仏教と戦争

仏教は非戦と非暴力の教えなどと言う人もいます.
確かに、不殺生は仏教の最も重大な戒と言われます。
しかし、日本の伝統仏教の指導者層を含めた僧侶のほとんどは明治以降の日本による戦争を支持しました。
ある程度教養のある人が仏教を相手にしないことは理由がある。
少し調べればわかることですし。
しかし、意外と知らない人も多い。
日本人同士の殺し合いもなされたニューギニア終戦を迎えた人間の子としての思い入れもあり、ブログにまとめてみました



本稿の構成

1 伝統仏教における戦争協力
(1)伝統仏教教団の指導者及び僧侶の戦争支持の発言
(2)時局に迫られてやむを得ず発言したのか
(3)どの程度戦争の実態を知っていたのか
2 仏教が戦争を積極的に支持することになる要因
(1)組織の維持
(2)無謬性の神話
(3)サンガ=出家者集団をどう見るか?
3 正当な理由のない対米戦争の開戦
(1)はじめに
(2)海軍が対米開戦を支持した理由
(3)陸軍が対米開戦を支持した理由
(4)対米開戦までの経緯
ア 南仏印進駐に合理性がないこと
イ 南仏印進駐のリスクの認識
ウ 「対米開戦」と「中国撤兵」とを比較し「対米開戦」を選んだ理由
(ア)元々参謀本部は中国戦線の縮小を企図していたこと
(イ)「中国撤兵」をできなかった理由
4 個人的なこと
(1)父と私
(2)ニューギニア戦の実際
(3)戦争の背景と父が宗教等に救いを求めた理由
5 仏教と戦争を考えることの意義




1 伝統仏教における戦争協力

(1)伝統仏教教団の指導者及び僧侶の戦争支持の発言

 仏教の不殺生戒は、常識的にも知られたことですが、明治期以降の戦争に臨んで、伝統仏教の教団や僧侶たちが、戦争に反対したのかというと、そんなことはなく、先の戦争において、ほぼ全面的に戦争遂行を支持する活動をしました。



満洲事変以降の禅宗教団のあゆみは、ほとんどそのまま戦争協力の歴史であった。(略)禅宗の各教団は、仏教連合会(1941年に大日本仏教会に発展)や仏教護国団に参加し、1944年には、あらゆる宗教を一元化した大日本戦時宗教報国会に参加することになった。
こうした状況の中で、宗門本来の思想と現実の行動を調整する必要が生じ、禅僧や宗学者を中心に、いわゆる『戦時教学』が展開された。その典型は、山崎益宗(1862―1961)、杉本五郎(1900-1937)の師弟によって展開された皇道禅(天皇宗)である。杉本の『大義』(1938年)に、『大義に透徹せんと要せば、須らく先づ禅教に入って我執を去れ』といい、『諸宗諸学を総合し、人類を救済し給うは、実に天皇御一神におわします』と説くように、これは禅思想を尊皇思想に統合しようとしたものであった。」
(伊吹敦『禅の歴史』(2001年)300頁)



特に、当時は、他国への侵略を「菩薩行」として積極的に支持していたこを興味深く思います。
当時の文献に出ている記述を見ると、やむを得ず従っているというニュアンスではなく、積極的に扇動をしているとしか思えないように感じられます。
この種の戦時下における仏教家の発言については、ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』がよくまとまっています。



「一九三七年、駒澤大学林屋友次郎(一八八六―一九五三)と島影盟(一九〇二―?)によって出された『仏教の戦争観』――これほど適した題名があろうか。(略)
「大体に、如何なる理由があっても絶対に戦争を避けるのが仏教の道であると観てゐるのが支那仏教徒であり(注1)

≪理由のある戦争はやってこそ仏教の大慈大悲に叶う所以である≫

といふのが日本の仏教徒である」(略)
「仏教が戦争を悪いとも善いとも定めないといふのは、形の上の戦争を見ないで、その目的を問題とするのである。そして、善い目的を持つ戦争ならば善いとし、悪い目的を持つ戦争をば悪いとする。

≪仏教は仏教の心に叶った戦争を是認する≫

ばかりではない。もっと積極的に動く時は

≪仏教自身が戦争主義者≫

でもあるのである。」
(ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』(原著1997年・日本語版)143~145頁)

「古川(碓悟)は(略)仏教の戦争参加が教理的には何ら問題ないこと、だが、初期原始仏教においてはこの立場をとっていないことを認めた。彼によれば、社会は次第に複雑になり、仏教徒の数がふえるにつれ、この仏法を守るためには武力も時に必要であるとの自覚である。だからこそ

大乗仏教に属す仏教徒は、小乗仏教に属す仏教徒とはちがって、初めて正法を守るために殺戮をあえて容認。≫

また、大乗仏教者は、次の事実を自覚していたともいう。
「不殺生戒を以て如何なる時如何なる場合にも、文字通り、遵守せんとするが如きは絶対に不可能である。同様に如何なる場合にも、殺人的行動を否定するといふが如きは非常識の甚しきものである。仮りに斯の如き事を固執したとすれば、人類社会は一日も維持出来る性質のものではない」」
(ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア前掲書150頁)



 禅宗各派の指導者の発言としては、円覚寺の管長であった朝比奈宗源は次のような発言をしていたとされます。



「「臨済宗円覚寺派円覚寺貫主として活躍した朝比奈宗源の、太平洋戦争下の政治的言説は、どのようなものであったか。
われわれは、かれによると、日本民族の『存亡』をかけた『大決戦』を前にして、『口舌』だけの『拠身捨命』では、『思想戦の指導者』にはなれない。『仏法の実』を示すのは、まさに『今』である。『行持』とは、『読経礼拝や行乞』ではない。『忠君の行であり報国の行であり戦力増強の行』でなければならない。『勇猛な志気』で『純一無雑に国家に奉仕せよ、活禅はそこに』ある。」
(栄沢幸二『近代日本の仏教家と戦争――共生の倫理との矛盾――』(2002年)305~306頁)



 また、曹洞宗では有名な澤木興道も、当時は、同様の発言をしていました。



仏道無上誓願成は皇道無上誓願成と言ってよい。まことにこの度の戦争は皇道を世界一杯に拡げることである。この日本の皇道,即ち仏道をアジアはおろか,全世界に遠慮なく弘めねばならぬ。我々はこの道によって三民主義を破り,

≪民主主義を破り,自由主義をやぶらねばならぬ。≫

これが我々日本国民なのである。」
(沢木興道『観音経提唱』からの引用。新野和暢「皇道仏教という思想――十五年戦争期の大陸布教と国家――」『人文學報 108号』99頁)



 当時の出家者が安易に時流に乗った背景として、鈴木大拙が、「随順」(注2)に挙げていたことに着目しているものもあります。



鈴木大拙が、日本の僧侶の特質を、『随順』に求めていた点に注目する必要がある。この特質が各時代の権力に迎合・追従したり、さらには、権力のイデオロギー的教化の担い手となる、思想内在的要因の一つであったとみなすことができるからである。

