求道っぽいことをしていた頃~上座仏教と大乗仏教とを統合したという瞑想指導者編

 一時期、色々な瞑想会や坐禅会を巡っていたことがありました。
 四十代になり、中高年の孤独に問題意識を感じるようになって、仕事と家族以外での人間関係を構築する上で、今更一から新しい趣味を始めるのも何であるし、坐禅なら座っているだけだから手軽であろうということから始めたのです。
友達作りを兼ねて始めたものでしたから、色々な所にお邪魔しました。

 その中で、曹洞宗の施設で行われるものなのですが、指導者が在家という珍しい坐禅会があり、その指導者の人から興味を持っている坐禅・瞑想の指導者を4人教えてもらいました。
 その後、半年ほどの間に、その4人と会いました。
 そのうち3人は人間的にも魅力があって、一人とは今でもリアルの付き合いがあり、一人とは年賀状のやりとり程度の関係が続いています。

 しかし、4人のうち1人だけ、反面教師的な人がいました。
 その人は、上座仏教と大乗仏教とを統合した瞑想指導をするとのことで、前記4人のうちの別の一人とも共著者になっている本があることなどから、信頼できる人であろうと考え、その主宰する瞑想会に参加したときのことについて、整理をしてみたのが本稿です。

 この瞑想会に参加したことが、瞑想の効果を実感させると共に、その問題点をも実感させることとなり、瞑想について深く学ぶ大きな切っ掛けとなりました。
 結局、私は、坐禅や瞑想について、マニアックにやるのではなく、健康法としてライトに行い、また、瞑想会や坐禅会を巡って知り合った人達の多くと距離を置くようになるのですが、その結果を結びついた様々な要因の中でも、大きなものの一つが、この瞑想会に参加したことでした。

 書き始めてみると、未だ整理のつかない点が多いとわかったのですが、今の内容で公開することで、ご批判・ご指摘をいただいて(ツイッターを使用しており、@nichijohe宛にDMを送信していただければ幸いです)、それを端緒にして補充したいと思い公開することと致しました。




本稿の構成

1 瞑想会への参加1回目
2 1回目の瞑想会の後に起きたこと
3 瞑想会への参加2回目
4 体験の解析1~「世界の画素数が上がって見える体験」の機序
5 体験の解析2~瞑想と暗示
(1)瞑想における暗示の効果
(2)参考としての自律訓練法
(3)まとめ



1 瞑想会への参加1回目



 その瞑想会の場所や日程については、指導者の名前をネットで検索した所、瞑想会のサイトがわかり、その日程に合せて行きました。事前予約は必要なかったように記憶しています。
 この瞑想会には、2回参加し、1回目は午前7時頃から始まり、2回目の開始は午後1時過ぎ開始だったのではないかと記憶しています。
結局、私は、2回目で不穏なものを感じ、行くことをやめました。

 料金については、ずっと続ければどうなるのかはわかりませんが、2回とも任意のお布施を専用の箱(お菓子の缶か大きめの箱の類だったと記憶しています)の中に出す方式で、その点は、良心的でした。
 その後、瞑想指導者の茶話会での話から、自己顕示欲の強い人であることが窺えたので、瞑想指導の目的は、お金儲けというよりも、自尊心の満足にあるのだと感じました。1回目のとき、私よりも、先に来ていた人が千円を出していたので、私は1回目も2回目もそれぞれ千円を出しました。

 瞑想会の具体的な内容ですが、最初は、足に意識を向けながら近くにある海岸まで行って戻ってくる歩行瞑想でした。
若干早足であったように記憶しています。
 途中、海岸を見下ろす展望台と、海岸近くの磯の2か所の3か所で、「海から来る風を感じましょう」といったようなことを言われて、5分弱程度立ち止まる場面がありました。

 戻ってきた後は、前屈や割坐等の真向法にヒントを得たと思われる軽い体操を5分間ほどやりました。
 細かい所ですが、膝頭や膝の裏をよく揉むように言われたことが、ほかでは余り聞かない指導で、私は、坐禅をするときは結跏趺坐をするのですが、それまで長時間坐っていると膝に痛みを感じることがあり、確かに、言われたとおりに膝頭とその裏を予めよく揉んでおくと、膝の痛みを感じにくくなるので、このことはその後も実践しています(尤も、今は朝30分間程度しか坐禅はしないので、余関係ないかも知れません)。

