仏教における生命/世界の否定と肯定

釈尊の教説は、一切皆苦を基本原理とし、生命否定の思想と言われる。
しかし、日本の仏教界では、生命を肯定する言説が目立つ
仏教における生命、そして、世界の否定と肯定
その関係を整理してみた。



本稿の構成
1 問題の所在
2 原始仏教・上座仏教における生命及び世界に対する価値の否定
3 中国への伝播における生命観・世界観の変化
4 中国における仏教の生命観・世界観の変化の要因
5 (補論1)原始仏教・上座仏教における輪廻の理解
6 (補論2)仏教家が生命観・世界観の変化に触れない理由
(1)日本の伝統仏教の場合  
(2)上座仏教(テーラワーダ)の場合
7 (補論3)原始仏教・上座仏教における不殺生戒の位置づけ



1 問題の所在



SNSで「世界はクソだ」との上座仏教の実践をしているという人の言葉を目にした。

内容の適否はともかく、釈尊の唱えた教説では一切皆苦、すなわち、私達の人生も、世界も、あらゆるものが不満足なものであり、無価値であるということを基本原理とするから、原始仏教や上座仏教の立場からすれば、一貫した主張ではある。

「苦」とは不満足を意味する。(注1)

その典型として、四苦、すなわち、生老病死が不満足なことであるされる。

「生」、すなわち、生まれたこと、生きていることそれ自体が不満足なことであり、無価値だというのである。

この点で、原始仏教や上座仏教は、生命否定の立場に立ち、この世界の存在価値も否定する(後記2)。私達の生きるこの世界は、解脱して離れるべき場所なのである。

しかし、日本の仏教の世界では、生命こそが仏教の中核的価値であるような言説も、よく聞くことである。

このような矛盾する言説の関係について、文献を追ってみる。



2 原始仏教・上座仏教における生命及び世界に対する価値の否定



釈尊の元々の教説、すなわち、原始仏教や、これを踏まえているものとされる上座仏教は、一切皆苦を基本原理とする。

「1 問題の所在」でも触れたとおり、この一切皆苦の原理からすれば、あらゆるものが不満足で、無価値であり、私達の人生や、もちろん、その人生を取り巻く目の前に展開する世界の存在も不満足なものであり、無価値であるということになる。

たとえば、日本における指導的な立場に立つ上座仏教の長老とされるアルボムッレ・スマナサーラは、次のように言う。



「仏教では、人間の人生はうまくいっているとは思っていないのです。人生は問題の泥沼に溺れているようなものだと思っています。もし理性のある人々が努力して平和で幸福な社会を築いても、そのうちまた衰退するのだ、という立場なのです。」
アルボムッレ・スマナサーラ『これでもう苦しまない』35~36頁)



また、リチャード・ゴンブリッチロンドン大学名誉教授も次のように述べる。



「保守的な上座仏教は、共同体の宗教に対するブッダの無関心さと、彼が救済とは無関係と考えた儀式というものに対する否定的な態度を踏襲した。
ブッダの態度は明瞭であり、彼が説いた道はこの世を本質的に不満足な世界として捨てる方向に向かっていた。」
(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』49頁)



以上のようなことから、釈尊の元々の教えは、人生、そして、世界の存在価値を否定するものであると理解されている。

この点は、森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』の記述がよくまとまっている。



「アジアでもっとも反出生主義に近い哲学を打ち出したのは、ほかならぬブッダ原始仏教である。」
森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』15頁)

「古代インドでもっとも反出生主義に近い考え方を説いたのは原始仏教である。原始仏教は人間が経験する一切は苦しみであると考えた。(略)
古層の原始仏典に現れたブッダの考え方を要約すると次のようになる。まず、この世で生きることは苦しみである。この世で死ぬと、輪廻によって別の世界に生まれる。そこでの生もまた苦しみである。そしてふたたび輪廻する。このようにして、私たちは永遠に苦しみから逃れられない。
この苦しみから逃れるためには、この人間界で、自分自身の執着、欲望、愛欲を断滅し、もう二度と輪廻によって別の世界に生れなくてもよいという境地に達する必要がある。」
森岡正博前掲書172~174頁)



3  中国への伝播における生命観・世界観の変化



2に見たとおり、釈尊本来の主張は、生命の否定であり、私達を取り巻くこの世界の存在価値をも否定するものだった。

とはいえ、私達が、日本で仏教家から、「天地いっぱいの生命」とか、「今、いのちがあなたを生きている」などといった大正生命主義的な生命賛歌の類いをよく聞かされる。(注2)

このような言説がなされる要因は、インドで生まれた仏教から、大乗仏教が生まれ、これが中国へ伝播した段階で、その生命観・世界観が変化したことによるものと思われる。

この点を指摘するのが、梅原猛である。



「中国の仏教史をひもとく者は、七世紀から、八世紀にかけて、中国仏教史に大きな変化があったことを知るであろう。どのような変化があったのか。私は、それを一言にして、悲観論から楽観論への変化であったのだといいたい。(略)
七世紀までの中国仏教は(略)暗い影があった。ところが、八世紀に入ると、仏教の性格は一変するように思われる。以後流行の仏教は、華厳と密教と禅であろう。(略)それは、世界のいたるところに存在する仏性賛美の思想であった。そこには、世界に対する大いなる肯定があった。」
梅原猛「絶対自由の哲学梅原猛・柳田聖山『無の探究〈中国禅〉』264頁~265頁)



仏教の中国への伝播の際における価値観の変動は、いわゆる三法印の理解の仕方についても、認められる。

三法印は、仏教の基本原理を示すものだが、普通「諸行無常諸法無我涅槃寂静」をいうとされるものの、原始仏教では、「諸行無常一切皆苦諸法無我」とされ、これが「原初の三法印」などとも称される。(注3)

三法印から、「一切皆苦」という生命否定・世界否定の言葉が消え、「涅槃寂静」という積極的・肯定的なイメージの言葉へと切り替わったのは、漢字語圏に入ってからのことだとされる。



ブッダの教え,すなわち,(釈迦) 牟尼の教説という意味での「佛法」(buddha-dharma) を標示する用語として,現在,漢字文化圈で廣く用いられているのは,「三法印」であろう。すなわち,「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂靜」(略)という三句にまとめられた經句である。(略)
これらの觀念は,少なくとも漢字文化圈では,ブッダの敎えの傳播とともに初めて知られることになる。(略)
一方,パーリ語聖典言語とする佛敎文化圈で傳えられて來たのは,「諸行無常」「一切皆苦」「諸法無我」(略)という三句である。(略)この事象は,「(釋迦) 牟尼の教説」,すなわち,「佛法」の標識が地域化した結果と呼んで良いであろう。(略)
では,なぜこのような事態が起こったのであろうか。(略)
簡潔に言えば,「一切皆苦」の實感が,「涅槃寂靜」への想いに轉換して行く思潮である。」
(室寺義仁「「三法印」―― 古典インドにおける三句の發端と展開の諸樣相 ――」『東方學報 京都』第88冊94~96頁)



漢字文化圏に入ってから、「一切皆苦」の實感が,「涅槃寂靜」への想いへの転換」したするという点は、中国において、「悲観論から楽観論への変化」したとの梅原猛の指摘に通じるものがある。



4  中国における仏教の生命観・世界観の変化の要因



仏教が中国において、生命肯定・世界肯定の価値観を持つものとして変化した要因については、古代の中国人の心理の中のものであり、推論するしかない。

この点、仏教が老荘思想に類いするものとして格義仏教的な理解がされたとの見解もあるが(注4)、これよりも、森三樹三郎の提示する見解の一つである中国思想一般における生命肯定の思想によるとの見解に説得力を感じる。

すなわち、中国人は、生命の価値を重んじ、神仙説に見られるように永遠の生命を希求していたが、それが当然うまく行くわけではないところ、仏教では、輪廻を説き、身体の同一性はなくなるとはいえ、永遠に生きることができる思想として、魅力があったという。



「仏教の中心を三世報応の説に求め、輪廻の思想として受けいれるもの。その代表的なものは、東晋の袁宏(三二八~三七六年)の『後漢紀』に、「仏教の説では、人間は死んでも、霊魂は滅びず、また生まれて新しい肉体を受ける。この現世での行為の善悪は必ず来世の報応となってあらわれる。だから仏教で尊ぶところは、この現世で善を行い道を修め、これによって霊魂を鍛えあげ、ついには無為の境地に達し、仏となることである」と述べているのがそれである。
従来の中国人は現世だけを考え、したがって人生は一回限りのものと信じていた。そのため、この「現世」を無限に延長しようとする神仙説が生まれたほとであった。しかし死を避けることは、なんとしても不可能である。神仙説に絶望した中国人は、無限の生死のくりかえしを説く仏教に走った。」
(森三樹三郎『老子荘子』379~380頁)



生まれ変わりであろうが、何であろうが、生きることができるのであれば永遠に生きたいと思う。この自然な欲求からすると、森三樹三郎の記述には説得力がある。

仏教の中国伝播前後での生命観・世界観の変化。

それは否定から肯定への完全な逆転であり、その点を十分意識していないと、仏教に現れる様々な見解を理解する上でも、思わぬ勘違いをすることも少なくないように思う。



5 (補論1)原始仏教・上座仏教における輪廻の理解



上座仏教では、「輪廻は苦だ」と言われることから、上座仏教の人の中には、中国人が、輪廻を肯定的に評価したことに違和感を抱く人もいるようだ。

おそらく、個々人のメンタリティの問題だと思うが、生きづらさを抱えている人には、「輪廻は苦」だ、永遠に生き続けるのは苦しみだという言い回しも説得力があるだろう。

たとえば、いじめを受けた人が自死する痛ましい事件が起きることもあるが、輪廻が苦だというのは、ずっといじめが繰り返され、その苦痛から、自死し、意識を取り戻したら、またいじめられている状態が続いていたというような場面を想像すると知的には理解はできる。

しかし、多くの人は、このような感覚を抱くことはなく、生きることができるものであれば、生き続けていきたいと思うものだろう。

そもそも、釈尊がその教えを説き始めた古代インドでは、輪廻が苦であるという考え方自体が一般的ではなく、このようなマイナーな価値観であったことも、インドで仏教が衰退した理由ではないかと思われる。



バラモン教における)「カルマン・再生の理論と、生存の反復継続を楽しく受け入れ喜んで承諾するという態度とを結合させることは、一貫性に関する論理上の問題を引き起こすことはないであろう。結局のところ
人生は苦より楽の方が多い
ということになる。実際、我々の乏しい証拠から判断すると、初期ヴェーダ時代における人生の評価はそれほど否定的なものではなかったようであるし、また、はるかに後代の中世ヒンドゥー教では、人生は苦であるという提言は人々の注意をほとんど惹かなかったようである。」
(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』82頁)

「インドの通念では輪廻自体はそもそも苦ではありません。あくまで苦というのは、その輪廻が老病死という現象を宿命的に含みこんでいるということなのです。しかし仏教は、その老病死の際限のない繰り返しが輪廻の本質だと考えることで、輪廻=苦と見るようになった。ですから
輪廻は苦ではないと考える人にとって、仏教の教えは不必要で意味がない
ものと映るのです。梵天観請の話で、「世の中には釈迦の教えを聞いても理解できない人がいる」という言葉は、それを意味しています」
佐々木閑発言・佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教』158頁)



満足か不満足かは価値観の問題であり、どちらが正しいなどということはない。
ある人が満足すべきものであるとするなら、それはそれでよいわけで、そんな人には、仏教の実践は必要ない。

佐々木閑の次の指摘も的確だろう。



『いつも私は思うのですが、仏教という宗教は、まるで病院のような存在です。仏教は「心の病院」なのです。(略)
仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません』
佐々木閑『『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』28~29頁』



ちなみに、鈴木大拙もこう言う。



「われわれから見れば人間にはいつまで生きていても、もっと長く生きていたい、という気持ちは離れないものであると信ずる。ましてや悦んで死ぬというような時代の必然的に来るということは信じられないのである」
鈴木大拙『禅とは何か』16頁)



釈尊一切皆苦の言葉から、人生や世界が不満足であるものと考える人も少なくないが、そもそもそのような価値観自体が自分自身の思い込みの産物であろう。

なぜならば、輪廻説のようなオカルティズムを採用することができない(注5)以上、人生は、死により終了するものである以上、本当に人生が不満足なものであれば、生きていることに価値はないのであるから、自死すればよいだけの話であり、仏教の実践などは全くいらないことになるはずだからである。

現にこの世界の中で生きている以上、自分の人生とこれを取り巻く世界を肯定しているはずであり、人生更には世界を否定するような思想は、矛盾するものと言わなければならない。

鈴木大拙が「厭世家たちがいかに否定的に考えようとも、人生は、結局、何らかの形における肯定である」と言い(『禅』43頁)、「われわれが精神的不満を感ずるということには、その反面にすでに満足を感じているということをも同時に意味しているということを忘れてはならぬ」と言うところ(『禅とは何か』13頁)は、素直によく考えられていると思う。

現実に、この世界に生きており、自らの人生及びこれを取り巻く世界を肯定しながら、一切皆苦などと称して、これらを否定することは矛盾であり、そこに病がある。

「応病与薬」は、仏教によく出てくるフレーズだが、このような矛盾を抱える病んだ人には、有用かも知れない。

しかし、そうではない精神的に健康な人には、全く意味をなさないものである。

むしろ、人生の貴重な時間を不必要な病気の治療に費やすという意味でも、少なからず毒でわることは間違いない。

釈尊本来の仏教が出家者と在家者を厳密に区分することは、十分な理由があるといえるだろう。



6 (補論2)仏教家が生命観・世界観の相違について触れない理由



本稿で取りあげたような、原始仏教・上座仏教と、中国以降の大乗仏教との生命観・世界観の相違について、仏教家が触れる例は少ないように感じる。

その理由は次のとおりのものではないだろうか。

(1)日本の伝統仏教の場合  

中国以降の大乗仏教の流れに連なる日本の伝統仏教の仏教家が、この点について、触れない理由は、大乗仏教非仏説を意識したものであろうと思われる。

すなわち、大乗仏教釈尊の直説ではないことは学術的には明白であるが(注6)、伝統仏教の立場からすれば、自分たちの権威付けのためには、釈尊との関連性を強めたいので、この点には触れたくない(注7)。

そして、釈尊の直説である生命否定の思想と、日本の伝統仏教の相違を取りあげれば、釈尊の権威を引き寄せることができないので、都合が悪いということになろうかと思う。

(2)上座仏教(テーラワーダ)の場合

上座仏教の指導者の中でも、原始仏教・上座仏教が生命否定・世界否定の思想に立つということを教えない人もいるようであり、上座仏教の実践をしているという人の中にも、この点に理解のない人がいる。

このようなことの起きる理由は、仏教の律の背景にある在家者に対する教化の戦略にあるように思われる。

すなわち、上座仏教のサンガは、生産労働に従事せず、生殖も否定する上、反生命主義的な特異な集団といえるが(この点については、5で述べたとおり、古代インドにおいても、生命の価値を否定し、輪廻を苦と捉える考え方は少数派であった)、このような集団が、特に、生産労働を否定することとも相俟って、その構成員の生活を安定させるため、サンガ外の一般市民からの支援(布施)を獲得するために、「支援を受けやすくするような振る舞い」をするために作られたものが「律」という規則である。(注8)

このような律の背景にある価値観からすると、「生命否定」などということは、今の日本のほとんどの人には受けいれられるわけはないであろうし、却って、反発を受ける可能性もあるから、日本における多数派に反しない言動をしているのではないかということが考えられる。

実際、スリランカの上座仏教においては、カーストに応じて、教えられる教義が異なるとされており(注9)、その相手方に応じて、教説を変える傾向があることからすると、日本における指導者についても、日本人に対し、表面上唱える教説を変えているということもあり得ることと思われる。



7 (補論3)原始仏教・上座仏教における不殺生戒の位置づけ



釈尊の教えが、反生命主義であるのであれば、その基本的な戒に「不殺生戒」の存在することをどう位置づけるかの問題が一応存在する。

この点、元々釈尊の原始教団においては、肉食が広く認められていたこと(肉食が禁止されるのは中国伝播以降(注10))などを踏まえて、そもそも不殺生戒は、解脱を実現するために必要不可欠な戒というよりも、サンガ外にいる者との関係性を良好にするための決まりである律的なものにすぎないものであったとの指摘があり、興味深い。



「初期仏教教団では肉食は当たり前であった。また仏陀は豚肉を食べて下痢に罹ったという伝承があるほど、彼らは肉食を習慣としていたし、特にそれが問題となることもなかった。 ところが、教団の外からの批判を受けるに至って、 肉食を制限するという方針がとられ、このことが問題として取り上げられ、その伝統は今日まで、 特に南伝仏教諸派に受け継がれている。 (略)そのような経緯、また、 初期仏教教団において三種の浄肉という方便が発達したことなどを考え合わせると、仏教教団の場合、肉食の忌避や不殺生は教団外部からの批判を受けた教団の対応という-面がかなり強いという。したがって、我々が仏教に対して抱くイメージのように慈悲や利他といった倫理的な立場から不殺生が根拠づけられていたと考えることは難しい。」
(加藤隆宏『古代インドにおける殺生』14頁)



本文以上



(注1)仏教における「苦」の概念

「私たちが漢訳で「苦」という言葉を目にした場合、それは直ちに日本語の「苦しみ」を連想させるから、仏教における「苦(dukkha)」というのも、痛みや悲しみといった肉体的・精神的な苦痛を意味するものだと、一般には考えられがちである。
しかし、そうだとすると、快楽に溢れた生活、例えばゴータマ・ブッダが出家の前にしていた生活はそのようなものであったとされるが、それは「苦」ではないのだろうか。(略)
dukkhaという言葉を訳す時、現在の英訳では、しばしばunsatisfactorinessという単語が使われる。日本語に訳せば「不満足」ということになるが、これはdukkhaのニュアンスを正しく汲み取った適訳だと思う。」
(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』50頁)

「「ドゥッカ」という語をいかに訳すべきかについても、多くの議論が戦わされてきた(略)ここで表現されているのは、我々が通常経験する生は不満足なものだ、ということである。」
(リチャード・ゴンブリッチ浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』36頁)

(注2)伝統仏教における生命尊重主義の発想の例

「二〇一一年、真宗大谷派(しんしゅうおおたには)は宗祖親鸞の七五〇回遠忌(おんき)に向けてのテーマとして「今、いのちがあなたを生きている」を掲げた。(略)
真宗大谷派に限らず、仏教界全体として「いのち」「生命」をまるで諸価値の源泉であるかのごとくに扱っている例は多い。」
宮崎哲弥『仏教論争――「縁起」から本質を問う』230~232頁)

「わがままな私の思いを先とせず、生かされている生命の真実に従った生き方をせよ、ということになりましょう。天地いっぱいに生かされている生命ならば、つねに天地いっぱいを、少なくとも地球全体、人類全体という視点のもとに、ものを考え、行動せよということになります。」
(青山俊董「仏教の普遍性について」『曹洞禅ジャーナル 法眼 第20号 2007年10月』3頁)

もっとも日本の伝統仏教においても、本来の釈尊の教説等を踏まえて、生命の肯定に対し、懐疑的な見解を示す例もある。

真宗大谷派に限らず、仏教界全体として「いのち」「生命」をまるで諸価値の源泉であるかのごとくに扱っている例は多い。
 だが原始仏教の価値評価に照らしても、生まれたこと自体、生きていること自体は苦(ドゥッカ)と捉えられ、その苦の根源は有情の生への執着、生存欲望にあると特定されるのだ。仏教思想には本来、反生命主義“anti-vitalism”の側面がある。哲学者で浄土真宗本願寺派住職の松尾宣昭はこう述べている。
「仏教は基本的には現世否定の宗教なのです。否定という言葉が強すぎるなら、この世を決して祝福しないと言えばいいでしょう。生きものが産んで、増えて、地に満ちることは、「家宅無常の世界」に、さらに油を注ぐようなものです。たしかに仏教の中の浄土教においては、肉食も生殖行為も禁止されません。しかしそれはさきに述べた意味での『いたしかたなし』ということにすぎない。食物連鎖と生殖行為から織りなされた生物界のありさまが『いのち輝く』すばらしい生命の世界などとして讃えられているわけではないはずです。それらはあくまでも『火宅』の世界、すなわち煩悩の火の燃えさかった世界でしかない」
宮崎哲弥『仏教論争――「縁起」から本質を問う』232~233頁)