今まで戦争を謳歌して、軍閥・官僚・財閥の太鼓を叩いた坊さん達は、今度は進駐軍のために大法螺貝を吹き立てることであろう。(略)今までの仏教は鎮護国家で動いて居た。戦争中は殊にこれがやかましく言ひ囃された。(略)彼等に自主的思索と云ふべきものの片鱗をも認められぬのは、何と云っても今日の痛恨事である。」
(栄沢幸二『近代日本の仏教家と戦争――共生の倫理との矛盾――』312~313頁)

(2)時局に迫られてやむを得ず発言したのか

 以上のような先の戦争当時の僧侶の発言等に対しては、当時は、軍国主義であったことから、国家に批判的な発言をすれば弾圧されたり、戦争を支持する発言をしなければ国家に批判的なのではないかという嫌疑を抱かれたりすることからやむを得ず発言したなどと説明されることもあります。
しかし、前記(1)に取り上げた発言自体、当時の指導者層を含めた僧侶たちが苦悩や葛藤を抱いていたことはうかがえません。
次の1937年初めの日中戦争に入る前の大法輪の座談会での社長をしていた曹洞宗僧侶の石原俊明は、満州事変を敢行した林銑十郎やなどの前にして、その侵略行為を非難することなく、武道と禅道とは極意が同じだと持ち上げる。



「禅では、心を止めないと云ふことをやかましく云ひますが、石をカチッと打つと、打つが否や火が出る、其処には髪一筋の入るべき隙がない。右向け右と号令を掛けられて、電光石火、只右を向く、此処が心の止まってゐない証拠です。
 沢庵禅師は此の呼吸を柳生但馬守に説いて石火の機と云ってゐる。武道と禅道とは極意が一つだと云ふ。仏法の極意と云ふのは止まらない心だ。(略)死ねと云はれても少しも動ぜず、自分と云ふものの少しも入ってゐない境地、これは禅機と全く一つの境涯だと思ひますね」
(ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』169頁)



 この頃は、反戦的な言動をする人も少なくなく、居並ぶ軍人に不殺生戒を説いて反戦を訴えることも十分できるはずであったとされ(注3)、それにもかかわらず軍人らを安易に支持したのは、時局に迫られてやむを得ず発言したのではなく、純粋に日本の侵略行為を支持していたからであると思われます。
 また、浄土宗の執事長を務め、青年時には戦車隊に入営していた経験を持つ僧侶の話からすると、そもそも戦争協力に対する葛藤など全くないのが一般的だったようです。



「僧侶として不殺生戒との矛盾を感じることはなかったのだろうか。
「そんな疑問は一切、感じませんでした。

≪周囲のお坊さんを見回しても、戦争に反対している人は見たことがなかった。≫

すでに各仏教教案は戦時協力体制に入っており、報国会なるものを結成し、零戦も献納していましたから。幼少の頃から、『戦争への非協力はすなわち非国民である』と教えられてきました(略)」」
(鵜飼秀徳『仏教の大東亜戦争』(2022年)255~256頁)



 周囲の僧侶の中に戦争に反対している者がいなかったなどという発言からすると、ひそかに戦争反対を打ち明けるような人もなく、時局からやむを得ず、戦争に賛成する態度をとっていたという人はいなかったのではないかと思われます。

(3)どの程度戦争の実態を知っていたのか

 先の戦争の愚かさ(後記2)や悲惨な実態(後記3)は、現代では明白なことですが、当時の仏教家たちは、どの程度その実態を知っていたのでしょうか。
 次の朝比奈宗源(臨済宗円覚寺派管長)の発言を踏まえると、おそらく、指導者層を中心として、相当程度、戦争の実態をわかった上で、あえて戦争の支持をしていたのではないかと思われます。



「今度の戦争なんかは、裏面から見ていると、初めから負けていた。【略】敗れるべくして敗れる筋書どおりに運んだだけだ。儂は、この戦争が始まって間もなくから、こいつは駄目じゃないかと思っていた。【略】
儂ははっきり言うよ。一番いけないのは、海軍の首脳部が駄目だったことだ。儂は鎌倉にいるから、ずいぶん海軍の人たちともつきあってきた【略・242頁】
 その頃、もうすでに、内側では海軍がだいぶ敗けていることもわかっていた。儂は、あのミッドウェイの戦いを発表の四日ぐらい前にはわかっていた。【略】
 彼らは、『山本は、この戦いは初めはいいが後がだめだと言っていた』とこう言い出した。(略)
 宗源は速い段階で日本が敗北するであろうと読んだにもかかわらず、戦争支援をしなかったのではなく、たとえばあちこちで国民の意欲を高めるべく講演会もすれば、寺での錬成会も実施した。
(朝比奈宗源。ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』241~243頁)



 先の曹洞宗僧侶の大法輪社長と林銑十郎らとの対談に見られるように当時の仏教関係者と軍幹部との結びつきは強かった(注4)。したがって、先の戦争に関する意思決定の実情も、朝比奈宗源の述懐に現れているように、軍幹部から聞かされることも少なくなかったのではないか。
 また、各宗派とも前線に僧侶を送って慰問をしたり、僧侶自身が兵士として前線で戦っていたことから、戦争の前線の実情に関するまとまった情報を把握することも可能だった。
 以上のようなことからすると、当時の伝統仏教の指導者層等は先の戦争の不合理や悲惨を十分承知しながら、一般市民に対しては、前線で戦うことを鼓舞し、宗門を守るために、日本人の同胞を売ったのが実情という面もあったのではないかなどということも考えます。

2 仏教が戦争を積極的に支持することになる要因
 
 不殺生戒があるにもかかわらず、仏教が戦争を積極的に支持することになる要因としては
①  組織の維持(1)
②  無謬性の神話(2)
③  出家者集団の見方(3)
が関係にするのではないかと思われます。

(1)組織の維持

 不殺生を戒とし、戦争を否定するものが仏教だと思われがちであるところ、前記1(1)に見たような種々の理屈を考えて、これを正当化し、積極的に支持する理由としては、組織の維持がよく挙げられます。



「歴史を振り返ってみると、宗教者は率先して為政者に擦り寄り、戦争協力をしているケースのほうが多い。日本の歴史上でも、世俗的権力と宗教的権力が結託して、戦争を推進したケースは多々あるが、いちばん最近では、第二次世界大戦前に、国家主義的な世情を煽るために、神道や仏教の各派が軍部へ積極的に協力している。
  本来は世界平和のために、献身的な働きをみせなくてはならない宗教家がなぜそういう態度をとるかといえば、権力者に自分たちの立場を保全してもらうためである。」
(町田宗鳳「なぜ宗教戦争が起きるのか」『大法輪』2004年7月号108頁)
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/26155/20141016153456472724/Daihorin_71-7_105.pdf

