「瞑想/仏教と家族」に関する素描

瞑想や仏教の問題は、私にとっては、親子関係を中心とする家族関係の問題でもあり、さらには、恋愛や性愛にも連なる問題でもあると考えていて、現時点での自分なりの考察をまとめてみました。



本稿の構成
1 はじめに
2 親子関係と心の問題
3 親子関係の問題と一切皆苦的価値観
(1)価値観としての一切皆苦
(2)親子関係の問題による一切皆苦的価値観の形成
4 親子関係の問題と道徳主義的世界観/べきの専制
5 親子関係の問題と劣等感=優越感の補償への渇望
6 僧侶によるモラハラ問題
7 対応の方策
8 (補論)仏伝と親子関係の問題



1 はじめに



私にとって、瞑想と仏教に関する問題は家族の問題でもあります。

まだまとまりきってはいないのですが、いったん文章にすると自分自身の考えがまとまったり、足りない所が見つかることがあるので、将来的に修正することを前提として、とりあえず、今考えていることを書いてみることにしました。

このようなものですから、大変、心もとないものですが、引用は詳しくしていますので、幾分かの参考になるのではないかと思います。

私が、このような問題意識を持つようになったきっかけは、40歳台になり、坐禅会や瞑想会を巡るようになったことです。

私の場合、当初の主たる目的は、中高年の孤独対策としての「友達作り」でした。

ですから、坐禅・瞑想それ自体よりも、その際に出会った人と交流することが楽しみでした。

そのような交流を重ねる中で、当たり前と言えば、当たり前ですが、うつ病統合失調症等の精神障害を患っている人や、そこまでいかずとも「生きづらさ」などの何らかの心の問題を抱える人と接することが多くなりました。

中には、生育歴を含めた人生遍歴について語ってくれる人もいて、自分の視野が拡がり、興味深く聞いていたのですが、その中で、幼少期に両親の離婚や、親からネグレクト等の何らかの虐待を受けた経験を語る人に出会うことが毎回と言ってよいほどありました。

また、私は、一時、在家禅の会員となって活動していたことがありました。(注1)

最終的に、私自身の考え方の変化や組織のあり方が合わず、辞めることにしたのですが、活動中、その代表者の弟さんと話をした際に、代表者の父親の兄弟間の差別があったことを知りました。弟さんの「ずっと兄貴を恨んでいた」との言葉は今でも印象に残っています。

私を在家禅に誘った職場の先輩は、私の職場でも出世した人で、何が不満で在家禅などに入ったのか不思議でしたが、勧誘に熱心だったことから、ある日、自分の母親を会員に入れ(代表者は「会員を増やすことが利他行だ」と言う人でした)、私も接することになったのですが、おそらくADHDの類の方と思われ、職場の先輩は一種のヤングケアラーの状態だったのではないかと想像させられました。

顧みると、私自身も、幼稚園頃から、友達ができにくく、生きづらさを感じることがあり、また、父親が戦中派で、世代的な感覚のほか、ニューギニアという悲惨な戦地にいたPTSDの類もあるのだと思うのですが、父親とも折り合いが悪く、瞑想会や在家禅で出会った人たちが親子関係など家族関係の問題のあったことに自分自身を照らし合わせると、私が坐禅等を始めたことも納得できてしまいました。

私を含めた、このような事例に接したほか、精神障害の原因として家庭環境がよく挙げられることもあり



未成年期の家庭環境の問題→心の問題→瞑想等の実践・仏教等の宗教的救済への欲求



という定式があるように感じられるようになりました。
そのうち、坐禅・瞑想それ自体より、これを実践する人の生育歴等を含めた人生遍歴に対するヒューマンインタレストの方が増すようになりました。

在家禅を辞めた後に、Twitterを始めたのですが、そこでの瞑想実践者や仏教徒、更には、僧侶の人(特に、実家が在家で自覚的に仏教を信仰するようになった人)のツイートを見ると、やはり、親が毒親である、親から虐待されたなどといった話がこぼされることが少なからずあるのを目にするようになりました。

もっとも、親子関係に問題がない人が珍しいとはいえ、やはり、極端な事例が多く、「瞑想・仏教」と家族関係との関連性は、無視できないものと思っています。(注2)



2 親子関係と心の問題
 


未成年期の家族関係、特に親子関係が、青年期以降も影響を及ぼし、精神障害等の心の問題の有力な要因となりうることはよく知られているところかと思います。

たとえば、一般論としては、次のものが簡潔にまとまっています。



「児童期から青年期の親子関係は変化すると言われている(Steinberg、 2001)。

青年期は家族の監督から離れ1人の独立した人間になろうと心理的に離乳していき、親子間葛藤が生じやすくなることが指摘されている。(略)
子どもと母親、男女双方とも…

母子間葛藤が抑うつ・不安、不機嫌・怒り、無気力に影響を及ぼしていた。

子どものすることに対して、なんでも母親の考えたようにさせるというような子どもの行動を統制しようとする母親の養育態度は、母子間の葛藤を引き起こし、その葛藤が抑うつや不安な気持ち、不機嫌や怒りの感情、無気力な気持ちを引き起こすと推察される。」
(渡邉賢二、平石賢二「児童期後期における養育態度と親子間葛藤(2)―心理的ストレス反応との関連―」(2016))
https://confit.atlas.jp/guide/event/edupsych2016/subject/PB02/date



