「瞑想/仏教と神経的多様性」に関する素描

「人が仏教や瞑想にはまりこむ要因は何か?」が私の個人的なテーマの一つです。

単純な興味のほか、仏教や瞑想にはまりこむ人に、何らかの心の問題があるのは間違いなく、その要因を探ることは、私自身や私の子供等家族に心の問題が生じることを防ぐ方法を検討することに繋がるからです。

人間の発達は、遺伝(器質的要因)と環境の相互作用によるものとされます。

仏教的に言うなら、前者が因で、後者が縁でしょうか。

では、瞑想や仏教にはまりこんでしまう人格を形成させる発達上の器質的要因と環境的要因は何か?

本ブログの記事のうち

「瞑想/仏教と家族」に関する素描
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/05/08/211131

は後者の問題を扱ったものですが、本稿は前者の問題を扱うものです。



本稿の構成

1 神経的多様性とは何か?
2 瞑想会や坐禅会での「頭がよいのに、生きづらさを抱える人」たちとの出会い
3 自閉症と「偽装」
4 自閉症者の高度な記憶力と論理的思考力
5 理系の相対的な自閉症傾向と「救い」を欲する精神性
6 自閉症傾向と「一切皆苦」的世界観
7 発達障害傾向の潜在
8 高機能発達障害における劣等感と超越性の希求
9 小括、そして、発達障害愛着障害との関係~「複雑性PTSD」
10(補論)仏伝に見る釈尊発達障害の可能性



1 神経的多様性とは何か?



神経的多様性は、neurodiversity(ニューロダイバーシティ)の訳語であり、自閉症等の発達障害の研究の中で産み出された概念です。

現在、発達障害は、先天的な脳機能の問題であると理解されています。

簡単にいえば、脳内のネットワーク構造は、一人一人生物学的な相違があります。

そして、そのネットワークの構造が少数派に属してしまうと、社会の多くの人とのコミュニケーションがうまくいかなくなります。(注1)

誰にでも、脳内のネットワークの相違があることの一番分かりやすい例は、「味覚」であると思います。

複数の人が、全く同じものを食べても、おいしい、まずい様々な意見の出ることはよくあります。

このような感覚に関する直観的判断に優劣はありませんが、多数派と少数派とでは、少数派の直観はなぜか否定される。

同じ状況に直面しても、その状況に対して、多数派と違う反応をしてしまうと、「空気が読めない」などと非難や蔑視をされる。

生物学的な脳の構造は、その本人の責任ではありませんし、相違する脳内のネットワーク相互間で、優劣はないはずですから、近時、発達障害は、健康な状態と比較して悪いというような純粋な障害の問題ではなく、社会的な差別の問題であるとの見方が有力になってきています。

このような脳内のネットワーク構造の相違や、この相違に着目する考え方が神経
的多様性と呼ばれています。



2 瞑想会や坐禅会での「頭がよいのに、生きづらさを抱える人」たちとの出会い



私は、複数の瞑想会や坐禅会をめぐる中で、「頭がよいのに、生きづらさを抱える人」に出会うことがよくありました。

たとえば、若い人と話してみると、私よりも、色々なことを知っていたり、考えていたりして、感心することが少なからずあったのですが、非正規雇用労働者であったり、無職であったりする人がほとんどでした。

現代は、非正規雇用労働者が多く、単なる社会の縮図であるとも思えなくもないのですが、それにしても、頭がよいのに、人生がうまくいっていない感じのする人が多くいました。

単純に考えれば、頭がよければ問題解決も容易なはずであり、世間的な意味で人生における成功をしやすいはずであるのに、なぜか生きづらさを抱える。

そんな人が多くいる矛盾がわたしには不思議でした。

また、見た目社会的に成功していように見える人でも、深く話を聴いていくと、心の底に、鬱積したものを抱えていることがわかり、見た目は、社会的に適応しているけれども、生きづらさを抱えている人が多くいることがわかりました。

私自身も、学校的な成績はよく、そのお陰もあって、現在の仕事に就き、自慢話のような話になりますが、子ども4人を大学まで進学させることに不安を感じない程度の所得を得ることが可能になりました。

