仏教における生命/世界の否定と肯定

釈尊の教説は、一切皆苦を基本原理とし、生命否定の思想と言われる。
しかし、日本の仏教界では、生命を肯定する言説が目立つ
仏教における生命、そして、世界の否定と肯定
その関係を整理してみた。



本稿の構成
1 問題の所在
2 原始仏教・上座仏教における生命及び世界に対する価値の否定
3 中国への伝播における生命観・世界観の変化
4 中国における仏教の生命観・世界観の変化の要因
5 (補論1)原始仏教・上座仏教における輪廻の理解
6 (補論2)仏教家が生命観・世界観の変化に触れない理由
(1)日本の伝統仏教の場合  
(2)上座仏教(テーラワーダ)の場合
7 (補論3)原始仏教・上座仏教における不殺生戒の位置づけ



1 問題の所在



SNSで「世界はクソだ」との上座仏教の実践をしているという人の言葉を目にした。

内容の適否はともかく、釈尊の唱えた教説では一切皆苦、すなわち、私達の人生も、世界も、あらゆるものが不満足なものであり、無価値であるということを基本原理とするから、原始仏教や上座仏教の立場からすれば、一貫した主張ではある。

「苦」とは不満足を意味する。(注1)

その典型として、四苦、すなわち、生老病死が不満足なことであるされる。

「生」、すなわち、生まれたこと、生きていることそれ自体が不満足なことであり、無価値だというのである。

この点で、原始仏教や上座仏教は、生命否定の立場に立ち、この世界の存在価値も否定する(後記2)。私達の生きるこの世界は、解脱して離れるべき場所なのである。

しかし、日本の仏教の世界では、生命こそが仏教の中核的価値であるような言説も、よく聞くことである。

このような矛盾する言説の関係について、文献を追ってみる。



2 原始仏教・上座仏教における生命及び世界に対する価値の否定



釈尊の元々の教説、すなわち、原始仏教や、これを踏まえているものとされる上座仏教は、一切皆苦を基本原理とする。

「1 問題の所在」でも触れたとおり、この一切皆苦の原理からすれば、あらゆるものが不満足で、無価値であり、私達の人生や、もちろん、その人生を取り巻く目の前に展開する世界の存在も不満足なものであり、無価値であるということになる。

たとえば、日本における指導的な立場に立つ上座仏教の長老とされるアルボムッレ・スマナサーラは、次のように言う。



「仏教では、人間の人生はうまくいっているとは思っていないのです。人生は問題の泥沼に溺れているようなものだと思っています。もし理性のある人々が努力して平和で幸福な社会を築いても、そのうちまた衰退するのだ、という立場なのです。」
アルボムッレ・スマナサーラ『これでもう苦しまない』35~36頁)



また、リチャード・ゴンブリッチロンドン大学名誉教授も次のように述べる。



「保守的な上座仏教は、共同体の宗教に対するブッダの無関心さと、彼が救済とは無関係と考えた儀式というものに対する否定的な態度を踏襲した。
ブッダの態度は明瞭であり、彼が説いた道はこの世を本質的に不満足な世界として捨てる方向に向かっていた。」
(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』49頁)



以上のようなことから、釈尊の元々の教えは、人生、そして、世界の存在価値を否定するものであると理解されている。

この点は、森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』の記述がよくまとまっている。



「アジアでもっとも反出生主義に近い哲学を打ち出したのは、ほかならぬブッダ原始仏教である。」
森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』15頁)

「古代インドでもっとも反出生主義に近い考え方を説いたのは原始仏教である。原始仏教は人間が経験する一切は苦しみであると考えた。(略)
古層の原始仏典に現れたブッダの考え方を要約すると次のようになる。まず、この世で生きることは苦しみである。この世で死ぬと、輪廻によって別の世界に生まれる。そこでの生もまた苦しみである。そしてふたたび輪廻する。このようにして、私たちは永遠に苦しみから逃れられない。
この苦しみから逃れるためには、この人間界で、自分自身の執着、欲望、愛欲を断滅し、もう二度と輪廻によって別の世界に生れなくてもよいという境地に達する必要がある。」
森岡正博前掲書172~174頁)