(注3)普通の三法印と原初の三法印

「一 すべての形成されたものは無常である。(諸行無常
 二 すべての形成されたものは苦しみである。(一切行苦)
 三 すべての事物は私でないものである。(諸法無我
(普通は、諸行無常諸法無我涅槃寂静三法印といいますが、右が原初の三法印です)」
(田上太秀『迷いから悟りへの十二章』13頁)

(注4)「仏教が老荘思想に類いするものとして格義仏教的な理解がされた」との見解

1 「仏教が中国に受けいれられたとき、そうした独住と瞑想の主張が、まず荘子の逍遥遊や斉物論(せいぶつろん)の思想に近いものとみられ、天地同根、万物一体といった自然静観の
オプティミズムと結びついた
ことは確かである」
(柳田聖山「禅思想の成立」『無の探求〈中国禅〉』48頁)

2 「中国知識人の間に仏教の理解ないし受容が急速に進展することになった。それでは中国人は仏教の教義のうちの、どのような点に魅力を感じたのであるか。(略)
仏教の教義と老荘思想との間にある共通点を求め、老荘思想を通じて仏教を理解しようとするもの。これは初期の貴族的知識人の仏教理解において、その主流となったものである。この方向をとるものは、ともすれば老荘的仏教、清談仏教となることが多い。」
(森三樹三郎『老子荘子』379頁)

(注5)上座仏教(テーラワーダ)における輪廻説

上座仏教(テーラワーダ)においては、人間が死後生まれ変わることを前提とする輪廻説を採用している。次の記述はその説明の一例

「釈迦の教えの中には今の自分にとって必須の、優れた教えがたくさん入っていることは認めても、だからといって釈迦の教えを丸ごと全部、絶対の真理として受け入れるわけではない、という意味です。
たとえば釈迦は、業とか輪廻といった、今の時代ならそのまま受け入れることのできないような奇妙な教えを説きました。」
佐々木閑大乗仏教 ブッダの教えはどこへ向うのか』272頁)

この考え方は極めて強固であり、生まれ変わりの否定をする教説は、異端とされる。

ミャンマーには「国家サンガ大長老会(略)」というものがあります。その中で(略)二〇一一年に非法とされた教えがあります。(略)現在業論仏教(略)で、過去生、来世の輪廻を否定し、欲界、色界、無色界からなる三十一界説を否定して、現在の業のみを認めるものです。(略)
現在業仏教はテーラワーダ仏教の伝統的な立場からは問題外です。過去生や来世を否定し、六道輪廻否定するなど、現代の日本の仏教学者に多くみられる意見と共通するものがありますが、特に深い瞑想体験や経典理解から出たとは思えない説です。」
(西澤卓美「厳格に伝えられるテーラワーダの伝統と瞑想の文化」箕輪顕量監修『別冊サンガジャパン①実践!仏教瞑想ガイドブック』50頁)

因みに、日本の上座仏教の勉強会などに参加すると、「生れ変わり」について熱く語る人に接することが少なくない。
私が瞑想等の仏教の実践をする人達から距離を置くことにした理由は、いくつかあるが、その一つがこの種のオカルティズムである。
ただし、見方を変えれば、一種の自殺防止の意味合いもあると思われる。
本文でも触れたように、強い生きづらさを感じたときに、人生に価値がないものとすると、生きづらさを解消する一番簡便な方法は、自死であり、仏教の実践などは全く必要なくなってしまうからである。
しかし、生れ変わるとすると、死んでも次に意識を取り戻したときには、新たな人生が始まっており、人生の苦しみが続いていくことになり、死ぬことが無意味になるから、自死の防止が図られるということになる。
したがって、一切皆苦を前提とすると、輪廻は一切皆苦と不可分一体の根本原理ということになる。

(注6)大乗非仏説

原始仏教、部派仏教、大乗仏教の))「非連続的な面を強調することになる一つの説が、大乗非仏説である。大乗仏教釈尊が説いたものではない。したがって真の仏教ではない、というのである。
(略)歴史的事実として大乗経典が出現するのは、釈尊滅後、およそ400年近く経ってからである。それらの経典が、少なくとも歴史上の釈尊が直接説いたものではないことは、明かであろう。」
(竹村牧男「仏教は本当に意味があるのか」10頁)

大乗仏教は、釈尊=ゴータマ・ブッダが直接に説いた教え(金口(こんく)の説法)からは遠く隔たっている。そのうえ、これまですでにいわゆる大乗非仏説(大乗は仏説に非ずと説く)が、インド、中国、日本で唱えられ、それをさらにみずから否定する大乗仏教の側の自己弁明のみが目だつ。他方、部派仏教は大乗仏教に関しては何も語らず、問題にさえしなかったらしい。」

三枝充悳『仏教入門』37頁)

(注7)日本の伝統仏教の仏教者における釈尊の教説と大乗仏教とを直結させようとするバイアス

「佐々木 (略)日本の仏教学者は宗門出身者が多いですから、私からすると、どうしても自らが信仰する宗派を正当化する方向にバイアスがかかってしまうように見えるんですよね。(略)
佐々木 大乗仏教は、本来の初期仏教を大きく改変することでできた、新たな宗教運動であるということは、これはもう曲げられない事実だと思います。それでも、下田(正弘)さんや日本の仏教学者の中には、どうしても大乗仏教は釈迦の仏教の直流であると言いたいという思いがある。」

佐々木閑発言、佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教』279~281頁)

(注8)原始仏教・上座仏教における律の位置づけ

「佐々木 今も昔も、世俗社会では幸せに生きていけない人たちのために仏教サンガは存在しています。でも、「人からもらったものだけで食べていく」という教団を維持するためには、世間から「ものをあげたい」と思ってもらえなければなりません。つまり、周囲の人々から敬い慕われる教団でなければならない。
在家の信者に支えられる托鉢教団を維持運営していく方針として作られたのが、サンガの法律集である「律蔵」です。したがって「律蔵」という法律集は、釈迦に依存しながら独自の価値観を追求していこうとする組織が、社会との間にどういった関係性を構築すべきかを示してくれる指針です。」
佐々木閑発言、佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教』84頁)

(注9)上座仏教(テーラワーダ)におけるカーストに応じた教義の相違

スリランカは大変カースト制の厳しい教団組織であります。一番高いカーストじゃないとスリランカの、そのタイから持ってきたサンガと言いますか、サイアム・ニカーヤ(シャム・ニカーヤ)と呼んでいるのですが、ここは最上位のカーストじゃないとサーマネラ(得度)できません。(略)
スリランカは多くの人が最も原始仏教の姿を今日まできちんと受け継いでいると評価する、そういう仏教であります。しかし、実は建てまえの話(略)
とにかくここで少し注目しましたのは、そのカースト制度、大変厳しい。(略)能仁先生は仏教がスリランカに伝わる前の頃からヴァルナ制を仏教では認めていてというふうな可能性も示唆されています。同じ仏教徒言っても、バラモンとクシャトリアの仏教と、それからヴァイシャとシュードラの仏教はちょっと説く内容が違っていてもいいのだというような話があるということです。」
(中村尚司「報告Ⅰ 中村尚司「東南アジア上座仏教の現状と課題」龍谷大学アジア仏教文化研究センター『2010年度 第1回 国内シンポジウムプロシーディングス「アジア仏教の現在」』6~8頁)

(注10)仏教における肉食の禁止は大乗仏教以降
道端良秀「中国仏教と肉食禁止の問題」↓が詳しく参照されたい。
https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2704&item_no=1&page_id=13&block_id=28





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「調心」その問題性――坐禅の生理学的効果(5)

坐禅の構成要素は、「調息」、「調身」、「調心」といわれますが、「坐禅の生理学的効果」の記事では、(1)から(3)までで「調息」を、(4)で「調身」を取り挙げました。
(5)として「調心」を取り挙げます。



これまでの記事

○「扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342
○「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/30/204146
○「呼吸回数の減少によるその他の効果――坐禅の生理学的効果(3)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/01/16/121333
○「姿勢を正すことによるテストステロンの分泌等――坐禅の生理学的効果(4)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/01/16/162044



本稿の構成
 
1 瞑想における「調心」の多様性
2 「瞑想病人」問題
3 「評価をする発想」が瞑想病人を生む
4 雑念をなくし、集中することを目指すことの問題性
(1)雑念をなくすことを求めない理念的理由
(2)雑念をなくすことを求めないプラクティカルな理由
(3)臨済禅における坐禅実践における雑念の取扱い
(4)集中瞑想それ自体の問題性
5 心で心を制御しようとすることの問題性
6 只管打坐



1 瞑想における「調心」の多様性



坐禅を含めた瞑想には多様なものがありますが、いわゆる「坐る瞑想」では、「調息」と「調身」については、若干の相違があるとしても、ほぼ共通であり、相違点は、瞑想をする際にどんなことを心の中でやるか、という「調心」に大きな違いがでてきます。

典型的な瞑想手法の調心には次のような相違があるといえるかと思います。



(1)数息観=呼吸回数を数えることに集中する。

(2)随息観=呼吸に集中する。

(3)TM法=特定のマントラを心の中で唱え、それに集中する。

(4)ラベリング法=身体変化(腹式呼吸の際の腹の動き)、外部情報の感受(声が聞こえたときは「音」)、心理的変化(いわゆる雑念が生じたときには「怒り」、「悲しみ」等)について心の中で言語化する。

(5)ヴィパッサナー瞑想=「知覚している(こころの)働きに1つずつすべて気づきつづけるようにすること」(大谷彰『マインドフルネス入門講義』22頁)

(6)マインドフルネス=「『今ここ』の体験に気付き(awareness)、それをありのままに受け入れる」(大谷前掲書17頁)、あるいは、「今ここの自分が何をしているか、考えているか、感じているかなど、心身の状態をありのままに自覚していられる状態」(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号 85頁)

(7)只管打坐=調心をしないこと。「坐禅中に如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず、また、あらゆる希望・願望・要求・注文・条件等を持込まないでただ坐る」(石井清純『禅問答入門』227頁)



(1)から(3)は、集中瞑想(サマタ瞑想)、(5)及び(6)は、観察瞑想と分類されることが多いようです。

(4)は中間形態というべきかと思います。特定の身体的変化のみに着目するのであれば、集中瞑想に近づきますし、着目する変化の対象が拡大していくに従って観察瞑想に近づいていきます。

(7)の只管打坐は、曹洞宗坐禅の手法ですが、「調心」をしないという点で、集中瞑想でも、観察瞑想でもないということになるように思われます。しかし、マインドフルネスの研究者の方は、只管打坐をマインドフルネスの一種と見たり、更にはマインドフルネスの原点であるという人もいて、その評価には面白さがあります。



「黙照禅とマインドフルネスとの共通点が見られます。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』43頁)

「二〇一二年にカバットジン氏が来日した折、懇親会の席で筆者がカバットジン氏に直接マインドフルネスの基本的教理を問いただした時、彼ははっきりと、“ソートーゼン”と答えた」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号 83頁)



瞑想の研究者の間では、集中瞑想と観察瞑想の相違は強く意識されています。

禅宗における坐禅は、(1)、(2)又は(7)に該当しますが、(7)を除く、(1)と(2)は、集中瞑想(サマタ瞑想)に属し、マインドフルネスなどの観察瞑想とは異なるものだと考えられています。



大乗仏教では(略)、天台宗で実践される摩訶止観(略)、密教の(略)阿息観(略)、チベット仏教で実践されるロジョンやトン・レン瞑想(略)などがあります。ただしこれらは気づきを中心とする瞑想(ヴィパッサナー)よりも、意識の集中による止観(サマタ)に近いものなので、オープンな気づきによるマインドフルネスとはやや異なる瞑想法とみなすべきでしょう。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』44頁)

「(臨床的なマインドフルネスについては)テーラワーダ仏教の四念処瞑想や長時間にわたる非思量や公案による本格的な禅瞑想は一部の例外を除いて受け入れられず、気づき(awareness)、『今ここ』の体験(即時性)、あるがままの受け容れ(受容)の三原則を主軸とする斬新な瞑想モデルが考案されました。」

(大谷前掲書111頁)

「この対談でも何度も指摘してきた『集中力重視』の問題点が、『気づきの実践』であるはずの『マインドフルネス』にも、同様に見られる場合があります。例えば、二〇一四年十一月六日のNHK『おはよう日本』で『マインドフルネス』が特集されて、(略)その番組について熊野(宏昭)先生は、『取材時には何度も、観察すること、注意を分割することの重要性を説明したが、ほとんど触れられず、『集中する』という言葉が目だった。マインドフルネスが集中瞑想よりも観察瞑想との関連が深いことを、紹介してもらえなかったことはとても残念』と、ツイッターで感想を投稿されていたんですね」

(プラユキ発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』197頁)



また、「数息観」、「随息観」を用いる臨済宗坐禅では、集中したいわゆる「三昧」の状態に入ることを目指しますが、マインドフルネスは、自己の心理状態を観察する手法であることから、「三昧」の状態に入ることをよしとしないことにも注意をする必要があります。
 


「催眠トランスに特有の意識変容状態は想像没入(imagnative involment)(略)ともよばれますが、マインドフルネス実践中に気づきが失われると、想像没入が起こり、もはやマインドフルネスではなくなってしまいます」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』30頁)



マインドフルネスについては、様々な臨床的な実践や研究があり、それには限界があるにしろ、一定の効果があることが明らかとなっています。



「マインドフルネスの効果量は中程度を示し、無治療(ノンアクティブ)グループとの比較では統計的な有意差が見られるが、認知行動療法などを用いた治療(アクティブ)グループとの検定では効果に有意な違いが見られない」

(大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』32頁)



このことから、禅の団体の中には、数息観や随息観といった臨済宗坐禅もマインドフルネスの一種であるとして、当該団体の瞑想手法を宣伝するところもあります。

もちろん、数息観や随息観でも、呼吸回数の低下に伴う扁桃体の活動の低下や姿勢を正すことによるテストステロンの分泌等の効果が期待できます。

しかし、数息観や随息観といった臨済宗坐禅は、厳密にいえば、マインドフルネスとは異なるものであり、マインドフルネスとして効果があるといような宣伝には疑問があります。



2 「瞑想病人」問題



マインドフルネスが広まり、臨床分野でも実践されるに従い、瞑想には、メリットばかりではなく、デメリットがあることもわかってきました。 



 
「イギリスのオックスフォード・マインドフルネス・センターの2016年10月号の機関紙にはルース・ベアとウィレム・カイケンによる『マインドフルネスは安全か?』という記事が掲載された。このなかで、リトリート(合宿)形式のマインドフルネス訓練が特に問題となりやすい、と彼らは指摘している。

この記事に次いで、マインドフルネスのもたらすマイナス体験の実態調査が、(略)発表された。この研究では参種類の瞑想(テーラーワーダ、禅、チベット)実践者、総計60名から6年間にわたりデータが収集された。統計結果を見ると、72%が『リトリート中もしくは終了後に問題が生じた』と答え、オックスフォード・マインドフルネス・センターの見解を裏づけている。個人の実践では28%が『不快体験あり』と回答した。不快反応のタイプについては『恐怖、不安、パラノイア』(82%)が抜きんでている。しかし特筆に値するのは、マインドフルネスによるトラウマ記憶の再体験である。これは

《実践者の習熟度にかかわらず、約半数近くの実践者(初心者43%、熟練者47%)に生じた。》

研究対象の被験者数が60名と比較的限られているにせよ、(略)マインドフルネスにより『瞑想難民』のみならず、『瞑想病人』の出現すら危惧される」

(大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』32頁)

「マインドフルネス実践中に

《トラウマの自然除反応が発生》

することからも明らかなように、臨床マインドフルネスでも治療の差し障りとなる反応が生じることは早くから知られています(略)。マインドフルネスに伴う弊害をテーマにした論文(略)には、

《自然除反応や意識変容をはじめ、リラクゼーションに伴う不安とパニック、緊張感、生活モチベーション低下、退屈、疼痛、困惑、狼狽、漠然感、意気消沈、消極感亢進、批判感情、『マインドフルネス』依存、身体違和感、軽い解離感、高慢、脆弱性、罪悪感》

といった広範囲にわたる項目が記載されています。このリストから臨床マインドフルネスが禁忌となりやすい条件が推察できます。

仏教に造詣の深い精神科医精神科医マーク・エプスタインは、臨床マインドフルネスの悪影響について、マインドフルネスの進展レベル(初心者/熟練者)、およびクライアントのコーピング能力(高/低)という2つの視座から論じています(略)。彼によるとマインドフルネスでは初心者から熟練者までの各レベルにおいて幅広い『副作用(side effects)』(たとえば、知覚の変化、不安、焦燥、トラウマ記憶再生(自然除反応)など)が生じる。これらのなかには『病的』なものもあれば、一過性の困難やトラブルにすぎないものもある(略)。こうした現象が適切に処理できればまったく問題とはならないが、対応が一時的に困難となった場合や、コーピング(*1)能力の低いクライアントには深刻な問題になりかねない、と警告します。この区分によると、トラウマ記憶によるマインドフルネス実践中の自然除反応は『一過性困難』の典型であり、境界性パーソナリティ障害(*2)のクライアントは『コーピング能力の低いクライアント』のケースと言えるでしょう。要するに、臨床マインドフルネス実践では、クライアントのあらゆる反応に留意することが必要であり、なかでもコーピング能力が十分に確立されていないクライアントには特別の配慮が必須とされるのです。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』195~196頁)

*1 コーピング=ストレスマネジメント手法の一つ。自分のストレスの感じ方を認知・内省して対処する方法。
*2 境界性パーソナリティ障害=情緒不安定パーソナリティ障害とも呼ばれる。不安定な自己―他者のイメージ、感情・思考の制御不全、衝動的な自己破壊行為などを特徴とする障害。自傷行動、自殺、薬物乱用リスクの高いグループ。

「近年のうつ病の多発から,職場のメンタルヘルスに対する関心が高まり,我が国における精神医療へのアクセスは,以前と比べると各段に改善した.しかし,エビデンスベーストな心理療法認知行動療法など)を行うべきケースにそれが行われていないなど,必ずしも適切な治療を受けておらず,患者たちの中には,自助努力として,瞑想・マインドフルネスに取り組んでいる人も少なくない.そうしたケースの中には,その結果,かえって病状が重くなったと訴える人もいる」

(齊尾武郎「マインドフルネスの臨床評価:文献的考察」『臨床評価』46巻1号52頁)

重篤な精神医学的な副作用・有害事象(幻覚妄想状態,躁状態抑うつ状態,解離状態など)が報告されていることに鑑み,瞑想・マインドフルネスの副作用を軽視すべきではないと考える.現状では,MBIは必ずしも精神医学・精神保健的な専門的な知識・経験を十分に持つ指導者が行っておらず,MBIの各種の適応症の根拠はいまだ不十分であり,副作用の生じる可能性があることを含め,MBIを受けようとする人々に,その有効性・安全性について十分な情報を提供しないままにMBIを指導することは非倫理的であると考える」

(齊尾前掲63頁)

※齊尾武郎「マインドフルネスの臨床評価:文献的考察」『臨床評価』46巻1号↓
http://cont.o.oo7.jp/46_1/p51-69.pdf



また



○「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/30/204146

でも触れましたが、偏桃体の活動の低下は、統合失調症と連動するとされているところ、マインドフルネスは、統合失調症の患者には禁忌とされており、呼吸回数の低下により偏桃体の活動が低下することによって統合失調症の症状が進行しやすくなると思われることと整合するように思います。



「マインドフルネス訓練を行ってはいけない人は、真正の統合失調症急性期の患者さんです。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号83頁)

「先ほどサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想が、それぞれ医療とか心理臨床の世界に取り込まれてきた過程をお話ししましたが、リラクセーション法は実は、

統合失調症の人はやらないほうがいい》

ということがわかったんですね。やはり、統合失調症の方だと、中にあるものが溢れ出してくるということがあるのだと思います。だから、集中していくということの結果、起ってくるそういう反応みたいなものに、やっぱり充分気をつけていなくてはいけなくて、そこのところが充分にケアできないような状況でやると、過集中のような状態になって、さらにその反応がワッと出てきて悪化するというようなことがあったり、あるいいは怒りなんかがまたコントロールできないような状態になったりというようなことも起こるのだろうと思います。」