(2)無謬性の神話

(1)に述べた組織維持の必要のほか、個人的に重要なことだと思っていることは、宗教一般に通じますが、「自分たちが正しい」ことを前提とすることです。
 すなわち、「自分たちが正しい」ことをやっていることにするために、やむを得ずにやっていることを正当化する理屈を作り上げ、結果、仕方なしにやり始めたことを積極的に推進する結果になるのではないでしょうか。
中島岳志親鸞と日本主義』に出てくる1941年の真宗大谷派の「真宗教学懇談会」の様子は、このようなやむを得ず屈服することを積極的に推奨されるべきことに転換する努力の経過を知る上で、一般的な読書人が接しやすいものと思います。



「京都・東本願寺の宮御殿。
 一九四一年二月十三日から十五日の三日間、ここに真宗大谷派の重鎮が集まり、「真宗教学懇談会」が開催された。(略)
 冒頭、主催者あいさつとして座長の信正院殿が口火を切った。

 目下の緊迫せる国家の状勢を考へ上御一人の御宸念を思ひますとき吾々宗教家は昔ながらの考へで居られない。(中略)もし昔のままでゆくならば国民としての義務を怠るのであります。経典の中にも民族の興亡に関するものは聖戦であるといふ意味が述べられてゐるのであります。また或る経典には相殺しあふことは罪悪と考へるが、かかる考へ方は今日の時局に於ては如何に考へるかは極めて重大な問題であります。殊に真宗の教義に於ては今日さうした問題を曖昧に過してゆくことは断じて許されません。人生としての求法と国民としての実践は常に一致せねばならぬのであります。(略)

 懇談会の趣旨は明確だった。国家の状況が緊迫する中、従来の教学のままで教団を運営することは難しく、積極的に国策を推し進める必要があった。そのためには教学の変更を検討しなければならない。国民としての義務を果たすことと宗教的な求道が「常に一致」しなければならない。ここで座長から示されたのは、国策に追随するという明確な方針に他ならなかった。」
中島岳志親鸞と日本主義』(2017年)222~223頁)


 
 軍部の圧力に反発すれば、場合によっては、服役することになったり、命を失うことになるかも知れません。
 だから、面従腹背で、渋々従った振りをするということであれば、仕方のないことのような気もします。
 しかし、宗教である以上、やむを得ず従ったことも正しいものとして殊更正当化しなければならない。
 「人生としての求法と国民としての実践は常に一致せねばならぬ」ということになる。
 やむを得ず渋々従うのでなく、正しいものとして正当化されたことである以上、積極的に推進せざるを得なくなる。
 このような無謬性の神話の維持の必要から、戦争を積極的に支持することになったのではないかと思います。

(3)サンガ=出家者集団をどう見るか?

 出家者集団を判断力、人格や精神力に優れた人たちの集まりだというふうにみると、なぜ、当時の世界の状況を的確に判断できなかったのかや、国家権力に妥協して戦争を推進したのか、という批判が生じますが、そもそも出家者集団がそのような人並みより優れた集団であると捉えることが適切なのかどうかという問題もあるように思います。
 これは仏教の実践をいかなるものであると捉えるのかによりますが、仏教の実践を人並みより優れた人間になるのではなく、病の治療と捉える捉え方も有力です。



「「苦・集・滅・道」という四諦の教えを見るといつも私は思うのですが、仏教という宗教は、まるで病院のような存在です。仏教は「心の病院」なのです。
(略)仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。ですから、病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院させるようなことをしないのと同じく、仏教も、苦しみを感じていない人まで無理矢理信者に引っ張り込もうとはしません。(略)実はこれが、仏教という宗教が無理な布教をしない一つの理由でもあるのです」 
佐々木閑『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』(2012年)28~29頁)

「もともと坐禅は起こった心を静めるための対症療法であった。(略)応病与薬の法であった。『二入四行論』の雑録に、つぎのような問答がある。
 ある人が顕禅師にたずねた、「何を薬というのです」
 答、「一切の大乗は、病気に対する応急処置にすぎぬ。心そのものが病気を起さなければ、どうして病気に対する薬がいろう。有という病気に対して空無という薬を説き、有我という病気に対して無我という薬を説き……、迷いに対して悟りを説く。これらはすべて、病気に対する応急処置である。病まぬのに、どうして薬がいろう」(略)
病まぬのに、薬はいらない。病まぬ人に薬を与えるのは、わざわざ病人をつくるようなものだ。心が起らぬのに、強いて心を起すにひとしい。われわれは、とかく病を実体化しやすい。病を実体化することから、薬の実体化が始まる。(略)病の実体化することの危うさは知りやすい。薬を実体化することの怖さは気づきにくい。」
(柳田聖山『禅思想』(1975年)37~38頁)



 このように仏教の実践を心の病の治療という観点でとらえた場合には、出家者集団は、断酒会などの当事者グループや自助グループに類するものとして捉えることができるのではないかと思います(この場合は、宗教指導者のような人は、実践を通して病を克服した人と捉えることができると思います。)。



「出家とは、俗世間で死ぬか生きるかの状態になってしまった人たちが、同じような価値観を持った者同士で身を寄せ合って作った修行の世界へ入ること。出家の本当の意味は、言ってみれば「自殺する人を救う」ところにあるわけです。」
佐々木閑発言。佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』(2017年)91頁)


 
 このように出家者集団に集まる人たちが心の病を抱え一般的な社会に適合できない人たちの集まりであるということであれば、その人たちが、判断力、人格や精神力等の能力が特段優れているわけでもないことになります。



「瞑想は、社会からの逃避ではありません。
 瞑想は、葉が樹を育てるように、再び社会に同化する能力を、見つけるためのものです。(略)
瞑想センターに入るまえ、瞑想の内に平和を見いだすことを、彼らは望んでいました。ところが、道を求めつつ、以前とは違った社会をつくり、この社会が、大社会よりも、もっとむずかしいものであることに気づきます。それが、

≪社会から疎外されたひとたちの集まり≫

だからです。数年の後、瞑想センターにやってくるまえよりも、もっとひどい欲求不満を起します」
(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』(原著1988年)72頁)



 出家者集団が本来的に弱い人たちの集まりであれば、国家権力を批判し、抵抗するように言うことは酷ですし、迎合するのも当然であるということになります。
 この観点からすれば、日本の伝統仏教の教壇や僧侶が国家権力に迎合して戦争を積極的に支持したのも当然であり、批判することではないことになると思われます。

3 正当な理由のない対米戦争開戦

(1) はじめに
  
 明治期以降、日本が関わった戦争のうち最大規模のものは、言うまでもなく、1941年12月7日に開戦した対米戦争(太平洋戦争ないし大東亜戦争。本稿では「対米戦争」と呼称します。)です。
 日本の伝統仏教の教団及びその僧侶のほとんどは明治以降の日本の戦争を全面的に支持しましたが、それが支持するに値するものか、正当な理由があったのかを考えるうえで、最も大規模な対米戦争について考える必要があるものと思います。
 結論的にいえば、対米戦争は、その作戦立案者ですら、正当性を説明できず、予算の確保や責任逃れといったようなものであり、開戦当時の価値観に基づいても到底正当化することができないものでした。
 当時の戦争の実行の中心は、もちろん陸軍と海軍ですが、最初に海軍((2))について触れ、次に陸軍((3))について触れます。
 