しかし、人付き合いが苦手であることから、生きづらさを感じるところがあり、そのことが、瞑想や仏教に興味を持つ理由の一つになったのだと思います。

このような「頭がよいのに生きづらさを抱えるのはなぜか」との疑問を抱く中で、ボランティアで傾聴を始めたことをきっかけに自閉症に関する本を読み出したことが、本稿で述べるような着想の発端となりました。



3 自閉症と「偽装」



発達障害にも、様々な種類がありますが、その中でも、自閉症に関して、参考になる点が多くあると感じます。

自閉症の診断を受ける人でも、誰もが、見た目で精神的な問題とわかるような行動をとる訳ではありません。

当事者の方は、よく「偽装」などといいますが、自閉症の人も、知的障害がなければ、後天的な学習によって、見た目としては、普通の人のように振る舞うことができるようになります。



自閉症で知能が平均かそれ以上の人は、幼いころからかなり上手にフツーを装うことを覚える。が、それでもときどきポカをする。親には扱いにくく、また周囲から疎んじられ、学校でいじめられ、職場で排除されやすい」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』12頁)



しかし、「普通の人」に合わせることは大変ストレスが貯まることであり、近時、過剰適応として問題となっています。

また、このような過剰適応が、「普通に」学生時代を送ってきたのに、社会人となった後、突如、会社に行けなくなり、引きこもってしまう問題が生じる要因のひとつとしてあげられています。

すなわち、学生時代は、何とか過剰適応して「普通に」振る舞っていても、就職により、自分の言動に対する責任を強く問われることなどから、日々強いストレスにさらされた結果、適応をすることに疲弊してしまって、引き込もってしまうなどといった問題が生じる例が少なくないといわれます。



「「社会的ひきこもり」は精神医学的観点からも決して楽観視できない問題と言える。

さらに発達障害を専門とする筆者が診た範囲内では、彼らの発達歴を幼児期・小児期にまで遡ってみると、学習障害(LD)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)、アスペルガー症候群(AS)、境界知能などのいわゆる軽度(高機能)の発達障害が少なからず認められる。これは他の発達障害の専門医の報告でも同様である。社会的ひきこもりと発達障害との関連性は(略)臨床的な観察から指摘されている」

(星野仁彦「ひきこもりと発達障害」『ひきこもり支援者読本』18頁)
https://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/hikikomori/handbook/pdf/1-2.pdf



「軽度の発達障害者は、何とか高校・大学まで卒業したとしても、その後の就職と社会適応が困難になることが少なくない。場合によっては長期間のひきこもりやニートになることもある。また成人になると、様々な心の合併症――特にうつ病、依存症、パーソナリティ障害、不安障害(神経症)――を伴うこともある」

(星川前掲23頁)



同様の指摘は、金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』や岩波明発達障害』にもあり、専門家の間でも、一般的な理解とされているようです。



「仕事をする中で、しばしば悲しく感じることがあります。それは、おそらくは就学前の幼児期には無邪気で屈託のない性格であった彼らが、いつの間にか(おそらく修学期間中にあるいは就労中の不適応の果てに)すっかり自信を失ってしまっていることです。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター前掲書135頁)

「ASD(引用者注:自閉症の意)、ADHDなどの発達障害の当事者の多くは、行政や福祉からの支援を受けずに、「一般人」として社会の中で暮らしている。彼らはある程度「普通」の社会参加は可能であるが、(略)学校や職場などで、失敗を重ねて不適応となって仕事が続けられなくなったり、さらに引きこもりになったりするケースは珍しくない。」

岩波明発達障害』(2017年)223頁)



4 自閉症者の高度な記憶力と論理的思考力



自閉症は、症状がとても多彩であるという特徴を有するとされますが、中心症状の一つが、コミュニケーションの困難です。(注3)

そして、発達障害が、知的障害を伴わない場合でも、このようなコミュニケーションの困難をもたらされます。

発達障害は、必ずしも知的障害が伴うわけではなく、「学業の後れがそれほど目立たず、場合によっては健常児よりも成績の良い発達障害児が存在する」(注4)ことがわかってきています。

特に、注目されるのは、自閉症の人は、「普通の人」と比較して、記憶力がよく、かつ、ボトムアップ式の論理的思考力が高い例が多いと言われていることです。



自閉症の方は全体として記憶力が優れているのです」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)62頁)