(熊野発言。横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』85頁)



さらに、精神科医でもある臨済宗の禅僧の川野泰周師によれば、うつ病の人に対しても、初期段階では、マインドフルネス、特に呼吸瞑想は避けるべきであるとのことだそうです。



「自責感の強い人に呼吸瞑想をやろうとすると却って自責感を強めてしまう。自責感を休息と薬物療法で下げた後でマインドフルネスをやるとよい。」

(川野泰周発言要旨。「お寺で対談 其の五」『臨済宗 円覚寺派 大本山 円覚寺』WP)
https://www.engakuji.or.jp/blog/32082/



扁桃体との関係を考えると、うつ病の類については、マインドフルネスや坐禅の適応があると考えていたので、新たな発見でした。

以上のほかにも

【参考資料】瞑想の副作用
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/14/210348

の記事でも触れたように、瞑想には、メリットだけではなく、副作用もそんざいすることから、心ある研究者の間では、マインドフルネスの効果に関する喧伝への危惧が示されています。



「(Googleやスタンフォードシリコンバレー等では)他の地域に比べれば(マインドフルネスが)盛んと言うこともできます。しかし、決して、全員がしているわけではありません。

《日本で、針小棒大に宣伝されている可能性》

も否定できません。」

(飯塚まり「プロローグ」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』17頁)

「なかには人々の仏教や“悟り”に対する漠然とした憧れを半ば意図的に利用して、『このマインドフルネス瞑想をやれば、悟りも達成できるし、世俗の社会生活も上手くいく』といったような、あたかも

《マインドフルネスが『万能薬』であるかのような宣伝文句で人々を引きつけようとする瞑想指導者》

もいないわけではない。この点については、厳に注意が必要であろう。」
(魚川祐司「ピュアマインドフルネスの「目的地」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』64頁)



3 「評価をする発想」が瞑想病人を生む



「瞑想病人」が生まれる理由については、プラユキ・ナラテボー師の次の論考がわかりやすいと思っています。



「日本やタイでは、苦しみから抜け出そうと瞑想していくうちに、さらに多くの苦しみを抱えてしまう『瞑想難民』が増えている。(略)
苦しみから抜け出そうと瞑想をしているうちに体調を崩したり、抑うつ感、絶望感や自己嫌悪感を感じるようになったり、人間関係がぎくしゃくするようになったり、なかには

統合失調症離人症、感情障害や摂食障害

のような不調をきたす人もいる。
 
《その要因として瞑想をストイックにやりすぎ》

て、心身機能のバランスを崩すケースが多い。心身の土台がしっかり整っていない状況で、心というデリケートな対象にアプローチした結果、それまで自然に機能していた生命状態が撹乱し、心身の調和が乱れ、通常の認知状態に戻る柔軟性も失われてしまい、種々の症状となって現れてくるのである。
 たとえばこんな感じである。精神状態がちょっとすぐれないので、『瞑想で解決しよう』と思いたつ。けれども、

《集中が思うように続かず、「俺はダメな人間だ」と考えて、無能力感や絶望感》

に陥ってしまう。心を楽にしようと思って始めた瞑想が、いつの間にか『苦悩の増幅法』にすり替わる。しかも本人はそれに気付かずに、

《『いつかは成果が……』と自己を叱咤しながらやり続ける。そのうちに種々の精神障害を発症。》

心がさまざまな不調のシグナルを発していたにもかかわらず、無理してやり続けることで症状を悪化させてしまうのである。」

(プラユキ・ナラテボー「ピュア・マインドフルネスと瞑想」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』66~71頁)



この論考を見ると、瞑想をする上で、目標達成のための手段や結果について何らかの評価をしようとした場合には、精神面での問題が生じやすくなることがわかります。

素人的に考えても、良し悪しの評価が入る余地が出てくれば、却ってストレスがたまるように思われます。

そもそもマインドフルネス自体が、評価するという発想とは異なるものです。



「(マインドフルネスの)定義には一貫して二つの共通要素がある.一つはnon-judgmental(判断を加えない)ということの強調である.自分が今している経験がどのようなものであれ

《評価や判断を加えず》

受容の態度でそれをありにままに観察する,ということだ.通常,われわれは自分の好悪や善悪といった判断に基づいて自分の経験を概念化し,貪りや怒りといった煩悩に駆られた行動を起こすという強迫的な傾向性の虜になっているが,

《経験に対して判断を加えないでそのまま受容する》

ことによってそのような習慣的パターンをはずすことができるようになるのである.今している体験に何かを加えたり,あるいはそこから何かを引いたりして,別な体験に変えようとするのではなく今起きている体験をそのまま存在させるという受動的な態度が強調されている.心理療法の世界では『脱中心化』と呼ばれている,自分の体験に振り回されないようにそこから少し距離を置く,あるいはスペースをつくる技法に通ずるものがあり,マインドフルネスの持つ効用はこの特質から来るとされている.」
 
(藤田一照「「日本のマインドフルネス」へ向かって」『人間福祉学研究第7巻第1号』22頁)



坐禅指導の現場では、このような評価しないことの大切さを考慮せずに、雑念をなくすとか、集中するなどといったことを無批判に坐禅の目標として提示してしまうことが少なくないように感じます。

初めて坐禅の体験をした方に対して、「うまくできましたか?」などと評価するように聞き、相手の方から、「どうしても雑念が出てしまう」とか、「集中するのが難しい」などと返答がされる。それだけでも、坐禅によって却ってストレスが高まっていることがわかります。

そして、ほとんどの人は二度と坐禅をやりに来ません。 

雑念をなくすとか、集中するなどといった目標を設定したり、それがどれくらいできたかなどと評価することは、宗教的な目標ないし信念を考慮しないのであれば、慎重になるべきだと思われます。

臨済禅の一部には、坐禅の目的の一つとして、雑念を生じないことを挙げる立場もあります。

しかし、後に述べますが、このような立場は、臨済禅の世界でも主流ではない上、瞑想の世界でも少数派です。このことは、多くの人にとっては、雑念の発生を防ぐことを課題にすることは、合理的な実践方法ではないことを意味しているように思います。

したがって、坐禅指導等の際に、敢えて目標の設定やその評価をするような方法を用いるときには、相手に対して、却ってストレスが高まるリスクがあることもきちんと説明することが適切ですし、そもそもそのようなことはしない方がよい。

坐禅等の瞑想の際に、何らかの形で心の持ち方を問題とすると、どうしても、そのような心の持ち方がうまくできるかどうかが問題となり、評価の問題が生じざるを得ません。

何らかの形で「調心」をすることの問題性はここにあります。



4 雑念をなくし、集中することを目指すことの問題性



(1)雑念をなくすことを求めない理念的理由


 
雑念をなくすとか、集中するということが漠然と、坐禅や瞑想の目的であると思われてしまっていることはよくあります。

しかし、実際には、瞑想や坐禅では、このようなことが当然に目的とはされていません。

たとえば、理念的には次のようなことが言われています。



「もし念が起こったら、すぐに数息なり、公案なりに取って返せというのである。妄念が起こったからといって、これをなくしようなどと夢々これに取り合ってはならない。念をやめようというのが、また一つの念なのだから、それでは念のやむ時はない。血で血を洗うようなものである。血は水できれいに洗わねばきれいにならぬ。この水に当たるものが数息観であり公案参究である。だから念が起こっても一切取り合わずに、数息なり公案なりに取って返すのである。こうすれば、もともと根無草の念のことだから、『紅炉上一点の雪』のごとくすぐにシュンと消えてなくなる。」

(秋月龍珉老師『公案』49頁)

「発(おこ)る念にかまわず」これが大切。これが坐禅をやっていても、何遍言っても分からない人がいる。長年修行をして何遍言ってもわからない。妄想が起きて困る、妄念が起きて困る、参禅して泣きごとばかり。そんなものは相手にせずに放ったらかしにしておけば、自然に消えてしまう。相手にしているから消えないのだ。それを何遍言っても分からない。何遍言ってもそれができない。後生大事に妄想を育てている。そんな坐禅を百年やっても仕様がない。妄念が起こったら放ったらかしておけば自然に消えてしまう。燃える材料がなければ燃えようがない。それをこっちが燃える材料を与えている。困りますよ、困りますよと、燃料を与えている。それで起こる。そんなばかなことはない。」

(大森曹玄『驢鞍橋講話』435~436頁)

「煩悩を追うな払うな引かれるな。 

煩悩を追ったり払ったりしている中に肝腎の自分を見失ってしまう。坐禅をしている間に、たとい八万四千の雑念が起滅してもとりあわねばよい。悟りを求めず、迷いを払わず、念の起こるを嫌わず、また念を愛して相続せず、ただ起こるに任せ滅するに任せておく。」

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』84頁)

「雑念、妄想と思うのは起こってくる念(色々な思い)の他に私があると認めるからである。雑念、妄想の外に私なしとわかれば、雑念、妄想はそのまま正念になる。」 

(山本龍廣「巻頭言 妄想」(『禅味』2019年4、5、6月号)3頁)

「無心になるとか、無念無想になるとはどういうことか、『菜根譚』はそれに明快な答えをだしていう。

近ごろの人は、専心、無念無想になることを求めるが(かえってそのために雑念を生じて、)結局、無念無想になれないでいる。ただ、前念をとどめてくよくよすることもなく、後念を迎えてびくびくすることもなく、ただ目の前に起っている物事を、次々に片付けて行くことができれば、自然にだんだんと無念無想の境にはいっていくことができよう。(今井宇三郎訳注、岩波文庫本による)

無念無想になることを求めようすればするほど妄想はおこるものである。一度坐禅をしてみればよい。妄想がつぎからつぎへおこってきてどうしようもない。過去にした失敗をくよくよするのは無駄なこと、また未来のことをあれこれ心配するのは無用なこと、やることはただ今のことだけだ。一回ぽっきりの人生のただ今のことをつぎつぎに処理してゆくこと、これが無念無想にほかならない。」

(鎌田茂雄『禅とはなにか』44~45頁)



このような考え方の背景には、あらゆる出来事が「自然の法則」に従って起きる以上、それには必然性があり、結果を問わない「どちらに転んでもよし」と、すべての結果をありのままに受け入れる心を創ることが、禅の実践の目的の一つとされることにあるように思います。



坐禅がわれわれに覚めさせる生命の実物とは、まさに『自己ぎりの自己』『今ぎりの今』――『どっちへどうころんでも、出逢うところがわが生命』という生命態度です。

われわれは、ふつういつでも何事につけてもアレとコレと分別比較し、少しでもなんとかウマイ方へころぼうというはからいを働かせ、そのために、かえってッキョロキョロ、オドオドしながらいきています。というのは、ウマイ方を考えるかぎりは、ウマクナイ方があるのは当然であり、それゆえウマクナイ方へころぶまいという危惧が、どこまでもついてまわるからです。つまりこのウマイ方とウマクナイ方ということを分別して生きるかぎりは、決して『どっちへどうころんでもいい』というような絶対的な安らいにおいてあることはできません。」

(内山興正『坐禅の意味と実際』115~116頁)

「何故に生死があるかというに是れは萬物変化の相であって宇宙活動の現象である。宇宙の本体は絶対平等であるが、恰も大海水に波瀾あるが如く、絶対平等とは申し乍ら霊動体であるに依て常恒不断に活動を起して息(や)まぬ(略)、然れば吾々の生も死も皆な霊動作用でありますから、生死として厭うべきも無く涅槃として欣うべきも無い筈である、けれども凡夫は常に生死の為めに縛られて、三界六道昇沈の相に苦しんで居るのは何故ぞというに、是れは宇宙その物より苦しめらるるに非ずして、皆な各自が自ら作り出だせし業相であります(略)此生死に対する観念亦之と同じく、苦痛と観るも愉快と観るも、その観る人の業障と思想のとの致す所である」

(新井石禅『教理と信仰』44頁)

「最後は全部、受け入れる。『公案』の正解が出ようと出まいと間違っていようとそんなことはどうでもいい。
その『どうでもいい』という所までゆかないといけない。」
(有馬賴底『『臨済録』を読む』24頁)



雑念の生じることを避けようとすることは、このようにあらゆるものを受け入れるという禅で目指す心の持ち方に反するように思います。



(2)雑念をなくすことを求めないプラクティカルな理由



以上は理念的な話になりますが、坐禅や瞑想指導の現場におけるプラクティカルな視点では次のようなことがいわれています。



「瞑想という言葉から、考えや雑念が何も浮かばなくなることがゴールであるというイメージが強いのか、『あっ、また心がそれた、なんて自分はだめなんだ』と心がそれたことで自身を非難してしまう初心者が多いのです。(略)

注意を向ける際の心の態度は、批判・非難・評価しないという態度であることが明示されています。何かに心を集中しようとすると、そこから注意が離れて他のことを考えるというのが心の習慣です。ですから考え・雑念が出てきても、そのことを非難する必要は全くありません。」

(越川房子「マインドフルネスとは」『大法輪』2020年3月号63頁)

「マインドフルネスを学びはじめの方にとくに多いのですが、この瞑想を行なっているときに雑念が出てきてしまうことを悪いことだと気にされる方が非常に多いです。しかしながらこれは大きな誤解です。

マインドフルネスは雑念を押さえたり、雑念が出なくなるようなことを目指すのではなく、雑念が出てきたときにそれに囚われないでいる自分をつくることが大変重要です。うtまり、雑念は練習をつづけていてもありる程度は出てくるのです。

それに補足しますと『雑念』というのは『心がつくりだすフィクション』です。今実際に目の前にないことが雑念となって頭の中に現れてきます。つまり、雑念に飲み込まれるということは心がつくりだしたフィクションの世界に入り込んでしまうことになります。」

(井上広法「マインドフルネスの実践法――通勤・会社・家庭――」『大法輪』2020年3月号75頁)

「初心者の多くは、瞑想中に雑念が浮かぶのは悪いことだと思い込んでいる人が多いようです。ですから、今日もまた雑念がいっぱい浮かんでしまって良くありませんでした、と自己卑下的に話す人がいます。自分のマインドフルネス訓練に対して採点してしまうのです。

このような時に私は次のように話します、“それはそれでよいのです。マインド・ワンダリングに気づくことがマインドフルネスなのです。呼吸に注意集中(考えていない状態)→雑念→雑念に気づく→呼吸に注意集中の繰り返しが脳の訓練、すなわちマインドフルネス訓練です”と。今日はリラックスできてよかったなとか、今日は落ち着かなかったなとか、今日は集中できたとか、いろいろ自分雄マインドフルネス訓練を評価してしまうのですね。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号79~80頁)



以上のことは、「雑念が出てもよい」程度の話ですが、次の熊谷宏昭先生のお話は、逆に「雑念が出る方がよいのだ」という観点のものであることから、興味深いものがあります。



「サマタ瞑想のときになぜ起きていられるかですが、これはリラクセーション反応の研究、あるいはリラクセーションを使う自律訓練法というのがあって、その自律訓練法の中で非常によく知られている現象に『自律性解放現象』というのがあるのです。自律訓練で緩んでくると、いろいろなものが出てきます。瞑想される皆さんがよく経験されるのは雑念ですよね。集中しよう、無念無想になろうとすればするほど雑念が出てくる。あるいはリラックスしてくると、何か凝っている感じがあるなあとか、ちょっと痒いなあみたいな感じとかいろいろな体の症状なんかも出てきます。これは瞑想などで一点集中して無になることから言えばネガティブなことですが、自律訓練法では実は自律性解放が起ったほうが症状が改善することが知られているのです。つまり、自分の中に溜め込んでいた歪みみたいなものが浮き上がってきて解放されていくわけですね。」

(熊野発言。横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』67頁)



このような視点が出てくる理由は、熊野先生が精神科医であることにも関係しているように思います。

カウンセリングの現場では、自分の抱えているトラウマ的な事実を語ることそれ自体が治療になるという場面もあるからです。



フロイトは、抑圧していたもの(略)古代遺跡と同じで、発掘されたときから風化する、と述べています。秘密は話したときから風化します。」
(東山絋久『プロカウンセラーの聞く技術』204頁)



(3)臨済禅における坐禅実践における雑念の取扱い



雑念の発生を忌避しようとする考え方が臨済禅の数息観の実践の一形態として現われる場合があります。

たとえば、数を数えている途中で、雑念が生じたときは、一から戻って数え直すというものです。

しかし、このような立場が臨済禅一般の方法とは思えません。

個人的に複数の臨済禅の寺院等で実践される坐禅会に参加したことがありますが、このような雑念が生じたときの数え直しを指示されたことはありませんでした。

以前、円覚寺の暁天坐禅会に時々通っていた時期があり、その時にも、数え治しの指導はありませんでしたし、また、今から3年ほど前、円覚寺の居士林で土曜日に実施される初心者向け坐禅会に参加したときには数息観の指導もありませんでした。

臨済宗建長寺派では、この点に自覚的であるように思われます。



「初心の方が坐禅を実践する中で一番難しいのが、雑念にどう対処したらよいかということのようです。

坐禅中に起こる念を念で止めようとすることは、血で血を洗うような行為で際限がありません。心で心を無くそうとすると、心はますます有となります。ではどうすればよいのでしょうか。

念は出次第にしておき、ただそれに執着せずにいる。何が出てきても止めようとも、無くそうともしない。念が有ったり無かったりするままに、すべて放下(ほうげ)して取らず捨てず。これが雑念への対処の仕方であり、坐禅の急所です。」

臨済宗洪福寺(政栄宗禅)『坐禅入門』11頁)



このような考え方の背景には、「一念不生」という概念についての次のような理解が前提となっているのではないかと思います。



「『一念不生全体現、』先に申し上げました如く以下四句禅修行の心得であります。そのおつもりでお聞きください。――一念と云うは、可愛い――憎い――ほしい―――おしい――と云う、それであります。かかる念慮は何人にも胸中に生じます。それを生じさしてならぬと云うのであります。従来、心と行うものは死物ではありません活物であります。故に如何にしても念慮の生じない様には出来ません。(略)種々様々な念慮の生ずるのが、心の本質であります。一応字面の上のみを見ますると無念無想になれと云う様でありますが、否、然らずであります。可愛なら可愛の一念の外に余念を生ぜず、憎いなら憎いの他に邪念を生ぜず、ほしい――おしい――そのまま、是に別の念慮を混入せず、そのものそれ三昧になることであります。それ三昧になりきった処に心の全体が現出致します。(略)

元より本性は無病健全である。然るに可愛いと云うそれを煩悩と思い、憎いと云うそれを煩悩と思い、ほしい、おしい、と云うそれを煩悩として、それらの一切を断じよう、除こう、払おうとする、ぞれぞれが抑々(そもそも)病気の上の病気である。煩悩即菩提であると云うことを知らずして是等の煩悩病を全快させんが為に頻りに真如を求むるが、是又大なる迷いである。」

(菅原時保『碧巌録講演(其二)』57~59頁)



菅原時保老師は、建長寺派の管長もされていた方であり、先の洪福寺の住職の政榮宗禅老師も建長寺派であることから、「建長寺派では、この点に自覚的である」と考えた次第です。

煩悩が生じることも、自然の法則のなせるものであるにもかかわらず、それを振り払おうとすることが更に苦悩を生じさせます。

雑念も同じであり、これを振り払おうとすると苦悩が生じるということかと思います。



(4)集中瞑想それ自体の問題性



プラユキ・ナラテボーは、そもそも集中瞑想自体に問題があると指摘します。

長文の引用になりますが、興味深い指摘です。



「『幸福になるために瞑想をはじめたはずなのに、かえって苦しみが増えてしまった気がするのだけど、どうしたらいいでしょうか』と言う人が、私の瞑想会や面談会にいらっしゃることはよくあります。そういう方々を見ていると、やはり『過度の集中』が、身心のバランスを崩す主要因になっているように思われる。(略)

集中というのは流動し変化する現象を敢えてデフォルメし、それを固定的な対象とすることで成り立つものですから、そこにハマってしまうと、イキイキとした現実に対応する機動性や柔軟性が失われてしまう。

そして、この集中によるデフォルメされた認知から派生するもう一つの大きな問題は、それが心理学で言うところの『解離』の症状や、『回避』の行動をもたらすことです。私が蚊に刺されたかゆみが全く平気になるようなトランス状態に入ったのに、にもかかわらずその騒音にどんどん過敏になっていったように、現実に生じている事態からどんどん遊離していって、その平安な状態を乱すものに対して、嫌悪の情を抱くようになるんですね。

実際、私がお話しした『瞑想難民』の方にも、集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまったり、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。ほとんど病的な解離症状に陥っているわけですけれども、瞑想の場合に厄介なのは、指導者によっては、そういう状態を『瞑想が進んでいる証』として、肯定してしまったりするわけです。それでますます、困難な自分の現状から逃げるために回避行動としての瞑想に没頭し、さらに状況を悪化させていくというスパイラルに落ちていく。」

(プラユキ発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』137~138頁)



プラユキ・ナラテボーの「集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまったり、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。ほとんど病的な解離症状に陥っているわけです」との指摘は、「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」で取り上げた、扁桃体の過度の活動による情動反応の低下などといった問題と整合的であるのではないかと思っています。



【参考】「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/01/16/121333



私たちは、仕事や勉強をする際に、ほかのことに目が行って、仕事や勉強がなかなか進まないという経験をすることが少なくないのではないかと思います。

だから、「集中する」ということを無批判によいことであると思いがちであるように思います。

しかし、「集中できない」ということがこのように自然であるからこそ、「集中する」ことには警戒すべき点もあるように思います。

プラユキ・ナラテボーは、「集中というのは流動し変化する現象を敢えてデフォルメし、それを固定的な対象とすることで成り立つ」という集中の異常性について触れていますが、脳科学論からも、集中の異常性を指摘をするのは、池谷裕二です。



「私は、集中力とは、本来、動物にとって不自然なものだと考えています。集中するということは、周囲に乱されることなく、一点に意識を集めることを意味しています。野生の動物を想像してみてください。たとえば、シマウマが地面の草を食べることに集中することは、よいことでしょうか?

