禅の修行は禅的人格を生み出せるか~瞑想と情動発現の低下

「とある禅僧に会ったところ、それまでの禅僧に対するイメージが変わった」との非禅宗系の僧侶の人のツイートを目にしました。
 元々の禅僧に対するイメージが余程悪かったのでしょうか。
 昔から、禅僧の人格に対する批判をする人は相当いることから、悪い禅僧のイメージが形成されたのではないかとも感じます(ツイートをした人の立場からすると、もっと強烈な二次情報などに触れられたのかも知れませんが)。
 日本では、禅の修行の目的は、一般的に人格の向上にあるなどと言われます。
 しかし、それでは、なぜ、それとは反対の人格的に問題のある人物が生まれてしまうのか。
 以前の記事にも少し取り上げたことがありますが、脳生理学に関する文献等に当たってみると、坐禅等の瞑想それ自体に問題があるように感じられます。
 とはいえ、私自身は、職業人、家庭人であり、中々突っ込んだ研究、というか、勉強ができず、行き詰まりも感じており、前回と同様、この際、今までのところのものをまとめてみて、ご批判・ご指摘をいただいて(ツイッターを使用しており、@nichijohe宛にDMを送信していただければ幸いです)、それを端緒にして補充したいと思い公開することと致しました。



本稿の構成

1 禅的人格と矛楯する禅僧の存在
2 扁桃体の活動低下による情動発現の低下~そのメリットと人格的な問題の生じる機序
3 (補論1)上座仏教における悟りと瞑想実践における問題
4 (補論2)坐禅否定の系譜



1 禅的人格と矛楯する禅僧の存在



 一般的に、日本の禅宗では、禅は何らかの人格の向上を目指すものだとされ、具体的には

「否定的で消極的な空論を突破し、自由な境地を確立して
≪現実に利他活動を自在に実践≫
できること」

であるなどとされます。(注1)(注2)
 しかし、禅僧については、理想とされる利他的な性格とは異なる人格的に問題があるとの指摘がよくなされます。
 たとえば、小説家の司馬遼太郎は、京都の支局に勤務していた新聞記者時代をふり返り、次のように言います。


  
「新聞記者をやっていたころ、職業上の必要から
禅宗の坊さん≫
にずいぶんと会いましたけれども、何人かをのぞき
≪これは並以上に悪い人間じゃないか≫
と思うことが多かったです。」
司馬遼太郎『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』(1971年)65頁)



 また、久松真一の許で禅を実践し、禅淨双修を唱えた西山浄土宗法主藤吉慈海も、禅の修行者の人格的問題を取り挙げます。



「禅は、徹底的に否定道を行くので、自己の煩悩を断じ、大智と大悲にめざめんとする。徹底した大悟の人においては、この大智と大悲が完全に調和して、人間の真のあり方を自ら示してくれるが、なかなかそこまで徹底する人はすくない。とかく個性的な性格をそのまま発揮して
≪ひとりよがり≫
になってみたり
≪高慢な性格≫
を助長したりする。そして、一般には智慧の面は深くとも
≪慈悲の面に欠け≫
がちである。」
(藤吉慧海『禅と浄土教』(1989年)101頁)



 さらに、臨済宗の師家をしていた秋月龍珉(注3)は、公案過程を終了した者に対するものですが、次のような論評をします。



「正直に告白すると、著者は公案禅というものに対して深い疑いをもった時代がある。それは、公案体系に参じて大事了畢したと称する者について、その行裏(あんり。行ないの後の意)を見ると、そこにやはり煩悩の習気(じっけ。残り香の意)が、自我の分別が、明らかに見て取れるからである。そこには、いみじくも外国の好人が言ったように
≪「鼻もちならぬ禅臭」≫
があって
「無我」であるはずの仏道を「大我禅」≫
に落としてしまっている(略)
 公案だけではたして
≪本当に禅的人格が練出されるだろうか。≫
 世のいわゆる大事了畢底なる人々を見て、私はそうした深い疑いを抱いた。」
(秋月龍珉『公案』(1965年)333~334頁)


