」と化して、こちらを金縛りにするであろう。「仏を求め法を求むるは、即ち是れ地獄を造る業なり」。」

〔2〕有馬170~171

「「あらゆる経典、あらゆる説法、みんなどんなに素晴らしくても、「病を治した薬みたいなもの」、つまり、病が治ったらもう薬はいらんよ。薬なんてなんの役にも立たんよ。一時の病は治すかも知らんが、すべての病を治す薬なぞない。病を治したという真似事をしとるだけや、と。これも例え話。仏さんの言うことをいろいろまともに受け取ったらいかんと。そしてまた同じことを言いますね。

仏教そのものが偽物やと。坊さんも文字を並べて偉そうなことを言ってるだけや。」

〔3〕前田73

臨済は旧来の思想、――特に仏門における伝統的な一切の反生命的偶像の破壊者、従って人間生命の徹底的解放者であった。」



(3)仏教的実践及び悟りの否定

〔1〕衣川376

「「無事」とは、自心が佛である以上、悟りを求めて看経看教することは不要、無修無証であって、むしろ作佛の意を起こすことこそ却って清浄心を汚すものとする、中唐以後の新興馬祖禅の基調思想で、大珠慧海、黄檗希運らが格調高く唱道した。義玄も基本的にその思想に遵い、『臨済録』はここを除き一五回も「無事」の語を使用している。」

〔2〕無文151

「世間の人は、禅宗では修行をして佛になる、修行をして悟りを開くのだと言うのであるが、とんでもない間違いじゃ。二十年や三十年修行して凡夫が佛になれるわけはない。修行をしてみたところが煩悩だらけだ。飯を食わねば腹は減る。寝ずにおるというわけにもいかん。

そうではない。人々は修行せんでも、ちゃんと立派なものを持っておると決定(けつじょう)せねばいかん。悟りを開かんでも佛性はちゃんとあると徹底せねばいかん。ご信心をいただかんでも、如来さまはちゃんと救うてくださると決定せねばいかん。そこが衆生本来佛なりということだ。修行してから佛になるのではない。悟ってから佛になるというのではない。オギャーと生まれた時から、佛であり、みんなお助けをいただいているのである。そこを誤解してはいかん」



(4)日常の肯定

〔1〕入矢222解説

「「仏もなく、法もない」となれば、では求道者はどうすればよいのか。外にも求めるな、内にも求めるな。「平常無事」であればよい。「ほかでもない〔今そこで〕この説法を聴いている無依独立の君たち道人こそが諸仏の母なのである。だから、仏はその無依から生まれる。もしこの無依に達したならば、仏そのものも無存在なのである。こう会得したならば、それが〔平常の〕正しい見地というものである」

〔2〕小川

「聖性の否定は、臨済に限らず、禅宗一般の顕著な傾向のひとつである。」(156)

「聖なる価値を定立しようとする意識も、それをムキになって否定しようとする意識も無い、あるがままの、ただあたりまえのありかた。それを唐代の禅者が「平常(びょうじょう)」といい「無事(ぶじ)」と言っていた」(159~160)

「「道は本と無事なるに、強(あなが)ちに多事を生ず」。「多事」はすでに看た「多子(たす)」と同義。多数の事ではなく、よけいな事。「道」に聖なる意味づけをし、それを対象化して追い求めようとする行為、すなわち馬祖のいう「造作」「趣向」がこれに当たる。「無事」とは、そうしたくだくだしきよけい事のない、ただあるがままの「平常」のありかた、ということである。」(162)

〔3〕前田31

「禅門においては厳密にいえばただ生活があるばかりで、決していわゆる学的体系は成立し得ない。」



(5)人間の自由=意志の重視

人間を外部的に規定する教義が否定されたときの行動の基準は、個々人の意志によることになります。

「祖仏不別」など馬祖における「即心是仏」なども意志の尊重の前提となる個々人の尊重を意味する言葉と言えるかと思います。

その考え方のベースには、特別な修行をせずとも、人間のあり方には問題ないとする、いわゆる「無事禅」があります。

禅というと坐禅等の特別な修行をして、特別な境地に達するものというイメージを抱かれがちですが、臨済録に記録された考え方の主唱者である臨済義玄等の唐代の禅者の中では、坐禅等の特別な修行を不要とする考え方が一般的でした。

また、教義を否定した場合、何を基準として生きるかが問題となりますが、人間を外部的に束縛するものがない以上、個々人の意志によって決するほかないというのが帰結でしょう。

〔1〕前田90

「自分の見るところでは、「権力意志」という言葉は、禅門の基調を語るに最も適切な言葉であるように見える」

〔2〕鎌田茂雄『華厳の思想』(1988)85~86

「『臨済録』は、仏に生かされるなどと思うやつはばかだ、仏に生かされる理由は何もない。自分は自分で生きるだけ、自分は自分で死ぬだけで、死んだら何もないという、人間の意志の宗教である。

華厳経』の「性起品」を貫徹させてくと臨済のようになっていき、さらに貫徹させると唯物論に転じていく。」

〔3〕沖本・虚構と真実18

「『臨済録』の主張命題の中心となるのは、外在する如何なる価値も権威も認めない絶対自由の立場の表明である。このことについてはもはや蟄言を要しないであろう。」



(6)馬祖禅との関係(呉130~131)

「馬祖の提示した「作用即性」の悟道論をめぐる探究は晩唐に至ってもやはり重要な関心事であった。そして、馬祖禅の流行にともなって、その弊害も生じていたことが考えられ、それに対する批判や反省の動きが起こり、またそれを克服するために新たな思想が形成されたことがわかる。

馬祖禅の思想の核心は「即心是仏」(わが心こそが仏である)と、それを体得する悟りの方法「作用即性」(見聞覚知のはたらきこそが仏性である)のふたつに集約される。一方、晩唐臨済は基本的に馬祖禅の基調思想を受け継いでいるが、しかし彼は、当時の叢林で馬祖「作用即性」説の観念化、及び「作用即性」を示す動作や言葉を表面的に模倣する現象(「作模作様」)を厳しく批判していた。そして、これらの弊害を克服するために、臨済は般若空観を思想的背景とした「空」の思想を大いに用いて接化し、そして彼が理念としての空観にとどまらず、いま説法を聴いている〔仏と同じである〕修行者自身を主体性・主人公(すなわち「随処作主」説)として積極的に説いた。

すなわち言葉によるさまざまな観念に執われないことが、臨済の馬祖「作用即性」説の観念化した弊害への克服である。そのうえで更に、臨済は現にいま説法を聴いている修行者自身こそが仏であることを当の相手に確信させ自覚させる、これがすなわち「即心是仏」なること(「一心」)の体験であることをくりかえし語った。

それは、晩唐時代における禅宗の盛行にともない、馬祖禅の延長として、馬祖禅の再検討の影響下に位置づけられるものと認められる。」



2 臨済録の位置づけ

(1)元々は日本の臨済宗とは関係がない(入矢219)

「『臨済録』は、もともと臨済宗聖典なのではない。そういう宗とか派とかいったセクトとは全く無縁の書である。臨済禅師は唐代末期(九世紀)の人であるが、そもそも唐代禅には、六祖慧能いらい、宗派の別によるセクト意識などは全く無かった。」



(2)日本の臨済宗における「録中之王」

〔1〕朝比奈7~8

「師(臨済)の宗風は、古来臨済将軍と評されて、(略)喝雷棒雨、殺活自在なるものがあった。だから円悟は「臨済は則ち全機大用、棒喝こもごも馳せ、剣刃上に人を求め、電光中に手を垂る」と評し、わが国の道元は、「祖席の英雄は臨済徳山という、しかあれども、徳山いかにしてか臨済に及ばん。まことに臨済の如きは、群に群せざるなり、、その時の群は近代の抜群よりも抜群なり、行業純一にして行持せりという。機枚機般の行持あんりとおもい擬せんとするに、あたるべからざるものなり」(正法眼蔵行持)と称嘆した。

故に本録は古から語録中の王と推称されている。」

〔2〕無文ⅰ

「何というても宗門では、この臨済録が背骨である。この臨済録をよく拝読して、会得しておかんというと、臨済下の衲僧ということは言えんはずである。」(無文ⅰ)

〔3〕小川92

「『臨済録』に関する書物には、しばしばこれを「録中の王」と称する書物には、しばしばこれを「録中の王」と称する紹介が見受けられる。だが、それは白隠の弟子、東嶺円慈の『五家参詳要路門(ごけさんしょうようろもん)』の語であって、その評価には臨済宗の宗祖の語録としての『臨済録』という前提がある。」



(3)日本の臨済宗において臨済録が重視される到る経過

臨済録は、日本臨済宗においては、「宗門第一の書」とされていますが、このような位置づけになった経緯については、次の記述があります

〔1〕江戸期における幕府の指導を端緒とする説(衣川290)

「江戸初期(十七世紀)にいたって、戦国時代の疲弊荒廃した文化情況が一変し、京都を中心とする出版がにわかに活況を呈して、『臨済録』刊本が陸続と出版され、五山版に対する本文校訂もおこなわれた。これとともに鎌倉・室町以来の禅林における講説をもとに、『臨済録』の全体にわたる詳細な「抄物(しょうもの)」と呼ばれる漢字またはカナによる注釈が公刊され、広く受用されるにいたった。これは佛教各宗に対して「宗派性を明確にせよ」という江戸幕府の宗教政策の指導によるもので、その結果、臨済宗は宗祖の語録として『臨済録』を重視するにいたったと言われている。」

〔2〕隠元隆碕の来朝を端緒とする説(柳田・ノート(続)15~

「江戸時代以前に於ては、主として碧岩録を以て「宗門第一之書」と称して、その参究に力めたが、これは日本中世の禅林で、碧岩の偶顛の美しさを喜んだためで、四六駐侮の綺を競う五山文学の全盛に厭せられて、臨済録は碧岩録ほどには読まれなかった様である。

然し江戸時代に入ると、この傾向は、にわかに逆転し、臨済録への関心が勃興し、多数の注釈書等が作られることとなった。

これは、主としてこの時代に、中国から隠元隆碕(1592-1673)が来朝して中国風の禅を伝え、新しく黄桀山万福寺を開創し、日本禅林に大きい刺激を与えたことによるのであろう。」



3 臨済義玄の位置づけ

〔1〕朝比奈16

「本録の主人公臨済は、中国の禅宗史上にも第一流の偉大な禅者」

〔2〕秋月龍珉『公案』(1965、ちくま文庫版1987)9

「中国唐代の二禅将臨済と徳山(この二人はわが日本の臨済宗では初祖達磨と並べて「磨・徳・臨」と称するほど親しまれた代表的祖師である)」

〔3〕呉 進幹「臨済禅の南伝と臨済宗の形成 : 五代宋初臨済禅の一考察」 『禪學研究』97(2019)1

臨済義玄(?-866)は中国思想史上の転型期と言える晩唐に生きた代表的禅僧の一人であり、馬祖下第四世に当たる。特に北宋の後半期から臨済宗の禅僧たちの活躍がめざましく、雲門宗とともに禅宗の代表的な教団となった。南宋になると、臨済宗は中国全土に拡がってゆき、中国仏教の主流の一つとなった。」



4 臨済録の成立

(1)臨済録の成立経過

〔1〕衣川16~17

「『臨済録』テクストの「示衆」部分は比較的早い時期(十世紀中葉)に定型ができあがるが、「行録」、「勘弁」、「上堂」部分は臨済歿後の第三世南院慧顒(なんいんえぎょう)(生卒年未詳)――第四世風穴延沼(ふけつえんしょう)(八九六~九七三)――第五世首山省念(しゅざんしょうねん)のころ(十世紀後半から末)に、児孫による宗派形成の過程において一則ごとに附加されていったと考えられる。すなわち、臨済禅師の説法は早い時期に編纂されてまとまっていたのに比べ、伝記的事実がほとんど知られなかったため、歿後に時を経てから、宗祖の事蹟として附加され、「行録」、「勘弁」、「上堂」として編輯された部分には、右の児孫時代の宗祖造が反映している。」

〔2〕衣川・思想101

「「示衆」は『臨済録』の主要部分を占めているが、この部分は唐代末期から五代(一〇世紀後半)、すなわち臨濟禪師圓寂(咸通七年、八六六)のほぼ一〇〇年後には成立していたと考えられる。示衆以外の部分(圓覺宗演再編本に分類された「上堂」、「勘辨」、「行錄」に相當する部分)は成立が遅く、したがって後代の思想を混入している可能性を含むのに對して、「示衆」はもっとも信頼できる資料である。」

〔3〕呉 進幹「臨済禅の南伝と臨済宗の形成 : 五代宋初臨済禅の一考察」『禪學研究』(2019年)97

「『鎮州臨済慧照禅師語録』(『臨済録』と略称)は、臨済の説法と言行の記録を集成した語録であり、「上堂」「示衆」「勘弁」「行録」の四篇から成るが、その成立過程には若干の問題がある。すなわち、この四篇のうち、「示衆」は臨済示寂の約百年後、北宋初には定型を成していたが、「行録」「勘弁」「上堂」に収録された諸則は臨済宗形成の過程で、宗祖の事蹟として一則ごとに收集されたと考えられ、それは増補附加した後代(すなわち五代宋初)の人びとの時代の問題意識とかかわっている。」



(2)臨済録における禅的法数

鈴木大拙は、『臨済の基本思想』において、「三句」、「三印三要」、「四料簡」等の禅的法数の説明を試みたものの、失敗したとされますが、その要因としても、これらのものが後年付け加わったものであるからとの見解が一般的です。

〔1〕柳田・ノート(続)

「四照用、四賓主などの説が、臨済の喝に関するものとされ、彼の正法眼蔵の重要なる本質と見られるのは、宋初以来のことであり、臨済義玄その人の説法から言えば、すべて後代の発展に外ならず、宋代に盛えた五家の随一としての臨済禅の立場から、故らに主張されたものであり、臨済録そのものもまた宋代の臨済禅の立場からするかなりの影響を受けていることは争えない。特に、人天眼目に収められる五家の宗風の如きは、すべてそうした宋代の説の集録であり、右に挙げた喝と賓主の一段が、後に重刻古尊宿語録に収める「臨済録」や「五燈会元」に至って、更に異って伝えられているのは、人天眼目以後に於ける新しい発展に外ならぬ。」

〔2〕衣川342~343

「「三句」、「三印三要」(略)、「四料簡」(略)においては、これら『臨済録』中の禅的法数について、大拙ははじめは解釈しようとしてうまく説明できず、もてあまし、ついに投げ出して、抄物(『秘録』、『秘抄』、『秘弁』)を長々と引いて、結局納得がゆかず、最後にはこれらを「教相家の常套」、「甚だ禅的ならざるもの」(略)と言い、伝統的解釈への不満を表明したのであるが、(略)これらの法数は、じつは臨済下の法孫によって附加された部分であって、そのことは『臨済録』テクスト形成史の問題として解決できることである。」

〔3〕呉147

「かつて鈴木大拙(1870-1966)は、その臨済宗の綱要となる「臨済三句」「三玄三要」などを、いわゆる「人」思想と関連させて解釈し、結局最後にはこれらを「甚だ禅的ならざるもの」「教相家の常套」「禅家にはもっと超越的なものと云ふべき立場がなくてはならぬ」と言い、そうであれば、無視してよいものとされた。大拙とほぼ同じ時期の研究者である陸川堆雲(1886-1966)は大拙と同じ姿勢であり、その「三玄三要」などを「怪奇の諸説」として放棄してよいと斥けている。しかし、実はこれらは臨済下の人々によって形成された部分であって、そのことは臨済下の動向と関連させつつ、『臨済録』各則のテキスト形成史の問題として考えるべきである。」



(3)正蔵版『臨済録』の評価(柳田・ノート(続)15

「大正新修大蔵経第四十七巻所収の臨済録は、永享九年版を底本として、増上寺報恩蔵明版古尊宿語録、宮内省図書寮本、慶安二年本、延徳三年本の四種を校合したもので、今日用いうるテキストとして最良の本である。」



5 臨済録研究史(柳田・ノート(続)15~

「日本の臨済宗では、古来、何時頃からか明かでないが、臨済録、碧巌録、大慧書、虚堂録、五家正宗賛、江湖風月集、禅儀外文の七部を、宗門七部書(禅林執弊集二十二丈aに見ゆ)として尊重し、その参究講読に力めて来て居る。七部の中、時代によってその研究方法に変遷消長が見られるが、臨済録は、江戸時代初期より中期に他のものよりも特に尊重され、東嶺円慈(1721-1792)如きは、その五家参詳要路門に、
.
古来、以本録称録中之王。

と言って居り、この態度は、今日の臨済宗でも変らない様である。

蓋し、江戸時代以前に於ては、主として碧岩録を以て「宗門第一之書」と称して、その参究に力めたが、これは日本中世の禅林で、碧岩の偶顛の美しさを喜んだためで、四六駐侮の綺を競う五山文学の全盛に厭せられて、臨済録は碧岩録ほどには読まれなかった様である。

然し江戸時代に入ると、この傾向は、にわかに逆転し、臨済録への関心が勃興し、多数の注釈書等が作られることとなった。

これは、主としてこの時代に、中国から隠元隆碕(嵩1592-1673)が来朝して中国風の禅を伝え、新しく黄桀山万福寺を開創し、日本禅林に大きい刺激を与えたことによるのであろう。(略)

尤も、これに先立って、すでに五山禅林に於て、種々の人々が臨済録の研究、講読をしていた事実はある。今日知られているもののみについても、古く夢窓疎石(1275-1351)
の孫弟子に当る空谷明応(1328―1407)に、「臨済録直記」(三巻)の著があり、その転写本一部を故陸川堆雲氏が蔵せられている(略)。
江戸時代初期(1603ー)に於ける臨済録研究の最もすぐれた業績は、沢庵宗彰(1573―1645)の「臨済録秘抄」と、万安英種(1591-1654)の「臨済録抄」(カナ抄)であって、前者は主として大徳寺の開山大燈国師(1282―1337)以来の大徳寺系の参究記録を集大成したものであり、遂に秘抄とされて刊行を見なかったけれども、後者は、一般に親しみやすい片カナによる註釈で、寛永九年(1632)、村上平楽寺より刊行され、通名「万安抄」の名によって盛んに流行するに至った。(略)

五百年間出と自称する白隠慧鶴あり、享保十七年(1732)五十三歳にして、原町の松蔭寺に在って本録を提唱し、その嗣東嶺もまた本録を尊重したから、爾来、白隠系の参禅に本録の用いらるること緊密を加えるに至ったが、東嶺以後の人々の関心は、再び碧岩、無門関に移った如くで、本録研究にあまり見るべきものが存しない。而して右の如き江戸中期以来の傾向を改めて、特に臨済録を重視したものは、円覚寺の釈宗演(1859―1919)で、宗演の嗣宗活は「臨済録講話」(1924)を著し、宗源が岩波文庫臨済録」(1935)を作ったことは我々の耳目に新しいところであ(る)。」



6 臨済録の読み方

「現代のわれわれは、『臨済録』をもっと率直かつ自由に読んでよい。「もっと」とは、「この改版での扱いよりももっと」という意味である。臨済その人がまさに率直な人格だったのだし、「自由」もこの人の愛用語だったのである。」(入矢230)





〔本編〕





第0 表記法

(1)原文のベースは、基本的に花園大学国際禅学研究所禅籍データベース
http://iriz.hanazono.ac.jp/frame/data_f00a.html) 
に掲載された「正蔵版」(大正新脩大蔵経・諸宗部(四)第47巻典籍ナンバー1985「鎮州臨済慧照禅師語録」)のものになります。

(2)見やすさと整理のため、入矢義高『臨済録』の段分けに準拠し、適宜、「第●段」、「第●段の●」などと段落番号を付しました。

(3)「上堂」の各段の表題は、山田無文臨済録』に依りました。



第1 「鎭州臨濟慧照禪師語録序」(入矢9)



1 第1段(入矢9)

延康殿學士金紫光祿大夫
眞定府路安撫使
兼馬歩軍都總管兼知成徳軍府事馬防、撰



2 第2段(入矢9~10)

黄檗山頭、曾遭痛棒。大愚肋下、方解築拳。饒舌老婆、尿床鬼子。
這風顛漢、再捋虎鬚。巖谷栽松、後人標榜。钁頭【屬斤】(注1)地、幾被活埋。
肯箇後生、驀口自掴。辭焚机案、坐斷舌頭。不是河南、便歸河北。

(注1)辺を屬、旁を斤とする文字。訓読は「ほ」り。



3 第3段(入矢10~11)

院臨古渡、運濟往來。把定要津、壁立萬仭。奪人奪境、陶鑄仙陀。
三要三玄、鈐鎚衲子。常在家舍、不離途中。無位眞人、面門出入。
兩堂齊喝、賓主歴然。照用同時、本無前後。菱花對像、虚谷傳聲。
妙應無方、不留朕跡。



4 第4段(入谷12)

拂衣南邁、戻止大名。興化師承、東堂迎侍。銅瓶鐵鉢、掩室杜詞。
松老雲閑、曠然自適。面壁未幾、密付將終。正法誰傳、瞎驢邊滅。



5 第5段(入谷13)

圓覺老演、今爲流通。點檢將來、故無差舛。唯餘一喝、尚要商量。
具眼禪流、冀無賺擧。宣和庚子中秋日謹序。





第2 「鎭州臨濟慧照禪師語録」(入谷15)

鎭州臨濟慧照禪師語録
住三聖嗣法小師慧然集



第3-1 〔上堂〕(注1)

(注1)「「上堂」は禅院の長老が法堂の法座に昇って、修行者を前に説法し、次いで問答応酬する行事。」(衣川69)



1 「王常侍が説法を請う」

(1)第1段(入矢15~16)

一、府主王常侍、與諸官請師升座。師上堂云、山僧今日事不獲已、曲順人情、方登此座。
若約祖宗門下、稱揚大事、直是開口不得、無爾措足處。山僧此日以常侍堅請、那隱綱宗。
還有作家戰將、直下展陣開旗麼。對衆證據看。
僧問、如何是佛法大意。師便喝(注1)。僧禮拜。師云、這箇師僧、却堪持論。
問、師唱誰家曲、宗風嗣阿誰。師云、我在黄檗處、三度發問、三度被打。僧擬議(注2)。師便喝、隨後打云、不可向虚空裏釘橛去也。



(注1)喝の意義

臨済録を含め、禅の語録には、師が学人を「喝」と怒鳴りつける場面がよく出てきますが、その意義については、次のような見解があります。

〔1〕有馬220

「有馬 そうそう。『臨済録』の中で、修行者が質問するでしょ。何かを言おうとすると、バーンとどつかれる。なんでどつくかと言うとね、その質問が合っているとか間違っているという問題じゃない。質問を出すこと自体を打ち砕く。だからバーンと叩く。
――質問をするということが、もう捉われているということなんですね(笑)。
有馬 そうです(笑)。」

〔2〕石井清純『禅問答入門』(2011)20

「仏法の本質を他者に問うということは、問う相手が自分の師匠であったとしても、本来自分で探し出すべき自分の本質を他人に聞いていることになって、質問した時点で、すでに禅の本質からはずれていることになります。