そんなことをしたら、肉食獣の格好の餌食でしょう。野生の動物たちは、一点集中を避け、むしろ、意識を周囲に分散させながら外敵に注意する「分散力」を必要とします。だから、集中しないようにする“非集中力”を発達させてきたわけですし、その能力に長けた動物たちが生き残ってきているわけです。」

池谷裕二『脳には妙なクセがある』319頁)



そもそも坐禅や瞑想の時に集中できたとしても、それは坐禅や瞑想の時という場面に応じたところのもので、それ以外の時に集中できるかは別であると考えるべきなのでは無いかと思います。

脳がある場面で望ましい活動をしていても、脳が普遍的に望ましい活動をするとはいえないという観点から、池谷裕二先生は、いわゆる「脳トレ」にも疑問を呈します。



「世間一般における『脳によい』ことを指示するためのデータ基盤が、ほとんどの
ケースで『○○をすると脳が活性化する。したがって、○○をすれば脳が鍛えられる』という論理構造を持っている(略)。

脳トレにおいて問題にされるべき核心は、トレーニング中に脳がどう活性化するかではなく、トレーニングによって脳がどう変化(あるいは成長)するかということではないでしょうか。(略)

脳が変化したとしても、まだ問題があります。つまり、成績が上昇しなければ、まったく意味がないからです。脳トレを試みる人が本当に気にしていることは、どれほど脳が活性化するかではなくて、結局は『成績が上昇するか』(略)ではないでしょうか。(略)
実生活としては、たとえば計算練習をして計算が速くなれば、結局、もうそれで十分であって、それ以上の実質的な意味はありません。なぜなら私たちはあくまでもトレーニングによって外に現れる変化を期待しているのですから。脳の内側を気にするというのは、それ自体が奇妙な風潮なのです。」

池谷裕二『脳には妙なクセがある』107~108頁)



「『○○をすると脳が活性化する。したがって、○○をすれば脳が鍛えられる』という論理構造を持っている」というのは、脳トレで行われるような計算をするような時には、「脳が活性化」していることは当たり前なので、そこから当然に脳が鍛えられるかは別ということなのでしょう。

そして、脳トレの「計算練習をして計算が速く」なったとしても、それ以外の場面で脳がほかの人よりも効率的に機能するとはいえないということなのかなと思います。

禅に関係する本を改めて読んでみると、禅の世界でも、ある場面において集中力を発揮できることは、他の場面で集中力を発揮できることを意味しないことを前提としているということがわかります。



「正三は、ある時にこう言っている。禅定の機、坐禅の気合いというのはどういうものかと聞いたら、大刀を抜いて構えて見せて、これだと。だから侍は禅定に入りやすいんだ。ところが、侍というものは刀を置くとゲソッとして禅定の機を失ってしまう。それで駄目なんだ。禅僧というものは、朝起きるから夜寝るまで、いや寝た中でも刀を抜いてピタッと構えたような気合いでいるものだと。」

(大森曹玄『驢鞍橋講話』14~15頁)



集中力を養うことも悪くはありませんが、これを坐禅や瞑想を通してやろうとすることに問題があることからすると、やるのであれば、私たちの多くが実際にやってきたとおり、仕事なり、勉強なりのその現場で仕事や勉強を一生懸命にやるというオンザジョブトレーニングでやることが適切かつ効率的であるように思います。




5 心で心を制御しようとすることの問題性



そもそも心によって心を制御することは困難です。

私たちは、色々な場面で、不安な自分や勇気を持てない自分を感じることがあります。

そのような場面では、取越し苦労であるということや、また、少し恥をかくだけの話だということを分かっていても、どうしても心がついてこない。

そのような問題意識があるからこそ、坐禅や瞑想に興味を持つ方も少なくないのではないかと思います。

現に、心の制御の困難を感じているのに、その心を心によって制御しようとしてしまう矛楯。

私たちは、普段、(随意運動については)自分の意志に基づいて自分の肉体を動かしていると考えています。

坐禅において、一定の呼吸をしようと呼吸を制御したり、一定の姿勢を維持しようと身体を制御したりするこを、私たちは、自分の意志でやっていると思っていますが、この「自分の意志」は誰が作るのでしょうか。

普通の感覚ですと、「自分の意志」は、自分で作るように感じるのですが、よくよく反省してみると、私たちは「自分の意志」を作るような作業をすることはありません。それは気づいたときには既にあるのです。

生物学的にいうと、「自分の意志」を造り出すのは、「自分の意志」ではなく、脳などの肉体の生理現象であり、そして、脳を含めた私たちの肉体は、生物学的な自然の法則に基づいて機能しているのですから、「自分の意志」は、このような自然の法則に従って形成されるものといえます。

最近の脳科学論においては、人が行動をするときには、行動しようとする意志が形成されることに先立って、脳が筋肉に動作をするよう指令を出すことが判明しているそうです。



「意志はどこから生まれるのでしょうか――再びこの問題に戻ります。そもそも脳にとって『自由』とは何でしょう。(略)

独マックス・ブランク研究所のヘインズ博士らの研究を紹介します。(略)

押したくなったらボタンを押す――ただそれだけの実験です。そして、『押したい』という意志が生まれたときに表示されていたアルファベットを憶えておいてもらいます。(略)

この作業をしている脳をモニターしてみます。ボタンを押したくなる『心』が、いつ、どこで生まれるのか。『自由意志』のルーツを探ろうというわけです。(略)

結果は衝撃的でした。本人が『押したくなる』前に、すでに脳は活動をはじめていることがわかったのです。意識に『押そう』という意図が生じる前に、無意識の脳はすでに『意図』の原型を生み出しているのです。

もちろん、『こうした脳の事前活動は意志と相関するが、原因であるという保証はない』という反論はできます。しかし、私たちの心や行動は脳の活動である以上、意志もまた脳の活動の結果にほかなりません。この視点をさらに推し進めれば次のようになります。

脳がある活動をしたということは、そのある活動を生み出す元となる活動も脳のどこかにあるはずです。どんな活動にも原因、つまり上流の活動があるはずです。無からは何も生まれません。『押そう』という意志が生まれたということは、その源流である『押そうという意志』を準備する事前活動が、それに先だって脳のどこかに現れるのは当然のことなのです。(略)

どのくらい前から脳は準備を始めるか(略)。驚くなかれ、ヘインズ博士らのデータによれば、平均7秒も前から活動が開始するというのです。早い場合は10秒前に準備の活動が見られます。(略)

となれば、私たちの『自由意志』とはいったい何でしょう。意識に現れる『自由な心』はよくできた幻覚にすぎない――これはほぼ間違いないでしょう『意志』は、あくまで脳の活動の結果であって、原因ではないのです。

池谷裕二『脳には妙なクセがある』273~276頁)
  
「人間の一生は受精卵から始まる。才能も人格も本を正せば、親から受けた遺伝形質に、家庭・学校・地域条件などの社会影響が作用して形成される。我々は結局、外来要素の沈殿物だ。(略・126頁)

身体運動と同様、精神活動も脳のメカニズムが司る。(略)認知心理学脳科学が示すように意志や意識は、蓄積された記憶と外来情報の相互作用を通して脳の物理・化学的メカニズムが生成する。自由意志が発動される内部はどこにもない。したがって自己責任の根拠は出てこない。」

(小坂井敏晶「正義論というイデオロギー――フランス「黄色いベスト」運動から分配正義を考える」『法律時報』91巻9号125~126頁)



私たちの肉体を動かすものを「自己」と呼ぶのなら、普段、私たちが「自己」と呼んでいるものは、その有用性から認められたフィクションであり、「本当の自己」とは、脳を含めた肉体を生理学的に活動させる「自然の法則」ということになります。

私たちの心が、私たちの心によって制御されていないという観点からすると、調心自体に困難な面があり、調心を試みることが却ってストレスをためがちなものになるようにも思います。



6 只管打坐



「調心」には、問題が生じがちであることからすると、特段宗教上の信念がないのであれば、「調心」はしない方が無難なのではないか、というのが、私の結論です。

その意味で、只管打坐は評価されてよいようにも思います。

気を付けなければいけないのは、臨済禅の観点から、只管打坐を数息観・随息観の発展形であり、数を数えたり、息に集中したりなどせずとも、雑念が生じない状態を目指すものであるという捉え方があることです。

ネーミングの問題にすぎないという見方もできましょうが、本稿でいう只管打坐は、曹洞宗におけるもののこと、すなわち、「坐禅中に如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず、また、あらゆる希望・願望・要求・注文・条件等を持込まないでただ坐る」(石井清純『禅問答入門』227頁)ことをいいます。

私が初めて曹洞宗における坐禅指導を受けたのは、表参道にある永平寺別院長谷寺でした。

その際、とある参加者が、指導をしていた僧侶(おそらく雲水)に「数は数えないのか?」と質問したことがありました。

私自身、それまで臨済宗坐禅会に繰返し行っていたせいで、変に坐禅会慣れしてしまったせいで、数息観の指導がなかったことに気づかなかったのですが、その際、「数を数えたりなどはしません」との返答があり、曹洞宗の只管打坐の理解をすることができました。

先のような臨済禅の一部の捉え方では、只管打坐が「調心」をしてしまうことと同様の問題を抱えてしまうことになるので、注意しなければならないように思います。

とはいえ、前記の「如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず」というのも、目標的なニュアンスを生じさせ得るので、私自身は、「調心をしないこと」と表現をする方がよいのではないかと思っています。

「調心」を意識しなくても、ゆっくりと息を吐く調息と姿勢を正す調身により、扁桃体の活動の低下、自律神経の均衡、テストステロンの分泌などの生理学的な効果が期待できます。(注1)
 


ただ坐り、ただ呼吸するだけで、自然と心は調う。

「調心」とは、このような意味と捉えるのが適切であるように思う。



(注1)曹洞宗の大勢からすると、このような生理学的効果を狙いとして坐禅をすることは、習禅として、曹洞宗的な意味での只管打坐とはいえないことに留意して下さい。





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姿勢を正すことによるテストステロンの分泌等――坐禅の生理学的効果(4)

坐禅の生理学的効果に関し、これまでは、いわゆる「調息」の問題について、次のようなテーマで触れてきました。



扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/30/204146
「呼吸回数の減少によるその他の効果――坐禅の生理学的効果(3)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2022/01/16/121333



今回は、「調身」のことについて触れます。



1 テストステロンの分泌



坐禅をする際には、顎を引き腰骨を立てて、背筋を伸ばし、姿勢をよくして坐るなどと言われます。

このように姿勢を正して坐ると、自然に体幹の筋肉を使うことから、テストステロンの分泌がされるものと考えられているようです。



「特別な運動以外にも、ちょっとした毎日の習慣で筋肉の量やテストステロン値に差が出てくるものです。(略)

座っているときの姿勢も大事です。前かがみになるのも、後ろにふんぞり返るのもよくありません。椅子に深く腰かけ、骨盤を立てて背筋を伸ばして座りましょう。これだけで、インナーマッスルの強化につながります。

慣れないと、ずっと背筋を伸ばして座っているのは辛いものですが、ときどき意識して伸ばすだけでも違います。こうしたちょっとした習慣の積み重ねが、テストスステロン値の向上につながっているのです。」

(平野敦之『できる男の老けない習慣』161頁)

コロンビア大学のカーニーらの研究(2010年)では被験者の唾液の成分を調べてみたところ、Aの堂々とした姿勢のグループの被験者には、テストステロンという決断力・積極性・攻撃性・負けず嫌いなどに関係する男性ホルモンが増加していました。つまり、「体が伸びて気持ちいい」という気分の問題だけではなく、実際に体の中も変化しているということです。

一方、Bの縮こまった姿勢で座ってもらったグループは、テストステロンが減少しました。

体の変化はもうひとつ。ストレス下にあると分泌が増えるコルチゾールというホルモンが、Aの堂々とした姿勢のグループの人たちは減り、Bの縮こまった姿勢のグループの人たちは増えていました。」

(堀田秀吾『科学的に人間関係をよくする方法』28頁)



この例では、椅子ですが、姿勢を正して体幹の筋肉を使うようにしていればよいのですから、坐禅の場合も同様であると思われます。

テストステロンには、次のような生理的な作用があるとされます。



「(テストステロンの)もっとも大きな働きは、骨や筋肉の発達を促し、がっしりした、たくましいからだを作ること、脂肪がつくのを抑える働きも持っています。

また、精子を作る力と性欲を高める働きもします。(略)

皮膚の合成や、動脈硬化を防ぐ作用、造血作用、腎臓の働きを助ける作用など、体内で実にさまざまな力を発揮しています。(略)

テストステロンは、脳内で精神や老化を司るミトコンドリアを健やかに保つなど、脳神経とも深くかかわっています。このため、テストステロンが減ると、記憶力や判断力が衰えてくる上に眠りの質も悪くなり、うつ的な状態になってしまうのです。結果的に積極性や競争意識も落ちて、元気がなくなります。(略)

テストステロンの分泌を高く保ち続けている人は、いくつになっても記憶力も判断力も衰えません。何よりやる気に満ちているため、仕事でも第一線で活躍を続けます。積極性もあるので、新しい仕事に果敢に挑戦したり、時間を惜しまずに人に会いに行ったり、旅に出かけたりと、行動力も落ちません。」

(平野前掲書23~24頁)


 
心身のあらゆる面で有益な効果があるのがテストステロンであり、それだからこそ、その減少は心身に悪影響を及ぼすことになるとされているようです。

仏教の実践という観点から見ると、テストステロンの効果として、注目すべきは、「性欲を高める」働きがあるとされることです。

仏教は欲望を問題としますが、原始仏教では、性欲は特に嫌忌すべきものとされます。



「欲望とは、田畑・宅地・黄金・牛馬・傭人・婦女・親族等を対象とするものと説明されているが、このうちもっとも重要なものは、性欲であろう。同じく原始仏典には説かれている。
 
性の交わりに耽る者は教えを失い、その行いは邪まである。……かつては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世人はかれを卑しい凡夫と呼ぶ。(『スッタニパータ』八一五―八一六、中村元訳)

苦しみの原因は欲望であり、かつ欲望の中心は性欲である、とこのように釈尊は考えているのではないかと思われる。」

(松本史朗『仏教への道』31~32頁)



しかし、性欲を嫌うことが人間として自然なことであるかは、疑問です。

そもそも性欲を否定することは、私たち一人一人がこの世界に存在していることを否定することだからです。

私たちの圧倒的多数は、両親の性欲がなければ、この世界に存在していなかったはずだからです。

そもそも、釈尊も人間である以上、両親の性欲がなければ世界に存在しなかったはずです。

仏教が現われる前から、インドでは、苦行により何らかの境地を目指すことが広く行われていたのであり、釈尊の両親が殊勝にも禁欲の生活を送っていたのであれば、釈尊が現われようがなく、釈尊の両親が性欲に素直に従ったからこそ、釈尊が生まれ、現代の私たちは仏果を享受することができるのです。

性欲が悲劇を生むこともありますが、私たちの圧倒的多数は性欲とうまく付き合っていくことができていることは、ほとんどの子どものいる家族のあり方を見ても明らかです。

性欲や性交の否定は、何らかの心の病の治療として有用であるかも知れませんが、私たちのほとんどにとって、関係のないものです。

煩悩を断滅しようと考えて坐禅をすると、テストステロンの分泌により生じた性欲に悩み、却って心労をすることになりそうです。 

この点、大乗仏教においては、性欲が必ずしも否定されているわけではないように思われます。

中国で多数の仏典を漢訳した鳩摩羅什の逸話が参考になるかと思います。



「羅什は天才的な学者であった。しかしたんなる学者ではなく、情熱の人でもあった。欲望が人一倍強い人でもあった。戒律を破った破戒僧でもあった。(略)

羅什を尊敬していた姚光(ようこう。後秦の王)は、あまりにもすばらしい羅什の才能に驚き、どうしても羅什の子孫を残したいと考えた。国王は『(略)どうか天下のために子孫を作って下さい』と言った。王は後宮三千の美女の中から十人を選び出して羅什の左右にはべらせた。羅什はこれらの十人の美女と生活をともにした。普通の僧であれば『一生不犯の沙門に、こんな破壊な行為はできない』と言って峻厳に拒否したにちがいない。ところが羅什は、何の抵抗もなく美女をうけいれた。

昼間は中国訳経史上、未曾有の大翻訳事業に取りくみ、(略)夜はまた美女十人の居宅に帰り、性の快楽をきわめたのであろう。」

(鎌田茂雄『維摩経講話』31~32頁)



2 その他の効果(ネット情報)



ネット情報では、背筋を伸ばして姿勢良くすることは、以下のような効果があるとされています。

媒体や引用元からある程度信用ができるかと思いますが、ネット情報はネット情報なので、その点留意してください。


 
「実は背筋を伸ばしているかどうかで、脳の覚醒の度合い、処理能力が違ってくる(略)。諏訪東京理科大学教授の篠原菊紀さんはこう説明する。

『背筋を伸ばすと、脳が覚醒し、情報処理に必要な短期的な記憶力などが高まります。背筋を伸ばしたことで抗重力筋が働き、覚醒に作用するノルアドレナリンが脳内に分泌されるからです』

つまり、作業効率を上げるなら背筋を伸ばした姿勢で仕事に取り組んだほうがいい、ということだ。逆に、椅子の背に深くもたれかかったり、机に突っ伏したりした姿勢だと、抗重力筋の働きが弱まるため、覚醒水準は下がり、脳は休息モードに入る。小中学生の頃の授業中の姿勢を思い出し、『なるほど』と納得する人も多いかもしれない。教員が姿勢を注意するのも、脳科学的に正しいというわけだ。

デスクワークをしていて効率が下がってきたり、少し眠気が出てきたりしたときは、いったん立ち上がり、少し歩いて戻ってくるといい。背筋を伸ばしたときと同様、立つことで抗重力筋が働き、覚醒水準が高まる。

また、やらなければならない仕事があるのにスイッチが入らないときには、動くといい。仕事に手がつかないときは、脳の運動系回路が働いていないことが多い。背筋を伸ばしたり、少し歩いたりして体を動かすことで、脳の運動系の回路が働き始め、やる気スイッチがオンになる。