さらに、瞑想の実践をする人には、不安感が強いと思われる人が少なくありませんが、不安症群・不安障害群の環境要因としては親の過保護、親の喪失、身体的・性的虐待が挙げられていることが興味深いものがあります。



「この症患群の共通の特徴は、「過剰な恐怖および不安、そしてそれらに関連する著しい行動上の障害(回避行動など)」である。DSM-5では、恐怖と不安について、前者は“現実の、または切迫していると感じる脅威に対する情動反応”、一方、後者は“将来の脅威に対する予期”と定義している。(略)
扁桃体の過活動や前頭前皮質の機能不全が想定されている(略)。なお、気質要因としては否定的感情(神経症的特質)と行動抑制が、環境要因としては

親の過保護、親の喪失や身体的・性的虐待

がある。」
(尾崎紀夫・三村將・水野雅文・村井俊哉『標準精神医学第7版』(2018年)250~251頁)



3 親子関係の問題と一切皆苦的価値観



(1)価値観としての一切皆苦



仏教では、一切皆苦が基本原理の一つとされ、病気、老い、死といった典型的なものだけでなく、生きていることそれ自体を含め、あらゆるものが不満足で、無価値であり、私達の人生や、もちろん、その人生を取り巻く目の前に展開する世界の存在も不満足なものであり、無価値であるとされます(注3)。

しかし、価値観は個人の好みの問題ですから、人生や世界を不満足だと思いたい人は、思えばよいし、満足すべきものと思いたい人は、満足すべきものとすればよいだけの個人の好みの問題のはずです。

個人の好みの問題を基本的な原理とすることがそもそも間違っているのではないかと思われます。

仏教では、輪廻(生れ変わり)により、生存状態の苦が継続することから、そこからの解脱を目指しますが、「輪廻による生存状態の継続」を否定的に評価する価値観は、インドでは一般的なものではありませんでした。



「(バラモン教における)カルマン・再生の理論と、生存の反復継続を楽しく受け入れ喜んで承諾するという態度とを結合させることは、一貫性に関する論理上の問題を引き起こすことはないであろう。結局のところ

人生は苦より楽の方が多い

ということになる。実際、我々の乏しい証拠から判断すると、初期ヴェーダ時代における人生の評価はそれほど否定的なものではなかったようであるし、また、はるかに後代の中世ヒンドゥー教では

人生は苦であるという提言は人々の注意をほとんど惹かなかった

ようである。」
(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』(2005年、原著1998年)82頁)



そもそも、ほとんどの人は、永遠に生きられるのであれば、どんな形であれ、生きたいと思うものではないでしょうか。

そのことは、仏教における輪廻思想が、生命に価値を置く中国において、生命の永続性の原理として、仏教受容の根拠となったことからも、明らかであると思われます。



「中国の知識人がはじめて仏教に接したとき、その教義の中心をいずこに求めたか。袁宏(えんこう)の『後漢紀』は仏教の大意を殺瞑して、「おもえらく、人死するも精神は滅せず、随いて復(ま)た形(身体)を受く。……故に貴ぶところは、善を行い道を修め、以って精神を錬してやまず、以って無為に至り、仏たることを得るに在り」といい(略)

この歴史的な過程を通じて、インドの人生観と中国のそれとが、まったく正反対の方向にあることがうかがわれるであろう。インド人にとって輪廻転生の説は「せっかく死んでも、また苦しい人生をくりかえさなければならぬ」という恐怖の対象となった。ところが

中国人は、これを「いちど死んでも、また生きられる」という福音として受け取った。

そこに、」人生を本質的に苦と見るインド思想と、人生を楽しかるべきものと見る中国思想との、あざやかな対照を発見することができよう。」
(森三樹三郎『老荘と仏教』(2003年)128~133頁)



一切皆苦が、普遍的な原理ではなく、価値観の問題に過ぎないのであれば、なぜ、仏教を信奉する人が、そのような価値観を是とするようになるのかが、問題となります。

人格の形成の要因は、遺伝等器質的要因と環境の相互作用とされます。

仏教的には、前者が因、後者が縁でしょうか。

後者の環境的な要因としては、先に見た精神障害などの心の問題の要因ともなる親子関係の問題ではないかと思われます。



(2)親子関係の問題による一切皆苦的価値観の形成



 
親子関係の問題が、その子どもの精神疾患や心の問題の要因になり得ることは、前記2のとおりですが、さらに、子どもの人生観・世界観を否定的なものとする影響を与え、これが仏教における一切皆苦という、生きることすら、不満足なものとしてみる価値観と整合し、このことが、親子関係に問題を抱える人が、仏教を合理的なものとして捉える有力な理由になっているのではないかと思われます。