 体操の後は、坐禅のスタイルになって、瞑想指導が開始されました。
 最初は、どちらかの手のひらに意識を向けるように言われます。
 そうしていると、手に軽いしびれと温かみがしてくるのですが、そのうち、その感覚をを両手の平、両腕、肩等に広げるように言われるので、指示されるまま意識を言われた場所に向けていきます。
 おそらく指示されるままに行うという受動性が重要なのでしょう。
 今考えると、ボディスキャンの一種だと思います。
 このときの感覚は確かに面白く、更にとにかく楽でした。
 途中、慈悲の瞑想なども含みながら、全体では、2時間弱程、座位で瞑想をしたはずなのですが、全く疲れを感じませんでした。
それまで、坐禅をしていても、どうしても頑張るようなところがあったのですが、このときはとにかく楽で、「安楽の法門」という道元の言葉が本当のことであるように思われました。

 ただ、最初に違和感を抱いたのは、瞑想中の指導者の言葉でした。
 2回目も同じだったのですが、彼は、瞑想中に、法話の類をします。
 その際に、彼は、「幸せな世界に行きましょう」ということを言いました。 
 当時、私は、幸福も不幸もありのままに受け入れるという禅の世界でよく言われる言葉にシンパシーを感じており(注1)、「幸せな世界に行こう」などというのは、到底、禅的なこと、仏教的なことだとは、思えませんでした。

 午前11時頃には、瞑想指導は終了し、その後、1時間30分から2時間ほど茶話会がされました。
 この指導者は、色々な人と議論をして論破することが好きらしく、その論破歴を話した後(本人の話だけなので実際にどうかは不明)、その日の直近では、非二元系の瞑想指導者と議論をして論破したとのことでした。
 少し幼稚な話をするなと思ったのですが、知識的には面白かった上、何よりも、瞑想時の楽さが際立っており、茶話会が終わった後は、気持ちよく帰りました。



2 1回目の瞑想会の後に起きたこと



 その瞑想会の効果と思われることは、会場(平屋の普通の家ですが、実親に出資してもらい建てたとのことだったと記憶しています)を出て、近傍の駅に歩いて帰る途中に起こりました。
 周りの景色を見ると、全てのものの画素数が上がったかのように鮮明に見えたのです。
このようなことをそれまで坐禅の時に体験したことはなく、初めての体験でした(その想定される機序については、後記4を参照)。

 次に起きたことは、それまで読んでも意味のわからなかった禅関係の本の意味が、突如として、わかるようになったことでした。
今ふり返って考えると、理屈は抜きに、禅書に書かれている言葉が文字通りそのとおりであると思い込むような感覚でした(その想定される機序については、後記5を参照)。
 このようなことは、1週間ほど続きました。
 当時は、それまでの坐禅をしてきた効果ではないかとうれしくなりました。
 特に、このようなことが起きる直前には本稿の瞑想会に参加したことがあり、先にも述べたとおり、瞑想会の直後、世界の画素数が上がって見えるような体験などをしたほか、それまで坐禅をするときに感じなかった安楽さもあり、指導者の人格については疑問に思う点もありましたが、瞑想指導は優れているのではないかと考え、2週間ほどしてから、私にとっては、2回目の瞑想会に参加しました。



3 2回目の参加



 このときは、先ほども述べたとおり、午後1時頃からの開催だっという記憶で、基本的な流れは前回と同じした。
 ただし、参加者にヨガをやる人がいて、このときは、その人の指導で、真向法にかえて、ヨガのアーサナをいくつかやりました。

 このときのことで、特に印象に残っていることは、瞑想中の法話です。
 内容は、前回の茶話会で、指導者が批判していた非二元論の人がしていたという話と同じ話で、批判していたことと同じ話をする矛楯に、大変な違和感を抱きました。
 前回は、指導者の指示に従うまま瞑想をしていたのですが、このときは、このままその話を聞いていたら、指導者のいい加減な話がそのまま自分にすり込まれるのではないかという恐怖感を抱きました。
 私の表現力不足ですが、何か脳に、私が思ってもいないような観念がすり込まれるのではないかという恐怖感が生じ、結局、前回ほどは、楽な感じはしませんでした。