一方、姿勢は思考パターンとも関連している。下を向けば内向き思考に、上を向けば外向き思考になるのだ。

『視線を下げたときは、(略)過去を振り返ったり、自分を見つめたりと自省的になります。ひらめきも起こりやすくなります』

視線を上げたときは、『脳内で注意喚起のネットワークが働きます。情報を取り込み、外の世界とのつながりを強める思考といえるでしょう』」

(「『脳』の処理能力 上げるなら『背筋』を伸ばす!」NIKKEI STYLE
2018/3/18)

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO27549580R00C18A3000000/



ちなみに、上座仏教の瞑想指導では、閉眼をすることを勧められますが、これは、自己の心の変化をみるという上座仏教の瞑想の目的に合致するものといえます。

他方、実際に、顔を上げて開眼をしていると、考えようと思っても、考えることが苦しくなります。どうしても雑念なしに坐りたいという方には、達摩大師や白隠禅師の絵のように開眼をした仁王禅をするのも悪くないと思われます。



3 腰の立て方、背筋の伸ばし方

腰の立て方、背筋の伸ばし方については



「頭のてっぺんにひもでも付いていて、上のほうにスーッと引っ張り上げられていくような気もちにすると、自然に伸びる」

横田南嶺横田南嶺・熊野宏昭「横田老師×熊野先生 禅―マインドフルネス対談」『サンガジャパンvol.32』54頁)



などと言われます。

角度を変えて言うと、上半身から上は、立っている状態にするということも言われます。
 


「瞑想坐法は基本的に『立っている姿でそのまま坐る』ことができたら一番いいんです。(略)二本足で立っている骨盤の状態を崩さず(仙骨の傾斜を変えず)坐るのです。このときあまりに高い坐蒲だと、ゆるやかな腰椎のカーブを維持できません。それどころか無理な姿勢で腰椎を痛める。腰椎の四番目の周囲を痛めます。」

(塩澤賢一「ハタヨーガ行者 塩澤賢一インタビュー ヨーガの息で観てみよう」『サンガジャパンVol.32』101頁)



普段立っている状態が自然なので、無理がないということなのでしょう。

また、若干腰を高くすることがポイントです。

私も本を読んで坐禅を始めた当初坐蒲により腰を高くすることを知らずに苦労しました。



「インドのヨーガ行者を見ても、山や丘などなだらかな傾斜のあるところで坐っているので、余り真っ平らなところで坐るということはないんですよ。」

(塩澤賢一「ハタヨーガ行者 塩澤賢一インタビュー ヨーガの息で観てみよう」『サンガジャパンVol.32』102頁)



横田南嶺老師の次の話も自然に立っている状態の腰にするということかと思います。



「最近開発した方法ですが、人間、一番素直に腰が立つのは、立ち上がろうという瞬間だと発見しました。特に椅子坐禅などをよく外でやりますが、椅子の場合は、「よし、立ち上がろう」と思って、お尻を椅子から離す瞬間、腰が立つのです。【略】立ち上がろうとするときに、スッと腰が伸びる。これが一番自然な腰の伸びた、腰の立った状態だと発見した次第です。」

横田南嶺横田南嶺・熊野宏昭「横田老師×熊野先生 禅―マインドフルネス対談」『サンガジャパンvol.32』54頁)



理念的には次のようなことが言われています。



「腰を突っ立てるということが人間が人間としての主体を保つ根本条件である。(略)人間としての主体性が確立していないということを「腰抜け」という。なぜならば、人間はもと類人猿の時代には四つばいしていたかも知れない。四つばいの状態で全面的に地球の引力に引かれて、引力を退けて自ら立つということはできなかった。動物の時代はそうであったろう。

ところが、人間として自らを自覚する段階になった時、スーッと前足を地球から放して突っ立った。突っ立つ時には、腰の力で突っ立った。具体的に言えば、人間が両手を地球から放して、地球の引力に半ば背いて自らを立てた時、自己の主体性を確立したのである。それは腰の力によってできた。言いかえれば人間の主体性は腰を立てるということによって確立されることになるわけである。」

(大森曹玄『驢鞍橋講話』5頁)



4 上座仏教の実践との相違



坐禅と、上座仏教の瞑想と一番異なる点は、この姿勢という点かも知れません。上座仏教の坐る瞑想は坐禅と似ていますが、腰骨を立てて、姿勢を正すことに対する意識は低い人が多いようです。上座仏教の瞑想は相当時間行うことから、その間、腰骨を立てて姿勢を正していると疲労で観察ができにくくなるためではないかと思います。また、煩悩の断滅を目指すことから、性欲等が高まる姿勢を正す行為の効果に対する忌避感が自然と生じるのかも知れません。言い方が難しいのですが、私の正直な言葉で言うと、上座仏教の実践をしている人は、ダウナー系の人、あるいは、生きる活力に欠けている感の人が多いように思われます。

このような状況からも、姿勢を正すことの効果とされるものには説得力を感じています。




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呼吸回数の減少によるその他の効果――坐禅の生理学的効果(3)

坐禅の生理学的な効果として、既に呼吸回数の減少による「扁桃体活動の低下」について触れました。



https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/30/204146



本稿では、坐禅の際の呼吸回数の減少による生理的効果に関し、1として「自律神経のバランス」について、2として「多幸感の発生」について説明していきたいと思います。



1 自律神経のバランス――坐禅の生理学的効果


 
坐禅の際のゆっくりとした呼吸は、交感神経優位になりがちな自律神経のバランスを取りやすくする効果があるとされています。

この点については、小林弘幸『自律神経を整える「あきらめる」健康法』にわかりやすい説明があります。
順天堂大学医学部教授



「血液循環、呼吸、消化吸収、排泄、免疫、代謝、内分泌などは、すべて恒常性を維持するためのシステムで、そのすべてに自律神経が深くかかわっています。(略)

膨大な長さの血管のすべてに沿って自律神経が走っていて、全身をめぐっている血管の動きをコントロールしているのです。(略)

自律神経のバランスがいいときがもっとも免疫力が高く、体にとっていい状態といえるのです。(略)

自律神経でもっとも大切なのは、交感神経と副交感神経のバランスですが、日々、たくさんのストレスの中で生きている私たちは、ふだん下がり気味の副交感神経を上げてやるしかありません。

若い頃は、副交感神経の働きが高いため、新しい出会いや変化がもたらすストレスによって、一瞬、自律神経が乱れたとしても、すぐに副交感神経がリカバリーしてくれ、いちはやく自律神経の乱れが調整されます。

しかし、男性は30歳、女性は40歳を境として、副交感神経の働きがガクンと下がるため、ほうっておくと自律神経のバランスが乱れたまま、つまり、交感神経が高く副交感神経が低い状態になったまま、なかなかリカバリーされません。

交感神経が優位で、副交感神経が下がったままでいると、血管が収縮し、血流が悪くなり、筋肉に血液がいかなくなるので疲れやすくなり、また脳の血流も悪くなるので、決断力や判断力も鈍くなります。」(8~11頁)



そして、ゆっくりと呼吸することにより、副交感神経が高まり、自律神経のバランスがとれるようになるとされます。



「自律神経のバランスを精神状態で表すと、交感神経は『緊張・興奮』、副交感神経は『余裕・安心』ということができます。

このことは、呼吸と密接に関連しています。(略)

回数でいうと、心に余裕があるときの呼吸は1分間に15~20回程度ですが、焦ったり緊張すると、1分間に20回以上にまで増えます。

こうした呼吸の差は、自律神経のバランスの差になって表れます。

ゆっくりとした深い呼吸をすると、副交感神経が刺激されます。そのため、血管が開き、末梢前血流がよくなります。

そして、血流がよくなると筋肉が弛緩するので、体はリラックスします。これが、緊張したときに呼吸をすると心が落ち着く最大の理由なのです。 

反対に、呼吸が浅くなると、副交感神経が下がり、血流が悪くなります。」

(小林弘幸『自律神経を整える「あきらめる」健康法』71~72頁)



このような効果は広く認められているようであり、ほかの先生方からも指摘があります。


 
「健康法として取り入れる際には下記の点がお勧めです。

1 息を十分吐くことを意識する。

2 お腹を使った腹式呼吸(息を吐く時にお腹を凹ませる)

3 ある一定のリズムでゆっくりくり返す

お腹を使ってゆっくり息を吐くことは自律神経、特に副交感神経というリラックスの神経を刺激することにつながり、ストレスや過労で緊張状態の現代人には有効です。息を十分吐くことで肺に残っている残気量が減るために、空気の出入りも多くなり換気効率が上がります。お腹を凹ましながら息を長く吐くことで腹腔内の血流もよくなる可能性もあります。」

(打越曉「呼吸力を高める」『大法輪』(2020年3月号)111頁)

「現代のストレスの多い情報化社会では、交感神経がぴりぴりと興奮させられることが多く、こちらだけが先に進んでしまい、置いてけ堀をくった副交感神経とのバランスに支障を来すことになります。こうした自律神経のアンバランスが続けば生体機能が滞ることによって不健康な状態がもたらされることは必定です。

一方、呼吸との関係をみると、呼気で副交感神経の働きが良くなり、吸気で交感神経の働きが良くなるという関係があります。ですから、置いてけ堀をくっている副交感神経を引き上げてバランスを回復するためには吐く息に気持ちを込めることが要求されます。東洋の呼吸法として「呼主吸住」ということが挙げられるのはこのためなのです。

帯津良一「おすすめの呼吸法とやってはいけない呼吸法」『大法輪』第87巻第3号(2020年3月)



打越先生も帯津先生も、扁桃体の活動の低下をもたらす、血中二酸化炭素濃度の上昇と結びつく、「吐く息」を重視することも興味深いものがあります。

坐禅の際のゆっくりとした呼吸、特に、しっかりと息を吐くことにより、副交感神経が高まり、自律神経のバランスを取りやすくなることを期待してもよいのかなと思います。

坐禅等の瞑想による生理学的な効果としては、次に述べるような多様なものがあるとされますが、冒頭に挙げた小林先生の著書によれば、自律神経のバランスの欠如が様々な身体的不調を来たすものとされることからすると、これらの多様な効果も、呼吸回数の減少や吐く息の重視がされることにより、低下しがちな副交感神経が高まり、自律神経のバランスが取れるからであるように思えます。



「瞑想によって身体に有益な生理学的指標の変化が引きおこされることを報告した研究は数多く見られる。現在一応の合意が得られていると思われる研究成果を挙げてみると、瞑想は、酸素消費、二酸化炭素産出、呼吸数、心拍数、心拍出量、血圧、体温などを低下させ、皮膚抵抗の増大などを引き起こす働きがあるとまとめることができる。これらの変化は、ひとまとめに『リラクセーション反応』と呼ばれている。」

(安藤治『ZEN心理療法』27~28頁)



2 多幸感の発生



血中二酸化炭素濃度が上昇すると、多幸感が生じるものとされています。



「死に際になると、呼吸状態も悪くなります。呼吸というのは、空気中の酸素をとり入れて、体内にできた炭酸ガスを放出することです。これが充分にできなくなるということは、一つには酸素不足、酸欠状態になること、もう一つは炭酸ガスが排出されずに体内に留まることを意味します。

酸欠状態では、前述のように脳内にモルヒネ様物質が分泌されるといわれています。柔道に絞め技というのがありますが、あれで落とされた人は、異口同音に気持ちよかったといっています。酸欠状態でモルヒネ様物質が出ている証拠だと思います。

一方炭酸ガスには麻酔作用があり、これも死の苦しみを防いでくれます。」

(中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死のすすめ」』64頁)



この資料の中に出てくる「モルヒネ様物質」が具体的に何かは把握しておりません。もしかしたら、セロトニンあるいはオキシトシンであるかのようにも思われます。具体的な機序には心ももたない点がありますが、血中二酸化炭素濃度の上昇が多幸感をもたらす趣旨の記述として捉える分には問題ないかと思います



3 白隠禅における「悟り」体験(見性体験)の機序



ところで、白隠禅における「悟り」の体験(見性体験)は、「自他不二の体感」とされ、それに幸福感や解放感といった肯定的な感覚が伴うものとされます。



「『悟り』とは、今まで『差別』の世界しか知らなかった自我が、自我を空じて無我に徹したところで、“自他不二・物我一如”という『平等』の世界が根底にあったということに目覚めることである。」

(秋月龍珉『日常の禅語』27頁)

「自己の本性を悟るといっても、べつに今までになかった新しい知識を得ることではなく、いままで後生大事に背負い込んでその重さに耐えかねていた自己という妄想の固まりを放り出して、天地宇宙と一つに融け合った瞬間の体験が悟りだ」

(大森曹玄『参禅入門』241頁)

「その自分、私は夕方、昏鐘頃からの坐が一番よく坐れることを知り、日々その時間を大切に思っており、その日も気持ちよく坐り、いつか無字三昧に入り、時のうつるをも知らずにいました。そこへ直日が入室し、開板をうち、献香した後、経行(禅堂内を坐禅する心で歩くこと)の柝(たく)をうった刹那、たちまち胸の中がからりとして、何もかも輝きわたり、その時は、ああともこうともいうべき言葉もなく、ただ涙がこぼれて、人について堂内を歩いていても、虚空を歩くようで、ああやっと分かったと嬉しくてたまりませんでした。やがて止静になっても、その感激はますますふかく、長香一炷(一本)がすみ、独参の喚鍾がでるのをまちかねて、まっさきに入室し、湘山老師にいきなり、『できました』と申し上げました。それまではいつも『できません』としかいったことのない私が、勢いこんでこういいましたので、老師も、『ふうん、どう見たか』と。私が見処を申し上げると、『そう見まいものでもない』と。その場でいくつかの拶処(問題)を透りました。ここにくわしくは申し上げられませんが、ここで私は佛心の一端を見たのであります。佛心は生を超え死を超えた、無始無終のもの、佛心は天地をつつみ、山も川も草も木も、すべての人も自分と一体であること、しかも、それが自己の上にぴちぴちと生きてはたらいて、見たり聞いたり、言ったり動いたりしているのだという。祖師方の言葉が、そのとおりであるということを知ったのであります。」

(朝比奈宗源『佛心』35~36頁)

「鈴木(大拙)先生の場合、『アメリカに行けばもう参禅はできぬ。渡米前に片付けなくては』というせっぱつまったとき、いわゆる『窮すれば変ず、変ずれば通』じたのである。すなわち臘八摂心中のある晩、参禅を終わって山門を降ってくるとき、月明りの中の松の巨木との区別をまったく忘じ尽した、『自他不二』の、天地と一体の自己を体得したのである。」

(秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』149頁)



扁桃体の活動の低下は、統合失調症と関連性があると考えられており、統合失調症の症状の一つである自我障害は、自他不二の体感に類似します。



(参考)
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/30/204146



とはいえ、統合失調症の自我障害については、否定的な感覚が伴うものとされることからすると、これを補うものとして、多幸感の発生が考えられるように思います。

すなわち、白隠禅における「悟り」の内実は、長時間の坐禅等による血中二酸化炭素濃度の上昇とこれに伴うセロトニンの過剰分泌に基づき扁桃体の活動が低下し、(一時的に)統合失調症の自我障害と共に、多幸感が生じる現象と捉えるここともできるのかなと思っています。

いずれにしても、異常心理にすぎず、このようなものを追い求める「修行」の類には疑問があります。



「禅は人間としての生活を出ない。禅の目標は人間完成にある。悟りを強要するような禅は、見性流の禅であつて、超人生活をあこがれる人々の迷妄である。」
――岡田宜法(大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』258頁)



また、禅とは、瞑想(=坐禅)によって特別な境地に至るものなのだ、と思っている人も多いかと思いますが、現代日本臨済宗曹洞宗の基礎にある中国の唐の時代における「臨済宗」の創始者である臨済や、臨済の法系の元にある馬祖は、坐禅などの修行や悟りを否定する「無証無修」の考え方を持っていました。



「辞典をひくと、「禅宗」は坐禅によって開悟をめざす宗教などと定義されている。だが、坐禅は通仏教的な行であり、さらには仏教に独自のものでさえない。中国の禅者が追求していたのは、むしろ坐禅を不要とし、かわって日常の営為がそのまま仏作仏行となるような世界であった」

小川隆『中国禅宗史』209頁)

「馬祖以後の禅は、もはやかつてのような山林の瞑想でもなければ、修行や証悟としての生活でもない。むしろ、形式的な瞑想や行道は、ことさらに業をつくり、あたりまえの人間の真実を傷(そこな)うものとして退けられる」

(柳田聖山『仏教の思想7 無の探求〈中国禅〉』184頁)

「宋代以降の中国禅宗において(略)主流派となった大慧宗杲の「看話禅」は,「悟り」の実在を強調することに特徴があった。
それ以前の唐代禅(は)修行と悟りの価値を否定し(略)「無証無修」の立場に立っていた」

(土屋太祐「心性論と社会倫理思想の観点による唐宋禅宗思想史の研究成果」)

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-25770016/



鈴木大拙先生は、その著作の中で「悟り」の体験を重視される記述をされるなどしていましたが、晩年は、体験を重視するような禅の実践を批判されていたとのことです。



「日本禅も腐敗の寸前にあるので、指導者を選ぶのには、用心するに越したことはない。『心理禅』と称されているもの(佐藤幸治とその仲間、石黒[法龍]、安谷[白雲]など)は、禅ではない」

鈴木大拙書簡。ステファン・グレイス「鈴木大拙の現代仏教に対する批判」『国際禅研究』(2018年2月)104頁)

鈴木大拙なりの看話禅の心理的なアプローチと説明が見られ、これによって『心理禅批判』という大拙に対する反論が多く生じた。秋月龍珉は次のように説明する。

鈴木先生の今日禅に対するいま一つの批判は、その見性教育心理主義的傾向についてであります。(中略)わたくしは先に、今日の禅の心理主義的傾向は、鈴木先生にもその責任の一端があり、さらにその源流は白隠禅師にまでさかのぼることができると申しました。(略)

特に外国人読者に誤解を与える可能性があるため、秋月は大拙先生に何度もこのことを伝えたようである。これに対して大拙はこれを認めた様子で肯い、「だからわしはこのごろ特に心理的経験だけではダメだ。哲学がなければいかん」(略)と強調したようである。当然のこととして、鈴木大拙にも、時が経つにつれて、思想の変化が現れたと考えられる。」

(竹下ルッジェリ・アンナ「鈴木大拙における白隠禅師の理解」『印度學佛教學研究 67 巻 (2018) 1 号』66頁)





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扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)

坐禅によるプラス面の生理学的効果の主要なものは、扁桃体の過剰な活動を低下させ、うつ傾向や不安傾向を解消することにあるものと思われます↓

https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/23/144342

しかし、前稿でも、若干触れましたが、扁桃体の活動の低下には次に述べるとおり弊害もあり、扁桃体の活動を低下させればさせるほどよいというものではないように思われます。



【本稿の構成】
1 危険を察知する能力の低下
2 情動反応の低下
(1)概要
(2)禅・瞑想者の実践者の人格的問題
3 統合失調症との関係



1 危険を察知する能力の低下

扁桃体は、自己防衛機能ですから、これを除去した場合、危険の判断ができなくなることが知られているそうで、扁桃体の活動が過度に低下すると、危険を察知する能力などが低下することが懸念されます。


 
「左側の扁桃体を除去した結果、リンダは恐怖の回路の核を失うことになった。(略)リンダは危険を示す一般的なサインを広範囲にわたって認識できなかった。たとえば彼女は、うなり声をあげている犬を平気でなでようとした。走っている車の目の前を歩き出そうとした。熱い炭を素手でそのままつまみ上げようとした。リンダの夫の話によれば、手術を受けてから最初の二年間、妻はしじゅう怪我をしていたという。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』154~156頁)



2 情動反応の低下

(1)概要

扁桃体の活動が障害された場合、感情が鈍くなることから、坐禅により扁桃体の活動が過度に低下すると、対人コミュニケーションに支障が出る可能性が懸念されます。



扁桃体を損傷された動物およびヒトは,生物学的価値評価に基づいた情動発現が障害され,過去の記憶に基づき,自己に利益をもたらす可能性のあるものに対しては快情動を,逆に,不利益をもたらす可能性のあるものに対しては不快情動を発動することができない。このような生物学的価値評価に基づく行動は,ハエからヒトまで多くの動物に共通に認められる。」