特に、次の資料は、厚生労働省のウエブサイトに掲示されているものであり、若干長いもののよくまとまっています。



「子どもの発達には素因も環境因も互いに関連することは周知の事実である。(略)
養育者に抱かれて授乳されると新生児は養育者の働きかけに反応し視線を合わせ(アイコンタクト)、声やにおいを識別するなど、ある程度の親子相互関係が成立し、この母子間相互の働きかけはエントレインメント、と呼ばれる。このような生理的身体的欲求が満たされてもらうというこのプロセスの重複が精神的安らぎも与えることに繋がり乳児は自分が置かれている世界や親がくれるものを信頼するという感情や自分の存在を肯定的にとらえる自己信頼感が養われるようになる。
これがその先の人間関係に大きな役割を果たすと言われている。(略)
乳児の精神的健康のためには、重要他者である

親との関係が密接で満足に満ちたものであることが必要

であり、これが何らかの理由で

欠如した場合は精神的不安定

となり、その後の

人格形成にも大きな影響

が及ぶ。ボウルビーは乳児が親に愛着を覚えるのは食欲などの生物学的本能を満たすだけではなく母親への愛着行動自体が根源的欲求であるとし、これをアタッチメントと呼び、エリクソンは基本的信頼感と評した。」
(標準的な乳幼児健診に関する調査検討委員会「養育者のメンタルヘルス」323頁)
https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000520616.pdf



母子関係が「自分が置かれている世界」に対する信頼感、「自分の存在を肯定的にとらえる自己信頼感」に関わり、その満ち足りた関係が欠如した場合には、「精神的不安定となり、その後の人格形成にも大きな影響が及ぶ」との指摘が興味深いものと思います。

つまり、母子関係が不安定であったような人は、人生や世界の価値を否定する「一切皆苦」的な価値観が形成されやすいといえます。

次の初塚眞喜子「アタッチメント(愛着)理論からアプローチする心理臨床」もわかりやすい記述で、若干長いですが、引用します。


「乳幼児期の養育者とのアタッチメント関係によって、子どもの中に、自己と養育者に対する肯定的イメージ(作業モデル)が内在化された場合には、成長後、無意識のうちに自己と他者一般に対する肯定的イメージ(「自分は他者から受け容れられる存在である/他者は信頼できる存在である」というイメージ=後述のポジティブ型内的作業モデル)をもって他者の行動を予測・解釈するようになるため、良好な対人関係を円滑に構築することが可能になるとされる。
反対に、乳幼児期のアタッチメント関係によって

自己と養育者に対する否定的イメージが内在化

された場合には、成長後、無意識のうちに

自己と他者に対する否定的イメージ

(「自分は他者から受け容れられない存在である/他者は信頼できない存在である」というイメージ=後述のネガティブ型内的作業モデル)をもって他者の行動を予測・解釈するようになり、他者との間での良好な関係性の構築が困難となるという。
そして、(略)乳幼児期のアタッチメント関係によって内在化される自己と他者一般に対するイメージ(内的作業モデル)は、新たな満足できる人間関係(緊密な友人関係や恋愛関係、夫婦関係等)の構築・維持を経験し、そうした関係性の中で新たなアタッチメント対象(心理的安全基地)を得ることで変化しうると考えられているが、一般には、相当程度の継続性・安定性を有しており

子どもの対人関係スタイルを生涯にわたって持続

させる機能を果たすものと考えられている(略)。
以上のように、乳幼児期における養育者とのアタッチメント関係は、子どもの成長後の対人関係スタイルの規定要因になるという形で、子どもに生涯にわたって影響を及ぼしつづけることになるとされている。養育者を「物理的安全基地」として利用する体験を積み重ねることによって、自分への自信と他者への信頼がイメージとして内在化され、成長後は、そのイメージを基盤として他者との関係性を構築していくのである。

(初塚眞喜子「アタッチメント(愛着)理論からアプローチする心理臨床――事例検討および支援のあり方に関する試論的考察――」『愛媛大学研究論集』2010年3号・55~56頁)
https://soai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1217&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=17



以上の指摘からも、乳幼児期からの親子関係において、安心できる親子関係が形成されていないと、その後も、子供は、外界で安心して活動できず、他者との間での良好な関係を構築することができなくなるものとされ、このことが、世界に対する否定的な感情や、生きづらさと結びつき、さらには、一切皆苦的な世界観や人生観に結びつくものと思われます。

また、仏教、あるいは、宗教がアガペー的な愛を希求する面があることも、乳幼児期にきちんと親から愛されなかったことを背景にあるものと考えることと整合するように思われます。