 その後の茶話会のとき、指導者の人は、元々曹洞宗坐禅道場で修行をしていたけれども、摂心では、最後酒を飲んで騒ぐだけで、その時の彼の指導者に人生に関する質問をしたが、何も答えてはくれなかったなどと言っていました。
 この点は、一般的な禅の見方からすれば、疑問に感じました。 
 その上、般若心経のこれまでの解釈は間違いで、本当の解釈は私が以前解説したとおりのものだといったようなことも話していました。
 般若心経などは、散々何人もの研究者によって研究されているもので、それについて、今更、新しい本当の解釈を見出したなどという話は誇大妄想に思われました。
 前回の論破の話と合わせ、自己顕示欲の充足が目的で瞑想会を主催しているのではないかと感じました。

 一番違和感を抱いたことは、何人か常連の参加者がいるらしく、前回見かけた人も何人かいたのですが、法話の話が前回の話と矛盾することを指摘する人が誰もいなかったことでした。
 参加者は2回とも15名ほどいて、常連と思われる人も少なくないようでしたが、瞑想会や坐禅会をいくつか回る中で、本稿の瞑想会にいる人達が一番信者的雰囲気を醸し出していて、生理的な違和感を抱きました。
 おそらく2項で取りあげたような体験をして、彼のことを「本物だ」と思った人達なのだと思いますが、同時に、瞑想指導が優れており、かつ、参加費も良心的であるにもかかわらず、2回とも参加者が十数名程度に止まっていた理由は、常連の人達の信者的な雰囲気によるように思われました。

 2回目の瞑想の時に、感じた自分の脳に何らかの思考がすり込まれるような感覚とそれに対する拒否感、他の参加者の信者的雰囲気。
 この瞑想会に参加し続けることには、問題があるのではないかと感じ、結局、2回目を最後にして、この瞑想会に参加することはやめました。

 この辺りから、瞑想に対するある種の危険性も感じるようになり、瞑想の副作用に対する興味も湧いてくるようになりました。

【参考】「【参考資料】瞑想の副作用」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/14/210348



4 体験の解析1~「世界の画素数が上がって見える体験」の機序



 洗脳されるのではないかという恐怖感を抱いたことから、瞑想会の参加は2回に止まったのですが、その時の体験のことについては、生理学的に説明ができるものではないかと思っています。

 まず、「世界の画素数が上がる体験」についてですが、これは扁桃体の活動の低下と関わるものと思います。

 詳しくは、当ブログの記事

扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342

のうち特に2項を参照していただければと思いますが、坐禅・瞑想の際に、呼吸回数が減少し、血中二酸化炭素濃度が上昇すると、脳の不安感を司る部位で ある扁桃体の活動が低下し、不安感が解消する方向に向かいます。
 これが、坐禅や瞑想等が効果を発揮する主要な機序と考えられますが、この扁桃体の活動は、精神障害と関連します。
 典型的な精神障害として、うつ病統合失調症とが挙げられますが、扁桃体が過剰に活動しているのがうつ病といえます。坐禅や瞑想は、扁桃体の活動を低下させて、うつ病に向かう傾向を改善するエクササイズといえます。
 では、扁桃体の活動が低下すればするほどよいのかといえば、そうではなく、統合失調症の患者については、扁桃体の活動の低下が認められるとされます。(注2)

 この統合失調症との関係で、興味深いのは、臨済宗における見性体験です。「自他不二」の体感などと言われ、ヒンドゥー教における「梵我一如」等、様々な宗教において、外界と自己との一体性の体感を、悟り等の特殊な体験とすることが少なくありませんが、統合失調症の自我障害(自我意識障害)がこれに類似し、坐禅や瞑想により悟りを開くと呼ばれる現象は、生理学的には、扁桃体の極端な活動の低下による自我障害に類するものではないかと考えています。(注3)

 マインドルフルネスの研究において、統合失調症の患者には不適切とされていることも(注4)、瞑想により、統合失調症の症状がより深刻になるものと考えられることからすると、整合的です。

 このように瞑想時の呼吸回数の低下による扁桃体の活動の低下は統合失調症の症状と関連付けられると考えられるところ、統合失調症の症状としては、周囲の世界が鮮明に見えたり、美しく見える体験もあるようです。

 まず、ユング派分析心理学者として著名な河合隼雄の『心理療法序説』に次のような統合失調症の患者からの聞き書きが記述されています。



「筆者がお会いした精神分裂病統合失調症…編者注〕の方が寛解状態になったときに、自分の発病時の様子について、そのときに、自分の目の前の「机そのもの」が見えてきて、その体験に圧倒され、それを他人に伝えようにも言葉が見つからなかった、と言われた。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』34頁)