また、自閉症の人の論理的思考力については、次のような指摘がされています。



「彼ら(引用者注:自閉症者)が得意とするボトムアップ処理の認知様式が、文字や算数への興味を促進し、それを学習する機会を増やす可能性もあります。彼らは、因果関係に明確な規則性のある構造(例えば、二つの歯車をかみ合わせたときの回転速度の変化)においては、時として、飽くなき関心と優れた力を発揮します」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修前掲書122頁)



文献には出会ったことはないのですが、このような自閉症の人に見られるという記憶力と論理的思考力の高さは、脳内のネットワークの相違によるコミュニケーションの不全とバーターなのではないかと推定しています。

すなわち、脳内のネットワークの相違から直観的に行動を取ると、多数派とは、異なる反応をしてしまい、非難されたり、誤解される。

そこで、多数派の行動を観察して、具体的な場面毎にどんな反応をするかの情報を集積して、そこから、特定の場面毎にどんな反応をするのが多数派的であるかの抽象的な法則を見出して、多数派の反応に沿う、行動をすることができるようにする。

このような作業を日常的に繰り返すことにより、情報の集積のための記憶力と、集積した情報から抽象的な法則を見出すための論理的思考力が自然と訓練されていく。

これが自閉症の人たちの記憶力や論理的思考力の高くなる機序なのではないかと考えています。

また、自閉症の人が、「普通の人」に適応して行う、日常の他愛もないコミュニケーションそれ自体が、小テストを繰り返すような作業であり、苦痛やストレスが高まっていく結果となる。

だから、自閉症の人たちに多く見られるという優れた記憶力や論理的思考力は、脳内のネットワークの相違によるコミュニケーションの不全とバーターなのではないかと考えています。



5 理系の相対的な自閉症傾向と「救い」を欲する精神性



記憶力や論理的思考力は、いわゆる理系の人の特徴であるとよく言われますが、この観点から興味深いことは、理系の学生の方が、自閉症スペクトラム指数(AQ)が高いとされることです。



「一般大学生の専攻やパーソナリティとAQとの関連をみた研究(略)英国のそれは、AQが高いと神経症傾向が強く、外向性と同調性が低かった。男子は女子よりも、また、物理や化学専攻の学生はそうでない学生よりもAQが高かった。興味深いことに、親が科学に関する仕事をしている学生は、そうでない学生よりもAQが高かった。日本では高知大学が一般学生にAQを実験したところ、文系学部よりも理系学部の学生のAQが高かった。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)62頁)



オウム真理教事件の際、その信者に理系出身者が少なくないことが話題になりました。

これは、理系の人には、自閉症ないし自閉症傾向の人が多く、記憶力、論理的思考力が高さと同時に、脳内のネットワークの相違によるコミュニケーションの不全という生きづらさを感じる人が多いからではないかと思います。

自然科学は人間の生き方を指し示すものではありませんから、生きづらさを抱えて、特別な信仰が必要になったのではないでしょうか。

私が、実際に接した中でも、瞑想会や坐禅会に来る人には、案外、理系の人が多く、職業の分かった人の中ではSEの人が比較的多かった印象です。

特に、印象に残っているのは、上座仏教(テーラワーダ)の瞑想の実践をしている人たちです。

彼らの中には、輪廻説を、生まれ変わりが実在するものとして、本気で信じている人が少なくないのですが、上座仏教の勉強会で知り合った精神科医の人や、原子力発電所の技術者の人が、生まれ変わりについて、熱く語る場面に居合わせたことは、私にとってとても印象深いことでした(この経験が、仏教や瞑想から距離を置いた方が健全ではないかと考えるようになった大きた要因の一つでした。)。

実際、理系というわけでなくとも、ツイッターなどを見ても(私も含めてですが)、仏教や瞑想に関する発信をする人には、自分のことを合理的に判断が出来る頭のよい部類の人間だと考えている人が、相当程度いるのではないかと思われます。

しかし、頭がよいのだとすれば、問題解決能力が高く、世間的な成功を収めていて然るべきなのですが、なぜか、人生が上手くいっていない人が多い。

そこには、多数派との意思疎通が上手くいかないというコミュニケーション上の問題があり、その基礎には、多数派との脳内のネットワークの相違があるのではないかと思います。

「普通の人らしく振る舞う」ために、周囲の人をよく観察して、具体的事例を集積して、そこから「Xの場合はAと振る舞う」といった抽象的法則を見いだすという訓練を発達障害の人は、生まれたときからずっと繰り返しているのではないのでしょうか。