3  中国への伝播における生命観・世界観の変化



2に見たとおり、釈尊本来の主張は、生命の否定であり、私達を取り巻くこの世界の存在価値をも否定するものだった。

とはいえ、私達が、日本で仏教家から、「天地いっぱいの生命」とか、「今、いのちがあなたを生きている」などといった大正生命主義的な生命賛歌の類いをよく聞かされる。(注2)

このような言説がなされる要因は、インドで生まれた仏教から、大乗仏教が生まれ、これが中国へ伝播した段階で、その生命観・世界観が変化したことによるものと思われる。

この点を指摘するのが、梅原猛である。



「中国の仏教史をひもとく者は、七世紀から、八世紀にかけて、中国仏教史に大きな変化があったことを知るであろう。どのような変化があったのか。私は、それを一言にして、悲観論から楽観論への変化であったのだといいたい。(略)
七世紀までの中国仏教は(略)暗い影があった。ところが、八世紀に入ると、仏教の性格は一変するように思われる。以後流行の仏教は、華厳と密教と禅であろう。(略)それは、世界のいたるところに存在する仏性賛美の思想であった。そこには、世界に対する大いなる肯定があった。」
梅原猛「絶対自由の哲学梅原猛・柳田聖山『無の探究〈中国禅〉』264頁~265頁)



仏教の中国への伝播の際における価値観の変動は、いわゆる三法印の理解の仕方についても、認められる。

三法印は、仏教の基本原理を示すものだが、普通「諸行無常諸法無我涅槃寂静」をいうとされるものの、原始仏教では、「諸行無常一切皆苦諸法無我」とされ、これが「原初の三法印」などとも称される。(注3)

三法印から、「一切皆苦」という生命否定・世界否定の言葉が消え、「涅槃寂静」という積極的・肯定的なイメージの言葉へと切り替わったのは、漢字語圏に入ってからのことだとされる。



ブッダの教え,すなわち,(釈迦) 牟尼の教説という意味での「佛法」(buddha-dharma) を標示する用語として,現在,漢字文化圈で廣く用いられているのは,「三法印」であろう。すなわち,「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂靜」(略)という三句にまとめられた經句である。(略)
これらの觀念は,少なくとも漢字文化圈では,ブッダの敎えの傳播とともに初めて知られることになる。(略)
一方,パーリ語聖典言語とする佛敎文化圈で傳えられて來たのは,「諸行無常」「一切皆苦」「諸法無我」(略)という三句である。(略)この事象は,「(釋迦) 牟尼の教説」,すなわち,「佛法」の標識が地域化した結果と呼んで良いであろう。(略)
では,なぜこのような事態が起こったのであろうか。(略)
簡潔に言えば,「一切皆苦」の實感が,「涅槃寂靜」への想いに轉換して行く思潮である。」
(室寺義仁「「三法印」―― 古典インドにおける三句の發端と展開の諸樣相 ――」『東方學報 京都』第88冊94~96頁)



漢字文化圏に入ってから、「一切皆苦」の實感が,「涅槃寂靜」への想いへの転換」したするという点は、中国において、「悲観論から楽観論への変化」したとの梅原猛の指摘に通じるものがある。



4  中国における仏教の生命観・世界観の変化の要因



仏教が中国において、生命肯定・世界肯定の価値観を持つものとして変化した要因については、古代の中国人の心理の中のものであり、推論するしかない。

この点、仏教が老荘思想に類いするものとして格義仏教的な理解がされたとの見解もあるが(注4)、これよりも、森三樹三郎の提示する見解の一つである中国思想一般における生命肯定の思想によるとの見解に説得力を感じる。

すなわち、中国人は、生命の価値を重んじ、神仙説に見られるように永遠の生命を希求していたが、それが当然うまく行くわけではないところ、仏教では、輪廻を説き、身体の同一性はなくなるとはいえ、永遠に生きることができる思想として、魅力があったという。