 また、自身も統合失調症の患者である小林和彦は、『ボクには世界がこう見えていた』の中で、次のような体験を述べます。



「僕はまるでワーズワースの詩の世界のような幸福感に包まれ、木陰に腰を下ろした。(略)
 蚊が腕にとまり、僕の血を吸っていた。僕はそれを払いのけようともせず、蚊をじっと眺め、僕の血を求めているその蚊に対して、何か愛おしさのようなものを感じてしまった。とにかく幸せな気分に満ちていたのである。(略) 
 ふと、クズかごに目がとまり、近づいてみるとビックリした。その中に捨てられてあったのは、カロリーメイトの空き箱、カップスープの空き箱、ポカリスエットの空き缶など、僕愛用の品々ばかりで、しかも真新しくてゴミという感じがしなかった。僕がここへ来るのを察知して、何者かがあわてて集めたような、不自然さを感じた。こんなきれいなゴミが、世の中にあるものなのだろうか。」

(小林和彦は、『ボクには世界がこう見えていた』112~113頁)



 このように統合失調症の症状として、世界が鮮明化する体験や美しく見える体験があることからすると、私の世界の画素数が上がって鮮明に見える体験も、生理学的には、扁桃体の活動の低下によるものではないかというのが、現時点での私の考えです。

 ちなにみに、河合隼雄は、先に引用した『心理療法序説』の中で、統合失調症の患者の「机そのものが見える」体験を、サルトルの『嘔吐』に示された「マロニエの根は…」という有名な一節になぞらえて説明するのですが(河合隼雄前掲書37ページ)、井筒俊彦は、これを禅の見性体験に類いするものとして説明するのも興味深いものがあります(井筒俊彦『意識と本質』147頁)。(注5)

 瞑想により扁桃体の活動が低下し、世界が鮮明に迫って見えると、いわゆる「如実実見」したような感覚になってしまうのかも知れません。



5 体験の解析2~瞑想と暗示



(1)瞑想における暗示の効果



 私は、2項に述べたとおり、本稿の瞑想会に参加した後、当時、意味の分らなかった禅書の意味がわかるようになったことがありました。
 このときの感覚ですが、禅書に書いてある内容について、根拠に基づいて納得するのではなく、その字面通りに正しいという感覚で、正確には、わかったのではなく、「わかったような気になった」のではないかと思います。
 これに瞑想会の常連の人達の信者的な雰囲気を合わせ考えると、瞑想には、一種の暗示の効果があるのではないかと推測しています。
 私自身、色々な瞑想会や坐禅会に参加する中で、仏教に対する問題意識も持つようになったのですが、本稿の瞑想会以外にも、上座仏教(テーラワーダ)の実践をしている人に相当数、生まれ変わりが実在することを本気で信じる人がいることでした。

※詳しくは、「仏教における生命/世界の否定と肯定」の(注5)を参照
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/02/01/195551

 このようなことからも、瞑想自体に暗示のように何かを信じ込ませる効果があるのではないかと推測しています。
 とはいえ、マインドフルネスの研究の中では、この種の問題を扱っているものは、なかなか見つからず、明確に触れているのは、『マインドコントロールの恐怖』を執筆したスティーブン・ハッサンくらいのようです。



「通常の意識では,注意は,五感を通して外側へ向けられるのに対して,トランスにおいては,注意は内側へ向けられ,人は内面で聞き,見,感じるようになる。「Hassanによれば,自分たちは宗教だと主張する多くのカルトでよく行われている瞑想と呼ばれるものは,カルトのメンバーがトランス状態に入るプロセス以外の何ものでもなく,そのトランス状態の中で,メンバーは,カルトの教義にますます従いやすくなるような暗示を受けるようになるのである(略)。また,トランス状態は心地よいリラックスの体験であるため,人々は,できるだけ,度々またトランスに入りたいと思うようになるだけでなく,一番重要なこととして,トランス状態では,人々の批判的能力は減退してしまうのである」

(宮脇秀貴「エンパワーメントと洗脳」」『香川大学経済論叢』82巻3号83頁)
http://shark.lib.kagawa-u.ac.jp/kuir/metadata/3528



 とはいえ、実態としては、瞑想指導者に参加者が支配される例も実際あるようで、井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」がその点について触れています。



「魔境とは、瞑想体験の中で出会う神秘的体験によって道を見失ってしまう落とし穴を警告するための言葉です。光が見えたり、体が軽くなったり、エクスタシーやエネルギーの流れを感じたりするような神秘体験自体は集中力のもたらす効果なのですが、自覚できない微細な欲望が残っている場合には潜在している劣等感を補償するための無意識的な取引に使われてしまい道を誤ることになりやすいものです。そして権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性をはらんでいます」