(略)黄檗希運(生没年不詳)という禅者は、「仏法の本質とは何でしょうか(如何なるか是れ仏法の大意)」と質問した弟子の臨済義玄(?~八六七)を、棒でしたたかに打ち据えました。(略)今までに見てきた禅の基本から考えると、「叩かれて(痛みを感じる)己が身がそれだ!」という、黄檗なりの親切な指導ということになります。

同じ質問に臨済本人が答える場合は、「喝」を用いています。これは、「ウヮー」と大声で怒鳴ること。この場合は、臨済が、自己自身の尊厳性を示したものと考えられます。「ほれ、それならここにすべて現われておるわい」といった趣でしょうか。



(注2)「擬議」

「「擬議」とは、入矢訳では「もたついた」(英訳本…げΦ降暮Φ)になっているが誤訳である。これは、僧が言語によって論理的に対応しようとしたその意図を示すもので、それが臨済によって拒否されたのは、臨済の求めていたものが「議論」ではなかったということである。」(沖本・虚構と真実37)



(2)第2段(入矢17~18)

有座主問、三乘十二分教、豈不是明佛性。師云、荒草不曾鋤(注1)。主云、佛豈賺人也。
師云、佛在什麼處。主無語。師云、對常侍前、擬瞞老僧。速退速退。妨他別人諸問。
復云、此日法筵、爲一大事故。更有問話者麼。速致問來。爾纔開口、早勿交渉也。
何以如此。不見釋尊云、法離文字、不屬因不在縁故。爲爾信不及、所以今日葛藤。恐滞常侍與諸官員、昧他佛性。不如且退。喝一喝云、少信根人、終無了日。久立珍重。



(訓読)「有座主問」~「荒草不曾鋤」有馬110

座主有り、問う、三乗十二分教は、豈に是れ仏性を明かすにあらざらんや。師云く、荒草(こうそう)曾(か)つて鋤かず



(訳)「有座主問」~「荒草不曾鋤」

〔1〕有馬110~111

座主が問うた、「三乗教や十二分教などの仏の教えの一切は、すべて仏性を解き明かすものではありませんか。」師「そのような道具では無明の荒草は鋤き返されはせぬ。

〔2〕小川101

「座主、「しかし、そうは言っても、仏が説かれたコトバとして、現に種々の経典が遺されておる。それらはまさに仏性を明らかにするものではござらぬか」。「わしは雑草を鋤いたことなどない(煩悩を除いて仏性を明かすという経論の説は、所詮、第一義ではありえない)」。」



(注1)「荒草不曾鋤」の理解(有馬110以下)

「仏教ということ自体が既に“こだわり”なんです。経典に縛られていたらあかん。もっと自由にあなたの自然の姿で人々に接したらいいと、臨済は言うのです。」(112)



2 「観音菩薩の正眼」(入矢19~20)

二、師、因一日到河府。府主王常侍、請師升座。時麻谷出問、大悲千手眼、那箇是正眼。
師云、大悲千手眼、那箇是正眼、速道速道。麻谷拽師下座、麻谷却坐。師近前云、不審。
麻谷擬議。師亦拽麻谷下座、師却坐。麻谷便出去。師便下座。



3 「赤肉団上に無位の真人有り」(入矢20~21)(注1)

三、上堂。云、赤肉團上有一無位眞人、常從汝等諸人面門出入。未證據者看看。時有僧出問、
如何是無位眞人。師下禪牀、把住云、道道。其僧擬議。師托開云、無位眞人是什麼乾屎橛。便歸方丈。



(訳)沖本・虚構と真実35

上堂説法。「生身のからだには無位の真人がいて、常にお前さん達の眉間から出入している。まだ見届けていないものは、しかと見よ。」その時ある僧が進み出て尋ねた、「無位の真人とはどんなものですか。」師は禅鉢を降りるや僧の胸倉をつかんでいった、「さあ言ってみろ。」その僧が答えようとすると、師は突き放して言った、「(この)無位の真人はまた何と見事な干からびた糞であることよ。」さっと方丈に帰った。



(注1)「無位の真人」の位置づけ

〔1〕入矢義高

「無位の真人」については、(日本)臨済宗の宗門では、強い意味付けを与えられていますが、入矢・自己と超越では、無位の真人は、善巧方便にすぎず、実質的な意味を与えるのは不適当であるとの見解を示します。

「『臨済録』では「無位の真人」という言葉はたった一回しか出て来ない。一番多く出て来るのは「無依の道人」ですね。「真人」とはずいぶんニュアンスが違います。「道人」は道者といっても同じですが、したたかな本色(ほんじき)の修道者をいいます。真人となりますと、もともとこれは道家の用語で、一種の理想像ですね。道に達した理想の人に与えられた言葉です。その点で大変形而上的です。道人はそうではなくて、ガッシリと大地に根を下ろしたしたたか者です。そこが非常に違う。私は、臨済が「無位の真人」という言葉を使ったのは方便の説法だと思います。一種の善巧方便から来た用語(ターム)だと思うのですけれども、たとえ善巧方便にしろ、方便説法をやることの恐ろしさを、あの玄沙の烈しい批判を読むことによって、私はつくづくと感じさせられました。」(27)

「『臨済録』を読みますと、臨済が「無位の真人」と言っているのは、たった一回きりです。あとは「無依の道人」と言っているんですね。「無依の道人」というのは現在の聴衆、現にその説法を聴いている人たちを直指して言っているのです。しかし「無位の真人」と言うと、もうひとつそういう神的な価値主体があるかのような観念を誘い出します。そこに破綻を露呈している。玄沙はそこを鋭くついているわけです。

ところが、『臨済録』全体を見ますと、たとえば「君たちは祖仏を知りたいと思うか。その祖仏とは他ならぬ、今げんに目の前で説法を聴いている君たち自身がそのままで祖仏なのだ」と、こういう言い方をするのが通例です。無媒介に祖仏と等置するのです。それなら、「無位真人」などという媒体は全然いらないはずです。臨済自身も「無位真人」とは何か」と問われて、すぐさま「是れなんの乾屎橛ぞ」と言って、それを消し去ってはいます。」(76~77)

入矢義高訳注『臨済録』の解説も参考になります。

「唐代の禅では、八世紀ごろから「自己」という用語が愛用され始める。それは、一者・絶対者としての仏と対決する気概を籠めた言葉であり、聖なるものへの反措定であった。臨済の師であった黄檗は、「三千世界(全宇宙)はすべて汝という自己にほかならぬ」と教えたし、また「学人(わたくし)の自己とは一体なんでしょうか」という一見奇妙な問い方が、九世紀になると定型化するに至った。「自己本来の面目」「自己本来の主人公」もそうである。さらには「超仏越祖」(仏祖をも超え出たところ)とか、「仏向上事」(仏の上へ踏み出た世界)という新用語が、臨済の時代には特に南方で流行した。つまり一種の超越志向(transcendentalism)の氾濫である。臨済の有名な「仏を殺し祖を殺す」という発言も、一見この志向につながるかと見える。しかし彼には、上述のようなギラリとした「自己」(self)の措定は全くない。せいぜいのところ、「一箇の父母」とか、「自家屋裏」(自分の家のなか)という、おとなしやかな言い方だけである。」(225~226

〔2〕沖本克己

「ここに「真人」とは従来道教の用語であるとされているが、阿羅漢の訳語として用いられた経緯もあり、また禅宗とも関連の深い荊渓湛然(七―ー―七八二)の『法華文句』に、「証真之人故日真人」(大正三四巻一六八上)といい、李通玄(六三五―七三〇)の『新華厳経論』にも「総法界智之真人」(大正三六巻七七六下)などの用例がみられ、精査すればもっと多くの用例を検出することができるであろう。仏教語としてもさほど珍しくはない用語なのである。即ち、その源が仮に『荘子』にあるとしても、それを臨済のオリジナルと考える必要はない、ということである。」(沖本・虚構と真実36)

臨済は「無位の真人」といういささか立派すぎ、かつ誤解を招き易い言葉をうっかり用いたが、これも道化師役の迂闊な僧のおかげで干澗びた糞に疑め得たのである。つまり「真人」と「糞」はまったく等価なのである。この動きをともなった咄嵯の作略、ないしは「落ち」を抜きにしてはこの寸劇も完結しないのである。(略)

ところが、その後の禅宗は、無位の真人も内在的超越者ではないこと、また一時的な、動的な措定でしかないこと、を明示する重要な後半部分を捨てて、「無位の真人」を定立させてしまう。これを絶対的独脱の立場だの、無相の自己だのとほめそやし、一人歩きさせてしまったのである。精神の衰亡以外のなにものでもあるまい。」(沖本・虚構と真実38)

さらに、そもそも臨済義玄は、「赤肉団上、有一無位真人」との言葉を使っていなかったされる。

「「赤肉団」が現れるのは、テキスト自体の成立は早いが内容の変化が大きいとされる北宋版『伝灯録』が最初で、元版もそれを継承するが、却って成立の遅い高麗版が『伝灯録』では現存最古型を保存するとされる南宋版に相似するのが注目される。

また、「赤肉団」という表現は『伝灯録』では臨済の本伝(一二巻)にしか見られず、別に記録された示衆(二八巻)や、何よりも同時代人である玄沙などの言及にはそれは反映していない。そして本伝は何度も変化を受けて成立した『臨済録』とよく対応し、直結するものである。こう考えれば、結論として臨済はこの語を用いておらず、「赤肉団」は後世の変容の結果であるとするのが自然であろう。(略)

以上によって、臨済義玄その人は、「赤肉団上、有一無位真人」なる言葉は用いていないことが明らかとなった。」(41)

〔3〕衣川賢治(衣川・思想124~125)

「〈一無位の眞人〉が顔面(「面門」)から出入りしているとはどういうことか?人間の見聞覚知の感覚作用を「顔面から〈六すじの神光〉が光を放つ」(示衆)と譬喩表現をし、これを「無位の真人が出入りしている」と擬人化したのである。「眞人」とは道家で用いられた道の體得者(『莊子』大宗師篇)で、魏晉南北朝時代の漢譯佛典では阿羅漢(修行の最高位に逹した人)を言うが、「無位」を冠しているから、もはやそれらとは異なって、地位・位階の價値枠に收まらないものの形象化である。(略)

「赤肉團」、「五蘊身田」と「無位の眞人」を別のように言ってはいるが、「無位の眞人」とは生き生きと活動する生身の人間のことにほかならない。生身の人間のほかに超越的な實體を認めているのではないのである。しかし「赤肉團上有一無位眞人、常從汝等諸人面門出入」という言葉には、容易に「超越的なるものの存在」を想像させてしてしまいやすい。「眞人」の語は道教における道の體得者(仙人)でもある。果してこの上堂においても、「未だ證據せざる者は看よ看よ!」と言うと、さっそく僧が「如何なるか無位の眞人?」と問うた。臨濟禪師はただちに禅牀を降りて僧を捕まえ、「道え、道え!」(このお前こそが〈無位の眞人〉なのだ。問うのでなく、みづから〈無位の眞人〉たるところを言え!)。僧が何やらもぐもぐするや、臨濟は突き放して、「〈無位の真人〉がなんたる糞棒か!」と言い捨てて、方丈へ歸ってしまった。格調高く切り出された「無位の眞人」の説法は、失敗に終わり、臨濟禪師は〈無位の眞人〉の揚言を悔いつつ、不機嫌に方丈へ引きあげざるを得なかった。以後、かれは二度とこの語を使わなかったのも、このような誤解を恐れたためである。福建にいた雪峯義存(八二二~九〇八)はこの話を傳聞して「林際は大いに白拈賊に似たり!」と舌を卷いたという(『景德傳燈錄』巻一二。『祖堂集』巻一九では「林際は大いに好手に似たり!」)。「白拈賊」とは痕跡をのこさぬ大膽な白晝強盗をいう。それは「無位の眞人」と言って、それが僧に誤解されるや、ただちに「乾屎橛」に轉化して僧を惡罵した。臨濟の電光石火の手腕を讚えた感歎の語である。同時代の雪峯も唐末の禪宗大衆化のなかにあって馬祖禪の庸俗的理解をいかに克服するかという課題を抱えていたので、臨濟の「無位の眞人」の上堂の問題點をただちに認識し、同時に臨濟に深い敬意を示したのである。この上堂はその結末と雪峯の評語全體から考えなくてはならない。なぜなら、ここには唐代禪學と臨濟禪師の思想にかかわる重要な問題があるからである。」



4 「賓主歴然」

(1)第1段(入谷21~22)

四、上堂。有僧出禮拜。師便喝。僧云、老和尚莫探頭好。師云、爾道落在什麼處。僧便喝。
又有僧問、如何是佛法大意。師便喝。僧禮拜。師云、爾道好喝也無。僧云、草賊大敗。
師云、過在什麼處。僧云、再犯不容。師便喝。



(2)第2段(入谷22~23)

是日、兩堂首座相見、同時下喝。僧問師、還有賓主也無。師云、賓主歴然。師云、大衆、要會臨濟賓主句、問取堂中二首座。便下座。



5 「如何なるか是れ仏法の大意」(入矢23~24)

五、上堂。僧問、如何是佛法大意。師竪起拂子。僧便喝。師便打。又僧問、如何是佛法大意。師亦竪起拂子。僧便喝。師亦喝。僧擬議。師便打。
師乃云、大衆、夫爲法者、不避喪身失命。我二十年、在黄檗先師處、三度問佛法的的大意(注1)、三度蒙他賜杖。如蒿枝拂著相似。如今更思得一頓棒喫。誰人爲我行得。時有僧出衆云、某甲行得。師拈棒與他。其僧擬接。師便打。



(訳)「上堂。僧問、如何是佛法大意」~「師亦喝。僧擬議。師便打」呉120

上堂すると、ある僧が問うた、「仏法のぎりぎり肝要のところをお伺いしたい。」師は払子を立てた。僧は一喝した。師は払子でその僧を打った。また一人の僧が問うた、「仏法のぎりぎり肝要のところをお伺いしたい。」師がまた払子を立てると、僧は一喝した。師もまた一喝すると、僧はもたついた。師はすぐに僧を打った



(注1)「問佛法的的大意」(衣川74)

「「如何なるか是れ佛法的的の大意?」(佛法の確信とは何でありましょうか?師は何をもって佛法の核心となさるか?)の「的的」は明確な、だれも否定することのできない貌。「大意」は偉大なる意義。すなわち「佛教の根本義はなにか」という問い。「如何なるか是れ~」という問いかたは、通常知らないことを教えてもらおうとするのではなく、すでに心得のあることにつき、相手の意見を徴する質問の形式である。」



6 「如何なるか是れ剣刃上の事」(入谷25)

六、上堂。僧問、如何是劍刄上事。師云、禍事、禍事。僧擬議。師便打。
問、祇如石室行者、踏碓忘却移脚、向什麼處去。師云、沒溺深泉。師乃云、但有來者、不虧欠伊。總識伊來處。若與麼來、恰似失却。不與麼來、無繩自縛。一切時中、莫亂斟酌。會與不會、都來是錯。分明與麼道。一任天下人貶剥。久立珍重。



(訳)「師乃云、但有來者」~「久立珍重」。呉123

上堂して言った、「わしのところへやって来る者すべてを、あだに見過ごしはせぬ。必ずその者の境界(きょうがい)を見抜いてしまう。こうやって来た者は、わしの前ではその立場を失ったも同然となり、ああやって来た者は、縄もないのに自らを縛るはめになる。いかなる時も、無暗(むやみ)にああこう分別するな。解るというのも解らぬというのも、すべて誤りだ。わしははっきりとこう言い切る。そして天下の人の批判にすべてゆだねる。やあご苦労だった」



7 「孤峰頂上と十字街頭」(入谷26~27)

七、上堂。云、一人在孤峯頂上、無出身之路。一人在十字街頭、亦無向背。那箇在前、那箇在後。不作維摩詰、不作傅大士。珍重。



8 「途中に在って家舎を離れず」(入谷27)(注1)

八、上堂。云、有一人、論劫在途中、不離家舍。有一人、離家舍、不在途中。那箇合受人天供養。便下座。



(注1)「途中に在って家舎を離れず」の理解の仕方。松原泰道『禅語百選』(1985)116~117

「途中に在って家舎を離れず(『臨済録』)(略)

私たちは、相対的認識方法にならされているので、すべてを対立的に考えます。目的と手段、結果と方法というふうに二つにわけて考え、行動します。労働も生活のため、マイホームをつくるための方法、と考えます。このために人間自信をも手段化して一生を終わるのです。

働くことは、“途中”ーー手段であるとともに、働くこと自体が目的でないと、人生は豊かになれません。目的のための目的でなく、“途中”それ自体が目的、つまり、“家舎”であるところに、人生があるのです。

(略)クーベルタン(略)の次の言葉が大切です。「人生は、成功するところに意義があるのではない。努力するところに意義がある」と。成功が目的でなく、努力そのものが目的なのです。

努力のための努力というのも相対論です。それを超えて価値批判の対象にならぬ生き方が、ここに掲げた「途中と家舎」の言です。

禅者は、これを「動中の工夫」と高く評価します。

労働も勤務もみな動中の工夫ーー働くことが禅のまっただ中にいるということです。」



9 「三句・三玄・三要」(入谷28)(注1)

九、上堂。僧問、如何是第一句。師云、三要印開朱點側、未容擬議主賓分。問、如何是第二句。師云、妙解豈容無著問、漚和爭負截流機。問、如何是第三句。師云、看取棚頭弄傀儡、抽牽都來裏有人。
師又云、一句語須具三玄門、一玄門須具三要、有權有用。汝等諸人、作麼生會。下座。

(訳)

上堂すると、ある僧が問うた、「師の禅の第一句はどういうのですか」。師「〈三要〉の印を紙に捺してから印を持ちあげると、朱の一点一画がくっきりと現れ、そこには臆測をさしはさむ余地もなく主体と客体とが歴々と顕現する」。「では第二句は?」師「文殊にも比すべき我が絶妙な見地は、あの無著の問いを寄せつける余地もない深遠なものだが、それが方便として発揮されると、水の流れを断ち切る名剣のはたらきを裏切ることのない鋭さを示す」。「では第三句は?」師「よく見るがいい、舞台の人形がいろいろの演技をするのは、みな舞台裏であやつる人がいるのだ。」また師は言った、「一句の語には三玄門が具わっていなくてはならず、一玄門には三要が具わっていなくてはならない。そうあってこそ方便もあり、はたらきもある。さて皆の衆、ここをどう会得するか」。こう言って座を下りた。



(注1)「三句・三玄・三要」の成立について

臨済宗なる宗派の綱要という考えかたは、臨済自身にはいまだ現われるはずもなく、五代から宋代始めに宗派意識の芽生えに始まったと考える方が穏当であろう。この点について衣川賢次(略)sは以下のように指摘している。臨済の唐末の時代から一世紀を過ぎた宋初になると、臨済宗なる宗派が形成され、これにともなって宗派綱要が必要とされ、〈喝〉の分類、〈四照用〉、〈四賓主〉、〈三玄三要〉等といった、いわば禅宗の教理〈禅宗的法数学〉の傾向が出て来て、これが『臨済録』に附加されてゆく。それは増補附加した後代の人びとの時代の問題意識とかかわっている。つまり「三玄三要」を考える場合、そのまま臨済の語と見ることはできないということになる。」(呉150)

「「臨済三句」はもと『景徳伝灯録』巻 12 臨済章(1009)に初出するもので、円覚宗演が黄龍慧南校訂『四家録』(約 1066 年前後)中の『臨済録』を重刊(1120)した時に『景徳伝灯録』などから増補した 8 則のうちの 1 則であった。これが『続開古尊宿語要』(1238)、『古尊宿語録』(1267)に引き継がれ、単行化されて江戸時代の通行本(18 世紀)に至るのである。したがって『臨済録』テキストの二系統のうち、「古尊宿系」に見えるもので、「四家録系」には見えないのである。」(呉160)」






第3-2 〔示衆〕



1 第1段 

(1)第1段の1(入谷31)(注1)(注2)

一、師晩參示衆云、有時奪人不奪境、有時奪境不奪人、有時人境倶奪、有時人境倶不奪。時
有僧問、如何是奪人不奪境。師云、煦日發生鋪地錦、瓔孩垂髮白如絲。僧云、如何是奪境不奪人。師云、王令已行天下遍、將軍塞外絶烟塵。僧云、如何是人境兩倶奪。師云、幷汾絶信、獨處一方。僧云、如何是人境倶不奪。師云、王登寶殿、野老謳謌。

(訳)呉166

師は夜の説法の時に、修行者たちに教えて言った、「私はある時は人を奪って境を奪わない。ある時は境を奪って人を奪わない。ある時は人境ともに奪う。ある時は人境ともに奪わない」と。その時、ひとりの僧が尋ねた、「人を奪って境を奪わないとは、どんな境地ですか」。師「春の陽光が輝き出て大地は錦にしきのしとね、みどり児の垂らす髪は絹糸のように白い」。僧「境を奪って人を奪わないとは?」師「国王の命令はあまねく行われて天下泰平、辺境を守る将軍は戦いの塵ひとつ上げさせない」。僧「人境ともに奪うとは?」師「幷州と汾州とは断絶して、今や独立の地盤を築いた」。僧「人境ともに奪わないとは?」師「国王は宮殿に鎮座し、老農は野に歌う。



(注1)臨済の四料簡の成立(呉167)

「周知のように、臨済の「示衆」説法は『臨済録』の主要部分を占めているが、上掲のテキストでは「四料簡」がその「示衆」部分の冒頭に置かれ、臨済の説法を総括する重要なものとして提示されている。さらにこの「四料簡」はのちの臨済宗の宗派綱要として関心を集め、注釈の対象となった(例えば『人天眼目』)。

しかし「四料簡」は黄龍慧南校訂『四家録』以前の古い『臨済録』の形態(すなわち「四家録」の系統)を保存する『天聖広灯録』(1036)巻 11(のちの円覚宗演重刊本の分類では「示衆」に相当する部分)には見えず、同書巻 10(円覚宗演の分類では「勘弁」に相当する部分)の中に加えられている。しかも重要なのは「四料簡」と共通する考えかたは『臨済録』の「示衆」と、内容が異なることである(後述)。したがって「四料簡」一則は臨済の語として疑問が残り、後に増補附加されたものであった可能性が高いことが推定されるのである。」



(注2)前田利鎌における臨済の四料簡の理解の例(前田37~38)

「(奪人不奪境、奪境不奪人、人境俱奪、人境俱不奪の)四種のものを全然、別種なものと片付けてしまうのは、直接体験における流通性を見逃すものである。要するにそれらは、ただ純一なる一如の体験を、主客のいずれに焦点をおいて語るかという二次的な閑葛藤であるといっても、敢て過言ではない。そしてそれは臨済自身にとっては、どうでもいい問題であって、むしろただ、学人を接得するための手段として樹てられたに過ぎないとみるのが、けだし至当である。あたかもその昔仏陀が随機説法を試みたといわれるように、彼も相手の機根相応に様々な態度をとる」