4 親子関係の問題と道徳主義的世界観/べきの専制



仏教に限らず、宗教は、教義を提示し、それに従って信者の生き方に一定の義務づけをするものです。

人間は、欲求に従って生きるものであり、前実定的な正しい規範などは存在しません。

本来、義務づけを拒否して自由に生きたいものです。

しかし、宗教を信奉する人は、その義務に自ら従い、つねにそれを優先することが個人的な価値だという道徳主義的世界観の持ち主です。

もちろん、その従うべき規範は、本質的に正しいものではあり得ないので、奇妙な思考といわざるを得ません。

このような「こうしなければならない」と考える考は、「べきの専制」と言われ、このような思考が形成される要因も、子の親に対する信頼関係の喪失であるといわれています。



「“追従”は、“信頼”“自律性”“主導性”を低め、これら3段階はそれぞれ前の段階から影響を受けるが、“べき”を直接低めるのは“自律性”のみであった。つまり“志向性”は“暖かさ”によって高められた“信頼”“自律性”“主導性”からそれぞれ規定されると解釈された。一方“追従”によって“信頼”が低められるとその影響で“自律”も低められ、そのことで“べき”が高まることが示された。(略)
Horneyによれば、“べき”は“あるがままの...姿など忘れてしまえ...この理想化された自己になることこそが重要”(Horney、 1950 榎本・丹治訳 1998、pp.70-71)という自己否定の感覚である。つまり

基本的信頼感が低く自己受容できないことや、意志を発揮できないこと、罪悪感にとらわれることは、“べき”の形成と関連する

と考えられる。(略)
“自由選択の自律を、適切に導かれながら徐々に経験することができなかったり、あるいは信頼を早い時期に喪失することによってその経験が弱められたりすると、敏感な子どもは、識別し操作する自分の衝動をすべて自分自身に向けてしまうことがある。(略)
より原初的で厳格で自我を妨げる “べきの専制 ”は自律性の形成に深く関わるのではないだろうか。
まとめると、本研究で検討した要因に限って言えば、暖かさや追従傾向のない家庭の雰囲気を背景として高められた基本的信頼に下支えされた意志(自律性)や目標(主導性)が高いことは、青年期の “志向性 ”、つまり未知なる世界に向けてやりたいことを探し進む力と関係すると考えられるし、主体性を失った、~すべきという観念にとらわれるような “べき ”を低減させると考えられる。」
(茂垣まどか「志向性とべきの専制の形成因の検討 ――幼少期の家庭の雰囲気と自我発達の様相――」『立教大学心理学研究 56号』(2014年)19~20頁)
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=9033&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1



言葉の語呂のようなところもありますが、暖かく育てられず、自由選択の自律を育てられなかった子どもが、「識別し操作する自分の衝動」に問題を生じるという表現は、(大乗)仏教における「分別」等の分析的思考への警戒心に近似するものと感じます。

人生を楽しくのびのびと生きるものではなく、生きざるを得ない義務としてとらえられるのであれば、それは、苦痛であるとしかいえないでしょう。

「道徳主義的世界観」や「べきの専制」も、一切皆苦の発想と結びつくといえます。



5  親子関係の問題と劣等感=優越感の充足への渇望



仏教の実践について、治療的なものと捉える見方(注4)があり、私は、こちらの方が事態の適切な捉え方ではないかと思うのですが、一般的には、悟りや解脱等の特別な地位に到るものであるとの見方が多いかと思います。

しかし、私も、多少は「特殊な体験」をした人に会いましたが、そのような人が人間としての性能が高いかというと微妙で、よくても、精神的な問題が快方に向かったことから、その本人の主観では、相対的に能力が上がったような気分になるのが実際ではないかと思います。(注5)

それはさておき、実際に、瞑想の実践をする人を見ると、生きづらさを抱え、その解消のために実践を始めた人には、次第に、悟り、解脱などといった特別な境地を目指すようになる人が少なからずいます。

問題を抱えた弱者が、ある種の超人を目指すようなもので、一種の「はじめの一歩」的願望ですが、心の問題を抱えた人が、同時に、超越性の願望というものを抱きがちであることは、河合隼雄も指摘するところです



「強い劣等感コンプレックスをもつひとは、どこかに強い優越感コンプレックスをもっているのがつねである。(略)
自分のようなものは存在してもしかたないと自殺をはかったひとと話をしていると、(略)「私のように悩んでいるひとは世界中に多いことと思うが、できればそのような世界中の悩めるひとを救うような仕事がしてみたい」などということが語られる場合が多い。死ぬより外に存在価値がないというほどの劣等感と、全世界の悩めるひとを救いたいなどという優越感とが共存していることに読者は驚かれるかもしれないが、実はこのような例のほうがむしろ多いのである。(略)
自分の内部に多くのコンプレックスをもっているひとが他人のそれ(自分のではなく)気づきやすいこともある。そして、このようなひとが自分は「感受性が強い」のでカウンセラーに適していると確信しているような場合もある。前に自殺未遂をしたひとが世界中の悩めるひとを救いたいと述べた例をあげたが、このような