具体的な事例を集積する中で記憶力が強化され、集積した具体的事例から抽象的法則を引き出すなかで、論理的思考力が強化される。

このような作業を通じて、記憶力と論理的思考力が高い理系的な頭のよい人が作られる。

しかし、それはその人の中での周囲の人との間の価値観等の相違に対する違和感とのバーター。

これが瞑想会や座禅会でであった「頭がよいけれど、人生うまく行っていない」人の産み出される有力なルートではないかと思っています。



6 自閉症傾向と「一切皆苦」的世界観



自閉症発達障害の人にとっては、多数派が何とはなしにやっている他愛もないコミュニケーションの一つ一つが小テストを繰り返すようなものであり、多数派とのコミュニケーションは苦痛なのではないでしょうか。

これまで引用した文献にも、次のような指摘があります。



「社会はたくさんの人々が集まることにより成り立っています。人と人との交流の総体が社会です。この世に居れば他者との関係が必ず生まれる。対人交流が起こり得ないのは無人島に一人いる場合だけでしょう(略)。

つまり、自閉症の方にとって

この世の中に居るということ自体が苦痛

になります。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)67頁)



「仕事をする中で、しばしば悲しく感じることがあります。それは、おそらくは就学前の幼児期には無邪気で屈託のない性格であった彼らが、いつの間にか(おそらく修学期間中にあるいは就労中の不適応の果てに)すっかり自信を失ってしまっていることです。

この根源にあるのは、(略)生まれもっての多様性が、周囲にマイノリティ(社会的少数者)として否定的にあつかわれる環境であり、これこそが彼らを苦しめていると感じています。彼らは、ただ普通に仕事して、穏やかな生活をしていたいだけなのに、それがうまくいかなくて困っているのです。実直な彼らは、歳を重ねるに従い

日々を生きるだけで大いに罰を受けているような気持ちが深まっていきます。

多くの場合、親が期待しているような、普通の社会生活ができていないことに、自己嫌悪を感じて苦しんでいるのです。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修前掲書135~136頁)



これらの引用の中で、特に、印象的なことは

自閉症の方にとって、この世の中に居るということ自体が苦痛」

「日々を生きるだけで大いに罰を受けているような気持ち」

などといった言葉です。

原初的な仏教では、「一切皆苦」を説き、この世界のあらゆる事柄、私達が生きていることすら、「苦」、すなわち、不満足であると考えます。(注5)

自閉症等の発達障害の人たちの「生きていること自体苦痛」という感覚は、仏教で説く一切皆苦の感覚そのものともいえ、瞑想や仏教にはまる人は、少なからず、自閉症等の発達障害や、これに類似する問題を抱えているように思われます。



7 発達障害傾向の潜在



これまでの話に関し、そんなに自閉症等の発達障害の人がいるのか、との疑問を抱く人もいると思いますが、年々発達障害の人は増加しています。



「過去30年間の急増はすさまじい。1万人あたりで見ると1960年代から1980年代まではながらく4~5人の発現率であったが、80年代に入って10人を超える報告が現れた。2000年代には100人を超える報告が相次ぎ、最新の韓国の264人まできた。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)14頁)



また、平成18年度の厚生労働省が、栃木県と鳥取県において、歳児健診にの際、「学習障害(LD)、注意欠陥/多動性障害(ADHD)、高機能自閉症アスペルガー症候群を包含する高機能広汎性発達障害(HFPDD)、軽度精神遅滞といったいわゆる軽度発達障害」の出現頻度を調査したところ、鳥取県では9.3%、栃木県では8.2%であったとされます。(注6)

平成18年の5歳児ですから、現在(令和4年)では、20~21歳ということになり、概ね成人の1割程度が、「偽装」により見た目として社会生活は送れているのだとしても、発達障害の傾向にあると考えられます。

仏教や瞑想にはまる人は、社会的にみれば圧倒的な少数派ですから、その相当程度の割合の人が、知的障害の伴わない高機能発達障害であってもおかしくはありません。

また、次のような指摘もあります。



「統計によって異なるが、例えば、ADHDやLDは15歳未満の子どもの人口の6~12%、HFPDDやASは1.2~1.5%存在する。そうした子のほとんどは特別支援学校や特別支援学級ではなく、普通学級に在籍している。」