(2)第1段の2(入谷32~34)

師乃云、今時學佛法者、且要求眞正見解。(注1)若得眞正見解、生死不染、去住自由。不要求殊勝、殊勝自至。道流(注2)、祇如自古先徳、皆有出人底路。如山僧指示人處、祇要爾不受人惑。(注4)要用便用、更莫遲疑。如今學者不得、病在甚處。病在不自信處。爾若自信不及、即便忙忙地徇一切境轉、被他萬境回換、不得自由。爾若能歇得念念馳求心、便與祖佛不別。爾欲得識祖佛麼。
祇爾面前聽法底是。學人信不及、便向外馳求。設求得者、皆是文字勝相、終不得他活祖意。莫錯、諸禪徳。此時不遇、萬劫千生、輪回三界、徇好境掇去、驢牛肚裏生。道流、約山僧見處、與釋迦不別。今日多般用處、欠少什麼。六道神光、未曾間歇。若能如是見得、祇是一生無事人。(注3)

(訳)

〔1〕「師乃云」~「不得自由」まで。沖本・虚構と真実21

師は説法していわれた、「こんにち、仏道を修行するものは、まず真正の見解が必要である。真正の見解を得たならぼ、生き死にに悩まされることもなく、そこから自由になる。望まなくとも秀れた境地も自然に手に入る。諸君、往年の先徳たちは皆な人並み勝れた方法を持っているが、わたしが教えることといえば、ただ他人に惑わされるなということだけである。やろうと思えばすぐにやれ。ぐずぐずしてはいけない。だのに最近の修行者はさっぱりだ。どこが悪いのか。自らを信じないからだ。もし自らをしっかりと信じきれないなら、たちまちじたばたと外境の変化するままに翻弄され、自由になれないのだ。

〔2〕「爾欲得識祖佛麼」~「終不得他活祖意」まで。沖本・虚構と真実37

「お前さんは祖仏を知りたいと思うか。目の前で説法を聞いているお前さんこそがそれだ。(ところが)君達は信じきれずに、外に求めて走り回る。たとい求め得たとしても、みな文字や概念ぼかりであって、結局かの生きた祖師の本旨は得る事ができないのだ。」

〔3〕衣川・思想102~103

「師は大衆に向って言った、「いま佛法を學ぼうとする者は、とりあえず、正しい考え方を求めなくてはならぬ。正しい考え方を身につけたなら、輪廻にも陷らず、行くも留まるもみづから決める。解脫を求めなくとも、解脫はひとりでにわがものとなる。諸君!古來の先覺がたは、みなすぐれた方便、わたしが忠告してやれるのはただ、きみたちは人に騙されるな、ということだけだ。忠告に從うなら、從うがよい。迷ったりしていてはだめだ。いまの修行者の缺點は、どこに原因があるか?原因は自己を信じないところにある。きみたちが自己を信じきれないから、幻覺のままにあたふたと運ばれ、よろづの場面に振りまわされて、自由になれないのだ。きみたちが絕えずえず求めまわる。その心を終熄できたなら、そのときこそ逹磨や佛陀と同じなのだ。きみたちは逹磨がどんな人なのか、知りたいと思うか?今わたしの面前で説法を聴いているきみたちこそ、それなのだ。きみたち自身が自己を信じきれないから、外に求めてまわるのだ。外に求めて、たとい得られたとしても、みな文字や言葉ばかりで、けっして活きた達磨の思想ではない。考え違えをしてはならぬ!禪師がたよ!今生に善知識に遇わなければ、永遠に三界を輪廻し、臨終に現れる好ましき境界、おぞましき境界のままに、驢馬や牛の腹に入って轉生することになる。諸君!わたしの見かたに據れば、諸君は釋迦と何の違いもないのだ。毎日の種々の行いに、何の缺けたるところがあろうか。きみたちの六根が放つくすしき光は、途切れることなく射しつづけているではないか。このように見ることができたなら、諸君はただ一生無事の人である。」



(注1)「且要」については、衣川231の次の指摘が大変興味深い。

「「且らく要す」とは次善の策を勧める場合に言う。「佛法を学ぶ必要は、本来ないのであるが、もし学ぼうとしている者があれば、ひとまず…」と言うニュアンスである。」(231)

前提としての「仏法を学ぶ必要がない」が鋭い。



(注2)「道流」=どうる

「「道流」は臨済が来参した行脚僧に呼びかけた、かれ独特の語(「学道流」の略)。」(衣川48)



(注3)この一段の前提となる臨済の理論的基礎については、衣川176に次の指摘があります。

臨済がかく言う理論的根拠は馬祖禅の考え方にある。中唐の馬祖道一(七〇九―七八八)は「即心即佛」、「性在作用」を説いた。「佛性はわが心にあり、それはわが行為に発揮される」という佛性論である。伝統的な佛教学では、佛性は人人具有ではあっても、煩悩の雲に覆われて発揮されぬゆえに、繁多な戒律に依る煩悩対治、膨大な経論の学修、長期にわたる修行、その果てに佛陀の悟りが設定されていた。これは幾世にもわたって輪廻転生をくりかえし、その果てに最終解脱を得るというインド人の思想であるが、中国人の馬祖はこのような迂遠な考えかたには耐えられず、孔子の「道は人に遠からず」(『礼記』中庸篇)に拠って、「佛は人に遠からず」、「道は衆生を離れず」であるはずだと考えたのである。」



(注4)

〔1〕 「人惑」は、衣川208~213に指摘があり、その概要は次の通りです。

 (1)「伝統的佛教学」(208)
  ① 「佛陀を究極の理想と設定してその境涯に至らんことを求めること」(208)
  ② 「佛陀の悟りの境涯に到達するには、多くの修行の階梯を踏まねばならぬ」という「教学の修道論」(210)
(2) 「禅宗的教条」(213)

〔2〕 「人惑」の理解については、次の有馬159~160が、わかりやすく、力強い。

「――「人惑」とは、他人の意見に振り回されること、と考えればいいでしょうか。

有馬 そうです。

「山僧」というのは、臨済自身。つまり臨済は、「わしが言うたことに惑わされてはいかん」と。臨済は自分で自信の意見を言っておきながら、「わしの言うことを聞かんでもいいよ」と言っているんです。つまり「自分自身で納得しなさい」と。

――しかしよほど“私”がしっかりしていないと、やはり不安になります。他人の意見を聞いて参考にしようとします。あくまで参考にしようと思って聞くのですが、聞いてしまうと自分の考えがグラつき始めます。

有馬 聞いてしまうと迷うね。(略)

「人惑」とは、「迷った場合、他人に意見を聞くな、自分で考えよ」ということです。簡単な話です。

自分自身で納得したら、それでいいじゃないか、と。「納得」しないから迷う、迷いに陥る。そこで新たな悩みが生じる。すると自由を失う。」



(3)第1段の3(入谷35~37)

大徳、三界無安、猶如火宅(注1)。此不是爾久停住處。無常殺鬼、一刹那間、不揀貴賤老少。爾要與祖佛不別、但莫外求。爾一念心上清淨光、是爾屋裏法身佛。爾一念心上無分別光、
是爾屋裏報身佛。爾一念心上無差別光、是爾屋裏化身佛。此三種身、是爾即今目前聽法底人。祇爲不向外馳求、有此功用。據經論家、取三種身爲極則。約山僧見處、不然。此三種身是名言、亦是三種依。古人云、身依義立、土據體論。法性身、法性土、明知是光影。大徳、爾且識取弄光影底人、是諸佛之本源、一切處是道流歸舍處。是爾四大色身、不解説法聽法。脾胃肝膽、不解説法聽法。虚空不解説法聽法。是什麼解説法聽法。是爾目前歴歴底、勿一箇形段孤明、是這箇解説法聽法。若如是見得、便與祖佛不別。但一切時中、更莫間斷、觸目皆是。祇爲情生智隔、想變體殊、所以輪回三界、受種種苦。若約山僧見處、無不甚深、無不解脱。



(注1)「三界無安、猶如火宅」については、鈴木大拙は、次のように言う。大拙臨済録理解については、疑問も呈されるところはあるが、この理解はいい。

「「三界無安、猶如火宅」というが、只無安ではない、只火宅ではない。無安ならざるものがあるから、無安なのである。火宅ならざるものがあって初めて火宅といえる。何が無安ならざるものか、火宅ならざるものか、眼をこれにつけなくてはならぬ。そして眼がこれにつくとき、無安で火宅の如き三界を、その内容を尽くして、捨てて顧みぬのである。」

鈴木大拙『百醜千拙』(1925年)212)



(4)第1段の4(入谷39~40)

道流、心法無形、通貫十方。在眼曰見、在耳曰聞、在鼻嗅香、在口談論、在手執捉、在足運奔。本是一精明、分爲六和合。一心既無、隨處解脱。山僧與麼説、意在什麼處。祇爲道流一切馳求心不能歇、上他古人閑機境。道流、取山僧見處、坐斷報化佛頭、十地滿心、猶如客作兒、等妙二覺、擔枷鎖漢、羅漢辟支、猶如厠穢、菩提涅槃、如繋驢橛。何以如此、祇爲道流不達三祇劫空、所以有此障礙。若是眞正道人、終不如是。但能隨縁消舊業、任運著衣裳、要行即行、要坐即坐、無一念心希求佛果。縁何如此。古人云、若欲作業求佛、佛是生死大兆。

(訳)

〔1〕「道流、取山僧見處」~「佛是生死大兆」。衣川・思想114

諸君!わたしの見かたによるならば、わたしは報身佛、化身佛の頭も尻に敷く。十地に至った菩薩は小作奴隷、等覺・妙覺は囚われの罪人、羅漢・辟支佛は糞尿、菩提・涅槃は驢馬を繫ぐ杭にほかならぬ、なにゆえかく申すかといえば、それら修行の階梯が空名にすぎぬことに、諸君が逹觀できない障害があるためなのだ。まことの正しき道人ならば、けっしてそうではない。ただ因緣のままに宿業を受けとめて生き、運に任せて身に合った衣裳をつけ、行こうと思えば行き、坐ろうと思えば坐り、ことさら悟りを得ようなどとはチラリとも思わぬ。なぜか?古人の言うとおり、「もしも修行して佛になりたいなどと思うならば、そのとき佛こそは生死輪廻の重大な契機となる」からなのだ。

〔2〕「但能隨縁消舊業」~「佛是生死大兆」。朝比奈67~68頁

「ただ因縁に任せて生活し、寒ければ着物を重ね、暑ければ脱ぎ、歩くも坐るも思いのまま、いささかも悟りを求めようなどとは思わない。なぜならば、古人も「もし、あれこれ計らいをして、仏を求めようとしたならば、それこそ大きな迷いの始まりである」と言っている。」



(5)第1段の5(入谷39~40)

大徳、時光可惜。祇擬傍家波波地、學禪學道、認名認句、求佛求祖、求善知識意度。莫錯、道流。爾祇有一箇父母、更求何物(注1)。爾自返照看。古人云、演若達多失却頭、求心歇處即無事。大徳、且要平常、莫作模樣。有一般不識好惡禿奴、便即見神見鬼、指東劃西、好晴好雨。如是之流、盡須抵債、向閻老前、呑熱鐵丸有日。好人家男女、被這一般野狐精魅所著、便即捏怪。瞎屡生、索飯錢有日在(注2)。

(訳)

〔1〕呉123~124

禅師がたよ!時を大切にせよ。諸君は行脚を事としてあちこちの叢林を巡りあたふたと禅を学ぼうとし、語句を覚えこみ、自己をなおざりにして仏祖を求め、師友に教えてもらおうとばかりしている。誤解してはならぬ。諸君!きみたちにはちゃんとした父母があるではないか。それだけで十分なのに、そのうえ何を求めようというのか?みづからをとくと顧みよ!古人も『演若達多は頭を失くしたと思って捜しまわったあげく、捜すのをやめたとき、何事もなかったと気づいた』と言うとおりだ。禅師がたよ!まづは平常であれ!人まねをするでない!もののよしあしもわきまえぬゴロツキ坊主どもは、狐ツキをやって、あれこれと指さしたり、『よき晴れかな』、『よき雨かな』などとほざいておる。こいつらこそ借金を償うために、死んでから閻魔王の前に引き出され、焼けた鉄の玉を呑まされる日がくる。きみたちよいところのお坊ちゃん、お嬢ちゃんが、あんなキツネつきに騙されて奇怪なまねをするとは!ドメクラども!飯代を請求される日が来るぞ!

〔2〕「大徳、時光可惜」~「呑熱鐵丸有日」。小川110~112

「諸君、時を空しく過ごしてはならぬ。だのに、汝らはただひたすら「傍家波波地(のきなみあたふたと)」よそさまを訪ね歩いて「禅」だの「道」だのを学び、名辞や言句を実体視し、「仏」や「祖」を求め、さらに師を求めて理屈で分かろうとするばかりだ。

だが、諸君、誤ってはならぬ!汝には、ただ一人の父御と母御が有るのみだ。その外に何を求める必要がある(実の父と実の母から生まれた、れっきとした一箇の活き身の自己。そこに何の不足がある)。自分自身に立ち返ってみよ。古人の言にもある、「演若達多は己れの頭を見失って狂奔した。だが、外に捜し求める心を止めさえすれば、実は何事も無かったのである」(典拠未詳)と。

諸君、まずは平常(あたりまえ)であれ、わざとらしいフリをするな。よしあしをわきまえぬある種のハゲ坊主どもは、神おろしのようなマネをして、東を指したり西に線をひくような所作をして、やれ「よい天気」だ、やれ「恵みの雨」だ、などとのたもうておる。こういう連中は、どいつもこいつも借財を還するため(偽りの法に依って得た供養の清算のため)、地獄におちて、閻魔さまの前で真っ赤に焼けた鉄の玉を呑み込まされる日が来ること必定である。」

〔3〕「大徳、且要平常」~「索飯錢有日在」。衣川・思想118

禪師がたよ!まづは平常であれ!人まねをするでない!もののよしあしもわきまえぬゴロツキ坊主どもは、狐ツキをやって、あちこち指さしたり、「よき晴れかな」、「よき雨かな」などとほざいておる。こいつらこそ借金を償うために、死んでから閻魔王の前に引き出され、燒けた鐵の玉を吞まされる日がくる。きみたちよいところのお坊ちゃん、お孃ちゃんが、あんなキツネつきに騙されて奇怪な!ドメクラども!飯代を請求される日が来るぞ!



(注1)「爾祇有一箇父母、更求何物」=「なんじらに秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求む」

この点は、衣川49に次の解説がある。

「你らに秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求む?」とは、父母が生んでくれた自己の身心に欠けたるところはなく、佛と同じく完全であること。人は生まれながらに佛性を授かっているのだという確信は、唐代禅の基調で、日本の江戸初期の盤珪禅師(一六二二~一六九三)が播州弁で説いた「人々皆親のうみ附(つけ)てたもつたは、佛心ひとつで、よのものはひとつもうみ附(つけ)はしませぬわいの」という「不生の佛心」のことである(『盤珪禅師語録』九頁、鈴木大拙編校、岩浪文庫)。「你(なんじ)ら自ら返照し看よ!」の「返照」は「回光返照」、沈んだ太陽が夕空を照らし、その余暉でこちら側が明るい状態を言い、そこから佛教語として、外を見ていた眼を転じて内に向ける自己省察の意が派生した。



(注2)この段の理解(小川112~113)

「この段には特徴的・印象的な語彙が多い。「傍家(ぼうけ)」は「副詞で、わき道にそれるさまをいう」(《文庫》頁四三注)と解されてきたが、今は試みに「一軒一軒順々に」と解する袁賓『禅宗著作詩語匯釈』(略)の説にしたがってみる。いずれにしても、己れの外に「仏」を求めて奔走するさまの形容であることは間違いなく、そこにはやはり自己こそが本来「仏」であるにもかかわらず、という含みがある。(略)

つぎに「你、祇(た)だ一箇の父母有り」は《文庫》で「君たちにはちゃんとひとりの主人公がある」(頁四四)と訳され、「本来人としての自己。本来の主人公ともいう」と注されている。(略)自己を自己たらしめれう内なる父母――という語が見えるのを参照すれば、当然ありうべき解釈である。しかし、臨済は、自己の内面に内在的な超越者を想定することを禁じ、活き身の自己の全体がそのまま仏と等しいのだと繰り返す(略)。そこで、ここでは、確かにひとりの父とひとりの母から生まれたかけがえの無い活き身の自己、その外に「仏」や「祖」を求める必要は無いという意に解してみた。その後に出てくる「好人家(こうにんけ)の男女(なんにょ)――ちゃんとした家の子供」というのも同意であろう。

だが、そうした自己を置き去りにしたまま、怪しげな老師たちの魅惑的な俗説についてまわっていては、「飯銭を索(もと)めらるること日有らん在(や)!」と臨済は言う(句末の「在」は断定の語気(略))。行脚僧は労働も納税もせず、信徒の布施によって養われている。にもかかわらず行脚の実をあげられなければ、やがて地獄に堕ちて、閻魔さまからそのムダ飯の代金の返還を迫られることは避けられぬ、というのである。」



2 第2段「臨済の四照用」(入矢44~45)

この段は、明版『古尊宿語録』から増補されたものとして、入谷44~45頁に記載されている。

正蔵版には存在しない。

柳田、山田にも取り上げられていない。

「元来、四照用の一段は、天聖広灯録が拠った古い臨済録には存しなかったようで、天聖広灯録には、臨済の章以外の諸弟子の章にも、此に関する説を見出すことが出来ない。」(柳田・ノート(続)4)



二、示衆云、我有時先照後用。有時先用後照。有時照用同時。有時照用不同時。先照後用有人在。先用後照有法在。照用同時、駈耕夫之牛、奪飢人之食、敲骨取髓、痛下鍼錐。(注1)照用不同時。有問有答、立賓立主、合水和泥、應機接物。若是過量人、向未學已前、撩起便行。猶較些子



(注1)前田42~44の「駈耕夫之牛、奪飢人之食」等の理解は、勢いがあり、この段の成立とは関係なしに、一般論として説得力を感じます。

臨済は一物も与えずして、徹底的に奪って行く。飢人の食を奪い、耕夫の牛を駆る、というものもこの消息を語るものである。己を確立して自由な自然児になるためには、人惑迷執を惹き起す一切の偶像は破壊せられねばならない。先ず仏門における最大の偶像は――仏である。仏を礼拝するは愚か、仏に自らなろうとするのが已に人間の無知を語るものである。臨済は寸毫の仮借なく、口を極めて伝統的な既成概念を罵倒している。――いわゆる仏を求め、法を求めるのも一種の迷妄である。それらは一種の抽象的な概念――名句、名字にすぎない。単に頭の中で捏ね上げた仏などは、俺の眼から見れば、糞壺――厠孔のようなものだ。菩薩羅漢の如き概念は、尽くこれ首械、手械、人を縛する底の邪魔物である。従ってそれらのものを御大相に書き記したような、一切の経文の如きは、「不浄を拭うの故紙」にすぎない。古人の言説や経文に没頭するのは、「糞塊上に向って乱咬する」の醜態ではないか。それにもかかわらず、一切の学人どもは、聞きかじり、読みかじりして教理などを語って得意でいるが、そんな醜態は糞塊を口に含んで、また人に向って吐き与えるようなものだ。

しかし何故に人々は、かかる奇怪なる偶像を求めて止まないのだろう。――他でもない、それは聖俗、浄穢、――即ち誤れる価値観に迷わされるからである。一体価値というものは本来それぞれの境地に内具しているものではない。人間はいわゆる聖俗浄穢、様々の境地に入っていく。しかしそれ故に自から、聖、俗、浄、穢になり得たと思うのは、甚だしい迷妄である。何となれば、本来その境地そのものが、善であり、あるいは悪であるのではないからである。その証拠には、一々それらの境地が人間の前に推参して、我はこれ聖俗浄穢なりと、自ら名乗りを上げた試しはないではないか。ただ人間がそれらの事物に対して価値を賦与したまでにすぎない。従って外に向って求めるものは、自己の創造した価値観に縛られて、自己そのものから遊離してしまう痴態である。まさしく自縄自縛であり、自殺である。――いわゆる穢れたる無常の世界を捨てて、聖なる境地に憧れ行く者の如きは、自ら首枷械を担い、鉄鎖を引きずるもの。無常流転の彼岸に立つ円頓菩薩の如きは、清浄不浄の価値観に縛られた土偶坊(でくのぼう)である。すべからく価値観を擺脱して、現実を直観せよ――」



3 第3段

(1)第3段の1(入矢46~47)(注1)

三、師示衆云、道流、切要求取眞正見解、向天下横行、免被這一般精魅惑亂。無事是貴人。但莫造作、祇是平常。爾擬向外傍家求過、覓脚手。錯了也。祇擬求佛、佛是名句。爾還識馳求底麼。三世十方佛祖出來、也祇爲求法。如今參學道流、也祇爲求法。得法始了。未得、依前輪回五道。云何是法。法者是心法。心法無形、通貫十方、目前現用。人信不及、便乃認名認句、向文字中、求意度佛法。天地懸殊。

(訳)「三世十方佛祖出來」~「天地懸殊」。呉119

三世十方の仏や祖師が世に出られたのも、やはり法を求めんがためであった。今の修行者諸君も、やはり法を求めんがためだ。法を得たら、それで終わりだ。得られねば、今まで通り五道の輪廻を繰り返す。いったい法とは何か。法とは心である。心は形なくして十方世界を貫き、目の前に生き生きとはたらいている。ところが人びとはこのことを信じ切れぬため、〔菩提だの涅槃だのという〕文句を目当てにして、言葉の中に仏法を推し量ろうとする。天と地の取りちがえだ。」



(注1)作用即性論の現れ(呉120)

臨済はここで、「心は形なくして十方世界を貫き、目の前に生き生きとはたらいている」(「心法無形,通貫十方,目前現用」)と述べている。つまりいま・ここの見聞覚知のはたらきは心法(仏性)から現れたものであり、そして日常の見聞覚知の働きに即して心法(仏性)に気づく、ということである。」



(2)第3段の2(入矢48~49)

道流、山僧説法、説什麼法。説心地法。便能入凡入聖、入淨入穢、入眞入俗。要且不是爾眞俗凡聖、能與一切眞俗凡聖、安著名字。眞俗凡聖、與此人安著名字不得。道流、把得便用、更不著名字、號之爲玄旨。山僧説法、與天下人別。祇如有箇文殊普賢、出來目前、各現一身問法、纔道咨和尚、我早辨了也。老僧穩坐、更有道流、來相見時、我盡辨了也。何以如此。祇爲我見處別、外不取凡聖、内不住根本、見徹更不疑謬。



4 第4段

(1)第4段の1(入矢50~51)

四、師示衆云、道流、佛法無用功處、祇是平常無事。屙屎送尿、著衣喫飯、困來即臥(注1)。愚人笑我、智乃知焉。古人云、向外作工夫、總是癡頑漢。爾且隨處作主、立處皆眞。境來囘換不得。縦有從來習氣、五無間業、自爲解脱大海。

