姿勢を正すことによるテストステロンの分泌等――坐禅の生理学的効果(4)

坐禅の生理学的効果に関し、これまでは、いわゆる「調息」の問題について、次のようなテーマで触れてきました。



扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/30/204146
「呼吸回数の減少によるその他の効果――坐禅の生理学的効果(3)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/01/16/121333



今回は、「調身」のことについて触れます。



1 テストステロンの分泌



坐禅をする際には、顎を引き腰骨を立てて、背筋を伸ばし、姿勢をよくして坐るなどと言われます。

このように姿勢を正して坐ると、自然に体幹の筋肉を使うことから、テストステロンの分泌がされるものと考えられているようです。



「特別な運動以外にも、ちょっとした毎日の習慣で筋肉の量やテストステロン値に差が出てくるものです。(略)

座っているときの姿勢も大事です。前かがみになるのも、後ろにふんぞり返るのもよくありません。椅子に深く腰かけ、骨盤を立てて背筋を伸ばして座りましょう。これだけで、インナーマッスルの強化につながります。

慣れないと、ずっと背筋を伸ばして座っているのは辛いものですが、ときどき意識して伸ばすだけでも違います。こうしたちょっとした習慣の積み重ねが、テストスステロン値の向上につながっているのです。」

(平野敦之『できる男の老けない習慣』161頁)

コロンビア大学のカーニーらの研究(2010年)では被験者の唾液の成分を調べてみたところ、Aの堂々とした姿勢のグループの被験者には、テストステロンという決断力・積極性・攻撃性・負けず嫌いなどに関係する男性ホルモンが増加していました。つまり、「体が伸びて気持ちいい」という気分の問題だけではなく、実際に体の中も変化しているということです。

一方、Bの縮こまった姿勢で座ってもらったグループは、テストステロンが減少しました。

体の変化はもうひとつ。ストレス下にあると分泌が増えるコルチゾールというホルモンが、Aの堂々とした姿勢のグループの人たちは減り、Bの縮こまった姿勢のグループの人たちは増えていました。」

(堀田秀吾『科学的に人間関係をよくする方法』28頁)



この例では、椅子ですが、姿勢を正して体幹の筋肉を使うようにしていればよいのですから、坐禅の場合も同様であると思われます。

テストステロンには、次のような生理的な作用があるとされます。



「(テストステロンの)もっとも大きな働きは、骨や筋肉の発達を促し、がっしりした、たくましいからだを作ること、脂肪がつくのを抑える働きも持っています。

また、精子を作る力と性欲を高める働きもします。(略)

皮膚の合成や、動脈硬化を防ぐ作用、造血作用、腎臓の働きを助ける作用など、体内で実にさまざまな力を発揮しています。(略)

テストステロンは、脳内で精神や老化を司るミトコンドリアを健やかに保つなど、脳神経とも深くかかわっています。このため、テストステロンが減ると、記憶力や判断力が衰えてくる上に眠りの質も悪くなり、うつ的な状態になってしまうのです。結果的に積極性や競争意識も落ちて、元気がなくなります。(略)

テストステロンの分泌を高く保ち続けている人は、いくつになっても記憶力も判断力も衰えません。何よりやる気に満ちているため、仕事でも第一線で活躍を続けます。積極性もあるので、新しい仕事に果敢に挑戦したり、時間を惜しまずに人に会いに行ったり、旅に出かけたりと、行動力も落ちません。」

(平野前掲書23~24頁)


 
心身のあらゆる面で有益な効果があるのがテストステロンであり、それだからこそ、その減少は心身に悪影響を及ぼすことになるとされているようです。

仏教の実践という観点から見ると、テストステロンの効果として、注目すべきは、「性欲を高める」働きがあるとされることです。

仏教は欲望を問題としますが、原始仏教では、性欲は特に嫌忌すべきものとされます。



「欲望とは、田畑・宅地・黄金・牛馬・傭人・婦女・親族等を対象とするものと説明されているが、このうちもっとも重要なものは、性欲であろう。同じく原始仏典には説かれている。
 
性の交わりに耽る者は教えを失い、その行いは邪まである。……かつては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世人はかれを卑しい凡夫と呼ぶ。(『スッタニパータ』八一五―八一六、中村元訳)

苦しみの原因は欲望であり、かつ欲望の中心は性欲である、とこのように釈尊は考えているのではないかと思われる。」

(松本史朗『仏教への道』31~32頁)