(2)海軍が対米開戦を支持した理由

私の父は、戦時中ニューギニアに送られました。
ニューギニア戦は、ガダルカナル攻防戦の際に3万5000人を送って、そのうち1万5000人を餓死させて敗走を余儀なくしたことをごまかすために、「転進」と称して、17万人を送り、15万人以上をほぼ餓死・病死させたものでした。
戦争は多数のアクターが関わり合いますから、特定の視点から評価することは難しい面もあります。しかし、当時の軍官僚の言行からすると、軍官僚の出世と保身という面が強いように思われます。
インパール作戦等を含めこのような例のキリはありません。
たとえば、海軍関係者は、幹部のほか、大臣ですら、開戦理由を説明できず、むしろ、願望としては、対米戦争を避けようとしていたことが明らかとなっています。



「大方の人、海軍の首脳はもちろんのこと

≪大方の人は非戦主義≫

だったんだ、非戦主義だったにもかかわらず、戦争に飛び込んでしまった。どうしてそうなるんだということだ。」
(三代一就元大佐。戸髙一成『[証言録]海軍反省会』(2009年)333頁)

「今になって陸軍海軍を含めて、自分はこれが正しいと思って戦争したのだ、開戦を主張としたんだという、

≪その理由が全然出てない≫

んですよね。そういう人の意見は、なんで戦争を始めることがこの際ベストなんだという、その理由付け。それから、そういうことを海軍の開戦の時も陸軍によく聞いて、それは陸軍は間違いだぞと、それは敵の戦力を過小評価してるというような話し合いがあって、反省させることができなかったのか。そういうようなことを国民は知らないと思いますね。」
(本名進元少佐)。戸髙前掲書371~372頁)

「及川海相は岡軍務局長を使いとして、近衛総理へ「

≪海軍はできるだけ戦争を回避したい≫

と考えているから、交渉の決裂は欲していない。しかし海軍として、表面にたってこれをいうことはできないから、今日の会議では海軍大臣は和戦いずれとも、首相に一任する旨、申し述べるから、さようお含みねがいたい」と申し入れている。」
(石川信吾『真珠湾までの経緯』(原著1960年)331~332頁)



そして、対米戦争の開戦について、海軍が同意をした理由は、予算の確保であるとされます。
この点は、先に引用した戸髙一成『[証言録]海軍反省会』に一部引用された音声資料をベースにしたNHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』(2011年)に、当時の海軍の幹部らの声が記録されています。



「(高田利種元少将)予算獲得の問題もある。

≪予算獲得≫

、それがあるんです。(略)
国策として決まると、大蔵省なんかがどんどん金をくれるんだから。軍令部だけじゃなくてね、みんなそうだったと思う。それが国策として決まれば、臨時軍事費がどーんと取れる。好きな準備がどんどんできる。準備はやるんだと。固い決心で準備はやるんだと。しかし、外交はやるんだと。いうので十一月になって、本当に戦争するのかしないのかともめたわけです。」
「だから、海軍の心理状態は非常にデリケートで、本当に日米交渉妥結したい、戦争しないで片付けたい。しかし、海軍が意気地がないとか何とか言われるようなことはしたくないと、いう感情ですね。ぶちあげたところを言えば」
(NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』(原著2011年)138頁)

「(開戦時の作戦参謀だった三代辰吉元大佐)私が申し上げておきたいのはねえ、私は軍令部におる間はね、感じておったことはですな、海軍が“アメリカとは戦えない”というようなことを言ったことがですね、陸軍の耳に入ると、それを利用されてしまうと。(略)
海軍は今まで、その、軍備拡張のためにずいぶん予算を使ったじゃないかと、それでおりながら

≪戦えないと言うならば“予算を削っちまえ”≫

と。そしてそのぶんを、“陸軍によこせ”ということにでもなればですね、陸軍が今度はもっとその軍備を拡張し、それから言うことを、強く言い出すと。(略)そういうふうになっちゃ困るからと言うんですね、一切言わないと。負けるとか何とか、戦えないというようなことは一切言わないと。こういうことなんですな」
(NHKスペシャル取材班・前掲書143~144頁)



当時、海軍は、米国を仮想敵国とし、戦艦の築造等の必要があることを理由として、陸軍の約2倍の予算を取っていましたから、今更、米国相手に戦争はできないとは言いがたかったのであると思われますが、ここにも、当時の軍幹部が自己保身のために、判断を曲げた一面が現われているように思えます。

(3)陸軍が対米開戦を支持した理由

 当時の陸軍の幹部によれば、基本的には、米国に勝てる見込みはなく、対米戦争に反対していたところ、中国からの撤兵ができなかったことが対米戦争に至った理由として挙げられています。



「戦争開始の問題は、仏印進駐以前から議論になっておったんです。当初は、作戦課も大部分、反対なんです。(略)若手参謀は大体、反対しておったんです。反対という意味は、戦争しても、勝つ見込みは少ないんじゃないかという観点からなんですよ。(略)
なぜ慎重かということは、さっき申し上げたように、いろいろ検討してみても、勝つという決め手がないじゃないかということなんです。そこで問題になったのは、しからば、どうするんだということです。(略)
 大陸から無条件に撤兵するか、しからずんば、戦争か、どちらかということで、われわれ、みんな迫られたわけなんです。」
(高山信武元大佐。半藤一利編・解説『なぜ必敗の戦争を始めたのか 陸軍エリート将校反省会議』(2019年)201~202頁)
 


 陸軍の開戦理由に関して、同様の見方をするのは、海軍の軍務局第二課長をしていた石川信吾で説得力を感じます。



「日米衝突の原因は支那問題以外にはなく、開戦を避けようとすれば、アメリカの主張にしたがって、支那事変をご破算にしなければならないことは(略)アメリカの態度からみて絶対不可欠の条件となっていた。にもかかわらず、この支那事変をご破算にすることが、ほとんど不可能な立場にあったのが、陸軍だった」
(石川信吾『真珠湾までの経緯 海軍軍務局大佐が語る開戦の真相』337頁)



(4)対米開戦までの経緯

 対米開戦までの経緯については、南仏印(現在のベトナム南部)進駐(1941年7月28日)が引き返せなくなった時点であるとされます。
そして、南部仏印進駐は、当時、日本が得ていた情報からも、その合理性はない上、南仏印に進駐すれば、米国が強硬措置を取ることは予期しえたものでした。