「仏教の中心を三世報応の説に求め、輪廻の思想として受けいれるもの。その代表的なものは、東晋の袁宏(三二八~三七六年)の『後漢紀』に、「仏教の説では、人間は死んでも、霊魂は滅びず、また生まれて新しい肉体を受ける。この現世での行為の善悪は必ず来世の報応となってあらわれる。だから仏教で尊ぶところは、この現世で善を行い道を修め、これによって霊魂を鍛えあげ、ついには無為の境地に達し、仏となることである」と述べているのがそれである。
従来の中国人は現世だけを考え、したがって人生は一回限りのものと信じていた。そのため、この「現世」を無限に延長しようとする神仙説が生まれたほとであった。しかし死を避けることは、なんとしても不可能である。神仙説に絶望した中国人は、無限の生死のくりかえしを説く仏教に走った。」
(森三樹三郎『老子荘子』379~380頁)



生まれ変わりであろうが、何であろうが、生きることができるのであれば永遠に生きたいと思う。この自然な欲求からすると、森三樹三郎の記述には説得力がある。

仏教の中国伝播前後での生命観・世界観の変化。

それは否定から肯定への完全な逆転であり、その点を十分意識していないと、仏教に現れる様々な見解を理解する上でも、思わぬ勘違いをすることも少なくないように思う。



5 (補論1)原始仏教・上座仏教における輪廻の理解



上座仏教では、「輪廻は苦だ」と言われることから、上座仏教の人の中には、中国人が、輪廻を肯定的に評価したことに違和感を抱く人もいるようだ。

おそらく、個々人のメンタリティの問題だと思うが、生きづらさを抱えている人には、「輪廻は苦」だ、永遠に生き続けるのは苦しみだという言い回しも説得力があるだろう。

たとえば、いじめを受けた人が自死する痛ましい事件が起きることもあるが、輪廻が苦だというのは、ずっといじめが繰り返され、その苦痛から、自死し、意識を取り戻したら、またいじめられている状態が続いていたというような場面を想像すると知的には理解はできる。

しかし、多くの人は、このような感覚を抱くことはなく、生きることができるものであれば、生き続けていきたいと思うものだろう。

そもそも、釈尊がその教えを説き始めた古代インドでは、輪廻が苦であるという考え方自体が一般的ではなく、このようなマイナーな価値観であったことも、インドで仏教が衰退した理由ではないかと思われる。



バラモン教における)「カルマン・再生の理論と、生存の反復継続を楽しく受け入れ喜んで承諾するという態度とを結合させることは、一貫性に関する論理上の問題を引き起こすことはないであろう。結局のところ
人生は苦より楽の方が多い
ということになる。実際、我々の乏しい証拠から判断すると、初期ヴェーダ時代における人生の評価はそれほど否定的なものではなかったようであるし、また、はるかに後代の中世ヒンドゥー教では、人生は苦であるという提言は人々の注意をほとんど惹かなかったようである。」
(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』82頁)

「インドの通念では輪廻自体はそもそも苦ではありません。あくまで苦というのは、その輪廻が老病死という現象を宿命的に含みこんでいるということなのです。しかし仏教は、その老病死の際限のない繰り返しが輪廻の本質だと考えることで、輪廻=苦と見るようになった。ですから
輪廻は苦ではないと考える人にとって、仏教の教えは不必要で意味がない
ものと映るのです。梵天観請の話で、「世の中には釈迦の教えを聞いても理解できない人がいる」という言葉は、それを意味しています」
佐々木閑発言・佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教』158頁)



満足か不満足かは価値観の問題であり、どちらが正しいなどということはない。
ある人が満足すべきものであるとするなら、それはそれでよいわけで、そんな人には、仏教の実践は必要ない。

佐々木閑の次の指摘も的確だろう。



『いつも私は思うのですが、仏教という宗教は、まるで病院のような存在です。仏教は「心の病院」なのです。(略)
仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません』
佐々木閑『『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』28~29頁』



ちなみに、鈴木大拙もこう言う。



「われわれから見れば人間にはいつまで生きていても、もっと長く生きていたい、という気持ちは離れないものであると信ずる。ましてや悦んで死ぬというような時代の必然的に来るということは信じられないのである」
鈴木大拙『禅とは何か』16頁)