(訓読) 「師示衆云、道流、佛法無用功處」~「總是癡頑漢」。朝比奈81

師、衆(しゅ)に示して云く、道流(どうる)仏法は用功(ゆうこう)の処無し。祇(ただ)、是れ平常無事(びょうじょうぶじ)、屙屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、困し来たれば即ち臥す。愚人(ぐにん)は我を笑う、智は乃ち焉(これ)を知る。古人云く、外に向って工夫を作(な)す、総に是れ癡頑(ちがん)の漢、と。

(訳)

〔1〕呉129

師は皆に説いて言った、「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ。たとえ、過去の煩悩の名残(なごり)や、五逆の大悪業があろうとも、そちらの方から解脱の大海となってしもうのだ。

〔2〕朝比奈81

師は大衆に示して言った。お前たちよ、仏法は計らいを加えるところは無い。仏法の究極はただ平常のままがそれである。大小便をしたり、衣服を着たり飯を食べたり、疲れたならば眠るばかりである。愚人は笑うであろうがほんとうに出来た人ならばそこがわかる。古人も、「自己の外に向かって求めまわるのは、みんな大馬鹿者である」と言っている。



(注1)「法無用功處、祇是平常無事。屙屎送尿、著衣喫飯、困來即臥」との理解は、現代の臨済宗でも変わらないようです。

「『臨済録』という書物に、「お腹がすいたらご飯を食べればいいし、くたびれたら眠ればいい。仏を外に求める必要はない」と繰り返し説かれている、臨済禅の極意です。

自分自身が仏であると気がついたならば、何も仏の真似をする必要はありません。だから臨済宗は割に自由なんです。寝るときには寝ればいいし、食べるときには食べればいいんだというのは、そこへくるわけです。」

横田南嶺「インタビュー 身体を整えることへの目覚め」『サンガジャパンvol.32』(2019)47)

※よこた なんれい、臨済宗円覚寺派管長



(2)第4段の2(入矢50~51)

今時學者、總不識法、猶如觸鼻羊、逢著物安在口裏。奴郎不辨、賓主不分。如是之流、邪心入道、鬧處即入。不得名爲眞出家人、正是眞俗家人。(注1)夫出家者、須辨得平常眞正見解、辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖。若如是辨得、名眞出家。若魔佛不辨、正是出一家入一家。喚作造業衆生、未得名爲眞出家。祇如今有一箇佛魔、同體不分、如水乳合、鵝王喫乳。
如明眼道流、魔佛倶打。爾若愛聖憎凡、生死海裏浮沈。

(訳)

〔1〕呉129

「当今の修行者たちは、まったく仏法とは無縁だ。まるで鼻づらを物にぶっつけたがる羊みたいに、何に出会ってもすぐ口に入れてしまう。だから奴隷と主人の区別もつかず、主と客の見分けもつかない。こんな連中は、初めから不純な目的で出家したやからで、にぎやかな場所にはすぐ首をつっこむ。これでは真の出家者とは言えぬ。まさに根っからの俗人だ。いやしくも出家とあれば、ふだんのままな正しい見地をものにして、仏を見分け魔を見分け、真を見分け偽を見分け、凡を見分け聖を見分けねばならぬ。こうした力があってこそ、真の出家と言える。魔と仏との見分けもつかぬようなら、それこそ一つの家を出てまた別の家に入ったも同然で、そんなのを<地獄の業を造る衆生>というのだ。とても真の出家者とは呼べぬ。たとえばここに仏と魔が一体不分の姿で出てきて、水と乳とが混ぜ合わさったようだとする。そのとこ鵝王は乳だけを飲む。しかし眼力(がんりき)を具えた修行者なら、魔と仏とをひとまとめに片付ける。君たちがもし聖を愛し凡を憎むようなことなら、生死の苦海に浮き沈みすることになろう。」

〔2〕「今時學者」~「正是眞俗家人」。前田40

近来の学人どもは一切真理を知らない。まるで鼻の尖(さき)に触ったものは、お先き真暗に喰(かぶ)り付く羊のようなものだ。奴僕と主人、客と主との区別も弁えぬ。かかる邪心の類は道に入ることも出来なければ、閙(にぎ)やかな場所に入ることも出来ない。これをしも真の出家の人と呼ぶことが出来ようか。

〔3〕「夫出家者」~「魔佛倶打」。衣川・思想121

出家者というものは、平常で正しい考えかたをよく見分けねばならぬ。すなわち何が佛で何が魔であるのか。何が本物で何が僞物であるのか、何が俗で何が聖であるのか、ここのところをよく見分けることができてこそ、本物の出家と言えるのだ。魔と佛さえも見分けられないなら、家を出たり入ったりするだけの、いわば地獄行きの衆生であって、本物の出家とは言えない。ただし、たとえば佛魔なるものがあって、出佛と魔が水と乳の溶け合ったごとくに一體不分であったとしよう。鵝王ならば乳だけを飲む。しかし衜眼を具えた禪僧ならば、魔も佛もともに打ちのめすのだ。〈きみがもし聖を慕っい、て俗を憎むなら、煩悩の海に浮き沈みをくりかえすほかない〉。



(注1)出家の意義(前田40~41)

臨済のいう出家とは伝統的な生活からの逃避と解すべきではない。家とはわれわれの生命を囲繞して圧迫阻害する偏見的思想、反生命的価値観、環境対象に牛耳られる執着――即ち人間の生命を幽閉するもろもろの化石的な殻という意味である。従って禅門における出家とか、破家散宅とかいう意味は、――換言すれば一切を自由に所有すること、一切に対して自由なる君主として振舞うことに他ならない。」



5 第5段

(1)第5段の1(入矢53~55)

問、如何是佛魔。師云、爾一念心疑處是魔。爾若達得萬法無生、心如幻化、更無一塵一法、處處清淨是佛。然佛與魔、是染淨二境。約山僧見處、無佛無衆生、無古無今、得者便得、不歴時節。無修無證、無得無失。一切時中、更無別法。(注1)設有一法過此者、我説如夢如化。山僧所説皆是。道流、即今目前孤明歴歴地聽者、此人處處不滯、通貫十方、三界自在。入一切境差別、不能回換。一刹那間、透入法界、逢佛説佛、逢祖説祖、逢羅漢説羅漢、逢餓鬼説餓鬼。向一切處、游履國土、教化衆生、未曾離一念。隨處清淨、光透十方、萬法一如。

(訳)

〔1〕「問、如何是佛魔」~「山僧所説皆是」(衣川・思想122)

問う、「佛魔とは何なのでしょうか?」師は答う、「きみの不信の念が佛魔だ。きみがもし、あらゆるものは空、心も幻、何物も実體として存在せず、世界はカラリと清浄なのだとわかったとき、佛魔はいない。佛と衆生は一方は清浄、他方は汚染の境涯とされているが、わたしの見かたでは、佛と衆生の区別はなく、古えも今もない、得ている者は始めから得ているのであって、年月をかけて得たのではない。修行もいらねば、悟りもない。新たに何かを得たわけでも、失ったりもしない。わたしの見かたはいつでもこういうことだ。これ以外のものはない。〈たといこれに勝る見かたがあろうと、そんなものは夢まぼろしに過ぎぬ〉。わたしの言いたいことは、以上のとおりである。

〔2〕「約山僧見處、無佛無衆生、無古無今、得者便得、」~「更無別法」。朝比奈86~87

「わしの見解で言えば、仏も無く衆生も無く、過去も無く現在もない。気がついてみればみなそのまま仏である。仏になるための手間暇はかからない。修行すべきものも無く、悟るべきものも無い。得たということも無く、失うということも無い。朝から晩まで晩から朝まで自己一枚だ。」



(2)第5段の2(入矢56~57)

道流、大丈夫兒、今日方知本來無事(注1)。祇爲爾信不及、念念馳求、捨頭覓頭、自不能歇(注2)。如圓頓菩薩、入法界現身、向淨土中、厭凡忻聖。如此之流、取捨未忘、染淨心在。如禪宗見解(注3)、又且不然。直是現今、更無時節。山僧説處、皆是一期藥病相治(注4)、總無實法。若如是見得、是眞出家、日消萬兩黄金。道流、莫取次被諸方老師印破面門、道我解禪解道。辯似懸河、皆是造地獄業。若是眞正學道人、不求世間過、切急要求眞正見解。若達眞正見解圓明、方始了畢。

(訳)

〔1〕「道流、大丈夫兒」~「日消萬兩黄金」。衣川・思想122

諸君!大丈夫の漢よ!きみたちは今日にして始めて知ったのだ、本来無事であるにもかかわらず、ただそのことを信じきれぬために、絕えず外に求めまわって、今の自己をないがしろにし、外に自己を捜す愚をやめられなかったことを最高位の圓頓の菩薩すら、俗を嫌って聖を慕い、淨土の世界に生まれかわろうと願っている。こういう連中は分別取捨の意識が拂拭できず、清浄と汚染の分別に執われた心がなお残存しているのだ。わが禪宗の考えかたはまったく異なる。無條件に現在だけを問題にして、無限の修行の果てに時節因緣が熟してから成佛するなどとは言わぬ、ただしわたしの說法は、ただ凡聖の執著に對する一時の對症療法なのであって、けっして固定して受け取るべきものではない。このように見ることができたなら、眞の出家者である。それこそ〈日(ひび)に萬兩の黄金の供養させ受けてよい〉のだ。

〔2〕「道流、大丈夫兒」~「皆是一期藥病相治、總無實法」。朝比奈89~90

「お前たちよ、われこそはという大丈夫の気概のある者ならば、たった今、ここで自己が本来仏であり、他に何ものも無いことを見てとれ。残念ながらお前たちがそれを信じきれないために、外に向かってせかせかと求めまわり、頭があるのにうろたえて更に頭を探すの愚をいつまでもやめない。円頓の教を修行した菩薩などは、いろいろの法界に自由に身を現すことが出来ても、まだ淨土を求めたり、凡夫を嫌い仏をば願っている。これらの人たちにはまだ取捨愛憎の念があり、悟りと迷いの対立がある。わが禅宗の見解はそうではない。現在がそっくりそのままだ。そこになんの悟るの悟らないの沙汰があろう。わしの説くところは、皆その時その時の相手の病に応じて与える薬で、定まりきった法などは無い。」

〔3〕「道流、大丈夫兒」~「自不能歇」。小川106

諸君(略)、れっきとした一箇の男児として、ここで始めて、「本来無事――もともと、なにも余計なことは無い」と知ったはずである。ただ、お前たちが「信不及」であるために、いつも外に駆けずり回り、己れの頭を忘れて己れの頭を捜し求め、自分でそれを止めることができずにいるだけなのである。」

〔4〕「道流、莫取次被諸方老師印破面門」~「皆是造地獄業」。沖本・虚構と真実36

諸君、おいそれとあちこちの老師にお墨付きをもらってはならぬ。わたしには禅がわかった、道がわかったと言いたて、弁舌は立て板に水のようでも、みな地獄行きだ。



(注1)「大丈夫兒、今日方知本來無事」。入矢225

「日常の営為(はたらき)」といっても、それは文字通り、ふだんのままな、当たり前な在りようのことである。「修行者たる者は大丈夫児(男一匹)としての気概を持て」と臨済は叱咤しても、昂然と頭をもたげ両手を振って闊歩せよなどと教えているのではない。ただ「平常無事な人」であれというのであり、そういう生き方こそが、まさに偉丈夫の在りようなのだと繰り返し説く。「ただただ君たちが今はたらかせているもの、それが何の子細もない〔平常無事なものであること〕を信ぜよ」(略)。彼が強調する「真正の見解」とは、端的にはこのことに尽きるのであり、「自らを信ぜよ」という教えも、このことに集約される。

唐代の禅では、八世紀ごろから「自己」という用語が愛用され始める。それは、一者・絶対者としての仏と対決する気概を籠めた言葉であり、聖なるものへの反措定であった。」



(注2)「道流、大丈夫兒~祇爲爾信不及~捨頭覓頭、自不能歇」の理解。小川105~106

「経典に記された仏説さえもが門前払いにされる、その信ずべき一点とは何なのか。臨済は門下の僧たちに――そしてそれを読む我々に――いったい何を信じきれと迫っているのか。

その答えを『臨済録』から見出すことは、さして難しいことではない。『臨済録』一書にそのことが、くり返し明言されているからである。先の開堂説法にも見えていた「信不及(しんふぎゅう)――信じ及(き)れぬ」という語が、その手がかりになる。(略)

「頭を捨てて頭を覓(もと)む(捨頭覓頭)」は『首楞巌経』巻四の故事にもとづく語で、「頭を将(も)って頭を覓む(将頭覓頭)」ともいう。演若達多という美男子が、ある朝、自分の眉目秀麗なる顔が鏡のなかだけにあって、直には見えないことから、魑魅魍魎のしわざと恐れて狂奔したという話である(大正一九―一二一中)。得るべきものは当の自分なのだから、自分の外にそれを捜し求めても、決して得られるはずがない。そうした趣旨の喩えで、似た意味の成語に「牛に騎って牛を覓む(騎牛覓牛)」というのもある。

右の一文に見える「無事」「信不及」「馳求」はいずれも臨済愛用の語で、『臨済録』の随処に見える。修行者は自らの「信不及」のために、当の自分の頭でもって自分の頭でもって自分の頭を外に「馳求」し、際限の【107頁】ない迷妄に陥る。だが、それをさえ止めてみれば、そこにはもともと何の過不足もない「本来無事」の自己があるのである、と。



(注3)「禅宗の見解」。衣川・思想123

「「禅宗の見解」は聖意識(俗より修行の階梯を履んで聖位に至る)を払拭することにあることを宣言している。これが唐代禅宗の重要な特徴であり、臨済禅師の思想の核心である。「外に凡聖を取らず、内に根本を住さず」(外なる聖[佛]を求めない、かといって内面[心=佛性]にも安住しない)、「心外に法無し、内も亦た得べからず」(心以外に法はない、しかしその心も実体はない)は臨済禅師の思想的立場の表明として重要かつ有名である。人は聖なるものへのやみがたい希求があるが、それの持つ魅力は必然的に人を虜にし屈服させる魔力を持ち、元来そなえていた人を浄化させる力が却って人の自由を束縛するものへと転化する。臨済はこれを「仏魔」と呼んだのである。」



(注4)「皆是一期藥病相治」

説法の類が一時的な薬の類に過ぎないという理解の仕方は、前田22にも指摘があります。

「説法は要するに薬のようなものである。病気が治ったら薬は無用なばかりか、かえって有害なものである、というのが彼の持説である。」



6 第6段

(1)第6段の1(入矢58~59)

六、問、如何是眞正見解。師云、爾但一切入凡入聖、入染入淨、入諸佛國土、入爾勒樓閣、
入毘盧遮那法界、處處皆現國土、成住壞空。佛出于世、轉大法輪、却入涅槃、不見有去來相貌。求其生死、了不可得。便入無生法界、處處游履國土、入華藏世界、盡見諸法空相、皆無實法。唯有聽法無依道人、是諸佛之母。所以佛從無依生。若悟無依、佛亦無得。若如是見得者、是眞正見解。

(訳)衣川・思想116~117

問う、「正しい考えとはどういうことなのでしょうか」。師の答え、「諸君がいつものように俗人の世界に入り、佛の世界に入り、汚れた世界に入り、清淨な世界に入り、さまざまな佛のおわす世界に入り、彌勒菩薩の住む高殿に入り、毘盧遮那佛の光明世界に入って探究しても、そこではさまざまの世界が成立し、敎えを說き、涅槃に入られた」と言うが、そこに佛陀その人が現れ去って行った本當の姿は見えない。そこに生きて死んだという實像を求めようとしても、つかむことはできぬ。たとい諸君が不生不死の眞實世界に入らんと、あちこち訪ねてさまざまな佛の世界を遍歷して、ついに蓮華藏世界に行きついたとしても、結局のところ、〈一切は空〉であって、實體がないことがわかる。ただ、今ここにわが面前で說法を聽いている無依の道人だけが、諸佛を生み出す母なのである。ゆえに佛はその無依なるところから生み出される。もし無依ということを悟ったならば、佛すらもまた外から手に入れるものではなくなる。かくのごとく見ることができたなら、これが正しい考えというものだ。」



(2)第6段の2(入矢60~61)

學人不了、爲執名句、被他凡聖名礙、所以障其道眼、不得分明。祇如十二分教、皆是表顯之説。學者不會、便向表顯名句上生解。皆是依倚、落在因果、未免三界生死。
爾若欲得生死去住、脱著自由、即今識取聽法底人。無形無相、無根無本、無住處、活撥撥地。應是萬種施設、用處祇是無處。所以覓著轉遠、求之轉乖。號之爲祕密。
道流、爾莫認著箇夢幻伴子。遲晩中間、便歸無常。爾向此世界中、覓箇什麼物作解脱。覓取一口飯喫、補毳過時、且要訪尋知識。莫因循逐樂。光陰可惜、念念無常。麁則被地水火風、細則被生住異滅四相所逼。道流、今時且要識取四種無相境、免被境擺撲。

(訳)「學人不了」~「未免三界生死」。呉126~127

これがわからぬ修行者は、名辞に執着して、聖俗といった言葉に碍げられ、その結果みづからに具わった道眼を曇らせ、はっきりと見えないのである。経典というものは、仏陀の法を伝える文字にすぎない。修行者はそのことがわからず、用いられた言葉に対する解釈に血眼になるのは、言葉への依存であって、因果の連鎖のなかに陥り、三界の輪廻から免れることができないのだ。



7 第7段

(1)第7段の1

七、問、如何是四種無相境。師云、爾一念心疑、被地來礙。爾一念心愛、被水來溺。爾一念心嗔、被火來燒。爾一念心喜、被風來飄。若能如是辨得、不被境轉、處處用境。東涌西沒、南涌北沒、中涌邊沒、邊涌中沒、履水如地、履地如水。縁何如此。爲達四大如夢如幻故。道流、爾祇今聽法者、不是爾四大、能用爾四大。若能如是見得、便乃去住自由。

(訳)「道流、爾祇今聽法者」~「便乃去住自由」(呉130)

諸君、今こうして君たちが説法を聴いているのは、君たちの四大がそうしているのではない。〔君たちその人が〕自らの四大を使いこなしているのだ。もしこのように見究め得たならば、死ぬも生きるも自在である。



(2)第7段の2(入谷65~66)

約山僧見處、勿嫌底法。爾若愛聖、聖者聖之名。有一般學人、向五臺山裏求文殊。早錯了也。五臺山無文殊。爾欲識文殊麼。祇爾目前用處、始終不異、處處不疑、此箇是活文殊。爾一念心無差別光、處處總是眞普賢。爾一念心自能解縛、隨處解脱、此是觀音三昧法。互爲主伴、出則一時出。一即三、三即一。如是解得、始好看教。

(訳)「有一般學人」~「此箇是活文殊」。呉118

修行者たちの中には五台山に文殊を志向する連中がいるが、すでに誤っている。五台山に文殊はいない。君たち、文殊に会いたいと思うか。今わしの面前で躍動しており、終始一貫して、一切処にためらうことのない君たち自身、それこそが活きた文殊なのだ



8 第8段

(1)第8段の1(入矢67~68)

八、師示衆云、如今學道人、且要自信。莫向外覓。總上他閑塵境、都不辨邪正。祇如有祖有佛、皆是教迹中事。有人拈起一句子語、或隱顯中出、便即疑生、照天照地、傍家尋問、也大忙然。大丈夫兒、莫祇麼論主論賊、論是論非、論色論財、論説閑話過日。
山僧此間、不論僧俗、但有來者、盡識得伊。任伊向甚處出來、但有聲名文句、皆是夢幻。却見乘境底人、是諸佛之玄旨。佛境不能自稱我是佛境。還是這箇無依道人、乘境出來。若有人出來、問我求佛、我即應清淨境出。有人問我菩薩、我即應茲悲境出。有人問我菩提、我即應淨妙境出。有人問我涅槃、我即應寂靜境出。境即萬般差別、人即不別。所以應物現形、如水中月。

(訳)「師示衆云」から「論説閑話過日」まで(沖本・虚構と真実18)

師は教えを説いた、「さて、諸君はともかく自らを信じなければならない。外に求めてはならないのだ。どのみち他人のひまつぶしに付き合うだけで、邪正を弁えることさえてんでできはしないのだ。祖師があるの仏があるのといっても、みな経典の中のことにすぎない。たとえば人が一句を持ち出したり、あるいは二項対立を提示すれば、たちまち疑いを生じ、びっくり仰天してあちこち尋ねまわる。まあ忙しいことだ。いっぱしの男たるもの、やたら国家を論じたり、是非を論じたり、女や財のことを論じたり、無駄話をして日を過ごしてはなるまい。」



(2)第8段の2(入矢70~71)

道流、爾若欲得如法、直須是大丈夫兒始得。若萎萎隨隨地、則不得也。夫如㽄嗄之器(注1)、不堪貯醍醐。如大器者、直要不受人惑。隨處作主、立處皆眞。(注2)
但有來者、皆不得受。爾一念疑、即魔入心。如菩薩疑時、生死魔得便。但能息念、更莫外求。物來則照。爾但信現今用底、一箇事也無。爾一念心生三界、隨縁被境、分爲六塵。爾如今應用處、欠少什麼。一刹那間、便入淨入穢、入彌勒樓閣、入三眼國土、處處遊履、唯見空名。

(訳)呉128

諸君、もし君たちがちゃんとした修行者でありたいなら、ますらおの気概がなくてはならぬ。人の言いなりなぐずでは駄目だ。ひびの入った陶器には醍醐を貯えておけないのと同じだ。大器の人であれば、何よりも他人に惑わされまいとするものだ。どこででも自ら主人公となれば、その場その場が真実だ。外からやって来る物は、すべて受け付けてはならぬ。君たちの心に一念の疑いが浮かべば、それは魔が心に侵入したのだ。菩薩ですら疑いを起こせば、生死の魔につけ込まれる。まずなによりも念慮を止めることだ。外に向って求めてはならぬ。物がやって来たら、こちらの光を当てよ。ただただ君たちが今はたらかせているもの、それが何の子細もない〔平常無事なものである〕ことを信ぜよ。君たちの一念心が三界を作り出し、さらに外縁に応じ外境に転ぜられて六塵に分かれるのだ。君たちが今ここにはたらかせているものに、いったい何が欠けていよう。一刹那の間に、浄土にも入り、穢土にも入り、弥勒の殿堂にも入り、三眼国土にも入り、いたる処に遊行するが、見るのはただそれらの空なる名だけだ。



(注1)「萎萎隨隨地」、「㽄嗄之器」。呉128~129

「萎萎隨隨地」「㽄嗄之器」という語は、自ら〔仏と同じである〕自己を確信できず、自らが主体性・主人公たる気概のない人を指していう。その反対の語が「大丈夫兒」「大器」である。