ア 南仏印進駐に合理性がないこと

 よく南仏印進駐の理由は、石油資源の確保と言われていますが、当時から、作戦が成功しても、そもそも日本への搬送の可能性に疑問があり、その合理性に疑問があるものと考えられていました。
 すなわち、日本政府は、合理性がないとわかっていた南仏印進駐を敢えて行い、結果、対米戦争に至ったという愚かしい経過があります。



「(引用者注:参謀本部)二課の作戦主導の発想に対し、陸軍省や二十班(引用者注:参謀本部次長直属の戦争指導業務を担当)は、決意なき準備に傾きつつあった。その背景には、二十班の船舶問題についての研究と、陸軍省戦備課長の岡田菊三郎大佐による物的国力判断があった。仮に南方資源地帯を占領しても、輸送船舶は逼迫し、はたして日本の国力増大につながるかは微妙だった。岡田大佐の研究は翌年一月中旬に報告されるが、一二月初旬の段階でもある程度の見通しはついていた。二十班の船舶問題の研究(二日)と岡田の報告(三日)を受けた杉山総長と塚田攻参謀次長は慎重論へと転じる。」
(森山優『日米開戦と情報戦』(2016年)94~95頁)

「仮に南方資源地帯を占領して資源を日本に輸送しても、国力は低下し現状維持すらおぼつかないことは事前の研究で分かっていた。」
(森山前掲書271頁)

イ 南仏印進駐のリスクの認識

 南仏印進駐を受け、米国は、日本への石油輸出を禁止する措置を取り、日本は、アメリカとの交渉に臨むのですが、最終的には、対米戦争にいたららざるを得なくなります。
 「南仏印進駐→禁輸→対米戦争」が日本にとり思いもよらぬものなら、やむをえないような感じもしますが、実は、ルーズベルト再選時から、このような帰結になることは十分予期しえていました。もちろん、ルーズベルトの考えに従う必要はないのですから、戦争になることを覚悟のうえで、南仏印進駐を決断したのなら、まだ理由のあるところですが、そもそもそんな覚悟はなく、甘い見通しで決断をしたことから、泥縄式に外交交渉に乗り出しても後の祭りという愚かしさがあります。



ローズヴェルトアメリカ史上初の三選に向け、激しい選挙戦を戦っていた。(略・1940年)一一月五日、ローズヴェルトは選挙に勝利した。しかし、選挙戦の過程で(略・対立候補が)アメリカを秘密裡に戦争に引きずり込もうとしているとのキャンペーンを展開したため、ローズヴェルトは自分が当選したら 「外国の戦争にアメリカの若者を送ることはない」と公約せざるを得なかったのである。(略)
ローズヴェルトの判断を駐米大使堀内謙介【ほりのうちけんすけ】は次のように報告した。アメリカは日本との戦争を避けるため、強い圧力を日本にかけることを当面は避けるだろう。しかし、アメリカは石油の対日全面禁輸と日本の絹の輸入禁止を準備しており、これ以上アメリカの極東権益を侵害したり、仏印の占領の拡大や、蘭印を武力侵攻したりすれば、日米間の緊張は高まり、戦争は避けられなくなるというのがアメリカ政府のコンセンサスである。 
(森山優『日米開戦と情報戦』86頁~89頁)



 この堀内駐米大使の認識は、当時の政府関係者や軍幹部にも共有されていました。
 


「松岡さん(引用者注:松岡洋右外務大臣)は「南部仏印にでれば戦争になるから、いかんといっているのだ」と、いささかご機嫌ななめのようだった。」
(石川信吾『真珠湾までの経緯 海軍軍務局大佐が語る開戦の真相』300頁)

「日本側は、仏印〔仏領インドシナ=現・ベトナムラオスカンボジア〕や蘭印〔蘭領東インド=現・インドネシア〕に対する主導権を握りたいという希望が前にあった。(略)
 もっとも、陸軍当局も、このころは、いつアメリカの全面禁輸があるかもしれん、全面禁輸になったら、アメリカとの戦争に自動的にならざるを得ないということで、対米戦争に対する危機感を、だんだんに持つようになっています」
(原四郎元中佐。半藤一利編・解説『なぜ必敗の戦争を始めたのか 陸軍エリート将校反省会議』48頁)



この辺りの話を見ると、当時は、的確に情勢を把握していたにもかかわらず、なぜ、適切な対応ができなかったのかと思います。

ウ 「対米開戦」と「中国撤兵」とを比較し「対米開戦」を選んだ理由

(ア)元々参謀本部は中国戦線の縮小を企図していたこと

 日本は、南部仏印進駐をしない判断が十分できたはずであるにもかかわらず、結局、南部仏印に進駐し、最終的に予想通り、米国から石油輸出全面禁止等の経済制裁を受け、ハル・ノートで中国からの撤兵を迫られて、これを受け入れることができず、対米戦争に突入します。
 しかし、そもそも、日本としても、対中戦争は泥沼化していることから、中国戦線を縮小したいと考えていました。
 


「一九四〇(昭和一五)年、日本は一九三七年にはじまった「支那事変」(日中全面戦争)が泥沼化し、すでに三年が経過しようとしていた。(略)先が見えない消耗戦による士気の衰え、過大な軍事費の財政圧迫、大量の軍事物資輸入による正貨流出に起因する輸入購買量の減少、さらには、それらに、起因する生産力の低下は著しかった。」
(森山優『日米開戦と情報戦』73頁)



 実際、石原莞爾などは作戦部長として、撤兵を現地司令官に働きかけますが、全く応じられず、中国戦線は拡大・泥沼化していく状況でした。


 
「そういう戦争ですから、早く止めてしまうのが一番いいわけです。石原莞爾などはそのために懸命の努力をするのです。しかし、「あなたが満州事変でやったことを、俺たちが中国でやっているんだ」と言い返されたというバカみたいな話もありまして、石原をはじめ、非拡大派や和平派の人たちはどんどん中央部から追い出されて戦争は泥沼化していきます。」
半藤一利『昭和史1926-1945』(2009年)204頁)



 やめられない理由も、この石原莞爾と現地司令官とのやりとりに現れています。つまり、軍官僚の点数稼ぎです。
 彼らが出世するためには、実際の戦闘をすることで成果を上げる必要があり、そのためには戦争が必要であって、撤兵すればその機会がなくなってしまうから、やめたくない。
 そして、局地戦に勝利すれば、評価されるので、統治を考える必要はない。
 植民地獲得のための侵略戦争は、当時、欧米諸国もやっていたわけですが、植民地の獲得のためには植民地を統治しなければならない。
 資本主義下の帝国主義侵略戦争は、国内で商品を売っていても商品が全国民にいきわたってしまえば、購入する人がいなくなってしまう。
 植民地を獲得して、植民地人に生産活動のほか、宗主国の商品を買って消費活動もしてもらう必要があり、そのためには、単に、局地戦に勝利することだけではなく、きちんと獲得した地域の統治をしなければならない。
 しかし、軍官僚は、局地戦に勝利とすれば、統治をしなくても評価がされる。だから、後の統治のことを考えずに虐殺をしたり、今村仁司中将のように、侵略先(同中将の場合はインドネシアですが)で善政を敷き、現地人が自発的に支配に服する心理状態にするよう努めた人も更迭されるようなことがおこる。