釈尊一切皆苦の言葉から、人生や世界が不満足であるものと考える人も少なくないが、そもそもそのような価値観自体が自分自身の思い込みの産物であろう。

なぜならば、輪廻説のようなオカルティズムを採用することができない(注5)以上、人生は、死により終了するものである以上、本当に人生が不満足なものであれば、生きていることに価値はないのであるから、自死すればよいだけの話であり、仏教の実践などは全くいらないことになるはずだからである。

現にこの世界の中で生きている以上、自分の人生とこれを取り巻く世界を肯定しているはずであり、人生更には世界を否定するような思想は、矛盾するものと言わなければならない。

鈴木大拙が「厭世家たちがいかに否定的に考えようとも、人生は、結局、何らかの形における肯定である」と言い(『禅』43頁)、「われわれが精神的不満を感ずるということには、その反面にすでに満足を感じているということをも同時に意味しているということを忘れてはならぬ」と言うところ(『禅とは何か』13頁)は、素直によく考えられていると思う。

現実に、この世界に生きており、自らの人生及びこれを取り巻く世界を肯定しながら、一切皆苦などと称して、これらを否定することは矛盾であり、そこに病がある。

「応病与薬」は、仏教によく出てくるフレーズだが、このような矛盾を抱える病んだ人には、有用かも知れない。

しかし、そうではない精神的に健康な人には、全く意味をなさないものである。

むしろ、人生の貴重な時間を不必要な病気の治療に費やすという意味でも、少なからず毒でわることは間違いない。

釈尊本来の仏教が出家者と在家者を厳密に区分することは、十分な理由があるといえるだろう。



6 (補論2)仏教家が生命観・世界観の相違について触れない理由



本稿で取りあげたような、原始仏教・上座仏教と、中国以降の大乗仏教との生命観・世界観の相違について、仏教家が触れる例は少ないように感じる。

その理由は次のとおりのものではないだろうか。

(1)日本の伝統仏教の場合  

中国以降の大乗仏教の流れに連なる日本の伝統仏教の仏教家が、この点について、触れない理由は、大乗仏教非仏説を意識したものであろうと思われる。

すなわち、大乗仏教釈尊の直説ではないことは学術的には明白であるが(注6)、伝統仏教の立場からすれば、自分たちの権威付けのためには、釈尊との関連性を強めたいので、この点には触れたくない(注7)。

そして、釈尊の直説である生命否定の思想と、日本の伝統仏教の相違を取りあげれば、釈尊の権威を引き寄せることができないので、都合が悪いということになろうかと思う。

(2)上座仏教(テーラワーダ)の場合

上座仏教の指導者の中でも、原始仏教・上座仏教が生命否定・世界否定の思想に立つということを教えない人もいるようであり、上座仏教の実践をしているという人の中にも、この点に理解のない人がいる。

このようなことの起きる理由は、仏教の律の背景にある在家者に対する教化の戦略にあるように思われる。

すなわち、上座仏教のサンガは、生産労働に従事せず、生殖も否定する上、反生命主義的な特異な集団といえるが(この点については、5で述べたとおり、古代インドにおいても、生命の価値を否定し、輪廻を苦と捉える考え方は少数派であった)、このような集団が、特に、生産労働を否定することとも相俟って、その構成員の生活を安定させるため、サンガ外の一般市民からの支援(布施)を獲得するために、「支援を受けやすくするような振る舞い」をするために作られたものが「律」という規則である。(注8)

このような律の背景にある価値観からすると、「生命否定」などということは、今の日本のほとんどの人には受けいれられるわけはないであろうし、却って、反発を受ける可能性もあるから、日本における多数派に反しない言動をしているのではないかということが考えられる。

実際、スリランカの上座仏教においては、カーストに応じて、教えられる教義が異なるとされており(注9)、その相手方に応じて、教説を変える傾向があることからすると、日本における指導者についても、日本人に対し、表面上唱える教説を変えているということもあり得ることと思われる。