しかし、性欲を嫌うことが人間として自然なことであるかは、疑問です。

そもそも性欲を否定することは、私たち一人一人がこの世界に存在していることを否定することだからです。

私たちの圧倒的多数は、両親の性欲がなければ、この世界に存在していなかったはずだからです。

そもそも、釈尊も人間である以上、両親の性欲がなければ世界に存在しなかったはずです。

仏教が現われる前から、インドでは、苦行により何らかの境地を目指すことが広く行われていたのであり、釈尊の両親が殊勝にも禁欲の生活を送っていたのであれば、釈尊が現われようがなく、釈尊の両親が性欲に素直に従ったからこそ、釈尊が生まれ、現代の私たちは仏果を享受することができるのです。

性欲が悲劇を生むこともありますが、私たちの圧倒的多数は性欲とうまく付き合っていくことができていることは、ほとんどの子どものいる家族のあり方を見ても明らかです。

性欲や性交の否定は、何らかの心の病の治療として有用であるかも知れませんが、私たちのほとんどにとって、関係のないものです。

煩悩を断滅しようと考えて坐禅をすると、テストステロンの分泌により生じた性欲に悩み、却って心労をすることになりそうです。 

この点、大乗仏教においては、性欲が必ずしも否定されているわけではないように思われます。

中国で多数の仏典を漢訳した鳩摩羅什の逸話が参考になるかと思います。



「羅什は天才的な学者であった。しかしたんなる学者ではなく、情熱の人でもあった。欲望が人一倍強い人でもあった。戒律を破った破戒僧でもあった。(略)

羅什を尊敬していた姚光(ようこう。後秦の王)は、あまりにもすばらしい羅什の才能に驚き、どうしても羅什の子孫を残したいと考えた。国王は『(略)どうか天下のために子孫を作って下さい』と言った。王は後宮三千の美女の中から十人を選び出して羅什の左右にはべらせた。羅什はこれらの十人の美女と生活をともにした。普通の僧であれば『一生不犯の沙門に、こんな破壊な行為はできない』と言って峻厳に拒否したにちがいない。ところが羅什は、何の抵抗もなく美女をうけいれた。

昼間は中国訳経史上、未曾有の大翻訳事業に取りくみ、(略)夜はまた美女十人の居宅に帰り、性の快楽をきわめたのであろう。」

(鎌田茂雄『維摩経講話』31~32頁)



2 その他の効果(ネット情報)



ネット情報では、背筋を伸ばして姿勢良くすることは、以下のような効果があるとされています。

媒体や引用元からある程度信用ができるかと思いますが、ネット情報はネット情報なので、その点留意してください。


 
「実は背筋を伸ばしているかどうかで、脳の覚醒の度合い、処理能力が違ってくる(略)。諏訪東京理科大学教授の篠原菊紀さんはこう説明する。

『背筋を伸ばすと、脳が覚醒し、情報処理に必要な短期的な記憶力などが高まります。背筋を伸ばしたことで抗重力筋が働き、覚醒に作用するノルアドレナリンが脳内に分泌されるからです』

つまり、作業効率を上げるなら背筋を伸ばした姿勢で仕事に取り組んだほうがいい、ということだ。逆に、椅子の背に深くもたれかかったり、机に突っ伏したりした姿勢だと、抗重力筋の働きが弱まるため、覚醒水準は下がり、脳は休息モードに入る。小中学生の頃の授業中の姿勢を思い出し、『なるほど』と納得する人も多いかもしれない。教員が姿勢を注意するのも、脳科学的に正しいというわけだ。

デスクワークをしていて効率が下がってきたり、少し眠気が出てきたりしたときは、いったん立ち上がり、少し歩いて戻ってくるといい。背筋を伸ばしたときと同様、立つことで抗重力筋が働き、覚醒水準が高まる。

また、やらなければならない仕事があるのにスイッチが入らないときには、動くといい。仕事に手がつかないときは、脳の運動系回路が働いていないことが多い。背筋を伸ばしたり、少し歩いたりして体を動かすことで、脳の運動系の回路が働き始め、やる気スイッチがオンになる。

一方、姿勢は思考パターンとも関連している。下を向けば内向き思考に、上を向けば外向き思考になるのだ。

『視線を下げたときは、(略)過去を振り返ったり、自分を見つめたりと自省的になります。ひらめきも起こりやすくなります』

視線を上げたときは、『脳内で注意喚起のネットワークが働きます。情報を取り込み、外の世界とのつながりを強める思考といえるでしょう』」

(「『脳』の処理能力 上げるなら『背筋』を伸ばす!」NIKKEI STYLE
2018/3/18)