コンプレックスにおびやかされたひとたちが、自分の内部にたち向かってゆくよりも、外のひとたちを救うことを考える

のも、一種の投影の機制が働いているものと考えられる。」
河合隼雄ユング心理学入門』(1967年)50~52頁)



ここで、河合隼雄が、劣等感を慰撫する方法として、「外のひとたちを救うことを考える」と指摘することも興味深いところで、大乗仏教においては、利他が強調されるというのも、劣等感の慰撫という観点からすると、利他行為をす人それ自体の癒しを目的とする行為ともいえるかと思います。

さらに、岡田尊司『マインドコントロール』は、カルト宗教にはまる人の心理として、劣等感の慰撫としての優越感の充足を挙げます。



「社会において自分の価値を認められず、アイデンティティを見出せないものは、社会の一般的な価値観に刃向かうことで、自己の価値を保とうとする。こうしたカウンター・アイデンティティは、社会から見捨てられたものにとって、自分の人生を逆転させ、自分の価値を取り戻すような歓喜と救いの源泉ともなるのである。誰からもまともに扱われなかった存在が、受け入れられ、認められたと感じるとき、そここそが生き場所となる。」
岡田尊司『マインドコントロール』(2016年)17頁)



同書の次の指摘も興味深い。



「非常に自己本位で、しっかりとした自己主張をもつかに見えた人が、マインド・コントロールされてしまうというケースが増えている。
そうしたケースで認められるのは、自己愛のバランスが悪いということである。彼らは、一方では、心のうちに誇大な願望をもち、偉大な成功を夢見ているが、同時に、他方では、自信のなさや劣等感を抱えており、ありのままの自分を愛することができない。誇大な理想を膨らませることで、どうにかバランスをとろうとしている。」
(岡田前掲書85頁)



瞑想会で出会った心の問題を抱え、社会的にみれば、マイナスの人が、いつの間にやら、世間一般の人よりも超越したプラスの状態を目指す心理は、カルト宗教にはまる人の心理とも大きく変わりないように思われます。

また、ツイッターを見ると、伝統仏教の僧侶の人も、仏教の実践を経る中で、経典を読む場合にも、研究者がわからないようなことがわかるなどといった自分たちは普通の人間がわからない特別なことがわかるのだというようなことを言う人もいて、やはり、劣等感にさいなまれている人が多いのではと感じます。

瞑想指導者の井上ウィマラも、瞑想実践者の問題として、「劣等感」に触れ、それが支配に結びつくとすることも示唆的です。



「魔境とは、瞑想体験の中で出会う神秘的体験によって道を見失ってしまう落とし穴を警告するための言葉です。光が見えたり、体が軽くなったり、エクスタシーやエネルギーの流れを感じたりするような神秘体験自体は集中力のもたらす効果なのですが、自覚できない微細な欲望が残っている場合には潜在している劣等感を補償するための無意識的な取引に使われてしまい道を誤ることになりやすいものです。そして権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性をはらんでいます。」
(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号)88頁)



このような劣等感の形成される要因にも、未成年期の親との関係が挙げられます。



「こうしたパーソナリティが育まれる背景には

幼い頃から、自分を過度に抑え、重要な他者の顔色ばかりを気にしながら生きてきたという状況

が見られやすい。横暴で支配的な親の、気まぐれで予測のつかない行動に振り回されてきたという場合だけでなく、親が良かれと思ってやっていても、過保護過干渉になり、本人の主体性が慢性的に侵害されると、同じ結果になってしまう。
幼い子どもは、親にしがみつき、親に愛されようとすることでしか、生きて行くことができない。いつ親の機嫌が変わって、攻撃されたり、突き放されたりするかわからないという中で育つことは、余計に親に見捨てられまいとする傾向を強めてしまう。親の意向がいつも最優先であれば、子どもは自分で判断するよりも、親の顔色をうかがって、そこから判断するようになる。」
(岡田前掲書68~69頁)



このように、劣等感が、未成年期の親の過干渉を含めた虐待等の不適切な対応により、もたらされることは、ほかでも触れられ、一般的な考え方と思われます。

また、劣等感やその裏返しの優越感は、他者と自分とを比較する感情に由来しますが、このような比較する感情も、自尊感情が低く、抑うつ傾向の高い人に認められるとされ、3で見たとおり、親による幼少期の不適切な対応が、自己肯定感を毀損することからすると、やはり、親子関係が、劣等感の形成にあたり大きな要素となってくるように思われます。



自尊感情の低い人や抑うつ傾向の高い人は、自己についてより不確か(不安定)なため、自分についての情報を多く得るために社会的比較志向性が高いものと考えられる.また、神経症傾向の高い人は、自分の気分(mood)の状態についてより不明確である(Marsh&Webb、1996)ため、社会的比較に従事しやすい傾向と関連があると考えられる.」
(外山美樹「社会的比較志向性と心理的特性との関連――社会的比較志向性尺度を作成して――」『筑波大学心理学研究 第24号』(2002年)238頁)