7 (補論3)原始仏教・上座仏教における不殺生戒の位置づけ



釈尊の教えが、反生命主義であるのであれば、その基本的な戒に「不殺生戒」の存在することをどう位置づけるかの問題が一応存在する。

この点、元々釈尊の原始教団においては、肉食が広く認められていたこと(肉食が禁止されるのは中国伝播以降(注10))などを踏まえて、そもそも不殺生戒は、解脱を実現するために必要不可欠な戒というよりも、サンガ外にいる者との関係性を良好にするための決まりである律的なものにすぎないものであったとの指摘があり、興味深い。



「初期仏教教団では肉食は当たり前であった。また仏陀は豚肉を食べて下痢に罹ったという伝承があるほど、彼らは肉食を習慣としていたし、特にそれが問題となることもなかった。 ところが、教団の外からの批判を受けるに至って、 肉食を制限するという方針がとられ、このことが問題として取り上げられ、その伝統は今日まで、 特に南伝仏教諸派に受け継がれている。 (略)そのような経緯、また、 初期仏教教団において三種の浄肉という方便が発達したことなどを考え合わせると、仏教教団の場合、肉食の忌避や不殺生は教団外部からの批判を受けた教団の対応という-面がかなり強いという。したがって、我々が仏教に対して抱くイメージのように慈悲や利他といった倫理的な立場から不殺生が根拠づけられていたと考えることは難しい。」
(加藤隆宏『古代インドにおける殺生』14頁)



本文以上



(注1)仏教における「苦」の概念

「私たちが漢訳で「苦」という言葉を目にした場合、それは直ちに日本語の「苦しみ」を連想させるから、仏教における「苦(dukkha)」というのも、痛みや悲しみといった肉体的・精神的な苦痛を意味するものだと、一般には考えられがちである。
しかし、そうだとすると、快楽に溢れた生活、例えばゴータマ・ブッダが出家の前にしていた生活はそのようなものであったとされるが、それは「苦」ではないのだろうか。(略)
dukkhaという言葉を訳す時、現在の英訳では、しばしばunsatisfactorinessという単語が使われる。日本語に訳せば「不満足」ということになるが、これはdukkhaのニュアンスを正しく汲み取った適訳だと思う。」
(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』50頁)

「「ドゥッカ」という語をいかに訳すべきかについても、多くの議論が戦わされてきた(略)ここで表現されているのは、我々が通常経験する生は不満足なものだ、ということである。」
(リチャード・ゴンブリッチ浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』36頁)

(注2)伝統仏教における生命尊重主義の発想の例

「二〇一一年、真宗大谷派(しんしゅうおおたには)は宗祖親鸞の七五〇回遠忌(おんき)に向けてのテーマとして「今、いのちがあなたを生きている」を掲げた。(略)
真宗大谷派に限らず、仏教界全体として「いのち」「生命」をまるで諸価値の源泉であるかのごとくに扱っている例は多い。」
宮崎哲弥『仏教論争――「縁起」から本質を問う』230~232頁)

「わがままな私の思いを先とせず、生かされている生命の真実に従った生き方をせよ、ということになりましょう。天地いっぱいに生かされている生命ならば、つねに天地いっぱいを、少なくとも地球全体、人類全体という視点のもとに、ものを考え、行動せよということになります。」
(青山俊董「仏教の普遍性について」『曹洞禅ジャーナル 法眼 第20号 2007年10月』3頁)

もっとも日本の伝統仏教においても、本来の釈尊の教説等を踏まえて、生命の肯定に対し、懐疑的な見解を示す例もある。

真宗大谷派に限らず、仏教界全体として「いのち」「生命」をまるで諸価値の源泉であるかのごとくに扱っている例は多い。
 だが原始仏教の価値評価に照らしても、生まれたこと自体、生きていること自体は苦(ドゥッカ)と捉えられ、その苦の根源は有情の生への執着、生存欲望にあると特定されるのだ。仏教思想には本来、反生命主義“anti-vitalism”の側面がある。哲学者で浄土真宗本願寺派住職の松尾宣昭はこう述べている。
「仏教は基本的には現世否定の宗教なのです。否定という言葉が強すぎるなら、この世を決して祝福しないと言えばいいでしょう。生きものが産んで、増えて、地に満ちることは、「家宅無常の世界」に、さらに油を注ぐようなものです。たしかに仏教の中の浄土教においては、肉食も生殖行為も禁止されません。しかしそれはさきに述べた意味での『いたしかたなし』ということにすぎない。食物連鎖と生殖行為から織りなされた生物界のありさまが『いのち輝く』すばらしい生命の世界などとして讃えられているわけではないはずです。それらはあくまでも『火宅』の世界、すなわち煩悩の火の燃えさかった世界でしかない」
宮崎哲弥『仏教論争――「縁起」から本質を問う』232~233頁)