 
「作戦部長が関東軍参謀を止められない。つまり陸軍自体が陸軍を止められません。勲章と出世欲しさに暴走します。で、暴走を止めようとすると、止めようとしたものが弾き飛ばされる――これが繰り返されます。」
(安富歩『満州暴走 隠された構造 大豆・満鉄・総力戦』(2015年)128頁)

「一九三七年の段階でも、そういう夢を描く可能性がまだあった、ということです。この段階で引き返していれば、アメリカと戦争する必要など、どこにもなかったのです。
ところが、意味のない中国での紛争を陸軍の愚かな軍人どもが、自分たちの立場を守ることと勲章目当てに拡大したため、そういう可能性は急速に失われていってしまいました。」
(安富・前掲書153頁)



 ガダルカナルからの「転進」も同様ですが、満州事変以降の日本の侵略行為の理由としては、軍官僚の出世や自己保身として行われたことが非常に多い。それにより、相手国だけではなく、日本人の同胞が無駄死にしていったのです。

(イ)「中国撤兵」をできなかった理由

 ハル・ノートを受けて、日本もこれ幸いと、中国から撤兵してしまえばよかった。 
 「対米開戦」と「中国撤兵」とがいわば天稟にかかる状況にあったことについては、日米開戦時の軍務局二課長であり、「海軍の開戦意思決定に深くかかわった人物」とされる石川信吾『真珠湾までの経緯』に繰り返し説かれます。



「日米衝突の原因は支那問題以外にはなく、開戦を避けようとすれば、アメリカの主張にしたがって、支那事変をご破算にしなければならないことは、このころ(引用者注:1941年10月ころ)すでにアメリカの態度からみて絶対不可欠の条件となっていた。」
(石川信吾『真珠湾までの経緯 海軍軍務局大佐が語る開戦の真相』337頁)



 実際、対米開戦(1941年12月7日)の直前の同年11月1日の大本営政府連絡会議では、対米非開戦=ハル・ノートの丸のみが有力でした。



「昭和十六年十一月一日(略)
〇東条首相
日米国交調整の方針は堅持したい。なんとか戦争を避けたしという気持ちに変わりはない。(略)
〇賀屋蔵相
二カ月は大丈夫と思う。二カ年先はわからないということだが、もし米が優勢となれば南方を奪還されることになる。長期戦となっても南方を確保できるのか。
〇嶋田海相
兵力の差が相当大きい。その結果、確たる成算があるとはいえない。(略)
 これを読んでみると、だれも勝利の自信はなかった。
 東条首相は戦争をしたくないといい、陸軍を統括する杉山陸軍参謀総長は「アメリカを降伏させる方法はない」といい、永野軍令部総長は「日米戦は避けたかったが開戦やむをえない形勢である。二年はやれる」、賀屋蔵相は「軍備の整備が困難、非常に危険である」というものだった。
 大勢の意見は「やりたくない」だった。それがなぜ開戦になってしまったのか。こんな情勢で戦争に入るとは、信じがたいことだった。」
(星亮二『偽りの日米開戦 なぜ、勝てない戦争に突入したのか』(2008年)163~167頁)



 けれども、日本は、中国撤兵をせずに、対米戦争という愚かな選択をした。
その理由について、繰り返し引用してきた開戦意思決定にかかわってきた石川信吾は次のように語ります。



「「支那事変完遂」の看板を掲げているかぎり、外相を更迭しようが、内閣がかわろうが、太平洋の波はますます荒れ狂うばかりである。それでは、アメリカの要求をのんで、支那事変をご破算にすることができるか。たとえば、それができたとしても、事変勃発以来失われた六十余万の英霊に、なんと答えるのだ。その遺族、百万をこえる傷病者にどう語ったらいいのか。さらに四年有余にわたり国家の全力をあげてこの事変に突入せしめた責任を、いかにしてとったらよいのか。」
(石川信吾『真珠湾までの経緯 海軍軍務局大佐が語る開戦の真相』330頁)



 国家滅亡の確定する「対米戦争」と泥沼化し参謀本部ですら縮小を考えていた中国侵略を止める「中国撤兵」とを天びんにかけて、前者をとったのは、政治家や軍官僚が中国侵略の失敗に対する責任を逃れたかったからにすぎない。
 先の戦争の際の具体的な話を見ていくと、様々な場面で軍官僚が、出世やメンツの維持などの名誉欲といった私利私欲で合理性に疑問のある作戦が決定され、それにより大量の日本人が死に至った。
 そんな無責任な意思決定により、私の父も、ニューギニアへ送られました。

4 個人的なこと

(1)父と私

 私の父は、ニューギニア終戦を迎えました。
 私は、1970年代生まれですが、父が高齢になってから生まれた子供で、私の小学生頃まで、父はよく私を靖国神社へ連れて行きました。
 それでありながら、父は、当時はまだ存命であった戦争の指導的地位にあった人がテレビに出た時には、テレビの画面に向かって、彼らを罵倒していました。
 その姿が当時は気持ち悪く、その上、 父は暴力的でもありましたから、私は、父を人格的に問題があると思い、嫌っていました。
私が大学を出て間もなく、父が亡くなりましたが、感慨はありませんでした。
その後、自分なりに歴史を学ぶようになり、父の暴力性は戦地における飢えから同胞と殺し合うような壮絶な経験をしたことによるPTSDの類ではと考えるようになっています。

(2)ニューギニア戦の実際

 ニューギニア戦は、ガダルカナル島攻防戦において、約3万5000人を投入したものの、約2万4000人が戦死(うち約1万5000人が餓死とされます)して敗走したこと(保坂正康『あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書』(2005年)114頁)を、大本営が「転進」と称して発表した後に起こりました。



「大事なのは、どこに戦いを求めて転進したのかです。陸海両総長(参謀総長軍令部総長)が天皇に報告に行った時、『ではどこへ攻勢に出るのか』と聞かれ、『これから十分に作戦を練ります』と答えればいいものを、参謀総長杉山元が『ニューギニアです』と言ったんですね。そうして今後はニューギニアで惨憺たる戦いがはじまるのです。(略)そして十七万人の将兵が、終戦日まで戦闘(餓死とマラリアとの戦いを含めます)を続け生還し得たものを一万数千という悲惨となったのです」
半藤一利『昭和史1926-1945』414頁)