(星野仁彦「ひきこもりと発達障害」『ひきこもり支援者読本』22頁)



「普通学級に在籍している」との指摘は興味深く、仏教や瞑想にはまっている人でも、実際には、発達障害なのに、そのことがわかっていないという人も相当数いてもおかしくありません。

同じ文脈で、次の指摘も興味深い。



「現実には成績優秀な子どもほど、発達障害は見過ごされやすい。
成績が良ければ、少しくらいおかしな行動があっても、「あの子はちょっと変わってるから」ですまされやすいし、横並び意識の強いこの国では、たとえ発達障害を疑ったとしても、世間の手前、親も教師もなかなかそれを認めようとしないからである。

その結果、何の治療もカウンセリングも受けないまま大人になっていく人が少なくない。」

(星野仁彦「ひきこもりと発達障害」『ひきこもり支援者読本』27頁)



この指摘は、私自身にも思い当たるところがあり、また、私自身の子育てでも、意識が変わる切っ掛けになったものの一つですが、仏教や瞑想にはまり込む人でも、先にも述べたとおり、精神科医等成績優秀な人達もいて、このような問題が見過ごされているのではないかとも思われます。

さらに、自閉症等の発達障害について考えるに当たり、重要なことは、正常とされる領域と、正式な診断名がつくような発達障害との間には、明確な線引きがなく、連続的なものであり、「自閉性スペクトラム症」などと言われるとおり、まさしくspectrum(スペクトラム)なものであるということです。



「「スペクトラム」という言葉は日常生活ではあまり使用しない言葉であるが、これを理解するには、例えば「虹」を想像してみるとよいだろう。(略)言語文化によって虹の捉え方(引用者注:色の数等)が異なっている。なぜこのようなことが生じるのか。それは、「虹」は層を成しているだけであって、どこで区切るかは非常に恣意的な判断であり、文化や社会によって異なっているからである。自閉症もこれと同じようなところがあり、自閉症の症状はスペクトラム状に現れて、自閉症の人とそうでない人を絶対的に区別することは難しい。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)4頁)

自閉症の徴候は誰にでも多少はある」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修前掲書13頁)

「Broader Autism Phenotype(BAP)(略)とは、自閉症の人の親やきょうだいに、自閉症の徴候が部分的に見られる様態をさす。自閉症とは診断されないきょうだいに、微妙な感情表出の苦手さあったり、コミュニケーションの不得意があったりする。親は、人柄がよそよそしいとか、硬いとか、言語を対人的に使うのが不得手だとかいう報告がある。」

(金沢大学子どものこころの発達研究センター監修前掲書21頁)



自閉症による症状が、脳内のネットワークの相違によるコミュニケーション上の問題であるなら、誰しもが、何らかの生物学的な相違があるでしょうし、どの程度、多数派に属しているのかも、感受性が問題となる様々な領域によって異なり、何らかの発達障害の診断を受けずとも、何らかの形で生きづらさを抱える人も多いのではないでしょうか。

実際には、仏教や瞑想にはまる人には、自分自身の発達障害傾向に気づいていない人も相当数いるのではないかと思われます。(注7)



8 高機能発達障害における劣等感と超越性の希求



瞑想や仏教が高機能発達障害の人に訴求するものと考える理由の一つは、仏教や特に宗教的な傾向がある瞑想が、悟りや解脱などと呼ばれる超越性を希求するものであるという性格にあるものと思います。(注8)

1でも触れましたが、瞑想会等で出会う人には、頭はよいのだけれども、非正規雇用労働者や無職などといった実人生は満たされて居らず、頭の良さが、実人生の良さに結びついていない人が少なからずいました。

このような傾向は、瞑想や仏教にはまる人のツイッターでの発言にも感じることがよくあり、職場やその上司の能力の低さを批判するとともに、彼らよりも能力のあるはずの自分が、その部下であることの不満や、現在の職業に対する不満が示されることがよくあります。

単に能力が低いだけであれば、ある意味救いがあるのかも知れませんが、頭がよく、本来優秀であるはずなのに、それが正当に評価されていないという不満であり、この種の不満は、彼らが、高機能発達障害であり、記憶力や論理的思考力といった頭良さはあるものの、脳内ネットワークの相違からコミュニケーションに難があり、仕事上の成果が出せない状況にあると考えると、理解がしやすいように思われます。