6 僧侶によるモラハラ問題



ツイッターをするようになってから、僧侶の配偶者のツイートをよく見るようになったのですが、その中には、義父に対する不満が少なからずあり、また、夫である僧侶に対する不満も多くあります。

妻の義父や夫に対する不満は、ほかでも聞くことではありますが、私個人の経験に照らしても、義父母や夫の対応には、度を超えたものが多いように思われます。

また、一般的に、仏教の修行は、何らかの意味で人格の向上を目指すものと言われているところ、人格の向上を目指しているはずの人たちが、なぜ、そのような不適切な対応をするのかは、興味を惹くところです。

この問題を考えるにあたり興味深いことは、4で触れた愛着の問題が、その子供にも伝播することです。



「愛着の問題が、社会的にも重要なのは、その伝播性による。Mainが見出したように、不安定な愛着スタイルは、育児を介して世代間で伝播しやすいのである。(略)

不安定型愛着は、虐待の大きなリスク要因でもあるので、不安定型愛着の連鎖は、虐待の連鎖ともつながってくる。」
(岡田誉司「崩壊家庭における愛着障害」『日立財団Webマガジン「みらい」VOL.2』12頁)
https://www.hitachi-zaidan.org/mirai/02/paper/pdf/okada_treatise.pdf



このような愛着の問題の伝播について、考えるに当た僧侶の成育歴に逸話に接すると、貴族ではあったが、寺に出されたなどといった幼少期の両親との別れの話がよく現れ、愛着の問題を抱える人が、僧侶になった例が少なくないことがうかがえますが、比較的最近といえる昭和20年代の僧堂(禅宗の僧侶の修行場)にいる修行僧も、同様の親子関係の問題を抱える人が多かったことは、大森曹玄も語るところです。



「私は、青年時代から在家の居士として修行を始め、終戦の年、四十二歳の時に出家した。その頃でさえ寺の子弟というのは何となく陰惨だった。在家の私は、ひそかに雲水たちを羨望していた。ああいう生活はいいな、明けても暮れても坐禅三昧でおられる。ああいう生活が羨ましいなと思っていた。ところが、さて自分がその中に入ってみると、何とこの世界は陰惨な世界か。御殿女中の腐ったみたい。陰険で、どうもカラリとした男性的なところがない。何とも嫌なところだなと思ったことがある。
別に雲水の身許を調べたわけではないけれども、水上勉さんなどの書いたものをみると、どうやら自発的に禅の道に志を抱いて飛び込んできたというよりは、家に子供が多過ぎて、とても養い切れない家庭の事情から寺にやられた子供、あるいはできては困るところにできた子供、そういった子弟が寺にもらわれて小僧になったという虐待されながら育った人が多かったらしい。当時は花園大を卒業してきた者よりは、寺の小僧出身の方が多かったようである。そういうような境遇の出身だから何となく位。それで妙に陰険なところがあるということが感じられた。したがって、在家出身の自分から心がけて修行しようとする者の半分も道心はない。」
(大森曹玄『驢鞍橋講話』(1986年)319~320頁)



このような実態に鑑みると、今日の僧侶によるモラハラ事案の要因は、世代的に伝播してきた愛着の問題によるのではと思われます。



7 対応の方策



以上に述べた瞑想実践者や仏教徒が抱えるものと考えられる親子関係の問題ですが、その要因が過去の問題である以上、その解決が困難な点があるものと思われ、その問題の困難さが、強い不安感を押さえるための瞑想のやりすぎや、特異な信仰を持つことにつながるのではないかと思います。

専門的な治療等を受ける以外での対応としては、瞑想も上げられるかとは思います。

近時、洞察瞑想が自伝的記憶に捉われる程度と関連しているといわれています。



「集中瞑想 時には洞察瞑想時と比べて、腹側線条体と視覚野の結合性が安静時よりも上昇している(略)
洞察瞑想時には(略)結合性が低下し、さらに腹側線条体脳梁膨大後部皮質の結合性が安静時よりも低下する(略)
自分の過去の経験に関する記憶に捉われる程度と関連していると考えられます。
結合性の低下の程度は、瞑想の実践時間が長いほど大きくなる。
意図的な注意の集中がゆるまるとともに、過去の経験に関する記憶に捉われる程度が低下している。」
「洞察瞑想時に自伝的記憶関連脳領域間の結合性が低下することを発見」京都大学ウエブページ『最新の研究成果を知る』(2018年)
https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2018-07-05-0



瞑想にこのような過去の記憶からのとらわれを緩める機能があることからすると、裏を返せば、仏教で問題とする苦の実体も、これまでの述べた過去の親子関係の問題であるということになるようにも思われます。

しかし、過去の記憶から楽になる目的で、瞑想をやり過ぎることが却って問題を生じさせるとの指摘もあり、深刻な人は、瞑想で対応するにしろ、精神科医等の標準治療についても知識のある専門家の指導の上で、やる方がよいように思われます。