 
 利他活動を行う高度な人格者、それを目指し、実践の体系が作られているはずなのに、なぜ、それとは矛楯する人格を有する者が生まれてしまうのか。
 特に、秋月龍珉の批判は、臨済禅の修行を一応完了(大事了畢)した者に対するものですから、そもそも実践自体に問題があることになりかねないものです。
 このような矛楯する結果が生じる要因は、日本の禅宗の修行の中核に据えられる坐禅それ自体にあるのではないかと考えています。


 
2 扁桃体の活動低下による情動発現の低下~そのメリットと人格的な問題の生じる機序



 一連のブログで繰返した話ですが、坐禅等の瞑想が、うつ病等の心の問題に有効となる機序の一つとして、呼吸を緩慢にすることで呼吸回数が低下すると血中二酸化炭素濃度が上昇して、不安感を司る脳の扁桃体と呼ばれる部位の活動が低下し、この結果、うつ傾向の改善が図れるというものがあります。

【参考】扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342
 
 この扁桃体の活動ですが、活動する場合には不安感が生じる以上、活動が低下するほどよいのかといえば、そうではなく、その活動が障害されると、情動発現の障害が生じると言われます。



「≪扁桃体を損傷≫
された動物およびヒトは,生物学的価値評価に基づいた
≪情動発現が障害≫
され,過去の記憶に基づき,自己に利益をもたらす可能性のあるものに対しては快情動を,逆に,不利益をもたらす可能性のあるものに対しては不快情動を発動することができない。」
(西条寿夫,堀悦郎,小野武年「ストレス反応の身体表出における大脳辺縁系視床下部の役割」『日薬理誌』126号(2005年)185頁)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fpj/126/3/126_3_184/_article/-char/ja/

「情動における脳機能では,扁桃体が情動記憶の形成と価値判断においてシステムの中心といわれている(略)。
扁桃体の機能障害があること≫
が(略)残存している認知症高齢者の
≪情動に何らかの影響≫
を及ぼしていると考える。」
(占部美恵「認知症の看護~脳の残存機能を活かしたBPSDへ対応を目指して~」『京府医大誌』(2012年)121号)

扁桃体は、不安や恐怖などの感情を感じた時に活動することが知られています。過度な不安や恐怖が症状であるうつ病、不安障害やPTSDといった精神疾患においては、扁桃体の活動が過剰であること知られています。反対に
統合失調症自閉症に認められる感情や対人コミュニケーションの障害が扁桃体の活動の低下と関連≫
していることも知られています。」
独立行政法人 放射線医学総合研究所分子イメージング研究センター 菅野 巖 センター長ほか「感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明」(2011年))
https://www.jst.go.jp/pr/announce/20100224/index.html



 1番目と2番目の記述は、扁桃体の損傷や機能障害に関するものですが、ここからは、扁桃体の機能が低下しすぎれば、感情の表現ができにくくなるものと推測されますし、最後のものも、扁桃体の活動の低下と感情の障害に何らかの正の関係があることをうかがわせます。
このような扁桃体の活動の低下と感情の低下との間の正の関係から、坐禅等の瞑想により扁桃体の活動が低下すると、感情表現ができにくくなり、他者とのコミュニケーションに当って、適切な感情表現ができにくくなることが推測されます。
 上座仏教における悟りの内容は、貪・瞋・癡の壊滅とされ(注4)、最後の癡は少し毛色が違いますが、前2者は、欲求、そして、怒りという感情を問題とするところ、坐禅等の瞑想に興味を持つ人は、自分の過剰な感情に振り回されて負担に感じていると思われる人が少なくないように思われ、このような人にとっては、自分の感情が出にくくなっていくことは、心を楽にするものといえます。
 このような効果の期待できることからすると、自分の感情の制御に困難があり、これを鎮めたい人にとっては、坐禅等の瞑想をすることは合目的性があると思います。
 また、感情に振り回されている状態から穏やかになるのであれば、他者とのコミュニケーションも相対的に円滑になるものと思われ、禅的人格の形成と結びつき、坐禅を実践することの合目的性も認められるといえます。
 坐禅等の瞑想に嵌まる人は、このような実際上の効果を感じることから、はまり込むのではないかと思います。
 しかし、それで気を良くしてやり過ぎ、ある限界を超えてしまうと、感情表現に支障が出る可能性があるといえるように思われます。
その上、感情表現に支障が出ると、他者の感情が読み取りにくくなるものとされています。
 この点、池谷裕二『脳には妙なクセがある』に美容製品の「ボトックス」に絡めながら次のような話が記載されています。