(注2)「隨處作主、立處皆眞」の理解。呉130

「修行者に対し臨済は、丁寧に説法をした。上の文脈をまとめると、彼は馬祖禅の基本思想とされる「作用即性」説に拠りつつ、目の前の修行者に「随処作主」をすすめ励ましていたことが読み取れる。ここに注意したいのは、臨済の言う「平常無事」は「真」や「偽」などのことについて、それを正しく見分けたうえで、自らが主体性・主人公として自己を確立することができたなら、そのときこそ自らの立つところがすべて真実の世界となる(すなわち「立処皆真」)。このような思想は『臨済録』に随所に見られる。たとえば「無依道人」「弄光影底人,是諸仏之本源」「乗境底人,是諸仏之玄旨」(略)などの表現がその例である」

以上の見解は、実体的になんらかの「真」「偽」の区分が必要であるとの趣旨と読み込むと、修道の必要性の問題が生じるようにも感じ、慎重な検討を要する理解であると思う。



9 第9段

(1)第9段の1(入矢72~73)

九、問、如何是三眼國土。師云、我共爾入淨妙國土中、著清淨衣、説法身佛。又入無差別國土中、著無差別衣、説報身佛。又入解脱國土中、著光明衣、説化身佛。此三眼國土、皆是依變。約經論家、取法身爲根本、報化二身爲用。山僧見處、法身即不解説法。所以古人云、身依義立、土據體論。法性身、法性土、明知是建立之法、依通國土。空拳黄葉、用誑小兒。蒺藜菱刺、枯骨上覓什麼汁。心外無法、内亦不可得、求什麼物。



(2)第9段の2(74~75)

爾諸方言道、有修有證。莫錯。(注1)設有修得者、皆是生死業。爾言六度萬行齊修。我見皆是造業。(注2)求佛求法、即是造地獄業。求菩薩、亦是造業。看經看教、亦是造業。佛與祖師、是無事人。(注3)
所以有漏有爲、無漏無爲、爲清淨業。
有一般瞎禿子、飽喫飯了、便坐禪觀行、把捉念漏、不令放起、厭喧求靜、是外道法。(注4)祖師云、爾若住心看靜、擧心外照、攝心内澄、凝心入定、如是之流、皆是造作。是爾如今與麼聽法底人、作麼生擬修他證他莊嚴他。渠且不是修底物、不是莊嚴得底物。若教他莊嚴、一切物即莊嚴得。爾且莫錯。

(訓読)「求佛求法」~「是無事人」。有馬188

「仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業
菩薩を求むるも亦た是れ造業
看経看教も亦た是れ造業
仏と祖師とは是れ無事の人なり」(188)

(訳)「爾諸方言道」~「是無事人」。衣川・思想115

諸君らのところでは「修行して眞理を悟る」と言っているが、考えちがいをしてはならぬ。たといそういう修行をしたところで、みな生死輪廻の業となるのみだ。諸君らは、「六度萬行のすべてを修せん」と言うが、わたしから見ればみな造業、佛を求め法を求めるのは地獄行きの業、經典を讀むのも造業である。佛陀と祖師がたは、外に何も求めず、爲すことのない無事の人であった。



(注1)「爾諸方言道、有修有證。莫錯」の理解。無文151

「世間の人は、禅宗では修行をして佛になる、修行をして悟りを開くのだと言うのであるが、とんでもない間違いじゃ。二十年や三十年修行して凡夫が佛になれるわけはない。修行をしてみたところが煩悩だらけだ。飯を食わねば腹は減る。寝ずにおるというわけにもいかん。

そうではない。人々は修行せんでも、ちゃんと立派なものを持っておると決定(けつじょう)せねばいかん。悟りを開かんでも佛性はちゃんとあると徹底せねばいかん。ご信心をいただかんでも、如来さまはちゃんと救うてくださると決定せねばいかん。そこが衆生本来佛なりということだ。修行してから佛になるのではない。悟ってから佛になるというのではない。オギャーと生まれた時から、佛であり、みんなお助けをいただいているのである。そこを誤解してはいかん」



(注2)「爾言六度萬行齊修。我見皆是造業」の理解。無文151~152

「おまえたちは、「六度万行を修行して、そこで仏になる」なぞと言うが、これもみな臨済の眼から見たら、迷いである。業を造るというものだ。

仏を求め法を求むるも、即ち是れ造地獄の業なり。

仏になろうの、法を得ようのと考えることがもう地獄行きだ。いわんや、自分の外にありがたい仏があったり法があると思うたら、なおさらそれは地獄行きじゃ。

菩薩を求むるも亦た是れ造業なり、看経看教も亦た是れ造業なり

何でも殊勝なことをして、道徳的なことをして、世間でよいことをしようなぞと考えるのも、迷いである。業を造っておるのだ。お経を読んだり、書物を読んだりすることも業である。



(注3)「求佛求法」~「是無事人」の理解

〔1〕有馬189

「有馬 (略)「地獄」は自分で造っているんです。悟れない者が仏に頼り、経典に頼り……

そうするとどんどん地獄に落ちていくよ、ということです。
地獄というのは煩悩の凝り固まった世界。「煩悩即菩提」――煩悩を裏返しにしたら菩提なんです。菩提っていうのは悟りの境地。それが実は煩悩と同じもんやと言うてる。だから、それを求めたらアカン、というただそれだけの話です。

――禅とは修行して「悟り」を求めるものではないのでしょうか。それなのに、菩薩を求めても、仏典を読んでも「地獄」から逃れることは出来ない、というのですか。

有馬 いや、そうではなくて、その行為自体が「造地獄」やと言うとるんです。書いてある通りです。仏を求めること、法を求めること、これが「造地獄」の業と。

―ー祖師を頼ったり、仏法に帰依することが「地獄」へ落ちるということなのですか。

有馬 そうです。

――では、どうしたら私たちは、その己が造る「日常の地獄」から逃れられるのですか。

有馬 何もせんことや。「仏と祖師は是れ無事の人なり」と書いてある。「無事の人」とは何事もしない人。つまり「求めるな」です。求めたらアカン。求めれば求めるほど地獄へ落ちる。」(189~190)

〔2〕臨済録における坐禅への消極的評価に関し、有馬220は次のような明快な指摘もします。

臨済は「坐禅せよ」とは一度も言っていない。『臨済録』にも書いていない」

〔3〕無文152

「仏を求め法を求むるも、即ち是れ造地獄の業なり。

仏になろうの、法を得ようのと考えることがもう地獄行きだ。いわんや、自分の外にありがたい仏があったり法があると思うたら、なおさらそれは地獄行きじゃ。

菩薩を求むるも亦た是れ造業なり、看経看教も亦た是れ造業なり

何でも殊勝なことをして、道徳的なことをして、世間でよいことをしようなぞと考えるのも、迷いである。業を造っておるのだ。お経を読んだり、書物を読んだりすることも業である。」



(注4)この点に関する前田44の解説はやはり力強い。

「一体、成仏などということを考えて、喧を厭い静を求めて坐禅、観行なぞを試みて妄念を抑えようとは、徒(あだ)なる努力だ。抑えようとすればますます湧いて来る。かかる作為造作は、悉くこれ外道の法である。かかる瞎漢(どめくら)どもが諸方に行脚するとは笑止の至り。行脚の如きは徒に脚のうらを踏み拡げるに過ぎない。」



(3)第9段の3(入矢77~78)

道流、爾取這一般老師口裏語、爲是眞道、是善知識不思議、我是凡夫心、不敢測度他老宿。瞎屡生、爾一生祇作這箇見解、辜負這一雙眼。冷噤噤地、如凍凌上驢駒相似。我不敢毀善知識、怕生口業。
道流、夫大善知識、始敢毀佛毀祖、是非天下、排斥三藏教、罵辱諸小兒、向逆順中覓人。所以我於十二年中、求一箇業性、知芥子許不可得。若似新婦子禪師、便即怕趁出院、不與飯喫、不安不樂。自古先輩、到處人不信、被遞出、始知是貴。若到處人盡肯、堪作什麼。所以師子一吼、野干腦裂。



(4)第9段の4(入矢79~81)

道流、諸方説、有道可修、有法可證。爾説證何法、修何道。爾今用處、欠少什麼物、修補何處。後生小阿師不會、便即信這般野狐精魅、許他説事、繋縛他人、言道理行相應、護惜三業、始得成佛。如此説者、如春細雨。
古人云、路逢達道人、第一莫向道。所以言、若人修道道不行、萬般邪境競頭生。智劍出來無一物、明頭未顯暗頭明。所以古人云、平常心是道。(注1)大徳、覓什麼物。現今目前聽法無依道人、歴歴地分明、未曾欠少。爾若欲得與祖佛不別、但如是見、不用疑誤。爾心心不異、名之活祖。心若有異、則性相別。心不異故、即性相不別。

(訳)「道流、諸方説」~「平常心是道」。衣川・思想115

諸君よ!きみたちのところでは「修すべき道があり、悟るべき法がある」と言っている。では訊くが、いったい何の法を悟り、何の道を修するのか?いまこうして活動しているきみたちに、いったい何が缺けているというのか?どこを修理して繕おうというのか?新米の坊主どもはこのことがわからず、ああいった狐ツキの輩が説法して人をしばりつけ、「教えられた教理どおりに自ら修行し、心口意の三業の清浄を大切に守って、始めて成就できる」などと言うのに丸め込まれている。このように言う者は春の細雨のごとく絶えない。古人は言う、「道を修している人に出逢ったら、けっして話しかけてはならぬ」と。ゆえにまた、「もし道を修しようとするなら、道は歩けない。あらゆる邪鬼悪魔が現れて妨げるのだ。智慧の劔を一振りすれば、すべて消え失せ、光明が眞っ暗に、暗黒が明るい」と言われる。ゆえにまた古人は言う。「平常の心が道である」と。



(注1)衣川・思想116

臨済は「修行して(眞理)」を悟るのではないと言う、なぜなら、理想とする佛陀と祖師は求めることのない無事の人であったからだ。「修行して佛陀になるのではない。今の諸君こそが佛陀と同じなのである。そのように信じて生きるのだ」と。」



10 第10段

(1)第10段の1(入矢82~83)

問、如何是心心不異處。師云、爾擬問、早異了也、性相各分。道流、莫錯。世出世諸法、皆無自性、亦無生性。但有空名、名字亦空。爾祇麼認他閑名爲實。大錯了也。設有、皆是依變之境。有箇菩提依、涅繋依、解脱依、三身依、境智依、菩薩依、佛依。爾向依變國土中、覓什麼物。乃至三乘十二分教、皆是拭不淨故紙。佛是幻化身、祖是老比丘。爾還是娘生已否。爾若求佛、即被佛魔攝。爾若求祖、即被祖魔縛。爾若有求皆苦。不如無事。(注1)

(訳)呉125

問い、「その心と心とが異らぬところとはどういうところですか。」師は言った、「君がそれを問おうとしたとたんに、もう異ってしまい、根本とその現れとが分裂してしまった。諸君、勘ちがいしてはいけない。世間のものも超世間のものも、すべて実体はなく、また生起するはずのものでもない。ただ仮の名があるだけだ。しかもその仮の名も空である。ところが君たちはひたすらその無意味な空名を実在と思いこむ。大間違いだ。たといそんなものがあっても、すべて相手次第で変わる境に過ぎない。それ、菩提という境、涅槃という境、解脱という境、三身という境、境智という境、菩薩という境、仏という境があるが、君たちはこういう相手次第の変幻世界に何を求めようというのか。そればかりではない、一切の仏典はすべて不浄を拭う反古(ほご)紙だ。仏とはわれわれと同じ空蝉(うつせみ)であり、祖師とは年老いた僧侶にすぎない。君たちこそはちゃんと母から生まれた男ではないのか。君たちがもし仏を求めたら、仏という魔のとりこになり、もし祖を求めたら、祖という魔に縛られる。君たちが何か求めるものがあれば苦しみになるばかりだ。あるがままに何もしないでいるのが最もよい。



(注1)「不如無事」(呉126)

「最後の「あるがままに何もしないでいるのが最もよい」という説は、臨済禅の基本思想というべきであるが、すなわち、生活上の平常心において自心が仏であることを自覚すればよい、そのうえ更に方便を用いる修行の必要は全くないということである。上の引用文において臨済は、言葉によるさまざまな仏教の観念(「菩提依」「涅槃依」「解脱依」など)を、ただの実体のない言葉の概念(空名)にすぎないとしており、それを求めたら、却ってそれに縛られると言っている。だから、それよりも、むしろ今の生活上の平常心において「あるがままに何もしないでいるのが最もよい」と臨済は考えた。」



(2)第10段の2(入矢85~86)

有一般禿比丘、向學人道、佛是究竟、於三大阿僧祇劫、修行果滿、方始成道。道流、爾若道佛是究竟、縁什麼八十年後、向拘尸羅城、雙林樹間、側臥而死去。佛今何在。明知與我生死不別。
爾言、三十二相八十種好是佛。轉輪聖王應是如來。明知是幻化。古人云、如來擧身相、爲順世間情。恐人生斷見、權且立虚名。假言三十二、八十也空聲。有身非覺體、無相乃眞形。

(訳)衣川・思想113

「佛陀こそは究極のかたである。三大阿僧祇劫の長きにわたって修行を積まれ、その成果として始めて成道されたもうたのだ」などと修行者に向って説教を垂れる坊主がおるが、諸君よ!もしきみたちまでがそのまねをして、「佛陀こそは究極のかたである」と言うなら、いったいどうして八十歲で拘尸羅城の雙林樹のもとに橫たわって死んでしまったのか?(注1)佛陀は今どこにいるのか?われわれの生き死にと何ら變わらぬことがわかるであろう。きみたちは「三十二相、八十種好こそは佛のあかしだ」と言うが、それならあの轉輪聖王だって聖人ということになる。佛陀も現身【うつしみ】の人だったとわかるであろう。古人が「如来の全身のすがたは、眼に見たいという世間の人情に隨って表したにすぎぬ。疑り深い人は虛無の心をいだきやすいゆえ、間に合わせに名目を立てたのだ。でまかせに三十二と言っただけで、八十と言うのもでたらめである。かたちあるは覺者の身體ではない、かたちなきこそが眞のすがたである」と言うとおりである。



(注1)「人間佛陀」

「この時代に「佛陀はわれわれと同じ血の通った人間であって、八十歳で死んだ人である」という「人間佛陀」はまったく新しい佛陀像であった。これはおそらく會昌の廃佛の徹底的破壊を目睹した臨濟禪師の感慨から生まれたものであろう。」(衣川・思想114)



(3)第10段の3(入矢87~88)(注1)

爾道、佛有六通、是不可思議。一切諸天、神仙、阿修羅、大力鬼、亦有神通。應是佛否。道流、莫錯。祇如阿修羅、與天帝釋戰、戰敗領八萬四千眷屬、入藕絲孔中藏。莫是聖否。如山僧所擧、皆是業通依通。
夫如佛六通者、不然。入色界不被色惑、入聲界不被聲惑、入香界不被香惑、入味界不被味惑、入觸界不被觸惑、入法界不被法惑。所以達六種色聲香味觸法皆是空相、不能繋縛此無依道人。雖是五蘊漏質、便是地行神通。

(訳)衣川・思想113

きみたちは「佛陀はすばらしい六神通を發揮なさる」と言う。ならば、天の神、地の神、阿修羅、大力鬼もみな神通を發揮するのであるから、佛陀ということになるであろうか!諸君!間違えてはならぬ!阿修羅は帝釋天と戰って敗れるや、八萬四千の眷屬を率いて蓮の糸の中に隠れたというが、こんなのを聖人と言えるか?わたしがいま擧げたのは、みな業通、依通にすぎない



(注1)禅における神秘・奇跡の否定

「凡てこういう奇跡に対して何らの価値をも認めない点は禅門通有のものに思われる」(前田46)

「いわゆる仏の六通なるものは、霊眼、霊耳、飛行、神力など、すべて最大の奇跡力を意味するものであろう。それらは随処に経文中に散見している。しかし臨済はこれらを業通(ごうつう)、依通(えつう)なりと弾呵(だんか)しているのである。結局、「神通並びに妙用」という禅門の奇蹟は、「運水及び搬柴(はんさい)」であって、せいぜい日常底におけるわれわれの労働に外ならない。」(前田47)



(4)第10段の4(入矢89~90)(注1)

道流、眞佛無形、眞法無相。爾祇麼幻化上頭、作模作樣。設求得者、皆是野狐精魅、並不是眞佛、是外道見解。
夫如眞學道人、並不取佛、不取菩薩羅漢、不取三界殊勝。迥無獨脱、不與物拘。乾坤倒覆、我更不疑。十方諸佛現前、爲一念心喜、三塗地獄頓現、無一念心怖。縁何如此。我見諸法空相、變即有、不變即無。三界唯心、萬法唯識。所以夢幻空花、何勞把捉。
唯有道流、目前現今聽法底人、入火不燒、入水不溺、入三塗地獄、如遊園觀、入餓鬼畜生、而不受報。縁何如此。無嫌底法。爾若愛聖憎凡、生死海裏沈浮。煩惱由心故有、無心煩惱何拘。不勞分別取相、自然得道須臾。爾擬傍家波波地學得、於三祇劫中、終歸生死。不如無事、向叢林中、床角頭交脚坐。

(訳)衣川・思想118~119,126~127

諸君!眞の佛はすがたを持たず、眞の法はかたちがない。しかるにきみたちはひたすら現身(うつしみ)の上に(ワンパターンの)ひとまねばかりして、それで佛や法を求め得たと思っても、そんなものはみな狐に化かされたに過ぎず、けっして眞の佛ではない。外衜の考えかただ。ほんものの修行人は、けっして佛とならんことを求めず、菩薩・、羅漢とならんことを求めず、解脫しようと求めたりせずとも、超然として三界を脫け出て、何物にも拘束されぬ。このことを〈たとい天地がひっくり﨤ろうとも、わたしは絕えて疑わぬ〉、臨終のときになって、たといお迎えの佛たちが目の前に現れようとも、微塵もありがたいとは思わず、三途地獄がいきなり現れようとも、少しも恐しいとは思わぬ。なぜか?あらゆるものは本来空なのであって、因緣によって現れもすれば消えもするに過ぎず、〈三界は心の現出、萬物は意識の産出〉なることが、私にはわかっているからだ。ゆえに〈夢幻(ゆめまぼろし)空に現れる幻影は、把もうとしても無駄なこと〉と言われる。ただ諸君という、わが目前でいま說法に聽き入っている人こそは、火に入っても燒けず、水に入っても溺れず、地獄に入っても花園に遊ぶがごとく、餓鬼道・畜生道に入っても苦しみを受けることがない。なにゆえか?厭うべき法というものはないからである。〈きみたちが聖を慕って俗を憎むなら、煩惱の海に浮き沈みをくりかえすほかはない。煩惱は心によって起こるもの、外に求める心が無くなれば、立ちどころにおのづから道を得るのだ〉。きみたちはあたふたと軒なみに訊ねまわって學ぼうとしているが、長い長い修行の階梯を歩んでも、結局は迷いの世界を出ることはできぬ。それよりも無事なることを心得て、道場で禪牀に脚を組んで坐っているほうがましというものだ。



(注1)この段の解釈(衣川・思想127)

「「三途地獄」も「極樂淨土」も「佛」も「解脫」もすべては観念(佛敎敎學の術語)に過ぎず、こういう空なる観念に惑わされず、「無事」でいるのがいちばんよい。

人はこうした觀念によって最も騙されやすいのである。観念は言葉によって表出される。」



(5)第10段の5(入矢92~94)

道流、如諸方有學人來、主客相見了、便有一句子語、辨前頭善知識。被學人拈出箇機權語路、向善知識口角頭攛過、看爾識不識。爾若識得是境、把得便抛向坑子裏。學人便即尋常、然後便索善知識語。依前奪之。學人云、上智哉、是大善知識。即云、爾大不識好惡。
如善知識、把出箇境塊子、向學人面前弄。前人辨得、下下作主、不受境惑。善知識便即現半身、學人便喝。善知識又入一切差別語路中擺撲。學人云、不識好惡老禿奴。善知識歎曰、眞正道流。
如諸方善知識、不辨邪正。學人來問、菩提涅槃、三身境智、瞎老師便與他解説。被他學人罵著、便把棒打他、言無禮度。自是爾善知識無眼、不得嗔他。
有一般不識好惡禿奴、即指東劃西、好晴好雨、好燈籠露柱。爾看眉毛有幾莖。這箇具機縁。學人不會、便即心狂。如是之流、總是野狐精魅魍魎。被他好學人攛嗌嗌微笑、言瞎老禿奴惑亂他天下人。

(訳)「有一般不識好惡禿奴」~「言瞎老禿奴惑亂他天下人」。衣川・思想119

また、見識を缺くゴロツキ坊主は、あちこち指さして、「今日はよい天氣だ」、「よい雨だ」とか「みごとな燈籠だ」、「立派な露柱だ」とやる。見よ!眉毛が拔け落ちておるぞ!「これぞすぐれた接化だ!」などと、修行者はてんでわからず、それに惑わされて舞い上がる。こういった連中はみな狐ツキ、化け物だ。まっとうな修行者にはあざ笑われて、「ドメクラのゴロツキ坊主め!天下の人をかどわかしおって!」とやられる。



(6)第10段の6(入矢96~97)

道流、出家兒且要學道。祇如山僧、往日曾向毘尼中留心、亦曾於經論尋討。後方知是濟世藥、表顯之説、遂乃一時抛却、即訪道參禪。後遇大善知識、方乃道眼分明、始識得天下老和尚、知其邪正。不是娘生下便會、還是體究練磨、一朝自省。(注1)
道流、爾欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。(注2)



(注1)「出家兒且要學道」~「一朝自省」は、衣川52に次の解説があります。

「出家は俗世間の束縛を脱して自由になることであったが、僧になると戒律によって却って自由を拘束される。律蔵の煩瑣な細則は「清浄という病」だと、かれらは見たのである。

「経論に於いて尋討す」は経論中に道(真理)を探し求めたこと。『祖堂集』巻十九「臨済章」には、大愚を訪問して瑜伽・唯識を論じたと言い、示衆(じしゅ)にはそのほかに華厳学の素養もうかがえる。「済世の薬方、表顕の説」は世の病人を救う薬の処方箋、その文字の書きつけ。「佛教学の研鑽を積んだが、じつは<済生の薬方、表顕の説>にすぎないと知った」とは佛教学は病人を救う薬の処方箋だった、つまり薬そのものではない。薬の説明ばかりしているにすぎない。これをいくら読んでも、これをいくら読んでも救われることはない、悟れないということである。」



(注2)〔1〕「爾欲得如法見解」~「透脱自在」は、衣川136~137に次の解説があります。

「いわゆる「訶佛罵祖」(佛陀と阻止の権利を悪しざまに罵る)と「精神的殺人」の意味するところは、修行者の内面(心)に権威として現れる偶像は容赦なく殺して初めて自由になれるというのである。以下の「佛」、「祖」、「羅漢」は佛教(出世間)の、「父母」、「親族」は世俗(世間)の尊重すべき権威。偶像となったこれらを悉く殺し尽くせとは甚だ激越な言葉であるが、じつはこれはもともと大乗経典の説にもとづくものであって、貪愛を母に、無明を父に、諸使(煩悩)を羅漢に、覚境の識を佛に譬えて、これらを断滅することを「殺害する」と言うのは『楞伽経』に言うところで(四巻本巻三)、この「父母を殺す」という修辞は早くも初期経典の『法句経』(二九四、二九五)に淵源するという」