自分に能力があるはずなのに、職場という世間的な世界では正当に評価されないことに対する優越感と劣等感のないまぜになった不満が、仏教等の宗教的瞑想などといった非世間的な世界での悟り等の超越性への希求に結び付くのではないかと思われます。

「「瞑想/仏教と家族」に関する素描」の中でも触れた、岡田尊司『マインドコントロール』におけるカルト宗教にはまる人の劣等感の問題は、この場面でも同様ではないかと感じます。



「社会において自分の価値を認められず、アイデンティティを見出せないものは、社会の一般的な価値観に刃向かうことで、自己の価値を保とうとする。こうしたカウンター・アイデンティティは、社会から見捨てられたものにとって、自分の人生を逆転させ、自分の価値を取り戻すような歓喜と救いの源泉ともなるのである。誰からもまともに扱われなかった存在が、受け入れられ、認められたと感じるとき、そここそが生き場所となる。」
岡田尊司『マインドコントロール』(2016年)17頁)

「非常に自己本位で、しっかりとした自己主張をもつかに見えた人が、マインド・コントロールされてしまうというケースが増えている。
そうしたケースで認められるのは、自己愛のバランスが悪いということである。彼らは、一方では、心のうちに誇大な願望をもち、偉大な成功を夢見ているが、同時に、他方では、自信のなさや劣等感を抱えており、ありのままの自分を愛することができない。誇大な理想を膨らませることで、どうにかバランスをとろうとしている。」

(岡田前掲書85頁)



9 小括、そして、発達障害愛着障害との関係~「複雑性PTSD」



以上のとおり、瞑想や仏教にはまる人には、自閉症等の発達障害ないしその傾向があるように思われます。

そうなると、「「瞑想/仏教と家族」に関する素描」の中で、触れた愛着障害等の家族関係の問題との関係はどうなるのかとの疑問が湧くかと思いますが、愛着障害発達障害が複合化する例が多いことが知られています。



「受診に至る発達障害の患者さんは、発達障害そのもののことだけで受診することはまずなく、必ずほかの問題を抱えています。何らかの適応障害を起こしていて、それが一定のレベルを越えたために受診に至ることが多いのです。(略)

生育の過程で何らかの愛着課題があり、それが原因で虐待やネグレクト、いじめなどを受けたり、複雑性PTSDを生じたりした人もいます。」

岩波明監修『おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線』(2020年)79~80頁)

発達障害のある子は、目が合わないし抱っこもしにくいなど、育てにくい面があります。親からすると、なかなか愛情を感じにくい、ということにもなりかねません。あるいは、親にも何らかの発達障害があり、愛着の発信が難しい場合もありますが、親自身がそれを捉えられていないこともあります。そのようなことが重なると、愛着課題が生じるようになります。」

岩波明監修前掲書83~84頁)

発達障害は子ども虐待の高リスク因子であり、子育て困難を招き寄せやすい。しかし、子ども虐待の後遺症として生じる愛着障害の臨床像は発達障害に類似した臨床像を示す.両者ともに世代を超えるので、何代かにわたったときには、どちらが一義的であったのかまったくわからない状況が生じる。このような症例において親子とも、発達障害と複雑性 post‒traumatic stress disorder(PTSD)の両方の臨床像が認められる。社会性や共感性の障害つまり autistic spectrum disorders(ASD)症状、(解離も加算された)不注意および転導性の高進、衝動傾向、がまんのできなさなどの attention deficit hyper activity disorder(ADHD)症状とともに、フラッシュバックや気分変動、ときには解離性幻覚など、複雑性 PTSD の臨床像を同時に呈するようになる。

もともと発達障害があってそれに子ども虐待が加わっているのか、愛着障害から発達障害の臨床像が生じてきたのかという鑑別について、筆者は非常に悩まされてきた。」

杉山登志郎「複雑性 PTSD への簡易トラウマ処理による治療」『心身医』第59巻3号(2019年)219頁)



瞑想会等で出会った「頭がよいのに、生きづらさを抱える人」は、ほぼ未成年期の親子関係に問題があった人であり、前記の各記述を踏まえると、発達障害の傾向のあるところで、親として、育てにくかったことから、愛着の問題が生じてしまったという人が少なくないのではないかと思われます。

瞑想は、うつ傾向を改善するにあたり、相応の合目的的な方法であるとは思います。(注10)