「美容に興味のある女性であれば、ボトックスをご存知でしょう。肌の老化を防ぐとされる魔法の物質です。
実際には、ボトックスは食中毒の原因として知られるボツリヌス菌の毒素です。この食中毒は、症状が軽微な場合は四肢の麻痺ですみますが、ひどい場合は呼吸ができず死に至ります。つまり、ボトックスは筋肉を弛緩させる作用があるのです。
 この毒素を顔に注射すると、顔面筋の動きが鈍りです。だからシワができにくくなります。これが老化予防の原理です。表情が乏しくなるという欠点はありますが、美貌の劣化を恐れる富裕層や芸能界を中心に広く用いられています。
 そんなボトックスの効果に関して、南カリフォルニア大学のニール博士が、興味深いデータを報告しました。ボトックスを使用すると、相手の感情を読みにくくなるというのです。(略)
 ニール博士はこのデータを「無意識のうちに相手の表情を模倣しながら、相手の感情を解釈している」と説明しています。
池谷裕二『脳には妙なクセがある』(2013年)136~137頁)

 

 このようなことからすると、坐禅等の瞑想を繰り返すうちに、適切な程度に感情が鎮まってくる程度を超え、これが過剰になると、自分自身の感情表現に支障が生じ、同時に、他者の感情の理解にも支障が生じてくることから、状況に応じた適切な感情表現ができにくくなり、コミュニケーションに支障を生じるものと推測されます。
 これが禅の修行をする人達に却って人格的な問題が生じる機序になるのではないかと思われる、ということが今の所までで考えていることです。
 日本の禅宗を含めた大乗仏教の世界では、「煩悩即菩提」と言われ、これも多義的な概念ですが、感情が失われていくことによるコミュニケーション上の支障の生ずることへの警戒の趣旨であれば、理由のあるものと思われ、臨済宗建長寺派管長であった菅原時保の次の話も、このような文脈で言ったとするなら、素直に首肯できるところです。

「元より本性は無病健全である。然るに可愛いと云うそれを煩悩と思い、憎いと云うそれを煩悩と思い、ほしい、おしい、と云うそれを煩悩として、それらの一切を断じよう、除こう、払おうとする、ぞれぞれが抑々(そもそも)病気の上の病気である。煩悩即菩提であると云うことを知らずして是等の煩悩病を全快させんが為に頻りに真如を求むるが、是又大なる迷いである。」
(菅原時保『碧巌録講演(其二)』(1937年)58~59頁)
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1102517



3 (補論1)上座仏教における悟りと瞑想実践における問題



 先にも述べたとおり、上座仏教における悟りは、貪・瞋・癡の壊滅とされますが、この現象も、長時間の瞑想による扁桃体の活動の極端な低下に伴い、情動発現が極端に低下したものと考えれば、合理的なものとして説明できそうです。
 癡は、すなわち、愚癡は、「根源的な無知であって、ものごとをありのまま(如実)に知見できないこと」だとされますが(注5)、情動発現が低下し、外部情報を感受したときの感情的な反応が低下したことを、「ありのままに知見した」と感覚することであると考えられ、この点も、整合するように思われます。
 さらに、興味深いことは、このような情動発現が低下することによる問題と思われる現象については、上座仏教系の瞑想指導者からも述べられていることです。



「苦しみから抜け出そうと瞑想をしているうちに体調を崩したり、抑うつ感、絶望感や自己嫌悪感を感じるようになったり
≪人間関係がぎくしゃくするようになったり≫
なかには、統合失調症離人症
≪感情障害≫
摂食障害のような不調をきたす人もいる。」
(プラユキ・ナラテボー「ピュア・マインドフルネスと瞑想」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』(2018年)70頁)



 情動発現の障害との関係では、「人間関係がぎくしゃくする」、「感情障害」などの指摘を興味深く思います。
 また、上座仏教の瞑想実践により、日常生活への不適合をもたらす例に関しては、リトリート(合宿)形式の瞑想会に関するものとして、次の指摘があります。