〔2〕煩悩等を断滅する趣旨であることは、この後に出て来る第14段の1の記述からも自然ではあり、有馬32~33にも、同様の指摘があります。

「煩悩を殺すんです。自分の中の煩悩を。人を殺すのではない。「父母を殺し」なら、両親への思いを断ち切れと(略)「煩悩を殺せ」ということです。すると解脱できる。執着心から解放される。

この言葉は自由を謳いあげた臨済の最も重要な言葉です。「自由」ということを最初に言ったのが、臨済なのです。」



〔3〕殺佛殺祖については、偶像破壊的な理解もよく見受けられます。

臨済は、学人のよるところ、跼蹐(きょくせき)するところを片っ端から破壊して、相手を自由の天地に駆り立てて行く。ここにおいて彼は、飽迄も徹底的な偶像破壊者となって現れて来る。かの四科揀にせよ、四喝にせよ、要するに学人の依るところ、執着するところを殺戮して行く破邪の剣である――「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得て物と拘わらず、透脱自在なり。諸方の道流の如くんば、未だ物に依らずして出で来る底にあらず。」――自己の自由と主権とを阻害する一切の対象は破壊されねばならない。」(前田41~42)



(7)第10段の7(入矢98~99)

如諸方學道流、未有不依物出來底。山僧向此間、從頭打。手上出來手上打。口裏出來口裏打。眼裏出來眼裏打。未有一箇獨脱出來底。皆是上他古人閑機境。山僧無一法與人、祇是治病解縛。爾諸方道流、試不依物出來、我要共爾商量。十年五歳、並無一人。皆是依草附葉、竹木精靈、野狐精魅、向一切糞塊上亂咬。瞎漢、枉消他十方信施、道我是出家兒、作如是見解。向爾道、無佛無法、無修無證。祇與麼傍家擬求什麼物。瞎漢、頭上安頭。是爾欠少什麼。
道流、是爾目前用底、與祖佛不別。祇麼不信、便向外求。莫錯。向外無法、内亦不可得。爾取山僧口裏語、不如休歇無事去。已起者莫續、未起者不要放起、便勝爾十年行脚。

(訳)

〔1〕「如諸方學道流」~「是爾欠少什麼」衣川・思想119~120

よそからここへやって来る行脚僧は、どいつもこいつも何かに依存して出て来るやつばかりだ。わたしがここで片っ端から始末してやる。手振りで来るやつには手振りを始末する。口で来るやつには口で始末する。眼で来るやつには眼を始末する。そういうものから脱出して、私の前に出て来るやつは一人もおらぬ。みな古人の手管に惑わされておるのだ。わたしが諸君に與えあるものは何もない。ただ諸君の病を癒し、自縄自縛を解いてやるだけだ。よそから行脚に来た諸君!何物にも依存しないで出て来てみよ!わたしはきみたちとともに問題を突き詰めたいと思っているが、五年十年このかた、相手になる者はひとりもおらぬ。みな草葉に依りついた亡靈やら竹木の妖怪やら狐の化け物やらであって、他人の野糞によってたかって食らいついておるのだ。ドメクラども!多くの信者から施しを受けながら、報いることもできず、「わたくしは出家人ですから」などと言って、當然だという料簡でいる。きみたちに言おう、他に求むべき佛もなければ法もない。修行をして得べき悟りなどないのだ。それなのに叢林を軒なみに訪ねまわって、何を求めておるのだ?ドメクラども!自分の頭の上にもうひとつ頭をのっけるのか!きみたち自身にいったい何が缺けているというのか!

〔2〕「道流、是爾目前用底」~「内亦不可得」。呉119

諸君、ほかならぬ君自身が現にいま見たり聞いたりしているはたらきが、そのまま祖仏なのだ。それを信じきれぬために、外に向って求めまわる。勘ちがいしてはならぬ。外に法はなく、内にも見付からぬ。



(注1)「是爾目前用底、與祖佛不別」の理解(入矢224)

臨済は「是れ你が目前に用うる底(もの)は、祖仏と別ならず」と言う。平たく言い直せば、われわれの日常の営為はそのままで祖仏のはたらきと同じだというのであり、まさに馬祖の言った「日用即妙用」の趣旨である。喝の噴出といっても、教育者的な手段としてならともかく、本来は平常な「日用」の一つであるべきはずである。敢えて言えば、なにも大口をあけて大声を発する必要はない。「大事なことほど、それとなく言うものです」とは、或る高名な哲学者の言葉である。」



(8)第10段の8(入矢101)

約山僧見處、無如許多般、祇是平常。著衣喫飯、無事過時。爾諸方來者、皆是有心求佛求法、求解脱、求出離三界。癡人、爾要出三界、什麼處去。佛祖是賞繋底名句。爾欲識三界麼。不離爾今聽法底心地。爾一念心貪是欲界。爾一念心瞋是色界。爾一念心癡是無色界、是爾屋裏家具子。三界不自道、我是三界。還是道流、目前靈靈地照燭萬般、酌度世界底人、與三界安名。



(9)第10段の9(入矢102~104)

大徳、四大色身是無常。乃至脾胃肝膽、髪毛爪齒、唯見諸法空相。爾一念心歇得處、喚作菩提樹。爾一念心不能歇得處、喚作無明樹。無明無住處、無明無始終。爾若念念心歇不得、便上他無明樹、便入六道四生、披毛戴角。爾若歇得、便是清淨身界。爾一念不生、便是上菩提樹、三界神通變化、意生化身、法喜禪悦、身光自照。思衣羅綺千重、思食百味具足、更無横病。菩提無住處、是故無得者。
道流、大丈夫漢、更疑箇什麼。目前用處、更是阿誰。把得便用、莫著名字、號爲玄旨。(注1)與麼見得、勿嫌底法。古人云、心隨萬境轉、轉處實能幽。隨流認得性、無喜亦無憂。

(訳)「道流、大丈夫漢」~「號爲玄旨」。呉118

諸君、きりきりしゃんとした男一匹が、この上なにを疑うか。現に今そこで躍動し
ているもの、それを誰だと思うのか〔君たち自身ではないか〕。ここをつかんだな
ら、すぐに活用して、名には一切とらわれぬ。これが奥義というものだ。



(注1)「道流、大丈夫漢」~「號爲玄旨」は、馬祖道一の「即心是仏」思想を継受したものとされる

「ここに「現に今そこで躍動しているもの、それを誰だと思うのか〔君たち自身ではないか〕!」と言い切ったのは、馬祖が説いた「人は真理を離れて存在するのではない。いま・ここに真理があるのだ。いま・ここのすべてが自己の本体である。もしそうでないなら、いったいわたし以外の誰だというのだ!」という考え方が背景にあると考えられる。すなわち、現にいま・ここの見聞覚知の働きが、自己の本源(本心・仏性)であるということである。」(呉118)



(10)第10段の10(入矢105~107)

道流、如禪宗見解、死活循然(注1)。參學之人、大須子細。如主客相見、便有言論往來。或應物現形、或全體作用、或把機權喜怒、或現半身、或乘師子、或乘象王。如有眞正學人、便喝先拈出一箇膠盆子。善知識不辨是境、便上他境上、作模作樣。學人便喝。前人不肯放。此是膏肓之病、不堪醫。喚作客看主。或是善知識不拈出物、隨學人問處即奪。學人被奪、抵死不放。此是主看客。或有學人、應一箇清淨境、出善知識前。善知識辨得是境、把得抛向坑裏。學人言、大好善知識。即云、咄哉、不識好惡。學人便禮拜。此喚作主看主。或有學人、披枷帶鎖、出善知識前。善知識更與安一重枷鎖。學人歡喜、彼此不辨。呼爲客看客。大徳、山僧如是所擧、皆是辨魔揀異、知其邪正。



(注1)「死活循然」

「死活循然」は、入矢107注一では、「難解。生死についての一般論と見手は次の主客対立のことと結びつかない。」と指摘される。

この点、梁特治「『臨済録』死活循然の解釈をめぐって」『印度學佛敎學硏究第 66 巻第 1 号』(2017)は、江戸期の古注本を踏まえ

禅宗の見処 「死活循然」 の原義は,「示衆」 冒頭第一段の 「生死不染,去住自由……」 の如く,自己の主体性確立を根本義とした 「その人自身が,日々遭遇する境界に於いて次々と自在に応変する働き」 を形容した語であり,循然たる死活の巧みな方便の具体相として 「四賓主」 の一段が示されるのである」(312)

との理解を示している。



(11)第10段の11(入矢108~110)

道流、寔情大難、佛法幽玄、解得可可地。山僧竟日與他説破、學者總不在意。千遍萬遍、脚底踏過、黒沒焌地、無一箇形段、歴歴孤明。學人信不及、便向名句上生解。年登半百、祇管傍家負死屍行、檐却檐子天下走。索草鞋錢有日在。
大徳、山僧説向外無法、學人不會、便即向裏作解、便即倚壁坐、舌拄上齶、湛然不動、取此爲是祖門佛法也。大錯。是爾若取不動清淨境爲是、爾即認他無明爲郎主。古人云、湛湛黒暗深坑、寔可怖畏。此之是也。爾若認他動者是、一切草木皆解動、應可是道也。所以動者是風大、不動者是地大。動與不動、倶無自性。爾若向動處捉他、他向不動處立。爾若向不動處捉他、他向動處立。譬如潜泉魚、鼓波而自躍。大徳、動與不動、是二種境。還是無依道人、用動用不動。

(訓読)「學人信不及」~「索草鞋錢有日在」。小川113

学人、信不及にして、便ち名句(みょうく)上に向(お)いて解(げ)を生ず。年の半百に登(なんなん)とするまで、祇管(ひたすら)に傍家に死屍(むくろ)を負うて行き、担子(たんす)を担却(にな)いて天下を走る。草鞋銭を索(もと)めらるること日有らん在(ぞ)!

(訳)「學人信不及」~「索草鞋錢有日在」。小川114

修行僧は本来の自己を信じきれず、何かというと名辞・言句のうえで理屈をつくりだす。あげく五十にもなろうという頃まで、しゃにむに屍(むくろ)(「仏」という内実を見失った生ける屍のような己れ)を背負い、お荷物のような理屈をかついで天下を走り回っている。そんなことでは、閻魔さまからこの世での草鞋代を請求される日が、必ずやって来てしまうぞ。



(12)第10段の12「三種根器」(入矢112~113)(注1)

如諸方學人來、山僧此間、作三種根器斷。如中下根器來、我便奪其境、而不除其法。或中上根器來、我便境法倶奪。如上上根器來、我便境法人倶不奪。如有出格見解人來、山僧此間、便全體作用、不歴根器。大徳、到這裏、學人著力處不通風、石火電光即過了也。學人若眼定動、即沒交渉。擬心即差、動念即乖。有人解者、不離目前(注2)。

(訳)呉167

よそから行脚僧が来たら、わたしのところでは三種の機根に分かって断案を下す。まづ、中下根の者の場合、わたしはそいつの境を奪い取って、法を除かない。つぎに、中上根の者の場合、境も法も奪い取る。上上根の者の場合、境も法も奪い取らない。もし出格の見解を具えた者が来たら、わたしのところでは、機根など問題にせず、全身全霊で応じてやるのだ



(注1)「三種根器」の理解

「注意したいのは、上の引用文において、臨済の主眼は修行者がその「三種根器」のうちのどれに当たるかを見究めることにはなく、その最後に言う「出格の見解」を具えた者に置かれていることである。このような者に対しては臨済は「機根など問題にせず、全身全霊で応じてやるのだ」(「全体作用,不歴根器」)という方法で接化するという。この考え方は「示衆」にほかにも見え、これが臨済の基本的立場と言うべきものであった。しかし、「勘弁」に編入された「四料簡」はこれとは明らかに趣旨が異なっている。」(呉168)



(注2)「有人解者、不離目前」の理解・須山長治「『臨済録』の一考察」317

「「面前」に代る「目前」「即今」「如今」「現今」「今」という語もみな等しく具体的現実を表す。その具体的現実そのものが臨済の説法の場所であり、徐面前聴法底の活動場所である。「示衆」中、他で語られる「人有ツテ解セバ、目前ヲ離レズ」とはそのことを語っているのであろう。具体的現実は「面前」という空間と「即今」という時間だけでは成り立たない。空間を「面前」たらしめ、時間を「即今」たらしめる働きがあってこそ具体性を帯びる。それ故、働きは空間と時間がなければ無効となる。この三者はいつも一緒に考えられなければならない。臨済は「具体的」という代りに「歴歴」「昭昭霊霊」「孤明」あるいは「活溌溌地」ということばを使う。ともに空間を空間たらしめ、時間を時間たらしめる働きが活き活きすることの形容である。臨済は、この、以上述べた「具体的現実」以外のことは問題にしない。彼の目差すものはこの一点のみである。そして、これは何かと問いかける。『臨済録』はこの間で終始する。」



(13)第10段の13(入矢114)

大徳、爾檐鉢嚢屎檐子、傍家走求佛求法。即今與麼馳求底、爾還識渠麼。活撥撥地、祇是勿根株。擁不聚、撥不散。求著即轉遠、不求還在目前、靈音屬耳。若人不信、徒勞百年。
道流、一刹那間、便入華藏世界、入毘盧遮那國土、入解脱國土、入神通國土、入清淨國土、入法界、入穢入淨、入凡入聖、入餓鬼畜生、處處討覓尋、皆不見有生有死、唯有空名。幻化空花、不勞把捉、得失是非、一時放却。

(訓読)「大徳」~「傍家走求佛求法」(沖本・虚構と真実38)

「大徳、汝鉢嚢を担う尿担子、傍家に走りて求仏求法す」

(訳)「大徳」~「傍家走求佛求法」(沖本・虚構と真実38)

「お前さんは立派なお坊さんのなりをした糞担ぎ野郎だ、あくせくとかれ仏や法を求めて走り回っている」



(14)第10段の14(入矢115~116)

道流、山僧佛法、的的相承、從麻谷和尚、丹霞和尚、道一和尚、盧山與石鞏和尚、一路行遍天下。無人信得、盡皆起謗。如道一和尚用處、純一無雜、學人三百五百、盡皆不見他意。如盧山和尚、自在眞正、順逆用處、學人不測涯際、悉皆忙然。如丹霞和尚、翫珠隱顯、學人來者、皆悉被罵。如麻谷用處、苦如黄檗、近皆不得。如石鞏用處、向箭頭上覓人、來者皆懼。



(15)第10段の15(入矢117~118)

如山僧今日用處、眞正成壞、翫弄神變、入一切境、隨處無事、境不能換。但有來求者、我即便出看渠。渠不識我、我便著數般衣、學人生解、一向入我言句。苦哉、瞎禿子無眼人、把我著底衣、認青黄赤白。我脱却入清淨境中、學人一見、便生忻欲。我又脱却、學人失心、忙然狂走、言我無衣。我即向渠道、爾識我著衣底人否。忽爾回頭、認我了也。

(訳)「我即向渠道」~「認我了也」。呉122

そこでかれらに向って、君たちは衣を着たり〔脱いだり〕しているこのわしの当体が分かるかと言ってやると、はっと気が付いて、やっとわしを見て取るという始末だ。



(16)第10段の16(入矢119~120)(注1)

大徳、爾莫認衣。衣不能動、人能著衣。有箇清淨衣、有箇無生衣、菩提衣、涅槃衣、有祖衣、有佛衣。大徳、但有聲名文句、皆悉是衣變。從臍輪氣海中鼓激、牙齒敲磕、成其句義。明知是幻化。大徳、外發聲語業、内表心所法。以思有念、皆悉是衣。爾祇麼認他著底衣爲寔解。縦經塵劫、祇是衣通。三界循還、輪回生死。不如無事。相逢不相識、共語不知名。

(訳)

〔1〕衣川・思想128

禅師がたよ!著けている衣裳に執われてはならぬ。衣裳が人を動かすのではない。人が衣裳を著けているのだ。清浄という衣裳、不生不滅という衣裳、菩薩という衣裳、涅槃という衣裳、祖師という衣裳、佛陀という衣裳など、何でもある。禪師がたよ!こういったすべての言葉は、みな衣裳の變奏にすぎない。言葉というものは、「風ガ臍ノ輪ノ氣海ヨリ出テ、齒デカチカチヤッテ、意味トナッタ」にすぎず、明らかに實體なき幻である。禅師がたよ!〈音聲をもって語業を外に發することにより、内なる心の思いを表現する〉と言うように、心に思うことによって觀念が生まれる。それが言葉になるのであるから、みな衣裳である。諸君はひたすら衣裳に執われて實體があると思い込んでいるのだ。こんなことではいつまでたっても衣裳の專門家になるにすぎず、三界をぐるぐるまわって輪廻轉生をくりかえすだけだ。外に求めぬ無事がいちばんよい。〈出逢っても誰だかわからぬ、言葉を交わしても名前も知らぬ〉、それでよのだ。

〔2〕「大徳、外發聲語業」~「共語不知名」。沖本・虚構と真実42

諸君、「外に音声言語を発して、内面の心の働きを表す。」と(『大乗成業論』に)いう。意志が働くから想念があるのだが、それも畢寛うわべの衣だ。お前さんはひたすら「そいつ」が着ているうわべの衣を見て、それが実体だと思い込む。たとい無限の時間を経た所で、うわべの衣に通じるだけで、三界に輪廻するばかりだ。無事であるにしくはない。「相い逢うても相い知らず、共に語って名も知らず」だ。



(注1)この段の理解。衣川・思想128~129

「言葉は風である。言葉が紡ぎ出す観念は空なる幻想に過ぎない。人間がもっとも執われやすいものが言葉によって紡ぎ出される観念である。むろんあらゆる觀念を信ずるなと言うのではない。人間がもっとも執われやすい。信じ込みやすい觀念とは、「菩提」、「涅槃」、「祖師」、「佛陀」等の聖なる觀念・述語のあのであって、臨濟禪師はこのことに注意を喚起するのである。(略)
しかし、人間は言葉を離れることができない。臨濟禪師も示衆說法では饒舌に語る。多くの言葉を費やして、言わんとするところは、言葉を妄信するなという一事である。これがすなわち禪宗で言われる「不立文字」という句の意味に他ならない。」



(17)第10段の17(入矢120~121)

今時學人不得、蓋爲認名字爲解。大策子上、抄死老漢語、三重五重複子裹、不教人見、道是玄旨、以爲保重。大錯。瞎屡生、爾向枯骨上、覓什麼汁。
有一般不識好惡、向教中取意度商量、成於句義。如把屎塊子、向口裏含了、吐過與別人。猶如俗人打傳口令相似、一生虚過。也道我出家、被他問著佛法、便即杜口無詞、眼似漆突、口如匾擔。如此之類、逢彌勒出世、移置他方世界、寄地獄受苦。(注1)



(注1)有馬204~205

「――(略)「弥勒の出世に逢うとも、他方世界に移置せられ、地獄に寄せて苦を受けん」とは、すごい言葉だと思いました。
有馬 そうですね。「弥勒さん」が出現するのは、お釈迦さんが亡くなって五十六億七千万年後ですからね。それまで待っても、「救われへんよ」と言うとるんやね。
――救われないんですか。
有馬 救われない。「他方世界」、どこか違う場所に行っても、地獄の苦しみからは逃れられないのです。」



(18)第10段の18(入矢123)

大徳、爾波波地往諸方、覓什麼物、踏爾脚板闊。無佛可求、無道可成、無法可得。外求有相佛、與汝不相似。欲識汝本心、非合亦非離。
道流、眞佛無形、眞道無體、眞法無相。三法混融、和合一處。辨既不得、喚作忙忙業識衆生



11 第11段(入矢124)(注1)

一一、問、如何是眞佛眞法眞道、乞垂開示。師云、佛者心清淨是。法者心光明是。道者處處無礙淨光是。三即一、皆是空名、而無寔有。如眞正學道人、念念心不間斷。自達磨大師從西土來、祇是覓箇不受人惑底人。後遇二祖、一言便了、始知從前虚用功夫。山僧今日見處、與祖佛不別。若第一句中得、與祖佛爲師。若第二句中得、與人天爲師。若第三句中得、自救不了。(注2)

(訓読)「自達磨大師」~「與祖佛不別」。小川138

達磨大師の西土従(よ)り来りて自(よ)り、祇(た)だ是れ箇(ひとり)の人惑(にんわく)を受けざる底の人を覓(もと)むるのみ。後、二祖に遇うや、一言に便ち了じて、始めて従前には虚しく功夫を用いしことを知れり。山僧(わし)が今日の見処(けんじょ)にては、祖仏と別ならざるなり。

(訳)

〔1〕「山僧今日見處、與祖佛不別」~「自救不了」。呉161

わたしが今日諸君に語った見解は、諸君こそが達磨や仏陀と別ではないということである。最初の一句でただちに了解した者は、達磨や仏陀の師となれる。第二句で了解した者は、人間界と天上界で師となれる。それでもわからず、第三句でようやく了解できるようなら、人を救うどころか、自分さえも救い得ない。

〔2〕「自達磨大師」~「與祖佛不別」。小川138

「祖師達磨は西来後、ただ、他人の惑わしを受けぬ一箇の人をもとめただけだ。だから、その後二祖慧可に出逢うや、一言でただちにケリをつけ、それまでは無駄な修行をしていたに過ぎぬことを明らかにされたのである。わしのただ今の見解によれば、人は祖仏と何の別もないのである。」



(注1)この段の理解

〔1〕衣川142~143

「「達磨が西から来た意図とはなんぞや?」とは、中唐馬祖門下の時代よりしばしば提起された「如何なるか祖師西来意?」という問いである。「祖師」は菩提達磨を指し、「祖師西来意」とは達磨がインドから来た意図。達磨は禅を伝えたとされるが、その禅とはなにかを問うもので、中唐時代の禅宗がみずからのルーツをこの問いによって確認しあう問題意識である。

達磨は何をしに中国へ来たのか?臨済は言う「人に騙されぬまっとうな人間を捜しに来たのだ」。」



(注2)「臨済三句の成立」

「柳田聖山の解釈によれば、示衆に記されているこの「三句」とは、「一切の人惑を受けぬ、祖仏の師となるに価する底の上根の機の用処を第一句とし、第二、三句を中下の根とみるべきであろう」という。「第一句」を会得すれば「祖仏と別ならず」というから、主眼は「第一句」に置かれている。つまり、臨済によって語られた「三句」は、「第一句」(=「第一義」「本分事」)の立場に立ちつつ、来参者の機根を見きわめ接化するものである。これは上掲の雪峰が質問した臨済の語る「三句」と対応する。
しかし、「上堂」に出る「臨済三句」は、来参者の機根を「上根・中根・下根」に分類する「三句」とは、明らかに趣旨が異なっている。
では、「上堂」に見られる所謂「臨済三句」は誰によって作られたのであろうか。またどのようにして『臨済録』に編入されたのであろうか。」(呉161)