(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』2020年3月号88頁)



 さらに、齊尾武郎「マインドフルネスの臨床評価:文献的考察」には、再試では同じ結果がでなかったようですが、瞑想により偽の記憶が形成される高まる可能性を示す実験結果が示された例が報告されています。



認知心理学的実験により,マインドフルネスにより偽記憶形成が高まる可能性が示唆されてもいる(しかし,再現実験でこれを否定する結果も出ている)」

(齊尾武郎「マインドフルネスの臨床評価:文献的考察」『臨床評価』46巻1号60頁)
http://cont.o.oo7.jp/46_1/p51-69.pdf



(2)参考としての自律訓練法



 ネットで検索すると、瞑想に自己暗示の効果があることを謳うサイトが相当数あることから、この種の体験をする人も少なからずいるのではないかと推測されますが、いかんせん内容の信憑性には疑問があります。
 きちんとしたマインドフルネス関係の研究ですと、まだ研究がされている期間が短く、おそらく実験をするにしても倫理的な問題があると思われますから、この種の洗脳・暗示の効果について研究した資料は、なかなか見つけられないようにも思います。
 この点、マインドフルネスに似たリラックスした状態での呼吸法や、身体感覚への注意を向ける心理療法である自律訓練法に関する知見が参考になるのではないかと思っています。

 自律訓練法の「標準練習」は次のようなものであるとされます。



自律訓練法(autogenic training:AT),特に標準練習は,わが国では心身症の治療および健常人の健康維持増進のため,広く用いられている訓練法である.慓準練習とは
楽な姿勢とった後に閉眼し
「気持ちが落ち着いている」という背景公式と
「両腕が 重い」
「両腕が温かい」
「心臓が規則正しく打っている」
「楽に呼吸をしている」
「胃の あたりが温かい」
「額が涼しい」
の6つの公式を,それぞれの身体感覚に注意を向けなが ら(受動的注意集中),心の中で繰り返し唱えるというものである.」

(岡孝和・小川央「自律訓練法の心理生理的効果と,心身症に対する奏効機序」『心身医』52巻1号25頁)
https://ci.nii.ac.jp/naid/110008897854


 また、具体的手順については、済生会福岡総合病院の心療内科から発信されている次の音声ガイドが、信用性があるものと思われるだけではなく、その実践の具体的なイメージしやすいと感じました。

「ストレス解消!リラックス効果!自律訓練法―実践編―」
https://www.youtube.com/watch?v=_e7fsZfUNN4

 この動画の中では、冒頭及び消去動作の際、ゆっくり深呼吸をするように指示されるのですが、徳田完二「筋弛緩法とイメージ呼吸法の特徴─2つの質問紙による比較─」(立命館人間科学研究20巻)2頁では、他の文献を引用しながら、自律訓練法を含むリラクゼーション法の共通の特徴の一つとして、「呼吸のコントロール」を挙げている(注6)ことも併せると、呼吸回数と扁桃体の活動の関係からすれば、興味深いものがあります。

 自律訓練法の手法として、ゆっくりとした呼吸という点は坐禅・瞑想一般の手法に通じ、注意を身体活動へ向けていくことは、上座仏教の瞑想法として、よく用いられるラベリング法やボディスキャンに類似する点があり、実際、瞑想に関する文献にも、次のとおり、自律訓練法が類似する手法として、触れられます。



「マインドフルネスでは注意の払い方と保ち方が主となるのですが、これは自律訓練法の「受動的集中(passive concentration)」(略)にも共通する要素です。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』17頁)

機械学習によって,各個人の内部環境と現実の外部環境に適した自己調整プログラムが,各自の脳の中で自動的に再構築され続けていくことが想定される.そのためには,毎日何回か,そのメンテナンスプログラムを起動させる時間を確保することも必要かもしれない.実はこのプロセスこそが,古くから東洋で実践されてきた禅やヨーガ,そして自律訓練法において行われていることなのである」

(坂入洋右・雨宮怜「2016年,第57回日本心身医学会総会ならびに学術講演会(仙台)ワークショップ:心身医学療法の温故知新 自律訓練法における受動的受容とマインドフルネス―トップダウンからボトムアップへのパラダイムシフト―」『心身医』57巻8号839頁)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpm/57/8/57_836/_pdf