「リトリートの参加者たちの中で、そこでの経験を瞑想センターの外での日常生活に、どのように繋げていけばいいのかという点に関する困難を、多かれ少なかれ感じた人は多かったようです。実際の所、日本で瞑想をしている実践者にも、同種の困難を感じている方々は多いと思います」
(プラユキ・ナラテボー、魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』(2016年)70頁)

「集中的なリトリートのみに偏った修行法が日常生活との乖離感をもたらしやすい」
(プラユキ・ナラテボー、魚川祐司前掲書73頁)



 リトリートのような長時間の瞑想を集中的に行う実践に関し、日常生活への不適合が生じやすいという指摘についても、長時間の瞑想により、扁桃体の活動が低下しすぎ、感情発現の障害が生じ、日常的なコミュニケーションに支障が生じるなどしているのではないかと考えると納得がいきます。
 おそらく坐禅等の瞑想を続けるうちに、やり過ぎて、日常的なコミュニケーションに支障の生じる状態になると、日常的にストレスが貯まりやすくなることから、更に瞑想をし、そのことによって、情動反応が低下して、日常的なコミュニケ―ションが更に上手くいかなくなりなどといった悪循環を来すのではないかと思われます。
 かつて、上座仏教系の瞑想をする人たちとも付き合いがありましたが、その自主瞑想会に行くと、5~6時間くらい、ひたすら坐位の瞑想や歩行瞑想を繰り返す人が少なからずいて、当時は、長く坐禅等の瞑想をやることに価値があるように思っていたので、感心したのですが、同時に、彼らの中には、相当程度、出家志向の人がいることに興味を惹かれました。
 
 振り返って考えると、過度の瞑想により、扁桃体の活動が過度に低下したことから、コミュニケーション上の支障が生じ、ストレスが貯まり、更に瞑想をするようになりといった悪循環の中で、一般社会の中で生きづらさを感じるようになって、一般社会以外の同じ考えを持った仲間たちの中だけで生活したいというような気持ちになってしまうこともあり得るのではないかと思います。



4 (補論2)坐禅否定の系譜



 禅というと日本人の多くが、坐禅等によって特別な境地に行くものであると考えることが多いかと思いますが、日本の禅宗の理想とされた中国唐代の南宗禅(注6)と呼ばれる系譜では、坐禅のような実践を否定することが主流でした(注7)。
 このような坐禅否定の系譜は、日本仏教にも古くから存在し、聖徳太子が著したと伝えられる法華義疏にも認められるものとされます。



「太子の思想ということになれば、ここでどうしても『三経義疏』について触れなければならない。(略)
法華経の)安楽行品の「常好坐禅」という一句の解釈はきわめて興味深いものである。すなわち、ここでは経の本文はもちろん、法雲などの解釈も「常に坐禅を好め」という意に解しているが、『義疏』ではあえて異をとなえ
≪山中で坐禅ばかりしているような修行者は小乗の禅師であり(「常好坐禅少(小)乗禅師」)、菩薩が近づいてはならない十種の対象(十種不親近)の一つとみた≫
のである。」
末木文美士『日本仏教史』(1992年)38~40頁)(注8)



 法華義疏聖徳太子の著したものであるかは議論があり、ネットで少し調べたところでは、消極的な見解が有力なように見えますが、それをさておいても、仏典を無批判に輸入したような印象のある時代に、その内容について、批判的な検討を加える人がおり、それが有力な見解として受容されていたことは、素直に感心するところです。
 唐代南宗禅や仏教伝来初期から見られる坐禅否定の系譜には、古くから、坐禅によって、却って問題を生じた人が少なからず存在していたからではないかと思え、理由があるように感じます。



本文以上



(注1)阿満利麿「近世日本における<現世主義>の成立」『日本研究』9号(1993年)58頁
https://nichibun.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=881&item_no=1&page_id=41&block_id=63
 前記論文の記述が一番まとまりがよかったことから、用いました。ほかに次のような類例があります。