(注3)普通の三法印と原初の三法印

「一 すべての形成されたものは無常である。(諸行無常
 二 すべての形成されたものは苦しみである。(一切行苦)
 三 すべての事物は私でないものである。(諸法無我
(普通は、諸行無常諸法無我涅槃寂静三法印といいますが、右が原初の三法印です)」
(田上太秀『迷いから悟りへの十二章』13頁)

(注4)「仏教が老荘思想に類いするものとして格義仏教的な理解がされた」との見解

1 「仏教が中国に受けいれられたとき、そうした独住と瞑想の主張が、まず荘子の逍遥遊や斉物論(せいぶつろん)の思想に近いものとみられ、天地同根、万物一体といった自然静観の
オプティミズムと結びついた
ことは確かである」
(柳田聖山「禅思想の成立」『無の探求〈中国禅〉』48頁)

2 「中国知識人の間に仏教の理解ないし受容が急速に進展することになった。それでは中国人は仏教の教義のうちの、どのような点に魅力を感じたのであるか。(略)
仏教の教義と老荘思想との間にある共通点を求め、老荘思想を通じて仏教を理解しようとするもの。これは初期の貴族的知識人の仏教理解において、その主流となったものである。この方向をとるものは、ともすれば老荘的仏教、清談仏教となることが多い。」
(森三樹三郎『老子荘子』379頁)

(注5)上座仏教(テーラワーダ)における輪廻説

上座仏教(テーラワーダ)においては、人間が死後生まれ変わることを前提とする輪廻説を採用している。次の記述はその説明の一例

「釈迦の教えの中には今の自分にとって必須の、優れた教えがたくさん入っていることは認めても、だからといって釈迦の教えを丸ごと全部、絶対の真理として受け入れるわけではない、という意味です。
たとえば釈迦は、業とか輪廻といった、今の時代ならそのまま受け入れることのできないような奇妙な教えを説きました。」
佐々木閑大乗仏教 ブッダの教えはどこへ向うのか』272頁)

この考え方は極めて強固であり、生まれ変わりの否定をする教説は、異端とされる。

ミャンマーには「国家サンガ大長老会(略)」というものがあります。その中で(略)二〇一一年に非法とされた教えがあります。(略)現在業論仏教(略)で、過去生、来世の輪廻を否定し、欲界、色界、無色界からなる三十一界説を否定して、現在の業のみを認めるものです。(略)
現在業仏教はテーラワーダ仏教の伝統的な立場からは問題外です。過去生や来世を否定し、六道輪廻否定するなど、現代の日本の仏教学者に多くみられる意見と共通するものがありますが、特に深い瞑想体験や経典理解から出たとは思えない説です。」
(西澤卓美「厳格に伝えられるテーラワーダの伝統と瞑想の文化」箕輪顕量監修『別冊サンガジャパン①実践!仏教瞑想ガイドブック』50頁)

因みに、日本の上座仏教の勉強会などに参加すると、「生れ変わり」について熱く語る人に接することが少なくない。
私が瞑想等の仏教の実践をする人達から距離を置くことにした理由は、いくつかあるが、その一つがこの種のオカルティズムである。
ただし、見方を変えれば、一種の自殺防止の意味合いもあると思われる。
本文でも触れたように、強い生きづらさを感じたときに、人生に価値がないものとすると、生きづらさを解消する一番簡便な方法は、自死であり、仏教の実践などは全く必要なくなってしまうからである。
しかし、生れ変わるとすると、死んでも次に意識を取り戻したときには、新たな人生が始まっており、人生の苦しみが続いていくことになり、死ぬことが無意味になるから、自死の防止が図られるということになる。
したがって、一切皆苦を前提とすると、輪廻は一切皆苦と不可分一体の根本原理ということになる。