 ニューギニア戦は、戦略的合目的性はなく、天皇に対する戦争指導者のメンツを守るために決定されたものでした。
そのため、戦略上無理があるものであったとされています。
 たとえば、当時、日本軍の基地のあったラバウルからニューギニアまでの距離は約1000kmですが、零戦の航続距離は約2200kmで、仮に、ニューギニアに向かったとしても、十分間で帰ってこなければならず(半藤前掲書411~414頁)、上陸をしようと思っても、まともな航空支援を受けられません。
 しかも、補給もないことから、先にも引用した半藤一利の本にも書かれているとおり、「十七万人の将兵終戦日まで戦闘(餓死とマラリアとの戦いを含めます)を続け生還した者一万数千という悲惨となった」と言われます。 
 ニューギニア戦の戦略性のなさと準備不足は、行軍中のことに関する記述からもわかります。
 


「食うか食われるか、といわれる重要な戦場である。それなのに作戦用の地図さえもないのだ。中央の欠陥と怠慢に、現地部隊もうんざりしていた。(略)樹海が方向を狂わせる。(略)
 サラモアから直線にして五十キロ強の道程であった。すでに到着していなければならないはずのワウが、十日過ぎたいまになっても、発見することができない。」
(間嶋満『地獄の戦場 ニューギニア戦記』(1996年)64頁)



 また、ニューギニア戦の戦略性のなさと準備不足の点については、意外にも、大森曹玄『驢鞍橋講話』にも若干触れられています。



ニューギニアに行った時に、小さな飛行機でポート・モレスビーからスタンレー山脈を越えた。(略)
 あのスタンレー山脈では日本の一個師団が戦わずして全滅している。南の島にも雪が降る。何とばかな参謀がいたものだ。翌日ポート・モレスビーを攻撃してイギリスの根拠地を撃破するんだというので、一個師団が山の上に登った。そしてポート・モレスビーの灯を見下ろしていた。ところが、夜になったら零下二十度くらいに気温が下がった。そこで半袖の開衿シャツしか着ていない兵隊さんたちが全部凍死してしまった。しかもその時に、水を運ばせるために竹の筒に水を入れて背負って上がった台湾の高砂族、この人たちも、かわいそうに全部死んでしまった。」
(大森曹玄『驢鞍橋講話』(1986年)494~495頁) 



 そして、最も凄惨と思われるのは、半藤一利の著書で触れられている「餓死とマラリアとの戦い」の実際です。
 間嶋満前掲書は、次の実態に触れます。



「蛋白栄養源はすべて個人の自給自足である。密林でトカゲを追いまわし、魚も釣る。(略)
 十数名の兵が、死体のまわりで異様な雰囲気をただよわせていた。近づいてみると、すでに片腕は切断されていた。兵隊が剣を片手に、一方の手には切断した腕を持っていた。」
(間嶋満『地獄の戦場 ニューギニア戦記』77~78頁)



 飯田進『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』にも詳しい記述があります。



「大塚楠雄氏は、第二十師団の下級将校だった人です。彼の中隊が目的地ハンサに到着したとき、その人員は約百名から三十名になっていました。(略)
すでに食糧はなく、(略)宿営地でも、水場は患者の溜り場になっていた。(略)更に又、マラリヤ、大腸炎患者の下痢便の垂れ流しの臭気が胸をついて、幾度が吐き気を催した。
 将校、兵の区別なく、或いは手榴弾を使い、多い日には二人、三人の自殺者に遭ったこともあり、物資収集に先行した小部隊が、住民の襲撃を受けて負傷者を生じ、或いは永遠に戻って来なかった。更には糧秣(りょうまつ)の不足は、人間性を最も露骨に現し

≪戦友をだまし、盗み、時には殺人までして、食糧を少しでも多く、自分だけでいいから手に入れたい≫

との行為が、相次いで見られ、鬼畜の振舞いもこれまでと思われることが平常となった。」
(飯田進『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』(2008年)75~76頁)

「軍の組織が崩壊したところでは、兵士たちは原始の昔に還るのです。

≪容易に共食いが行われた≫

ようです。戦後の収容所の中でそれに類した話を、私は何回も耳にしました。
『あのなあ

≪転進者の生き残りがたむろしているところ≫

にはな、単独で兵隊を使いに出せないんだ

≪どこから撃たれて食われるかわからねえ≫

からだ』(略)
極限状態に曝された人間は、人類が何千年もかけて作り上げてきた道徳や倫理を、一挙に引っくり返します。」
(飯田前掲書93頁)
 
(3)戦争の背景と父が宗教等に救いを求めた理由
 
 ニューギニア戦からの生き残りの人たちの記録はすさまじく、父も、戦友に対する非人道的なことをしなければ、生き残ることはできなかったはずです。
 この体験が、父の人格形成に大きな影響を与えたものと思われます。
父は、世代的なこともあるかとは思いますが、私を蹴飛ばしたりすることがよくありました。
また、私には、団塊の世代のいとこおり、復員した父は、そのいとこの実家(父の兄)に転がり込んだそうですが、いとこたちは、その際、父から随分ひどい目にあったようで、父が亡くなった時には一応葬儀には来ましたが、その後は、年賀状のやりとりをする程度の一人以外は音信不通です。
 細かいところですが、父の戦争体験のすさまじさを想像すると、理由のあるエピソードと思われることは、どこの家でもある大皿料理が出た時の総菜の取り分に関する問題です。
 誰が多いとか、先に食べてしまったとか、どこの家庭でもあるかとは思いますが、そのようなときに父が言うのは、公平に分け合うのではなく、「早い者勝ち」で、母も私たち子どもも、その父の言い草に不満を抱いていました。
しかし、ニューギニア戦の記録を見ると、その背景がわかるような感じもします。きっと、父は、戦友との食料の奪い合いに勝利し、生き残り、実感として、生き残るためには手段を選んではならないとの思いがあったのではないか。
凄惨な考え方ですが、その凄惨に徹したからこそ、私がおり、ひいては私の4人の子供もいるのですから、容易な話ではありません。
 父の生前は知らなかったのですが、亡くなった後、母から聞いた話や父の遺品から、父が曹洞宗の血脈を受け、禅に取り組んでいたことを知りました。
 私を靖国神社に連れて行ったことをはじめとして、宗教遍歴があったのは、戦友に対する非人道的行為の贖罪の気持ち、償いようもない罪に苦しんでいたのでないかとも思います。
生前もっと優しくしておけばよかったかもしれないという後悔もわずかながらあります。