(1)鈴木大拙鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』(序によると1935年が初出のようだ)157頁
「禅堂生活は、空の真理が直覚的に把握せらるる時に終了すると考えられるばかりでなく、この真理が、あまたの試練・義務・紛争に満ちた実際生活のすべての方面において実証せらる時、そしてまた雨が悪者善者のわかちなくこれにひとしく降り注ぎ、あるいは趙州のの石橋が馬・驢・虎・豺(さい)・亀・兎・人間などのすべてのものを渡すと同じしかたにて
大慈悲(karuna)の心を生ずる時に、終了する≫
と考えられる。これこそは人が地上において成就しうる最大の修養である。そしてこれを何人もよくなしうるものではない。しかしながら、われわれが全力を尽して菩薩の理想接近しようとするぶんには、何らの害はない。もし一生にして足らずとするならば、千万劫の未来世に望みをかけてもよかろう。かかる理想のあるものを確固として会得する時、僧は禅堂を辞去し(略)、世界という大社会の一員として、その仲間の中に投じ
≪実際生活を始める。≫」

(2)藤吉慈海『禅と浄土教』(1989年)146頁
「もともと禅は智と結びついたもので、禅定の深まりと共に智慧も明らかになるべきはずのものである。禅定によって得られた智慧は、大悲の働き出る根本となるものである。智体悲用といわれるように
智慧が主体となって慈悲の働きをおこす≫
ものである。」

(3)飯田欓隠『通俗禅学読本』(1934)57~58頁
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1035149
「理想が実際に具体化せし時、著しく人格に変化がくる。つまり人我(にんが)のへだてがなくなる。(略)人我のとれた著しき徴候は腹の立つと云うことがなくなる。人(自己)法(萬物)二空と体達する時宇宙即ち全自己なることが此の身に立証さるるから相手を認めぬ
≪真の愛が沸出≫
する。」



(注2)今、目にすることのできるものには、(注1)で示したようなことが書かれてあることが多く、それを前提にして記述しました。
私自身「仏教は慈悲を以て主旨とする」との釈宗演の言葉(釈宗演『一字不説』(1909年)2頁)に傾倒していた時期があり、このような考え方を好ましくは思うのですが、公平に言って、“本来的に”禅が社会内で利他的な行為をする人格を目指すものであったのかということについては、若干の疑問があり、このような考え方は、明治期にキリスト教、特にプロテスタントへの対抗上、作られた比較的新しい考え方なのではないかと思っています。
 例えば

「伝統的な立場に立つ明治の禅匠にとって「禅」はあくまでも実践であり、一人ひとりが室内で究めるべき領域に属していた」
(ミシェル・モール「近代「禅思想」の形成」『思想』943号(2002年)48頁)
https://scholarspace.manoa.hawaii.edu/bitstream/10125/41056/Mohr_article_JPN_2002.pdf

とされることからすると、「現実の利他活動の自在な実践」が直截に出てくることは難しいように思われるのです。
 また、「明治以降キリスト教への対抗上出てきたアイディア」と考えるようになってきた大きな理由として、ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争』の以下のような記述があります。

「小栗栖(香頂・おぐるすこうちょう)は(略)「東本願寺の僧たるものは貧民への手助けを布教活動の手段とするべし」と主張。(略)こうした考えの一つのきっかけは、プロテスタントの慈善事業からくる脅威を知ってのことだった。仏教の指導者たちは、いつもながらキリスト教の教理を軽薄なものであると攻撃しつづけたが、彼らの慈善事業は改宗させるためにもっとも効果的であるとことを認めざるを得なかったのである。
 釈宗演はこの論争に加わり、貧民のための学校や病院、更生施設を設立している。」
(ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア(エィミー・ツジモト訳)『禅と戦争』35頁)

「(日露戦争における)仏教者側の戦争の支持にかかわらず現実的な戦争における慈善活動、たとえば負傷兵の手当、戦死者が残した遺族の貧困の手助けをして指導的な活動を始めたのは、日本のキリスト者たちであった。このような形でキリスト者がみせつけた愛国心は当然、世論には好意的に映ったものである。(略)だが、仏教の指導者たちの立ち遅れた鈍い反応ゆえに愛国心の欠乏は批判の的となった。」
(ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア前掲書39頁)

 このように日露戦争の時点でも、禅宗を含む仏教の指導者が、慈善運動の立ち後れを批判されていたことからすると、元来、社会内での利他活動をすることは目的とはなっておらず、日露戦争などにおける世論の批判を受け、(おそらく「大機大用」の概念などと関連付けて)社会内での利他活動をしていくことを目的として挙げるようになったというのが正確なところではないかと感じます。この筋の話も調べてはいるのですがよく分からず、ご存知の方はご教示していただければ幸いです。