(注6)大乗非仏説

原始仏教、部派仏教、大乗仏教の))「非連続的な面を強調することになる一つの説が、大乗非仏説である。大乗仏教釈尊が説いたものではない。したがって真の仏教ではない、というのである。
(略)歴史的事実として大乗経典が出現するのは、釈尊滅後、およそ400年近く経ってからである。それらの経典が、少なくとも歴史上の釈尊が直接説いたものではないことは、明かであろう。」
(竹村牧男「仏教は本当に意味があるのか」10頁)

大乗仏教は、釈尊=ゴータマ・ブッダが直接に説いた教え(金口(こんく)の説法)からは遠く隔たっている。そのうえ、これまですでにいわゆる大乗非仏説(大乗は仏説に非ずと説く)が、インド、中国、日本で唱えられ、それをさらにみずから否定する大乗仏教の側の自己弁明のみが目だつ。他方、部派仏教は大乗仏教に関しては何も語らず、問題にさえしなかったらしい。」

三枝充悳『仏教入門』37頁)

(注7)日本の伝統仏教の仏教者における釈尊の教説と大乗仏教とを直結させようとするバイアス

「佐々木 (略)日本の仏教学者は宗門出身者が多いですから、私からすると、どうしても自らが信仰する宗派を正当化する方向にバイアスがかかってしまうように見えるんですよね。(略)
佐々木 大乗仏教は、本来の初期仏教を大きく改変することでできた、新たな宗教運動であるということは、これはもう曲げられない事実だと思います。それでも、下田(正弘)さんや日本の仏教学者の中には、どうしても大乗仏教は釈迦の仏教の直流であると言いたいという思いがある。」

佐々木閑発言、佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教』279~281頁)

(注8)原始仏教・上座仏教における律の位置づけ

「佐々木 今も昔も、世俗社会では幸せに生きていけない人たちのために仏教サンガは存在しています。でも、「人からもらったものだけで食べていく」という教団を維持するためには、世間から「ものをあげたい」と思ってもらえなければなりません。つまり、周囲の人々から敬い慕われる教団でなければならない。
在家の信者に支えられる托鉢教団を維持運営していく方針として作られたのが、サンガの法律集である「律蔵」です。したがって「律蔵」という法律集は、釈迦に依存しながら独自の価値観を追求していこうとする組織が、社会との間にどういった関係性を構築すべきかを示してくれる指針です。」
佐々木閑発言、佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教』84頁)

(注9)上座仏教(テーラワーダ)におけるカーストに応じた教義の相違

スリランカは大変カースト制の厳しい教団組織であります。一番高いカーストじゃないとスリランカの、そのタイから持ってきたサンガと言いますか、サイアム・ニカーヤ(シャム・ニカーヤ)と呼んでいるのですが、ここは最上位のカーストじゃないとサーマネラ(得度)できません。(略)
スリランカは多くの人が最も原始仏教の姿を今日まできちんと受け継いでいると評価する、そういう仏教であります。しかし、実は建てまえの話(略)
とにかくここで少し注目しましたのは、そのカースト制度、大変厳しい。(略)能仁先生は仏教がスリランカに伝わる前の頃からヴァルナ制を仏教では認めていてというふうな可能性も示唆されています。同じ仏教徒言っても、バラモンとクシャトリアの仏教と、それからヴァイシャとシュードラの仏教はちょっと説く内容が違っていてもいいのだというような話があるということです。」
(中村尚司「報告Ⅰ 中村尚司「東南アジア上座仏教の現状と課題」龍谷大学アジア仏教文化研究センター『2010年度 第1回 国内シンポジウムプロシーディングス「アジア仏教の現在」』6~8頁)

(注10)仏教における肉食の禁止は大乗仏教以降
道端良秀「中国仏教と肉食禁止の問題」↓が詳しく参照されたい。
https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2704&item_no=1&page_id=13&block_id=28





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