5 仏教と戦争を考えることの意義

 私は、中年になってから、禅に興味を持ち、坐禅会を周ったり、在家禅に入会したり、出家・在家の師家(禅の指導者)の室内に入って独参をするなどしていました。
 その中で、明治期以降戦時中に至るまで、多くの政治家や軍人が禅の修行に打ち込んでいたことを知りました。
 しかし、彼らのほとんどは、無謀な戦争を止めることはせず、逆に、戦争の悲惨と不合理から目を背け、戦争への協力をし続けた。
 私の入っていた在家禅の団体にも先の戦争について語ることが好きな高齢の人がいましたが、その人の語る話は、禅の修行によって高まった禅定力とやらのおかげで、戦地でも冷静に敵兵を殺害することができたなどといった話でした。
 禅を含めた仏教の実践により、判断力、精神力、人格等、人間の様々な能力が向上すると喧伝されることがあります。
 確かに、坐禅等により偏桃体の活動が低下すれば、心が落ち着くことから、その分判断力があがったり、ストレスにも対応しやすくなったり、余裕ができて、人に対しても優しく接することなどがしやすくなるのではないかと思います。
 しかし、それらの人間としての能力が格段に伸びるわけではない。
 そのことは、先の戦争に参加した多くの仏教家や禅の修行者が、その戦争の愚かさに気づくことなく、国家権力に安易に迎合して戦争に加担したことからも明らかです。
 その種の喧伝を真に受けて、瞑想等の仏教の実践と称するものにのめりこんだりする人や、喧伝することを通して、金を稼ぐような人もおり、少し頭を冷やすためにも、戦時中の仏教家や禅の修行者の言動を知っておくのもよいのではと思います。
 また、戦争中の仏教家の言動を知ると、やさしい耳障りのよいことを言う人でも、状況が変われば、言うことが変わってくるという当たり前のこともわかります。
 戦時中のそれは、戦時教学にすぎないと言う人もいるかもしれません。しかし、それは裏を返せば、現在の仏教とされるものは、平時教学にすぎないとも言えます。情勢が変われば容易に変わりうるものです。
 耳障りのよいことでも、宗教家の語ることを真に受けてはならない。
 それが先の仏教と先の戦争とから学ぶべきことであるようにも思います。


 
「山僧が人に指示する処の如きは、祇だ你が人惑(にんわく)を受けざらんことを要す(略)

 臨済がみんなに求めるところは、人にだまされるなということだけじゃ。学問にだまされるな、社会の地位や名誉にだまされるな、外界の何ものにもだまされるな、これだけだ。(略)人にだまされぬ人になれ。何ものにもだまされん人になれ。これだけが臨済のみんなに言いたいところだ。」
山田無文臨済録』(1984年)62頁)(注5)



(注1)日本以外の仏教圏における戦争協力等

 戦争や暴力の肯定は、日本の伝統仏教に特徴的なものであるように言われ、私も一時期そのように思っていたこともありますが、日本以外でも、戦争や暴力が仏教により肯定された例があります。

(1)韓国

壬申の乱(倭乱。豊臣秀吉の朝鮮侵攻)の際、勅命を受けて護国の軍を組織し、日本軍と戦ったヒュジョン(休静(きゅうじょう)。西山大師。一五二〇~一六〇四)・ユゾン(惟政(いせい)。泗溟(しめい)大師。一五四四~一六一〇)らである。とくに最後に挙げた二人は、国家存亡の危機に当っては僧も進んで「義僧」として戦場に赴くという、韓国の護国仏教のあり方を象徴する存在として忘れてはならない。」
(木村清孝『教養としての仏教思想史』(2021年)237頁)

(2)スリランカ

「2014年のダルガタウン襲撃、2017年のロヒンギャ難民襲撃など近年,仏教過激派が一般大衆を巻き込んでムスリム住民を襲撃する事件が発生していたが、2018年は、SNSを利用しさらに過激な事件が起きてしまった。
2月末、東部アンパラでシンハラ仏教徒住民とムスリム住民が衝突し、複数の商店とモスクが破壊される事件が発生した。発端は、ムスリム経営の食堂で不妊薬が混ぜられた食事がシンハラ人男性に提供されているという趣旨の動画がインターネット上に公開されたことである。(略)
スリランカ政府は,Facebook などの SNSヘイトスピーチを助長するとしてブロックした。仏教過激派によるムスリム攻撃の背景には、スリランカ国内でムスリムの人口比が増えているのではないかという懸念やムスリムの経済的台頭があるとされている」
(荒井悦代「2018年のスリランカ 大統領による前代未聞の政変」『アジア動向年報』(2019年)549~550頁)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/asiadoukou/2019/0/2019_541/_pdf/-char/ja


(注2)「随順」への着目の例

「真箇の正禅は世縁に随順して決して世縁と相違したり違反したり致しません。若し萬一、萬々一、世の中の実生活に違反したり、相違したりする様なことがあれば、それは、未だ正禅の堂奥に登らざるお人の夢路であります。――苟も正禅の堂奥に到達された御人であるならば、水に入っては水に同じく、火に入っては火に同じでなければなりません。真箇世縁に随順することが出来ますれば、坐禅をなさらなくとも、禅書を御覧になさらずとも、禅の提唱をお聞きになさらずとも、それで完全の正禅者であります。」
(菅原時保『碧巌録講演(其二)』(1937年)61~62頁)
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1102517 

(注3)ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』105頁 

「一九三七年七月、中国との全面戦争へと発展。しかしながら、外国への侵略については異論を唱えた者もいて、幅広いグループの中からは、政治家、右翼もいれば左翼もいる。(略)一九三〇年代初めから半ばまでの日本は、まだ天皇の名のもとでの軍事的、つまり全体主義的な社会に至るところまではいっていなかった。」

(注4)大森曹玄のエピソード

「私はここの寺に来てから三十年。この寺は精拙和尚が昭和十八年に建てられた。私はその時には在家のものとしてお祝いに呼ばれてきたが、まさかここに住むとは思われなかった。(略)
 私がここに来る時に檀信徒の名簿というものをもらって来た。それには三百何名の署名簿があった。皆それは偉い人ばかり。本庄大将、高橋大将、阿部大将、山本大将と、陸海軍の大将連がズラッと並んでいる。そして檀家総代の筆頭は徳富蘇峰改造社社長の山本実彦、こういう人が並んでいる。それで名簿を見て、毎日、一軒お経を読ませてもらってお布施を頂けば十分に生活できると思った。」
大森曹玄『驢鞍橋講話』176~177頁

※大森曹玄には、玉音放送がなされることを予め知ってその音源の奪取を企図した逸話もあり、当時の仏教関係者は軍や政治の実情に関するかなり正確なインナー情報を収集することが可能だったことがうかがわれる。
「(引用者注:大森)曹玄自身、平和を維持し正義を守ることこそが、日本の戦時中の行為を正当化できるものと知っていた。その理由は簡単なこと、彼こそがそうした行為の熱心な支持者であったからである。一九二七年以降は、次々に右翼団体との交わりを深めていった。代表的なものは「勤皇維新同盟」や「純正日本主義運動全国協議会」あるいは「日本主義青年全国会議」などである。
 一九四五年八月、天皇玉音放送がまもなくあることを知り、同志たちとその放送を阻止し、最後まで戦う決意であったという。いうまでもないが、その玉音放送、そしてその内容を事前に知っていたということは、相当に広範囲の情報源をもっていたことがうかがえる。」
(ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』276頁)

(注5)私は、禅籍の中では臨済録が好きですが、仏教という点では、一種自己破壊的な面のあるところです。





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