(注3)秋月龍珉の印可は、在家者である苧坂光龍から得たものであることから、臨済宗の出家者の間では、評価が低いようです。
 ただし、この話を私にしてくれた臨済宗の出家者の師家(禅の指導者)は、「在家禅などは無視して相手にしないのが普通だが、秋月龍珉先生は、出家者から繰り返し攻撃されていた。その意味では、叩かないといけないと思わせるだけの力のあった人のだと思う」と評していました。
 また、「現代相似禅評論」や「公案解答集」ほどではないにしろ、公案の真正の見解に触れた秋月の著作である『公案』に序文を付されたことなどに見られるような鈴木大拙の後立てのあったことや、東洋大学学長の竹村牧男が参禅していたことなど踏まえると、臨済宗の水準で見識のあった人なのではないかと思います。



(注4)魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』(2015年)42頁
 なお、人格との関係では、「ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろ社会の維持に欠かせない労働と生殖を否定し、そもそもその前提となる「人間」とか「正しい」とかいった物語を破壊してしまう作用をもつ」(同書63~64頁)ものであるとの指摘は、釈尊の本来の教説とされるものの論評としては適切だと思います。


 
(注5)魚川祐司前掲書42頁
 


(注6)日本禅宗の理想としての唐代南宗禅の類例

「大鑑慧能(六三八~七一三)は、六代目を継いで、現在に至る禅の思想的基盤を確立したとされています。
 その思想的特質は、自分自身の「自性(仏としての本質)」を明確に把握すれば、それがそのまま悟りであるという、徹底的な自己肯定にあります。自分自身に気づきさえすればよいので、気づいた瞬間が悟りとなります。これが「禅思想の基本」でも述べた「頓悟(瞬時の悟り)」の思想です。この教えは、慧能のところで確立されたものなのです。」
(石井清純『禅問答入門』(2011年)51頁)

「馬祖大師は六祖已後に於ける禅海の第一人者であつて、禅宗と云ふ宗旨を高くを天下に宣揚し、眞個の衲子(のうす)を打出すると云ふことに力めた人で、少なくも今日の禅宗からは、馬祖大師を以て一大恩人として尊崇しなければならぬと思ふ」
(伊藤古鑑「馬祖大師の禅」『禅学研究』26号(1936年)9頁)
https://hu.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=25&block_id=79&item_id=607&item_no=1

「何というても宗門では、この(臨済義玄の語録である)臨済録が背骨である。この臨済録をよく拝読して、会得しておかんというと、臨済下の衲僧ということは言えんはずである。」
山田無文『碧巌録』(1983年)i頁)



(注7)唐代南宗禅における坐禅修行の否定

1 慧能関係

 禅の世界では、慧能を六祖として重視しますが、この慧能の伝説を作り上げ、六祖ならしめた荷沢神会が座全否定へと向かいます。

「南宗禅の神会が極力排斥したのは、北宗禅が「心を凝らして定に入り、心を住(とど)めて浄を見、心を起こして外を照らし、心を摂(おさ)めて内に  証す」と唱えたことである。この「心を凝らして定に入る」というのは、ほかならぬ坐禅の法をさしている。神会がこれを否定したことは、坐禅を根本的に否定したことを意味する。(略)
 では、なぜ神会は坐禅を否定したか。胡適によれば、老荘の自然哲学は禅学に大きな影響を与えている。とくに南宗禅ではその傾向が強い。神会は馬択との問答のうちで、次のように述べている。
「僧が因縁ばかり言って、自然を言わないのは、その誤りである。僧家での自然とは、衆生の本性をさす。経にも、『衆生には自然の知、無師の知がそなわっており、これを自然という』とある」
 ここにいう「自然の知」「無師の知」とは、いうまでもなく人間が学修を俟たず、自然にそなえている知をさす。このような自然の知、無師の知があればこそ、学修を待たずに一挙に悟ること、すなわち頓悟が可能となるのである。逆にいえば頓悟説の根拠には老荘的な自然主義があるということになる。
 このような自然の重視の立場にたつ神会は、真理を悟るための修行としての坐禅を否定せざるを得ない。なぜなら努力をともなう修行は有為であり、不自然であるからである。」
(森三樹三郎『老子荘子』(1977)396~397頁)