坐禅を初めとしてヨーガ,超越的瞑想,気功など宗教的修行としての瞑想法を通じて到達する特異な意識は,心理学では変性意識状態(Altered States of Consciousness, 以下ASCと略称)と総称されている。ASCには,こうした高い価値志向的な体験だけでなく,種々の類似した意識の変容した体験も含まれる.たとえば,催眠,自律訓練法,漸進的弛緩法などによる心身の弛緩,幻覚剤…などで,これらにも現実志向性の低下を通じて意識の変容が生起するため,すべてに共通したASC の心理的特徴がみられる。」

(斎藤稔正「変性意識状態と禅的体験の心理過程」『立命館人間科学研』5号45頁)
https://www.ritsumeihuman.com/uploads/publication/ningen_05/045-54.pdf



 このような自律訓練法と瞑想との類似性から、自律訓練法に関する知見も、瞑想を考える上で参考になるものと考えられます。

 この点、自律訓練法については、田村英恵「自律訓練法と催眠」において、「自己暗示の有効性をよりどころとしている」との指摘がされます(注7)。
具体的には、「気持ちが落ち着いている」という背景公式の部分を指しているのでしょう。
つまり、リラックスした状態になり、ゆっくりとした呼吸をすることは、その際に、頭の中に浮かんだ言葉などを暗示をし易くなるといえるかと考えられます。

 さらに、田村の前掲論文では、「自律訓練法は催眠研究を基に創案され(略)成立過程からみて催眠とは密接な関係にあり、催眠と自律訓練法は不可分であるとの捉え方がある」との指摘もされています(田村前掲89頁)が、催眠について、暗示や洗脳が問題とされることはよくいわれるところです。
この点については、田村前掲論文は続けて、「被催眠者は催眠者に対して依存的、服従的傾向を示しやすく、催眠での人間関係は濃密であるが、自律訓練法では幾分希薄である」との指摘がされています(田村前掲91頁)。
 そして、自律訓練法が催眠と近似することからすると、催眠について、「依存性や被動感が生じやすい受動的ともいえる状態が喚起」されるという指摘がされることも興味深いものがあります(田村前掲92頁)。

 以上のような瞑想に類似し、その実践方法や効果として、瞑想よりもより限定的(自立訓練法の時間は1日2~3回,1回5分程度とされる)と思われる自律訓練法に関する指摘を踏まえると、瞑想の際には、被暗示性が高まるのではないかと思われます。



(3)まとめ



 以上のことを踏まえると、瞑想を実践する際には、被暗示性が高まる状態となり、瞑想の際や、瞑想による被暗示性が高まった状態が持続すると、法話がされるといった音声情報や、何かを読むといった文字情報に触れるなど何らかの言語情報に触れた場合には、その言語情報が脳機能に組み込まれやすくなるのではないのでしょうか。
 このように考えると、本稿の瞑想会にいた常連の人の信者的な反応や、私自身の禅書の内容が突如として「わかったような気になった」現象も理解がしやすいように思われます。
 坐禅の現場では、語録の類について、頭で理解するなと言われ、また、正法眼蔵についても、坐禅をすることにより、その真意がわかるなどという曹洞宗の指導者もいること(注8)からすると、実際に、坐禅を続けつつ、理屈のわからないまま語録を読んでいるうちに、理屈抜きに、そこに書いてあるとおりのことが真実であると思い込む体験があるからではないでしょうか。(注9)
 また、本稿の指導者に限らず、坐禅や瞑想の際に、法話の類をする指導者は少なくなく、さらに、禅宗その他の仏教関係の講演会では、本論を話し始める前に、椅子禅の類をする例も少なくありませんが、これらの行為も、その話の内容の刷り込みの機能があるようにも思われ、その論者の信者になりたい人であればともかく、倫理的な問題がないわけではないように感じます。
 前向きな見方としては、誰しも理想に思っているタレントやスポーツ選手のような人はいるでしょうから、瞑想や坐禅の後に、このような人達のエッセイや自伝などを読めば、そのトレースがし易くなるということがあるかも知れません。意味のわからない仏教書の類を読むより健全なようにも思います。