しかし、薬も過ぎれば毒と言うとおり、瞑想には副作用もあり、やればやるほどよいというわけではありません。(注11)

この種のやり過ぎが起きる理由は、瞑想を実践する人自身が、自分の抱えている問題がいかなるものであるかについて、十分把握していないまま、劣等感を慰撫するため、安易に宗教的な目標に向ってしまうこともあるのではないでしょうか。

マインドフルネスを含めた瞑想の研究は進展しているものの、当の実践者の抱える精神の問題それ自体に焦点を置いた研究は余りないように思われます。

まったく拙い考察であり、ご批判を受けながら随時改訂をしていきたいと思いますが、前稿の「「瞑想/仏教と家族」に関する素描」と合わせ、瞑想を実践する人が、自分自身の抱えている問題それ自体にアプローチをするヒントとなれば幸いです。



10(補論)仏伝に見る釈尊発達障害の可能性



仏教の教義の大元である釈尊は、自閉症等の発達障害の傾向があったかは興味を引く問題ですが、仏伝に一応、それなりの信用性があると考えた上で、発達障害の視点で見ると、興味深いのは、母親である摩耶夫人の出産時の年齢です。

正直、手元の資料が乏しいのですが、信用できそうなネットの情報をいくつか見てみると、釈尊の実母である摩耶夫人が、釈尊を生んだときの年齢は35歳以降であるとされます。

この点、自閉症等の発達障害の要因については、未だ十分解明されていないのですが、高齢出産は一般的に自閉症のリスクファクターとされており、母親が35歳以上の場合は,相対リスクは1.5~3.4であるとされています(注12。因みに父親の場合,10歳毎にリスクが2倍以上になるとされます)。

釈尊自身も、高機能発達障害であり、脳内のネットワークの相違から、当時の周囲の人との間に違和感があって、過剰適応を試みたものの、耐えきれず、修行の旅に出たのかも知れません。

愛着の問題も同様ですが、仏伝も、釈尊の精神的な問題の機序を考えると、意外に合理的なところもあるように感じます。



本文以上



(注1)金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)が詳しい

「現在では、自閉症は先天性の障害であり、育て方が原因ではないとする見解が多く受け入れられています。」(109頁)

「脳内のネットワーク構造が定型発達者とは異なっていることが、成人を対象とする脳画像研究や死後脳の研究から、自閉症の脳の特徴としてほぼ定説となっている」(126頁)

自閉症の人にとって社会的コミュニケーションは、脳科学的に見ても最も難しい脳の作業と言っていいでしょう。」(131頁)

(注2)スティーブ・シルバーマン(正高信男 入口真夕子訳)『自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実』(原著2015年、ブルーバックス版2017年5月20日)58頁

(注3)金沢大学子どものこころの発達研究センター監修『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』(2013年)62頁、66頁

(注4)星野仁彦「ひきこもりと発達障害」『ひきこもり支援者読本』26頁

(注5)原初的な仏教で説く、「一切皆苦」の詳細については、本ブログの「仏教における生命/世界の否定と肯定」の記事を参照
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/02/01/195551

(注6)https://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/boshi-hoken07/h7_02a.html

(注7)ツイッターで、仏教や瞑想等に興味を持っている人のプロフィールやメッセージを見ると、自閉症(ASD)、注意欠陥多動性障害ADHD)等である旨表明する人も多い。内容的な正確性の問題はあるものの、相当数あることからすると、実際に、発達障害の人も多いのではないかと思われます。

(注8)悟りなどとされるものは、単なる脳内の生理現象であり、そのようなものを求めて時間を空費することは、それ自体、病的なものといえます。

仏教における「悟り」と呼ばれるものの生理的な機序の理解については、当ブログの次の記事を参照して下さい。

扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/30/204146

(注9)坐禅等の瞑想の積極的な効果については、次の本ブログの各記事を参照していただければ幸いです。

扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342

「姿勢を正すことによるテストステロンの分泌等――坐禅の生理学的効果(4)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/01/16/162044

(注10)瞑想の副作用については、次の本ブログの次の記事を参照していただければ幸いです。

【参考資料】瞑想の副作用
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/14/210348

(注11)藤原武男、高松育子「自閉症の環境要因」『保健医療科学』59巻4業(2010年)334頁
https://www.niph.go.jp/journal/data/59-4/201059040004.pdf





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