2 馬祖、臨済関係

「「道は修証(しゅしょう)を用いぬ」という考えがある。唐の馬祖、百丈、黄檗臨済といった人びとの説である。修とは、修補の意。欠けたところをつくろい、本来の完きにかえすことである。証とは、修の完成、つまり本来の完きにもどって、もはや修が無用であることの証明である。(略)
 本来完全で、どこも欠けたところがないのに、何を修補するというのか、病めば薬を必要とするけれども、病まねば薬は無用である。薬によって健康に復しても、本来以上に何かを増すわけではない。迷わねば、悟る必要はない。迷いとは、本来の自分を見失っただけのことで、本来に還ったところが、悟りである。はじめから見失わなければ、あらためて悟るには及ばぬ。(略)
 煩悩対治の禅定に、初期禅宗の人びとが強く反対するのは、それが新しい繋縛となるためである。」
(柳田聖山『禅と日本文化』(1985年)157~158頁)

「修行を不要とし、あたりまえの日常をありのままに肯定する、そうした考えを馬祖系の禅者たちは「平常(びょうじょう)」「無事」などの語で表現した。「平常心」とは何かと問われた長沙景岺(ちょうけいしん)(生没不明)は「眠ければ眠り、坐りたければ坐る」と答え、それでは解らぬとの問い返しに、なお平然と「暑ければ涼み、寒ければ火にあたる」と答えている(略)。さらに臨済義玄の「無事これ貴人、ただ造作するなかれ、ただこれ平常なれ」の語や、次に引く「随処に主と作(な)る」の一段などは、いっそうよく知られたものであろう。(略)
 外に求めることなく、ただあたりまえにクソをし、小便をたれ、服を着、飯を食い、眠くなったら横になるだけ。そのように「平常」「無事」であれ、と臨済は言う。すでに(略)ふれたように、「随処に主と作る」という有名な一句も、もとはこのような文脈で説かれたものだったのであった。」
小川隆『中国禅宗史』(2020年)212頁)

3 私見

 私自身は、馬祖や臨済などといった唐代南宗禅の考え方を好ましいと思っています。
 社会の多くの人は、特別な教義や実践などなしにきちんと人生を送っているのですから、うつ等の心の問題などの特別な事情がなければ、本来的には、特別な教義や実践は不要なことは当り前の話だと思うからです。
 このような考え方が、私の独自のものであればうれしいのですが、凡庸な考え方の一つで、たとえば、仏教一般についてなら、佐々木閑は、「仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。(略)病気でない人には全く必要ありません。」(佐々木閑『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』(2012年)29頁)と言います。
 また、禅の関係ですと、次の『二入四行論』を踏まえた柳田聖山の話がまとまっています。
 
「ある人が顕禅師にたずねた、「何を薬というのです」
 答、「一切の大乗は、病気に対する応急処置にすぎぬ。心そのものが病気を起さなければ、どうして病気に対する薬がいろう。有という病気に対して空無という薬を説き、有我という病気に対して無我という薬を説き……、迷いに対して悟りを説く。これらはすべて、病気に対する応急処置である。病まぬのに、どうして薬がいろう」

 顕禅師もまた伝記の判らぬ人だが、その主張は縁法師と変わらぬ。(略)病まぬのに、薬はいらない。病まぬ人に薬を与えるのは、わざわざ病人をつくるようなものだ。心が起らぬのに、強いて心を起すにひとしい。われわれは、とかく病を実体化しやすい。病を実体化することから、薬の実体化が始まる。(略)病の実体化することの危うさは知りやすい。薬を実体化することの怖さは気づきにくい。」
(柳田聖山『禅思想』(1975年)37~38頁



(注8)自力的行の否定については、日本では、親鸞が一つの典型かと思いますが、いわゆる六角堂での夢告に現れるのが聖徳太子というのも、法華義疏における坐禅の否定という観点からみると、何かの意味付けがあるようにも思ってはいるものの、これも勉強が行き詰まっています。どなたかご存知の方がいれば、ご教示をいただければ幸いです。





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