《本文以上》





(注1)禅における不幸を受け入れる態度 

 わかりやすいものは、内山興正『坐禅の意味と実際』

「われわれの日常生活においては、いろいろな不幸逆境等に出逢うこともあるわけですが、われわれの場合、ともするとこの不幸逆境において、もがくゆえに、より悪い状態に追いこまれてしまうことは、われわれふつうに見る通りです。」(77頁)
坐禅がわれわれに覚めさせる生命の実物とは、まさに「自己ぎりの自己」「今ぎりの今」――「どっちへどうころんでも、出逢うところがわが生命」という生命態度です。(略)
 われわれは、ふつういつでも何事につけてもアレとコレと分別比較し、少しでもなんとかウマイ方へころぼうというはからいを働かせ、そのために、かえってキョロキョロ、オドオドしながらいきています。というのは、ウマイ方を考えるかぎりは、ウマクナイ方があるのは当然であり、それゆえウマクナイ方へころぶまいという危惧が、どこまでもついてまわるからです。つまりこのウマイ方とウマクナイ方ということを分別して生きるかぎりは、決して「どっちへどうころんでもいい」というような絶対的な安らいにおいてあることはできません。」(115~116頁)

 内山興正は、曹洞宗の人ですが、臨済宗では、釈宗演『禅海一瀾講話』に次のような記述があります。

「「吾が禅海、波瀾洪大、嫌う底の法無く、又た着するの底の法無し」
 吾が「禅海」は「波瀾洪大」だから、何一つ嫌う底のことなし。仏も嫌わず、魔も嫌わず、天上界も嫌わず、同時に地獄界も嫌わず、また、一切の物を嫌わず」(298頁)

(注2)扁桃体の活動と、うつ病及び統合失調症との関係

扁桃体は、不安や恐怖などの感情を感じた時に活動することが知られています。過度な不安や恐怖が症状であるうつ病、不安障害やPTSDといった精神疾患においては、扁桃体の活動が過剰であること知られています。反対に統合失調症自閉症に認められる感情や対人コミュニケーションの障害が扁桃体の活動の低下と関連していることも知られています。」
独立行政法人 放射線医学総合研究所分子イメージング研究センター「感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明」https://www.jst.go.jp/pr/announce/20100224/index.html

(注3)統合失調症における自我障害

(1)自我障害の解説その1
「(統合失調症の症状としては)自分と外界の境界が曖昧になるために自我意識障害もみられる。これは、思考が他人に抜き取られる(思考奪取)、または吹き込まれる(思考注入)と観じたり、自分が誰かに操られている(作為体験)と確信したりする状況である。」
(原和明監修 渡邉映子 藤倉孝治編集『はじめて学ぶ人の臨床心理学』221頁)

(2)自我障害の解説その2
「自我障害には、shneiderが一級症状として重視したものが多い(略)。
 統合失調症では、自分の考えや行動が自分のものであるという意識(能動意識または自己所属性)が障害される。自分の考えでない考えがひとりでに浮かぶという自生思考autochthonous ideaもみられる。離人症depersonalizationは、自分が存在するという感じが希薄になる軽度の自我障害である。自分の考えでない考えがひとりでに浮かぶという自生思考autochthonous ideaもみられる。させられ体験(作為体験)delusion of controlは、他人の意志で動かされ、操られているという体験である(略)。思考面ではさせられ思考と呼ばれ、自分の考えが他者から干渉されるという思考干渉influence of thought、他人の考えを吹き込まれるという考想(思考)吹入thought insertion、自分の考えを抜き取られるという考想(思考)奪取thought withdrawalがある。
 自己と外界の境界(自我境界)も障害される。考想伝播thought broadcastingは、自分の考えが自分だけのものでなく、他の人々が、時には世界中がそれを知っているという体験である。考想察知ming readingは、自分の考えが他人に知られてしまうというものである。

(3)私見
 「自己の外界の境界の障害」は自他不二、「自分が存在するという感じが希薄になる」は無我、「他人の意志で動かされ、操られているという体験」他力など統合失調症の自我障害には、仏教の様々な観念に沿うものがあります。
 また、考想(思考)吹入については、親鸞の六角堂への百日参籠の際に聖徳太子が現れ、夢告を受けたことなど、超越的存在から啓示を受けた宗教者の逸話を説明し得るように感じています。
 ヴィクトリア期の英国人が、仏教僧を「白痴」などと論評し(フィリップ・C・アーモンド、奥山倫明『英国の仏教発見』258頁)、建長寺派管長であった菅原時保が「全体禅と云うものは(略)馬鹿になることと、此の(略)点を長所とし、また短所とする」(『禅窓閑話』245頁)と述べることも、統合失調症という観点からすると、納得がいくものがあります。