(西条寿夫,堀悦郎,小野 武年「ストレス反応の身体表出における大脳辺縁系視床下部の役割」『日薬理誌126号』185頁)

「情動における脳機能では,扁桃体が情動記憶の形成と価値判断においてシステムの中心といわれている(略)。扁桃体の機能障害があることが(略)残存している認知症高齢者の情動に何らかの影響を及ぼしていると考える。」

(占部美恵「認知症の看護~脳の残存機能を活かしたBPSDへ対応を目指して~」『京府医大誌』121号)
http://www.f.kpu-m.ac.jp/k/jkpum/pdf/121/121-12/urabe12112.pdf

扁桃体は、不安や恐怖などの感情を感じた時に活動することが知られています。過度な不安や恐怖が症状であるうつ病、不安障害やPTSDといった精神疾患においては、扁桃体の活動が過剰であること知られています。反対に統合失調症自閉症に認められる感情や対人コミュニケーションの障害が扁桃体の活動の低下と関連していることも知られています。」

独立行政法人 放射線医学総合研究所分子イメージング研究センター 菅野 巖 センター長ほか「感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明」https://www.jst.go.jp/pr/announce/20100224/index.html



(2)禅・瞑想者の実践者の人格的問題



禅の修行者に対する批判として、他者に対する同情や配慮の念に欠ける人の現れることが少なくありません。



「新聞記者をやっていたころ、職業上の必要から禅宗の坊さんにずいぶんと会いましたけれども、何人かをのぞき、これは並以上に悪い人間じゃないか、と思うことが多かったです。」
司馬遼太郎『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』65頁)



司馬遼太郎先生のような人格・見識のしっかりした方の発言は重みがあります。

また、「大悟徹底した」、すなわち、「悟り」を体験したとされる人でも、社会的に低い評価を受ける場合が少なくないことは、この種の実践の方向性を考える上で留意すべきことかと思います。

このようなことが起こる原因としては、坐禅の実践により扁桃体の活動が過度に低下し、情動反応が低下したものだと考えると、整合的に説明できるように感じています。

上座仏教では、「悟り」を「貪瞋痴の滅尽」と捉えますが、このような煩悩の消滅した状態は、情動反応が極端に低下した状態といえるかと思います。


 
同じようなことは、禅の修行をした方からも指摘されています。



「大悟を期待し、公案の透過を積み重ねるということは、一つの修行としては有意義であるとしても、公案がその人の生活から遊離していては何にもならぬ。文字通り閑葛藤といわれてもいたしかたないであろう。とかく公案禅は最も基本的な公案の処理を軽視するため、その修行がいかに厳しくとも形式的となり、皮相安易な公案の処理に終わる場合も多い。(略)公案がその人の生活に密着していなければ、いくら透過しても何の意義もない。(略)

形式化してその精神を忘れ、偏行の盲目に陥りがちである。禅者の見解が一般に偏狭で、現実を正見し、これを正しく導く力に欠けるのもそのためである。また自己の得脱に専念するあまり、利他の大悲心に欠ける傾きがあることもすでに指摘されているとおりである。」
(藤吉慈海『禅と浄土教』124~125頁)

「一般に大悟徹底したと見られている禅者でも、悟後の生活のあり方には問題がある。たとえば社会正義の問題に関し、なんらの発言や寄与がなされないということは、(略)反省されるべきことである。禅(略)に本来そのような人間を現実から逃避せしめるところがあることは、自己内観のプロセスにおいて止むを得ざることかも知れぬが、いつでもそこに止まっていては、宗教の積極的働きの面が失われてしまうであろう。その点は禅が、念仏より積極的に大悲の活躍をなすべきであるのに、かえって往相的修行の困難さから出世間に止まって、還相的現実社会への働きかけに欠けているようである。」
(藤吉前掲書131~132頁)

*藤吉慈海=ふじよしじかい。浄土宗僧侶、花園大学教授。京都大学在学中に久松真一に師事し、久松とともに京大学道道場を設立。また、禅浄双宗論を展開した。

 

批判の対象として「大悟徹底」が強調されることにも興味深いものがあります。長期間坐禅の修行に打ち込んだ結果、情動反応が低下し、坐禅の修行をしない人よりも、同情や共感ができなくなった人間が現れるおそれがあるということでしょうか。



禅の「修行」をしている人に対する論評ですが、次の横田南嶺老師のお話も興味深いものがあります。



「サマタ瞑想、集中瞑想をしておりますと、先ほど来、説明がありましたように、外の世界を断ち切る修行ですから、逆にこれを妨げるもの、外で物音がしたり、邪魔をするようなものに対して非常に不愉快な感情が起きます。排他的な感情が起きます。下手をすると攻撃的になったりするのであります。

よく笑い話で言うのですが、居士林という坐禅道場がありまして、集中瞑想ばっかりやっているんです。すると、どういうことがあるかと言うと、たとえば、外で観光客がうるさかったりすると、外に『坐禅中につき静かにしろ』と貼り紙を出して注意する。しかしそれでも静かにならないと、外へ出て『おまえたち、今、俺たちは坐禅してるんだ、静かにしろ』と叫ぶ。『おまえが一番うるさいんだ!』と言いたくなるんですけれども、そういう愚かなことをやっているんです。皆さん笑いますけどね、本当にそういうことをやっている。(略)

外の情報を断ち切って一点に集中するということは、大きな力を得るという利点はあります。様々な欲望を克服していったり、自分の弱さを乗り越えていく大きな力になるのは感じます。でも、先ほど居士林の笑い話をしたように下手をすると排他的になり、攻撃的になってしまう、諸刃の剣のような一面も持っているのではないかという懸念を抱いております。」

横田南嶺発言。「横田老師×熊野先生 禅―マインドフルネス対談」『サンガジャパンvol.32』80~84頁)



また、上座仏教の実践者の方の次の話も示唆的です。



「(ミャンマーにあるテーラワーダの)瞑想センターの一つで、(略)とても印象的な経験をした。(略)そこで既に七年以上も滞在している、古株の日本人僧侶(略)が私に対して開口一番に、『ここで瞑想しても人格はよくなりませんよ。』と言ったのである」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント「悟り」とは何か』64頁)



おそらく、この経験を踏まえて、同じ著者は次のような指摘をします。



「瞑想と人格のあいだには「関係」はあるけれども、それは「瞑想をやれば必ず人格が世俗的な意味で『よく』なる」といったような、単純でシームレスなものではない、というのが私の指摘していることです。」

(魚川祐司発言・プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』69頁)



このように、坐禅の実践を続けることにより、独善的になり、ほかの人に対する配慮を欠く人格になってしまうことは、禅宗や仏教における理念として慈悲が重視されるという立場に立った場合には、深刻な問題であろうかと思います。 

たとえば、禅の修行の目的は、禅的人格になることとされていますが、禅の修行の中核をなしている坐禅それ自体が禅的人格の形成に支障を来す要因になることを示唆するからです。



「禅堂生活は、空の真理が直覚的に把握せらるる時に終了すると考えられるばかりでなく、この真理が、あまたの試練・義務・紛争に満ちた実際生活のすべての方面において実証せらる時、そしてまた雨が悪者善者のわかちなくこれにひとしく降り注ぎ、あるいは趙州の石橋が馬・驢・虎・豺(さい)・亀・兎・人間などのすべてのものを渡すと同じしかたにて、大慈悲(karuna)の心を生ずる時に、終了すると考えられる。これこそは人が地上において成就しうる最大の修養である。そしてこれを何人もよくなしうるものではない。しかしながら、われわれが全力を尽して菩薩の理想に接近しようとするぶんには、何らの害はない。もし一生にして足らずとするならば、千万劫の未来世に望みをかけてもよかろう。かかる理想のあるものを確固として会得する時、僧は禅堂を辞去し(略)、世界という大社会の一員として、その仲間の中に投じ、実際生活を始める。」

鈴木大拙鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』157頁)



この引用の中の説明が、禅的人格の説明として典型的なものと思われますが、簡単にいえば、無償の利他行為を遂行し続ける人格といってよいかと思います。

しかし、実際には、禅の修行を完成しても、このような人格になることは、困難であるとされています。

先の藤吉慈海師の著作のほかに、秋月龍珉先生の著作では、字面は公案禅の問題点に関する指摘ですが、次のような指摘がされています。



「正直に告白すると、著者は公案禅というものに対して深い疑いをもった時代がある。それは、公案体系に参じて大事了畢したと称する者について、その行裏(あんり)(行ないの後)を見ると、そこにやはり煩悩の習気(じっけ。残り香)が、自我の分別が、明らかに見て取れるからである。そこには、いみじくも外国の好人が言ったように、『鼻もちならぬ禅臭』があって、『無我』であるはずの仏道を『大我禅』に落としてしまっている。(略)

公案だけでははたして本当に禅的人格が練出されるのだろうか。世のいわゆる大事了畢底なる人々を見て、私はそうした深い疑いを抱いた。」

(秋月龍珉『公案』333~334頁)



また、このような人格については、禅の修行を完了し、指導者となったいわゆる師家においても、認められることは少ないものとされています。



「師家は、釈尊以来インド・中国・日本と『仏祖的的相承底』すなわち師承正しい伝統の師から印可証明を得たものでなければならない。(略)しかし、これだはまだ一応の最低限である。この上に、専門的に『見地』の明らかな『道力』を具えた、そして世間的にも人格・識見ともにすぐれた人物を選んで師とすべきである。古川堯達老師が『師家たる者は、師匠ひとりだけが印可しても何もならぬ。真の印可は天下からからもらえ』と喝破されたのは、ここのことであろう。(略)

ただし、古来『真正の見解さえあれば少々不品行でもよい。正見ある者を師とせよ』と評してもある。行解相応の師など昔もなかなか少なかったものらしい。」
(秋月龍珉『公案』58頁)



少し話を変えますが、坐禅には、生理学的によい効果があるものと考えられると同時に、やり過ぎた場合には、種々の問題が生じることが懸念されます。



「長時間にわたる非思量や公案による本格的な禅瞑想は一部の例外を除いて受け入れられず……」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』111頁)

「リトリート(合宿)形式のマインドフルネス訓練が特に問題となりやすい」

(大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』32頁)



リトリートの参加者については、その終了後、日常生活に支障の現れる例もあるとされており、人間関係に問題が生じやすくなるのではないかが懸念されます。



「IMS(米国の瞑想センター)では、初めのうちは瞑想経験を世俗での生活に接続する(integration)の期間をとらずに、三カ月のリトリートを終えたら、「それではさようなら」と解散していたそうですが、そうしたらリトリートに参加していた女性瞑想者が、二日後に雑貨屋でパジャマを着たまま、歩行瞑想をしているのを見かけたそうです。(略)

あくまで極端な例だとは思いますけどね。とはいえ、やはりリトリートの参加者たちの中で、そこでの経験を瞑想センターの外での日常生活に、どのように繋げていけばいいのかという点に関する困難を、多かれ少なかれ感じた人は多かったようです。実際の所、日本で瞑想をしている実践者にも、同種の困難を感じている方々は多いと思います

(魚川祐司発言・プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』70~71頁)



純粋に精神の健康だけを考えるなら、近所のお寺で行われるような、週に1度、25分間の坐禅を2セットやって、後は、30分間くらい、ほかの参加者と一緒に、師家でもない普通のお坊さんと、煎茶と簡単な市販のお菓子をいただきながら、たわいもないおしゃべりをして終わる素朴な坐禅会がコストパフォーマンス的にもベストチョイスかと思われます。



「禅堂には、素敵なものはなにもありません。ただ、ここへ来て、座るだけです。お互いに意思を通じ合わせたあとは、家に帰り、また毎日の暮らしを純粋な禅の修行の続きとして行います。そして、人生の真の生き方を楽しむのです。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』258頁)

個人的には、こんなあり方が一番よいかも知れないと思っています。



3 統合失調症との関係

前稿でもふれましたが、2(1)に引用した文献の中に出てくる感情や対人コミュニケーションの障害の要因の一つとして現れる「統合失調症」も気になるところです。
 


「(統合失調症の症状としては)自分と外界の境界が曖昧になるために自我意識障害もみられる。これは、思考が他人に抜き取られる(思考奪取)、または吹き込まれる(思考注入)と観じたり、自分が誰かに操られている(作為体験)と確信したりする状況である。」
(原和明監修 渡邉映子 藤倉孝治編集『はじめて学ぶ人の臨床心理学』221頁)



禅宗では、見性体験のことを自他不二の体感などと表現することもあります。

統合失調症に認められる自我障害の症状は言葉尻としては類似しており、いわゆる見性体験の類は、長時間の過剰な坐禅等により扁桃体の活動が極度に低下した結果、一時的に統合失調症の症状が現れただけなのではないかと疑っています。

このように考えると、坐禅の長時間の継続により、生じる魔境のような現象についても、統合失調症様の幻覚・妄想の一貫として整合的に説明できるように思います。



「いい気持ちになって陶酔できるほどに定力が練れてきたころになると、定中にいろいろな現象があらわれることがある。その現象にはよいものもあれば悪いものもあるが、それらをひっくるめて古来『魔境』と呼んでいる。(略)

だれが考えても禅の進境に害があると明らかにわかっている魔境は、これを撃退する方法もおのずから立ちやすいが、これは好い境界だ歓迎すべき境界だとおもわれるようなものはちょっと始末が悪い。よく独参(略)のときなどに修行者が、『あたりが全部まっしろくなってしまいました』とか、『体が空になってズーッと天まであがって行き、天一杯にひろがりました』などといって、いかにも無を見たかのように得々としている者もある。もっとも私自身もそれに似たようなことをいって得意がっていたら、先師から『それは多分眠っているのだろう』などと冷やかされたこともある。」

(大森曹玄『参禅入門』117~118頁)

「(専門僧堂での修行の)過程のなかで、色んな幻想が湧き起ってくるわけで、これは古来『魔境』とか『現境』とかいって白隠禅では特に喧しく注意されているところですが、少なくとも、いい気分になる場合であれ、あるいは鐘の音が全身に突きささってくるような苦しい幻覚であれ、凡そ日常生活では味わうことのできぬ体験が臨済の修行にはあるというのは事実です。」

(西村恵信「済家の風」『禅研究所紀要第18・19号』78頁)



このような魔境は、マインドフルネスの世界でも禁忌とされます。



「(マインドフルネス訓練にあたり)自分を信じすぎるのは困りものです。瞑想中に光が見えたとか、神様が現われたといったような特殊な体験から自分は偉い人になったように誤解してしまうのは一番危険なことです。特殊な体験は魔境と言っています。このような状態は重要視しないほうが良いでしょう。とりわけ人格変容状態には気をつける必要があります。精神医学で診る人格変容状態は殆どが病的なものです。それにおぼれたり、こだわったりすることは強く避けるべきです。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号80頁)

「魔境とは、瞑想体験の中で出会う神秘的体験によって道を見失ってしまう落とし穴を警告するための言葉です。光が見えたり、体が軽くなったり、エクスタシーやエネルギーの流れを感じたりするような神秘体験自体は集中力のもたらす効果なのですが、自覚できない微細な欲望が残っている場合には潜在している劣等感を補償するための無意識的な取引に使われてしまい道を誤ることになりやすいものです。そして権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性をはらんでいます。」

(井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号)88頁)


   
井上先生の魔境に関する「権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性」があるとの指摘は余り耳にしないものであり、興味深いものがあります。

「悟り」が一義的に特定されるものではなく、また、日常的に体験されるものではないことからすると、幻覚・妄想体験のうち何が「悟り」となり、何が「魔境」となるのかは、それぞれの宗教、宗派における指導担当者が決めていくということにならざるを得ません。

その意味では、宗教、宗派における指導担当者に服従しなければならないという関係性がどこかで生じます。

そのことを捉えて、井上先生は、魔境について、「権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性」があるとの指摘をするのではないかと思われます。

また、幻覚・妄想体験がどのように理解されるのかについては、事前に与えられる言語情報も要因として大きいように思われます。

たとえば、私が接した上座仏教の実践をしている人の中には、「リトリートが終わった後は、世界が汚く見える(そして、自分は清らか感じる)」という体験談をする人が相当数いました。しかし、禅の実践をしている人からこの種の話を聴いたことはありません。

これは、禅の場合は、坐禅和讃に見られるように、「衆生本来仏也」、「当処即蓮華国」などと世界を肯定的に見ることが強調されることに対し、上座仏教の場合は、「一切皆苦」の強調など世界を否定的に見ることが強調されることに、影響されているではないかと思っています。





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扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)

1 扁桃体とは?



坐禅のときのようにゆっくりとした呼吸をすると、血中二酸化炭素濃度が上昇し、セロトニンが分泌され、その結果、うつや不安感が解消、軽減することが判明しているとされています。

これが坐禅の効果のうち、有益な効果の主要なものではないかと思われます。

扁桃体については、ネット上に無料で読める専門的研究者による文献が多数ありますが、これに関するドキュメンタリーを担当したNHKのディレクター氏の講演の発言が非常によくまとまっており、長文になりますが、引用します。



山本高穂「脳の進化から探るうつ病の起源」『第11回 日本うつ病学会市民公開講座・脳プロ公開シンポジウム in HIROSHIMA 報告書』
http://www.nips.ac.jp/srpbs/media/publication/140719_report.pd



「脳の中心部に位置する大脳辺縁系には『扁桃体』と呼ばれる小さな器官が存在し、不安、恐怖、悲しみといったうつ病の症状に関連する感情をつかさどっています。最近のヒトを対象とした脳活動の画像研究により、うつ病の患者さんは健康な人に比べて扁桃体の活動が上昇しており、不安や恐怖の感情を強く受け止めてしまうことが明らかになりました。このことから、うつ病の発症には扁桃体が深く関与している可能性が示唆され、扁桃体を中心としたうつ病発症の仕組みを解明する研究が進められるようになりました。(略)

扁桃体はヒトがストレスから身を守り、生存していくために不可欠な自己防衛機能の指令系統の要だと言えます。しかし、ヒトが強い不安や恐怖などのストレスを長期にわたり受け続けると、扁桃体は過剰に活動するようになり、自己防衛機能は暴走します。その結果、大量のストレスホルモンが分泌され、やがて脳内のストレスホルモンが過剰となり、神経細胞の生存・活動に必要な栄養物質(BDNF)が減少してしまうことが明らかになりました。そして、この状態が長期間持続すると、神経細胞は栄養不足に陥り、脳が萎縮してしまうと考えられています。実際に、健康な人とうつ病の患者さんの脳の検査画像を比較すると、うつ病の患者さんの脳は萎縮していることが確認されています。(略)

ほ乳類は、前頭前野が大きく発達したため、社会のルールを作ったり、本能的な欲望をコントロールしたり、他人の気持ちを理解するなどの理性を保つことができるようになり、個体同士の結びつきを重視する「社会性」を確立することで繁栄してきたと考えられています。その一方で、社会性を持ったことで、大きなストレスにもさらされるようになりました。例えば、社会と隔絶された孤独な状態に置かれると、このままでは生きていけないという不安や恐怖に扁桃体が反応し、ストレスホルモンが大量に分泌され、孤独が原因となりうつ病を発症するようになったことが推察されています。(略)

近年、恐怖の記憶が残存する仕組みにうつ病の要因である扁桃体が深く関わっていることが明らかになってきました。

脳の構造を観察すると、扁桃体は記憶をつかさどる海馬に接していることが分かります。ある出来事を経験しても、扁桃体が活動しない場合には、その記憶の多くは海馬で消失し、やがて忘れられます。しかし、恐怖のように扁桃体が激しく活動する出来事を経験した場合には、それに応じて海馬の活動も増加し、その結果強い鮮明な記憶として残存すると考えられています。

このように、自己防衛機能として備わった扁桃体は、生き延びるために必要な恐怖の記憶の能力にも寄与することが脳科学的研究から分かってきました。一方、扁桃体が強く活動するうつ病の患者さんでは、恐怖を記憶する能力は、皮肉なことに、うつ病の苦しみを増大させるきっかけとなってしまうのです。」(2~5頁)