「結論を先に言えば、「臨済三句」は風穴の語であったにもかかわらず、「三玄三要」の語と同じく、後世最も影響の大きかった『景徳伝灯録』に臨済の語として収録されたため、北宋末以後にはそれが臨済の語として定着していったのである。」(呉162)



12 第12段

(1)第12段の1(入矢125~126)(注1)

一二、問、如何是西來意。師云、若有意、自救不了。云、既無意、云何二祖得法。師云、得者是不得。云、既若不得、云何是不得底意。師云、爲爾向一切處馳求心不能歇。所以祖師言、咄哉丈夫、將頭覓頭。爾言下便自回光返照、更不別求、知身心與祖佛不別、當下無事、方名得法。
大徳、山僧今時、事不獲已、話度説出許多不才淨。爾且莫錯。據我見處、寔無許多般道理。要用便用、不用便休。

(訳)衣川・思想129~130

僧が問う、「逹磨は何の意圖があって印度から來たのでしょうか?」師、「もし達磨に何かの意図があったなら、かれは自身さえも救えなかっただろう。」僧、「意圖がなかったのなら、二祖慧可が法を得たとはどういうことでしょうか?」師、「得たとは得(たものは何も)なかったということだ。」僧、「得なかったのでしたら、その『得なかった逹磨の意圖』とは何でありましょうか?」師、「きみはどこまで行っても求めまわることから拔け出せない。だからこそ祖師はきみのために言ったのだ、『おいっ!一人前の男が何だ!頭があるのに頭を捜しまわるとは!』きみがこの一言のもと、ただちに廻光返照して、外には一切求めず、わが身と心が祖師や佛陀と別ではないと知って、今こそ〈無事〉に落ちつくことが、『得なかった』ということに他ならない。

禅師がたよ!わたしは今やむを得ず、しゃべりまくって汚らわしい物を垂れ流す結果となったが、どうか諸君よ!誤解しないでもらいたい。私の見かたでは、じつは多くの眞理があるのではない。使いたいなら使え!使わぬならそれまでだ。」



(注1)この段の理解。小川141

「「祖師再来意」など存在しないと、臨済はいう。外に「馳求」することをやめ、自分自身に立ちもどれば、何も格別の子細は無い。(略)「得法」とは新たに何も得る必要のない自己、それに気づくだけのことであり、だから「得とは不得」だということになる。」



(2)第12段の2(入矢128~129)

祇如諸方説六度萬行、以爲佛法、我道、是莊嚴門佛事門、非是佛法。乃至持齋持戒、擎油不【氵閃】(注1)、道眼不明、盡須抵債、索飯錢有日在。何故如此。入道不通理、復身還信施。長者八十一、其樹不生耳。乃至孤峯獨宿、一食卯齋、長坐不臥、六時行道、皆是造業底人。乃至頭目髓腦、國城妻子、象馬七珍、盡皆捨施、如是等見、皆是苦身心故、還招苦果。不如無事、純一無雜。乃至十地滿心菩薩、皆求此道流蹤跡、了不可得。所以諸天歡喜、地神捧足、十方諸佛、無不稱歎。縁何如此。爲今聽法道人、用處無蹤跡。

(注1)辺を「氵」、旁を「閃」とする字。



13 第13段

(1)第13段の1(入矢130~131)

一三、問、大通智勝佛、十劫坐道場、佛法不現前、不得成佛道。未審此意如何。乞師指示。師云、大通者、是自己於處處、達其萬法無性無相、名爲大通。智勝者、於一切處不疑、不得一法、名爲智勝。佛者心清淨、光明透徹法界、得名爲佛。十劫坐道場者、十波羅蜜是。佛法不現前者、佛本不生、法本不滅、云何更有現前。得成佛道者、佛不應更作佛。古人云、佛常在世間、而不染世間法。



(2)第13段の2(入矢132~133)

道流、爾欲得作佛、莫隨萬物。心生種種法生、心滅種種法滅。一心不生、萬法無咎。世與出世、無佛無法、亦不現前、亦不曾失。設有者、皆是名言章句、接引小兒、施設藥病、表顯名句。且名句不自名句、還是爾目前昭昭靈靈、鑒覺聞知照燭底、安一切名句。大徳、造五無間業、方得解脱。



14 第14段

(1)第14段の1(入矢134~135)

一四、問、如何是五無間業。師云、殺父害母、出佛身血、破和合僧、焚燒經像等、此是五無間業。云、如何是父。師云、無明是父。爾一念心、求起滅處不得、如響應空、隨處無事、名爲殺父。云、如何是母。師云、貪愛爲母。爾一念心、入欲界中、求其貪愛、唯見諸法空相、處處無著、名爲害母。云、如何是出佛身血。師云、爾向清淨法界中、無一念心生解、便處處黒暗、是出佛身血。云、如何是破和合僧。師云、爾一念心、正達煩惱結使、如空無所依、是破和合僧。云、如何是焚燒經像。師云、見因縁空、心空、法空、一念決定斷、迥然無事、便是焚燒經像。大徳、若如是達得、免被他凡聖名礙。



(2)第14段の2(入矢136~138)

爾一念心、祇向空拳指上生寔解、根境法中虚捏怪。自輕而退屈言、我是凡夫、他是聖人。禿屡生、有甚死急、披他師子皮、却作野干鳴。大丈夫漢、不作丈夫氣息、自家屋裏物不肯信、祇麼向外覓、上他古人閑名句、倚陰博陽、不能特達。逢境便縁、逢塵便執、觸處惑起、自無准定。
道流、莫取山僧説處。何故。説無憑據、一期間圖畫虚空、如彩畫像等喩。
道流、莫將佛爲究竟。我見猶如厠孔、菩薩羅漢、盡是枷鎖、縛人底物。所以文殊仗劍、殺於瞿曇、鴦掘持刀、害於釋氏。道流、無佛可得。乃至三乘五性、圓頓教迹、皆是一期藥病相治、並無實法。設有、皆是相似、表顯路布、文字差排、且如是説。(注1)
道流、有一般禿子、便向裏許著功、擬求出世之法。錯了也。若人求佛、是人失佛。若人求道、是人失道。若人求祖、是人失祖。



(訓読)「道流、無佛可得。乃至三乘五性、圓頓教迹、皆是一期藥病相治、並無實法。設有、皆是相似、表顯路布、文字差排、且如是説」(衣川52~3)

「道流よ!佛の得可(うべ)き無し。乃至(たと)い三乗、五性、圓頓(えんどん)の教迹(しゃく)なるとも、皆な是れ一期(いちご)の薬病相治(やくへいそうじ)にして、並(た)えて実法無し。設(たと)い有るも、皆な是れ相似の表顕(ひょうげん)、路布の文字、差排して且らく是(かく)の如く説きしのみ。」

(訳)「道流、無佛可得。乃至三乘五性、圓頓教迹、皆是一期藥病相治、並無實法。設有、皆是相似、表顯路布、文字差排、且如是説」(衣川53)

「諸君!外から手に入れる佛などありはしない。たといれいれいしく説かれた三乗、五性、圓頓の教理であろうとも、みなかりそめの方便であって、本当の中味などありはしない。あるのはそのものでないただの説明、大仰な宣伝の文句であって、指示する言葉にすぎないのだ。」



(注1)「莫取山僧説處」=「私の言うことを聞くな」の理解

「我が語を記(おぼ)ゆる莫れ」(または「取る莫れ」)とは、馬祖系の禅師たちが弟子を戒める時に常に用いた言葉であった。特に百丈や臨済は繰り返しこれを言う。師と同じことを言い、師と同じ法を嗣ぐのでは、それは師を辱めることになる。」(入矢義高編『馬祖の語録 禅の語録5』(序3))



(注2)「乃至三乘五性、圓頓教迹、皆是一期藥病相治、並無實法」の理解(有馬170~171)

「あらゆる経典、あらゆる説法、みんなどんなに素晴らしくても、「病を治した薬みたいなもの」、つまり、病が治ったらもう薬はいらんよ。薬なんてなんの役にも立たんよ。一時の病は治すかも知らんが、すべての病を治す薬なぞない。病を治したという真似事をしとるだけや、と。これも例え話。仏さんの言うことをいろいろまともに受け取ったらいかんと。そしてまた同じことを言いますね。

仏教そのものが偽物やと。坊さんも文字を並べて偉そうなことを言ってるだけや。じゃあ、どうすればよいのか。(略)

「仏を求めれば仏を失い、道を求めれば道を失い、祖を求めれば祖を失う」。「求めて派いけない」ということは、坊さんの説法を聞いてもアカン。いや聞いたらアカン。あんなんウソ八百。「求めたら」全部失う。結局自分に自信がないから、他人に相談し、外に求めて、それで“自分”を失う。自由を失う。」

「仏教そのものが偽物」、「坊さんの説法を聞いてもアカン。いや聞いたらアカン。あんなんウソ八百」…これを言っているのが、臨済宗相国寺派管長というのもすごい。



(3)第14段の3(入矢140~141)

大徳、莫錯。我且不取爾解經論、我亦不取爾國王大臣、我亦不取爾辯似懸河、我亦不取爾聰明智慧、唯要爾眞正見解。道流、設解得百本經論、不如一箇無事底阿師。爾解得、即輕蔑他人。勝負修羅、人我無明、長地獄業。如善星比丘、解十二分教、生身陷地獄、大地不容。不如無事休歇去。飢來喫飯、睡來合眼。愚人笑我、智乃知焉。
道流、莫向文字中求。心動疲勞、吸冷氣無益。不如一念縁起無生、超出三乘權學菩薩。



(4)第14段の4(入矢142~143)

大徳、莫因循過日。山僧往日、未有見處時、黒漫漫地。光陰不可空過、腹熱心忙、奔波訪道。後還得力、始到今日、共道流如是話度。勸諸道流、莫爲衣食。看世界易過、善知識難遇。如優曇花時一現耳。
爾諸方聞道有箇臨濟老漢、出來便擬問難、教語不得。被山僧全體作用、學人空開得眼、口總動不得。【忄瞢】(注1)然不知以何答我。我向伊道、龍象蹴踏、非驢所堪。爾諸處祇指胸點肋、道我解禪解道、三箇兩箇、到這裏不奈何。咄哉、爾將這箇身心、到處簸兩片皮、誑【異体字】(注2)閭閻。喫鐵棒有日在。非出家兒、盡向阿修羅界攝。



(注1)辺は「忄」、旁は「瞢」。読みは「ボウ」か。

(注2)辺は「言」旁は、「宀」の下に「卒」



(5)第14段の5(入矢145~146)

夫如至理之道、非諍論而求激揚、鏗鏘以摧外道。至於佛祖相承、更無別意。設有言教、落在化儀三乘五性、人天因果。如圓頓之教、又且不然。童子善財、皆不求過。
大徳、莫錯用心。如大海不停死屍。祇麼擔却、擬天下走。自起見障、以礙於心。日上無雲、麗天普照。眼中無翳、空裏無花。
道流、爾欲得如法、但莫生疑。展則彌綸法界、收則絲髮不立。歴歴孤明、未曾欠少。眼不見、耳不聞、喚作什麼物。古人云、説似一物則不中。爾但自家看。更有什麼。説亦無盡、各自著力。珍重。



第2の3 〔勘辨〕



1 第1段「黄檗の一転語」(入矢149~150、無文324)

黄檗、因入厨次、問飯頭、作什麼。飯頭云、揀衆僧米。黄檗云、一日喫多少。飯頭云、二石五。黄檗云、莫太多麼。飯頭云、猶恐少在。黄檗便打。
飯頭却擧似師。師云、我爲汝勘這老漢。纔到侍立次、黄檗擧前話。師云、飯頭不會、請和尚代一轉語。師便問、莫太多麼。黄檗云、不道、來日更喫一頓。師云、説什麼來日、即今便喫。道了便掌。黄檗云、這風顛漢、又來這裏捋虎鬚。師便喝出去。
後潙山問仰山、此二尊宿、意作麼生。仰山云、和尚作麼生。潙山云、養子方知父慈。仰山云、不然。潙山云、子又作麼生。仰山云、大似勾賊破家。



2 第2段(入矢151~152、柳田34~35、無文332)(注1)

師問僧、什麼處來。僧便喝。師便揖坐。僧擬議。師便打。師見僧來、便竪起拂子。僧禮拜。師便打。又見僧來、亦竪起拂子。僧不顧。師亦打。

(訳)呉120

師が僧に問うた、「どこから来たか。」僧はすぐに一喝した。師は会釈して僧を坐らせた。僧はもたついた。師はすぐ打った。師は僧がやって来るのを見ると、払子をさっと立てた。僧は礼拝した。師はそこで打った。また別の僧がやって来るのを見ると、やはり払子を立てた。僧は見向きもしなかった。師はやはりその僧を打った。



(注1)作用即性論の継受(呉120)

「ここには「喝」「払子を立てる」「打つ」という言葉や動作が見られ、これは馬祖の「作用即性」説に基づいて表現された行為であると考えられる。『景徳伝灯録』及び『天聖広灯録』によれば、「喝」を発するということは確かに臨済宗の宗風として早くから受け止められていた。ここで注目したいのは、「喝」の作略は馬祖の提示した「作用即性」説の延長に位置づけられることである。なお、それが安易に模倣されるいわゆる「胡喝乱喝」の現象も現われ、「胡喝乱喝」を避けるために臨済以降に「喝」の分類(すなわち「四喝」)が提起されたと考えられる」



3 第3段(入矢152~153)

この段は、明版『古尊宿語録』から増補されたものとして、入谷152~153頁に記載されている。

正蔵版にも存在しない。

柳田、無文にも取り上げられていない。



師見普化、乃云、我在南方馳書至潙山時、知你先在比住侍我來。及我來、得你佐贊。我今欲建立黄檗宗旨。汝切須爲我成褫。普化珍重下去。克符後至。師亦如是道。符亦珍重下去。三日後、普化卻上問訊云、和尚前日道甚麼。師拈棒便打下。又三日、克符亦上問訊、乃問、和尚前日打普化作什麼。師亦拈棒便打下。



4 第4段(入矢154~155)

四、師、一日同普化、赴施主家齋次、師問、毛呑巨海、芥納須彌。爲是神通妙用、本體如然。普化踏倒飯床。師云、太麁生。普化云、這裏是什麼所在、説麁説細。(注1)
師來日、又同普化赴齋。問、今日供養、何似昨日。普化依前踏倒飯床。師云、得即得、太麁生。普化云、瞎漢、佛法説什麼麁細。師乃吐舌。

(訳)沖本・虚構と真実28~29

ある日、普化と施主の家に出かけた。供養の食事をとりながら師がたずねた、「一毛が巨海を呑み込み、一粒の芥子が須弥山を納めるというが、いったいこれは不思議な神通の働きなのだろうか、それとももともと当たり前のことなのかね。」普化は食卓を蹴り倒した。師、「なんと荒っぽい奴だ。」普化、「ここがいったい何処だからといって、荒いの細かいのというのだ。」

翌日もまた普化と供養を受けにでかけた。「今日の供養は昨日にくらべてどうかね。」普化はまた食卓を蹴り倒した。師、「よいにはよいが、何と荒っぽいやつだ。」普化、「わからぬ奴だ。仏法に荒いの細かいのがあろうか。」師は舌を出した。


(注1)神通妙用の問い(師問、毛呑巨海、芥納須彌。爲是神通妙用、本體如然)に対し、普化が食卓を蹴倒した(普化踏倒飯床)趣旨について、有馬132は次のような解説をします。

「仏法には、そういう神通力と神通妙用というのは決してないと。自然のまま、ありのままが仏法。さらに言えば、「仏法」ということ自体がないんやと普化は言うとるんです。」

臨済宗相国寺派管長の有馬賴底が「「仏法」ということ自体がない」と断言するところに素直に迫力を感じます。



5 第5段(入矢155~156)

五、師一日、與河陽木塔長老、同在僧堂地爐内坐。因説、普化毎日在街市、掣風掣顛。知他是凡是聖。言猶未了、普化入來。師便問、汝是凡是聖。普化云、汝且道、我是凡是聖。師便喝。普化以手指云、河陽新婦子、木塔老婆禪。臨濟小厮兒、却具一隻眼。師云、這賊。普化云賊賊、便出去。

(訳)沖本・虚構と真実29

ある日、師は河陽・木塔の両長老と一緒に僧堂の地炉の内に坐っていた。そのおりに、「普化は毎日街に出ては奇矯の振る舞いをしている。いったい凡人なのか、それとも聖人なのだろうか。」と話していると、言いおわらぬうちに、普化がやってきた。そこで師は尋ねた、「お前さんは几人なのかね聖人なのかね。」普化、「まずあんたがいいなさい、私は凡人なのか聖人なのか。」そこで師は一喝した。普化は指さしながら、「河陽は花嫁、木塔は老婆の禅。臨済はこわっぱだが、まあ少しは見る眼がある。」師、「この賊め。」普化は「賊だ賊だ。」と言って出て行った



6 第6段(入矢157)

六、一日、普化在僧堂前、喫生菜。師見云、大似一頭驢。普化便作驢鳴。師云、這賊。普化云賊賊、便出去。

(訳)沖本・虚構と真実29

ある日普化は僧堂の前で生の野菜をかじっていた。これを見て師はいった、「なんと騨馬にそっくりだ。」すかさず騙馬の鳴き声をまねた。師、「この賊め。」普化は「賊だ賊だ」と言って出て行った。



7 第7段(入矢157~158)」

七、因普化、常於街市搖鈴云、明頭來、明頭打、暗頭來、暗頭打、四方八面來、旋風打、虚空來、連架打。師令侍者去、纔見如是道、便把住云、總不與麼來時如何。普化托開云、來日大悲院裏有齋。侍者回、擧似師。師云、我從來疑著這漢。

(訳)沖本・虚構と真実30

普化はいつも街で鈴を振って言っていた、「明晰にやってきたら明晰に応じる。混沌のままやってきたら混沌のままに応じる。明晰と混沌とが共々やってきたら旋風のように応じ、明晰でも混沌でもなければ連架(からさお)のように応じる。」師は侍者をやって、そのように言っているのを見かけたらとっつかまえて、「そのどれでもない時にはどうする。」と言わせた。普化は突き放して言った、「明日は大悲院で御供養がある。」侍者は戻って師に報告した。師、「わたしは以前からこの男はただ者ではないと思っていた。」


8 第8段(入矢158~159)

八、有一老宿參師、未曾人事、便問、禮拜即是、不禮拜即是。師便喝。老宿便禮拜。師云、好箇草賊。老宿云賊賊、便出去。師云、莫道無事好。首座侍立次、師云、還有過也無。首座云、有。師云、賓家有過、主家有過。首座云、二倶有過。師云、過在什麼處。首座便出去。師云、莫道無事好。後有僧擧似南泉。南泉云、官馬相踏。



9 第9段(入矢160)

九、師因入軍營赴齋、門首見員僚。師指露柱問、是凡是聖。員僚無語。師打露柱云、直饒道得、也祇是箇木橛。便入去。



10 第10段(入矢160~161)

一〇、師問院主、什麼處來。主云、州中糶黄米去來。師云、糶得盡麼。主云、糶得盡。師以杖面前畫一畫云、還糶得這箇麼。主便喝。師便打。
典座至。師擧前語。典座云、院主不會和尚意。師云、爾作麼生。典座便禮拜。師亦打。



11 第11段(入矢162)

一一、有座主來相看次、師問、座主講何經説。主云、某甲荒虚、粗習百法論。師云、有一人、於三乘十二分教明得。有一人、於三乘十二分教明不得。是同是別。主云、明得即同、明不得即別。樂普爲侍者、在師後立云、座主、這裏是什麼所在、説同説別。師回首問侍者、汝又作麼生。侍者便喝。師送座主回來、遂問侍者、適來是汝喝老僧。侍者云、是。師便打。



12 第12段(入矢163~164)

一二、師聞第二代徳山垂示云、道得也三十棒、道不得也三十棒、師令樂普去問、道得爲什麼也三十棒、待伊打汝、接住棒送一送、看他作麼生。普到彼、如教而問。徳山便打。普接住送一送。徳山便歸方丈。普回擧似師。師云、我從來疑著這漢。雖然如是、汝還見徳山麼。普擬議。師便打。



13 第13段(入矢165)

一三、王常侍、一日訪師。同師於僧堂前看、乃問、這一堂僧、還看經麼。師云、不看經。侍云、還學禪麼。師云、不學禪。侍云、經又不看、禪又不學、畢竟作箇什麼。師云、總教伊成佛作祖去。侍云、金屑雖貴、落眼成翳。又作麼生。師云、將爲爾是箇俗漢。



14 第14段(入矢166)

一四、師問杏山、如何是露地白牛。山云、吽吽。師云、唖那。山云、長老作麼生。師云、這畜生。



15 第15段(入矢166)

一五、師問樂普云、從上來、一人行棒、一人行喝。阿那箇親。普云、總不親。師云、親處作麼生。普便喝。師乃打。



16 第16段(入矢167)

一六、師見僧來、展開兩手。僧無語。師云、會麼。云、不會。師云、渾崙擘不開、與爾兩文錢。



17 第17段(入矢167~168

一七、大覺到參。師擧起拂子。大覺敷坐具。師擲下拂子。大覺收坐具、入僧堂。衆僧云、
這僧莫是和尚親故、不禮拜、又不喫棒。師聞、令喚覺。覺出。師云、大衆道、汝未參長老。覺云不審、便自歸衆。



18 第18段(入矢168~169)

一八、趙州行脚時參師。遇師洗脚次、州便問、如何是祖師西來意。師云、恰値老僧洗脚。州近前、作聽勢。師云、更要第二杓惡水溌在。州便下去。



19 第19段(入矢169)

一九、有定上座、到參問、如何是佛法大意。師下繩床、擒住與一掌、便托開。定佇立。傍僧云、定上座、何不禮拜。定方禮拜、忽然大悟。




20 第20段(入矢170)

二〇、麻谷到參。敷坐具問、十二面觀音、阿那面正。師下繩牀、一手收坐具、一手搊麻谷云、
十二面觀音、向什麼處去也。麻谷轉身、擬坐繩牀。師拈拄杖打。麻谷接却、相捉入方丈。



21 第21段(入矢171)(注1)

二一、師問僧、有時一喝、如金剛王寶劍。有時一喝、如踞地金毛師子。有時一喝、如探竿影草。有時一喝、不作一喝用。汝作麼生會。僧擬議。師便喝。

(訳)呉163

師が僧に問うた、「ある時の一喝は金剛王宝剣のような凄味があり、ある時の一喝は獲物をねらう獅子のような威力があり、ある時の一喝はおびき寄せるはたらきをし、ある時の一喝は一喝のはたらきさえしない。お前それが分かるか」と。僧はもたついた。師はすかさず一喝した。



(注1)「臨済の四喝」の成立(呉163)