(注4)マインドフルネスにおける統合失調症の禁忌

「先ほどサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想が、それぞれ医療とか心理臨床の世界に取り込まれてきた過程をお話ししましたが、リラクセーション法は実は、統合失調症の人はやらないほうがいいということがわかったんですね。やはり、統合失調症の方だと、中にあるものが溢れ出してくるということがあるのだと思います。だから、集中していくということの結果、起ってくるそういう反応みたいなものに、やっぱり充分気をつけていなくてはいけなくて、そこのところが充分にケアできないような状況でやると、過集中のような状態になって、さらにその反応がワッと出てきて悪化するというようなことがあったり、あるいいは怒りなんかがまたコントロールできないような状態になったりというようなことも起こるのだろうと思います」
(熊野宏昭発言、横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』80頁)

「マインドフルネス訓練を行ってはいけない人は、真正の統合失調症急性期の患者さんです。自我が分裂する病気の人に自分を見つめさせると、病状が悪化する危険があるからです。ただし、慢性期の統合失調症の患者さんには適用することはできます。マインドフルネス訓練により陰性症状が軽快することが期待されます。」
(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号83頁)

(注5)井筒俊彦『意識と本質』における見性体験とサルトル『嘔吐』の記述との対比

「参禅して、一応見性し、ある程度の悟りの目を開いて見ると、世界が一挙に変貌する。(略)同一律矛盾律が効力を失って、山は山でなく、川は川でなくなってしまうのだ。山も川も、あらゆる事物が「本質」という留金を失う。それまで、いわゆる客観的世界をぎっしりと隙間なく埋めつくしていた事物、すなわち「本質」結晶体が融けて流れだす。(略)
そんな山や川を客体として自分の外に見る主体、我、もそこにはない。すべてが無「本質」、したがって無分節、もっと簡単に言えば、「無」なのである。(略)本論の最初の部分で問題としたサルトルの、マロニエの根を私は憶い出す。」

井筒俊彦前掲書146~147頁)

(注6)徳田完二「筋弛緩法とイメージ呼吸法の特徴─2つの質問紙による比較─」(立命館人間科学研究20巻)2頁

松木ら(略)は,各種リラクセーション技法に共通する要素として,①動作のコントロール,②呼吸のコントロール,③意識・注意のコントロールがあって,それぞれの技法は①②③のいずれかを主軸にしていると指摘し,漸進的筋弛緩法は①を,呼吸法は②を,自律訓練法は③を主軸にした方法だとしている」

(注7)田村英恵「自律訓練法と催眠」『立正大学心理学研究年報』8号89頁
https://rissho.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=4088&item_no=1&attribute_id=20&file_no=1&page_id=13&block_id=21

(注8)正法眼蔵については、いわゆる「七十五巻本ないし六十巻本」と「十二巻本」との間の思想的連続性に関する議論があり、角田泰隆『道元禅師の思想的研究』631頁では、「思想の変化という観点から十二巻本を論じたものは多い」とされていることからすると、非連続的なものであるとの見解が一般的であるものと思われるが、曹洞宗の指導者の中には、坐禅をすると一見不整合に見える両者の記述が共に正しいことがわかるという人もいます。理解し難い面もありますが、坐禅により両正法眼蔵の記述が共に正しい記述として脳にすり込まれるものと考えると、理解がし易いように思われます。

(注9)この点は、岡田尊司『マインドコントロール』において、洗脳と同様の環境が認められる具体的な例として、禅の修行が挙げられていることも興味を引く。

「洗脳を目的として発展したさまざまな方法に共通するのも、過酷な極限状態にその人を追い詰めていくという点である。短い睡眠時間、乏しい栄養、孤独で隔絶された環境、不規則で予測のつかない生活、プライバシーの剥奪、過酷で単調なルーチンワーク、非難と自己否定、罵倒や暴力による屈辱的体験、苦痛に満ちた生活、快感や娯楽が一切許されないこと、理不尽で筋の通らない扱い等々。これでもかこれでもかと、苦痛と屈辱と不安が与えられる。
たとえば、禅宗の修行でも、導師が弟子に対する接し方は、極めて理不尽で、ほとんど無意味な虐待に近いという。その理不尽さと虐げることに意味があるのだ。新しい境地にたどり着くには、もっともらしい知識や肩書など何の役にも立たず、赤子のように無力だと感じる極限状況が必要なのだ。」
岡田尊司『マインドコントロール』168~169頁)





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