長文の引用になりましたが、扁桃体は脳の自己防衛の機能であり、それが過剰に機能することが不安感、ひいてはうつ病をもたらすと考えられているようです。

ここで重要だと思われるのは、扁桃体自体は、自己防衛の機能であって、これがきちんと機能していなければならないということです。

頑張りすぎの扁桃体の活動を少し休ませる必要があるとしても、活動が低ければ低いほどよいというわけではなく、ましてやなくしてしまってよいようなものでもないと考えられます。



(1)危険を察知できなくなる

←エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』(2014年)

「左側の扁桃体を除去した結果、リンダは恐怖の回路の核を失うことになった。(略)

リンダは危険を示す一般的なサインを広範囲にわたって認識できなかった。たとえば彼女は、うなり声をあげている犬を平気でなでようとした。走っている車の目の前を歩き出そうとした。熱い炭を素手でそのままつまみ上げようとした。リンダの夫の話によれば、手術を受けてから最初の二年間、妻はしじゅう怪我をしていたという。」(154~156頁)

(2)適切に情動を発動できなくなる

←西条寿夫他「ストレス反応の身体表出における大脳辺縁系視床下部の役割」『日薬理誌126号』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fpj/126/3/126_3_184/_article/-char/ja/

扁桃体を損傷された動物およびヒトは,生物学的価値評価に基づいた情動発現が障害され,過去の記憶に基づき,自己に利益をもたらす可能性のあるものに対しては快情動を,逆に,不利益をもたらす可能性のあるものに対しては不快情動を発動することができない。」(185頁)

(3)対人コミュニケーション能力の障害

独立行政法人 放射線医学総合研究所分子イメージング研究センター「感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明」https://www.jst.go.jp/pr/announce/20100224/index.html

扁桃体は、不安や恐怖などの感情を感じた時に活動することが知られています。過度な不安や恐怖が症状であるうつ病、不安障害やPTSDといった精神疾患においては、扁桃体の活動が過剰であること知られています。反対に統合失調症自閉症に認められる感情や対人コミュニケーションの障害が扁桃体の活動の低下と関連していることも知られています。」



2 呼吸回数の低下による扁桃体の活動の低下



 坐禅では、ゆっくりと呼吸をすることが勧められますが、ゆっくりした呼吸をする、すなわち、呼吸回数を減らすことにより、血中二酸化炭素濃度が低下し、セロトニンが分泌され、扁桃体等の活動が低下し、うつ病の改善効果があるとされます。



「現在うつ病の薬として脳内のセロトニンを増やすという薬を使います。セロトニンは脳幹にある縫線核(ほうせんかく)というところの細胞が長い突起を伸ばし、その突起の先から出されます。とくに、感情の場である大脳辺縁系扁桃、海馬、帯状回)にセロトニンを出します。そうすると精神が安定するとされるのです。 

 呼吸を止めると苦しくなります。それは血中の二酸化炭素が脳の呼吸中枢を刺激するあからです。そこで苦しくなり、息を吐き出し、早く呼吸をします。それは早く二酸化炭素を体の外に出そうとする反応です。またゆっくり呼吸すると血中の二酸化炭素の量がある程度増えます。だから少し苦しくなり、早く息をしたくなるのです。このような二酸化炭素は脳内でセロトニンを増やす効果をもつのです。つまり脳内の二酸化炭素が増えると脳内に多くのセロトニンが放出されるのです。」

高田明和『一日10分の坐禅入門――医者がすすめる禅のこころ』142~143頁)



前記文献では、セロトニンの分泌が扁桃体を含む大脳辺縁系全体に及ぶものとされていますが、呼吸回数が増大すると偏桃体の活動が活性する関係にあることについては、広く認められていることから

「呼吸回数の低下→血中二酸化炭素濃度の上昇→セロトニンの分泌→扁桃体の活動の低下→うつ傾向・不安傾向の改善」

という機序があるのではないかと思われます。



「ネガティブな情動は扁桃体が中心で、障害され機能がしなくなると、恐怖などあらゆる感情が起らなくなります。ここに絡む呼吸を情動呼吸と呼んでいます。(略)

扁桃体でも呼吸のリズムが生まれていて、このリズムは情動と共に変化しています。不安になった時、呼吸数は増大し、呼吸は速くなります。(略・107頁)

不安と呼吸は一体となって動くので、その人の呼吸数を少しでも下げれば不安も和らぎます。世の中に出ている呼吸法はすべて、呼吸をゆっくりにする方法です。」
(本間生夫「呼吸と健康」『大法輪』(2020年3月号)106~107頁 



また、扁桃体は、前記のような自己防衛機能と相まって、「恐怖の回路の中心」などと呼ばれ、その活動の過剰が、様々な精神疾患の要因になっているのではないかと考えられています。



「快楽をつかさどる領域と同じく、緊急事態に対処する脳の領域は、個々に分かれた――しかし強く関連しあう――多くの組織から成り立っている。これらの組織の大半は皮質下の奥深くに埋め込まれており、たがいに密な関係をもつと同時に、上にある大脳皮質とも強く結ばれている。これらはどれも恐怖反応において重要な役割を果たすが、いちばん中心にあるのは<扁桃体>と呼ばれる組織だ。(略)

恐怖の研究の最前線に立ってきたニューヨーク大学の心理学者ジョセフ・ルドゥーは、おもにラットを用いた実験で、扁桃体が恐怖の回路の中心にあることを突きとめた。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』136~137頁)



「SAD(社交不安障害)やPD(パニック障害)、PTSD(心的外傷ストレス障害)、特定の恐怖症などは、“Stress―incduced fear circuitry disorders”として1つにまとめることができる。これらの障害の病態は、多少違いはあるにせよ。「恐怖の条件づけ(fear conditioning)」に関連した神経回路の機能不全(fear circuitry dysfunction)と考えられている。(略)

この回路の基本的プロセスにおいて極めて重要な役割を演じているのは、扁桃体である。(略)

SAD(社交不安障害)では、扁桃体だけでなく、行動の監視に関与している前部帯状回や前頭領域の活動亢進、そして大脳基底核での活動低下が推定されており、SSRIやCBTによって各領域の活動性が正常化するとされている。(略)

パニック発作時には様々な体性感覚は視床に入り、視床扁桃体回路が活性化する。そしてこの扁桃体の活性化が、今度は視床下部や脳幹へ延びる遠心海路の活性化につながり、恐怖反応が伝達する。(略)

PTSDでは、危険が過ぎ去った後も、『オフライン』状態が維持されるため、潜在記憶と健在記憶の解離が持続し、トラウマの処理とその後の適応反応の妨げとなる。トラウマを反復して想起することにより、潜在記憶、つまり視床扁桃体回路が活性化するが、それを抑制する前頭皮質による処理ができないため、症状が繰り返される。」

(塩入俊樹「不安障害の病態について:stress-induced Fear circuitry Disorderを中心に」『精神経誌』112巻8号799~803頁)



「身体脳(視床と一次性体性感覚野)に何らかの身体的痛覚(侵害)情報が伝えられると、身体脳はこの情報を辺縁系に伝え、脳幹や大脳各領域からの情報をすべて統合した形で、扁桃体から海馬を介して記憶の回路へ組み込もうとする。通常であれば扁桃体への情報伝達は一過性であり、扁桃体の興奮は次第に収まり、疼痛体験の記憶が定着化することはない。しかし身体からの痛覚情報が長期に繰り返されたり、陰性情動(恐怖、不安、怒り、悲嘆感)という付帯情報が繰り返される場合は、疼痛体験の記憶(短期記憶)が海馬から繰り返し引き出され、疼痛体験の記憶が定着化するようになる。扁桃体は常に過敏となり、僅かな情動刺激にも反応するようになる。つまり身体脳からの痛覚情報がなくとも、陰性情動のみで疼痛体験の記憶が容易に身体化し、『痛み』として体験されることになる。これが慢性疼痛の脳内での中心的維持機構であると考えられる。」

(北見公一「プライマリ・ケアとメンタルヘルス:慢性疼痛と心因性疼痛」『北海道医報』1029号8頁)



したがって、精神的な問題の改善の上では、扁桃体の活動の低下が、坐禅の主要な生理学的効果であるものと考えられるのではないかと思っています。

坐禅のほかマインドフルネス等の実践において、ゆっくりとした呼吸をすることの合理性はこのようなところにあるのではないかと思っています。



「健康法として取り入れる際には下記の点がお勧めです。

1 息を十分吐くことを意識する。
2 お腹を使った腹式呼吸(息を吐く時にお腹を凹ませる)
3 ある一定のリズムでゆっくりくり返す

お腹を使ってゆっくり息を吐くことは自律神経、特に副交感神経というリラックスの神経を刺激することにつながり、ストレスや過労で緊張状態の現代人には有効です。息を十分吐くことで肺に残っている残気量が減るために、空気の出入りも多くなり換気効率が上がります。お腹を凹ましながら息を長く吐くことで腹腔内の血流もよくなる可能性もあります。」

(打越曉「呼吸力を高める」『大法輪』(2020年3月号)111頁)



「吸うときよりも吐き出す方に重点を置き、妄念を吐き出す気持ちで静かにゆっくりと吐くことで、自然と緊張感がほぐれてくるのです。」
(住谷瓜頂「禅の呼吸法」『大法輪』(2020年3月号)126頁)



 ゆっくりとした呼吸をすることは、ヨーガの呼吸でも同じであるとされます。



「どのような呼吸法であっても、それを通じ呼吸についての自覚力を高め、心身に安定をもたらず呼吸、つまりいつでもゆっくりとした深くリズミカルな呼吸になるようにするのが基本的な狙いです。」

(龍村修「ヨーガの呼吸法」『大法輪』(2020年3月号)120頁)



血中二酸化炭素濃度を上げることがポイントと思われることから、私自身は、鼻から息をゆっくりと吐き出して吐ききった後、自然に軽く息を吸うことをくり返してやっています。



3 扁桃体の活動低下と統合失調症



(1)扁桃体の活動低下による幻覚体験



「呼吸回数の低下→血中二酸化炭素濃度の上昇→セロトニンの分泌→扁桃体の活動の低下→うつ傾向・不安傾向の改善」

との機序に関し、興味深く思われるのは、1(3)で引用した、独立行政法人 放射線医学総合研究所分子イメージング研究センター「感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明」に出てくる統合失調症について、扁桃体の活動の低下が認められるとの指摘です。

坐禅の際には、魔境と呼ばれる幻覚体験が生じることが知られますが、これも扁桃体の活動低下による統合失調症様の症状と見ることができるのではないかと思われます。



「サマタ瞑想の目指す精神集中、ヨーガや仏教で「三昧」(samadhi)と呼ばれる状態(略)では活発なイメージや幻覚体験といった意識変容状態が生じることもあり、禅ではこれを「魔境」と称して注意を促す」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』26頁)



「いい気持ちになって陶酔できるほどに定力が練れてきたころになると、定中にいろいろな現象があらわれることがある。その現象にはよいものもあれば悪いものもあるが、それらをひっくるめて古来「魔境」と呼んでいる。(略)
これは好い境界だ歓迎すべき境界だとおもわれうようなものはちょっと始末が悪い。よく独参(略)のときなどに修行者が、「あたりが全部まっしろくなってしまいました」とか、「体が空になってズーッと天まであがって行き、天一杯にひろがりました」などといって、いかにも無を見たかのように得々としている者もある。もっとも私自身もそれに似たようなことをいって得意がっていたら、先師から「それは多分眠っているのだろう」などと冷やかされたこともある」

(大森曹玄『参禅入門』117~118頁)



「魔境は,心理学的にいうと坐禅の修行中に遭遇する一種の幻覚体験であるといえよう。幻覚は,精神病の典型的な徴候の一つであるために正に病理的な現象である。(略)

人格発達の面で自我形成が未分化な場合,防衛機制によって処理できない内容に唐突に遭遇することで,不安や恐怖で一時的に錯乱したり,一種のノイローゼ症状を呈する場合もある。

(斎藤稔正「変性意識状態と禅的体験の心理過程」『立命館人間科学研究 第5号』51頁)



なお、血中二酸化炭素濃度の上昇(=酸素濃度の低下)が幻覚体験等をもたらすことについては、以下のような指摘もあります。



臨死体験は、何が原因で起きるのでしょうか?

このような不思議な体験談の謎も脳のしくみで解くことができます。

人間は心臓が止まるような瀕死の状態に陥ったとき、血流が止まり脳への酸素やグルコースの供給が止まってしまいます。そのとき

脳は酸欠状態に陥り

暴走をはじめることがあるといいます。

脳の活動電位が不規則に高まっていき、まったく関連のない信号を発し続けるのです。いわゆる脳がショートしてしまった状態になるわけです。そのために脈絡のない記憶が次々と現れてくるので、「子供のときの記憶や懐かしい故人が走馬灯のように現れた」と思い込むのだそうです」

(新井公人監修『脳のナゾ』142~143頁)



「死に際になると、呼吸状態も悪くなります。呼吸というのは、空気中の酸素をとり入れて、体内にできた炭酸ガスを放出することです。これが充分にできなくなるということは、一つには酸素不足、酸欠状態になること、もう一つは炭酸ガスが排出されずに体内に留まることを意味します。

酸欠状態では、前述のように脳内にモルヒネ様物質が分泌されるといわれています。柔道に絞め技というのがありますが、あれで落とされた人は、異口同音に気持ちよかったといっています。酸欠状態でモルヒネ様物質が出ている証拠だと思います。

一方炭酸ガスには麻酔作用があり、これも死の苦しみを防いでくれます。」

(中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死のすすめ」』64頁)



以上のとおり、扁桃体の活動は低下すればするほどよいものではなく、瞑想には副作用もありますから↓
https://ztkbtkmtk.hatenadiary.com/entry/2021/11/14/210348



瞑想のやりすぎには気をつけるべきでしょう。



(2)いわゆる「悟り体験」



ア 自他不二の体験としての悟り体験



扁桃体の活動低下と統合失調症との関係では、いわゆる「悟り体験」との関係性があるのではと考えています。

「悟り体験」については、「自他不二の体験」などと言われたりもします。



「『悟り』とは、今まで『差別』の世界しか知らなかった自我が、自我を空じて無我に徹したところで、“自他不二・物我一如”という『平等』の世界が根底にあったということに目覚めることである。」

(秋月龍珉『日常の禅語』27頁)



「自己の本性を悟るといっても、べつに今までになかった新しい知識を得ることではなく、いままで後生大事に背負い込んでその重さに耐えかねていた自己という妄想の固まりを放り出して、天地宇宙と一つに融け合った瞬間の体験が悟りだ」

(大森曹玄『参禅入門』241頁)



「長香一炷(一本)がすみ、独参の喚鍾がでるのをまちかねて、まっさきに入室し、湘山老師にいきなり、『できました』と申し上げました。それまではいつも『できません』としかいったことのない私が、勢いこんでこういいましたので、老師も、『ふうん、どう見たか』と。私が見処を申し上げると、『そう見まいものでもない』と。その場でいくつかの拶処(問題)を透りました。ここにくわしくは申し上げられませんが、ここで私は佛心の一端を見たのであります。佛心は生を超え死を超えた、無始無終のもの

《佛心は天地をつつみ、山も川も草も木も、すべての人も自分と一体であること》

しかも、それが自己の上にぴちぴちと生きてはたらいて、見たり聞いたり、言ったり動いたりしているのだという。祖師方の言葉が、そのとおりであるということを知ったのであります。」

(朝比奈宗源『佛心』35~36頁)



イ 統合失調症の自我意識障害



以上のような「自他不二の体験」としての悟り体験に関しては、統合失調症の自我意識障害に近しいものがあります。



「(統合失調症の症状としては)自分と外界の境界が曖昧になるために自我意識障害もみられる。これは、思考が他人に抜き取られる(思考奪取)、または吹き込まれる(思考注入)と観じたり、自分が誰かに操られている(作為体験)と確信したりする状況である。」

(原和明監修 渡邉映子 藤倉孝治編集『はじめて学ぶ人の臨床心理学』221頁)



統合失調症で特徴的なもう一つの症状は、自分と他者との境界が崩れ、自我が侵犯されることである。これを「自我障害」と呼ぶ。自分と他者との境界を自我境界と呼ぶが、統合失調症の人は、自我境界が脆かったり曖昧だったりするのである。自分の秘密がみんなに筒抜けになっていると感じる「自我漏洩症状」、自分の考えが周囲に広まっていると感じる「思考伝播」はよく出合うものである。(略)

逆に、外界から他人の思考や異物が自分の中に侵入してきたり、自分をコントロールされるように感じる場合もある。他人の考え方が自分の頭の中に入り込んでくるように感じる「思考侵入」、外界(他者)が自我の中に侵入してくるように感じられる「侵入症状」、何者かに操られているように感じる「操られ体験(被影響体験)」なども特徴的な症状である。自我障害を幻覚妄想症状に含めて考えることもある」

岡田尊司統合失調症』97頁)



「自分と外界の境界が曖昧になる」や「自分と他者との境界が崩れ」るなどの症状は、自他不二に通じます。

また、思考注入や思考侵入などと呼ばれる現象は、修行等により極限状態に追い込まれた宗教家が、神などの超越的存在からの啓示を受けるなどの現象とも整合しそうです。



いわゆる「悟り体験」は、このような脳の生理現象のではないかと思われ、一生懸命になって追い求めるものではないでしょう。

次の岡田宜法師の言葉は支持できます。



「禅は人間としての生活を出ない。禅の目標は人間完成にある。悟りを強要するような禅は、見性流の禅であつて、超人生活をあこがれる人々の迷妄である。」

(大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』258頁からの引用)





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【参考資料】瞑想の副作用

(1)齊尾武郎「マインドフルネスの臨床評価:文献的考察」『臨床評価』46巻1号
http://cont.o.oo7.jp/46_1/p51-69.pdf

「近年のうつ病の多発から,職場のメンタルヘルスに対する関心が高まり,我が国における精神医療へのアクセスは,以前と比べると各段に改善した.しかし,エビデンスベーストな心理療法認知行動療法など)を行うべきケースにそれが行われていないなど,必ずしも適切な治療を受けておらず,患者たちの中には,自助努力として,瞑想・マインドフルネスに取り組んでいる人も少なくない.そうしたケースの中には,その結果,かえって病状が重くなったと訴える人もいる」(52頁)

※60頁に掲載された「瞑想の主な副作用・有害事象」に関する表の内容

○精神病性症状(幻覚妄想状態)
―――幻聴,幻視,追跡妄想,自殺企図
○気分症状
――躁状態(誇大妄想,観念奔逸,多弁,過活動,性的脱抑制),抑うつ状態(意欲減退,ネガティヴ思考,自殺企図)
○不安症状
――不安,パニック,緊張,イライラ,不穏
○身体症状
――頭痛,筋痛,上腹部痛,嘔気,食思不振
○解離症状
――離人感,現実感喪失,見当識喪失,意識喪失,トランス状態(人格の同
一性の感覚の消失)
○その他――
不眠,瞑想依存,脳波異常(側頭葉にspike),他者に対する陰性感情,社会からの疎外感

「Deese-Roediger-McDermott paradigmを用いた認知心理学的実験により,マインドフルネスにより偽記憶形成が高まる可能性が示唆されてもいる(しかし,再現実験でこれを否定する結果も出ている)」(60頁)

「1992年のカリフォルニア大学精神科・人間行動学のDeane H. Shapiro教授の論文で,27名の瞑想者のうち,62.9%になんらかのネガティヴ反応があり,7.4%には重篤な副作用が生じた(先行研究では,瞑想歴の長い人のほうが初心者よりも副作用が多いという結論であった)という論文が紹介されている.続いて,認知行動療法創始者の一人,Arnold Lazarusが1976年の論文で,瞑想で副作用が生じたケースが複数例あると述べ,瞑想は万人向けのものではないとしていることや,同じく認知行動療法創始者の一人,Albert Ellisも瞑想後に解離性亜トランス状態になった人が数名いると述べていることに触れられている」(61頁)

アメリカでは,集中力を高め,創造性を引き出すことなどを目的として(すなわち,ビジネスの能力を高めるために),有名会社でマインドフルネス・プログラムが採用され,マインドフルネスはブームとなっている.しかし,逆説的なことに,マインドフルネスにより批判的思考を避けるようになったり(回避リスク),マインドフルネスを会社のリーダーから強要されたりする(集団思考リスク)など,ビジネスの能力を低下させる可能性も指摘されている」(61頁)