「この「四喝」が、のちの臨済宗の綱要として関心を集め、注釈の対象となり(例えば『人天眼目』)、また円悟克勤の公案集『碧巌録』第十則の評唱にも収録されるようになる。しかし、通行本『臨済録』に収録されている「四喝」は、円覚宗演が黄龍慧南校訂『四家録』(約 1066 年前後)中の『臨済録』を重刊(1120)した時に増補した八則のうちの一則であった。これが『続開古尊宿語要』(1238)、『古尊宿語録』(1267)に引き継がれ、単行本化されて江戸時代の通行本(18 世紀)に至るのである。したがって『臨済録』テキストの二系統のうち、「古尊宿系」に見えるもので、「四家録系」には見えないのである。」



22 第22段(入矢172)

二二、師問一尼、善來惡來。尼便喝。師拈棒云、更道更道。尼又喝。師便打。



23 第23段(入矢172~173)

二三、龍牙問、如何是祖師西來意。師云、與我過禪板來。牙便過禪板與師。師接得便打。牙云、打即任打、要且無祖師意。牙後到翠微問、如何是祖師西來意。微云、與我過蒲團來。牙便過蒲團與翠微。翠微接得便打。牙云、打即任打、要且無祖師意。牙住院後、有僧入室請益云、和尚行脚時、參二尊宿因縁、還肯他也無。牙云、肯即深肯、要且無祖師意。



24 第24段(入矢174~175)

二四、徑山有五百衆、少人參請。黄檗令師到徑山。乃謂師曰、汝到彼作麼生。師云、某甲到彼、自有方便。師到徑山、裝腰上法堂、見徑山。徑山方擧頭、師便喝。徑山擬開口、師拂袖便行。尋有僧問徑山、這僧適來有什麼言句、便喝和尚。徑山云、這僧從黄檗會裏來。爾要知麼、且問取他。徑山五百衆、太半分散。



25 第25段(入矢175~176)

二五、普化一日、於街市中、就人乞直裰。人皆與之。普化倶不要。師令院主買棺一具。普化歸來。師云、我與汝做得箇直裰了也。普化便自擔去、繞街市叫云、臨濟與我做直裰了也。我往東門遷化去。市人競隨看之。普化云、我今日未、來日往南門遷化去。如是三日、人皆不信。至第四日、無人隨看。獨出城外、自入棺内、倩路行人釘之。即時傳布。市人競往開棺、乃見全身脱去。祇聞空中鈴響、隱隱而去。

(訳)沖本・虚構と真実30

普化はある日、街で人に僧衣を施してくれるように頼んだ。皆がそれを与えたが普化はどれも気に入らなかった。師は院主に棺桶を一つ買わせ、普化が帰ってくると言った、「お前さんのために僧衣を作っておいたぞ。」普化はすぐにそれを担いで街に出て叫んだ、「臨済がわたしに僧衣を作ってくれた。わたしは東門で遷化するぞ。」市内の人が争ってついて行くと、普化は言った、「今日はやめた。明日南門で遷化しよう。」こうして三日経ち、人々は誰も信用しなくなった。四日めにはついて来るものはいなくなった。そこで独りで城外に出て棺の中に入り、道を通りかかった人に頼んで釘を打ってもらった。このことはすぐに広まって人々は先を争ってやってきて棺を開けたところ、もぬけのからであった。ただ空中を遠ざかる鈴の音が隠々と響くだけだった





第2の4 〔行錄〕(注1)



(注1)「あんろく」と読む



1 第1段

(1)第1段の1(入矢179~180)

一、師初在黄檗會下、行業純一。首座乃歎曰、雖是後生、與衆有異。遂問、上座在此、多少時。師云、三年。首座云、曾參問也無。師云、不曾參問。不知問箇什麼。首座云、汝何不去問堂頭和尚、如何是佛法的的大意。師便去問。聲未絶、黄檗便打。師下來。首座云、問話作麼生。師云、某甲問聲未絶、和尚便打。某甲不會。首座云、但更去問。師又去問。黄檗又打。如是三度發問、三度被打。師來白首座云、幸蒙慈悲、令某甲問訊和尚。三度發問、三度被打。自恨障縁不領深旨。今且辭去。首座云、汝若去時、須辭和尚去。師禮拜退。首座先到和尚處云、問話底後生、甚是如法。若來辭時、方便接他。向後穿鑿成一株大樹、與天下人作陰涼去在。師去辭黄檗。檗云、不得往別處去。汝向高安灘頭大愚處去、必爲汝説。



(2)第1段の2(入矢182)(注1)(注2)

師到大愚。大愚問、什麼處來。師云、黄檗處來。大愚云、黄檗有何言句。師云、某甲三度問佛法的的大意、三度被打。不知某甲有過無過。大愚云、黄檗與麼老婆、爲汝得徹困。更來這裏、問有過無過。師於言下大悟云、元來黄檗佛法無多子(注3)。大愚搊住云、這尿床鬼子、適來道有過無過、如今却道、黄檗佛法無多子。爾見箇什麼道理、速道速道。師於大愚脅下、築三拳。大愚托開云、汝師黄檗、非于我事。

(訳)沖本・虚構と真実24

師は大愚の所に着いた。大愚、「どこから来た。」師、「黄奨の所からです。」大愚、「黄奨はどんなことを言っているのかな。」師、「私は三度仏法のかんじんのところを尋ね、三度打ちすえられました。私に落ち度があったのかなかったのかわかりません。」大愚、「黄奨はそんなにも、老婆のようにお前さんのために懇切なのに、わざわざここに来て落ち度があったかなかったかなどと聞いておるのか。」師はその言葉を聞くやいなや大悟して言った、「もともと黄奨の仏法は雑作もなかったのか。」大愚は胸倉をつかんで言った、「この寝小便たれが。先程は落ち度があるかないかなどと言っていたのに、今度は黄奨の仏法は雑作もないなどと言う。いったいどんな道理を見たというのだ。さあ言ってみろ。」師は大愚の脇の下を三度殴りつけた。大愚は突き放して言った、「お前さんの師匠は黄奨だ。私の知ったことではない。」


(注1)この段の理解。小川127~129

臨済が三たび参問したにもかかわらず、黄檗はそのつど、ただ黙って打ちすえるだけであった。だが、そのことを大愚は、臨済を導くために黄檗疲労困憊するほど老婆心切を尽くしてくれたものだと称え、その意を悟らぬ臨済の不敏を責める。

婆さまのようなくどいまでの世話やき、それを「老婆心切」といい、「老婆」ないし「老婆心」だけでも、老婆心切を尽くすという動詞、あるいは老婆心切であるという形容詞に用いられる。「為~」は、~の為に導きの努力をするという動詞で、人を接化(せっけ)することを禅語で「為人(いにん)」する、という。「徹困」は疲れはててヘトヘトになるさま。「~得…」は、~の動作によって…という状態・程度になる、という口語の句型である(現代中国語の文法で様態補語といっているもの)。(略)

思うに、馬祖禅の立場からすれば、本来あるがままの自己のほかに、求めるべき「仏」も、授けるべき「法」も存在しない。だから何も説かずにいることは、結果的に、その一事を損なうことなく示す、最良の方便だということになる。しかも、黄檗は、そのことを臨済自身に気づかせるため、黙ったままで、わざわざ打ってまでくれた。それも一度ならず、二度、三度と。(略)

禅僧が修行僧を打ちすえるのには、自身がすなわち「仏」であるという事実、それを本人に身をもって覚らせようという意図が含まれている



(注2)沖本・虚構と真実24~25は、この一段について、「教団的関心からする歪曲・加筆と思しき部分がある」とする。

「最後のとってつけたような台詞は何か。「我関せず」とは如何にも大愚の家風を表すにふさわしい言辞としても、汝の師は黄奨である。」とは全く余計なことであるし、次に見るように事実でもない。しかも、既に指摘したように、仏法あるいは正法眼蔵の獲得は師の方便施設によって可能となるものであるけれど、誰であれ他人から稟承するようなものではないのである。しかしこういう矛盾した表現から、却ってテキストの教団的改変の事実が見えてくるのである。すなわち『祖堂集』では、「臨済和尚は黄藥を嗣ぐ。……黄藁の鋒機に契いてより、乃ち河北に於いて化を闘く。」(一九巻九八頁)と、その文頭には黄漿に嗣法したことをいうが、大悟の因縁については他本とは大いに異なっている。」



(注3)「元來黄檗佛法無多子」の理解。小川131

「元来、黄檗の仏法、多子(たす)無し!(略)

「元来~」は口語で「なんだ~だったのか」という、発見と納得の語気を表す。現代中国語の「原来~」にあたる言葉で、「元来」がもともとの表記だったのが、「元(モンゴル)が来る」という連想を嫌って、明代以後「原来」と書かれるようになったという。

「多子」は「多事」ともいう。多くのこと、ではなく、余計なこと。それが無いのがつまり「無事」で、黄檗は「道人は是れ無事の人。実に許多般(あれこれ)の心無く、亦た道理の説く可き無し」(入矢『伝心法要・宛陵録』頁七六)と言い、臨済もまた「我が見処(けんじょ)に拠(よ)らば、実に許多般(あれこれ)の道理無し。用いんと要せば便ち休(や)むのみ」(《文庫》頁一二六)、「山僧(わし)が見処に約さば許多般(あれこれ)無し、祇だ是れ平常(あたりまえ)にして、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)し、無事に時を過ごすのみ」(同、頁一〇一)と言っている。くだくだしき道理も意味づけも無い、「即心即仏」という事実の端的な提示、それが黄檗の仏法だったのである(入矢「禅護つれづれ」参照)。」



(3)第1段の3(入矢183~184)」

師辭大愚、却回黄檗黄檗見來便問、這漢來來去去、有什麼了期。師云、祇爲老婆心切。便人事了侍立。黄檗問、什麼處去來。師云、昨奉慈旨、令參大愚去來。黄檗云、大愚有何言句。師遂擧前話。黄檗云、作麼生得這漢來、待痛與一頓。師云、説什麼待來、即今便喫。隨後便掌。黄檗云、這風顛漢、却來這裏捋虎鬚。師便喝。黄檗云、侍者、引這風顛漢、參堂去。後、潙山擧此話、問仰山、臨濟當時、得大愚力、得黄檗力。仰山云、非但騎虎頭、亦解把虎尾。



2 第2段(入矢185)

二、師栽松次、黄檗問、深山裏栽許多作什麼。師云、一與山門作境致、二與後人作標榜。道了、將钁頭打地三下。黄檗云、雖然如是、子已喫吾三十棒了也。師又以钁頭打地三下、作嘘嘘聲。黄檗云、吾宗到汝、大興於世。
後潙山擧此語、問仰山、黄檗當時、祇囑臨濟一人、更有人在。仰山云、有。祇是年代深遠、
不欲擧似和尚。潙山云、雖然如是、吾亦要知。汝但擧看。仰山云、一人指南、呉越令行、遇大風即止。讖風穴和尚也。



3 第3段(入矢187)

三、師侍立徳山次、山云、今日困。師云、這老漢寐語作什麼。山便打。



4 第4段(入矢188)

四、師掀倒繩床。山便休。師普請鋤地次、見黄檗來、拄钁而立。黄檗云、這漢困那。師云、钁也未擧、困箇什麼。黄檗便打。師接住棒、一送送倒。黄檗喚維那、維那扶起我。維那近前扶云、和尚爭容得這風顛漢無禮。黄檗纔起、便打維那。師钁地云、諸方火葬、我這裏一時活埋。
後潙山問仰山、黄檗打維那、意作麼生。仰山云、正賊走却、邏蹤人喫棒。



5 第5段(入矢189~190)」

五、師一日、在僧堂前坐。見黄檗來、便閉却目。黄檗乃作怖勢、便歸方丈。師隨至方丈禮謝。首座在黄檗處侍立。黄檗云、此僧雖是後生、却知有此事。首座云、老和尚脚跟不點地、却證據箇後生。黄檗自於口上打一掴。首座云、知即得。



6 第6段(入矢190~191)

六、師在堂中睡。黄檗下來見、以拄杖打板頭一下。師擧頭、見是黄檗、却睡。黄檗又打板頭一下、却往上間、見首座坐禪、乃云、下間後生却坐禪、汝這裏妄想作什麼。首座云、這老漢作什麼。黄檗打板頭一下、便出去。後、潙山問仰山、黄檗入僧堂、意作麼生。仰山云、兩彩一賽。



7 第7段(入矢192)

七、一日普請次、師在後行。黄檗回頭、見師空手、乃問、钁頭在什麼處。師云、有一人將去了也。黄檗云、近前來、共汝商量箇事。師便近前。黄檗竪起钁頭云、祇這箇、天下人拈掇不起。師就手掣得、竪起云、爲什麼却在某甲手裏。黄檗云、今日大有人普請。便歸院。
後潙;山問仰山、钁頭在黄檗手裏、爲什麼却被臨濟奪却。仰山云、賊是小人、智過君子。



8 第8段(入矢193~194)

八、師爲黄檗馳書去潙山。時仰山作知客。接得書、便問、這箇是黄檗底、那箇是專使底。師便掌。仰山約住云、老兄知是般事、便休。同去見潙山。潙山便問、黄檗師兄多少衆。師云、七百衆。潙山云、什麼人爲導首。師云、適來已達書了也。師却問潙山、和尚此間多少衆。潙山云、一千五百衆。師云、太多生。潙山云、黄檗師兄亦不少。
師辭潙山。仰山送出云、汝向後北去、有箇住處。師云、豈有與麼事。仰山云、但去、已後有一人佐輔老兄在。此人祇是有頭無尾、有始無終。師後到鎭州、普化已在彼中。師出世、普化佐賛於師。師住未久、普化全身脱去。

(訳)「師辭潙山」~「普化全身脱去」の訳。沖本・虚構と真実31

「師は潙山を辞した。仰山は送りがてら言った、「お前さんはこれから北へ行きなさい。落ち着く所があります。」師、「そんなことがありますかね。」仰山、「ともかく行きなさい。のちにあなたを助けてくれる人物があります。この人は頭はあれども尻尾なく、始めはあれども終りなし、です。」師が後に鎮州に着くと普化が既にそこに居た。師が住職になると普化は師を補佐した。しかし師が落ち着いて程なく、普化はもぬけのからとなって去っていった。



9 第9段「臨済破夏の因縁」

(1)第9段の1(入矢195~196)

九、師因半夏上黄檗、見和尚看經。師云、我將謂是箇人、元來是【扌音】(注1)黒豆老和尚。住數日、乃辭去。黄檗云、汝破夏來、不終夏去。師云、某甲暫來禮拜和尚。黄檗遂打、趁令去。師行數里、疑此事、却回終夏。
師一日、辭黄檗。檗問、什麼處去。師云、不是河南、便歸河北。黄檗便打。師約住與一掌。黄檗大笑、乃喚侍者、將百丈先師禪板机案來。師云、侍者、將火來。黄檗云、雖然如是、汝但將去。已後坐却天下人舌頭去在。

(注1)辺は「扌」、旁は「音」



(2)第9段の2(入矢198)

後潙山問仰山、臨濟莫辜負他黄檗也無。仰山云、不然。&C3-4C7D;山云、子又作麼生。仰山云、知恩方解報恩。潙山云、從上古人、還有相似底也無。仰山云、有。祇是年代深遠、不欲擧似和尚。潙山云、雖然如是、吾亦要知。子但擧看。仰山云、祇如楞嚴會上、阿難讃佛云、將此深心奉塵刹、是則名爲報佛恩。豈不是報恩之事。潙山云、如是如是。見與師齊、減師半徳。見過於師、方堪傳授。



10 第10段(入矢199)

一〇、師到達磨塔頭。塔主云、長老、先禮佛、先禮祖。師云、佛祖倶不禮。塔主云、佛祖與長老是什麼寃家。師便拂袖而出。



11 第11段(入矢200)

一一、師行脚時、到龍光。光上堂。師出問云、不展鋒鋩、如何得勝。光據坐。師云、大善知識、豈無方便。光&C0-C0FC;目云、嗄。師以手指云、這老漢、今日敗闕也。



12 第12段(入矢200~201)

一二、到三峯。平和尚問曰、什麼處來。師云、黄檗來。平云、黄檗有何言句。師云、金牛昨夜遭塗炭、直至如今不見蹤。平云、金風吹玉管、那箇是知音。師云、直透萬重關、不住清霄内。平云、子這一問太高生。師云、龍生金鳳子、衝破碧琉璃。平云、且坐喫茶。又問、近離甚處。師云、龍光。平云、龍光近日如何。師便出去。



13 第13段(入矢202)

一三、到大慈。慈在方丈内坐。師問、端居丈室時如何。慈云、寒松一色千年別、野老拈花萬國春。師云、今古永超圓智體、三山鎖斷萬重關。慈便喝。師亦喝。慈云、作麼。師拂袖便出。



14 第14段(入矢203)

一四、到襄州華嚴。嚴倚&C0-A9D6;杖、作睡勢。師云、老和尚瞌睡作麼。嚴云、作家禪客、宛爾不同。師云、侍者、點茶來、與和尚喫。嚴乃喚維那、第三位安排這上座。



15 第15段(入矢204)

一五、到翠峯。峯問、甚處來。師云、黄檗來。峯云、黄檗有何言句、指示於人。師云、黄檗無言句。峯云、爲什麼無。師云、設有、亦無擧處。峯云、但擧看。師云、一箭過西天。



16 第16段(入矢205)

一六、到象田。師問、不凡不聖、請師速道。田云、老僧祇與麼。師便喝云、許多禿子、在這裏覓什麼椀。



17 第17段(入矢205)

一七、到明化。化問、來來去去作什麼。師云、祇徒踏破草鞋。化云、畢竟作麼生。師云、老漢話頭也不識。



18 第18段(入矢206)

一八、往鳳林。路逢一婆。婆問、甚處去。師云、鳳林去。婆云、恰値鳳林不在。師云、甚處去。婆便行。師乃喚婆。婆回頭。師便打。



19 第19段(入矢206)

一九、到鳳林。林問、有事相借問、得麼。師云、何得剜肉作瘡。林云、海月澄無影、遊魚獨自迷。師云、海月既無影、遊魚何得迷。鳳林云、觀風知浪起、翫水野帆飄。師云、孤輪獨照江山靜、自笑一聲天地驚。林云、任將三寸輝天地、一句臨機試道看。師云、路逢劍客須呈劍、不是詩人莫獻詩。鳳林便休。師乃有頌、大道絶同、任向西東、石火莫及、電光罔通。
潙山問仰山、石火莫及、電光罔通。從上諸聖、將什麼爲人。仰山云、和尚意作麼生。&C3-4C7D;山云、但有言説、都無寔義。仰山云、不然。潙山云、子又作麼生。仰山云、官不容針、私通車馬。



20 第20段(入矢209)

二〇、到金牛。牛見師來、横按拄杖、當門踞坐。師以手敲拄杖三下、却歸堂中第一位坐。牛下來見、乃問、夫賓主相見、各具威儀。上座從何而來、太無禮生。師云、老和尚道什麼。牛擬開口。師便打。牛作倒勢。師又打。牛云、今日不著便。
潙山問仰山、此二尊宿、還有勝負也無。仰山云、勝即總勝、負即總負。



21 第21段(入矢210)(注2)

二一、師臨遷化時、據坐云、吾滅後、不得滅却吾正法眼藏。三聖出云、爭敢滅却和尚正法眼藏。師云、已後有人問爾、向他道什麼。三聖便喝。師云、誰知吾正法眼藏(注1)、向這瞎驢邊滅却。言訖、端然示寂。

(訳)沖本・虚構と真実20

師は臨終の時、坐について言われた、「わたしが死んだあと、わたしの(得た)正しい法を見通す眼を台無しにしてはならぬ。」三聖が進み出て言った、「どうして和尚の仏法の真髄を台無しにしたりしましょうか。」師、「こののち、誰かがお前さんに尋ねたら、どう言うつもりだ。」三聖はすかさず叱りつけた。師、「何ということだ、わたしの仏法の真髄がこのもののわからぬ騙馬に台無しにされるとは。」言いおわるとそのままおなくなりになった。



(注1)「正法眼蔵

沖本・虚構と真実20

「ここにおけるキーワードは正法眼蔵つまり「真正の見解」であるが、『臨済録』の他の用例に照らせば、それは他からの干渉(人惑)を離れて自ら達得すべきものである。とすれぼ人から伝授し得るものでもなく、またいかなる限定も受けることはない。」



(注2)この段全体の理解について。柳田聖山『禅思想』(1975)177~178

「真の仏教徒なら、きっと自分の言葉があるはずである。万人に、万人の正法眼蔵がある。さきにいうように、そんな視点は馬祖にはじまる。大慧は、唐宋の禅者の一人一言を集めようとしたのである。

臨済録』によると、「わが滅後、わが正法眼蔵をつぶしてはならぬ」と臨済がいったとき、門人代表の三聖(さんしょう)がしゃしゃりでる。「いかでか先生の正法眼蔵をつぶせましょう」、というのである。臨済はその証拠をもとめる。三聖は一喝する。臨済はいう、「誰か知らん、わが正法眼蔵、この瞎驢のところでつぶれ去ろうとは」

まさしく絶望の言葉である。臨済は、三聖に自分の最期を見守ってほしかったにちがいない。ところが逆に三聖を見守る結果となった。かれはおのれの滅後でなしに、まだおのれの息のあるうちに、すでにおのれの正法眼蔵が、弟子によってつぶされていることを、まのあたりに見たのである。もう何も思いのこすことはなかった。正法眼蔵は、各自のものだ。かれはあらためて、そのことを確認する。「端然として坐滅す」とはそのことだ。姿勢をただして死んだのである。風顚漢の一生は、ここに幕をとじた。「親鸞は弟子一人ももたず候」というわけであろう。英雄の末期はさびしい。」





第3 「臨濟慧照禪師塔記」



師諱義玄、曹州南華人也。俗姓邢氏。幼而頴異、長以孝聞。及落髮受具、居於講肆、精究毘尼、博&C0-F0F3;經論。俄而歎曰、此濟世之醫方也、非教外別傳之旨。即更衣游方、首參黄檗、次謁大愚。其機縁語句、載于行録。既受黄檗印可、尋抵河北。鎭州城東南隅、臨滹沱河側、小院住持。其臨濟因地得名。時普化先在彼、佯狂混衆、聖凡莫測。師至即佐之。師正旺化、普化全身脱去。乃符仰山小釋迦之懸記也。適丁兵革、師即棄去。太尉默君和、於城中捨宅爲寺、亦以臨濟爲額、迎師居焉。後拂衣南邁、至河府。府主王常侍、延以師禮。住未幾、即來大名府興化寺、居于東堂。師無疾、忽一日攝衣據坐、與三聖問答畢、寂然而逝。時唐咸通八年丁亥、孟陬月十日也。門人以師全身、建塔于大名府西北隅。勅謚慧照禪師、塔號澄靈。合掌稽首、記師大略。

住鎭州保壽嗣法小師延沼謹書。
鎭州臨濟慧照禪師語録終。
住大名府興化嗣法小師存獎校勘
永享九年八月十五日板在法性寺東經所。





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