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO27549580R00C18A3000000/



ちなみに、上座仏教の瞑想指導では、閉眼をすることを勧められますが、これは、自己の心の変化をみるという上座仏教の瞑想の目的に合致するものといえます。

他方、実際に、顔を上げて開眼をしていると、考えようと思っても、考えることが苦しくなります。どうしても雑念なしに坐りたいという方には、達摩大師や白隠禅師の絵のように開眼をした仁王禅をするのも悪くないと思われます。



3 腰の立て方、背筋の伸ばし方

腰の立て方、背筋の伸ばし方については



「頭のてっぺんにひもでも付いていて、上のほうにスーッと引っ張り上げられていくような気もちにすると、自然に伸びる」

横田南嶺横田南嶺・熊野宏昭「横田老師×熊野先生 禅―マインドフルネス対談」『サンガジャパンvol.32』54頁)



などと言われます。

角度を変えて言うと、上半身から上は、立っている状態にするということも言われます。
 


「瞑想坐法は基本的に『立っている姿でそのまま坐る』ことができたら一番いいんです。(略)二本足で立っている骨盤の状態を崩さず(仙骨の傾斜を変えず)坐るのです。このときあまりに高い坐蒲だと、ゆるやかな腰椎のカーブを維持できません。それどころか無理な姿勢で腰椎を痛める。腰椎の四番目の周囲を痛めます。」

(塩澤賢一「ハタヨーガ行者 塩澤賢一インタビュー ヨーガの息で観てみよう」『サンガジャパンVol.32』101頁)



普段立っている状態が自然なので、無理がないということなのでしょう。

また、若干腰を高くすることがポイントです。

私も本を読んで坐禅を始めた当初坐蒲により腰を高くすることを知らずに苦労しました。



「インドのヨーガ行者を見ても、山や丘などなだらかな傾斜のあるところで坐っているので、余り真っ平らなところで坐るということはないんですよ。」

(塩澤賢一「ハタヨーガ行者 塩澤賢一インタビュー ヨーガの息で観てみよう」『サンガジャパンVol.32』102頁)



横田南嶺老師の次の話も自然に立っている状態の腰にするということかと思います。



「最近開発した方法ですが、人間、一番素直に腰が立つのは、立ち上がろうという瞬間だと発見しました。特に椅子坐禅などをよく外でやりますが、椅子の場合は、「よし、立ち上がろう」と思って、お尻を椅子から離す瞬間、腰が立つのです。【略】立ち上がろうとするときに、スッと腰が伸びる。これが一番自然な腰の伸びた、腰の立った状態だと発見した次第です。」

横田南嶺横田南嶺・熊野宏昭「横田老師×熊野先生 禅―マインドフルネス対談」『サンガジャパンvol.32』54頁)



理念的には次のようなことが言われています。



「腰を突っ立てるということが人間が人間としての主体を保つ根本条件である。(略)人間としての主体性が確立していないということを「腰抜け」という。なぜならば、人間はもと類人猿の時代には四つばいしていたかも知れない。四つばいの状態で全面的に地球の引力に引かれて、引力を退けて自ら立つということはできなかった。動物の時代はそうであったろう。

ところが、人間として自らを自覚する段階になった時、スーッと前足を地球から放して突っ立った。突っ立つ時には、腰の力で突っ立った。具体的に言えば、人間が両手を地球から放して、地球の引力に半ば背いて自らを立てた時、自己の主体性を確立したのである。それは腰の力によってできた。言いかえれば人間の主体性は腰を立てるということによって確立されることになるわけである。」

(大森曹玄『驢鞍橋講話』5頁)



4 上座仏教の実践との相違



坐禅と、上座仏教の瞑想と一番異なる点は、この姿勢という点かも知れません。上座仏教の坐る瞑想は坐禅と似ていますが、腰骨を立てて、姿勢を正すことに対する意識は低い人が多いようです。上座仏教の瞑想は相当時間行うことから、その間、腰骨を立てて姿勢を正していると疲労で観察ができにくくなるためではないかと思います。また、煩悩の断滅を目指すことから、性欲等が高まる姿勢を正す行為の効果に対する忌避感が自然と生じるのかも知れません。言い方が難しいのですが、私の正直な言葉で言うと、上座仏教の実践をしている人は、ダウナー系の人、あるいは、生きる活力に欠けている感の人が多いように思われます。

このような状況からも、姿勢を正すことの効果とされるものには説得力を感じています。




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