「臨床マインドフルネスのプラクティスでは、想起される思考や感情にとらわれず、手放していくという認知的プロセスを訓練する。しかし、人によっては過去に生じたトラウマ記憶を手放すことに没頭してしまい、トラウマ記憶の否認や回避を強化してしまうことになりかねない。」
(池埜聡、内田範子「第2世代マインドフルネス」の出現と今後の展望-社会正義の価値に資する「関係性」への視座を踏まえて-」『Human Welfare 第12巻第1号』(2020年)91頁
https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=29697&item_no=1&page_id=30&block_id=85



瞑想以外の解決の方策として注目すべきは、言われてみれば当たり前かもしれませんが、親との関係の改善等の人間関係の改善のようです。



「愛着の原点は、親との関係で育まれる。愛着障害は、そのプロセスで躓いている。それを修復するには、親との関係を改善していくことが、もっとも望ましい。
親のなかには、子どもに問題が表面化したのを機に、自分から子どもへの関わり方を変えようと努力する人がいる。そうして、子どもの方も親の方も大きく成長し、関係が良い方向に変化することで、他の問題も落ち着いていくというケースも少なくない」
岡田尊司愛着障害』(2011年)257~258頁)



しかし、実際には、成人に達してからも親子関係の修復の困難な人が多いように思われます。



「しかし、その一方で、親の方も不安定な愛着の問題を抱えていることも多く、自分の問題としては受けいれようとせず、頑なに子どもの非にこだわり続け、子どもに対する否定的な態度を改めようとしない親もいる。そうした場合には、子どもは良い方向に変わろうとするたびに、再び傷つけられ、回復を邪魔されるということになりがちだ。」
(岡田前掲書258頁)



このように、親子関係の修復が困難な人にとっての次善の策は、恋人やパートナーを持つことであるとされます。



「愛着の傷を修復する過程は、それをただ自覚して認知的な修正を施せばいいという単純なものではない。(略)いくら本人が前向きに認知的な修正に取り組んでも、それだけでは愛着の傷は癒されない。
認知的な修正よりも、もっと大事なプロセスがある。そのプロセスとは、言ってみれば、幼いころに不足していたものを取り戻すことである。(略)
愛着障害の修復過程は、ある意味、赤ん坊のころからやり直すことである。
しかし、現実には、さまざまな事情やこれまでの経緯から、親が子どもにすべての愛情と関心を注ぎ込んで、とことん付き合うというのは難しい。(略)
ましてや、子どもが大人になると、親と別々に住んでいたり、親の体力的、経済的理由などで、こうした修復行為自体が不可能になってくる。その場合、親に代わって修復してくれる人が必要になる。

恋人やパートナー

がもっともふさわしい」
(岡田前掲書267~268頁)



瞑想等の仏教の実践に興味を持つ人の問題としては、仏教が出家者を理想とし、出家者には性交が一切禁止されることから、この恋愛をするという人間として極く当たり前の選択肢を意識的に排除してしまいがちに思われることです。

実際、瞑想や仏教にはまり込んでいる人の中には、一般的な恋愛などは難しいのではないかと思われる人が少なくありません。揶揄する意味ではなく、仏教等の宗教の存在意義は、それがなくなると利他行為をする人がいなくなるとの観念の宗教家は、少なからずおり、中高生頃から、ボランティア活動に携わってきた経験からすると、そんなことはないと思うのですが、おそらく、幼少時に、親から愛情を注がれなかった結果、人間不信が強くなり、人間は利己的であり、宗教などの特別な規範がなければ、利己的な行為をし続けるという観念が強く、それと同じ発想で、特別な事情がない限り、人間が愛し合うということが情念の部分で理解することができない人が多いのではないかと思います。

仏教における性交に対する消極的理解は、このような恋愛の難しい人を勇気づける意味や、また、6で述べたとおり、パートナーとの間に子供をもうければ、愛着の問題が伝播する危険があることを考慮すると相応に合理的なようにも思われます。

しかし、有力な選択肢がありながら、その可能性を検討する前から、無思慮に排除するのは、抱えている問題の解決の上では、好ましいものではありません。

私自身は、坐禅会や瞑想会を通して、未成年期に親子関係の問題を抱えている人たちに接したことを通して、自分自身の子どもたちの親子関係をみなおそうと考え、家庭に回帰したのですが、恋愛や性愛の問題について、真剣に考えるようになったきっかけも、親子関係の問題から生じる二次的な問題の有力な対応策が、恋愛だということを知ったからでした。

その意味で、私にとっては、恋愛や性愛の問題も、仏教の問題と地続きの問題になっています。



8 (補論)釈尊と親子関係の問題



これまで述べたとおり、瞑想や仏教にはまる人には、未成年期に親子関係の問題を抱えている人が多いのではないかと思われるのですが、仏教の開祖である釈尊自身が、愛着の問題を抱えていたと論じるのが、これまでも繰り返し引用した岡田尊司です。