重篤な精神医学的な副作用・有害事象(幻覚妄想状態,躁状態抑うつ状態,解離状態など)が報告されていることに鑑み,瞑想・マインドフルネスの副作用を軽視すべきではないと考える.現状では,MBIは必ずしも精神医学・精神保健的な専門的な知識・経験を十分に持つ指導者が行っておらず,MBIの各種の適応症の根拠はいまだ不十分であり,副作用の生じる可能性があることを含め,MBIを受けようとする人々に,その有効性・安全性について十分な情報を提供しないままにMBIを指導することは非倫理的であると考える」(63頁)



(2)池埜聡、内 田 範 子「「第2世代マインドフルネス」の出現と今後の展望-社会正義の価値に資する「関係性」への視座を踏まえて-」『Human Welfare』12巻1号
https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=29697&item_no=1&page_id=30&block_id=85

「マインドフルネスが問題を個人に帰結させ、組織構造的、さらには社会的な影響を不可視化することに加担しているという見解である。「企業マインドフルネス」を例にとると、マインドフルネスをストレス対処のための処方箋として位置づけることで、問題解決を個人に委ねてしまい、企業の構造的な問題を隠してしまうリスクが潜在し て い る と 見 な す(Gelles, 2015 ;Purser & Loy, 2013)。マインドフルネスによって個人の生産性と満足度が高まり、企業の利益にもつながるという一見すると企業と就労者のウィン・ウィンの関係の背後には、問題を個人化させ、結果的にストレスを生み出す構造を助長することになりかねない、という主旨の批判である」(91頁)

「マインドフルネスの効果が多次元のレベルから実証され、「脳の構造が変わる」とまでもてはやされ「る中、マインドフルネスがストレスや悩みの解消をもたらす万能薬であるような誤解を生む傾向が生まれている。しかし、マインドフルネス瞑想だけではトラウマや実存的な苦悩からの解放は得られないという点が理解されないまま、瞑想に万能性を求める人が少なくない現状が危惧されている(Kornfield, 1993 ; Treleaven, 2018)。

「スピリチュアル・バイバッシング」とは、「スピリチュアルな考えやプラクティスを用いて未解決の情緒的問題、心的外傷、そして未処理の発達上の課題などに直面することを避ける傾向」と定義される」(91頁)

「臨床マインドフルネスのプラクティスでは、想起される思考や感情にとらわれず、手放していくという認知的プロセスを訓練する。しかし、人によっては過去に生じたトラウマ記憶を手放すことに没頭してしまい、トラウマ記憶の否認や回避を強化してしまうことになりかねない。瞑想法に聖なるものや神秘性を付与することで、さらに問題の回避が促され、結果的に異なる指導者や実践の機会を探し求めてさまよう「瞑想難民」と称される人々が生まれてしまう現状も報告されている(ナラテボー・魚川,2016)。

「『今、この瞬間、マインドフルに』という瞑想指導は、その人の苦悩や痛みを軽んじることになりかねない」。これはトラウマに配慮したマインドフルネス瞑想のあり方を発信する David Treleaven の 言 葉 で あ る(Treleaven, 2017 : 26)。彼は、マインドフルネス指導者の多くがエリート主義にもとづく見せかけの親切心によってトラウマの問題を過小評価していると批判する。Treleavenはまた、マインドフルネス指導者の中にはトラウマに対する専門的知識をもたず、瞑想法のガイドライン固執することで、スピリチュアル・バイパッシングを強化している現実に気づいていない人も多数存在していると指摘する」(91~92頁)



(3)飯塚まり「多様性とリーダーシップ:マインドフルネス・コンパッションからのアプローチ」『組織科学』50巻1号
https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshikikagaku/50/1/50_36/_pdf/-char/ja

「欧米由来のマインドフルネスについて、日本では導入期ということもあり、その効用が強調されているが、マインドフルネスや瞑想には注意点もある。特にマインドフルネスが流行し、産業として成り立ち、商業主義が席巻している中では、心配な点も出て来る。

まず、瞑想についてであるが、マインドフルネスは安全とされてはいるが、それでも、トラウマ記憶に対してのコーピング能力など、個人によっての安全性の問題や、禁忌がある(略)

また、そもそも、瞑想は、昔から経験を積んだ師について行う活動であり、軽く1日5分の瞑想をしている分には問題ないかもしれないが、深い瞑想を長時間するような場合には、自分に適した師を探すということが重要になってくる。(略)

瞑想から気分が悪くなったりする可能性もある(略)。また、瞑想によって、大きく人生を変えたくなり、現実社会での困難に直面するということも考えられる。(略)

また、世俗化したマインドフルネスは。現代資本主義の価値観の中で、集中力やパフォーマンスの向上といった個人の利益(エゴ)に訴えてひろまっており、それに対しての懸念も表明されている。極端な例であるが、マインドフルネスは、兵士にも応用されているが、マインドフルネスの不安を解消させて殺戮をすることが望ましいのかという疑問がある。」(42~43頁)



(4)宮脇秀貴「エンパワーメントと洗脳」」『香川大学経済論叢』82巻3号
http://shark.lib.kagawa-u.ac.jp/kuir/metadata/3528

「通常の意識では,注意は,五感を通して外側へ向けられるのに対して,トランスにおいては,注意は内側へ向けられ,人は内面で聞き,見,感じるようになる。Hassanによれば,自分たちは宗教だと主張する多くのカルトでよく行われている瞑想と呼ばれるものは,カルトのメンバーがトランス状態に入るプロセス以外の何ものでもなく,そのトランス状態の中で,メンバーは,カルトの教義にますます従いやすくなるような暗示を受けるようになるのである(p.57, 訳 p.110)。また,トランス状態は心地よいリラックスの体験であるため,人々は,できるだけ,度々またトランスに入りたいと思うようになるだけでなく,一番重要なこととして,トランス状態では,人々の批判的能力は減退してしまうのである」(83頁)



(5)大谷彰『マインドフルネス入門講義』

「マインドフルネス実践中にトラウマの自然除反応が発生することからも明らかなように、臨床マインドフルネスでも治療の差し障りとなる反応が生じることは早くから知られています(略)。マインドフルネスに伴う弊害をテーマにした論文(略)には、自然除反応や意識変容をはじめ、リラクゼーションに伴う不安とパニック、緊張感、生活モチベーション低下、退屈、疼痛、困惑、狼狽、漠然感、意気消沈、消極感亢進、批判感情、『マインドフルネス』依存、身体違和感、軽い解離感、高慢、脆弱性、罪悪感といった広範囲にわたる項目が記載されています。このリストから臨床マインドフルネスが禁忌となりやすい条件が推察できます。

仏教に造詣の深い精神科医精神科医マーク・エプスタインは、臨床マインドフルネスの悪影響について、マインドフルネスの進展レベル(初心者/熟練者)、およびクライアントのコーピング能力(高/低)という2つの視座から論じています(略)。彼によるとマインドフルネスでは初心者から熟練者までの各レベルにおいて幅広い『副作用(side effects)』(たとえば、知覚の変化、不安、焦燥、トラウマ記憶再生(自然除反応など)が生じる。これらのなかには「病的」なものもあれば、一過性の困難やトラブルにすぎないものもある)(略)。こうした現象が適切に処理できればまったく問題とはならないが、対応が一時的に困難となった場合や、コーピング能力の低いクライアントには深刻な問題になりかねない、と警告します。この区分によると、トラウマ記憶によるマインドフルネス実践中の自然除反応は『一過性困難』の典型であり、境界性パーソナリティ障害のクライアントは『コーピング能力の低いクライアント』のケースと言えるでしょう。要するに、臨床マインドフルネス実践では、クライアントのあらゆる反応に留意することが必要であり、なかでもコーピング能力が十分に確立されていないクライアントには特別の配慮が必須とされるのです。」(195~196頁)

*コーピング=ストレスマネジメント手法の一つ。自分のストレスの感じ方を認知・内省して対処する方法。

境界性パーソナリティ障害=情緒不安定パーソナリティ障害とも呼ばれる。不安定な自己 - 他者のイメージ、感情・思考の制御不全、衝動的な自己破壊行為などを特徴とする障害。自傷行動、自殺、薬物乱用リスクの高いグループ。

「コーピング能力の未発達からマインドフルネスが困難となるケースには、境界性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害(略)などのパーソナリティ障害、PTSD(略)、薬物依存、衝動制御困難といった障害を抱えるクライアントが該当します。これらの障害はDBT、ACT、メタ認知療法などの臨床マインドフルネスが治療対象とする領域です。DBTの専門家たちは、こうした障害に対するマインドフルネス応用を次のように説明しています。

長時間におよぶマインドルフルネスの実践は、深刻な心理障害をもつクライアントには適用すべきではない。ある程度の基本スキルなしに実践することは失敗をまねく原因となるので、段階的に訓練を積んでゆくのが望ましい。」(197頁)

「自殺願望の強いクライアント、トラウマ体験から時間の浅いクライアント、自我強度(ego-strength)の低いクライアント、深刻な認知障害発達障害、精神病(略)などの心理障害をもつクライアントにも、臨床マインドフルネスを禁忌とみなす識者もいます。(略)困ったことに、既存のマインドフルネス効果の過大評価が指摘され(略)、臨床マインドフルネスの適用と禁忌の判定がいっそう困難になりました(略)。」(197~198頁)

「臨床マインドフルネスの禁忌はまた、マインドフルネスの実践がクライアントにとって過分な負担となる場合にも当てはまります。」(199頁)



(6)大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』

「イギリスのオックスフォード・マインドフルネス・センターの2016年10月号の機関紙にはルース・ベアとウィレム・カイケンによる「マインドフルネスは安全か?」という記事が掲載された。このなかで、リトリート(合宿)形式のマインドフルネス訓練が特に問題となりやすい、と彼らは指摘している。

この記事に次いで、マインドフルネスのもたらすマイナス体験の実態調査が、(略)発表された。この研究では参種類の瞑想(テーラーワーダ、禅、チベット)実践者、総計60名から6年間にわたりデータが収集された。統計結果を見ると、72%が『リトリート中もしくは終了後に問題が生じた』と答え、オックスフォード・マインドフルネス・センターの見解を裏づけている。個人の実践では28%が『不快体験あり』と回答した。不快反応のタイプについては『恐怖、不安、パラノイア』(82%)が抜きんでている。しかし特筆に値するのは、マインドフルネスによるトラウマ記憶の再体験である。これは実践者の習熟度にかかわらず、約半数近くの実践者(初心者43%、熟練者47%)に生じた。研究対象の被験者数が60名と比較的限られているにせよ、(略)マインドフルネスにより『瞑想難民』のみならず、『瞑想病人』の出現すら危惧されるからである。 」(34頁)



(7)佐藤豪「心理カウンセリングのなかで」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』

「マインドフルネスがさらに多様な人々に広がってゆくことは望ましいが、その注意点や問題点についてもさらに明確にしてゆくことが望まれる。特に自我境界の弱い人にどのように適用するか、自我の混乱を起こさないためにどのような配慮をするかなどを検討してゆくことが重要である。」(46頁)

「動機づけが強くなりすぎて『これさえ毎日おこなっていれば自分は癒やされる』と思ってしまうと、どうしても力んでしまって、自律訓練法で言うところの受動的注意集中や適度なリラックスができにくくなってしまう。 (略)マインドフルネスの瞑想は『意識を集中する』ということにスタートラインがあるため、どうしても、「身体を使う」という現実と接点をもつことが適切に出来にくいという難点があるように思われる。(瞑想等については)無意識のなかにあったさまざまな瞑想や衝動性といったものが意識のなかにあったさまざまな願望や衝動性といったものが意識のなかに侵入してくることによって、心のバランスを崩し、現実から乖離した状態を起こすと言えるだろう。瞑想などの方法では、そのような危険性をチェックすることが必要であると思われる。」(49~51頁) 

「強い怒りなどを持っている人が、その感情と距離を置いて、瞑想のなかでその感情を適度に発散し、コントロールしていく、というのはなかなか難しいことではないだろうか。しばしば自律訓練法の場面においても、強い怒りのために訓練に導入することができない場合や、訓練が終わった後に怒りを表出してしまう人などもいる。セラピストはこのようなことに十分に配慮して自律訓練法の指導をおこなうが、それでもコントロールできないことがしばしばある。このようなことからすると、人が自分自身で瞑想に入ったときに怒りなどの感情をうまくコントロールして昇華することは、なかなか困難であると思われる。」(51~52頁)



(8)プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』

「魚川 あくまで極端な例だとは思いますけどね。とはいえ、やはりリトリートの参加者たちの中で、そこでの経験を瞑想センターの外での日常生活に、どのように繋げていけばいいのかという点に関する困難を、多かれ少なかれ感じた人は多かったようです。実際の所、日本で瞑想をしている実践者にも、同種の困難を感じている方々は多いと思います。」(70~71頁)

「プラユキ (略)『幸福になるために瞑想をはじめたはずなのに、かえって苦しみが増えてしまった気がするのだけど、どうしたらいいでしょうか』と言う人が、私の瞑想会や面談会にいらっしゃることはよくあります。そういう方々を見ていると、やはり『過度の集中』が、身心のバランスを崩す主要因になっているように思われる。

過集中の問題については(略)、一つにはやはり『スピード』が遅れること、つまり、集中というのは流動し変化する現象を敢えてデフォルメし、それを固定的な対象とすることで成り立つものですから、そこにハマってしまうと、イキイキとした現実に対応する機動性や柔軟性が失われてしまう。

そして、この集中によるデフォルメされた認知から派生するもう一つの大きな問題は、それが心理学で言うところの「解離」の症状や、「回避」の行動をもたらすことです。私が蚊に刺されたかゆみが全く平気になるようなトランス状態に入ったのに、にもかかわらず村の騒音にどんどん過敏になっていったように、現実に生じている事態からどんどん遊離していって、その平安な状態を乱すものに対して、嫌悪の情を抱くようになるんですね。

実際、私がお話しした「瞑想難民」の方にも、集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまったり、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。ほとんど病的な解離症状に陥っているわけですけれども、瞑想の場合に厄介なのは、指導者によっては、そういう状態を『瞑想が進んでいる証』として、肯定してしまったりするわけです。それでますます、困難な自分の現状から逃げるために回避行動としての瞑想に没頭し、さらに状況を悪化させていくというスパイラルに落ちていく。」(137~138頁)



(9)プラユキ・ナラテボー「ピュア・マインドフルネスと瞑想」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』

「日本やタイでは、苦しみから抜け出そうと瞑想していくうちに、さらに多くの苦しみを抱えてしまう『瞑想難民』が増えている。」(66頁)

「苦しみから抜け出そうと瞑想をしているうちに体調を崩したり、抑うつ感、絶望感や自己嫌悪感を感じるようになったり、人間関係がぎくしゃくするようになったり、なかには、統合失調症離人症、感情障害や摂食障害のような不調をきたす人もいる。

その要因として瞑想をストイックにやりすぎて、心身機能のバランスを崩すケースが多い。心身の土台がしっかり整っていない状況で、心というデリケートな対象にアプローチした結果、それまで自然に機能していた生命状態が撹乱し、心身の調和が乱れ、通常の認知状態に戻る柔軟性も失われてしまい、種々の症状となって現れてくるのである。

たとえばこんな感じである。精神状態がちょっとすぐれないので、『瞑想で解決しよう』と思いたつ。けれども、集中が思うように続かず、『俺はダメな人間だ』と考えて、無能力感や絶望感に陥ってしまう。心を楽にしようと思って始めた瞑想が、いつの間にか『苦悩の増幅法』にすり替わる。しかも本人はそれに気付かずに、『いつかは成果が……』と自己を叱咤しながらやり続ける。そのうちに種々の精神障害を発症。心がさまざまな不調のシグナルを発していたにもかかわらず、無理してやり続けることで症状を悪化させてしまうのである。」(70~71頁)

「細かい身体感覚への集中を取り澄ます瞑想に取り組むようになってから、そうした症状(服を身につけるなどしたときに身体に痛みが生じるようになること等)に見舞われるようになったという。」(71頁)

「また、以前気にならなかった周囲の音がすごく気になるようになって、日常生活のなかでイライラや恐怖感を感じることが多くなるといったケースもよく聞く。

その他に、ラベリング系の瞑想で、心に対してラベリングしていくうちに、いつの間にか自分が発した言葉の威力に圧倒されてしまう、あるいは虜になるといった人も少なくない。」(71~72頁)



(10)横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』

「(横田)サマタ瞑想、集中瞑想をしておりますと、先ほど来、説明がありましたように、外の世界を断ち切る修行ですから、逆にこれを妨げるもの、外で物音がしたり、邪魔をするようなものに対して非常に不愉快な感情が起きます。排他的な感情が起きます。下手をすると攻撃的になったりするのであります。

よく笑い話で言うのですが、居士林という坐禅道場がありまして、集中瞑想ばっかりやっているんです。すると、どういうことがあるかと言うと、たとえば、外で観光客がうるさかったりすると、外に『坐禅中につき静かにしろ』と貼り紙を出して注意する。しかしそれでも静かにならないと、外へ出て「おまえたち、今、俺たちは坐禅してるんだ、静かにしろ」と叫ぶ。『おまえが一番うるさいんだ!』と言いたくなるんですけれども、そういう愚かなことをやっているんです。皆さん笑いますけどね、本当にそういうことをやっている。」(80頁)

「(横田)外の情報を断ち切って一点に集中するということは、大きな力を得るという利点はあります。様々な欲望を克服していったり、自分の弱さを乗り越えていく大きな力になるのは感じます。でも、先ほど居士林の笑い話をしたように下手をすると排他的になり、攻撃的になってしまう、諸刃の剣のような一面も持っているのではないかという懸念を抱いております。」(84頁)

「(熊野)先ほどサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想が、それぞれ医療とか心理臨床の世界に取り込まれてきた過程をお話ししましたが、リラクセーション法は実は、統合失調症の人はやらないほうがいいということがわかったんですね。やはり、統合失調症の方だと、中にあるものが溢れ出してくるということがあるのだと思います。だから、集中していくということの結果、起ってくるそういう反応みたいなものに、やっぱり充分気をつけていなくてはいけなくて、そこのところが充分にケアできないような状況でやると、過集中のような状態になって、さらにその反応がワッと出てきて悪化するというようなことがあったり、あるいいは怒りなんかがまたコントロールできないような状態になったりというようなことも起こるのだろうと思います。」(85頁)



(11)井上ウィマラ「マインドフルネス用語の基礎知識」『大法輪』(2020年3月号)

「魔境とは、瞑想体験の中で出会う神秘的体験によって道を見失ってしまう落とし穴を警告するための言葉です。光が見えたり、体が軽くなったり、エクスタシーやエネルギーの流れを感じたりするような神秘体験自体は集中力のもたらす効果なのですが、自覚できない微細な欲望が残っている場合には潜在している劣等感を補償するための無意識的な取引に使われてしまい道を誤ることになりやすいものです。そして権威的な人間関係の中での搾取や虐待をもたらす温床となる危険性をはらんでいます。」(88頁)



(12)貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号

「(マインドフルネス訓練にあたり)自分を信じすぎるのは困りものです。瞑想中に光が見えたとか、神様が現われたといったような特殊な体験から自分は偉い人になったように誤解してしまうのは一番危険なことです。特殊な体験は魔境と言っています。このような状態は重要視しないほうが良いでしょう。とりわけ人格変容状態には気をつける必要があります。精神医学で診る人格変容状態は殆どが病的なものです。それにおぼれたり、こだわったりすることは強く避けるべきです。」(81頁)

「マインドフルネス訓練を行ってはいけない人は、真正の統合失調症急性期の患者さんです。自我が分裂する病気の人に自分を見つめさせると、病状が悪化する危険があるからです。ただし、慢性期の統合失調症の患者さんには適用することはできます。マインドフルネス訓練により陰性症状が軽快することが期待されます。

もう一方の禁忌の患者さんは心的外傷ストレス障害の患者さんです。この障害の患者さんに慈愛の瞑想をする場合です。幸福になって下さいと祈る相手が心的外傷に関連する人であると病状を悪化させる懸念があります。慈愛の瞑想では、祈ることが困難な対象は避けるように注意しなければなりません。」(83頁)





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