「出家・遁世する人には、愛着障害を抱えた人が多い。その代表は、ゴータマ・シッダルタ、すなわち釈迦である。
釈迦の母親は、彼を生んだ直後に亡くなった。(略)
釈迦は自我に目覚め、自らの出自について考える青年のころから、物思いに耽るようになる。(略)釈迦はついに出家して、王子の位も、妻子も捨てて、放浪の旅に出てしまうのである。
その根底には、母親というものに抱かれ、その乳を吸うことなく、母親との愛着の絆を結ぶこともなく、常に生きることへの違和感を覚えながら育ったことがあったに違いない。
岡田尊司愛着障害』(2011年)170頁)



実際に、仏伝を参照すると、釈尊の家庭は、岡田の論じるよりも、更に複雑で問題性が大きかったことがわかります。

益田晴代「ブッダの母摩耶夫人に学ぶこれからの子育て」『身延山大学講演会講演録』(注6)によると、釈尊を産んだ7日後に死亡した母親は、元々妹と供に嫁ぎ、父親は、姉妹双方と肉体関係を持っていたとの伝もあり、釈尊の母の妹が養母となり、父親は、釈尊の母親が亡くなった後は、妹だけを愛したとされますが、釈尊としては、自己の出生を知った時、自分の母親の立場を知ったらどう思うか、何ら問題なく受容することは困難なように思われ、現代的な視点とはいえ、釈尊本人に複雑さがあったとしてもおかしくはないものと思われます。

釈尊が「物思いに耽る」ようになったきっかけも、この出生の秘密を知ったこともあるのではないかといった想像の翼が広がるところです。



本文以上



(注1)私が在家禅にいたときの状況や在家禅それ自体に興味のある方は、次の一連のツイートを参照
https://twitter.com/nichijohe/status/1427238474780794885?s=20&t=DG6x5twzK3eecYQ3DVT5eA

(注2)私自身は、本稿で取り扱う親子間の愛着の問題のほか、釈尊を含めて高機能発達障害の問題をも併せて抱える人が多いのではないかと思うのですが、その点については、他日、論じることができればと思っています。

(注3)仏教における「一切皆苦」の否定的な人生観・世界観については、当ブログの「仏教における生命/世界の否定と肯定」を参照
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/02/01/195551

(注4)仏教における治療モデル

1 佐々木閑『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』(2012年)29頁
「仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。ですから、病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院させるようなことをしないのと同じく、仏教も、苦しみを感じていない人まで無理矢理信者に引っ張り込もうとはしません。」

2 柳田聖山『禅思想』(1975年)37~38頁
「道心を起すことが、巧偽をひき起す。道心を起すことが、じつはすでに道に背くわざなのだ。(略)もともと坐禅は起こった心を静めるための対症療法であった。(略)応病与薬の法であった。乱れた心を制する技術である。応病与薬の法であった。『二入四行論』の雑録に、つぎのような問答がある。

ある人が顕禅師にたずねた、「何を薬というのです」
答、「一切の大乗は、病気に対する応急処置にすぎぬ。心そのものが病気を起さなければ、どうして病気に対する薬がいろう。有という病気に対して空無という薬を説き、有我という病気に対して無我という薬を説き……、迷いに対して悟りを説く。これらはすべて、病気に対する応急処置である。病まぬのに、どうして薬がいろう」

顕禅師もまた伝記の判らぬ人だが、その主張は縁法師と変わらぬ。(略)病まぬのに、薬はいらない。病まぬ人に薬を与えるのは、わざわざ病人をつくるようなものだ。心が起らぬのに、強いて心を起すにひとしい。われわれは、とかく病を実体化しやすい。病を実体化することから、薬の実体化が始まる。(略)病の実体化することの危うさは知りやすい。薬を実体化することの怖さは気づきにくい。」

(注5)仏教の実践により、実際には、人格が悪くなる例があることは、当ブログの「禅の修行は禅的人格を生み出せるか~瞑想と情動発現の低下」を参照。
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/02/14/211628
また、常識論ではありますが、次のような指摘があります。

1 河合隼雄ユング心理学と仏教』(1995年)37頁
ユングも言っていることですが、偉大な人も近くに寄ると「影」が見える。日本に住んでいると「偉大な」禅の師について見聞することもあります。そうすると「悟り」を啓いても利己的な面はそのままである点などがわかって疑問を感じてしまいます。」

2 プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』(2016年)215頁
「「私が言うとおりに実践すれば、全て上手くできますよ」といったことを、瞑想指導者が言葉の上では主張しているのだけれども、ご本人の現実の振る舞いにおいては、その理想が言葉のとおりにまるで実現できていない、といった事例を、私はたくさん見てきました。「瞑想の先生を選ぶ際には、その先生の『発言』だけではなく、その人の『為人』、つまり本人の現実の振る舞いを、よく観察して判断してください」と私が強調するのには、そういった背景もあるわけです。」

(注6)『身延論叢第24号』(2019年)
https://minobu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1756&item_no=1&page_id=13&block_id=21





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